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375 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(29)
「神代紀」の解読(6) ― アマテラスの生誕地
2005年8月28日(日)


ここをもちて伊邪那伎大神詔りたまひしく、「吾はいなしこめしこめき 穢(きたな)き国に到りてありけり。故、吾は御身((みみ)の禊為む。」 とのりたまひて、竺紫の日向の橘の小門(をど)の阿波岐(あはき)原に 到りまして、禊き祓ひたまひき。
(中略)
ここに左の御目を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、天照大御神。次に右 の御目を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、月讀命。。次に御鼻を洗ひた まふ時に、成れる神の名は、建速須佐之男命。 (古事記)

 黄泉の国から逃げ帰ったイザナギが禊をしたときに、アマテラスやスサ ノヲが生まれた。その誕生の地が

(イ)竺紫の日向の橘の(ヽヽ) 小門の阿波岐原

 日本書紀では次のように書かれている。

(ロ)筑紫の日向の小戸の橘の檍(あわぎ)原 (神代紀、第五段、第六、 一書)
(ハ)故、橘の小門に還向(かえ)りて払ひ濯(すす)ぐなり。 (神代紀、 第五段、第十、一書)

 この「日向の橘の小門」はどこか。これが今回のテーマである。古田さんは この論考を前回の天孫降臨の表記と比べることから始めている。それは次のよ うだった。

(A)筑紫の日向の高千穂の(ヽヽヽヽ) >くしふるの峯 (第一、一書)

 古田さんの論はおおよそ次のように進められる。
 (A)の傍点部が地勢を示す地形詞だとすると、(イ)の傍点部「橘の」 も、地形詞である。「太刀鼻(たちはな)」とも書かれる岬状の突出部を 示す。(イ)(ロ)で、「橘の」の位置が前後しているのも、「橘の小戸」 が「橘(中地名)→小戸(所属の小地名)」の形の表記ではないことを示し ている。このように考えをすすめてくると、現地の固有名詞部分は「小戸」 となる。
 「筑紫の日向」に当る高祖山付近に、この地名があるだろうか?博多湾岸西部、姪 (めい)の浜付近にある。ここは福岡市内で現在パスの停留所にもこの名があ る。その海岸は「能古島(のこのしま、残島」にピッタリ相対している。 その姪の浜海岸に「小戸(おど)神社」がある。
 さらに古田さんは、『福岡県神社誌』(昭和19年刊)の住吉神社(福岡市住吉町)の項 を引用している。

 「当神社は伊奘諾命の予母都(よもつ)国より帰りまして、楔祓給ひし筑紫の 日向の橘の小戸の橿原の古蹟」

 さらに同名(住吉神社)の郷社が「福岡市姪浜町字宮の前」にあるという。 古田さんは「伝説は必ずしも虚構ではなかったようである。」と結んでいる。

 さて、つぎの問は「アハギ原とはなんだろう」だ。ここは古田さんの文章をそ のまま引用しよう。

 「原」は例の「パル」だ。〝村落″のことである。『隋書』たい(イ+妥)国伝に「阿輩?弥(アハキミ)」とある。従来、 これを「オホキミ」あるいは「アメキミ」と解してきた。しかし、「阿輩」 を「オホ」や「アメ」と読むのは無理だ。思うに、これは「アハ君」であって、 〝神聖な君″といった意味ではあるまいか。妻は 「難弥(きみ)」。とすると、ここの「アハ木」は〝神聖な木″(または城 (き))の意となろう(檍は、橿(あし)またはもちの木)。

 注意すべき追記。それは、神功紀に「日向国の橘小門」という表現のある ことだ。これが「天照大神誕生地=宮崎県」説の屈強の史料となったようで ある。しかし、これまでの論理性を一貫させよう。この「日向国」は疑う余 地もなく、宮崎県だ。そこにも「橘小門」と呼ばれる地点があるのだ。 「立鼻」という地形にもとづいて名づけられたものであろう。
 しかし、これを天照大神誕生の「竺紫の日向の…橘小門」(『古事記』) と同一視することは許されない。なぜなら、先にのべたように、『古事記 』の叙述の中では、「筑紫」は福岡県の意味で用いられているのであるから。 それゆえ、表記と解読のルールに厳密に従うかぎり、両者は別だ。すなわち、 天照誕生は福岡県(筑前)の中だと見なすほかないのである(このさい、 他の一つの可能性がある。『書紀』(帝王本紀)の編者が、右の論理性を 見失い、原文では実は福岡県だった「日向の橋小門」を「日向の国の……」 とあやまり、改定したというケースである。しかし、今、安易な「原文誤謬 説」はとらないこととする)。
 以上の論証によれば、北は能古島に相対し、西南は高祖山連峯を望む、 この博多湾岸の姪の浜海岸こそ、「天照大神誕生の聖地」だったのである。 このことのもつ意味は、この本全体の進行の中でくまなく明らかにされて ゆくであろう。


 余談ながら、昨日から村上龍の「半島を出よ」を読み始めた。主舞台は福岡 である。その小説でこの論考に出てくるのと同じ地名に出会って、その偶然に たいへん興がわいている。もしかすると村上龍さんが舞台に「福岡」を選んだ 理由の中に、かってそこが「神代紀」や「九州王朝」の舞台であったことが、 無意識にでも、あったのではないかと、勝手な想像をしている。
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