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416 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(68)
「磐井の叛乱」の虚実(5)
2005年12月26日(月)


 磐井が継体に謀殺されて九州王朝は幕を閉じたのだろうか。否。

(1)
天皇、親(みづか)ら斧鉞(まさかり)を操(と) りて、大連に授けて曰はく、「長門より東をば朕制(われかと)らむ。筑紫より西をば汝制(いま しかと)れ。

クーデター成功後の取り分をこのように取り決めていたが、この密約は実行されたのだろうか。 磐井を謀殺することには成功したが、磐井の支配圏を全部分捕ることはできなかったようだ。 クーデーターにはどうやらどこかで挫折したようだ。

(2)
二十二年の冬十一月の甲寅の朔甲子に、大將軍物部大連麁鹿火、(中略)遂に磐井を斬り て、果して疆場(さかひ)を定む。

 「疆場(さかひ)を定む。」について古田さんの分析はこうだ。

「疆場」とは、本来は田畑のさかいの意ながら、普通は「国のさかい。辺境。国 境」といった意の用法が通例だ。

吾が疆場を審かにし、其の侵地を反(かえ)す。(『管子』小匡) 王(新羅王、慈悲麻立干)、倭人の屡(しばしば)彊錫を侵すを以て、縁辺に二城を築く。(『三国史記』新羅本紀、第三)

 いずれも、対立国もしくは敵対国の国境であって、継体の直轄領域と、(物部麁鹿火によ る)従属領域とのさかいというようなケースでは、いささか不穏当、もしくは不適切だ。

(3)
十二月に、筑紫君葛子(くずこ)、父(かぞ)のつみに坐(よ)りて誅(つみ)せられむこと を恐りて、糟屋屯倉(かずやのみやけ)を献(たてまつりて)りて、死罪(しぬるつみ)贖 (あがな)はむことを求(もう)す。

これは糟屋郡(あるいは県 ―以下同じ)の全領地の割譲ではない。「屯倉」とは、 要するに収穫物を収税物として収めておく倉であるから、その収穫物を献ずるとの約束にし か過ぎない。いいかえれば、その「糟屋郡の屯倉」をはじめ、各地の「屯倉」に対する徴税 秩序、すなわち筑紫権力の既存の統治体系に対しては、継体側は一指もふれない。そういう 誓約をしたことを意味するのだ。

 以上のような「継体紀」の記事の矛盾を、古田さんは次のように推論している。
 内陸部における突然の挙兵によって磐井を斬ったあと、物部(継体側)の軍は劣勢に陥り、 逆に葛子側が大勝を博したのではないか。
 その戦況の背景としては、次の七点が考えられる。

①先に考えたように、物部軍は、最初は友軍として筑紫の内陸部に入った。

②そのあとの挙兵(クーデター)である場合、たとえ磐井を斬ることはできても、継続的 な勝利をうることはむずかしい。

③筑紫の君側には、北に洛東江沿いの「倭地」の倭軍があり、南に無傷の肥後軍等があっ た。物部軍は急を知って南下・北上した両軍の夾撃をうけたものと思われる。

④その上、先にものべたように、筑紫の君側は、西日本海域の制海権をもっていたと思わ れるから、この点からも、物部軍の勝利持続は困難である。

⑤逆に、葛子側にも、後半の優勢化にもかかわらず、交戦を継続したり、さらに近畿への 東征へと戦闘を拡大しえぬ情勢があった。それは、洛東江流域において、新羅軍や高句麗軍 と対峙していたからである。

⑥『日本書紀』は、少なくとも日本列島内においては、敗北の記事がない。これは史実に おいて、無敗の連続だったのではない。この史書は、歴代の天皇の勲績を記す、という立場 に立っており、そのため、敗北や劣勢の記事は、カットされたためと思われる。

⑦対葛子戦の場合も、そのケースの一つである。

 「糟屋屯倉の献上」問題も、これに対する、継体側の譲歩(近畿側の屯倉献上等)の存在し た可能性もあろう。要するに、一方(近畿天皇家側)の記録(『日本書紀』)のみによって、交 戦終結後の両者の実勢力を客観的に判定すること、それは、実証上きわめて困難なのである。


 「磐井の謀殺」は531年。しかしその後も倭の中心は九州王朝にあった。
 時代は6世紀後半へと進む。ヤマト王権内部では物部氏と蘇我氏との抗争の時代である。
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415 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(67)
「磐井の叛乱」の虚実(4)
2005年12月25日(日)


 「磐井の叛乱」を記録している資料が「記紀」のほかにもあった。『筑後国風土記』だ。

俄(にはか)にして官軍動発し、襲ほんと欲するの間、勢の勝たざるを知り、独り自ら豊前の国、 上膳(かみつみけ)の県に遁(のが)れて、南山峻嶺の曲に終る。是に於て、官軍追尋して 蹤(あと)を失ふ。

 「記紀」との違いとして注意すべき点が二つある。
 一つは磐井の最期の描写。「記紀」が「殺す」「斬る」と表現しているのに対して『「筑後国 風土記」は「終る」とのべている。
 もう一つは冒頭の「俄(にはか)にして官軍動発し」という文言。
この二点について、古田さんは「想像に過ぎないが」と断っているが、次のように推定して いる。

ここでは「斬る」とか「殺す」とか言わず、娩曲に「終る」とのべている。この文章の心 情は、記紀のように継体側でなく、磐井側にある。
 もっとも、事実関係そのものについては、矛盾しているとはいえないかも しれぬ。なぜなら、磐井は筑紫の御井郡において斬られた。しかし、その傷ついた身で豊前 の上膳県に逃れ、そこで没した。とすればそのように通意しうるからである。

 しかし、より注意すべき問題は、その発端部にある。物部麁鹿火の軍は、どこから御井郡 に来たのであろうか。博多湾岸からか、別府湾からか、御井郡は内陸部なのだから、いずれ かから入ってきたことは明らかだ。ところが、その湾岸決戦の様子をしめす記事が全くない のである。これはなぜか。『古事記』の場合は短文だ。先にのべたように、説話というより 要項の略記にすぎないから、いいとしよう。だが『日本書紀』の場合はちがう。かなりの長 文を割いて、綿々と経過を追うているのだから、右の当初の激突記事がないのはおかしい。
 このような疑問は、わたしたちを次の示唆へと導く。―〝湾岸では、戦闘は行われなか ったのではないか〟と。
 では、なぜそこで戦闘は行われなかったか。その答は他にない。〝そのとき、継体側の軍 は、敵軍とは見なされていなかったからだ″と。これだ。

