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398 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(50)
歴史を学ぶときの基本姿勢(2)
2005年10月31日(日)


 これまでの論調をかえりみて、私がことさらに「九州王朝」に肩入れをして いるような印象を与えているのではないかと危惧している。もちろん、「九州 王朝」に肩入れする理由も義務のない。私たちは歴史の真実をナショナリズム でゆがめることを排するとともに、「支配者の歴史」を棄揚しなければならな い。思えば、ナショナリズムとは要するに「支配者の思想」なのだ。「時代の支 配的な思想は支配者の思想である。」

 史書で次のような叙述を読むとき、私は気が重くなり、同時に憤怒の思いが 心の底から湧き上がってくる。

 景初二年(238)六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献 せんことを求む。太守劉夏、使を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ。 そ の年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。 帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を 送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉り以て到る。汝がある所遥か に遠きも、乃ち使を遣わし貢献す。これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。今 汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮綬せ しむ。汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ。」

 その四年(243年)、倭王、また使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わし、 生口・倭錦・絳青けん・緜衣・帛布・丹・木?・短弓矢を上献す。掖邪狗等、 率書中郎将の印綬を壱拝す。

 壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。 因って台に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二牧・異文 雑錦二十匹を貢す。(「魏志倭人伝」より)


 中国に貢献する度に物品とともに献上していた「生口」とはなにか。もちろん 奴隷以外の何ものでもない。奴隷でも特に征服した国から徴用あるいは拉致した 奴隷を指すらしい。この奴隷の献上は魏志倭人伝が記録する年代よりも100年以 上も前から行われていた。

安帝の永初元年(107年)、倭の国王帥升(すいしょう)等、生口百六十人を献 じ、請見を願う。 (後漢書・倭伝)


 奴隷ではない一般人民はどうであったか。

下戸大人と道路に相逢へば、逡巡して草に入り、辞を伝へ、事を説くに或は蹲り、或は 跪き、両手地に拠る、之を恭敬と為す、対応の声「噫」と曰ふ、比するに然諾の 如し。(魏志倭人伝)


 厳格な階級格差のなかで、一般人民は支配階級にまさに奴隷的に隷属してい る。これらの記録から浮かびあがってくる古代国家は奴隷制国家以外の何もの でもない。そういう意味では「九州王朝」であっても「ヤ マト王権」下の王朝であっても否定さるべき国家でしかない。

 古来、文字は支配者の独占するところのものであった。文字で書き残された 歴史は「支配者の歴史」である。それを被支配者の眼で見直し、歴史の底に隠 されたものを見抜く必要がある。私は歴史を学ぶとき、その観点を常に想起す るよう努めている。なぜなら、今なお人類は「支配―被支配」という下等なシ ステムを棄揚できていないのだから。

 賃金奴隷。久しく使われなくなってしまったが、労働者は相変わらず 賃金奴隷である。これは厳然たる事実だ。このことから眼をそむけるのは止そ う。もしかすると、現今の労働者は資本主義初期の頃以上の賃金奴隷に貶めら れているのではないだろうか。支配階級の戦略に乗せられて労働者同士が 足を引っ張り合い、労働組合を弱体化してしまったツケが今露わだ。

 人類が「支配―被支配」という下等なシステムを棄揚できていないかぎり、 被支配者の立場を堅持することが人としての真っ当な生き方だと、私は思って いる。そして何よりも紛れもなく私は被支配者のひとりなのだから。

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397 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(49)
歴史を学ぶときの基本姿勢(1)
2005年10月26日(水)


 「激動の朝鮮半島」を続ける前に触れておきたいことが出できた。2回にわ たってそれを挿入する。

 網野善彦さんと川村湊さんの対談「列島と半島の社会史」(「歴史とし ての天皇制」所収)を拾い読みしていて、特に気になったことが二点あった。

川村
 坂口安吾は他にも、高麗神社のこととか、『夜長姫と月男』の中で飛騨 工の話などを扱っていて、かなり特異な精神世界を描き出しています。小 説家のいっていることだからといって排除するのではなしに、もっといろ いろ検討されてしかるべきだと思っているんです。松本清張や司馬遼太郎 といった人たちの発言、古田武彦の所説などはぼくにはとても興味深いと ころがあります。

網野
 その通りだと思いますね。実際小説家のほうが視野が広くて、問題 を鋭く捉えている場合が往々にしてありますよ。


 小説家たちの想像力が引き寄せる真実性を否定はしない。例えば以前にも 触れた「火怨」(高橋克彦著)などはもう立派な歴史書だと、私は思ってい る。しかし、古田さんの所説は単なる想像力の産物ではなく、史書の論理的 で緻密な解読の結果である。「松本清張や司馬遼太郎といった人たちの発言」 と一緒くたにして、「とても興味深い」という感想程度で済まされるべきでは ないと思う。古田さんの所説の卓越性が分からないとは、川村さん、本当に 古田さんの諸著書を読んだのかねえ、と疑わざるを得ない。

 大方の学者たちは「興味深い」とさえ言わない。古田さんの研究をまったく 無視して、相変わらず、古田さんが批判しつくした定説という範疇で砂上の 楼閣を築くことに汲々としている。



