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388 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(40)
「アマクニ」はどこか(2)
2005年9月30日(金)


 朝鮮半島と九州との間の海域の島々が「天国」であった。この比定が正しい ことを証明するものとして、古田さんは三点をあげている。

第一点
 天つ神(とその子や孫)たちの行動範囲。

(一) イザナギ神は、出雲にあるといわれる黄泉(よみ)の国へ行った。 そして筑紫の日向の橘(たちばな)の小戸(おど)(博多湾岸。西辺)に帰って きた。そしてここで〝ミソギ″して天照や月読やスサノオらを生んだ。

(ニ) 天照は筑紫の博多湾岸(姪の浜付近)で誕生したあと、「天国」にひ きこもり、そこから出たことがない。

(三) スサノオは、はじめ新羅国に行き、のち出雲へ行った。

(四) 天照の子、天の忍穂耳(おしほみみ)命は、「天国」から出た形跡がな い。

(五) 天照の孫、ニニギは、「天国」を出て、筑紫の日向の高千穂の 久士布流多気(くしふるたけ=糸島郡、高祖山連山)に来て、この筑紫で定 住した。

(六) 天鳥船神・建御雷(たけみかづち)神は、天照の使者として、 「天国」から出雲の伊那佐(いなさ)の小浜(おばま)に降り到った (「国譲り」の交渉)。

 このように、天つ神たちの天国からの行動範囲は、筑紫・出雲・韓地(新 羅国)の、この三地域に限られている。
 しかも、これら三地域に出向くさい、いずれも途中の中間経過地が書かれて いない。だから、「天国」は、この三地域に共に接しているのだ。すなわち、 この三地域に囲まれた、その内部にあるのだ


第ニ点
 「天国」が上述の海上領域にあったことを裏づける説話がある。少名毘古那 神の説話。
 少名毘古那神は「天つ神」たる神産巣日(かみむすひ)神の子だというか ら、当然「天国」が故国だ。そこから大国主神の居する、出雲の御大の御前 に来たときのさまがつぎのように描写されている。

波の穂より天の羅摩(かかみ)船に乗りて、‥‥‥帰(よ)り来る神有り。 (神代記)

 つまり、〝海上から来た″のである。しかも、その位置と海流の向きからす ると、当然「天国」から来たことになろう。
 この逸話もまた、「亦の名」国名の示す「天国」の領域地図の正しいことを 示している。


(「天国」と「出雲国」との関わりは後ほど取り上げることになるだろう。)

 さて、記紀の記述が示す「亦の名」の島に、イザナギ・イザナミが次々に国生みを して最後(知訶島のあと)に還ってきた島・両児島(天両屋)がある。この島を 『きわめて重大な島』として、古田さんは「島探し」を始め、「沖ノ島」に到 達する。詳しい論証は省き、結論部分を転載する。

 わたしの宝探しはまさに 〝破天荒ともいうべき財宝の埋もれた島″ に行 き当ったのである。―沖ノ島だ。
 この島は福岡県宗像郡大島村に属する。そして地図で見ると、まさに大小二 つの島から成り立っている。「沖ノ島」と「小屋島」だ。
 ここで注目されるのは「小屋島」という名である。これに対する大きな方、 「沖ノ島」は、当然宗像の方から見て〝沖の方にある島″という意味でつい た名だ。ちょうど出雲から見ての沖の方の島も「隠岐(おきの)島」と呼ばれ ているように。
 つまり、九州本土側からの命名だ。だが、現地での本来の名。それは「屋 島」または「大屋島」だったのではないだろうか。これはその島の地形から ついた名だ(四国の香川県にも源・平の戦で有名な「屋島」がある。類似の 地形を示す名であろう)。とすると、「天の両屋」または「天の両屋島」 (原注記にある島名)という名にピッタリだ。

 小屋島の近くに「御門(ごもん)柱」「天狗岩」という、小さな岩礁があり、 昔から、この沖ノ島の鳥居にみたてられてきたという。
また沖ノ島の入口(波止)に「御前(おまえ)」という磯があり、ここは 禊場(みそぎば)であり、上陸する人はまずここで禊せねばならぬ、とされ る(島全体が沖津宮の境内)。ここは宗像三女神のうちの田心姫(たごり ひめ)命(多紀理毘売命)を祀る(湍津(たぎつ)姫命―中津宮〔宗像郡大島村〕。 市杵(いちき)島姫命―辺津宮〔同郡玄海町田島〕)。  九州本土の一角(宗像)と海上の二島を結び、約五十キロメートルの広大な 海域がすなわちこの宗像神社の神域であり、その三点の中の焦点がこの沖ノ島 だ。

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387 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(39)
「アマクニ」はどこか(1)
2005年9月25日(日)


 「神代記」の「国生み」の説話には「亦の名」という言い方で 二種類の呼び名が記載されている。古田さんはそのことから論じ始めている。
 ここには少なくとも表裏二種類の地図が合成されている。 なぜなら、A、亦の名はBと謂ふという形を定型として書かれているからた. Aの方はわたしたちになじみ深い国名だ。これに対し、Bの方はなじみにく い形だ。人名形式のものが多い。一見してAよりさらに古い形の国名である ことがわかる。
 次の地図はその「亦の名」を記したものだ。

またの名

 四国と九州は四分割されていている。その中で九州の肥国は「建日向日豊 久士比泥別(たけひひむかひとよくしひねわけ)」という長たらしい「亦の 名」がついている。この「亦の名」もまた学者たちを悩ませる謎だった。 この呼び名を解明できず、誤伝としたり「改定」したりするものもいて、 諸説紛々、従来この「亦の名」の謎を説いた学者はいなかった。これ を古田さんは次のように解く。

