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363 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(16)
「熊襲」とはどこか(7)
2005年8月15日(月)


 以上の謎を解く鍵を古田さんは「景行紀」の次の一節の中の「巡狩」という 概念に見出した。

十八年春三月に、天皇、将(まさ)に京に向ひ、以て筑紫国を巡狩せんとす。

 「巡狩」とは「天子が辺境を巡行すること」であり、中国の史書に頻出する 言葉だという。(岩波の日本古典文学大系「日本書紀」では「巡狩す」を「めぐりみそな はす」と読んでいる。)

 さて、導きの糸はこうだ。この「京」は、近畿の都のことだとすると、近畿 を原点として、「筑紫国」を「巡狩」する、というのなら、当然筑紫国自体を 「辺境」と見なしていることとなる。とすると、筑後から筑前にむけて、つま り筑紫国を南北に巡るのでなければ、この語の内容にふさわしくない。
 ところが、巡行の事実は、熊本県から島原半島へ行き、このあと「筑紫の 南辺」(福岡県の南辺)を往復しているのである。「筑紫の南辺」だけをめぐ ることが、なぜ「筑紫国巡狩」となるのだろうか。変だ。
 この問いを正確に見つめて、論理的におしつめてゆくと、その帰着は意外な 地点にゆきつく。――これは、筑紫の中央部(たとえば太宰府近辺)を原点 として、筑紫国の辺境(ヽヽヽヽヽヽ)たる「南辺」 を「巡狩」しているのではないか、と。そう考えると、「巡狩」の語の用法に まさにピッタリだ。すなわち、この場合「京」とは、筑紫の中央部(ヽヽヽヽヽヽ) にあるのである(この文は、率直にいって、「京」に向かう、その行路の途中 に「筑紫国南辺巡狩」がある、そういった感じだ)。

 以上の「巡狩」をめぐる考察から、いままでにあげられてきた問題点・疑問点は 次々と解きほぐされてくる。
 第一、「筑紫の空白」は当然だ。この謎の遠征軍の、真の出発地は「筑紫」 そのものだったのだから。筑紫を「本国」とする遠征軍なのだ。筑紫は現在 の福岡県が示しているように奇妙な形をしており、その東端は関門海峡にと どいている。当然、この海峡をおさえるため、両岸を占拠していたであろう。 とすると、その東岸(山口県西部)に「周芳の娑麼」という、この遠征軍発 進地があったこととなるのである。

 第二に、九州東・南岸は「討伐」、九州西岸は「巡狩」という形態もなんら 不思議ではない。この筑紫国は、熊本県をすでに「安定した領域」としており、 未征服地たる東・南岸を討伐するのが、この遠征軍の目的なのである。

 第三に、「浮羽」がこの大遠征の終着点になっているのも当然である。 「辺境巡狩」はここで目的を達した。あとは辺境でなく、「京」である筑紫 中央部(たとえば太宰府近辺)に入れば、それでいいのだから。すべてきわ めて自然な巡路だ。いきなり阿蘇山地群を大飛躍して「日向」から再出発す る必要などいささかもない。

 第四に、「地名の詳述」という点。日本武尊命や仲哀天皇・神功皇后の説話 は明らかに近畿天皇家を原点とする説話だ。出現地名も乏しい。ところが、そ れと全く異質の地名群詳述。それは異質の系列の説話記録であることを物語る。 つまり、これは筑紫を原点とする、筑紫の王者の九州東・南岸平定譚だ。 だから、九州内部地名にきわめて詳しいのも当然なのである。

 さらに第五に、以上の〝景行天皇の熊襲遠征説話は本来近畿天皇家の説話で ないものを、あとからはめこんだものだ″という命題には、最大の証拠がある。 それは、この説話が『古事記』に全く出現しない、という、その一事である。  考えてみよう。この説話は『記・紀』の中で全く異色の存在だ。なぜなら 「神武東征」をのぞけば、近畿なる天皇家にとって、天皇自身による、最初に して最大の遠征譚、しかも唯一の完全勝利譚だ。先にのべたように、日本武尊 の場合は「暗殺譚」にすぎない。仲哀遠征の場合は「天皇敗死譚」だ。これら に比べて景行遠征の場合は文句のつけようがない〝輝かしき大武功〟だ。
 それなのに、なぜ『古事記』はこれを載せないのだろう。もし、この伝承が 真に「近畿天皇家内伝承」として七、八世紀まで伝承されていたのなら、 なぜ、だれが、これを削除するだろうか。近畿天皇家自身の庭の真只中で。
 天武天皇が「削偽定実」だ、といって削るだろうか。この「実」とは天皇家 中心主義という大義名分上の「実」である。それなのになぜ、この輝く大武功 を削る必要があろうか。稗田阿礼が暗誦し忘れたというのか。考えられない。 太安万侶が独断で削ったのか。それも到底許されることではない。
 その答えは一つ。一この説話は本来、近畿天皇家内の伝承には存在し なかったのである。それは、先にあげた「利害のフィルター」を通して見ても、 疑いえぬ、自明の帰結である。
 では、どこから〝取って″こられたのか。それはこの説話内容の示すとこ ろ、筑紫を原点とする「九州王朝の説話」でしかありえない。すなわち、まず 筑紫を基盤とし、その上でさらに九州一円を勢力範囲におさめた、その時点の 征服譚にほかならないのである。

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