川村
 ○×で済むんだったら歴史家は悩む必要はないですね。
韓国の歴史の教科書でも、「任那」という言葉は一切出てこないんです。 こういう説があることを、まったく無視して書くわけです。高校生のレヴ エルでもそうで、大学へ行って少し専門的に勉強して初めてこんな説があ ったのかとびっくりする学生がいるらしいですね。真偽はともかく「一 説」「一書」の存在は明らかにしておいた方がいいと思うんです。そうい う状態だと、日本の問題だけではなくて、向こうの問題もあると思います。

網野
 もちろん近代史については日本の責任が重大であることは間違いな いけれど、やはり双方を隔てているナショナリズムの問題を、双方がどう 超えていくかが問題だと思いますね。実際、朝鮮半島と日本列島の人間社 会は双方の交流の中で、それぞれに「民族」を形成してきたのですから、 その過程を中国大陸との関係を含めて冷静に追究してみる必要があるので、 双方で、「民族」とは何かということを、歴史的学問的に明らかにしてい けば、ナショナリズムを超えた新しい地平を拓く見通しが出てくるのでは ないでしょうか。


 『朝鮮半島と日本列島の人間社会は双方の交流の中で、それぞれに「民族」 を形成してきたのですから、その過程を中国大陸との関係を含めて冷静に追 究してみる必要がある』という指摘を、わが意を得たりという思いで読んだ。 いま取り上げているテーマ「激動する朝鮮半島」はまさに「朝鮮半島と日本列 島の人間社会」双方の交流を「中国大陸との関係を含めて冷静に追究して」い るのだ。

 またナショナリズムに呪縛されたままで歴史を取り扱うことがもたらす弊害が 危惧されているが、この種のナショナリズムがからまる問題は諸所に湧出する。 その一例を古田さんの著書から引用する。

 たとえば、最近新聞紙上等をにぎわした〝朝鮮半島における前方後円墳問題″ も、そうだ。それが確かに「前方後円墳」なのか、それとも「円墳」の連結形 等なのか、もちろん、今後の論争もしくは発掘をまたなければならないけれど も、いずれにせよ、重要なこと、それはこの地帯(韓国南部の固城や咸安地方) が「倭地」と見なさるべき領域だ、ということである。

 なぜなら、これに先立つ弥生期、洛東江沿いに広く、また奥深く「中広矛・ 広矛」「中広戈・広戈」の類が分布している。これらは博多湾岸とその周辺に 鋳型の出土する、その当の実物だ。したがってこの地帯が倭人の活躍舞台であっ たこと、それを如実にしめしているのである。

 その同一領域中にあるのが、右の「前方後円墳」(もしくは円墳)だ。だか ら、いずれにせよ、これを倭地内のもの、として論ずることこそ、歴史家の本 道だ。

 しかも、この倭地とは、卑弥呼の倭国の後裔としての倭国だ。だから卑弥呼 の倭国が九州の筑紫(筑前)を都邑の地とする倭国であれば、四世紀以降の倭 国もまた、同じ九州の筑紫(筑後中心か)を中枢とする倭国だ。
 事実、『三国史記』においても、卑弥呼(乎) の倭国は出現している (阿達羅尼師今二十年 ― 第一巻)。そしてその倭国が主権者交替したり、 「東遷」したりしたことは、一切書かれていない。
 しかも、六世紀初頭以前の新羅本紀の倭人記事は詳密だ。だのに、宿敵倭 国の大変動を漫然と見のがし、記述しなかったのであろうか。

 このように考えてみても、四~六世紀の倭国が卑弥呼以来の倭国であること は動かない。
 ということは、何を意味するか。好太王碑の倭国は、筑紫の王者、すなわち九州王朝の倭 国である-この一事だ。


 以上のような明晰な史料状況にもとづく主張に対して大方の学者たち(あるい は歴史を学び者たち)はどういう反応をするか。

 日本では「戦前の皇国史観以来の、近畿中心主義。その骨格は戦後史学もその まま継承」しているため、その枠内だけでしか議論できない。例えば「前方後 円墳は天皇家独自の形態だ。」

 一方朝鮮側では朝鮮の学者たちが主張する「朝鮮半島内の倭地(任那や任那日 本府)架空説」に捉われて、古田説は端から否定される。

 古田さんは言う。
『この二者の間にただよう形でしか、問題提起をなしえないとしたら、両国古代 史学界の悲しむべき衰弱と停滞ではあるまいか。』

396 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(48)
激動の朝鮮半島(2)
2005年10月24日(月)


 前回「東アジアの激動を伝える記事が「記紀」には皆無なのだ。」と書いた。 ではその頃「ヤマト王権」は朝鮮半島とどのような関わりを持っていたのだろ うか。

「記紀」には「オキナガタラヒメ(神功皇后)の新羅征討」の記事がある。 これを取り上げることになる。この問題は「第358、359回(8月10日、11日)」 で取り上げた「仲衷・神功の熊襲遠征説話」の続編ということになる。また これは「第394回」に掲示した年表で、オキナガタラヒメの時代を4世紀中ごろ とした根拠を問うことでもある。