 わたしたちは現在、『日本書紀』の継体紀を、はじめの方から読む。だから、継体が磐井 の態度を難詰したり、物部麁鹿火と戦後分割案を協議したりする記事を読んだあと、この御 井郡交戦の記事を読む。したがって当然、磐井征討軍が九州へ進発した、そういうふうに思 いこんでしまう。それなら湾岸激突は必至だ。
 だが、そうでないケースがある。近畿における、継体と麁鹿火との対話など、磐井側の耳 に入るはずはない。したがってその西進軍は、磐井への味方の軍として、筑紫に到着したの ではあるまいか。そう、任那方面の戦雲に対する応援軍だ。だからやすやすと、むしろ歓迎 されて、九州内陸部に入りえたのではなかったか。そして突如―――。
 「俄にして官軍動発し」という表現には、その間の消息が巧まずして表現されて いるように思われる。

 右のような推定は、もちろん想像にすぎない。しかし、そのような想像の方が、史料事実 を説明しうるように思える。
 それはともあれ、開戦直前まで、継体と磐井の関係は、分流と本家だった。したがって、 わたしはここでも率直に、前と同じ言葉をくりかえすことができる。 ―― いわく継体の反乱(クーデター)

414 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(66)
「磐井の叛乱」の虚実(3)
2005年12月21日(水)


 継体時代においても『日本列島の代表の王者が「筑紫の君」であったこと』を示す証拠は まだある。  日本書紀では磐井を「筑紫国造(つくしのくにのみやっこ)磐井」と呼んでいる。ヤマト朝廷 から任命あるいは承認された「国造」というニュアンスだ。

 一方、古事記での「磐井の叛乱」記事は次の40字(原文の漢文で)だけだが、

この御世に、竺紫(つくしの)君石井(いはゐ)、天皇の命(みこと)に従はずして、 多(まね)く禮(いや)無かりき。故、物部荒甲(あらかい)の大連、大伴の金村の連二人 を遣はして、石井を殺したまひき。(岩波文庫版)

ここでは「竺紫君(つくしのきみ)石井」と呼んでいる。竺紫に本拠を置く「王」と言っている。 今までと同様、もちろん古事記の方が事実を伝えている。そのことは「継体紀」がその意図に反して ポロリと語ってしまっている。ひとつは前回取り上げた次の一節。

磐井、(1)火(ひのくに)・豊(とよのくに)、二つの國に掩(おそ)ひ據りて、 使修職(つかへまつ)らず。(2)外は海路を邀(た)へて、 高麗・百済・新羅・任那等の國の年(としごと)に職貢(みつきものたてまつ)る船を誘 (わかつ)り致し

 もう一つは次の一節。

天皇、親(みづか)ら斧鉞(まさかり)を操(と) りて、大連に授けて曰はく、「(3)長門より東をば朕制(われかと)らむ。筑紫より西をば汝制(いま しかと)れ。

 (1)からは磐井の支配圏が筑紫(筑前・筑後)のほかに火の国(肥前・肥後)、豊の国 (豊前・豊後)とまたがっていたことがわかる。
 また(3)は〝首尾よく磐井に勝ったら、山口県以東はわたしがとる。福岡県から西はお前が とれ″と継体が言っていることになるが、それはとりもなおさず、磐井の勢力圏が山口県以東に もひろがっていたことを物語っている。
 さらに(2)の冒頭の文「海路を激へ」について古田さんは次のように分析している。

 「海路を激へ」の表現がしめしているように、(磐井は)対馬海流上の制海権をにぎってい た。それが継体にとって不満の種だったように思われる。第二巻(「日本列島の大王たち」) で論証したように、「任那→筑紫」間が濃密な関係にあったことから見れば、これは当然とい えよう。

 ここで想起すべきこと、それは弥生時代、博多湾岸を中心とした倭国の版図が北は洛東江 沿いから、南は四国西半部にまたがっていたことだ。中広矛・広矛や中広戈・広戈の分布が それを裏づけていた。その版図を磐井はそのままうけついでいた、そのように見なして、は じめて理解しうるこの継体の発言なのである。

413 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(65)
「磐井の叛乱」の虚実(2)
2005年12月20日(火)


 昨日東京地裁で行われた予防訴訟の公判を是非傍聴したいと思っていたのに、都合がつかず 残念だった。その様子を知りたいと思った。[anti-hkm]MLにはまだ掲載がない。澤藤さんが 参加しておいでなら、その日のうちに書くはず、もしやと思って…

 「反ひのきみ」の立場から、毎日必ず開いている頼もしいサイトの一つ

澤藤統一郎の憲法日記

に期待した。「憲法日記」は12月1日に更新されて以来新たな記載が途絶えていた。澤藤さんは 多種多忙な活躍をされている。お身体を悪くされたのではと心配だった。が、今日久しぶりに、 期待通り、日記が更新されていた。もちろん昨日の予防訴訟の記事。まだの方、是非ご覧になって ください。

 さて「磐井の叛乱」。古田さんは「継体紀」の記事から磐井の勢力範囲を分析している。

磐井、(1)火(ひのくに)・豊(とよのくに)、二つの國に掩(おそ)ひ據りて、 使修職(つかへまつ)らず。(2)外は海路を邀(た)へて、 高麗・百済・新羅・任那等の國の年(としごと)に職貢(みつきものたてまつ)る船を誘 (わかつ)り致し

(2)の分析。

 第一、朝鮮半島の国々、高麗・百済・新羅・任那等は、筑紫の磐井の所へ、年毎の貢職船 を派遣している。
 第二、これは、磐井が彼等を欺いて誘致したものだ。

 右の第一は事実、第二は評価だ。実際上は、第一の状態。それに対して継体側が「けしか らん」といっている形である。

 しかし、考えてみよう。高麗・百済・新羅の三国はいずれも、半島側の大国だ。その国々 が、皆まちがえて、あるいは磐井にだまされて、国交の使者を毎年送りつづける。そんなこ とがありうるだろうか。
 さらに任那にとって、日本列島側はいわば「本国」だ。自分の「本国」をまちがえて、使 を送っている。そんなことが世にありうるだろうか。――考えられない。

