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369 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(22)
九州王朝の形成(6)
2005年8月21日(日)


 「景行紀」に記されている九州大遠征は実は九州王朝による九州統一譚 だったということは先に明らかにされた。(「第361・362回」8月14日・8月15日) 古田さんの論考はその九州一円を平定した大王の分析に進む。突破口は 「景行紀」の中の次の一段である。

(景行18年)秋7月の辛卯の朔甲午に、筑紫後国の御木(みけ)に到りて、高田 行宮に居す。時に僵(たお)れたる樹有り。長さ970丈。百寮、其の樹を蹈みて 往来す。時人歌ひて曰く、

朝霜の 御木のさ小橋 まへつきみ い渡らすも 御木のさ小橋

爰(ここ)に天皇、問ひて曰く「是、何の樹ぞや」と。一老夫有りて曰く、 「是の樹は歴木(くぬぎ)なり。嘗(かつ)て未だ僵れざるの先、朝日の暉 (ひかり)に当りて、則ち杵嶋(きしまの)山を隠す。夕日の暉に当りては、 亦阿蘇山を覆(かく)すなり」と。天皇曰く、「是の樹は神木なり。故に是の 国は宜しく御木(みけの)国と号すべし」と。(景行紀)

 古田さんは「百寮」という語に注目する。まず中国史料の用例を引いて、 「百寮」とは〝天子のひきいる、朝廷内のすべての官僚群″を指す用語である ことを明らかにする。そして次のように分析する。

 景行遠征の場合、これは全く「不明の一語」だ。なぜなら、近畿からの長途 遠征のはずなのに、ここに突如〝朝廷の全官僚群″が出そろうとは!
 しかしこの奇怪な一語も、今新しく切りひらききたった史料批判の視点から は、なんの不思議もない。なぜなら、都は筑紫の中央部にあった。それで長途 の遠征を大成功裡に終えて凱旋した筑紫の王者に対して、この筑紫南端の行宮 に「百寮」が来り参じて出迎えたことは当然であるから。
 ここは例の筑後山門と隣接している。しかし、ここはこの王者の「本拠」では ない。それは、「高田行宮」の語が証明するであろう。「行宮」とは〝天皇の 仮宮″のことであるから。では、本拠はどこだろう。このあと、この遠征軍は 八女(やめ)国(今の八女市)を経て浮羽(うきは)(今の浮羽郡)に向か う。先にのべたように、ここでこの遠征軍の記事は突如終っている。では、 ここが最終目標地だろうか。

 次に古田さんは次の一節を引用している。

(景行18年)8月、的邑(いくはのむら)に到りて食を進む。是の日、膳夫等 盞(うき)(酒杯のこと)を遺(わす)る。故に時人、其の盞を忘れし処を 号して浮羽と曰ふ。今、的(いくは)と謂ふは訛(なまり)なり。昔筑紫の 俗、盞を号して浮羽と日ふ。

 再度「景行紀」の遠征地図をみてみよう。

景行紀

 古田さんの分析は次のようだ。

 ここは的(生葉=いくは)の「邑」であって、「京」ではない。その上、 「進食」(食物を進める)の用語が用いられている。

 進食之礼。(『礼記』曲礼上)

 つまり、この語は〝主人が客をもてなす″ときに使う語だ。このさい「客」 は遠征軍の主たる王者であり、「主人」は浮羽の邑の邑長・邑人たちである。 してみると、ここはいまだ王者の都城の地ではない。では、それはどこだろう。 この最終行路で、経てきた領域を考えよう。

御木(三池)→八女(八女)→浮羽(浮羽)

 筑後の南西端から東北方にむかい、筑後の北東部に達している。ここは筑後 の北辺である。そしてそのさらに北は――筑前だ。  先に「筑紫の空白」といったが、より厳密には「筑前の完全空白」なのであ る。その筑前南辺には筑後討伐の根拠地となった松峡宮(朝倉郡三輪町付近) がある。さらに北のかた、太宰府から橿日宮に通ずる道もある。これらがすな わち真の空白部、〝遠征軍の故国″なる都の地だったのである。

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