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359 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(12)
「熊襲」とはどこか(3)
2005年8月11日(木)


 わたしは「戦死」の方だ、と思う。この点、あるいはある人々には、論証などなくとも、 直観の力で賛成していただけるかもしれぬ。しかし今必要なのは、論証だ。煩をいとわず、 吟味してみよう。

 古田さんは他の説話の例も援用して「二つのフィルター」越しの論証を展開しているが、 その部分は割愛して先に進む。
 仲哀が賊の矢に当って戦死したとすると、橿日宮の地で、仲哀は賊と「接戦」していたことと なる。とすれば、南九州の熊襲とどうやって接戦できるのであろう。橿日宮と南九州との間の戦 場名など一切出現しないのであるから。とすると、「熊襲=南九州」という先入観なしに、端的 にこの説話内容自身を読めば、この熊襲は〝北九州の存在″に見えてくるだろう。もっと切りつ めていえば、博多湾岸(太宰府、基山付近をふくむ)を本拠とする熊襲に対し、近畿から襲来し た仲哀軍が、博多の東の側面に当る橿日宮領域まで接近し、そこで「接戦」した。そしてその接 近戦の中で、指揮者仲哀は戦死した。――このように考えると、この説話はまことに 現実的(リアル)な、緊迫力を帯びてくるのではあるまいか。

 熊襲=南九州ではつじつまの合わないことが、仲衷・神功の説話の中にもう一つある。
 『書紀』本文によると、仲哀の死の前、神功皇后が神がかりしたとき、神はつぎのようにいった という。

 〝熊襲討伐がうまくいかないといって心配することはない。この国以上の宝ある国が海 の向こうにある。新羅の国だ。自分(神がかりした神)をよく祀ったら、平和的にその国は従うだ ろう。そしてまた、熊襲も自然に従うだろう。″

 いいかえれば、熊襲討伐がうまくいかないのは、新羅がその背後にあるからだ、といわんばかりの 口吻である。少なくとも全く無関係の二国ではないように見える。
 では、〝新羅と熊襲を結ぶ″具体的な関係はなんだろうか。たとえば、軍需や物資の交流があ ったのだろうか。そしてなによりも、そのさいの地理的関係はなんだろう。
 このさい、かりに熊襲を南九州の存在とした場合を考えてみよう。はるか九州の西方海上を通 じて連絡しあっていたのだろうか。それではあまりにも、迂遠な関係であり、「熊襲討伐難渋」 の背景とはなりにくい。
 それに対して、この熊襲を博多湾岸に本拠をもつ存在として考えてみよう。

狗邪(こや)韓国(釜山近辺) ― 対海国(対馬) ― 一大国(壱岐) ― 末盧(まつろ)国(唐津)  ― 伊都(いと)国(糸島郡)

を結ぶ、古来の幹線道路(『三国志』魏志倭人伝)があって、博多の西側に通じている。 だから、いくら仲哀軍が東から切迫して攻撃しても、この西のルートの確保されている限り、熊 襲は容易に陥らないのである。こうしてみると、〝熊襲討伐の難渋″から、その背後の新羅の存 在へと目をむける、いわば必然性があるのではあるまいか。

 このようにみてくると、旧来の〝熊襲=南九州″説に立った場合、この説話の全体はなにかピ ントがボケている。ちょうどわたしたち素人が時々やらかすピンボケの写真でも見せられている ように。ところが、いったん〝熊襲=北九州(博多)″という目から見た瞬間、説話全体はにわ かに生動し、各部分は必然の脈縛をうちはじめる。 ― それをわたしは疑うことができない。

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