 今、わたしの住んでいる町は「向日(ムコウ)町」だ(最近「市」となった)。ここは洛西だ。京都市内と  この町との間には桂川がある。比叡山の連なりが「東山」と呼ばれるのに対 し、この地帯は「西山」と呼ばれる。いずれも、京都の中心部を原点とした呼 び名だ。つまり、京都の人がつけた名前なのである。
 だから、「向日町」の場合も、本来、京都市内を原点として、西の方越川 の向こうの町″という意味で「ムコウ町」(向こう町)といったのではないだ ろうか。そして後に美しい漢字(佳字)二字をあてて、「向日」と表記したの であろう。

 「建日向日」は「タケヒムコウ」だ。「建日別」(熊曾国)に向かっている という意味だ〔むろん、「タケヒムカヒ」とそのまま読んでもいい。意味は同 じだ)。
 つぎに「豊」は「豊国」だ。「久士比」は「クシヒ」、〝奇し火″の意味だ。 有明海の有名な不知火のことであろう(「前つ君」の九州一円平定説話に、こ の「不知火」のことが出てくるから、この現象は古くから存在したものと考え られる)。「泥別」は「ネワケ」、〝分国″の意味だ。
 つまり、通解すれば、〝建日別(熊曾国)に向かう(途中に当る)不知火の 燃える、豊国の分国″という意味だ。

 この名前について注意すべき点は三つある。
 第一に、この国は、はじめ豊国の一部だったこと。
 第二に、この国に独立した名前が与えられたとき、〝建日別(熊曾国)に向 かう途中″として意識せられていたこと。これと同じ発想の名前は「淡道(あわ じ)島」だ。〝「淡国」(徳島県)へ行く途中の島″として見られ、そういう 意味の名前がつけられたのである。
 第三に、この国を〝建日別に向かう途中″と見る、その原点はどこだろうか。 いうまでもなく、筑紫(白日別)の方から見ていっているのである。ちょうど 淡路島という名が本州(兵庫県)の方から見て、名づけられているのと同 じだ。

 〝この九州四分図は筑紫の方から見て作られている。″


  さらに古田さんは次のような疑問を持つ。
筑紫は「白日別」だ。他の二つ、「豊日別」「建日別」と形式上、対等だ。 だのに、筑紫だけを原点とする。――なにか、ひっかかるのだ。

 もう一度地図を見よう。肥国を〝建日に向かう″と見る視野の原点、それは 逆にいえば、肥国から見て「建日別」と逆の方、すなわち北方にあるはずだ。 その北方にはなにがあるか。
 まず、「白日別」がある。そしてそのさらに北にあるもの、それは「天比登 都(あめひとつ)柱」(天一柱)だ。
 これは尋常ならざる名前だ。「白日別」「豊日別」「建日別」、これらは 〝天からの日別け″つま り、〝天国(あまくに)の分国″との意味を示す国名なのだ。ここで注目され るのは、先の地図の中で「天の―」という「亦の名」をもっている領域だ。その 七個、それは一定の領域、つまり朝鮮半島と九州との間の島々を中心に分布して いる。


 この謎解きを私はドキドキしながら読んでいる。とてもスリリングだ。濃い霧が 一気に晴れ渡るようなさわやかさを感じている
386 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(38)
始原の国家
2005年9月21日(水)


 傍流ながらイワレヒコが「天照→ニニギ→ヒコホホデミ→ウガヤフキアエ ズ」の系図に連なることを「記紀」は主張している。古代において王権の権 威づけに欠かせない要素だったのだ。
 ではその権威の淵源である「アマテラス」はだれで「アマクニ」(高天原) はどこにあったのだろうか。

 『「高天原」は「天上の国」であり、地上の国ではない。』もちろん、 これが定説だ。しかし高天原地上説も後を絶たないという。そうした説の 中に「アマテラス=卑弥呼」としているものがある。これは真面目に相手に する価値もない説だと、私には思える。しかし古田さんはこれを丁寧に論駁 して、アマテラスから卑弥呼にいたる歴史的経緯を次のように概観している。

(A)「天国→筑前」段階
 天照大神は、九州王朝の始源の重要な神の一つだった。二二ギを「天国」 から筑前に天孫降臨せしめたのだから。

(B)「筑前→筑後」段階
 「橿日宮の女王」が〝筑前から筑後へ″進出した。

(C)「筑紫→九州」段階
 さらに「前つ君」が天孫降臨の地、前原の宮から九州一円の平定に 向かった。このときはじめて、九州王朝というにふさわしい実質がそ なわったことになる。

(D)「九州→淡路島以西」段階
 一方、東に向かって瀬戸内海領域の討伐時代がくる。(ただ、これは (C)に先立つ可能性もある)。倭王武の上表にいう「毛人55国」平定の 時代である。ここに「倭人百余国」が成立する。
 これが前漢の武帝の朝鮮を滅した時代(前107年)、つまり前二世紀以 前の状況なのである。

 ここではじめて、わたしたちは「絶対年代」に出会うのである。
 こうしてみると、三世紀卑弥呼の時代は、右の「百余国」を「三十国」 に統合し、各国の長官、副官もととのえられた〝はるか後代″なのである。 すなわち、天照大神と卑弥呼との間は、あまりにも遠いのだ。