 以上の事実は、東アジア世界の常識において、日本列島代表の王者が何者であったか、そ の根本の事実を巧まずに語っているではないか。これら三国と交渉、あるいは敵対、あるい は友好していた倭国、あの倭の五王の国がどこであったか、それをストレートに証言してい るのである。
 また、あの任那が、どこを「本国」にしていたか、それを明白に裏書きしていたのである。

 はからずも継体側の証言によって、日本列島の代表の王者が「筑紫の君」であったこと、 それがキラリと裏づけられているのを知った。それは第二巻(「日本列島の大王たち」)以来 の度重なる論証と軌を一にするところである。

 とすれば、当然継体と磐井の間に、「上位者→下位者」の関係はない。むしろ逆だ。神武 東侵という史実そのものが告白しているように、九州側が本家、近畿天皇家側が分流、その 関係は明白なのだ。

 以上によって、「磐井の反乱」という熟語、否、一種の歴史用語が一片の虚辞、誇大レッ テルに他ならなかったことが判明する。論文でも教科書でもこの用語はあまりにも安易に使 われ、人々はこの用語から、すでに九州は天皇家の支配下にあったというあやまれる幻想を 与えられてきた。頭脳という名のコンピューター装置にその用語を既成の知識として挿し込 まれてしまったのである。


「反乱」というレッテルで、大義名分関係を逆転させる手法は『記紀』の常套手段だと、 古田さんは言う。

当芸志実美(たぎしみみの)命の反逆(神武紀)
建波適安(たけはにやすの)王(武埴安彦)(崇神紀)
沙本毘古(さほひこの)王(狭穂彦)(垂仁紀)
香坂(かごさかの)王・忍熊(おしくまの)王の反逆(神功紀)
大山守命の反逆(仁徳紀)

 これは全て矢印を反対方向にして読むのが正しい読み方ということになる。

 彼等(建波適安・沙本毘古)はいずれも、当の崇神や垂仁に先立つ大国・名門の王者だった。 崇神・垂仁側こそ外来の侵入者だった。にもかかわらず記紀は侵入された相手側を「―の反逆」と して処理しているのだ。レッテルは逆に貼られているのである。それによって人々は正しい 歴史認識からいつもさえぎられてきた。
412 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(64)
「磐井の叛乱」の虚実(1)
2005年12月18日(日)


 インターネットで「古代史学」関係のサイトを検索してみた。まだザッーと眺めただけだが、 学閥内の学者の無視にかかわらず、インターネットでは古田説を巡っての賛否・討論・論戦が盛んだ。 ただシニカルにくさしているだけのようなものもあるが、各種問題点を深めようとする真摯な 姿勢に好感が持てる。
 それらの論戦はいずれゆっくりと拝読させてもらおうと思うが、私にはそれらに加わるつもり も力量もない。今はともかく知ったばかりの「古田古代学」を読み、その一端を紹介することを 続けよう。

 今回から「磐井の叛乱」の解読を追う。まず「継体紀」のその件を全文読んでおこう。

 二十一年の夏六月の壬辰の朔甲午に、近江毛野臣(あふみのけなのおみ)、衆六萬(いくさむよろづ) を率(ゐ)て、任那に往きて、新羅に破られし南加羅・?己呑(とくことん)を爲復(かへ)し興建(た)てて、任那に 合せむとす。

 是に、筑紫国造磐井、陰(ひそか)に叛逆(そむ)くことを謨(はか)りて、猶預(うらもい)し て年を経(ふ)。事の成り難きことを恐りて、恒に間隙(ひま)を伺ふ。新羅、是を知りて、密に貸 賂(まひなひ)を磐井が所(もと)に行(おく)りて、勧むらく、毛野臣の軍を防遏(た)へよと。 是に、磐井、火(ひのくに)・豊(といのくに)、二つの國に掩(おそ)ひ據りて、 使修職(つかへまつ)らず。外は海路を邀(た)へて、高麗・百済・新羅・任那等の國の年 (としごと)に職貢(みつきものたてまつ)る船を誘(わかつ)り致し、内は任那に遣せる毛野臣の 軍を遮(さいぎ)りて、亂語(なめりごと)し揚言(ことあげ)して曰(のたま)はく、「今こそ使者たれ、 昔は吾が伴として、肩摩(かたす)り肘觸(ひじす)りつつ、共器(おなじけ) にして同食(も のくら)ひき。安ぞ率爾(にはか)に使となりて、余(われ)をして?(い)が前に自伏(したが) はしめむ」といひて、遂に戦ひて受けず。驕りて自ら矜(たか)ぶ。是を以て、毛野臣、乃ち防遏 (た)へられて、中途(なかみち)にして淹滞(さはりとどま)りてあり。

 天皇(すめらみこと)、大伴大連金村・物部大連麁鹿火(あらかい)・許勢大臣男人(こせの おほおみをひと)等に詔して曰はく、「筑紫の磐井反(そむ)き?(おそ)ひて、西の戎(ひな)の地を 有(たも)つ。今誰か将たるべき者」とのたまふ。大伴大連等僉(みな)曰さく、「正に直しく 仁(めぐ)み勇みて兵事に通(こころしら)へるは、今麁鹿火が右に出づるひと無し」とまうす。 天皇曰はく、「可(ゆるす)」とのたまふ。

