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405 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(57)
激動の朝鮮半島(9)―「高句麗好太王碑」(4)
2005年11月30日(水)


倭以辛卯年来渡海破百残□□□羅以為臣民(□□□は欠落部分)

 この部分は正しくはどう読むべきか。
 「第402回」で述べてように、好太王碑碑文は好太王を「天帝」の子孫であると称している。 また当時は百済と倭は同盟関係にあった。この2点が重要なポイントとなる。
 古田さんの読解をそのまま記載しよう。古田さんはまず「以為臣民」の部分 から読み解いている。

〝この碑面では、好太王は天子に匹敵する位置にあり、天子専用の術語が 使われている″。このルールを確認するとき、一つの重要な解決が現われてくる。
 従来は、ほとんどの学者がこの「以て臣民と為す」の主語を「倭」と解してきた。
けれども、この「臣民」という用語の「臣」は「君」の対語である。

  ①君、君たれば、臣、臣たり。   (『論語』顔淵)
  ②諸侯臣伏す。          (『管子』四称)

 そして、諸侯の臣服すべき存在、それは当然天子その人だったのである。この点、「臣民」 という用語もまた、「天子に服従する者」という意義を本来とすべきこと、当然といえよう。
(中略)
 このような術語の使用法から見ると、「太王」(好太王)を天子に準ずる位置におく好太王 碑の文面内では、「臣民」の主語となりうるものは、他にない。――好太王である。
 ここのところは、上に三字の欠字があるから、明言はできないけれども、「海を渡って百 残を破り……臣民と為す」の部分の主語は、倭ではなく、好太王ではないであろうか(朝鮮 半島側の学者からも、その立場の説が出されている)。
 その意味は、
 〝百残や新羅は、もとは「属民」として「朝貢」してきていた。けれども、倭が来って、百 済と同盟を結んだり、新羅を侵犯したりするようになったので、渡海作戦を実行して百残を 破り、その結果、召残(や新羅)を直属下「臣民」とすることとした。″ ほぼ、このようであると思われる。


 つまり「倭以辛卯年来渡海破百残」の部分を『「倭以辛卯年来」「渡海破百残」』と2文に 分かち、それぞれの主語を「倭」「好太王(高句麗)」としている。
 従来の読みと古田さんの読みとどちらが妥当だろうか。当時の朝鮮半島の国家関係や地形関係 をも考慮にいれれば、おのずから明らかだろう。古田さんの論述は次のように続く。
第一
 好太王が渡海作戦を得意としたらしいことは、永楽14年(404)項にも見られる。すなわち、 倭軍がルールを破って帯方界に侵入したとき、好太王は、「船を連ねて」これを撃った、との べられているようである。
 朝鮮半島の地形からして、このように海上を迂回して敵軍の背後を突く、そういう作戦は 当然考えられるべきであろう。
 百済本紀の辰斯王の項に、

(辰斯王8年=391)王聞く、「談徳(好太王)、能く兵を用う。出て拒むを得ず」と。

 作戦と実行の天才として百済側からも認められていた好太王が、この点に着目しないはず  はない。

第二
 これに対し、倭軍は新羅に侵入するさいにも、渡海の必要など、全くないのである。 なぜなら、倭地は洛東江沿いにひろがっており、東は新羅と西は百済と共に「其の国境」を もっていたからである。このような「国境」認識は、好太王碑それ自身の地理認識であった。 したがって「渡海」を、すぐ「倭」と結びつけて考えるのは、後代人たる現代人が、現代の 国家関係(朝鮮海峡でへだてられている状況)をもとに、この四~五世紀の文面を読んだ、そ のためではないであろうか。
 この点からも、「渡海……為臣民」の主語は、「倭」ではなく、好太王である。

第三
 もう一つの問題は「破百残」である。
 先ほどからのべてきたように、四世紀後半、百済は倭国との蜜月のさ中にあった。
 時の、百済の辰斯王は、あの近仇首王の子供(仲子)である。「七支刀」を倭王に送り、 後世に伝示したのが、父の代であった。辰斯王の時代は、その「百済―倭」の同盟関係の中 にあった。さらに次の阿?(「草かんむり」+「辛」という字)王の 六年(397)、太子の腆支を倭国へ「人質」に送り、友好を深めようとしたのは、この 「辛卯年(391)」のわずか六年前である。『三国史記』のいずこを見ても、そこに見られる ものは「百済―倭」間の友好の片鱗である。その逆ではない。
 このような当時の国家関係から見ても、「破百残」の主語を「倭」と見なすことは無理な のである。

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404 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(56)
激動の朝鮮半島(8)―「高句麗好太王碑」(3)
2005年11月26日(土)