 さて、熊襲征伐で敗退した夫・タラシナカツヒコ(仲哀)の死後にオキナガタラヒメ は新羅へ向かった。そのときのことを「古事記」は次のように描写している。

軍(いくさ)を整へ船雙(な)めて度り幸(い)でましし時、海原の魚、大き小 さきを問はず、悉に御船を負ひて渡りき。ここに順風(おいかぜ)大(いた)く 起こりて、御船浪の従(まにま)にゆきき。故、その御船の波瀾(なみ)、新羅の 国に押し騰(あが)りて、既に国半(なから)に到りき。

このような誇張・虚像による描写は、説話の語り口としての常套手段なのだか ら、これ理由にこの説話全体を虚偽だと決め付けるのは妥当ではないと古田さん は言う。オキナガタラヒメの新羅行き自体は否定できない。
 しかし、この新羅征討記事でも「古事記」と「日本書紀」とでは全くそ のスケールと内容が違っている。

 『古事記』の場合、神功は新羅へ渡って新羅国王との間に平和的に国交関係を 樹立したことがのべられているだけであって、戦闘描写は全くない。
 これに対して、『日本書紀』の場合、朝鮮半島南半部各地に転戦させ、新羅 側と戦い、百済に占領地を与えた(その領有を承認した)旨が記されている。 大きなちがいだ。いずれが真実か。いうまでもない。『古事記』の方だ。 九州において、熊曽国に勝てなかったのが実体だったことはすでにのべた。 その、仲哀亡きあとの神功が、朝鮮半島で威名をとどろかしたなどとは、おこ がましい。非現実的だ。

 では、なぜ神功は半島へと敗軍を導いたのか。否、仲哀の生前から、神がか りの中で彼女は、その願望を語っていたように思われる。それは、彼女の系譜 を見ると、判明する。応神記に「天之日矛」の系譜として描かれている。

1天之日矛―2多遅摩母呂須玖―3多遅摩斐泥―4多遅摩比郵良岐―5多遅麻毛理 ―5'多遅摩此多訶―6葛城の高額比売命-7息長帯比売命(神功)
(1あめのひぼこ―2たじまもろすく―3たじまひね―4たじまひならき―5たじまもり ―5'たじまひたか―6たかぬかひめのみこと―7おきながたらひめのみこと)

 つまり、神功は、新羅の王子だった天之日矛の子孫に当っている。新羅は彼女 にとって、(母系の)父祖の国だったのである。彼女が九州に行ってその地へ行 くことを望み、さらに夫(仲哀)の死後、一段と(自分の自由意思が主導できる 状態下で)その地に行くことを欲したのは偶然ではなかった。彼女はその故国へ、 征伐などに行ったのではない。提携と国交を求めに行き、新羅および百済との間 で、それに成功したものと思われる。


 さきの渡航の描写に続いて「古事記」は、新羅王は神功に屈服し服従を 誓ったとし、

新羅国は御馬甘と定め、百済国は渡(わたり)の屯家(みやけ)と定めき

とのべている。
 全く戦闘もせぬまま、一国の国王が屈従の誓いをするなどということは、あ りえない。あの熊曽建や出雲建の暗殺譚と同じく、ここには、作られた成果の 誇示があろう。

 「ヤマト王権」と新羅とのこの関わりはオキナガタラヒメの子ホムタ(応神) の年代に外交成果をもたらしたようである。
 「応神記」の中に新羅や百済との国交・往来を伝える記事がある。これに ついて古田さんは「神功の平和的国交の樹立は、憎悪の連鎖の相乗効果を生 みやすい戦争や征服とは、別種の永続的な効果をもたらしたもののようであ る」と述べている。
 その百済との関わりの記事の中に次の一節がある。

亦、百済の国主(こにきし)照古王(せうこおう)、牡馬(おま)壱疋(ひと つ)、牝馬(めま)壱疋(ひとつ)を阿知吉師(あちきし)に付けて貢上 (たてまつ)りき。

 この中の「照古王」は「肖古王」のことである。百済の歴代には二人の肖 古王がいて、初代の肖古王(古肖古王)は在位166年~222年、二代目の肖古 王(近肖古王)は在位346~374年。「応神記」の「照古王」はもちろん後者 である。これがオキナガタラヒメの年代を四世紀中ごろとした根拠の一つで ある。(ホンタは四世紀末ごろということになる)


395 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(47)

激動の朝鮮半島(1)

2005年10月21日(金)



 『三国史記・新羅本紀』(岩波文庫版)の「倭人伝」の最初の記事は次の通りである。

 倭人、兵を行(つら)ねて、辺(へん)を犯さんと欲す。始祖の神徳有(あ)るを聞きて、
乃ち還る。(第一、始祖赫居世居西干八年条)

 BD50年のことである。以下ほとんどが侵略してくる「倭国」との血みどろの攻防の記事が続く。最後の記事はAD802である。

(以下、古田武彦「日本列島の大王たち」による。)

 さて316年の西晋滅亡の前夜の朝鮮半島の情勢はどうだったか。
 『三国志』の東夷伝によれば、北方では高句麗が魏と交戦している。これは毋丘倹(かんきゆうけん)の高句麗遠征を記した石碑(残碑)にも明らかだ。それのよると、魏の幽州の刺史、毋丘倹が高句麗王の位宮を西安平(地名)に破り、さらに長駆して日本海岸にまで達したという(魏志毋丘倹伝)。244年のことである。高句麗伝によれば、その高句麗王は西晋代にも在位していたことがわかる。

