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364 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(17)
九州王朝の形成(1)
2005年8月16日(火)


 日本書紀の仲哀天皇・神功皇后の熊襲遠征の記事の中に次のようなくだりがある。

(A)
時に岡県主(おかのあがたぬし)の祖熊鰐(おやわに)、天皇の車駕(みゆき)を聞き て、予(あらかじ)め、五百枝(いおえ)の賢木(さかき)を抜き取りて、以て九尋 (ここのひろ)の船の舳(へ)に立てて、上枝(かみつえ)には白銅鏡(ますみの) を掛け、中枝(なかつえ)には十握(とつか)剣を掛け、下枝(しもつえ)には八尺瓊 (やさかに)を掛けて、周芳(すわ)の娑麼(さば)の浦に参り迎ふ。〈仲哀紀8年〉

(B)
又、筑紫の伊覩県主(いとのあがたぬし)の祖五十迹手(いとて)、天皇の行を聞き、 五百枝の賢木を抜き取り、船の舳艫(もとへ)に立て、上枝には八尺瓊を掛け、中枝に は白銅鏡を掛け、下枝には十握剣を掛けて、穴門(あなど)の引嶋(ひきしま)に参り 迎へて献る。〈同上〉

 鏡と剣と玉。「三種の神器」めいたものを舟に飾って天皇を出迎えたという記事だ。

「三種の神器」といえば、戦前の人にはおなじみだ。〝天皇が神の子孫である証拠に、代々「三種 の神器」が伝えられてきた″と戦前の教科書では教えられた。が、戦後史学ではうってかわって 〝評判″がわるい。例の「後代造作説話」では、いつも槍玉にあげられている。
 しかし、戦後史学にとって、いささか〝気になる″事実がある。それは、筑前、つまり九州北 岸の古い地層から次々とこの「三種の神器」の組み合わせで遺物が出土してくるのだ。しかも、 現代の考古学で漢代(紀元前後)と見なされている古い遺跡から、なのである。
 だから、右にあげた岡県主(遠賀(おんが)川付近)や伊覩県主(糸島郡) は、それらの遺跡の、いわば〝御当地″なのだ。とすると、〝どうせ、後代の造作さ!″と一笑に付す ることのできぬ真実味(リアリテイ)をもっているのである。

 さて今は、わたしの史料批判の立場にたちもどろう。
 上の(A)(B)の記事は、共に『書紀』の記事だ。『古事記』には一切出現しないのである。 だが、従来の見地に固執する論者はいうだろう。〝神功の筑後平定譚とちがって、こんな個所まで 「近畿天皇家の説話であることを否定しなくてもいいではないか。だって、現に仲哀・神功は橿日宮 までは行ったのだから、そこにはじめから付属していた説話と見てもいいではないか?」″と。
 ところが、そうはいかない。つぎの例を見ていただこう。


 古田さんがあげた例は次の景行紀の記事である。

(C)(景行12年、9月、周芳の娑麼)爰(ここ)に女人有り。神夏磯媛(かむなつそひめ)と曰ふ。 其の徒衆(やから)甚だ多し。一国の魁帥(ひとごのかみ)なり。天皇の使者至るを聆(き)きて、 則ち磯津山の賢木を抜きて、以て上枝には八握剣を挂(か)け、中枝には八咫(やたの)鏡を挂け、 下枝には八尺瓊を挂け、亦素幡(しらはた)を船の舳に樹(た)てて、参り向ひて啓して曰く、 ‥‥‥〈景行紀〉

 この(C)が先の(A)(B)と全く同じタイプの説話であることは誰にも否定できまい。 違う点は舟の上の三つの枝に飾る宝器の順序だけだ、と古田さんは指摘している。それをまとめると つぎのようになる。


     上    中    下
 (A) 白銅鏡  十握剣  八尺瓊
 (B) 八尺瓊  白銅鏡  十握剣
 (C) 八握剣  八咫鏡  八尺瓊

 この事実についての古田さんのコメントはこうだ。
 わたしはこの表を見ると、「魏志倭人伝」のつぎの文面を思いおこす。「男子は大小と無く、皆 鯨面(げいめん)文身す。……諸国の文身各々異なり、或は左にし、或は右にし、或は大に或は小に、 尊卑差有り」つまり、「鯨面文身」という点は共通していながら、各地方や階級でタイプがちがってい る。逆にいうと、そのタイプを見れば、どの地方かなんの階級かわかる、というわけだ。

 今の「三種の神器」の場合も、「三つでワン・セット」という点は共通しながら、各地方でか け方の位置や呼び名に、それぞれの流儀をもっているのである。
 ところで、景行の熊襲遠征譚の場合、その全体が近畿天皇家とは全く関係がないことはすでに 立証した。景行は九州へなど全く足もふみ入れていないのだ。とすると、(C)は当然、景行とは関 係がない。九州一円平定を行なった九州の王者「Ⅹ天皇」を迎えた説話、つまり「日本旧記」の 一節だ。この(C)もまた、『古事記』には全く姿を見せぬ説話なのであるから、今まで辿りきたっ た論理の進行上、これは不可避の帰結である。とすると、この説話と同じタイプ、ワン・セット の説話である(A)(B)説話も当然その運命を共にするほかはない。「日本旧記」からの 〝移植部分″なのである。


 ここで古田さんは問いかけている。『では、この(A)(B)(C)の三説話は「日本旧記」の中におい てどちらの平定譚に属していたのであろう。筑後討伐譚か、九州東・南部討伐譚か。』
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