 「好太王碑の文面は1882年頃、スパイとして朝鮮に渡った日本陸軍参謀本部の士官(酒匂 中尉とされている)の手(指図)によって改竄され、それを拓本したものが一般に 流布されてきた」という「改竄説」がある。古田さんは、『そのように主張 する一部の学者(李進熙氏等)がある』と特に「李進熙」の名をあげている。

 実は私は、「改竄説」問題は古田さんの論考によって決着済みのことと理解している。 だからこのことには触れずに、今回から前回末尾に紹介した「神功紀」の記事の解読に 入る予定だった。しかしやはり「改竄説」のことを書きとめておこうと予定を変更するこ とにした。理由はこうだ。

 先日(24日)、偶然に「好太王碑を巡る論争・水谷拓本と新発見の墨本」と題する講演会のチラシ を見た。講演者は「李進熙」(和光大学名誉教授)とある。チラシ裏面には2005年6月23日付 の毎日新聞の記事がそのまま掲載されている。その記事は中国社会科学院の徐建新・教 授が中国の学術誌「中国史研究」に発表した論文を紹介している。それによると改竄され たものとされる「酒匂本」より古い墨本が発見されたが、それと「酒匂本」とには異同は 認められないという。記事は「洒匂本より古い本に旧陸軍士官の意向が働いたとは考えられ ず、徐教授の見解に従えば改ざんは否定されることになる。」と書いている。
 これに続いて記事は本文中で李進熙の意見を次のように紹介している。

 これに対し、改ざん説を唱える李進熙・和光大学名誉教授は「新たな墨本は非常に貴重な 発見。洒匂本と同じく、最も早い段階のものだ」とした上で、「こけなどを取り除くため、 碑は1882年に焼かれている。新たな墨本の字も焼かれた痕跡が見え、それ以前ということ はありえない。抜文(新発見本の)は誇張が多く、書いてあることが正しいとは限らず、 論文は間違っている」と反論している。

記事は最後に、鈴木靖民(國學院大学教授)という学者の次のようなコメントを掲載して いる。
 墨本は縁取る時に文字をどう読むかという解釈が介在する。新発見の墨本と酒匂本の文 字が同じということは、同じ人やグループがかかわった可能性が高いことを示す。この墨 本が洒匂本より古いのなら、どちらも旧日本軍の意向とは無関係につくられたということ だろう。これで改ざん説はほとんど成立不可能となったと考える。

 すでに古田さんによって決着済みの問題に対して、いまだに「改竄説」に固執しているものと、いまさら あらためて「改ざん説はほとんど成立不可能となった」などとしたり顔をするものと、 両者のコメントはどちらも間の抜けたものと、古田さんの論考を知る私には思える。 この国の古代史学会は古田さんの仕事に対して相変わらず『「採択せず」「論争せず」「相手 にせず」の三手法をもって』(古田著「古代は沈黙せず」あとがきより)無視あるいは軽視 を続けているようだ。
 講演会のチラシに毎日新聞の記事を掲載していることから、李進熙教授が今回の講演 会(12月24日予定)でも「改竄説」を展開するのは眼に見えている。講演が相変わらず 古田説を無視したままでの「改竄説」ならば、もうそれは茶番に過ぎない。なおも「改 竄説」を展開するのであるなら、古田さんの論考を論破した上でやってもらいたいものだ。

 古田さんは今までに「改竄説」を巡って行われた調査・論考を検討しながらご自身の論考 を進めている。「改竄説」を巡る古田さんの論考は約10ページ(朝日文庫版「日本列島 の大王たち」)にわたる。例によってポイントのみの紹介をする。

「改竄説」が疑惑としている箇所の銘文は次のくだりである。

倭以辛卯年来渡海破百残□□□羅以為臣民(□□□は欠落部分)

 改竄の犯人を日本の参謀本部と見なす立場から、「改竄説」はこの中の「倭」の一字 を問題の焦点としている。
 これについての古田さんの論考は次のようだ。

 ところが「倭」の字はこの碑面に九回出現する。

  ①倭以辛卯年来   (第一面九行)
  ②百残達誓与倭和通 (第二面六~七行)
  ③倭人満其国境   (第二面七行)
  ④至新羅城倭満其中 (第二面八行)
  ⑤官兵方至倭賊退  (同右)
  ⑥⑦倭満倭潰城   (第二面九行)
  ⑧倭不軌侵入帯方界 (第三面三行)
  ⑨倭寇潰敗斬殺無数 (第三面四行)
            (今西龍の釈本による)

