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361 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(14)
「熊襲」とはどこか(5)
2005年8月13日(土)


 「日本武尊の熊襲暗殺説話」の第二の問題、『古事記』によると「熊襲国の統治形態が兄弟統治であった」という点 についての論考を読む。

(天皇)「西の方に熊曾建二人有り……」……爾に熊曾建兄弟二人、其の嬢子を見感でて……。

 前回の暗殺場面でも熊曾建は「吾二人」と言っている。

 古田さんはこの説話の内容を、『盗まれた神話』の前著『失われた九州王朝』で明らかにしたという九州王朝の史実と 比べている。(『失われた九州王朝』を入手できず、まだ読んでいない。とりあえず「九州王朝の史実」の論証を正し いとして読み続ける。)
 まず、九州王朝は、中国の天子に対して「臣」と称しながら、国内に対しては「仮授の権(称号や名前を授ける権限)」 を行使していたことを指摘している。例として、『宋書』倭国伝の倭王武の上表文の一説をあげている。(「倭王武」 はヤマト王権の王ではなく、九州王朝の大王である。(「第348回・8月1日」参照)

窃(ひそ)かに自ら開府儀同三司を仮し、其の余は咸(み)な仮授(ヽヽ)して、以て忠節 を勧む。

 つまり、熊曾建が小碓命に「ヤマトタケル」という称号を贈ったとして、熊曾建を「仮授の権」の所持者として 描いていることとよく相応しているという。
 つぎに兄弟統治の件についても、九州王朝は「兄弟執政」をその政治形態の一つの特徴としていたという。 また、卑弥呼が「男弟」と共に統治していたことは周知の事実だ。(卑弥呼の「邪馬() 国(やまゐ)」は現在の博多あたりにあった。(古田さんの著書『「邪馬台国」はなかった』参照。この本は読みました。 この本の論証も見事なものです。)次のような例文をあげている。

(1)名づけて卑弥呼と曰う。……男弟有り、佐(たす)けて国を治む。〈『三国志』魏志倭人伝)
(2)(倭国の使者言う)「倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き、 伽扶(かふ)して坐し、日出ずれば便ち理務を停め、云う『我が弟に委ねん』と」〈『隋書』倭国伝〉
(3)戊寅(558年)、兄弟と改元す。〈『海東諸国記』〉

 (1)は卑弥呼の「姉弟統治」として著名の一節である。
 (2)は九州王朝七世紀前半、「日出ずる処の天子」の自称で有名な多利思北孤(タリシホコ)の使 者の言である。兄は未明の宗教的祭祀権、弟が昼の行政権をそれぞれ分担しているさまが描かれ ている。
 (3)は、前著『失われた九州王朝』で明らかにした「九州年号」の一つである。

 このような「兄弟執政」の点もまた、九州王朝は熊襲説話の所伝とよく一致しているのである。

 以上によって、
(一)地理的位置(北九州博多湾岸)
(二)大義名分(授号権)
(三)統治形態(兄弟執政)
の三点とも、中国史書の中から分析された史実としての九州王朝と、『記・紀』の所伝の熊襲の性格と、両者 一致していることがハッキリした。

 なお、問題点をさらに立ち入って追跡しよう。
 この説話が「日本武尊の熊襲征伐」と呼ばれることがしばしばある。わたしのように戦前に小 学校を出た者には、ことに教科書で〝おなじみ″の表現だ。しかし、これは「神功皇后の三韓征 伐」と同じく、説話内容の事実からはなれた、いかにも軍国主義好みの〝誇大宣伝″だ。天皇家 の皇后や皇子に、やたらといさましい「征伐」を行なわせたいのだ。
 ことにこの日本武尊の場合、単独でのりこんで「刺殺」したのであるから、〝遠征軍を派遣し て攻略する″意の「征伐」とは、およそかけはなれている。要するに「熊襲の首長暗殺譚」なの である。

 さて、「暗殺」のさいの「公理」はつぎのようだ。
 AがBを「暗殺」するとは、第一にAの実力はBより劣であり、第二に、したがってAは通常 の方法(大軍派遣)による攻撃を、強力なるBに対してなしえない。そういうときに行なわれる 行為ではないだろうか。つまり「征伐」と「暗殺」とは、その意味では反対語なのである。
 いいかえれば、この段階では、天皇家は実力においていまだ熊襲に及ばなかったのである。つ ぎの段階の仲哀でさえ、遠征軍を主導したけれども、勝つことができず、みずから「敗死」して しまったのである。すなわち、筑紫の九州王朝は近畿の天皇家に対して、大義名分をもつととも に、軍事力においてもまた、まさっていたのである。
 さらに、暗殺に関する第二の「公理」がある。〝暗殺によって大義名分は移動しない″。これを わたしは自明の真理だと考える。すなわち、

(一)
 この暗殺によって大義名分は近畿天皇家(近畿の強大豪族)に移動しはしなかった。つまり、依然として、 この後も、客観的には大義名分は熊襲の側にとどまっていた。
(二)
 ただ、この伝承は〝この事件によって大義名分は天皇家側に移ったのだ″と、天皇家側が主観的に主張しようと している説話なのである。そこに、瀕死の熊曾建に苦しい「断末魔の授号」を行なわせねばならなかった、この 説話の苦肉の秘密がある。

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