2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
378 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(32)
「神代紀」の解読(9) ― 「大国」と「空国」
2005年8月31日(水)


 天孫降臨時のニニギのせりふの新しい解読方法から二つのオマケが付け加え られる。

 その一
 その見事な解読を可能にした重要な要素の一つは、従来「ミサキ」と読んで きた「御前」を「ミマエ」と読むことだった。古田さんはこの読みが妥当であ ることをもう一つ例をあげて示している。

故、大国主神、出雲の御大(みほ)の御前(みさき)に坐(ま)す時、波の 穂より天の羅摩船(かかみぶね)に乗りて、鵝の皮を内剥(うつはぎ)に剥 ぎて衣服(きもの)にして、歸(よ)り来(く)る神ありき。(古事記)

 海上からスクナヒコナがやって来る場面だ。「御大の御前」を従来は「ミ ホのミサキ」と読んでいる。出雲国の東北端(島根郡)の「美保埼」のこと だ、と解してのことである。
 この読みについて古田さんは『この読み方の一番の難点、それは「御大」を 「ミホ」と読む点だ。』と指摘している。

 『古事記』では「ホ」の表記は普通「富」「番」「穂」の類だ。

       意富美和(オホミワ)、番登(ホト)、高千穂(タカチホ)

 これら頻出字音を無視してここだけ「ホ」の表記は「大」という字を使った と見るのはいかにも無理だ。これは「御大の御前」を無理やり現存地名(岬の 名)と一致させようとして、第一音の共通する「美保埼」を見つけ、しゃにむ にこれと結びつけたものだ。強引としかいいようがない。


 そして今までどおり『古事記』の表記様式に従って「大」を固有の地名 とし「オホ」と読み直して(詳しい論証部分は省く)、次のように述べている。
 後代(7、8世紀)は石見国に属した邇摩郡(島根県)の「大国」がこれに 当るのではないだろうか。この地域には、「大田市、大原川、大平、大屋、 大国、大森、大浦、大崎ケ鼻」と「大」字のつく地名、すなわち「大」 を固有名詞部分とする地名が〝叢立している″といっていい。ここが「大 洲(オホクニ)」の名の発祥の地ではないだろうか。

出雲

 「出雲」がこの地域(島根県)の汎称(大地域名)だったとき、「出雲の (御)大」と呼ばれたのではないだろうか。すなわち、ここは「大国主神」の 本拠地だった。だから、この神が〝この地域の「前」(海岸部)にいた″こと は当然である。もし、これが「美保関」だったとしよう。ここは、出雲の一番 の東北端の突出部だ。ここへ少名毘古那神が着いた、というなら、一体どこか ら来たのだろう。越の国の方からだろうか。
 しかし、この神は「神産巣日神( かみむすひのかみ)の御子」とされてい る。これは筑紫(「日本旧記」の成立地)で始祖神とされた神ではないか。そ れが西の筑紫から来ずに、なぜ東から来るのだろう(西から来たのなら、出雲 の主要領域を通り過ぎてきたこととなる)。その上、日本海流は〝西から東へ″ であって〝東から西へ〟ではない。
 ところが、今、新しい解読に立ってみよう。「大国」は出雲の西南だ。筑紫 の方角から出雲めざしてやって来て、この地に着くのはきわめて自然なのであ る。


その二
 宣長は「韓(カラ)国」を「空国」=「荒れてやせた不毛の地」と解した が、次の例(天孫降臨後の二二ギの行程)によれば「空国」は明らかに「カ ラ国」ではない。「ムナ国」だ。(岩波古典文学大系は「むな国」と読んで いる。)

(1)膂宍(そしし)の空国を頓丘(ひたを)から国覓(ま)ぎ行去(とほ) りて、吾田の長屋の笠狭碕に到ります。 (神代紀、第九段、本文)
(2)膂宍の胸副(むなそう)国を、頓丘から国覓ぎ行去りて……。  (神代紀、第九段、第二、一書)

 「空国」は「荒れてやせた不毛の地」というような抽象的な普通名詞ではなく 地名だ。
 (2)の「むなそふ国」について、岩波古典文学大系は「ムナソフクニとある 理由未詳」と註を付している。しかし、古田さんの読みに従えば「未詳」では ない。「空(国)」は一定の地名領域だから、「むなそふ国」とは〝空国にそ い並ぶ国(々)″の意となる。