 この中で各種の拓本・写真等による文字のズレが指摘されたのは、先にあげた①の 個所をふくむ一部の「倭」であり、他の多くの「倭」は、それが見られないため、指 摘されていないのである。けれどもそれは改竄(もとの石の文字を削り、石灰による 造字を新たに行ったとする)が巧みに行われたため、いわばポロが出ていないように 見なされたようである。
 ところがその後、いろいろな方面から、現碑を実際に調査した観察者の報告が数々も たらされた。


 それらの報告はどれも「改竄説」を否定しているという。
 次に古田さんは王健群(中国の研究者)の論文に注目し、その詳しい検討をしてい る。特に、好太王碑に近く住み、碑に深く関わってきた人たちの証言を記録した 部分を分析して言う。
 王氏の立論は、他にも多岐にわたり、種々興味深い論点をふくんでいる。しかし、そ れは他の機会に詳論したい。
 しかし今は、次の二点を紹介するにとどめよう。

 第一
 碑下に住んでいた初天富父子が、日本人の石灰を塗ったというような事実を知って いない。また碑の周囲にいた李清太もまたそのような事件を知らない。敵対性国家 (中国)の中で、このように大規模な「石灰塗布作戦」(李進熙氏の立論の一) を行って、人々に知られずにすむなどということは、不可能である。
 第二
 日本の参謀本部やその間諜、酒匂景信の、侵略と罪悪行為を明らかにすることは重 要だ。しかし、歴史は客観的存在であるから、その歴史を研究するには、実事求是が 必須である。双鉤本や拓本の文字の異同は、初父子の歴史知識の欠如によるものであ り、歴史を改変するためのものではない。

 以上、二点とも、わたし自身の年来の主張であった。本論文をもって、好太王碑文 の改竄間題は、一つのジ・エンドをむかえたようである。
 なぜなら、従来の改竄論者は現碑にも接せず、現地の住民の証言も聞かず、ただ拓本 や双鉤本等からの類推にすぎなかった。これに対し、王論文は右の二原点に立脚した 確実、かつ安定した基礎研究だからである。


 ところで、何故「倭以辛卯年来渡海破百残」の部分がとりたてて問題にされるのか。 碑文の文字が変えられたという疑念が出てくるは、この文の解釈にナショナリズムが 絡んでいるからなのだ。
 「倭が海を渡ってきて、戦に勝ったなんていう事実はない」という主張と「やはり倭は百 済を破っているのだ。碑文は正しい」という主張が争っている。
 どちらもこの文を「倭が海を渡ってきて、百済を破った」と解釈している。ところが 古田さんの解釈はまったく違う。
403 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(55)
激動の朝鮮半島(7)―「高句麗好太王碑」(2)
2005年11月22日(火)


<4> 国境
 永楽九年(399)己亥、百残は太王への誓いに違(たが) い、倭と和通した。そこで太王 は平壌に巡下した。そこへ新羅が使を遣わしてきて太王のもとに訴えてきていう には、「倭人がその(新羅と倭の)国境に満ち、城池を潰(こわ)し破り、高句 麗の『奴客』であるわたし(新羅王)の民を(倭の)従属民としています。わた しは太王に帰属し、その命に従いたいと思います」と。
 太王は新羅王の忠誠を受け入れた。そして自分がその訴えを聞き入れたことを 新羅王に報告させるため、新羅の使を本国へ遷した。

 ここで言われている「国境」が「新羅と倭国との国境」であることはその文脈から 明らかだ。何の先入観も持たずに読む限りそのようにしか読めない。
 それは「朝鮮半島内にも、倭国の領域はひろがっていた」ことを語っている。 このことは『三国志』の東夷伝でくりかえし説かれたところと一致する。

①韓は帯方の南に在り、東西海を以て限りと為し、南、倭と接す。(韓伝)
②(弁辰)其の涜盧国、倭と界を接す。(韓伝)
③(郡より倭に至るに)…‥其の北岸、狗邪韓国に到る。(倭人伝)
④倭地を参問するに、……周旋五千余里なる可し。(倭人伝)

 『三国志』では「倭国」とは、朝鮮海峡という一衣帯水の海の「両岸」にまたがる国家 であった。もちろんヤマト王権が支配する国ではない。倭国の都は、一衣帯水の海の「南岸」 にあったのだ。博多湾岸だ。九州王朝の都である。
 この三世紀の国家関係が、大わくにおいてそのまま四世紀末、五世紀初頭まで連続されて いることを好太王碑の「国境」が示していることになる。つまり、高句麗・新羅と熾烈な 戦争を行っていたのは九州王朝であった。