 一方、南方では魏と和親した「親魏倭王」の国、つまり博多湾岸とその周辺 を都城とする邪馬一国=倭国が北に対峙していた。倭人伝によれば、壱与が西晋朝に貢献したのは266年であった。

 316年、新興匈奴(前趙)の劉曜が西晋の都、洛陽と長安に侵入し、西晋第四代の天子、愍帝(在位313~316)はこれに降服した。この西晋朝の滅亡が、東アジア世界に与えた衝撃は絶大だった。東アジアの政治・軍事上の力学的関係に激変をまねいた。
 西晋朝の滅亡後、元帝(在位317~322)が建康(今の南京)に東晋朝を建国したけれども、華北方面には、いわゆる五胡十六国が相次いで建国され、いわゆる南北朝の時代に入っていた。したがって朝鮮半島の楽浪郡・帯方郡は、形式上は東晋朝に属しながら、実際は、政治上・軍事上において空白、もしくは亀裂を生ずることとなった。東夷諸国はその激動の坩堝の中に入った。北の高句麗と南の倭国が激突し、百済と新羅がこれに連動して敵対する。朝鮮半島は一大修羅場と化したのであった。

 ところがこの東アジアの激動を伝える記事が「記紀」には皆無なのだ。「記紀」はヤマト王権が4世紀代において既にヤポネシアを代表する王家であったと見せかけることに汲々としているが、こような重大事変の記録の欠如は一体どうしたことか。もちろん、このころの「倭国」とは九州王朝のことだからだ。


394 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(46)
新たなテーマ
2005年10月19日(水)


 ヤポネシア列島の古代史に関して、これまでに興味の赴くままにいろいろな説に出会ってきた。しかしどの説も、部分的には納得できるものがあるにはあったが、全体的にはかなり恣意的な仮説で成り立っている脆弱なものとしか私には思えなかった。
特に、出世のためかどうかは知らないが、師事した教授の学説(いわゆる学閥)から一歩も出られない学者たちには落胆するほかなかった。

 しかし古田さんの解明した古代史には、その強固な論理性と考古学上の諸発見との 整合性において、私にはもっとも信頼できる論究と思える。もちろん、研究の進展につれて修正されていく事項は多々あるだろうが、大筋においては古田古代史は真実に迫っていると思う。これまでに知り得た古代史を大筋を素描してみよう。


 「<共同幻想>がどんな意味でも血縁的な共同性から独立にあらわれた」村落社会を「初源の国家」と考えたとき、その起源の年代はどこまでさかのぼれるだろうか。少なくとも、縄文時代と呼ばれていた時期には「初源の国家」は形成されていたであろう。ヤポネシア列島の各地にそれぞれ独自の国家が形成されていたであろうことは、ごく当たり前の想像力があれば容易に推測できることだが、近年目覚しい発見が続いている各地の遺跡調査の結果からもそれを裏付けることができる。



 文字で書き残された史料「記紀」からたどれる最古の国家は「オオクニ」だった。その論証は省くが、「オオクニ」は縄文国家であった。

 一方、朝鮮半島―九州間の島嶼に根拠を置いた「アマクニ」(「アマ=海人」だろう)は朝鮮半島・北九州・中国地方を結ぶ人や物や文化の往来の中継点の役割を果たしていたに違いない。朝鮮経緯で伝えられた弥生文化の先進国として発展した。

 やがて「アマクニ」が「オオクニ」を継承する形で北九州・中国地方を領有し、弥生文化を骨格とする「王朝」を形成した。「倭」である。

 以下、アナボコだらけだが、全体像をつかむため、年表風にまとめてみる。


古代史年表
(より詳細な年表を作りました。リンク方式で、それと差し替えました。(2007年6月19日))


 さて、古代史の全体像は「九州王朝」→「ヤマト王権」という覇権移動がどうして起こったか、という問題を解くことで完成するだろう。
 この問題を解く鍵は、上の表の「316年 西晋滅亡」という事件が握っているようだ。そしてそれは4~6世紀ごろの倭国と朝鮮との関係の解明が鍵であることと同義である。「肖古王」と「オキナガタラヒメ」との関係にも言及することになるかもしれない。


393 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(45)
最古の政治地図「オオクニ」(4)
2005年10月16日(日)



 「第390回(10月7日)」に掲示した地図を再度載せる。

大国

 この「オオクニ」の「政治地図」には、中央の海域部分が空白になっている。 つまり、「アマクニ」部分がない。この〝「天国」部分空白″の謎を古田さんは 次のように分析している。

 まず注意しよう。ここに示されているものは、「大八洲国」と同じく、「政治 地図」であって、「自然地図」ではない。ここに示された地域しか〝知らなかっ た″わけではない。〝勢力範囲におさめていた領域″だけを記しているのであ る。

 この大国は、自己の根拠地たる出雲以外に、朝鮮半島釜山近辺たる韓(加羅) の地と、博多湾岸とその山地周辺に当る三点(糸島郡付近。白木原付近。太宰 府・基山・久留米付近)を、その〝勢力下″におさめていたのだ。つまり、朝 鮮半島から日本列島に至る、あの幹線道路の始発点と終点をおさえているのだ。 だが、それらはいずれも「点」にすぎず、〝狭い領域″だ。博多湾岸近辺も、 この三点に分かれている。だから、これら〝小領域″に比べて、自己の本拠 (面)を「大国」と誇称したのではないだろうか。