 この時間の闇を「日本書紀」は「ヒコホホデミの在位が580年、ニニギか らイワレヒコまでが1792、470年」と糊塗するほかなかった。

 ではこの芒洋とした闇の中の「高天原」を地上に求めるのは、 愚にもつかない空論だろうか。

 ここで、「国家の本質」からいえば「始原の国家」をどこまでさかのぼって 想定できるのか、吉本さんの論説を聞いてみよう。

 ここ数年のあいだに古代史家たちのわが<国家>の起源についての論議が わたしたちの耳にもとどくようになってきた。わたしたちはその論議からあ たらしい知識をえられるようになった。しかしそれと同時になにを<国家>と よぶのか、そして<国家> の起源というのはなにを意味するのかについて 深刻な疑惑をもふりまかれたのである。えられた知識についてはよろこんで うけとることができるが、深刻な疑惑についてはいちおう返済しておかなく てはならない。これらの史家たちの論議はわたしたちが<国家>とはなにか の把握について、まったく未開の段階にしかないことをおしえている。

 はじめに共同体はどういう段階にたっしたとき、<国家>とよばれるかを 起源にそくしてはっきりさせておかなければならない。はじめに<国家>と よびうるプリミティウな形態は、村落社会の<共同幻想>がどんな意味でも血 縁的な共同性から独立にあらわれたものをさしている。この条件がみたされる とき村落社会の<共同幻想>ははじめて家族あるいは親族体系の共同性から分 離してあらわれる。そのとき<共同幻想>は家族形態と親族体系の地平を離脱 してそれ自体で独自な水準を確定するようになる。

 この最初の<国家>が出現するのはどのような種族や民族をとってきても、 かんがえうるかぎりの遠い史前にさかのぼっている。しかしこの時期を確定 できる資料はいずれのばあいものこされていない。考古資料や古墳や金石文 が保存されているのは、たかだか二、三千年をでることはないし、しかも時 代がさかのぼるほどおもに生活資料を中心にしかのこされておらず、<国 家>のプリミティヴな形態については直接証拠はのこされない。

 しかし生活資料たとえば土器や装飾品や武器や狩猟、漁撈具などしかのこ されていないとしても、その時代に<国家>が存在しなかったという根拠に はならない。なぜならば<国家>の本質は<共同幻想>であり、どんな物的 な構成体でもないからである。
(吉本隆明『共同幻想論』所収「起源論」より)

 次回から、古田さんの「アマクニ」解明の議論を追ってみる。

385 「反ひのきみ」闘争の現況
2005年9月18日(日)


 「澤藤統一郎の事務局長日記」を読むのが日課の一つになっていましたが、 事務局長交代でその日記が終わってしまい、残念でなりませんでした。 ところが、もうご存知かもしれませんが、タイトルを「澤藤統一郎の憲法日 記」と改めて澤藤さんのホームページが再開されました。ご紹介したいと思 います。

澤藤統一郎の憲法日記

 その日記の昨日(9月17日)付の記事は『「日の丸・君が代」関連事件弁護団 連絡会』の報告でした。その記事の中に、『連絡会』の案内状を送った弁護 団が係争している事件の内容・訴訟状況などがまとめられていました。「反ひ のきみ」の闘いの原点を振り返り現状を確認する意味をこめて、その部分を転 載させていただきます。(無断転載ですが、お許しいただけるものと、勝手に 判断しています。)

(事件発生順)

北九州ココロ裁判
 国歌斉唱時の不起立(職務命令違反)に対する厳重注意~減給3か月
 96年11月 福岡地裁提訴 05・4・26 一審判決 一部勝訴
 現在福岡高裁に控訴審係属 控訴理由書が提出された段階

ピアノ伴奏拒否訴訟
 99年4月6日入学式(東京・日野市立南平小学校)における国歌斉唱時のピ アノ伴奏職務命令違反 戒告
 人事委員会審査→棄却裁決→東京地裁提訴→03・12・3棄却判決→東京高 裁7月7日控訴棄却判決→最高裁上告中

東京・国立二小戒告事件
 00年3月24日卒業式におけるリボン着用+校長に対する「抗議」 戒告 (信用失墜行為・職務専念義務違反)
 手続の進行 審査請求→棄却裁決→東京地方裁判所へ提訴 一審継続中 立証計画段階

国立二小・強制移動事件
 校長への意見を言ったことを理由とする不当移動
 手続の進行 審査請求→棄却裁決→東京地裁提訴 04・12・28 却下・棄 却判決→05・9・8東京高裁控訴棄却

ピースリボン訴訟
 00年3月24日卒業式(東京・国立二小)におけるリボン着用を理由とする文 書訓告(職務専念義務違反) 並びに、ピアノ伴奏の強制を理由とする国家 賠償訴訟事件
 04年2月提訴(国賠訴訟)地裁 東京地裁民事35部裁判長交代

北教組・倶知安中学事件
 01年3月卒業式における「国歌」演奏中断行為に対する戒告
 現在・道人事委員会で審査請求継続中 公開審理の証人調べ終了 裁決待ち

大阪・東豊中高校事件
 02年2月 卒業式における「内心の自由」発言(中野五海さん)に対する戒告 処分
 大阪府人事委員会係属中

大阪・豊中養護学校事件
 02年4月入学式における「内心の自由」発言(田中直子さん)に対する戒告 処分
 大阪府人事委員会係属中

ハートブラウス事件
 02年4月 入学式(東京・大泉養護学校)における「ハートブラウス」着用を 理由とする戒告(上着着用の職務命令違反)
 人事委棄却裁決→東京地裁提訴