<5>守墓人

 国岡上広開土境好太王は存命中、教えて次のように言っておられた。「祖王・先王は、 但(ただ)遠近の旧民だけをえらんで、守墓・洒掃(掃除)をさせておられた。 (これに対し)わたしは旧民の能力が転(うた)た劣っていることを心配し、もしわたしの 万年のちも安らかに墓を守ろうとするためには、但(ただ)、わたしがみずから軍を率いて 攻略してきたところの、韓・穢の民を使って洒掃の役にあてさせるのがいいと思う」と。

 守墓人として使役された「韓・穢の民」は奴隷とされた被征服地の民いわゆる「生口」であ る。
 好太王碑は「勲績碑」だから、はなばなしい戦果を書き連ねている。「任那・加羅」 を制圧下に置いたという記事もある。しかし、上記の「生口」には「任那・加羅」の民は入ってい ない。この件について古田さんは次のように読み解いている。

高句麗軍はいったんは「任那・ 加羅」を征圧下においたのである。
(中略)
 しかるに後半の「守墓人」の段になると、「任那・加羅」は、その守墓人の地に入れられ ている形跡がない。また「安羅」も、その名が出ていない。――ということは、これらの地 帯は結局、高句麗軍の支配下に入らなかった。いいかえれば、結局、高句麗軍はこれらの地 から撃退された。翻せば、最後はこの地帯では高句麗軍は倭軍とその同盟軍に敗退したこと が(全体の構文の中に)実は暗示されている。
 けれどもこの石碑は「勲績碑」であったから、それらの敗退戦については、ここに刻され ていない。――そのように理解すべきであるように、わたしには思われる。
 このような理解は、次の史実の光を混迷の暗影の中にクツキリと浮かび上らせる。――の ちの「任那日本府」「安羅日本府」の地は、好太王の遠征軍を撃退し、倭国軍に属する地と して(六世紀中葉までは)保全された。この重大な帰結である。

 それでは次の「神功紀」の説話は好太王碑の記録とどのように関わるのだろうか。
(神功摂政四十九年)春三月、荒田別(あらたわけ)・鹿我別(かがわけ)を以て将軍と 為す。即ち久?(てい)等と、共に兵を勒(ととの)へて度(わた)り、卓淳 (たくじゅん)国に至りて、将(まさ)に新羅を襲(おそ)はむとす。時に或(あるひと) の曰く「兵衆少くぱ、新羅を破る可からず。更復(また)、沙白(さはく)・蓋廬(かふろ) を奉り上げて、軍士を増さむことを請ふ」と。即ち木羅斤資(もくらこんし)・沙沙奴跪(ささぬき)(是の二人は、其の姓を知ら ざる人なり。但(ただ)し木羅斤資は百済の将なり。)に命じて、精兵を領(ひき)ゐて、 沙白・蓋廬と共に遣はしき。倶に卓淳に集ひて、新羅を撃ちて破る。因りて、比自?(ひしほ)・南加羅・?(とくの)国・安羅・ 多羅・卓浮・加羅、七国を平定す。仍(よ)りて兵を移して、西に廻りて古奚津(こけいのつ)に至り、南蛮の 忱彌多礼(とむたれ)を屠(ほふ)って百済に賜ふ。
 是に、其の王、肖古及び王子貴須(くゐす)、亦軍を領(ひき)ゐて来会す。時に比利・辟中 ・布彌支(ほむき)・半古(はんこ)の四邑、自然に降服しき。
 是を以て、百済の王父子及び荒田別・木羅斤資等、共に意流村(おるすき)(今、州流 須祇(つるすき)と云ふ。)に会ひぬ。相見て欣感す。礼を厚くして送り遣はす。唯、千熊 長彦と百済の王とのみ、百済国に至りて、辟支山(へきのむれ)に登りて盟(ちか)ふ。復(また)古沙山(こさのむれ) に登りて、共に磐石の上に居す。
(中略)
即ち(百済王)千熊長彦を将(ひき)ゐて、都下に至りて厚く礼遇を加ふ。亦久?等を副(そ) へて送る。
(「?」はテキストファイルでは表記できない漢字です。)
402 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(54)
激動の朝鮮半島(6)―「高句麗好太王碑」(1)
2005年11月18日(金)


 古田さんが次に取り上げたのはかの有名な好太王碑だ。と言っても、好太王碑 についての私の知識は教科書程度だから、その碑文を詳しく知るわけではない。 だからこそというべきか、「三国志」「三国史記」を併用しながらの 古田さんの明快な碑文読解がとてもスリリングだ。

 「好太王碑」の碑文は1800字余。古田さんのその読解は50ページ(朝日文庫版)に 及ぶ。論証部分を省いて、古田さんが読み解いた「事実」のポイントのみを列挙 する形で紹介することにする。なお、引用の碑文は古田さんの口語訳であり、『 』内の文章は 古田さんのコメントである。

