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379 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(33)
「ヤマト王権」の出自(1) ― 「海幸・山幸」説話
2005年9月1日(木)


 九州王朝の伝承とヤマト王権の伝承との関係をまとめておく。

 「景行天皇の熊襲征伐」「神功皇后の筑後討伐」の二説話はもともとヤマト王権の伝承には なかったものであり、実はその本体は九州王朝の発展史であった。
 それに対して、「天孫降臨神話」をはじめとする始祖神話群は事情が異なる。 筑紫(筑前)を原点とする九州王朝もヤマト王権も同一系統の始祖神話群をもっていた。 しかし「ヤマト王権」の単一的な神話(『古事記』と「帝王本紀」)とは異なり、「九州王朝」 のそれはずっと多様でバラエティに富んだ伝承をもっており、しかも「古事記」や「帝王本紀」より ずっと早くからすでに記録されていた。
 8世紀に日本列島を統一したヤマト王権は〝自己を正統化し、永遠の絶対者とする神話″の新 版の集成をはかった。そしてそのさい、先在の九州王朝の史書「日本旧記」の始祖神話(天孫降 臨等)を〝切り取って″自己の神話に「接合」した。

 以上のことを古田さんは次のようにまとめている。

第一
 先在の九州王朝と後在の近畿天皇家は、共通の始祖神話(天孫降臨等)をもっている。すなわち、 始源を共通にしており、後来、二つに分かれた王朝なのである。

第二
 始祖神話の原域は博多湾岸と糸島郡の両地域である。これはすなわち九州王朝の首都圏である。 したがってこの神話の本来の姿は〝九州王朝自身の神話″にほかならない。

第三
 天皇家は〝九州の一端(日向)から近畿へ来た″とみずから称する。そして右の「九州王朝の原域 神話」を、すなわち自己の神話として伝承してきた。つまり、九州王朝の神話圏からの分流としての 性格をになっているのである。


 ヤマト王権が九州王朝の神話圏からの分流であることを古田さんは神話に登場する神々の系譜の 分析を通して論証しているが、これも割愛する。いまは、本流・九州王朝の舞台=筑紫(筑前)がどのようにして 分流・ヤマト王権出自の舞台=日向(宮崎県)へと移ったのかという問題を取り上げることにする。
 古田さんはその「舞台廻し」の役割を担っているのが「海幸・山幸」説話だという。記紀の中の説話では 最もポピュラーなものなのだが、改めてそのあらすじをみておきたい。この長い説話のあらましを、古田さんが まとめているのでそれを掲載する。
 この説話の梗概を『古事記』によって記そう。

 ニニギノ命と木花之佐久夜見売(きのはなのさくやひめ)との間に三子が生まれた。 火照(ほでり)命と火須勢理(ほすせり)命と火遠理(ほおり)命の三人。このうち長子(火照命)は 海佐知毘古(海幸彦)、第三子(火遠理命)が山佐知見古(山幸彦) 彦)と呼ばれたという。そしてこの第三子は、亦の名を「天津日高日子穂穂手見(あまつひたかひこほはでみ)命」 といった(以下、「山幸」「海幸」と略称する)。

 山幸は兄(海幸)から借りた鉤(はり)をなくし、海辺で泣いているとき、塩椎(しおつち)神が来て、 「綿津見(わたつみ)神の宮に行け」とすすめる。その教えに従い、そこで海神の娘、豊玉毘売に会う。 三年過ごしたのち、赤海鯽魚(たい)ののどから、失った鉤を得て帰途についた。帰ってから海神にもらった 塩盈珠(しおみつたま)と塩乾疎(しおひるたま)という二つの珠の威力によって、彼(山幸)を敵視する 兄を服従させた。

 一方、豊玉毘売命は、山幸の子を妊身(はら)み、それを生むために山幸のもとへやってきた。そして まだ屋根も茸き終えぬ産殿にあわただしく入った。ところが、山幸が豊玉の願い(タブー)を破 り、産殿をのぞいたところ、彼女は「八尋和邇(やひろのわに)」に化(な)っていた。自分の本もとの身を 知られた彼女は、恥じて本国(海神の宮)へ帰っていった。そのとき生まれた子が「天津日高日子波限建鵜茸 草葺不合(あまつひたかひこなぎさたけうがやふきあえず)命」である。

 以上の説話について、『書紀』では五種類の異伝を採録している(神代紀、第十段、本文、第一~ 四、一書)。しかも皆、かなりの長文だ。つまり、この「海幸・山幸説話」は、「日本旧記」においても、すで に独自のユニークな存在となっていたのである。

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