 では、「空国」とはどこだろう。その解答は、今は容易だ。有名な「宗像 (むなかた)」だ。この「むなかた」の「かた」は、「直方(のうがた)」 (直方市)、「野方」(福岡市西辺)というように、やはり地名接尾辞だ。 固有の地名部分は「むな」なのである。「空国」とは、ズバリ、ここ以外に ない(「空」「宗」は表記漢字の相違)。
 天孫降臨の地を宮崎県あたりへ、笠沙の地を鹿児島県へと、もっていってい た従来の立場では、思いもよらなかった。しかし、今は明白である。
 ことに決定的なのは、この「空国」と「笠沙」と天孫降臨の「クシフル 山」との位置関係だ。ニニギは「クシフル山」から「空国」へ向かって行く 途中で「笠沙」の地を通る。そしてそこは海岸だ(神代紀、第九段、第二、 一書に「海浜に遊幸す」の語がある)。つまり、海岸沿いに「クシフル山 →笠沙→空国」となっていなければならぬ。その通りだ。「高祖山(前原) →御笠(博多)→宗像」は、海岸沿いに、まさにこの順序に並んでいる のだ。
スポンサーサイト
377 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(31)
「神代紀」の解読(8) ― 「韓(から)国」問題(続き)
2005年8月30日(火)


① 向韓国真来通(6字)
② 笠沙之御前而(6字)
③ 朝日之直刺国(6字)
④ 夕日之日照国(6字)

 上の四句についての古田さんの解読を要約する。(従来説への批判、 新解釈による解読の詳しい論証などは省く。)

 まず全体を「四至」文だと喝破している。

① (北なる)韓国に向って大同が通り抜け
〝此の地(高祖山の連山の麓には、元の怡土村、前原町がある)は、韓国に 向かって太い通路が一線に通り抜けている(大陸への交通の要地だ)″。 つまり、「伊都(前原)→末盧(唐津)→一大国(壱岐)→対海国(対馬) →狗邪韓国(釜山)」という、『三国志』魂志倭人伝にもあらわれた「幹線 道路」をピタリと指している。

② (南なる)笠沙の地の前面に当たっている
 「笠沙」は「カサ・サ」だ。「土佐」「若狭」のように、あとの「サ」は 地形接尾辞である。したがって固有の地名部分は「笠」となる。一方、博 多湾岸の中心領域(博多湾岸から太宰府付近に至る線)は「御笠」と呼ばれ た(御笠川の流域、御笠郡)。
つぎは「御前」。従来はこれを『書紀』の「笠沙之碕(さき)」の表現と あわせて「ミサキ」と読んできた。しかし『古事記』自体の示す表記 方法に厳格に従って読むと、「ミマエ」が正解だ。
 つまり『「笠沙」の地を基準地点として、「その前」』に当る領域を指した 表現である。この文の思想上の原点はこの「笠沙」だ。たしかに二二ギノ命は 今、高祖山の付近に立っている。ここで「比の地」といっているのは、糸島郡 だ。博多ではない。なぜなら、「此の地は笠沙だ」といっているのではなく、 「比の地は笠沙の前に当っている」といっているのだから。
 この発言は「故、此地は甚だ吉なる地」という帰結で結ばれている。この地 が「甚だ吉である理由の一つに〝ここは笠沙の前面に当っているから″という 地理上の位置があげられているのである。つまり、この地を賞揚する、そのよ りどころは「笠沙」、すなわち「御笠郡」付近一帯の領域なのである。

③ (東から)朝日の直に照りつける国
 「朝日」と「夕日」。これが先の南北(正確には東南と北)に対して「東西」 を構成している。つまり「四至」文だ。
 ところで「此の地」とは、先にのべたように博多湾岸ではなく、糸島郡であ る。とすると、〝「此の地」は東に山(高祖山連山)が突っ立っている。だ から、日の出のとき、朝日は直(じか)に真下の此の地(糸島平野)にさしつ けるのだ″という意味である。

④ (西から)夕日の照る国だ
 。夕日の方は特色なく、この句からは「此の地」の地勢を読み取ることはで きない。「四至」文として「夕日の日照る」とただ〝六字にそろえる″ための 苦心の手法ではないか。

 以上の「読み」と「意味」を踏まえて、古田さんは次のようにまとめている。

 さて、この糸島郡の中心地はどこだろうか。いうまでもなく、前原町だ。先 にのべたように「原」は、地名接尾辞だから、固有名詞部分は「前」なのであ る。「前」とは〝どこの前″なのだろう?いうまでもない。〝博多の前″なの である。どういうルートに沿ってか?これも自明だ。大陸(韓国)へ向かう幹 線道路の上で、〝博多の前面″に位置しているのである。ここを二ニギノ命は 「笠沙の御前」といったのだ。無論、二二ギが命名したのではない。 「前(原)」という現地名に依拠して、この説話が語られているのだ。
 この二二ギの発言の思想内容を要約すれば、〝この地(前原を中心とする 糸島郡)は、博多にとっての聖地だ″といっているのである。そしてそれは 〝朝に夕にさんさんと太陽のふりそそぐ聖地だ″といっているのである。
 朝日、夕日はどこへでも当る。では、なぜ、ここをこんな形で特徴づける のか。それはいうまでもない。すなわち、ここは太陽信仰の聖地なのである。