 秋八月の辛卯の朔に、詔して日はく、「咨(あ)、大連、惟?(これこ)の磐井率(したが)はず。 汝(いなし)徂(ゆ)きて征(う)て」とのたまふ。物部麁鹿火大連、再拝(をが)みて言(もう)さく、「嗟(あ)、夫れ 磐井は西の戎の?猾(かだましきやつこ)なり。川の阻(さが)しきことを負(たの)みて庭(つかへまつ)ら ず。山の峻(たか)きに憑(よ)りて乱(みだれ)を稱(あ)ぐ。徳(いきほひ)を敗(やぶ)りて道に反く。侮(あなづ)り?(おご)りて自ら賢しとおもへり。在昔(むかし)道臣 (みちのおみ)より、爰(ここ)に室屋(むろや)に及(いた)るまでに、帝(きみ)を助(まも)りて罰(う)つ。民(おほみたから)を塗炭(くるしき)に 拯(すく)ふこと、彼も此も一時(もろとも)なり。唯天(あめ)の贊(たす)くる所は、臣(やっこ)が恆に重みする所なり。能く恭み伐たざらむや」とまうす。詔して曰 はく、「良将(すぐれたるいくさのきみ)の軍(いくさだち)すること、恩(めぐみ)を施して 恵(うつくしぴ)を推(お)し、己を恕(おもひはか)りて人を治む。 攻むること河の決(さ)くるが如し。戦ふこと風の發つが如し」とのたまふ。重(また)詔して曰 はく、「大将(おほきいくさのきみ)は民の司命(いのち)なり。社稷(くにいへ)の存亡(ほろぴ ほろぴざらむこと)、是に在り。勗(つと)めよ。恭みて天罰(あまつつみ)を行へ」とのたまふ。天皇、親(みづか)ら斧鉞(まさかり)を操(と) りて、大連に授けて曰はく、「長門より東をば朕制(われかと)らむ。筑紫より西をば汝制(いま しかと)れ。専(たくめ)賞罰(たまひものつみ)を行へ。頻(しきり)に奏(もう)すことに勿 (な)煩ひそ」とのたまふ。

 二十二年の冬十一月の甲寅の朔甲子に、大將軍物部大連麁鹿火、親ら賊(あた) の帥(ひとごのかみ)磐井と、筑紫の御井郡(みいにこほり)に交戦(あひたたか)ふ。旗鼓 (はたつづみ)相望み、埃塵(ちり)相接(つ)げり。機(はかりこと)を両(ふた)つの 陣(いくさ)の間に決めて、萬死(みをす)つる地(ところ)を避(さ)らず。遂に磐井を斬り て、果して疆場(さかひ)を定む。

 十二月に、筑紫君葛子(くずこ)、父(かぞ)のつみに坐(よ)りて誅(つみ)せられむこと を恐りて、糟屋屯倉(かずやのみやけ)を献(たてまつりて)りて、死罪(しぬるちみ)贖 (あがな)はむことを求(もう)す。
(岩波日本古典文学大系「日本書紀」より)

411 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(63)
倭の五王(4)
2005年12月16日(金)


 次に、「雄略紀」の記事

夏四月(うづき)に呉国(くれのくに)、使(つかひ)を遣(まだ)して貢献 (ものたてまつ)る。

についての古田さんの論述をまとめてみる。
 (ここから文献として古田さんの著書「法隆寺の中の九州王朝」を加える。)

 以下は記紀の中にある説話「磐井の反乱」が、実は傍流・ヤマト王権の本流・ 九州王朝に対するクーデターであったことを読解するくだりに挿入された論述だ。
 なお後ほど詳しくその論証を取り上げる予定だが、次の3点が上記の「雄略紀」の記事を解読 するための重要な観点となる。

1.
 朝鮮半島で戦闘を繰り広げていたのはヤマト王権ではなく、九州王朝である。
2.
 九州王朝が朝貢していたのは南朝である。一方、ヤマト王権はもっぱら北朝とよしみを 通じていた。
3.
 「白村江」の戦いで敗れた九州王朝の勢力の減衰に乗じて、ヤマト王権が覇権を簒奪して いった。
4.
 遣隋使は九州王朝による外交使節である。ヤマト王権が中国と深く関わるのは遣唐使からだ。

 さて古田さんの論述は次のようだ。

 この呉国とは、南朝のことだ。もし雄略期なら、南朝劉宋となる(ただ 『日本書紀』の場合、九州王朝の史書からの転用、挿入があり、そのさい時 期は厳密でない)。

 つまり、中国側の天子が近畿天皇家に対して「貢献」してきたという。天子 の方が下位者、近畿の方が上位者、そういう表記だ。だからこの用語によれば、 近畿天皇家は、南朝の天子まで配下の豪族、あるいは西方の夷蛮として支配し ていたこととなろう。この「呉国貢献」というレッテルが、もしクローズ・アッ プされたならば、すでに五世紀、華南は天皇家の勢力圏だったこととなろう。さ すがに、戦前の皇国史観流の論者も、そこまではやらなかったようであるけれど も。

 しかし、先述来の「反乱」問題とこの「貢献」問題、両者とも『日本書紀』にとって同一 のイデオロギーの立場なのである。
 このような目で見れば、磐井の場合、これを「反乱」と呼ぶのは、史実の問題としては、 根も葉もないレッテルであったこと、そしてその真の理由が判明しよう。

 なお、右で南朝を「呉国」と呼んでいる点についてのべておこう。
 これは『日本書紀』が北朝側の大義名分論に同じているからである。『日本 書紀』の成立した八世紀初頭、天皇家が唐朝への完全同調路線を歩んでいたことは有名だ。 のちにのべる、あの大宝律令なども、唐の律令格式のそっくりさんの趣の強いことは周知の ところだ。何といっても、白村江の大勝によって、唐の東アジア世界に対する威令が、秦・ 漠朝以来の、最大の輝きを帯びていた時代に『日本書紀』は編述されたのである。

 その唐朝は、隋朝の禅譲をうけて成立した北朝系の国だ。南朝は最後の陳のとき、隋によ って滅ぼされた。隋の開皇九年(589)のことだ。
 北朝にとっては、久しく南朝は天子の国ではなかった。「呉国」が長らく反逆していた。 これが大義名分上の立場だったのである。
 その北朝が南朝を滅ぼし、天下統一をなしとげたあと、当然隋・唐朝にとっては、南朝の 天子など、存在しなかった。未帰服の「呉国」が存在しただけ。基本的な立場はこうだった。 その立場を『日本書紀』が過激にとっているのである。南朝のみを正統の天子とし、北朝を 逆賊と見なした、あの倭の五王の立場とは、まさに正反対だ。

 このように『日本書紀』は、八世紀時点のイデオロギー上の立場から、歴史上の国名や事 物や事件に対して、遠慮なくレッテルを貼る、そういう手法の史書だったのである。

 (これに対し、中国側の唐朝では『北史』『南史』という北朝・南朝別載の史書が成立して いる。
 つまり右のような基本の大義名分論は当然ながら、にもかかわらず、歴史上の事物を客観的 に表記し、記述する、そういう努力をしめしている。この点『日本書紀』ほど歴史の事実に対 して傲慢ではない、といえよう。)