東京・「日の丸・君が代」強制予防訴訟
 国歌斉唱義務・ピアノ伴奏義務不存在確認、処分の予防的不作為請求
 04年1月30日第1次提訴228名 現在原告401名。
 東京地方裁判所民事36部に係属。立証進行中。

東京・処分取消(人事委員会審査請)事件
 国歌斉唱時不起立・ピアノ伴奏拒否による戒告・減給・停職
 03年度周年行事・卒業式、04年度入学式 13グループに分割審理 04年度 卒業式・05年度入学式についても申立済み。

東京・「日の丸・君が代」解雇訴訟
 国歌斉唱時不起立を理由とする嘱託採用取消・嘱託雇い止め(原告数 10名)
 手続き進行 04年6月17日 提訴 民事19部係属 今秋から立証段階に 横山 洋吉教育長証人採用決定

東京・再発防止研修受講義務不存在確認請求訴訟
 本案と執行停止申立
 04年民事19部須藤決定 05年  19部中西決定 36部難波決定 11部三代川 決定 05年  専門研修者に対する執行停止申立(05・8・29)

神奈川・「日の丸・君が代」強制予防訴訟
 国歌斉唱義務不存在確認請求
 05年7月27日横浜地裁提訴 原告107名、弁護団86名
 11月29日第1回口頭弁論

嘱託不採用損害賠償事件
 05年8月2日提訴(原告数 5名)
 国歌斉唱時不起立を理由とする嘱託不採用に対する損害賠償請求取消

刑事弾圧
 04年3月11日都立板橋高校卒業式 元教員の式前の発言を威力業務妨害 として、04年12月3日起訴
 東京地裁刑事9部係属

 なお、このほかに広島に複数の人事委員会審査申し立て事件や訴訟があるとの ことです。
 また、当日の『連絡会』には、七生養護学校事件(東京都・教育委員会・ 産経・3都議を被告とする損害賠償請求)弁護団も参加したとのことです。

 なりふりかまわぬ政治権力のすざましい攻撃に対峙して、敢然と闘い続けて いる人たちに改めて頭の下がる思い切です。一方、「法の番人」ではなく 「政治権力の番犬」に成り下がっている裁判官の多さに反吐の出る思い切です。

 こうした政治権力のあからさまな反動ぶりを許しているのは従順で実直な、 いやはっきりと「愚か」と言おう、愚かな精神を培わされてしまった国民たち です。この愚民たちは今度はブッシュのポチ・コイズミに巨大な権力を与えてし まいました。

 澤藤さんの結びの言葉。
 『どの事件についてもそうだが、彼我の理論水準も熱意も、雲泥の差だ。 当方が圧倒していて、なお、判決では容易に勝てない。それでも、出来るたけ のことを、とことんやるしかない。』

384 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(38)
「ヤマト王権」の出自(6) ― 天祖降臨より1792、470年
2005年9月11日(日)


 「イワレヒコ説話」を「後代の近畿天皇家内部の史官の造作」と見なすのが 「定説」だが、前回までに解明されたイワレヒコの出自の描かれ方が その「定説」を否定していると古田さんは言っている。すなわち、『イワレ ヒコは〝九州における天照の本流″ではなく、〝九州では意をうることので きぬ傍流者″として描かれている』という事実を指摘して言う。
 後代の「天皇中心主義」の立場からのイデオロギー的な、過剰読みこみを 排除し、原文通り率直に読む限り、……これを〝後代の近畿天皇家内部の史 官の造作″と見なすことは無理だ。なぜなら、彼等後代(7、8世紀)の史官 にとっての最高理念は「天皇家こそ永遠の中心の主権者」という点にあった。 しかるに、「神代→神武」の間の記述は、これに反し、〝彼等(神武ら)が 傍系の分流者であった″ことを示している。『記・紀』の表記のルールに厳 密に従うかぎり、それは疑いようがない。この事実は、〝『記・紀』の神代 巻は、後代史官の「造作」ではない″という、この命題を決定的に証明して いるのだ。

 イワレヒコの出自が傍流であるということを物語る記述がもう一つある。

(1)故、日子穂穂手見命は、高千穂の宮に伍佰捌拾歳(580歳)坐しき。(神 代記、上巻末)
(2)天祖の降跡(あまく)りましてより以逮(このかた)、今に一百七 十九万二千四百七十余歳。(神武紀冒頭)

 ヒコホホデミの在位が580年、ニニギからイワレヒコまでが1792、470年。 これでは「天照→ニニギ→ヒコホホデミ→ウガヤフキアエズ→イワレヒコ」 の系図をそのまま認めることはできない。この時間の提示を古田さんは「深 くて暗い時間の溝」と呼んでいる。

 この間(天照→ニニギ→ヒコホホデミ)には、〝何代もの時間の列″が、 いわば隠されているのである。
 この点、『日本書紀』(帝王本紀)も同じだ。こちらは(2)のように、 一層空想的な誇大値が書かれている。ここでハッキリしていることは、

(一) 『記・紀』ともに、「天孫降臨―神武」の間には相当の長い年代が 流れている。
(ニ) しかし、その間の詳しい伝承の記録をなぜか避けている。

この二点だ。そしてそのような不分明の霧の流れの中で、「神武はニニギノ命 の子孫だ」と主張しようとしているのである。この「不分明の霧」の存在は、 津田説のような「後代史官造作説」を裏づけるものだろうか。むしろ、逆だ。 なぜなら、もしこれが「後代の造作」だとしたら、こんな、どう見ても不透明 な叙述は不必要である。簡単に避けられることだ。なぜなら、もっと、もっと もらしく「造作」しうるからである。
 逆に、所与の伝承の不完全さ、あるいは切断・削除後の空隙を十二分に埋め 切れぬまま書いたからこそ、〝このような代物″になってしまったのではある まいか。
 要は、二二ギノ命から神武に至る、完全な伝承は提示しえていないことが 第一。にもかかわらず(あるいは、だからこそ)〝われわれはニニギノ命の子 孫だ″と、あえて主張しようとしたことが第二。この二点の一種不器用で強引 な結合から、右のような「不分明の霧」が生まれたのだ。――わたしには、そ う思われるのである。