 ところが、問題はつぎだ。右の始発点と終点の間に横たわる、〝対馬・壱岐を 中心とする天国(あまくに)部分″は、〝政治的に″この地図から欠落している のだ。
 逆に、この同一時点において、この同一状態を「天国」側から見てみよう。自 己の占有する海上の島々、それは東は隠岐島、南は姫島、西は五島列島と、かな りの海上領域を占有している。しかし、その周辺の〝大きな陸地部分″は、〝未 だ支配下にない″のだ。 ――これこそ「天孫降臨以前」の状況にはかならない。

 そして〝新しい勢力の拡大″を求めて〝博多湾岸とその山地周辺″(葦原中 国)を割譲することを、その地への支配権をすでにもっていた大国主神に迫 った。これが「天孫降臨」にさいしての「国譲り」交渉の地理的背景なのではあ るまいか。
 だから、二二ギが「筑紫の日向の高千穂のクシフル峯」に〝天降った″とき、 そこは無人地帯、あるいは「無神地帯」だったわけではない。古きソホリの神を 信ずる人々、出雲の大国主神の支配下にいた人々の住む地域だったのである。し かも、その隣なる笠沙の地、それは「白日神」のいる所であり、その背後には 「聖(日後(ヽしり))神」のいる所があった。すな わち、太陽信仰の聖地であった。その土地は「天国」の部族と、なんらかの宗教 的な親縁関係をもっていたのではなかろうか。


 「記紀」がはからずも記録していたヤポネシア列島の一角における古代国家の 盛衰史を、「記紀」記述の範囲内での最古の国家までたどり終えて、古田さんは 次のように述懐している。
 わたしは近畿天皇家の『記・紀』神話を探究して、その中に九州王朝の神話を 見出した。そして今、さらに、その九州王朝に先在した、出雲の神々とその神話 に相逢うこととなったのである。
 これは決して近畿天皇家配下の一豪族の説話などではない。天照大神以前の 古えから、その政治地図の示す領域に、独立した主権を誇っていたのであるか ら。
 それ故、わたしはこの日本最古の王朝に対し、今、「出雲王朝」の名を呈しよ う。そしてわたしの『記・紀』探究の旅を終りたいと思う。

 私は「オオクニ」→「アマクニ」という古代国家の変遷を「ヤポネシア列島の一角 における古代国家の盛衰史」と書いた。文字による記録は残っていなくとも、 ヤポネシア列島の他の地域でもさまざまな古代国家が成立していたという当然 の認識を踏まえてのことである。
392 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(44)
最古の政治地図「オオクニ」(3)
2005年10月14日(金)


 「オオクニ」が北九州王朝ともヤマト王権とも違うより古い国家であった ことを示しているのは系譜だけではない。よく知られた「出雲古事記」の 諸説話もそれを指し示している。それらの説話は『記・紀』神話の説話とはち がった、一種独特の個性がある。古田さんはそれを次のように記述している。
 「稲羽(いなば)の素兎(しろうさぎ)」の話のもつ、イソップ童話のような 素朴性。動物はここでは「人間の従者」ではない。動物と人間の間に真率な愛が 流れているのだ。また、大国主の兄弟たち(八十神)は大国主を殺そうとするが、 その殺し方が奇抜である。「赤い猪」だといつわって、焼いた大石を山 上から落して大国主に抱きとめさせる「殺し」。木のまたにくさび(茹矢(ひめや)) をはさみ、その中に大国主を入れてくさびを抜き、挟みこむ「殺し」。殺し方さ え、ほほえましいほど童話的だ。

 また、

「梓綱(たくづの)の 白き腕(ただむき) 抹雪(あわゆき)の 若やる胸 を そだたき たたきまながり 真玉手 玉手さし枕(ま)き」(「沼河比売求 婚」)

と歌いあげている健康なエロチシズム。  これらにはいずれも、『記・紀』の他の神話内容とは、異質の素朴さが流れて いる。これがすなわち、日本最古の説話集、「出雲古事記」のもつ原初性だ。


 さらに、これらの説話にあらわれる出雲以外の地名も、「オオクニ」中心の 「政治地図」を指し示している。古田さんの分析。
(A)乃ち木国の大屋毘古(おおやひこ)神の御所に違(たが)へ遣(や) りき。
(B)故、其の子を名づけて木俣(きのまた)神と云ひ、亦の名を御井神と 謂ふ。〈「根国訪問」〉

 この(A)について、従来は「紀伊国」としてきた。そして(B)の「御井神」 については、(A)の記事との関係を推察しながらも、「御井神がなぜ木俣神の 別神であるか、両者の必然的関係が明らかでない」(岩波、日本古典文学大系 本、註)とするほかなかったのである。