410 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(62)
倭の五王(3)
2005年12月14日(水)


 古田さんは倭王・武の「上表文」を周到にして緻密に解読している。その結果 が指し示すところはやはり「倭王武=ワカタケ(雄略)」ではなく 「倭王武=九州王朝の王」である。
 上表文の分析はおいて、ここでは「雄略紀」の記事についての古田さんの 論述を追うことにする。

 ところで、この頃の中国の政治状況は複雑だ。私は世界史を通して学んだことがなく、 日本書紀の編纂者と同じくらい混乱している。まずこの頃の中国の 状況を年表で確認しておく。

(第一学習社「総合世界史年表」より)

中国年表


 倭王・武を記録している中国史書は次のようであった。(前回掲載)

17 (478年)(『宋書』倭国伝)
18 (478年)(『宋書』帝紀)
19 (479年)(『南斉書』倭国伝)
20 (502年)(『梁書』帝紀)
21 (502年)(『梁書』倭国伝)

 いずれも南朝である。「日本書紀」はこれら南朝の国々のことを十把一絡にし て、三国時代の「呉」の呼称を用いているようだ。  さて、ワカタケの治世は456~479年である。中国の史書では 「17 (478年)」に「興死して弟武立ち」という記事があり、 「21 (502年)」には「武」を「征東将軍と号せしむ」とある。

 この年代の大きなずれを「定説論者」はどのように言い逃れをしているのか。

 雄略の治世は四五六~七九年だ。雄略のあと、清寧・顕宗・仁賢・武烈と つづき、上の502年は、この武烈(498~506)の在位期間だ。いくら『日本 書紀』の紀年が信用できないといっても、雄略をここまで下げたのでは、あと (継体以降)がつかえてしまう。だから、雄略天皇の治世は六世紀初頭までつ づいていたという論者は、さすがにいない。

 そこでこれに代って、〝『梁書』の、倭王武への授号記事は信用できない″ 〝倭王武の死を知らず、形式的に授号しただけ″といった遁辞が現われる。 ――まさに遁辞だ。なぜなら、その記事そのものが客観的に見ておかしい、 というのではない。すなわち、それは「高句麗王、高雲→車騎大将軍」 「百済王、余大→征東大将軍」といった記事と一連の記事だ。だが、これらの 記事を敢えて疑う論者はいないのである。
 それどころではない。これにつづく、同じ武帝紀(下)の、

 普通二年(521)十二月戊辰、鎮東大将軍、百済王余隆を以て寧東大将軍と 為す。

の記事は、武寧陵碑の墓誌によって裏づけられている。金石文の保証付きだ。 そのように信憑性ある『梁書』の授号記事を疑う、それは筋が通らない。その 筋の通らないことをなぜしなければならないか。その理由は他にはない。 「倭王武=雄略」とするためだ。

 こんなやり方で成り立たせねばならぬ定式とは、一体何だろう。要するに 無理を犯しているのだ。

409 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(61)
倭の五王(2)
2005年12月13日(火)


 前回掲載の「倭の五王」全記事の「17」における武の上表文「封国は…… (中略)……以て忠節を勧む」について古田さんは次のようにコメントしてい る。
 倭王が中国に送った国書、それがこれだけ長文で掲載され、保存されている例は他にない。 日本古代史上、無類の貴重な史料だ。『三国志』の魏志倭人伝に載せられた「魏の明帝の 詔書」に匹敵し、対をなすべき第一史料である。

 これも古田さんによる口語訳で全文読んでみよう。

 中国から倭王の任命をうけてきたわが国は、はるかかたよった遠いところにあり、中国の 外において、一つの藩(はん=地方を鎮めて天子のまもりとなる国)となってまいりました。
 昔より、わたしの先祖の倭王は、みずから甲(かぶと)や冑(よろい)を身につけ、山川を かけめぐり、やすらかなところとてないありさまでした。
 東のかた、毛人(倭国の東隣の蛮族。倭種)の55国を征伐し、西のかた、衆夷(倭国の 本拠を指す。東夷の一)の66国を帰服させ、さらに海を渡り、海北に当る韓地の95国を平らげ ました。
 中国の天子が天下を統治する道はやわらぎ、かつゆったりとしています。わが先祖は(天 子の配下の国として)その統治領域をひろげ、畿(天子のいる中心領域)からはるかにへだた ったところまで、天子の威令が及ぶようにしたのであります。
 そして(各王朝の)代々にわたって天子に拝謁し、朝貢の歳をたがえることはありませんでした。
 臣下であるわたしは、至って愚かな者でありますけれども、かたじけなくも、祖先の偉業をうけ つぎ、馬を駆って統一した国々を率い、自然の大道に帰し、これをあがめております(南朝の天子 を中心とする秩序に従ってきました)。
 道は、はるか百済の彼方につらなり、武装して軍船をととのえてまいりました(朝鮮半島への出 兵の用意をととのえてきたことを指す)。
 しかるに、高句麗はその大道をうしない、企図して(楽浪・帯方郡から百済に至る地帯を)現在の みつくそうとしております。辺境の民を奴隷としてかすめとり、殺害して止むことがありません。
 そこで、いつも秩序がとどこおり、そのために従来の良い風俗が失われています。(楽浪・帯方 郡等への)道を進むということになっても、あるときは通じ、あるときは通じないありさまでござ います。
 臣下である、わたしの亡父済は、まことに高句麗のあだをなす来寇が、天子の領地(楽 浪・帯方郡など)への道をさえぎりとどめているのを、心からいきどおり、弓をひく兵士百 万を率い、天下の正義の声に感じ、ちょうど大挙して出発しようとしたとき、(不慮の事故 で)父兄をともにうしなうこととなりました。そのため、すでに完成しようとしていた(高 句麗遠征の)功を、成功寸前で挫折することとなりました。
 時、おりしも諒闇(りようあん=天子の喪。南朝劉宋の孝武帝の死。大明8年<464>か)に当って おり、(その時の倭王興 - 武の兄は)兵を動かしませんでした。そのために、兵力をやすめ、 いこわせて、まだ(高句麗に)うちかつことができずにいました。
 (わたしの代になって)今いよいよ甲や兵器をきたえととのえ、無念の中に没したわたしの 父兄の志を再び実現させようと思います。天子の先陣としての正義の士である虎賁(こほん)の 士(周以来の官名。天子の出入の儀式に先後でこれを守る兵士)として、文武に功をたて、白い刃が 眼前にきりむすばれるときも、また危険などかえりみないつもりです。
 もし天子の徳をもって万物をおおい、この強敵、高句麗をくじくならば、やすきに流れる ことにうちかち、困難にたちむかい、(代々中国の天子に仕えてきた)祖先の功にかわること がないようにしましょう。
 ひそかに自分を開府儀同三司(「府」を開く特権をえた者の称号)の任の者と見なし、わた し以外の配下の者にも位や称号を授け、それによって中国の天子に対する忠節を尽くすよう、 すすめることとしております。