 糸島郡には有名な古代遺跡「三雲遺跡」がある。この周辺からは日本最大量 の漢鏡が出土している。また、1965年に『比の地(平 原-前原町内、三雲の近隣)』から膨大な量の勾玉・管玉などが出土した。 その出土品の中で最も注目されたのが日本製(ヽヽヽ) の日本最大の鏡(径約46.5センチ、8葉座、4面)だった。古田さんは、これは 太陽信仰と結びついた、祭祀のための鏡であり、高祖山の日の出と関連したもので あろう、と推定している。
 これらの考古学上の事実からも、「比の地」こそが『二二ギノ命によって〝太 陽のふりそそぐ地″として賞揚されている聖地だった』ことが裏付けられる。
376 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(30)
「神代紀」の解読(7) ― 「韓(から)国」問題
2005年8月29日(月)


此地(ここ)は韓国(からくに)に向ひ、笠沙の御前を真来通(まきとほ)り て、朝日の直刺(たださ)す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚吉(いと よ)き地(ところ)。

 ニニギが「竺紫の日向の高千穂のクシフルタケ」に降臨したときに述べた言 葉だ。このくだりは代々の学者たちを悩ませてきた難解な問題を孕んだ個所だ そうだ。

第一の問題。「韓国に向ひ」。
 従来の定説「日向=宮崎県」説では、 説明できない句だ。宮崎県が「韓国に向」っている?
 本居宣長はこの韓国は、朝鮮半島の韓国ではなく「空国(からくに)」= 「不毛の荒れた国」だと、またしても苦し紛れの曲解をひねり出している。 古田さんは痛烈に批判している。『まさに「白馬ハ馬ニ非ズ」の類の論だ。つまりは、それほど にこの一句に困惑してきたのである。』

第二の問題。「真来通り」。
 「笠沙の御前」をただ通ってゆく、というだけのことなら、 なんとなく〝大げさな〟表現ではないか。                        従来説。これを『日本書紀』の「頓丘(ひたお)より国覓(ま)ぎ行去 (とお)りて」にあてて、「国まぎ」(よい国を探し求めて)の意と解した。 これでは二二ギの発っした言葉ではなく、「地の文」になってしまう。 宣長も『語のさまを思ふにも、「笠沙の御前を真来通り」と云は、 必地語にして、詔(のたま)ふ御言には非ずかし」と言っているそうだ。
 そこでさまざまな学者がさまざまに、この個所をいじくりまわしていると いう。例の「原文改定」だ。古田さんは例として本居宣長と明治の学者の読みを をあげている。

〇本居宣長
 膂肉(そじし)の韓国を、笠沙の御前を真来通りて詔(のり)たまはく、 此地は朝日の……
〇田中頼庸
 是に笠沙の御前に真来通りて詔りたまはく、比の地は韓国に向ひて、……

 二二ギの発言は、後半の「朝日・夕日」部分に〝切りちぢめられてしまった″ 形だ。これはあまりにも身勝手な原文のきりきざみだ、とわたしがいったら、 これら江戸・明治の大家に失礼だろうか。さすがに現代の研究者はこれほど 大胆な非理は犯しえなかった。そのため、この未開拓の一節はあたかも太古の 原始林のように、『古事記』学者の前に厳然と立ちはだかってきたのである。

 つまりいまだ誰もまともな解答を提出できていないということだ。
 古田さんの解読は次の通りである。
 しかし、わたしの前に開けてきた新しい地平は、この難解の個所にもまた、 平明な通路を見出させることとなった。問題の急所は、文形だ。

① 向韓国真来通(6字)
② 笠沙之御前而(6字)
③ 朝日之直刺国(6字)
④ 夕日之日照国(6字)

 上に見えるように、原文はキッチリと「漢字六字ずつ四行の対句形」に なっているのだ。中国風の漢文から見れば、あまりうまいとはいえないも のの、とにもかくにも整然たる〝日本式対句漢文″なのだ。この明白な対 句形を勝手に破壊したまま読んできた――ここに従来の読解が〝八幡の薮 知らず″のような迷路に永く踏み迷うこととなった根本の理由があったの である。


 ここでハタと考え込んでしまった。八幡の薮知らず?なんとなく意味は わかるけど、知らないなあ。聞いたことないなあ。手元にある「ことわざ 辞典」2冊を調べてみたが、ない。もしかするとと思って広辞苑を調べた が、ここにもない。もしかしてインターネットでわかるかな?ありまし た、ありました。あり過ぎました。検索結果はなんと499件!インターネ ットってすごいなあ。「インターネットの辞典いらず」だな。

 市川市に「不知八幡森」というのがあって、そこが「八幡の藪知らず」と 通称されているのだそうです。そこに市川市が設置した「解説文」とい うのがあったので、それを全文掲載しよう。(このようなことに興味はない よ、という方々、お許しあれ。)