 だが、なぜここに「和歌山県」が突如出てくるのだろうか。この出雲神話に は、瀬戸内海さえ一切出現しないのに。この神話の地名はやはり「大国中心政 治地図」の中で解読しなければならないのだ。「木国」は〝白日神と聖神の間″ にある基山だ。ここは「木国」とされている。
  木伊 ――(『和名抄』)
 そしてこの「木国」のそばには「御井」(御井郡)があるのだ「木国-木俣 神-御井神」という関連は当然なのである。  これは、「天孫降臨」以前の博多湾岸の周辺山地にいた神々の一つなので ある。

391 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(43)
最古の政治地図「オオクニ」(2)
2005年10月12日(火)


 続いて古田さんは、古事記が書きとめている「五神」に関わる三つの系譜図 を克明に分析して、その史料性格の検証を行っている。(その詳細は省く。)
 その結果、「古事記」はヤマト王権が「アマテル」の子孫であることを主張 するために「出雲神統譜」に系譜の挿入を行っているとの結論にいたる。そし てその結論をさらに補強する論述が続いている。

 右の「大挿入」を端的に証明するのは、『日本書紀』である。その中の神代 紀には、大量の「日本旧記」の文が「一書」としてひかれている。その第八段 には本文と六つの「一書」に、スサノオの出雲国での説話が引文されている。 しかし、その中のどれ一つとっても、右のようなスサノオ以後の長大に発展し た系譜(挿入された系譜…仁平註)を記しているものはない。系譜だけではな い。『古事記』にのせられた大国主神にまつわる数々の説話(①稲葉の素兎、 ②八十神の迫害、③根国訪問、④沼河比売(ぬなかわひめ)求婚、⑤須勢理毘売(すせりひめ) の嫉妬、⑥大国主の神裔、⑦少名毘古那(すくなひこな)神と国作り、⑧大 年神の神裔)は、一切、『書紀』に存在しないのである。

 これは一体なにを意味するだろう? その答えは動かしようはない。九州王朝 の「日本旧記」にも、近畿天皇家の「帝王本紀」にも、そのようなものはなかっ たのだ。それなのに「帝王本紀」と同じ、近畿天皇家の中の国内伝承たる『古事 記』にだけ伝えられている、というはずはない。なぜなら、そういうものがあり ながら、そのすべてを『書紀』がカットする。――そんな理由はない。最初にあ げた二つの公理を思いおこそう。「大義名分のフィルター」「利害のフィルタ ー」だ。もし、『古事記』の記載が正しいなら、出雲の神々はすべて〝スサノ オの子孫″となってしまう。これはなにを意味するか?
 〝天照の子孫″たる近畿天皇家に対して、一段下の傍流におさまってしまう―― それを意味するのである。こんなに近畿天皇家にとって好都合な系譜を、後代の 近畿天皇家の史官(『日本書紀』〈帝王本紀〉側)がカットする。そんなことが ありえようか?先の二つの公理から見てありうることではない。

 すなわち、ここでは「景行の熊襲大遠征」「神功の筑後遠征」の場合と反対の ケースが起こっている。『古事記』の方が〝系譜偽造者″なのだ。
 わたしは先に〝『古事記』とて、同一権力の中の同類の史官の手になったもの だから、『書紀』と全く異質の態度であるはずはない″といった。今、それが露 呈したのだ。

 では、九州王朝の史書「日本旧記」のように、この出雲の史書の名前はわかる であろうか。残念ながら、それはもはや〝見出す″ことはできない。なぜなら、 『古事記』の場合は『書紀』の編者と「手口」がちがう。〝その依拠した本の書 名をチラリとだけ、しかし律気に出しておく″そういう習癖がないからで ある。
 だが、反面、その出雲の史書の全体像を知ることは、困難ではない。

(一) 「大国」の神々の神統譜。
(ニ) 「大国」に伝承された、八つの説話。
(三) 「大国」を中心とした「政治地図」。

 右の三つをそなえていたことは確実である。この三つは、すなわち『記・紀』 の神代巻の構造に酷似している。そこでも、神統譜と神々の説話と「大八洲国」 の政治地図の三者がそなえられていた。
 だから、わたしはこの出雲の史書の〝失われた書名″の代りに、かりに「出雲 古事記」(あるいは「大国古事記」)という名前を付しておこうと思う。この書 は、漢文調の「日本旧記」とは異なり、素朴な和文調の史書であったこと、八つ の説話によって明らかであるから。

(中略)

 天照よりも、さらに古い神統譜をもって出雲の神々が先在していた。 ―これは、なにもわたしの〝奇矯な分析″によって、はじめてあらわれた命題 ではない。それどころか、それは、『記・紀』神話全体が力をこめて語ってい る根本命題だ、といわねばならぬ。
 なぜなら、「国譲り→天孫降臨」とつづく日本神話草創のテーマは、 〝日本列島(の一角)には、すでに出雲の大国主神が支配権をもっていた。 そこに天照は孫の二二ギを派遣せんとし、それに成功した″というにあるか らだ。大国主がすでにそこに支配権をもっていた、という以上、それが〝彼 一代で築かれた″というのは不自然にすぎよう。当然、すでに大国主に至る、 長く古い神続が存在していたこと、それはむしろ自明のことではあるまいか。

390 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(42)
最古の政治地図「オオクニ」(1)
2005年10月7日(金)