 倭王・武は定説では「オオハツセワカタケ(雄略)」とされている。日本書紀 (岩波古典文学大系版)をパラパラ調べてみたが、この第一級の史料は片言もな い。また「雄略紀」における中国との交渉記録の初出は「雄略六年」で

夏四月(うづき)に呉国(くれのくに)、使(つかひ)を遣(まだ)して貢献(ものたてまつ)る。

とある。以後全て相手の国名は「呉国」となっている。しかも「呉国」が日本に 朝貢してきたという。

 私のような素人でも「はてな?」と立ち止まってしまう。今までにも明らかにされてきたように、 このように明々白々な矛盾はここだけではない。日本書紀のいたるところに露呈している矛盾をその まま放置して、都合のよいとこだけを紡いで「定説」をでっち上げてきたのがこれまでの「学会」古代史 なのだ。古田さんの解読によれば、全ての矛盾は解決するのに、学会はいまだに古田さんを無視し続けてい る。

408 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(60)
倭の五王(1)
2005年12月10日(土)


 好太王の死後も高句麗と倭との激戦は続いていた。讃以降の倭王もその戦いを引き継いでいる。 ここで中国史書に記録されている「倭の五王」の全記事を読んでおこう。 古田さんが年代順にまとめたものを掲載する。

1 (396年~418年)
 晋の安帝の時、倭王賛有り。 (『梁書』倭伝)

2 (413年)
 (晋安帝、義煕九年)是の歳、高句麗・倭国及び西南夷の銅頭大師、並びに万物を 献ず。 (『晋書』安帝紀)

3(「義煕起居注」)倭国、貂皮・人参等を献ず。詔して細笙・麝香を賜う。  (『太平御覧』香部一、麝条)

4 (421年)
 高祖の永初二年、詔して曰く「倭讃、万里貢を修む。遠誠宜しく甄(あらわ)すべく、 除授を賜う可し」と。 (『宋書』倭国伝)

5 (425年)
 太祖の元嘉二年、讃、又司馬曹達を遣わして表を奉り、万物を献ず。
 讃死して弟珍立つ。傍を遣わして貢献し、自ら使持節・都督、倭・百済・新羅・任 那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍・倭国王と称し、表して除正せられんことを 求む。詔して安東将軍、倭国王に除す。珍、又倭隋等十三人を平西・征虜・冠車・輔 国将軍の号の除正せんことを求む。詔して並びに聴(ゆる)す。 (『宋書』倭国伝)

6 (430年)
 (文帝、元嘉七年、春正月)是の月、倭国王、使を遣わして万物を献ず。《珍》  (『宋書』倭国伝)

7 (438年)
 (文帝、元嘉十五年、夏四月)己巳、倭国王珍を以て安東将軍と為す。 (『宋書』帝紀)

8 (438年)
 (文帝、元嘉十五年)是の歳、武都王・河南国・高麗国・倭国・扶南国・林邑国、並びに 使を遣わして万物を献ず。《珍》 (『宋書』帝紀)

9 (443年)
 二十年(文帝、元嘉二十年)、倭国王済、使を遣わして奉献す。復た以て安東将軍・倭国王 と為す。 (『宋書』倭国伝)

10(443年)
 (文帝、元嘉二十年)是の歳、河西国・高麗国・百済国・倭国、並びに使を遣わして万物を 献ず。《済》 (『宋書』帝紀)

11 (451年)
 (文帝、元嘉二十八年)使持節・都督、倭・新羅・任那・加薙・秦韓・  慕韓六国諸軍事を加え、安東将軍は故(もと)の如く、并びに上(たてまつ)る所の二十三 人を軍郡に除す。《済》 (『宋書』倭国伝)

12 (451年)
 (文帝、元嘉二十八年)秋七月甲辰、安東将軍倭王倭済、安東大将軍に進号す。  (『宋書』帝紀)

13 (460年)
 (孝武帝、大明四年、十二月丁未)倭国、使を遣わして万物を献ず。《済》 (『宋書』帝紀)

14(462年)
 済死す。世子興、使を遣わして貢献す。世祖の大明六年(孝武帝)、詔して曰く 「倭王世子興、奕世載(すなわ)ち忠、藩を外海に作(な)し、化を稟(う)け境を 寧(やす)んじ、恭(うやうや)しく貢職を修め、新たに辺業を嗣ぐ。宜しく爵号を 授くべく、安東将軍・倭国王とす可し」と。 (『宋書』倭国伝)

15 (462年)
 (孝武帝、大明六年、三月)壬寅、倭国王の世子、興を以て安東将軍と為す。  (『宋書』帝紀)

16 (477年)
 (順帝、昇明元年)冬十一月己酉、倭国、使を遣わして万物を献ず。《興》 (『宋書』帝紀)

17 (478年)
 興死して弟武立ち、自ら使持節・都督、倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・ 慕韓七国諸軍事、安東大将軍・倭国王と称す。順帝の昇明二年、使を遣わ して表を上る。曰く「封国は……(中略)……以て忠節を勧む」と。詔して、武を使 持節・都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・幕韓六国諸軍事、安東大将軍・倭王に除 す。 (『宋書』倭国伝)

18 (478年)
 (順帝・昇明二年)五月戊午、倭国王武、使を遣わして万物を献ず。武を以て安東大将軍 と為す。(『宋書』帝紀)

19 建元元年(479、高帝)進めて新たに使持節・都督、倭・新羅・任那・加羅・秦  韓・(慕韓)六国諸軍事、安東大将軍・倭王武に除し、号して鎮東大将軍と為さしむ。 (『南斉書』倭国伝)

