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360 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(13)
「熊襲」とはどこか(4)
2005年8月12日(金)


 熊襲三説話のうちの第二の説話「日本武尊の熊襲暗殺説話」の論考に 進む。
 これは、小碓(おうす)命が熊襲国へ行き、少女に変装してその国の首長の 酒宴にもぐりこんだ。そして油断に乗じて熊襲の首長兄弟を刺殺した、 という話だ。この説話には「地名」は出現しない。 (『書紀』の場合、熊襲の首長は「川上梟帥(たける)」と呼ばれているが、 この「川上」についてはのちにのべる)。
 この説話では注目すべき点として次の二点を挙げている。

第一
 熊曾建〈『古事記』〉が死のまぎわに、暗殺者である小碓命に「倭建命 (日本武尊)」という名を贈ったという点。
第二
 『古事記』によると、熊襲国の統治形態が兄弟統治であったという点。  第二点については古代史の問題を解く大きな鍵の一つとして、吉本隆明 さんも注目していた。(第335回・7月18日)

 さて、第一の点の何が問題なのか。このくだりの「記・紀」の記事は次の ようになっている。

①熊曾建白す、「西の方に吾二人を除き、建く強き人無し。然るに大倭国に 吾二人に益して建き男坐しけり。是を以て吾、御名を献(たてまつ)らむ。 今より後は、応(まさ)に倭建御子と称すべし」と。是の事白し訖(おわ) れば、即ち熟?(ぼぞち)の如く振り析(た) ちて殺すなり。〈景行記〉

②即ち啓(もう)して曰く、「今より以後、皇子を号して応に日本武(やま とたける)皇子と称すべし」と。言ひ訖(おわ)りて及ち胸を通して殺しき。 〈景行紀〉

 暗殺されたものが暗殺者に称号を献上したという行為がもんだいなのだ。 「記・紀」には他に例がない。当然学者たちもこの点に注目した。しかし、 この問題についても「定説」は「後代の大和朝廷の官人の造作」であった。

 『記・紀』において名前が「A→B」と渡される場合は、「上位者→下位者」 という一方向の例にみちている。その中で、なぜ、後代の官人がこれに反する 話を造作したのか。それが問題である。七、八世紀段階で〝地方豪族が天皇に 名前を献上する″といった慣例ができていた様子もないから、これは変だ。 〝日本武尊の方が相手(またはその子)に熊襲建という名前を与え、以後、 彼等はよく服従した″といった話なら、いい。だが、これは話が逆なのである。 この点、「後代造作」説には、致命的な矛盾があるのではないだろうか。

 では古田さんはこの問題をどう読み解いているか。
(一)
 まず、〝名前の献上″というときのの「献上」という言葉。先にあげた例 (前回に掲載した)で、中国の天子から「朝貢」をもってきた、と書かれて いた。これと同じく、天皇家の方が〝得た″ものは、『記・紀』ではすべて 「献上」なのである。だから、このような大義名分上のイデオロギー用語 を根拠にして、両者間の実際の上・下関係を論ずることはできない。

(二)
 だから、要は「熊曾建→小碓命」という方向で、名前(日本武尊)が贈られ たのである。

 (三)
 このことは、『記・紀』全体の授号の定式(上位者→下位者)から見ると、 この説話は〝熊曾建(川上梟帥)が上位者であり、小碓命(日本武尊)が下 位者である″という上・下関係を背景にして成立していることとなる。

 これは、従来千有余年の天皇家至上主義の「常識」から見れば、まことに 驚倒すべき〝非常識〟であろう。しかし、〝古代説話は古代通念の中で理解 する″――これを、わたしは自明の真理と考える。そしてこの場合の「古代 通念」とは、『記・紀』の示すところ、〝名前は上位者から下位者に与える″ という不動の命題にあった。
 『記・紀』だけではない。中国の天子にとって、夷蛮の王に「称号を与え る」ことは、その重要な権限だった。このことは、「漢の委奴(いど)の国 王」という志賀島の金印や「親魏倭王」という卑弥呼への称号授与の例に見 る通りだ。そして他の何人にも天子はこの権限を許さなかった。『三国志』 によると、遼東の公孫淵がみずから「百官を置い」たとき、魏の明帝は断乎、 これを討伐したのである。
 これと同じ例は『記・紀』自身の中にさえ見出される。菟狭の川上にいた 「鼻垂(はなたらし)」は、「妄(みだ)りに名号を仮した(勝手に名前を名 乗り、授けた)」として討伐されたのである(景行紀12年項。この点、のちに 再びのべる)。

 このような「古代権力社会における厳格な授号の論理」から見ると、わたし は「日本武尊」の名号問題も、この論理にもとづいて考えるほかはない。

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