<1> 書き出し―高句麗王家の出自

 おもえば昔、始祖鄒牟王(在位紀元前37~同20)が基を創めたときのこと、 王の出身は北夫余の地であった。父は天帝、母は河伯女郎であった。卵を 剖(さ)いて地上に降り、この世に生れきたったのである。

 『高句麗王家の出自は夫余から高句麗にかけて流れている河の水利権をにぎる 家族、その中で成長してきた神話であろう。』

 『北夫余の中心の神に対し、いったん「天帝」と漢語で表現するとき、見のが しえぬ問題が生ずる。なぜなら中国における「天子」とは、天帝から天命を受け た子の意味である。したがってこの碑文は、中国の天子と相並ぶ存在、そのよう に自家の始祖を、やがては代々の高句麗王を見なしているのだ。』

<2> 高句麗と「百済」「新羅」との関係

百残(百済)や新羅は、もと(高句麗の)属民であった。そこで由来、朝貢して きていた。

 『三世紀の馬韓が、四世紀の百済の前身。三世紀の辰韓が四世紀の新羅の前身 であったこと、それは周知のところだ。
 そのため、百済は新羅を旧属地と見なしていた。したがって、高句麗は新羅を もって、属地たる百済の、さらに属国の地、そのように見なしたのではあるまい か。
 これはもとより、百済と新羅側からは、心外な見地であろう。高句麗側の手前 勝手な論理に見えているであろう。しかし、好太王碑の「旧(もと)、是れ属 民」の一節、それはこのような高句麗側からの論理をしめしたものなのではある まいか。
 実はこの点、刮目すべきl点がある。その高句麗側からの論理の目からしても、 「倭は旧、是れ属民」とは一切、記されていないことである。倭は、高句麗・百 済・新羅たちとは、全く別種の民―そのように見なされているようである。
 これが五世紀初等(建碑時点)の高句麗側の判断だ。金石文という第一史料の 明示する基本認識である。』

<3> 倭との交戦

倭が辛卯年(391あるいは331)に(百済・新羅の地に)やって来た。 (そこで王は)海を渡って百残を破り、新羅(と共に)、これを臣民としたので ある。

 このときの倭軍の来襲は、一体どのような背景かち生じたものであろう。
 高句麗本紀(国壌王の項)によると385~389年の間、高句麗と百済が相互に侵犯 し合っていた状況が知られる。そして391年の項によると 『新羅王は高句麗王に人質をさし出し、両国間に同盟関係を結んだ、というので ある。このときの新羅王は奈勿王(在位356~401)である。その奈勿王の治世、 新羅は倭人のたび重なる侵寇に悩まされていた。』
その様子もまた、新羅本紀にリアルに記録されている。「新羅―倭」間は不断 の緊張関係のさ中にあり、新羅が北の高句麗との同盟を望んだその背景が明らか だ。

 そしてこの新羅の奈勿王の364~393年の期間、百済はあの七支刀の近肖古王 (在位346~374)、およびそのあとの四代に当っていた。「七支刀」の銘文の 「百済と倭との友好が永く後世に伝えられるように」という末尾の文の通り、 両国の同盟は、右の期間も一貫して強固だったと考えられる。
 『その上、好太王の晩年(405~411)に当る百済王は、腆支王(405~419) だった。この王は、王子時代倭国に人質となり、その後、倭王の友好に守られ つつ、人質の地から帰国して王位についた、というあの王だったのである。
 以上によってみると、好太王の即位直前において、すでに「高句麗―新羅」 対「百済―倭」という対立関係、それが抜きさしならぬ状況にあったことが知ら れる。
 したがってこの碑文のしめす国家関係、それが文字通り真実(リアル)である こと、それは疑いえないように思われる。』

401 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(53)
激動の朝鮮半島(5)―「七支刀」(3)
2005年11月15日(火)


<6>「倭王旨」
 魏志倭人伝の「壱与」という女王の名称の「壱」は「倭」と同じく国名( 倭国側の自称)で「与」が名前。中国風一字名称だ。倭の五王「讃・珍・済・興・武」は 五世紀。中間の四世紀にも一字名称はあったはずだ。「旨」はその一例といえる。

<7>「伝示?世」
 ここに示された用語も踏まえて、古田さんは解読結果を次のようにまとめている。
『ここには、下賜をしめす言葉も、献上をしめす言葉もない。自国の自負と助力の切望と 混交しながらも、本質的に同列、ないし同格の立場を保った苦心の用語法だ。わたしには そのように見える。』