20 (502年)
 (高祖武帝の天監元年)鎮東大将軍倭王武を進めて征東将軍に進号せしむ。(『梁書』帝紀)

21 (502年)
 高祖即位し、武を進めて征東将軍と号せしむ。(『梁書』倭国伝)

〔付〕22(522年あるいは519年―「三年くり上げ」問題)
 継体天皇十六年。武王。年を建て、善記といふ。是九州年号のはじめなり。 (『襲国偽僣考、鶴峯戊申』)


 これだけの記録があるのに「日本書紀」にはこれらと一致する記録がまったく ない。この事実をあやしまずに、単なる語呂合わせに過ぎない脆弱な論拠(「第 349回」参照)で「倭の五王」をヤマト王権の天皇に当てて定説としている 学者たちの知的退廃を改めて思う。
 ふと思いついて手元にある森浩一著「記紀の考古学」を調べてみた。「倭王興から倭王武の ころ」という章がある。その中で曰く。

「安康天皇は『宋書』にあらわれる倭王興であることは定説とみなしてよい。」
「倭王武と推定されるワカタケル(雄略天皇)」

 この著名な考古学者の著書は1996年~2000年にかけて執筆されている。

 一方、古田さんの主な著書は既に1970年頃から1980年代に刊行されている。 古田さんの論証になんらの反証もせずに、古田さんが論破した定説に相変わらず しがみついての論考はもはや学問とはいえない。それは単なるイデオローグ に過ぎない。古田さんの論考に対して「採択せず・論争せず・相手にせず」の 「三セズ」を決め込んで書かれている論文はすべて反故に等しいと言ってよい と、私は思っている。

 天皇の名を漢風諡号ではなく和風の呼称で論述する見識を持つ森教授もまた「三セズ」一派の 学者なのか。やんぬるかな。

407 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(59)
激動の朝鮮半島(11)―好太王の敵手
2005年12月7日(水)


 好太王と対戦した倭王は「讃」だ。いわゆる「倭の五王」と称されている王の うち最初の王である。

 高句麗の好太王と晋の安帝の在位期間は下記のようになる。

391年 好太王即位
396年 安帝即位
412年 好太王没・413年 長寿王即位
418年 安帝没・恭帝即位
420年 東晋滅亡

 好太王碑には好太王の最初の勲功の年は永楽5年(395)と記録されている。
 一方、倭王・讃についての記録は次の通りである。

① (396年~418年)
 晋の安帝の時、倭王賛有り。 (『梁書』倭伝)

② (413年)
 (晋安帝、義煕九年)是の歳、高句麗・倭国及び西南夷の銅頭大師、並びに万物を 献ず。 (『晋書』安帝紀)

③(「義煕起居注」)倭国、貂皮・人参等を献ず。詔して細笙・麝香を賜う。  (『太平御覧』香部一、麝条)

④ (421年)
 高祖の永初二年、詔して曰く「倭讃、万里貢を修む。遠誠宜しく甄(あらわ)すべく、 除授を賜う可し」と。 (『宋書』倭国伝)

⑤ (425年)
 太祖の元嘉二年、讃、又司馬曹達を遣わして表を奉り、万物を献ず。

 古田さんの論証は次のようである。古田さんは「安帝の鎖の論証」と呼んでいる。

 ①で、倭王賛(讃と同じ)は、東晋の安帝のときに当るとのべられている。
 してみると、この安帝の治世とは、すなわち好太王の活躍した時代だ。したがって好 太王の敵手であった倭王は、まず倭王讃。そういう三段論法が成立するのだ。これが安帝の鎖の 論証である。

 もっとも、厳密に考えると、一つの問題がある。それは安帝の末年(412~418)の六年間は、 高句麗では、すでに好太王の時代は過ぎ、次の長寿王(在位413~94)の時代 になっている。だから同じ安帝といっても、倭王讃はこの六年間に当っていたとしたら、好 太王とはすれちがいに終ることとなろう。

 けれども、もしそうであったとしても、少なくとも讃の王子(太子)時代は、好太王軍と の決戦に明け暮れていたことであろう。
 肖古王と貴須王子のごとく、王と太子が共に闘う、これが当時は珍しくなかったよ うである。
 倭王武の上表文でも、同様の状況が暗示されている。「父兄」が一緒に戦陣の間に死んだ、 というのである。
 このような戦国のならいからしても、倭の王子讃が、好太王と相対峙し、決戦をくりかえ していたこと、それはほぼ確実だ。

 次は、高句麗と倭国が並び貢献したという②の安帝の義煕九年(413)の問題。それは 好太王の没した翌年、長寿王即位の年である。好太王碑の建立された年(甲寅年、414) の前年に当る。つまり、あの長大な一世の一大巨碑がまさに着々建造中。そういう年だった のである。
 好太王の死、―それは東アジア世界を駆けめぐった一大ニュースだった。それをわたし は疑わない。
 好太王はアレクサンダー大王やナポレオン一世のように、東アジアの一角の政治・軍事上 の大勢を一変させた一代の風雲児だった。倭・百済の連合軍の前に劣勢下にあった父(故国 壌王)、その形勢を逆転したのだ。
 その好太王が死んだ。――次はどうなる。そういう未知にふるえる緊迫のとき、それがこ の義煕九年という年のもつ意味だ。だから「高句麗・倭国」と何気なく並べて書かれている けれども、両者の貢献への思惑は鋭く対立していたのである。

406 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(58)
激動の朝鮮半島(10)―「神功紀」の嘘八百ぶり
2005年12月4日(日)


「第403回」で掲載した「神功紀」の記事は「百済紀」からの挿入だといわれている。 古田さんがまとめたもので、改めてその大意を確認しておく。
(1)
 (倭国側の)荒田別・鹿我別と百済人の久?(てい)等は軍を率いて卓淳国に至り、 新羅を襲撃しようとした。

