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349 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(2)
「倭の五王」とはだれか
2005年8月2日(火)


 ところで、「倭の五王」を「応神~雄略」に比定する「定説」は教科書に も載っている。学者の結論を信じて、私たちはそれを受け入れていた。しかし、 割り当てられた『記・紀』側の各王「応神~雄略」の和風の呼び名とも漢風 の諡号とも何の関係のない「讃・珍・済・興・武」という名をどのようにし て「応神~雄略」に結びつけたのか、疑問に思っていた。知りたかったが、 その説明に出会ったことがない。
 ところが「盗まれた神話」にそのことが取り上げられていた。

 以上のべたように、津田史学を始発点とし、川副理論を終着点としたのが、 日本古代史の戦後史学であった。それは敗戦後から現在まで、この約30年間(「盗まれた神話」 の出版は1975年…仁平)に出現した一切の古代史研究中の「定説」の座を占めていた。
 その中では、史実と『記・紀』説話とのくいちがいは、-遠慮せずにいえば-〝真面目に 考えられる〝ことがなかったのである。なぜなら、すでにくりかえしのべてきたように、津田の 「記紀造作」説を自明の前提としてきたからだ。しかし、意外な地点から問題は急旋回すること となった。日本古代の史実を示す基準として、疑いなきものとされてきた倭の五王や高句麗好太 王碑か、実は近畿天皇家とは無関係だということ、その事実が判明してきたからである。

 古田さんは「近畿天皇家」という言い方をしているが、私はいままで通り「ヤマト王権」とい うことにする。また古田さんはこの節では「倭の五王」と「高句麗好太王碑ひ」の2点の問題解明を しているが、まずは「倭の五王」の場合の驚くべき真相を伺おう。
 これまで五王を「仁徳~雄略」と結びつけてきた唯一の〝きめ手〝は「人名比定」だった。たと えば、五王の最初「讃」を例にとろう。これには「履中」説と「仁徳」説がある。
 まず、履中天皇にあてる論者は、履中の名「去来穂別(いざほわけ)」の第二音「ざ」を中国側 が勝手に抜き出して「讃」と表記したのだ、というのである(松下見林『異称日本伝』)。これに対 し、この「讃」を仁徳天皇にあてる論者は、仁徳の名「大鶴鶉(おおささぎ)」の第三・四音に当 る「さ」または「ささ」を切りとって、中国側が「讃」と表記した、というのである。
 これらの説の背景をなす、暗黙の前提はこうだ。つまり、日本側の長たらしい王名は、中国側 の名のつけ方に合わないので、中国風の一字名称(たとえば、魏の曹操の名は「操」)の形に強 引に直したのだ、という想定である。

 いやー、びっくりしたな、もう。こんな恣意的で脆弱な理論が定説の根拠だったとは! 従来の古代史学がまったく信じられなくなってくる。
 それでは「一切の先入観を排し、まず原文全体の表記のルールを見出す。つぎにそ のルールによって問題の一つ一つの部分を解読する。」という古田さんの研究方法による 結論ははどうか。
 上記のようなこじつけに疑問を感じた古田さんは、『宋書』全体の夷蛮(中国周辺の国々)の王名を 調査した。すると、四字・七字といった長たらしい名前の王名が続々見つかった。〝一音勝手切 り取り表記″など、『宋書』中、例がないという。
 阿柴虜(あしりよ)(遼東鮮卑)とか 舎利不陵伽跋摩(しやりふりようがばつま)(?達国)といった風に 4字・7字といった長たらしい名前の王名が続々見つかってきたのである。だから、もし「イザホワケ」 なら、たとえば「夷坐補和卦」といった風な、五字表記をするはずであって、〝一音勝手切り取り表 記″など、『宋書』中、例がない。そういうことがハッキリしたのである。つまり、従来「仁徳~雄略」 を五王と結びつける論証とされてきた唯一の鍵が、実は鉄の鍵ではなく、〝泥の鍵″だったというわけ である。

 「一切の先入観を排し」て判断すれば、従来の「定説」は誤りであり古田さんの説が正しいというこ とは、私には自明のことと思える。
 それでは「倭の五王」はどこの王なのか。
 そればかりではない。倭王武の上表文にあらわれている有名な文句、

東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。

は、中国の都(南朝劉宋の建康〔今の南京〕)を原点とした表記であり、近畿を原点としては理解 しえないことがわかってきた。
 なぜなら、倭王武は自分のことを二回も「臣」と書いている。中国の天子を中心にした大義名 分のもとに、この文面は作られているのだ。だから、「衆夷」とは、自分たち(東夷)をふくむ 周辺の倭人(九州)を指す表現であり、「毛人」はさらにその東(瀬戸内海西半分〔強〕)である。 近畿を原点とした従来の読み方では、倭王が自分を「天子」の位置におき、西を「夷」と称し、 すぐ東を「毛人」と称したこととなる。「東夷の国々」の一つとして記された倭国の記事として、 これは〝めちゃくちゃ〟としかいいようがない。こんなめちゃくちゃのままで、中国側が正規の 史書に記録する。こんなことは、断じてありえないのである。また、朝鮮半島南半部を指す「海 北」という表現も、九州を原点とした場合において、もっともスッキリすることはいうまでもあ るまい(これらの点、詳しくは「失われた九州王朝』第二章参照)。


 戦後の古代史学が深い霧の中で混迷し続けてきた大きな原因は「記紀は造作」説ばかりではない。 他の一つに、5世紀~6世紀の王権が「ヤマト王権」だけであり、その「ヤマト王権」が近畿周辺だけではなく、西 は九州から東の関東地方ぐらいまでの征服を果たしていたという誤った思い込みがあった。「ヤマト王権」一辺倒 の陥穽に落ち込んでいたのだ。
 「倭の五王」は九州王権の大王たちだった。
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