 七支刀の銘文そのものからは、皇国史観による「献上説」もその反動とも言うべき「下 賜説」も否定されることになる。
 では「献上説」の最強の論拠となっている「神功紀」の次の記述は何なのだろうか。

 (神功)五十二年の秋九月の丁卯の朔丙子に、久氏(くてい)等、千熊長彦に従ひて 詣(いた)る。則ち七枝刀一口・七子鏡一面、及び種種の重宝を献る。

 「古事記」の「応神記」に次のような記事がある。

また百済の国主照古王、牡馬壱疋、牝馬壱疋を阿知吉師に付けて貢上(たてまつ)りき。 また横刀(たち)また大鏡を貢上りき。

 この「横刀」は腰につける佩刀であって「七支刀」ではありえない。そして最も重要 なことは「古事記」の「神功記」には「七支刀」の記事はないということだ。今までの 論理と同様、「記紀」の史料性質からは次のような結論しかありえない。すなわち
『ない方が原形か、ある方が原形か。やはり、天皇家の説話の書である『古事記』が、 このようにはなはだしい献上記事をカットする。それは考えがたい。とすれば、 『古事記』の方が原形、『日本書紀』の方が、他からの挿入形。そのように考えるほか はない。
 では、その他とはどこか。前述来の論証、また後述の論証のしめすように、それは九 州王朝しかない』

 最後に、「七支刀」銘文の解読を、古田さんは次のように締めくくっている。

 第一。戦前の皇国史観以来の「献上説」、それは金石文そのものの解読からも、『日本書紀 紀』に対する史料批判からも、否定されねばならぬ。

 第二。「下賜説」は、右に対する否定、ないし挑戦として出現した。その研究史上の意義 は十分評価すべきだ。だが、金石文自身のしめす事実とは一致しなかった。

 第三。これに対し、支持さるべきは「対等説」だ。金石文自身のしめすところ、それ以外 にありえないのである。

 第四。もう一つの肝心の点。それはここに現われている「倭王」が、近畿天皇に非ず、九 州王朝であることだ。これはこの金石文自体からではない。「倭の五王」はどの王朝か、こ の問いに対する答えによって、はじめて確固とすべきものである。

 (『日本書紀』における「七支刀」記事が、「卑弥呼」や「壱与」と同一視された神功皇后の項に 入れられていること、この年代上の錯誤も、この「七支刀」記事が、本来近畿天皇家に非ざる一 傍証となろう。)

 以上によって、この七支刀が、四世紀後半における百済と九州王朝との間の国交をしめす、 重要な金石文であることをしめしえた。


 「倭の五王」については後ほど詳しく取り上げることになるだろう。
400 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(52)
激動の朝鮮半島(4)―「七支刀」(2)
2005年11月11日(金)


 「七支刀」の銘文についての古田さんの読解をかいつまんでまとめてみよ う。

<1> 「泰和四年」
 前回紹介したように岩波版口語訳は「369年」としている。480年説・468年説などあるよ うだが「369年」が定説になっている。「東晋」の「泰和4年(369)」とする説 である。これに対して異論はこれを「北魏」の「太和4年」とする。古田さんは 詳しい論証の結果、定説の方を採っている。それは『この七支刀が当時の「東 晋-百済-倭」関係を証言する貴重な金石文であること』を示している。

<2> 「侯王」(「侯」は原文では「危」の「厂」の中が「矢」という字)
 この銘文が「東晋」の年号から書き始められているということが重要なポイン トとなる。「侯王」とは東晋の天子の配下の侯王ということになる。年号の使い 方から見ても、この銘文の文章の原点は中国の天子ということになる。つまり この文面では、「百濾(百済)王」と「倭王」は同格である。両者とも中国の天 子の配下の侯王ということである。
 侯王を百済王の配下と見なし、この七支刀を「百済王が倭王に下賜した刀」 であるとする説を退ける理由を、古田さんは次のように述べている。

これは無理だ。なぜなら、もしそうなら、冒頭が「百済王、誰々の何年」と いった形で書きはじめられねばならぬ。ところが事実はさに非ず。東晋の年号 からはじまっている。これに対し「今は亡われた百済年号に、泰和があったの だろう」などというのは、不当だ。なぜなら、金氏がそういうアイデアをい だくのはよい。ならば、それを実証すること、それが学問に肝要だ。それなし に、〝このアイデアにわたしは立つ。だから……″というのでは、立論の根本 を臆測にゆだねることとなりはしまいか。
 もし、それも〝仮説に立つ学問として当然の方法″と称するとしよう。 ならば『三国史記』の百済本紀を見よう。そこには「百済王(君)-倭国 (臣)」といった関係は、全く書かれていないではないか。百済王は倭国へ しばしば人質を送っている。君主国が臣従国に人質を送る、そんな話がありえよ うか。聞いたことがない。百済王は、高句麗や新羅と対抗する上で、倭王側 の支援を必要とした。そのための苦肉の策だったのではあるまいか(高句麗 にも人質が送られたことがある)。
 百済本紀は、統一新羅が滅ぼした百済の遺存史料によって編集したものだ (それを高句麗がうけついだ)。そこにさえ現われていない新関係を、後代 の歴史家が造作することそれは許されるところではない。