不知八幡森(通称:八幡の藪知らず)
 江戸時代に書かれた地書や紀行文の多くが、八幡では「藪知らず」のことを 載せています。そして「この藪余り大きからず。高からず。然れども鬱蒼とし てその中見え透かず。」とか、「藪の間口漸く十間(約18メートル)ばかり、 奥行きも十間に過ぎまじ、中凹みの竹藪にして竹・漆の樹・松・杉・柏・桑の 樹などさまざまな雑樹生じ…」などと書かれたりしていますが、一様にこの藪 知らずには入ってはならない所、一度入ったら出てこれない所、入れば必ず祟 りがあると恐れられた所として記載され「諸国に聞こえた名高き所なり」と言 われて全国的に知られていました。
 入ってはいけない理由については、

●最初に八幡宮を勧請した旧地である。
●日本武尊が陣所とされた跡である。
●貴人の古墳の跡である。
●平将門平定のおり、平貞盛が八門遁甲の陣を敷き、死門の一角を残したの で、この地に入ると必ず祟りがある。
●平将門の家臣六人がこの地で泥人形になった…

と、いろいろ言われてきました。中でも万治年間(1658~61年)、 水戸黄門(徳川光國)が藪に入り神の怒りに触れたという話が、後には錦絵と なって広まりました。「藪知らず」に立ち入ってはならないという本当の理由 が忘れ去られたため、取り沙汰されてきたものではないでしょうか。
 また理由のひとつとして「藪知らず」が「放生池」の跡地であったからでは ないかとも考えられます。古代から八幡宮の行事に「放生会」があり、放生会 には生きた魚を放すため、池や森が必要で、その場所を放生池と呼びました。 藪知らずの中央が凹んでいることからすると、これは放生池の跡であるという 可能性が十分に考えられます。市川市周辺地域は中世には千葉氏の支配下にあ りましたが、千葉氏の内紛で荒廃し、八幡宮の放生会の行事が途絶えてしまい、 放生池には「入ってはならぬ」ということのみが伝えられてきたことから、 以上のような話が作られていったものと思われます。

 「不知八幡森」の碑は安政4年(1857年)春、江戸の伊勢屋宇兵衛が建てた ものです。

市川市教育委員会

 思わぬ横道に逸れてしまった。「韓国」問題の続きはまた明日。

375 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(29)
「神代紀」の解読(6) ― アマテラスの生誕地
2005年8月28日(日)


ここをもちて伊邪那伎大神詔りたまひしく、「吾はいなしこめしこめき 穢(きたな)き国に到りてありけり。故、吾は御身((みみ)の禊為む。」 とのりたまひて、竺紫の日向の橘の小門(をど)の阿波岐(あはき)原に 到りまして、禊き祓ひたまひき。
(中略)
ここに左の御目を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、天照大御神。次に右 の御目を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、月讀命。。次に御鼻を洗ひた まふ時に、成れる神の名は、建速須佐之男命。 (古事記)

 黄泉の国から逃げ帰ったイザナギが禊をしたときに、アマテラスやスサ ノヲが生まれた。その誕生の地が

(イ)竺紫の日向の橘の(ヽヽ) 小門の阿波岐原

 日本書紀では次のように書かれている。

(ロ)筑紫の日向の小戸の橘の檍(あわぎ)原 (神代紀、第五段、第六、 一書)
(ハ)故、橘の小門に還向(かえ)りて払ひ濯(すす)ぐなり。 (神代紀、 第五段、第十、一書)

 この「日向の橘の小門」はどこか。これが今回のテーマである。古田さんは この論考を前回の天孫降臨の表記と比べることから始めている。それは次のよ うだった。

(A)筑紫の日向の高千穂の(ヽヽヽヽ) >くしふるの峯 (第一、一書)

 古田さんの論はおおよそ次のように進められる。
 (A)の傍点部が地勢を示す地形詞だとすると、(イ)の傍点部「橘の」 も、地形詞である。「太刀鼻(たちはな)」とも書かれる岬状の突出部を 示す。(イ)(ロ)で、「橘の」の位置が前後しているのも、「橘の小戸」 が「橘(中地名)→小戸(所属の小地名)」の形の表記ではないことを示し ている。このように考えをすすめてくると、現地の固有名詞部分は「小戸」 となる。
 「筑紫の日向」に当る高祖山付近に、この地名があるだろうか?博多湾岸西部、姪 (めい)の浜付近にある。ここは福岡市内で現在パスの停留所にもこの名があ る。その海岸は「能古島(のこのしま、残島」にピッタリ相対している。 その姪の浜海岸に「小戸(おど)神社」がある。
 さらに古田さんは、『福岡県神社誌』(昭和19年刊)の住吉神社(福岡市住吉町)の項 を引用している。