 再度、吉本さんの「国家の起源」についての論述を引く。
 はじめに共同体はどういう段階にたっしたとき、<国家>とよばれるかを 起源にそくしてはっきりさせておかなければならない。はじめに<国家>と よびうるプリミティウな形態は、村落社会の<共同幻想>がどんな意味でも血 縁的な共同性から独立にあらわれたものをさしている。この条件がみたされる とき村落社会の<共同幻想>ははじめて家族あるいは親族体系の共同性から分 離してあらわれる。そのとき<共同幻想>は家族形態と親族体系の地平を離脱 してそれ自体で独自な水準を確定するようになる。
 この最初の<国家>が出現するのはどのような種族や民族をとってきても、 かんがえうるかぎりの遠い史前にさかのぼっている。

 『加速する日本崩壊の根源を辿るとき、その原点にくっきり見えてくるのが、 ……日の丸や君が代に象徴される理念や規範など、伝統的な精神文化の崩壊で はないか(田代京子「日の丸のこと、君が代のこと」)』

という「優等高校生」の論文に対して、私は

『「日の丸や君が代に象徴される理念や規範」が「伝統的な精神文化」とは笑わせ る。「伝統的精神文化」を語るのなら、縄文時代までさかのぼれ。』

と書いた。(第99回・2004年11月21日)

 言うも愚かなことだが、「ヤマト王権」が政治支配の覇権者となった時 に突然国家ができ、文化が生まれたわけではない。そのはるか以前からこの列 島に生を営む人たちは連綿として豊かな文化を育んできたのだ。もちろん 「最初の<国家>が出現する」以前からだ。「記紀」という史料からたどれる 限りでの「国家」でさえ、「アマクニ」よりさらに遠くに至る。

 さて、「日本書紀」が伝える「神話・説話」は「ヤマト王権」本来のものに「日本旧紀」などの 他の王朝の「神話・説話」を、時には改竄した上で、盗用・挿入をしている。その手口の 論理的解析の帰結として「九州王朝」の存在が明らかとなり、さらにその源流 である「アマクニ」の所在も明らかにされた。では「記紀」という史料から読み 取れる最古の「国家」は「アマクニ」だろうか。古田さんの探求はさらに遠くへと 行く。

 『記・紀』の説話を探究してゆく中で、わたしははからずも「天国(あまく に)」という、九州王朝の原域に到達した。これこそ日本神話最奥の原姿だ。 ――わたしはそのように信じた。
 けれども、やがて――。『記・紀』史料は、未知の広大な領域が、この原域 の、さらに奥に横たわっていること、それをわたしに告げたのだ。その発端は、 『古事記』のつぎの史料である。

 故(かれ)、其の大年(おおとし)神、神活須毘(かむいくすび)神の女(むす め)、伊怒比売(いのひめ)を娶りて生む子。大国御魂(みたま)神。次に韓 (から)神。次に曾富理(そとり)神。次に白日(しらひ)神。次に聖(ひじり) 神。(神代記、大国主神、大年神の神裔)

 問題はこの中の「五神」だ。これらの名前には、重大な特徴がある。一つ一つ 調べてみよう。
 まず「大国御魂神」。この神は、いわば〝出雲(大国)の最高神″という性格 の名前をもっている点、注目される。その点、「大国主神」に勝るとも、劣らぬ 名前だ。

 つぎは「韓神」。わたしがこの系譜に目を注ぎはじめた糸口、それがこの神 だ。当然韓地の神、韓国の神と解するほかない。だが、『記・紀』中、ほかに このような神は出現しない。いわば、普通の『記・紀』神話のわくを破った神 名だ。ただ、この「韓」は、後にいう韓国(南朝鮮)といった広域ではなく、 釜山付近の加羅を中心とする狭域であろう。それは、以下の第三~第五がいずれ も「狭域」の三神と見られる点からそう考えられる。

 第三は「曾富理神」。次を見よう。

 日向の襲の高千穂の添山(そほり)の峯。添山、此を曾褒里能耶麻(そほりの やま)と云ふ。(八神代紀、第九段、第六、一書。天孫降臨。)

 「ソホリ」の地がここにズバリ出ている。したがって、「ソホリの神」はほか ならぬこの地の神だということとなろう。

 第四は「白日神」。これは明白だ。筑紫の「亦の名」は「白日別」であり、須 玖遺跡の近くに「白木原(シラキパル)」がある(「原」は例の「パル」。「木」 は「城(き)」の意味)。だから、この地名の固有名詞部分は「白」だ。 「白日神」の場合も、当然、固有名詞「白」に対して「日」が加えられたもの だ。「橿日宮」のように。すなわち、この「白日神」とは、〝筑紫全体の神″で はなく、この「白木原」の地点を中心とした、狭域の神名だ。これを〝筑紫全体″ とすると、第三と第五の神名とダブッてしまう。

 第五は「聖神」。この神名に対し、「日知りの神の意で、暦日を掌る神か」 (岩波、日本古典文学大系本、註)という解釈がある。しかし、これは従いが たい。なぜなら、第一から第四まですべて地名の上に成り立っている。それな のに、これだけ、地名と無関係の名と見るのは無理だ。これは「日後 (ひじり)」ではあるまいか。第四の「白日神」をうけて、その〝背後の地″を 呼ぶ名称だ。ちょうど、筑前が「筑紫」とされるのに対し、筑後が「筑紫後 国(しりへのくに)」と呼ばれていたように。「白木原」に近い須玖遺跡の近 くに「井尻(イジリ)」の地名がある。「――シリ」という地名接尾辞の用い られている例だ。だから、この「聖神」の名は、今の「白木原」より南の地帯 (太宰府から久留米市あたりにかけての地帯の中の一定地域)に当るのではあ るまいか。