 また古田さんは当時の東アジア世界の大勢を俯瞰しながら、次のように論述し ている。
(その一)倭王が「使持節・都督・倭・百済、新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓 七国諸軍事・安東大将軍・倭国王」といった類のユニークな称号を創作し、結 局(百済を除いて)中国側に承認させたことは有名だ。
 これに対し、百済王の場合、たとえば「使持節・都督、百済諸軍事、鎮東 将軍・百済王」(余映)のごとくであって、めずらしくはない。
 もしこれで、倭王の将軍号の方が百済王より上だったら、完全に「倭王-百 済王」の順となろう。
 中国側は、いわば巧みにバランスをとって授号していたのではあるまいか。 そこに授号によって東夷の諸王をあやつる妙味が存在したのではあるまいか。

(その二)『南斉書』によると、百済王牟大も倭王武も、共に「鎮東大将軍」と なり、将軍号においては、完全に並んだ。

(その三)しかし『梁書』によると、百済王余大は「征東大将軍」、倭王武は 「征東将軍」となって、ふたたび旧に復した。しかし倭国伝によれば、南斉代 以来の、例の「六国諸軍事」称号は継続しているように見える(削除記事なし)。
 その後の梁・陳朝では、倭国記事が遺存していないため、序列問題は判明 しない。おそらく、中国側の授号による東夷の諸王操縦術は継続していた。そ のように見なして、おおよそ大異はないのではあるまいか。

 状況は以上のようだ。ともあれ確実なこと、それは百済王と倭王は、東夷の 諸王として同列であり、支配(主)と被支配(従)の関係ではないという、こ の一点だ。そのような主従関係は、『宋書』『南斉書』からも、一切うかがえ ぬ問題だ。


 七支刀の銘文読解の第三のポイントは

<3> 「供供」
 この七支刀を東晋の天子から、百済王を介して倭王に下賜した刀と説がある。 古田さんは、「供供」と動詞を二重に重ねる語法が中国語には存 在しないことから、この説も退ける。

 これらの論者が二重動詞を中国の文例から提示され得ないならば、やはり 百済製と見なす他ないであろう。百漆王問題(後述)も、これを裏づける。
 また「供供」自体の意味も重要だ。これは下賜でもなく、献上でもない。 通常の対等者間の丁重の詞として適切だからである。

  供、進なり。(『広雅』釈詁)
  供 - すすめる (諸橋『大漢和辞典』)

といった義であろう。
 もちろん、この動詞自体には、年号や侯王問題ほどの、鋭利な論理性はない けれど、同列者間の丁寧語としてふさわしいとは、いいうるであろう。


<4>「百済王・世子」(「済」は原文では慈にサンズイをつけた字)
 この文字(慈にサンズイをつけた字)を古田さんは「佳字」と解している。 高句麗の好太王碑では百済のことを「百残」と記しているのと対比している。

『「残」は「残賊」(『孟子』)。大義名分に反する者の意』

「音(おん)」と共に「意」を加えることができる漢字の特性が利用されてい る。この用字に関連して古田さんは「「百済王が倭王に献上した」とする説を 否定する。

 音も近いのだろうけれど、それと共に慈悲の慈にサンズイをつけた字を使って いる。水辺の国の意か。ともあれ、夷蛮名に卑字を用いるを好んだ中国側の用 字とは思われない。やはり、百済王側の用字、そのように見るべきではあるま いか(またこれが「百済」の字形であったとしても、「済」はすくうの意である から、やはり佳字の部類に属しよう)。
 しかも、倭国に贈る七支刀にこの文字を使っているのだ。とても、「倭王 (上位)-百済王(下位)」どころではない。この点、下賜説の非と同じく、 「百済王が倭王に献上した」という献上説(戦前からの定説派の立場)など、 とんでもないのである。
 倭王にこれほどの異形の刀を特鋳(「先世以来、此の刃有らず」)して贈る こと自体、いかに百済王が倭王の助力を必要とし、切望していたか、その証拠 だ。だが反面、百済王は確固として自国の誇りを明らかに顕示しているのであ る。文字使用の妙だ。