 「当神社は伊奘諾命の予母都(よもつ)国より帰りまして、楔祓給ひし筑紫の 日向の橘の小戸の橿原の古蹟」

 さらに同名(住吉神社)の郷社が「福岡市姪浜町字宮の前」にあるという。 古田さんは「伝説は必ずしも虚構ではなかったようである。」と結んでいる。

 さて、つぎの問は「アハギ原とはなんだろう」だ。ここは古田さんの文章をそ のまま引用しよう。

 「原」は例の「パル」だ。〝村落″のことである。『隋書』たい(イ+妥)国伝に「阿輩?弥(アハキミ)」とある。従来、 これを「オホキミ」あるいは「アメキミ」と解してきた。しかし、「阿輩」 を「オホ」や「アメ」と読むのは無理だ。思うに、これは「アハ君」であって、 〝神聖な君″といった意味ではあるまいか。妻は 「難弥(きみ)」。とすると、ここの「アハ木」は〝神聖な木″(または城 (き))の意となろう(檍は、橿(あし)またはもちの木)。

 注意すべき追記。それは、神功紀に「日向国の橘小門」という表現のある ことだ。これが「天照大神誕生地=宮崎県」説の屈強の史料となったようで ある。しかし、これまでの論理性を一貫させよう。この「日向国」は疑う余 地もなく、宮崎県だ。そこにも「橘小門」と呼ばれる地点があるのだ。 「立鼻」という地形にもとづいて名づけられたものであろう。
 しかし、これを天照大神誕生の「竺紫の日向の…橘小門」(『古事記』) と同一視することは許されない。なぜなら、先にのべたように、『古事記 』の叙述の中では、「筑紫」は福岡県の意味で用いられているのであるから。 それゆえ、表記と解読のルールに厳密に従うかぎり、両者は別だ。すなわち、 天照誕生は福岡県(筑前)の中だと見なすほかないのである(このさい、 他の一つの可能性がある。『書紀』(帝王本紀)の編者が、右の論理性を 見失い、原文では実は福岡県だった「日向の橋小門」を「日向の国の……」 とあやまり、改定したというケースである。しかし、今、安易な「原文誤謬 説」はとらないこととする)。
 以上の論証によれば、北は能古島に相対し、西南は高祖山連峯を望む、 この博多湾岸の姪の浜海岸こそ、「天照大神誕生の聖地」だったのである。 このことのもつ意味は、この本全体の進行の中でくまなく明らかにされて ゆくであろう。


 余談ながら、昨日から村上龍の「半島を出よ」を読み始めた。主舞台は福岡 である。その小説でこの論考に出てくるのと同じ地名に出会って、その偶然に たいへん興がわいている。もしかすると村上龍さんが舞台に「福岡」を選んだ 理由の中に、かってそこが「神代紀」や「九州王朝」の舞台であったことが、 無意識にでも、あったのではないかと、勝手な想像をしている。
374 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(28)
「神代紀」の解読(5) ― 天孫降臨の地
2005年8月27日(土)


 『日本書紀』の第九段本文と三つの「一書」、それに『古事記』の記事一つ。 二二ギノ命が〝天降った″とされている土地が記載されている。

(1) 日向の襲(そ)の高千穂峯……?(木+患)日(くしひ)の二上(ふたがみ)の……。(本文) (2)筑紫の日向の高千穂の?(木+患)触(くしふる)之峯(第一、一書) (3)日向の?(木+患)日の高千穂の峯(第二、一書) (4)日向の襲の高千穂の?(木+患)日の二上峯(第四、一書) (5)日向の襲の高千穂の添(そほりの)山の峯(第六、一書) (6)竺紫(つくし)の日向の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ)(『古事記』)

 この「日向」はどこのことなのか。今回のテーマである。古田さんの結論は明 快だ

 それは(2)、(6)の「筑紫(竺紫) の日向の」という表現で明らかだ。 つまりこの筑紫は福岡県、それも筑前なのである。
 それについて、従来の学者、さらには宮崎・鹿児島両県の地元の人々から 大きな非難がおこるかもしれない。しかし、どのようにはげしい罵声を浴びよ うとも、わたしのなすべきことは一つ。自己の解読のルールを守ることだけだ。

 従来の説は日向=宮崎県である。霧島山か臼杵(うすき)郡高千穂を比定してい る。この説は(2)(6)の「筑紫・竺紫」を九州全体とする立場から出てくる。 しかし前回で古田さんは「筑紫」が福岡県であることを論証している。しかも 『古事記』があげている九州の国(筑紫国・豊国・肥国・熊曾国)の中には 「日向」という国はない。

 (1)(3)(4)(5)には「日向」という地域を限定する語がないのはどう してか。これについても古田さんの説明は明快だ。「日本旧記」の性格(九州 王朝の史書)から当然のことだという。