383 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(37)
「ヤマト王権」の出自(5) ― 失意の兄弟
2005年9月5日(月)


 「高千穂の宮」の所在地は宮崎県でない。これまでの定説をくつがえすこの結 論に、古田さん自身がびっくりしている。
 この帰結にわたしは戦慄した。それはあまりにも、わたし自身の「予想」を 越える事態だったからである。そこで〝「高千穂の宮」というのは、「高い立 派な宮殿」という意味の普通名詞ではないだろうか″などと考えまどうた時期 のあったことを告白しよう。要するに、それによって神武の場合、「高千穂の 宮」を「日向」(宮崎県)に求めようとしたのだ。
 しかし、後代の先入観や予見を排し、原文面の表記のルールに従う、という、 わたしの根本の方法論は、ついにこのような逃避の道を許さなかった。

 「原文面の表記のルールに従う」方法によって、古田さんさらに次のような 注目すべき事柄を読み取っている。

第一
 「高千穂の宮」ではイワレヒコらが「天下を統治」していた場所とは書かれていな い。その地に自分たちが入り込める可能性がないことに危機意識を抱いて、 、イワレヒコと長兄・イツセが「どこか他の地へ新天地を求めよう」と語り 合った場所として描かれているだけだ。

 それなのに、天皇家をもって「日本列島永遠の主権者」と信じた宣長は、 「高千穂の宮」における〝神武らの統治″を疑わなかった。そしてその点、 現代までのすべての学者もまた、いわば〝宣長の亜流″でありつづけてきた、 といわざるをえないのではないだろうか。″宣長は『古事記』の記事をその まま事実と信じ、かつ主張した″と、よくいわれる。しかし、宣長は思想的 立場、すなわちイデオロギーからして、〝『古事記』のいわざるところ″ にまですすみ、もって後代の定説を支配してきた。-わたしの目には、その ように見えたのである。

第二
 では、なぜイワレヒコは「高千穂の宮」にいるのか。この宮に各地 (九州及び瀬戸内海西域)からの「豪族」が参集していた。その中の 一人としてやてきていたのだ。。一応は「天照大神→二二ギノ命」の 血統をひく一族として参加資格を主張していただろう。しかし、山幸 の漂泊時の子の系列、つまり傍流あるいは分流だとみずから主張して いたのだから、当然、ここで「天下統治」などするはずはなかった。

第三
 イワレヒコらはここ(高千穂の宮)で、なにを見たのか。それは語られ ていない。しかし、明らかにその見聞の結果、「どこか他の所へ移動しなけ ればだめなのでは」と戸惑い、「新天地を求めよう」という決意をもつに いたる経過が書かれている。

 ここでは、「 」内の部分において、直接法に似つかわしからぬ、一種の 「敬語法」が使われている。
  「何の地に坐さば、平らけく天の下の政を聞し看さむ」
 これは後代(7,8世紀)の近畿天皇家の史官が後来の神武天皇〔橿原宮 (かしはらのみや)の即位者〕にふさわしく書き改めた、大義名分上の イデオロギー的表記なのである。実態は、さきにのべたような〝失意の青 年の率直な惑い″を表現しているにすぎぬのだ。
382 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(36)
「ヤマト王権」の出自(4) ― 高千穂の宮はどこか
2005年9月4日(日)


 イワレヒコの誕生で記紀の「神代」の巻は終わる。これからイワレヒコの説話 の解読に入ることになるが、『イワレヒコとその後八代のヤマト王権の説話は 虚構』というのが「定説」だ。従っていわゆる「神武東征」についてもさまざ まな説が成されている。古田さんはそれらの説一つ一つを反論しているが、それ は必要に応じて紐解くことにして、ともかく「イワレヒコ説話」の解読を読んでいく ことにする。

 神倭伊波礼毘古命、其の伊呂兄(いろせ)五瀬命と二柱、高千穂宮に坐(ま) して議(はか)りて云(の)りたまひけらく、「何地(いずこ)に坐さば、平 らけく天(あめ)の下の政(まつりごと)を聞し看(め)さむ。猶東に行か む。」とのりたまひて、即ち日向より発(た)たして筑紫に幸行(い)でましき。 (『神武記』岩波、日本古典文学大系本)

 「神武記」の冒頭は従来このように読まれてきた。この読みについて 古田さんは原文「猶思東行」を「猶東に行かむ」と「思」字を省略して読 んでいることを問題にする。

 これは宣長が「別に思ノ字をば読むべからず」(『古事記伝』十八)とい ったのに、後代の学者たち(岩波文庫本、角川文庫本も同じ)は従っている のである。これを「猶、東に行かんと思ふ」と読んだのでは、直接法「 」 内の文章として、なにか〝落ち着かない″のだ。だから、切り捨てたのであ る。
 だが、わたしの読み方からすると、〝この一字が邪魔になる。だから読ま ない。″これは正当な態度とはいえない。やはり、この「思」字が〝変でな い″ような読み方をすべきなのだ。

