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376 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(30)
「神代紀」の解読(7) ― 「韓(から)国」問題
2005年8月29日(月)


此地(ここ)は韓国(からくに)に向ひ、笠沙の御前を真来通(まきとほ)り て、朝日の直刺(たださ)す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚吉(いと よ)き地(ところ)。

 ニニギが「竺紫の日向の高千穂のクシフルタケ」に降臨したときに述べた言 葉だ。このくだりは代々の学者たちを悩ませてきた難解な問題を孕んだ個所だ そうだ。

第一の問題。「韓国に向ひ」。
 従来の定説「日向=宮崎県」説では、 説明できない句だ。宮崎県が「韓国に向」っている?
 本居宣長はこの韓国は、朝鮮半島の韓国ではなく「空国(からくに)」= 「不毛の荒れた国」だと、またしても苦し紛れの曲解をひねり出している。 古田さんは痛烈に批判している。『まさに「白馬ハ馬ニ非ズ」の類の論だ。つまりは、それほど にこの一句に困惑してきたのである。』

第二の問題。「真来通り」。
 「笠沙の御前」をただ通ってゆく、というだけのことなら、 なんとなく〝大げさな〟表現ではないか。                        従来説。これを『日本書紀』の「頓丘(ひたお)より国覓(ま)ぎ行去 (とお)りて」にあてて、「国まぎ」(よい国を探し求めて)の意と解した。 これでは二二ギの発っした言葉ではなく、「地の文」になってしまう。 宣長も『語のさまを思ふにも、「笠沙の御前を真来通り」と云は、 必地語にして、詔(のたま)ふ御言には非ずかし」と言っているそうだ。
 そこでさまざまな学者がさまざまに、この個所をいじくりまわしていると いう。例の「原文改定」だ。古田さんは例として本居宣長と明治の学者の読みを をあげている。

〇本居宣長
 膂肉(そじし)の韓国を、笠沙の御前を真来通りて詔(のり)たまはく、 此地は朝日の……
〇田中頼庸
 是に笠沙の御前に真来通りて詔りたまはく、比の地は韓国に向ひて、……

 二二ギの発言は、後半の「朝日・夕日」部分に〝切りちぢめられてしまった″ 形だ。これはあまりにも身勝手な原文のきりきざみだ、とわたしがいったら、 これら江戸・明治の大家に失礼だろうか。さすがに現代の研究者はこれほど 大胆な非理は犯しえなかった。そのため、この未開拓の一節はあたかも太古の 原始林のように、『古事記』学者の前に厳然と立ちはだかってきたのである。

 つまりいまだ誰もまともな解答を提出できていないということだ。
 古田さんの解読は次の通りである。
 しかし、わたしの前に開けてきた新しい地平は、この難解の個所にもまた、 平明な通路を見出させることとなった。問題の急所は、文形だ。

① 向韓国真来通(6字)
② 笠沙之御前而(6字)
③ 朝日之直刺国(6字)
④ 夕日之日照国(6字)

 上に見えるように、原文はキッチリと「漢字六字ずつ四行の対句形」に なっているのだ。中国風の漢文から見れば、あまりうまいとはいえないも のの、とにもかくにも整然たる〝日本式対句漢文″なのだ。この明白な対 句形を勝手に破壊したまま読んできた――ここに従来の読解が〝八幡の薮 知らず″のような迷路に永く踏み迷うこととなった根本の理由があったの である。


 ここでハタと考え込んでしまった。八幡の薮知らず?なんとなく意味は わかるけど、知らないなあ。聞いたことないなあ。手元にある「ことわざ 辞典」2冊を調べてみたが、ない。もしかするとと思って広辞苑を調べた が、ここにもない。もしかしてインターネットでわかるかな?ありまし た、ありました。あり過ぎました。検索結果はなんと499件!インターネ ットってすごいなあ。「インターネットの辞典いらず」だな。

 市川市に「不知八幡森」というのがあって、そこが「八幡の藪知らず」と 通称されているのだそうです。そこに市川市が設置した「解説文」とい うのがあったので、それを全文掲載しよう。(このようなことに興味はない よ、という方々、お許しあれ。)

不知八幡森(通称:八幡の藪知らず)
 江戸時代に書かれた地書や紀行文の多くが、八幡では「藪知らず」のことを 載せています。そして「この藪余り大きからず。高からず。然れども鬱蒼とし てその中見え透かず。」とか、「藪の間口漸く十間(約18メートル)ばかり、 奥行きも十間に過ぎまじ、中凹みの竹藪にして竹・漆の樹・松・杉・柏・桑の 樹などさまざまな雑樹生じ…」などと書かれたりしていますが、一様にこの藪 知らずには入ってはならない所、一度入ったら出てこれない所、入れば必ず祟 りがあると恐れられた所として記載され「諸国に聞こえた名高き所なり」と言 われて全国的に知られていました。
 入ってはいけない理由については、

●最初に八幡宮を勧請した旧地である。
●日本武尊が陣所とされた跡である。
●貴人の古墳の跡である。
●平将門平定のおり、平貞盛が八門遁甲の陣を敷き、死門の一角を残したの で、この地に入ると必ず祟りがある。
●平将門の家臣六人がこの地で泥人形になった…

と、いろいろ言われてきました。中でも万治年間(1658~61年)、 水戸黄門(徳川光國)が藪に入り神の怒りに触れたという話が、後には錦絵と なって広まりました。「藪知らず」に立ち入ってはならないという本当の理由 が忘れ去られたため、取り沙汰されてきたものではないでしょうか。
 また理由のひとつとして「藪知らず」が「放生池」の跡地であったからでは ないかとも考えられます。古代から八幡宮の行事に「放生会」があり、放生会 には生きた魚を放すため、池や森が必要で、その場所を放生池と呼びました。 藪知らずの中央が凹んでいることからすると、これは放生池の跡であるという 可能性が十分に考えられます。市川市周辺地域は中世には千葉氏の支配下にあ りましたが、千葉氏の内紛で荒廃し、八幡宮の放生会の行事が途絶えてしまい、 放生池には「入ってはならぬ」ということのみが伝えられてきたことから、 以上のような話が作られていったものと思われます。

 「不知八幡森」の碑は安政4年(1857年)春、江戸の伊勢屋宇兵衛が建てた ものです。

市川市教育委員会

 思わぬ横道に逸れてしまった。「韓国」問題の続きはまた明日。

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