 〝筑紫の中で″作られたものだから、いちいち〝筑紫の―″という必要は ない。他国のとき、はじめて「吉備の子洲」とか「伊予の二名洲」とか「豊 の秋津の洲」とかいうのである。とすると、ここで「筑紫の日向」と書かな いのは、すなわち実体は「筑紫に非ざる日向」でなく、逆に「当然、筑紫の 中の、日向」の意味の表記なのである。

 これに対して(2)(6)は外(ヤマト王権)からの言い方であり、当然「 筑紫の―」となる。古田さんは「記紀」での地名の言い方の他の例をあげて さらに詳細に論じているが、もうそれははぶこう。

 それでは「筑紫」に「日向」と呼ばれる地域があるのか。古田さんは「日向」 の外に「クシフル」という特徴のある地名を手ががりにその地を確定していく。 そして

『博多湾岸と糸島郡との間、高祖山を中心とする連山こそ、問題の「天孫 降臨の地」である。』

と結論している。

福岡県

 この結論に至るまでの詳しい論証ははぶくが、『なお念をおすべきこと』と して述べている地名(「高千穂」「クシフル」「襲」「日向の読み」)の読み の解明は「史料解読」の妙があるので、それを全文掲載しよう。

(一)
 「高千穂」は〝高い山々〟〝高くそそりたつ連山″の意の普通名詞である。 宮崎県の「高千穂山」はそれが固有名詞化して遺存したものであろう。 「筑紫」の語源が「千串(ちくし)」であり、〝突出した岬の多くある地″ の意と考えられるように、「高千穂」の「穂」は〝稲の穂〟と共通する言葉 なのである。たとえば、日本アルプス山中随一の高山「穂高岳」も類似の山 名だ。したがって、この「高千穂」の一語で、宮崎県の「高千穂峰」などに結 びつけるのは危険なのである。

(ニ)
 また、「クシフル」「クシヒ」の「クシ」も、右の「筑紫=千串(チクシ)」 の「クシ」と同一であろう(「フル」は村落の意。朝鮮半島側と共通の用語)。 この点からも、この「クシフル山」は筑紫(筑前)の山であることが察せられ よう。

(三) 「襲(ソ)」は「曾(ソ)」と同じだ。「熊襲」が「熊曾」とも書かれ るように。「聾の国」「阿蘇」といった風に〝一定の地形〟を示す言葉であろ う。高祖山の東側(博多湾岸)に「曾根原(ソネパル)」がある。 「原(パル)」は例の、村落を示す語だが、「曾の根」というのは、このあた り(曾根原)が「ソ」と呼ばれる地帯の根(幹に対する根)に当っていること を意味しよう。こう考えると、「日向の襲の高千穂の?日の二上峯」という表現 もまた、この地帯に似つかわしいのである。従来、いきなり南九州「襲の国」 と結びつけてきたことの、〝短兵急にすぎた″ことが知られよう(「相津」と 「尾張の相津」がちがうように、「襲[の国]」と「筑紫の日向の、襲」とは ちがうのである)。

(四)
 「日向峠」の読みは「ヒナタ峠」である。この点、「ヒユウガ」や「ヒムカ」 とちがうではないか、という異議が出るかもしれない。たしかに「ヒムカ」 「ヒユウガ」なら、〝神聖な土地″に聞えても、「ヒナタ」では冴えない。な にか〝老人のヒナタぼっこしている峠〟といったイメージが浮かぶからだ。  しかし、「彼方」(カナタ・アナタ)といった言葉を考えてみよう。 〝彼(カ)の方面〟〝あちらの方角″の意味だ。そうすると、「ヒナタ」も、 〝日の方角〟の意味となり、「日向」という神聖な字面にまことにふさわしい のである(壱岐にも「ヒナタ」がある)。

 (四)は「太陽神」信仰と関わりがあるにちがいない。
373 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(27)
「神代紀」の解読(4) ― 大日本豊秋津洲
2005年8月26日(金)


「大八洲」のうち七つの「クニ」が確定した。残された一つは「大日本豊 秋津洲」。古事記では「大倭豊秋津島」とある。
 「大日本」あるいは「大倭」という冠辞が『ここが「大八洲」の中心だ ぞ』『これは日本列島の本州だぞ』と誇示している。
 とくに『古事記』では「島」とされているから、「本州全体」を指して いるととるほかない。そうすると、この島(本州)の一部である「越洲」 や「吉備子洲」は不都合である。『古事記』の編者(天武ら)はこの二つ の「シマ」を削除せざるを得なかった。そして「本州」とは別の島である 「伊伎(壱岐〕」と「津島(対馬)」が編入された。

