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356 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(9)
熊襲はどこか(1)
2005年8月9日(火)


 古田さんによると、「日本旧記」という古記録のアンソロジー本は6世紀中頃 に成立したという。「ヤマト王権」が「日本」という国名や「天皇」という大王の呼称を 用いるようになったのは7世紀中頃~8八世紀初めだから、それ以前の書名に「日本」 が使われるのはおかしいと思った方がいるに違いない。私もそう思った。しかしこれも 訂正しなければならないようだ。「日本」や「天皇」はヤマト王権の独占用語 ではなかったのだ。
 百済系三史料(「百済記」「百済新撰」「百済本記」)には 倭国との交渉史が記録されているが、そこに「貴倭・倭国・日本」「天王」「日本の天 皇」等の名称が記載されているという。その交渉史上の「倭国」は九州王朝だから (このことは追々明らかにされるだろう。)そこに記載された各種名称も当然九州王朝 を対象としたものとなる。

 前著(『失われた九州王朝』)で明らかにしたように、「百済記」等の百 済系三史料がいう「貴倭・倭国・日本」「天王」「日本の天皇」等の名称は、いずれも九 州王朝のことである。近畿天皇家のことではない。
 とすると、「日本旧記」という場合の「日本」も、当然、九州王朝のこととなるほか ない。この「日本」という国号について、前の本をふりかえってみよう。近畿天皇家が 「日本」という名称を使いはじめたのは、七世紀の半ば、もしくは八世紀のはじめからだ (『三国史記』によると670年。『史記正義』によると、八世紀初頭、則天武后のとき)。 そこで従来の論者は、「日本」という国号の使用自体、七世紀以前にはなかった、と信じ てきた。これは、近畿天皇家至上主義と唯一主義の大わくの中にみずから知らずして、 しっかりととらえられてしまっていたからである。(「盗まれた神話」より)

 次々と確かだと信じられてきた「定説」がくつがえされていく。実にスリルがある。 ミステリー小説より面白い。いま私の趣味の一つであるミステリー読書が すっかりお留守になってしまった。

 さて、「記・紀」からこぼれ落ちてくる史実を救い出していく古田さんの見事なお手並 みを楽しむことにしよう。まずは九州王朝とは何か。
 ヤマト王権が日本征服を進める上での最大の難敵が熊襲だった。古田さんがまず問題に 取り上げたのは「熊襲」だった。その熊襲はどこにあったのか、と古田さんは問う。
 「定説」は南九州である。この「定説」の史料上の根拠は何か。『古事記』の国生み神話 の中に出てくる次の記事だ。

 次に筑紫島を生みき。比の島も亦、身一つにして面四つ有り。…筑紫国は…、豊国は…、 肥国は…、熊曾国は…。

 なるほどこれは明瞭だ。この配置なら、疑う余地もなく、「熊襲=南九州」という定理 が成立できる。従来、疑われなかったのも、無理はない。
 しかし、わたしは考える。〝蝦夷は東へ移動する″という、有名なテーマがある。 「蝦夷」というのが、東方における「天皇家の未征服民」を指す以上、天皇家の征服領域が 拡大すれば、「蝦夷の住地」もまた、東へ移動するのは当然のことだ(そこで蝦夷と呼ばれ ているものの実体が、同じ種族であるか否かを問わず)。とすると、西なる「熊襲の住地」 も、同じではあるまいか。時代によって、歴史の変転の中で、指す場所が変ってきているの ではないか。つまり、〝北から南へ移動しているのではないか″というわけだ。――この 考えが、一つの突破となった。
 もし上のようだとしたら、『記・紀』を通じてたった一つしかないこの『古事記』の政治 地図にあてはめて、『記・紀』の全熊襲説話を解読してゆくとしたら、これは危険きわまり ない。

(中略)

 この政治地図の生まれや素性、つまりこれがいつ、どこで、だれによって生み出さ れたかは、不明だ。これらを明らかにしない限り、この孤在した一枚の政治地図に頼って 全熊襲説話を読解する、それは、史料操作のやり方として、慎重さを欠いてい る。―わたしはそう判断するほかなかった。
 では、熊襲の位置を実際に判定するには、どうしたらいいか。この出自不明の地図は一応 わたしの手もとに「保留」しておいて、これとは別個に、熊襲説話自身のさし示す熊襲の 地理的位置を求めねばならない。これがわたしの新しい方針となった。


 そこで古田さんは『記・紀』中の次の三つの熊襲記事全部を精読することとなる。

 ① 景行天皇の熊襲大遠征〔『日本書紀』のみ)
 ② 日本武尊の熊襲暗殺説話(『記』『紀』とも)
 ③ 仲衷・神功の熊襲遠征説話(『記』『紀』とも)

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