 古田さんはこの「思」という字の『古事記』での用例を調べあげている。 その結果『「直接法の中の第一人称の意志」(I will,we will)の用法 』はなく、『「思」の主語は第三人称(he,she,they)なのだ。』と結論 している。つまり、この一句は地の文であり、次のように読む。

 神倭伊波礼毘古命、其の伊呂兄五瀬命と二柱、高千穂の宮に坐して、議し て云ふ。「何の地に坐さば、平らけく天の下の政を聞し看さむ」と。猶東 に行かむと思ひ、即ち日向より発して、筑紫に幸行す。

 つまり、高千穂の宮で〝もう、ここにはいられない。どこに行ったらいい だろう″という話がはじまったのだ。そしてその後、「やはり東へ行こう」と いう意思が生まれ、その実行として日向を発して筑紫に向かうこととなった、 というのである。

 このように、いささかうるさく文脈の解読の正確を期したのには、理由が ある。
 従来は、右の「高千穂宮」を自明のこととして南九州の「日向国」にありと してきた(五ヶ瀬川の上流に高千穂町、高千穂峡があり、鹿児島県と宮崎県の 県境に高千穂峰がある。また宣長はこれを「大隅国」にありとし、そこも 「日向」と見なした)。
 しかし、『古事記』の表記のルールを一貫して辿ってき、確かめてきた今、 そのように見なすことは決してできない。なぜなら、「神武記」(中巻冒頭) のこの文の直前に当る、「神代記」(上巻末)の末尾につぎの文があった。

 故、日子穂穂手見命は、高千穂の宮に伍佰捌拾歳坐しき。御陵は即ち其の高 千穂の山の西に在り。

 この「高千穂の宮」について、わたしは筑紫(筑前)内と解した。その理由 は、一に日子穂穂出見命(山幸)は海神の宮への漂泊ののち、故国(筑紫) へ帰ったと記され、〝その後の出国″を記さないこと。二に、山幸の父、 二二ギノ命の項の「竺紫の日向の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ)」 (天孫降臨の地)の記事と分離して読むことはできないこと。この二 つだった。
 そうしてみると、その直後に出てくる、この神武記冒頭の「高千穂の宮」 (この宮の名の出現は『古事記』全篇の中でこの二箇所だけだ)を、別の場所 の、別の宮殿と解することは、いかにも不自然なのである。つまり、〝同じ 名前の両宮殿は、同一宮殿だ″――この率直な理解に立つとき、その帰結は、 意外な事実をさし示す。それはこうだ。

〝神武と兄とが話し合ったのは、筑前(糸島郡、もしくは博多湾岸)の宮殿に おいてだった″と。

381 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(35)
「ヤマト王権」の出自(3) ― 磐余彦
2005年9月3日(土)


(ウガヤフキアエズ尊)其の姨(おば)玉依姫を以て妃と為す。彦五瀬命を生む。次に稲厳(いなひ)命。 次に三毛入野(みけいりの)命。次に神日本磐余(かむやまといわれ)彦尊。凡(すべ)て四男を生む。 (神代紀、第十一段、本文)

 故、日向に坐す時、阿多(あた)の小椅(おばし)君の妹、名は阿比良比売を娶る。生む子は多芸志美美 (たぎしみみ)命、次に岐須美美(きすみみ)命、二柱坐すなり。(神武記)

 イワレヒコがどこで生まれたかは不明だが、その活動拠点は日向(宮崎県)である。イワレヒコの 最初の妻・アヒラヒメも日向(宮崎県)の人だ。(この「日向」が「筑紫の日向」ではないことは 既に論証されている。)このアヒラヒメは『書紀』(帝王本紀)では、「日向国の吾田邑の吾平津媛」 (神武紀)と書かれている。また『古事記』(神武記)に、「即ち日向より発して筑紫に幸行す。故、 豊国の宇佐に到りし時・…‥」(いわゆる「神武東征」の出立時の記事)とある。
 では日向(宮崎県)に阿多という地名があるだろうか。詳らかではないが古田さんは日向国臼杵(うすき)郡 (日向市近隣)の「英多」を候補地としてあげている。『この字面は普通「アガタ」 と読むことが多いが、「英虞(あご)郡」(志摩国)、「英賀(あか)郷」(播磨国)のような例からみると、「英多= アタ」であるかもしれない。』

 イワレヒコの拠点が日向(宮崎県)であったと断ずる理路を、古田さんは次のように述べている。

 「神武東征」の発進の地、およびその妻の出身地、そのいずれも、その日向(国)は、宮崎県で あって、福岡県ではない。―『記・紀』の表記に従うかぎり、そう考えるほかはないのである。
 従来、例外的ながら、北九州(糸島都)こそ「神武東征」の発進の地と見なす論者があった。 たしかに北九州は九州の政治・軍事・文化の中心をなしていた。それは遺跡上からも疑うことはできない。 また、「邪馬台国Lを筑後平野流域におき、その栄達を考える論者にとって、それは魅惑的な命題 であったろう。
 しかし、『記・紀』の表記のルールに正確に従う限り、そのような見地をとることはむつかし い。第一、「日向より発して筑紫に幸行す」というとき、「日向」は国名である。「筑紫の日向の 高千穂の……」といったときのような〝神聖なる太陽神の″といった、宗教的な修辞ではない。 〝例の日向の国″という感じなのだ。
 『古事記』の中の他の例を見よう。

(A)(建沼河別と大毘古と)相津に往き遇ひき。(崇神記)
(B)尾張の相津に在る二俣榲(ふたまたすぎ)(垂仁記)