 これに対し、『書紀』編者(「帝王本紀」の祖述)は「日本旧記」の神代 巻をとり入れた。そこにはレッキとして「越洲」や「吉備子洲」がある。た めに「豊秋津洲」を「本州全土」とするわけにはいかない。そのため、これ を大和(奈良県)に見たてる地名説話が付加された。

(神武天皇)「‥‥‥内木綿(ゆふ)の真迮(まさ)き国と雖も、猶(なお) 蜻蛉(あきつ)の臀呫(となめ)の如し」と。是に由りて始めて秋津洲の号 有るなり。(神武紀、31年)

 ここで古田さんは次の三つの問題点を指摘している。

第一。
 「秋津」の「津」は港や湾形を示す地形詞なのだから、「秋津」に海に面 しない大和をあてるのはまったく問題にならない。そこでこれに難波をあて る説がある。たしかに「津」ではあるが、ここには「豊秋津」などという地 名はない。かつてそう呼ばれたという痕跡すらない。またこの説には次のよ うな矛盾がある。難波に先立って大和に〝有力な勢力″の存在していたにも かかわらず、「大八洲」の中に難波を入れながらその東隣の大和を入れない 矛盾。
第二。
 日本書紀が取り入れた「国生み神話」が銅矛圏の神話であることは、これま での七つの「クニ」が示している。その中に純粋な銅鐸圏の大和あるいは難波 が入ってくる。これも大きな矛盾だ。
第三。
 もしこの大八洲の「中心」を大和や難波だと考えた場合、さらに明らかな 矛盾がある。それはこの「大八洲」が西方にばかりひろがっていて、東方 (中部地方以東)が全くないという点だ。〝近畿中心の統一″が背景となって いるとしたら、こんなおかしな話はない。

 従来の学界はこれらの問題にに答えることができなかったという。

 この問題についての古田さんの論考は次のようだ。

 根本の問題はつぎの一点にあると思われる。「大八洲」の他の「七洲」 はいずれも「A」もしくは「AのB」の形の〝純粋な地名〟だ。それなのに、 この「豊秋津洲」だけ、〝ゆたかなトンボの国″〝豊かな収穫の港の国″ といった普通名詞だというのは解せないのだ。思ってほしい。他の七洲は 先の解読の示すように、明瞭な地名であるうえ、それらはすべて現存地名 とピッダリ適合していた。つまり、この史料は現存地名との連続性・対応 性がきわめて高いのである。それなのに、この一洲だけ、そうでない。な にか修飾の美辞の連続のように見なされてきた。そこに真の欠陥があるの だ。
 では、わたしのルール通りに読んでみよう。「豊の秋津のクニ」、つまり 〝AのB″の形だ。Aは「吉備の子のクニ」「伊予の二名のクニ」といった風 に、「吉備国」「伊予国Lに当るのだから、ここは当然「豊国(とよくに)」 となる。大分県だ。その「豊国の中のアキ津のクニ」をこれが他の七洲と同 一のルールによる解読結果だ。

 では、豊国の中に「アキ」という地名が実際にあるだろうか。――ある。 別府湾の入口、国東半島の南東端に「安岐(あき)」があり、 「安岐川」の河口に当っている。『和名抄』にも豊後国国埼(くにさき)郡の 条に「阿岐(あき)」として出現する音名だ。ここである。

(中略)

 これによって、わたしは今までの問いに一拳に答える解答を得たこととな ろう。
(一) 「AのB」の形の明瞭な地名表記であり、他の七洲と同質の表記である。
(ニ) 他の七洲と同じく、現存地名に明晰な対応をもつ。
(三) この「大八洲国」は、瀬戸内海領域では淡路島を東限とする分布とな り、銅剣・銅矛・銅戈圏の東限に一致する。すなわち、「矛の独裁」神話と いう根本の性格にマッチする。
 この三点、すべて適合するからである。


 「豊秋津洲」を大和(奈良県)に見たてる「神武紀」の地名説話の中の 一節「猶(なお)蜻蛉(あきつ)の臀呫(となめ)の如し」の意味は 「トンボの交尾の形のようだ」である。上述の論考の後、古田さんはその ような地形の場所を探っている。興味深い論考(結論は「由布院盆地」) だが割愛して「大八洲」の稿を終わる。
372 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(26)
「神代紀」の解読(3) ― 「大八州」はどこか
2005年8月25日(木)


 どこを「大八洲」(おおやしま)というのか。『書紀』には本文の 他に「一書」 による註が5通りある。これらと『古事記』の記載を合わせて実に7通り「大八洲」 説があることになる。次の表は古田さんがまとめたものである。

大八洲

 それらの地名の中で「不審な地名」として古田さんは「吉備子洲」と「越洲」 を取り上げている。この地名はそれぞれ「きびのこしま」「こしのしま」と読むのが 「定説」だ。しかし、これらは「島」ではなく、本土の一部分なのだ。学者たちを悩ま せてきた問題だ。
 表の中の第七、一書にある「対馬洲」は「定説」に従えば「ツシマノシマ」と おかしな読み方になってしまう。

