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367 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(20)
九州王朝の形成(4)
2005年8月19日(金)


 「神功皇后紀」にあたる記事は『古事記』にはない。『古事記』にない系譜は、これまでの論理 によれば、もともとは「ヤマト王権」の伝承にはなかったものである。ではなぜ、『書紀』は「神 功皇后紀」を事改めて設けたのだろうか。
 「日本旧記」にある九州王朝の記事を剽窃・改竄するとき、九州王朝にしばしば登場する「女王」 の存在が頭痛の種だったのだ。それまでのヤマト王権には「女王」はいなかったのだから。卑弥呼や 壱与を男の王に割り当てるわけにはいかない。「女王」の時代を創らなければならなかった。 「神功皇后紀」を設けて、そこに「日本旧記」の「女王」関係記事を挿入したというわけだ。このこと についての古田さんの考察を読んでみよう。

 ここ(神功皇后紀)には、「卑弥呼・壱与」の記事が、二人の実名を伏せ、「倭国の女王」という抽象 的な表現で、つまりあたかもこの二人が「一人の女王」であるかのように見える形で、挿入されている。 この史料事実を見つめるとき、『書紀』の編者の「新規治世」特設の〝設立趣意書″第一項目が、ほかな らぬ「女性である主権者の存在」という、〝性″の問題にあった、と考えざるをえない。
このように論理を追ってくると、九州王朝のはじめ、まず筑紫一円を平定した燦たる始源の王者 が「日本旧記」中で女王として書かれていたのだ、という命題に必然的にたどりつかざるをえな い。

 さて、筑後山門の田油津媛は、この筑前の女王と同時代の人であった。この田油津媛の存在自 体も、当時筑紫の地が〝女王活躍期″であったことを示している。では、この時代はいつごろで あろうか。もちろん、この説話自体から決めることはできないけれども、一つの目安がある。そ れは、中国史書に記録された三世紀卑弥呼の存在だ。彼女は筑前を本拠として三十国に君臨して いた。その三十国は九州を中心として瀬戸内海西域に及んでいたのである。
 したがって卑弥呼は、筑後を討伐し、はじめて筑紫一円を定めたこの神話的女王とは、もちろ ん同一人物ではない。はるか後代の存在である。逆にいえば、この筑後討伐の女王は、三世紀よ りはるか古えの時期の人物として語り伝えられていたのである。
 この点、『三国志』魏志倭人伝に示唆に富んだ叙述がある。

 其の国、本亦男子を以て王と為し、住(とど)まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年、 乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰う。

 つまり、現在(三世紀)は女王だが、本はやはり(中国や東夷の諸国と同じく)男王の時代が 7,80年(二倍年暦であるから、実際は35~40年あった、というのである。
 卑弥呼という女王の時代、わたしたちはそれを〝太古の女権時代″と錯覚しがちだ。しかし、 実はその時期はすでにすぎ、この国もいったん男王期に入っていたのである。
 ではなぜ、この「相攻伐すること歴年」という乱世の中で、女王が「共立」されたのだろうか。 それは、はるか過去(男王期以前)に〝偉大なる名女王の時代″が倭国の歴史上に存在していた からだ。わたしには、そう思われる。その輝かしい時期の女王説話は、統合の王者として人々の 間に深く広く語り伝えられ、一個の「共同幻想」と化していたのである。その神話的・伝説的時 代の「偉大なる女王」の記憶に頼って、人々は〝分裂からの脱出路″を見出そうとした。そして それが〝卑弥呼と名のる一女子″に託せられることとなったのである。その方法――巧妙な「共 同幻想」の利用――は成功した。いささか推定の力に頼りすぎたようであるけれども、従来から、 わたしにはすでにそのように思われていた。

 ところが、果然、いま偉大なる筑紫統合の始源の女王の姿を、わたしはこの神話伝承の中にか いま見ることとなったのである。

 古田さんの次の問は「では、この神話的女王の本拠はどこだろうか。」である。
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