 上の(A)は会津磐梯山で有名な福島県の「相津」だ。これに対し、(B)は同じ「相津」でも、愛知 県の方だから「尾張の相津」というのである。この「相津」が現在どこに当るか不明だが、いき なりこの「相津」を福島県にあて、〝福島県も昔は尾張国に属したのだろう〟などということは できない。
 このような表記のルールを正視する限り、神武東征の発進地の「日向(国)」は宮崎県であり、 天孫降臨の「筑紫の日向の……」は福岡県だ。この判別の道理を疑うことはできない。すなわち、 天孫降臨を宮崎県へもってきたり、神武東征発進の地を福岡県へもっていったりすることは、 ――それぞれの論者にとってそれがいかに誘惑的な命題であったとしても――『記・紀』の表記 事実を恣意的に処理しない以上、到底許されることではない。


 このあと、古田さんは、イワレヒコの兄弟や子供の名に『日向国から豊国、つまり九州東岸域の 「地名」がついている』ことを指摘しているが、ここでは詳述しない。
380 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(34)
「ヤマト王権」の出自(2) ― 鵜茸草葺不合
2005年9月2日(金)


 「海幸・山幸」説話で注目すべき点を古田さんは4点あげている。
(一)
 この海神の宮の位置は、六種類(『記・紀』)の説話どれからも特定できない。しかし、 海神の娘を「豊玉毘売」といい(各伝とも)、海神を「豊玉彦」(同、第一、一書)と言っ ている点から、対馬(上県郡(「豊玉」「豊」等、下県郡に「玉調」がある)または「豊 国」(大分県)と考えられる。

(ニ)
 山幸がこの事件のあと故国へ帰った、とされているが、この「故国」と は、当然筑紫(筑前)である。山幸はそこで没している。この説話の終 わりに
  後に久しくして、彦火火出見尊崩ず。日向の高屋の山の上(ほとり)の 陵に葬る。 (同、本文)
とある「日向」は筑紫(筑前)の日向だ(この本文は「日本旧記」の文で あるから、その点からも、ただ「日向の」といえば、「筑紫(筑前)の日 向」である)。

(三)
 『古事記』の、この説話の結びはつぎのようだ。
  故、日子穂穂手見命は、高千穂の宮に伍佰捌(はち)拾歳坐(ま) しき。御陵は即ち其の高千穂の山の西に在り。
 この「高千穂の山の西」の御陵とは、(ニ)で「日向の高屋の山の上」の陵 といっているのと同一である。すなわち、筑紫(筑前)の中なる「高千穂」 の「宮」や「山」である。
 「高屋」の「屋」は地名接尾辞であるから、固有の地名部分は「高」 である。一方、糸島郡内、高祖(す)山の西隣には、現在、高祖・高上・高 野・高田とつづき、博多湾岸にも高宮がある。

(四)
 豊玉毘売は山幸の故国へ来て鵜茸草葺不合(ウガヤフキアエズ)を生んだ のだ。したがってウガヤフキアエズの出生の地は、やはり筑紫(筑前)であ る。

 このウガヤフキアエズについて、古田さんは次のように記述している。

 ここで一見奇妙な問題を提起しよう。
 山幸は数奇な他国放浪の中で豊玉毘亮と結ばれたが、一児をもうけただけで 二人は相別れ、ふたたび相逢うことがなかった。毘売は本国(海神の宮)へ去 ったのである。このあと、山幸が一生独身のままですごしたとしたら、数奇の 子ウガヤフキアエズはたしかに唯一の子、つまり正統だ。――だが、それはむし ろ〝奇矯な想像″にすぎよう。
 当然、「正規の妃と正統の子供たち」が筑紫本国にいたはずだ。しかし、そ れらは(「日本旧記」には存在していたとしても)現在の『記・紀』には全く 姿をあらわしていない。ともあれ、各説話の語るところ、ウガヤフキアエズは 〝数奇で不幸な運命の中に育った異腹の子″といったイメージであって、「正規 の宮殿で育てられた嫡出の太子」という感じではない。すなわち、これはやは り「傍流の子」なのである。
 さて、その数奇の子ウガヤフキアエズは、どこで育ったのだろう。それも筑 紫だ。なぜなら、母(豊玉毘売)は、筑紫で子を生んで、この子をここに残し たまま本国(海神の宮)へ去って行ったのだから。

 このウガヤフキアユズは「山幸の故国(筑紫)で豊玉毘亮の妹、玉依毘売に 養育され、 成人してその養育者・姨(おば)玉依毘売を娶った。」と 記紀は伝えている。
 しかし、ウガヤフキアユズが姨玉依毘売を娶って何処に住んだのか、記紀と もに何も記述していない。ところが、その死んだ場所の記述がある。

久しくして彦波瀲武?草茸不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、 西洲の宮に崩ず。因りて日向の吾平の山の上(ほとり)の陵に葬る。(神代 紀、第十一段、本文)

 これを古田さんは次のように分析している。

(一)
 この一書は明らかに「日本旧記」でなく、「帝王本紀」だ。なぜなら、 九州(内の領域)のことを「西洲」といっているからだ。『書紀』 (帝王本紀)では、この語は、「中洲」の対語だ。
  東、胆駒(いこま)山を越えて、中洲に人らむと欲す。(神武紀、即位前紀)   既にして皇師、中洲に趣かんと欲す。(同右)
 これらはいずれも近畿大和の地(奈良盆地)を指している。