<5>「聖晋」
 岩波文庫版は「聖音」としている。榧本杜人という学者(中国の学者か) の詳細な字形研究によって、「晋」が提起されたという。古田さんの見解。
もしこれが非であったとして(聖音などであったとして)も、冒頭の年号を 東晋の泰和と見なす限り、大筋に変化はない。
399 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(51)
激動の朝鮮半島(3)―「七支刀」(1)
2005年11月1日(火)


 さて古田さんはまず、316年以後の朝鮮半島の情勢のうち倭と百済との関係 を石上神宮に保存されている「七支刀」に刻印された文章から読み解こうと する。

(表)
泰和四年五月十六日丙午正陽、百錬?の七支刀を造る。?百兵を辟く。 宜しく侯王に供供すべし。????の作。
(裏)
先世以来、未だ此の刃有らず。百済王・世子、聖晋に寄生す。故に倭王旨の 為に造る。?世に伝示せんことを。

 古田さんの口語訳。
(表)
泰和四年五月十六日の丙午正陽に、くりかえし鍛え抜いた七支刀を造った。お びただしい軍兵をしりぞける(に足りる霊力をもつ)。これは(中国の天子の 外臣たる)侯王に供するにふさわしいものである。某々作。
(裏)
先の世以来、かつてこのような(じん)(ほこ) はなかった。百済王とその世子は、聖晋のもとにその生を寄りどころにしてい る。故に(同じ東晋の天子の配下の侯王たる)倭王の為に造った。伝えて (後)世に示さんことを。
 ちなみに、岩波文庫版「三国史記倭人伝」所収の口語訳や次のようになってい る。
(表)
泰和四年〔三六九〕五月十六日の丙午正陽に、百たび鍛えた鉄の七支刀を造っ た。すすんでは百たびの戦いを避け、(うやうや) しい侯王(が帯びるの)にふさわしい。
(裏)
先の世からこのかた、まだこのような刀はない。百済王の世子貴須は、特別に 倭王旨のために造って、後の世に伝え示すものである。

 古田訳の( )内の補足文は古田読解の焦点を表しているようだ。とくに 岩波版口語訳との対比で著しい違いを指摘してみる。おのずと訳者の知見あるいは その拠って立つ学説の違いが明らかだ。

第一点
 古田さんが「(中国の天子の外臣たる)侯王」と言っているところを岩波訳では 「供供」を「恭恭」と同義として「恭しい侯王」とし、をことさらに七支刀の 送り主を卑下させている。
第二点
 古田訳では「七支刀」はいわゆる「刀」ではなく(ほこ)と言い添えている。 (表)文でも(霊力を持つ)と註して、単なる「武器」ではないことを示そうと している。岩波訳は単に「刀」で済ましているが、原文の注記では「神功紀」の 記録する七支刀であると断定している。
第三点
 古田さんが「百済王とその世子は、聖晋のもとにその生を寄りどころにして いる。」と訳している部分が岩波訳とは最も著しく異なる。
 原文の「百済王世子。寄生聖>。」を岩波版は「「百済 王世子。寄生聖。」と記録している。そして「寄生聖音」を 「百済王世子」の名前と解しているようだ。どうしてそれが「貴須」なのかは 詳らかではない。

 ここで「七支刀」の映像を美術全集(「原色日本の美術」)からコピーしよ うと思ったが、原像が大きすぎてだめ。インターネットで探すことにした。最初の ヒットサイトを訪問したところ、なんと!、「朝鮮日報」のサイトだった。 「七支刀」の写真とともに、ユ・ソンクジェという記者の署名記事(2004年1月2日) が添えられていた。ついでなので写真とともにその記事も掲載しよう。

七支刀
実物「七支刀」、10年ぶり日本公開へ

 韓日古代史の謎を解く鍵として知られている「七支刀」の実物が日本で公開 される。

 日本の奈良国立博物館は七支刀など、石上神宮に伝わる遺物を展示する 「七支刀と石上神宮の神宝」特別展を4日から来月8日まで開催する。今回の 七支刀の展示は1993年以来、約10年ぶりとなる。

 長さ74.9センチの鉄製の七支刀は、369年に造られたものと推定されている。 刀身の左右に三本ずつの枝刀が出ており、計7本の刃を成していることからこう した名前が付けられた。

 韓国では「侯王が所持するのに相応ししものである」という銘文などを根拠 に、百済の近肖古王が倭王に“下賜”したと認識されている一方、日本では 『日本書紀』を根拠に百済が倭王に“献上”したと認識されており、両国間 で争点となっている。

 ユ記者は客観的で冷静にナショナリズムに絡めとられた学説の対立を報じてい る。古田さんの解読は果たしてどのようだろうか。