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362 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(15)
「熊襲」とはどこか(6)
2005年8月14日(日)


 今回から、熊襲説話の中では一番年代の古い「景行天皇の熊襲大遠征」の解読だ。
 この説話は、これまでの二つの熊襲説話とは全くちがった性格が二つある。

第一
 「景行天皇の熊襲大遠征」は『書紀』にだけあって、『古事記』には全くない。
第二
 「仲衷・神功の熊襲遠征説話」ではただ一つであり、「日本武尊の熊襲暗殺説話」では皆無 であった地名が「景行天皇の熊襲大遠征」ではやたらと出てくる。
 発進地の周芳(すおう)の娑麼(さば)(山口県防府市佐波付近)をはじめ、九州内部約20 個の地名が進路順に次々とハッキリ書いてある(下の地図参照)。

景行紀

 この点について古田さんは次のような戸惑いを述懐している。

 後代の研究者であるわたしたちにとって大変ありがたい話なのだが、実はそのことが変なので ある。なぜなら、時代的にあとに出てくる日本武尊(景行天皇の代)や仲哀・神功の方に地名が たった一つしかあらわれないのに、より古い景行の方はこんなに詳細をきわめているとは! 率 直にいえば、日本武尊や仲哀・神功の方はたしかに古代説話らしい無邪気な大らかさ(粗放さ) をもっているのに、こちらの方はこれではまるで逐一の〝遠征記録〟だ。少なくとも伝承の素朴 と記録の精緻と、両者はすっかり性格がちがうのである。

 以上の二点の特徴に加えて、古田さんは「景行説話」の内容上の問題点を四点あげている。

その一 「筑紫の空白」問題。
 景行の遠征路ほぼ九州の全域にわたっているのに筑紫だけはほとんど全く立ち入っていない。 それも、筑紫南辺はくりかえし往復していながら、肝心の筑紫中心部へは入っていない。『「こ の奇怪な「筑紫の空白」は一体どうしたことだろう。』

その二 「浮羽ー日向」間の大飛躍問題。
 『「娑麼――浮羽」間は、順を追って進む地名が約20も列記されている。ところが、最終点の浮 羽に来て突如、「天皇、日向より至る」〈景行紀19年項〉という文面に転換している。「浮羽 - 日向」間は距離も相当遠い上、その間は阿蘇山地にさえぎられている。そ れなのに、途中のルートや経過地を全く書かず、いきなり「日向より」では、あまりにも唐突だ。 これまでの詳密な地名列記と、鋭い断層がありすぎるのである。これも奇怪というほかはない。』

その三 「討伐と巡行」問題。
 この説話の遠征路は前半(討伐)と後半(巡行)に分かれている。
[討伐]=娑麼(山口県)→襲の国(鹿児島県)→日向(宮崎県)
[巡行]=日向→葦北(あしきた)(水俣市付近)→高来県(たかくのあがた) (島原半島)→浮羽(福岡県)
 『つまり、前半の九州東・南岸部は「討伐」、後半の九州西岸部は「巡行」という形である。 これは変だ。なぜなら、もし近畿の都を原点として見た場合、この逆ならば自然であろう。より 近い地域が巡行、より遠い辺境が討伐となるべきだからだ。』

その四 「日向、非聖地」問題。
 神武東征の出立地、つまり「ヤマト王権」発祥の地である日向へ来ても、景行は何の感慨も持 たない。『一度もそれらしい言葉をのべないのだ。シーザーの名句「来た、見た、そして勝 った!」ではないが、〝わたしは今、わが祖先の発進の聖地に来た!″ こういったたぐいの 感激の辞が一行くらいあってもいいではないか。ところが、一片すらない。』

 これらの疑問点については、とうぜん、従来の論者たちもふれている。その理論と古田さんの 批判は次のようである。
 まず「その一」について。

 従来の論者も、この間題に時としてふれている。そしてつぎのようにいう。〝筑紫はもはや天 皇家にとっては安定した勢力範囲となっていたので、今回の討伐の対象ではなかったからだろ う″と。しかし、この理由づけは、よく考えると一層おかしい。なぜなら、近畿からの遠路の征 討軍だ。筑紫がそんなに安定した領地だったのなら、まずここに立ち寄り、遠路の疲れをいやし、 補給をすませ、ここを根拠地として、九州の東・南部への征討に出発するのが当然ではないか。 また、もしかりに先を急いで筑紫に立ちよらず、直ちに九州東・南部で征討戦を行なった、とし よう。それなら、それが完了したあとは、その〝安定した領域″たる筑紫へ堂々と凱旋して、当 地の大歓迎をうけるべきではあるまいか。それもせず、目と鼻の先の「浮羽(うきは)」から、 そそくさと日向へひきかえすとは! 不自然きわまりない。こう考えると、従来の論者の説明は、 率直にいって〝説明になっていない″のではあるまいか。
 しかも、大切なのはつぎの点だ。すなわち、このような大矛盾は、例の津田学説――戦後史学 の得意とする後代造作説をもち出してみても、なんの解決にもならない、という一点である。 〝7、8世紀の大和朝廷の史官など、こんな矛盾にも気づかぬ、そんな程度の頭のやからだ″ ――もし、こんな〝軽侮″の概念をもちこんで解決するとしたら、それは史料解読上、フェアで はない。

 次に「その二」について。

 津田左右吉も、この点を疑い、「あの物語を書きとめた人の頭には、さういふことが思ひ浮ば なかったものと見える」(『古事記及び日本書紀の新研究』514ページ)といっているが、 『記・紀』の中でもっとも印象的な大叙述「神武東征」の発進の地について、「思い浮ばなかった ものと見える」という、安易な消し方で果たしてすむことだろうか。ここには重大な謎がいまだ に生きているのである。
 また、この景行紀に日向聖地記載のないことから、神武東征説話の方が新しい成立である証拠 だ、とする方法もある。つまり、古く景行説話が成立した時点には、まだ神武東征説話は成立し ていなかったのだ、とするのである。この見地は、たしかに深い示唆をふくむ(この点、以下の論 証で明らかにされる)。
 しかし今、〝では、7、8世紀の『記・紀』の作者はなぜ、そこに「造作」の手をのばし、前 後つじつまのあうようにしなかったのか?″と聞かれれば、たちまち窮しよう。またもや津田流 の〝思い浮ばなかった″説に逃避するほかはない。この点、7、8世紀の「後代造作説」の論者 にとって〝自縄自縛の謎″となるのである(従来、日向の地とされてきた「天孫降臨説話」から も、同じ問題がおきよう)。
 それなのに、津田の論断に安住して、〝すべて解決ずみ″のように見なしてしまい、これを再 び疑いかえすことがないとしたら、それは探究心の大いなる怠慢というほかないのではあるまい か。

 古代史学会の「権威」・「定説」がこんなに稚拙な論理で組み立てられていたとは! 学閥という轍に足を取られた学者たちの情けないことこの上ない。
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