(ニ)
 だが、この「西洲」が九州内のどこを指すか、は明確でない。

(三)
 つぎは、「日向の吾平の山」だ。この近畿で作られた「帝王本紀」の中で、 いきなり「日向の」といった場合、宮崎県の日向だ。したがって、この地名は 同じ「帝王本紀」(神武紀)のつぎの文面と同一領域だと見なしえよう。
  (神武天皇)長じて日向国の吾田邑の吾平津媛を娶る。(神武紀、冒頭)

 以上をまとめよう。 (A) ウガヤフキアエズは〝数奇の子″として、たしかに海幸・山幸の説話に 名前は出現する(「日本旧記」にも)。しかし、その業績・活躍地・没地等は 「日本旧記」には一切記されず、不明である。
(B) ただ、その後の消息は近畿天皇家系の史書にのみあらわれる。
 その一つは、『古事記』にウガヤフキアエズは姨(おば)にして養母なる 玉依姫と婚したと伝えることであり、その二つは、「帝王本紀」に伝えるそ の陵墓の地である。それは宮崎県の日向にあった、と考えられる。

ここにはじめて、宮崎県なる「日向」の地が、おぼろな霧靄の中にかすかな 光を帯びて浮かび上がってきたのである。

379 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(33)
「ヤマト王権」の出自(1) ― 「海幸・山幸」説話
2005年9月1日(木)


 九州王朝の伝承とヤマト王権の伝承との関係をまとめておく。

 「景行天皇の熊襲征伐」「神功皇后の筑後討伐」の二説話はもともとヤマト王権の伝承には なかったものであり、実はその本体は九州王朝の発展史であった。
 それに対して、「天孫降臨神話」をはじめとする始祖神話群は事情が異なる。 筑紫(筑前)を原点とする九州王朝もヤマト王権も同一系統の始祖神話群をもっていた。 しかし「ヤマト王権」の単一的な神話(『古事記』と「帝王本紀」)とは異なり、「九州王朝」 のそれはずっと多様でバラエティに富んだ伝承をもっており、しかも「古事記」や「帝王本紀」より ずっと早くからすでに記録されていた。
 8世紀に日本列島を統一したヤマト王権は〝自己を正統化し、永遠の絶対者とする神話″の新 版の集成をはかった。そしてそのさい、先在の九州王朝の史書「日本旧記」の始祖神話(天孫降 臨等)を〝切り取って″自己の神話に「接合」した。

 以上のことを古田さんは次のようにまとめている。

第一
 先在の九州王朝と後在の近畿天皇家は、共通の始祖神話(天孫降臨等)をもっている。すなわち、 始源を共通にしており、後来、二つに分かれた王朝なのである。

第二
 始祖神話の原域は博多湾岸と糸島郡の両地域である。これはすなわち九州王朝の首都圏である。 したがってこの神話の本来の姿は〝九州王朝自身の神話″にほかならない。

第三
 天皇家は〝九州の一端(日向)から近畿へ来た″とみずから称する。そして右の「九州王朝の原域 神話」を、すなわち自己の神話として伝承してきた。つまり、九州王朝の神話圏からの分流としての 性格をになっているのである。


 ヤマト王権が九州王朝の神話圏からの分流であることを古田さんは神話に登場する神々の系譜の 分析を通して論証しているが、これも割愛する。いまは、本流・九州王朝の舞台=筑紫(筑前)がどのようにして 分流・ヤマト王権出自の舞台=日向(宮崎県)へと移ったのかという問題を取り上げることにする。
 古田さんはその「舞台廻し」の役割を担っているのが「海幸・山幸」説話だという。記紀の中の説話では 最もポピュラーなものなのだが、改めてそのあらすじをみておきたい。この長い説話のあらましを、古田さんが まとめているのでそれを掲載する。
 この説話の梗概を『古事記』によって記そう。

 ニニギノ命と木花之佐久夜見売(きのはなのさくやひめ)との間に三子が生まれた。 火照(ほでり)命と火須勢理(ほすせり)命と火遠理(ほおり)命の三人。このうち長子(火照命)は 海佐知毘古(海幸彦)、第三子(火遠理命)が山佐知見古(山幸彦) 彦)と呼ばれたという。そしてこの第三子は、亦の名を「天津日高日子穂穂手見(あまつひたかひこほはでみ)命」 といった(以下、「山幸」「海幸」と略称する)。

 山幸は兄(海幸)から借りた鉤(はり)をなくし、海辺で泣いているとき、塩椎(しおつち)神が来て、 「綿津見(わたつみ)神の宮に行け」とすすめる。その教えに従い、そこで海神の娘、豊玉毘売に会う。 三年過ごしたのち、赤海鯽魚(たい)ののどから、失った鉤を得て帰途についた。帰ってから海神にもらった 塩盈珠(しおみつたま)と塩乾疎(しおひるたま)という二つの珠の威力によって、彼(山幸)を敵視する 兄を服従させた。

 一方、豊玉毘売命は、山幸の子を妊身(はら)み、それを生むために山幸のもとへやってきた。そして まだ屋根も茸き終えぬ産殿にあわただしく入った。ところが、山幸が豊玉の願い(タブー)を破 り、産殿をのぞいたところ、彼女は「八尋和邇(やひろのわに)」に化(な)っていた。自分の本もとの身を 知られた彼女は、恥じて本国(海神の宮)へ帰っていった。そのとき生まれた子が「天津日高日子波限建鵜茸 草葺不合(あまつひたかひこなぎさたけうがやふきあえず)命」である。

 以上の説話について、『書紀』では五種類の異伝を採録している(神代紀、第十段、本文、第一~ 四、一書)。しかも皆、かなりの長文だ。つまり、この「海幸・山幸説話」は、「日本旧記」においても、すで に独自のユニークな存在となっていたのである。