(2)
 沙白・蓋廬(倭軍の将か)と木羅斤資(百済の将)と沙沙奴跪(倭人か)等が加わり、卓 淳国に集って新羅を侵犯した。

(3)
 その結果、比自?(ひしほ)・南加羅・?(とくの)国・安羅・多羅・卓浮・加羅という 洛東江沿いの七国は安定した(倭地)。

(4)
 この倭・百済連合軍は古奚津(全羅南道康津か。済州島に渡る要津)から忱彌多礼 (済州島)を襲い、これを百済のものとした。

(5)
 百済王の近肖古王と王子の貴須も、その地(忱彌多礼)に来て、右の連合軍と相会した。

(6)
 比利・辟中・布禰支・半古の四邑も、百済王に帰服した。

(7)
 そこで百済王父子と荒田別・木羅斤資等は意流村(百済国の聖地の一。漢城か)に相会 し、成功を祝した。

(8)
 さらに千熊長彦(倭軍の将)と百済王は、百済国の辟支山(全羅北道金堤か)に登って (倭国と百済国の)同盟を誓い合った。
 さらに古沙山(全羅北道古阜)に登って、重ねて同盟の誓いを結んだ。

(9)
 百済王は都(漢城=尉礼城か)に千熊長彦を迎え、厚くこれを遇した。そして久? (くてい)等に(倭地への)帰国の途を送らせた。


 この記事に描かれている軍が神功皇后配下の軍であるはずがないことを古田さんは論証 している。その論証を追ってみる。他の史料からの盗用・改竄という、もうお馴染みの 「日本書紀」の手法を改めて知ることになる。

論証一

 「日本書紀」の文章配置のデタラメさ。

(一)
 (神功)三十九年。是年、太歳己未。親志に云ふ。明帝の景初三年六月、倭の女王、 大夫難升米等を遣はして、郡に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝貢す。太守夏 吏を遣はして将(ひき)ゐて送りて、京都に詣らしむ。
 四十年。魏志に云ふ。正始元年、建忠校尉梯携等を遣はして、詔書印綬を奉りて、倭国 に詣らしむ。
 四十三年。魏志に云ふ。正始四年、倭王、復(また)使大夫伊声者掖耶約等八人を遣はし て上献す。

(二)
 次に件の文(神功四十六年~四十七年、五十年~六十五年は略)。

(三)
 六十六年。是年、晋の武帝の泰初二年。晋の起居注に云ふ。武帝の泰初二年十月、倭 の女王、訳を重ねて貢献せしむ、と。


 つまり近肖古王(在位三四六~三七四)に関する文(二)を卑弥呼(一)・壱与(三)と 同時代、つまり三世紀の事件と見なしている。
 古田さんのコメント。『これは何を意味するか。他でもない。近畿天皇家内の歴史にこ の史実はなく、他の史書(『百済記』)の記事から切り取ってきて、これを挿入したにす ぎぬ、そのことをしめしている。すなわち、これは近畿天皇家に関する史実ではない。 いわんや神功皇后に関する記事などではないのである。』

論証二
 すでに論証済みの「七支刀」との関連。

 さらにこの記事は、近肖古王に関する記事だ。つまり、すぐあとの神功五十二年 の項に出てくるあの七支刀(七枝刀)の記事と一連の記事なのである。
 七支刀が「百済-近畿天皇家」間ではなく、「百済-倭国(九州王朝)」間の贈与品 であったことは、すでに証明した。とすれば、右の神功四十九年項もまた、当然倭国 (九州王朝)に関する記事とならざるをえない。

論証三
 これもすでに論証済みの「神功記」との関連。
 さらに、この記事は『古事記』には全く出現しない。『古事記』では、神功皇后 は新羅の海岸に到着し、その歓待を受けたにとどまり、一切戦闘など行ってはいない のである。
 この点からも、『日本書紀』の右の文章の方が後からの付加、挿入であることが分る。な ぜなら、もし本来が『書紀』の形であったとしたら、『古事記』の方がこれを削り、天皇家 の軍の海外における一大戦勝結果をあえて削る、そんな道理はありえないからである。
 そうだ。あの公理。――〝近畿天皇家の史官は、天皇家にとって有利に加削するのであっ  て、不利に加削することはありえない″のだ。

 古田さんはさらに、くだんの文章の分析によって追い討ちをかけている。
 右の説話自身の中にも、ことの真相を明らかにする、史実の鍵がひそめられている。
 それは出発点だ。「卓淳国」(今の大丘県)が進軍の発進地とされている。ここは海岸部 ではない。洛東江もかなり奥地に当る。そこがなぜ進軍の出発地とされるか。これが問題だ。  確かに、もしこれが『書紀』の立場、すなわち神功皇后の進軍ルートであるとしたなら、 この形はおかしい。なぜなら神功皇后ははじめて朝鮮半島に渡海した、そのあとなのだから、 いきなりその奥地から発進できるはずはない。ここには飛躍がある。

 しかしながら、これが倭国(九州王朝)、つまり七支刀を近肖古王から贈られた倭王の軍 であったとしたならば、きわめて自然である。なぜならすでにたびたび強調してきたように、 少なくとも三世紀以来、洛東江流域には倭地が存在していた(腰岳の黒曜石の分布から見れ ば、その淵源ははるか縄文期に遡ることができよう)。
 そして東側の新羅とは国境侵犯の紛争もくりかえしていた。それは四世紀末から五世紀初 頭の史実をしめす好太王碑中の「其の国境」問題によっても確かめられた。

朝鮮半島

 このような歴史的前提から観察してみよう。この発進地、卓淳国は、「倭地」の突端部、 この地理的状況にピッタリ適合しているからである。
 七支刀(七枝刀)記事と同じく、九州王朝に関する記事を切り取って『書紀』の編者がこ れを、近畿天皇家用に転用していること、その証拠がここでも歴然とあらわれている。

 以上にのべたこと、それは平たくいえば次のようだ。
 〝『書紀』の編者たちは、他王朝(九州王朝)についての記事をもってきて、自分たちの 王(―分王朝)の記事の中に接ぎ木しようとした。ところが、その挿入の仕方がうまくゆ かず、結局接ぎ目をちぐはぐにしてしまった。″
 こういうことなのである。

 この一見簡単なミスのもつ意味は意外に大きい。なぜなら『書紀』の編者たちには、この 説話の中に詳細に列挙されている洛東江流域や朝鮮半島南辺の地名に対して、およそ土地鑑 がなかったのである。「卓淳国」がどのあたりに位置するか、認識していなかった。あれほ ど海岸から奥まった地点だとは思ってもいなかったようである。いなかったからこそ、この ような接ぎ目のちぐはぐが生じた。――このように見るのが、筋の通った理解の仕方ではあ るまいか。


 それでは好太王と戦った倭王は誰なのか。