(中略)

 以上の検証によってみると、この「五神」は
(一)大国(出雲)と、
(ニ)北の韓国、
(三)南の博多湾岸とその周辺、
の三点――の三領域をさしていることがわかるだろう。すなわち、全体として 日本列島の西北の一定領域の「政治地図」をさし示しているのだ。

大国

 しかも、大切なこと。――それは、この「政治地図」には、中央の「天国] 部分の海域がスッポリと抜け落ちていることだ。つまり、天国部分を除いた、 その周辺の政治地図。これが、この「五神」の示す限定領域だ。そしてその 原点は「大国」なのである。

389 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(41)
「アマクニ」の聖地「天の岩屋」
2005年10月3日(月)


 扶桑社版の超反動教科書「日本史」は「天の岩屋」の説話を取り入れた。 アメノウズメの胸のあらわなストリップをリヤルに描写しているという。 天皇中心の文化を日本の伝統文化と誤認している連中が「天の岩屋」の説話を その文化の原点と認識している故の選択だろうか。ともあれ、「天の岩屋」の説話 はヤマト王権が九州王権から盗んだ説話だ。

 古田さんは「天の岩屋」はアマクニの聖地であり、沖ノ島がその整地だという。 理由を五点あげて論証している。

 その理由の第一は、
岩上遺跡・岩蔭遺跡というように、この島は全山「岩」で おおわれている。その「一個の巨大な岩」が海域の中に突出し、すなわちこの島 をなしているのだ。ことに稜線の南、東北側は垂直に百五十メートルの岩壁が海 波の中に吃立している。まことに「天の岩屋」というにふさわしい。

 その理由の第二は、
「天の両屋」というように、「天の…屋」の形の名前にな っている。そしてその一つ(小さい方)は「小屋島」だ。とすると、全山岩で おおわれた〝屋島もしくは大屋島″の方が「天の岩屋」と呼ばれるのは、まこと にふさわしいのである。

 その理由の第三は、
祭祀遺跡の状況から見て、この島がこの海域(朝鮮半島 と九州との間)中、最大の宗教的中心をなしていたことは疑いない。
 同じく、『記・紀』神話中において、「天の岩屋」は「天国」の中心的位置 をしめている。しかも、いわゆる天つ神たちは、『記・紀』では決して〝あが められ″〝まつられる″存在として描かれているだけではない。

(イザナギ・イザナミの二神に対し)爾(ここ)に天つ神の命を以て、布斗麻邇 爾卜相(ふとまににうらな)ひて詔(の)り、……(神代記、大八島国の生成)

 イザナギ・イザナミは天つ神の意思を問うべく参上する。すると天つ神はみず から卜占によって占って〝判断″をうるのである(「ふとまに」は「太占」)。 また「天の石屋戸の段」にも、

 天児屋(こや)命、布刀玉(ふとだま)命を召して、天の香山の真男鹿の肩を 波迦(ははか)を取りて、占合(うらな)ひ麻迦那波(まかなは)しめて、 ……〈神代記〉

と、この天の岩屋で、卜占祭祀の行なわれたことが記されている(ここに沖ノ島 と相対する「小屋(こや)島」の名を示す「天児屋(こや)命」が登場すること は意味深い)。すなわち、「天の岩屋」は「天国」の祭祀の中枢の場であったの である。今の沖ノ島がすなわち、これだ。

 その理由の第四は、
ここ沖ノ島の奥津宮が天照とすこぶる関係の深いことだ。天照(とスサノオ) の子とされる三女神の長女、多紀理毘売(たきりひめ)命をこの島の奥津宮 に祀る。この女神が生まれたのは、「天の安河」のそばで行なわれた天照と スサノオの「ウケヒ」(誓約)によってであるから、当然その誕生地は 「天国」の中であり、天の岩屋にも近いと思われる。そして『記・紀』説話の 示すところ、多紀理毘売は、二二ギとは異なり、「天国」を出て他国へ去った 形跡がない(大国主との結婚が伝えられているにもかかわらず)。この三女神 は母なる天照の聖跡に〝居坐り″、祭神とされた形なのではなかろうか。
 九州本土の宗像の辺津宮の方が現在の宗像神社の本拠であるものの、その信 仰上の秘地は、海上に鎮まる神秘の孤島、この沖ノ島である。

 その理由の第五は、 はじめにあげた『古事記』の文章だ。イザナギ・イザナミは、国生みを終 えて出発点に帰ってきた。そこは、つぎの「オノゴロ島」問題でハッキリする ように、博多湾岸のそばだ。――そして今、「天国」の六つの島を眺望しよう。 もっともそこ(博多湾岸)に近い島、それがこの沖ノ島だ。


 古田さんは続けて「オノゴロ島」問題を論じているが、私はそれを割愛して 「最古王朝の政治地図」の完成を急ごうと思う。次の問題は「出雲国」だ。