 本居宣長はこれを非難し、「島島と重ねて云フ名はあるべきことかは」 (『古事記伝』五)といった。宣長はいつでも『古事記』(「津島」)を正しとし、 それを前提とした。『古事記』では、八つともハッキリ「 - 島」だ。そして 「島」と見えないもの(「吉備の児島」「越洲」)やいずこの島を指すか不明のもの (「大洲」)はアッサリ切り捨てられている。後代の整理整頓の結果である。
 しかるに、宣長はこれを〝本来の形〟とした。そしてその「読み」に立って『書 紀』をも読んだ。そして不可解の字面に見えた「対馬洲」をもって〝原文のあやま り〟としたのである。『古事記』を全面的に本来形なりとする自己の〝信仰″に立 って理路をすすめ、それに反する原文につきあたれば、その原文の方がまちがって いる、といい切る、――ここに宣長の方法上の武断があった。そして明治以後の研 究者もまた、その国学的方法を疑わず、今日に至ったのである。

 この問題を古田さんはしごくあっさりと解いてしまう。「洲」は「洲国」の略であ り、これを「シマ」と読むのではなく「クニ」と読むのが正しい。これですべてが 解決してしまう。

 「対馬洲」は「ツシマノクニ」。「シマ」が重複すると悩む必要はない。 「越洲」も「コシノク二」であり、「吉備子洲」も「キビノコクニ」である。 本土の一部であっても何の不都合もない。

 ここで「吉備子洲」を「キビノコクニ」と読む読み方が「大八洲」を解読する要 となる。その読解のルールとは

(一) 「洲」(クニ)は、限定された「一定領域」を指す言 葉である。
(ニ) 「AのB」という形は〝A国の中のB領域〟という 意味である。

第一、第九の「一書」にある「億岐の三子洲」をこのルールで読むと 〝億岐の国(A)の中の三子のクニ(B)″となる。実際、億岐は本島(島後)と 三小島(島前)との両者から成っている。
 古田さんは言う。
『以上は、わたしにはごく自然な解読だと思われる。なぜなら、本来これは 「島生み説話」ではなく「国生み説話」なのだから。』

 この読解のルールに従って残された地名を読むと次のようになる。

「伊予二名洲」=「伊予の二名(ふたな)のクニ」。つまり〝伊予の国の中の二 名の領域″となる。

では、伊予の国(愛媛県)の中に「二名」という地名があるだろうか。
 伊予市のそばに「双海(ふたみ)」がある。この海(み)が地形詞であること は当然だ(熱海-静岡県、鳴海-愛知県等がある)。固有名詞部分は双(ふた) なのである。すなわちここは「ふた」と呼ばれる領域であったことが知られる。
 一方、国生み神話の方は「二名(ふたな)」だ。この「名(な)」とはなんだろ う。この地の向かい(北岸)に宇品(うじな、広島湾内)があり、そばに芦品 (あじな)郡がある。いずれもわたしには子供のころからなじみ深い名だ。これらい ずれも「な」が地名接尾辞であることを示している。すなわちこの「ふ たな」の場合も、「な」は地名接尾辞で、固有名詞部分は「ふた」なのである。 このようにして、〝伊予の国の中の二名の地〟という、わたしの解読が不当でないこ とが判明する。

 この点も、宣長は難路に踏み迷うた。「二名」を〝二並(フタナラビ)″の意とし、 〝四国(全島)は東西南北いずれから見ても、二国相並んでいるから、「弥二並島」 (いやふたならぴのしま)という意味で、「伊予双名」といったのだ″という、一種 奇妙な解釈を提示している。「伊予二名島」を四国全体とした『古事記』(天武側 編者)の誤断を金科玉条としたため、苦しい解釈を強行せざるをえぬ袋小路に入った のである。


 次は「大洲」。宣長の訓読法に従う従来の読みは「オホシマ」。愛媛県の大島 (今治の東北方)や山口県の大島(今の屋代島)をこれにあてる見解があるとい う。
 しかし、この読み方はおかしい。わたしはそう思う。なぜなら、上の各大島は、 同じ島でも、壱岐・対馬・隠岐・佐渡とは比肩できぬ位の小島だ。その上、同名 もおびただしい。だから、それらを指すときには当然「伊予の大洲」とか「周防 の大洲」とか称されねばならぬ。それでなくては限定性がないのである。しかるに ここには「大洲」とだけある。「筑紫洲」なみの扱いだ。これはなぜだろう。

 今のわたしの方法に従えば、この読み方はハッキリしている。「洲」は「シマ」 でなく、「ク二」なのだから。これは「大ク二」なのである。「大国主神」 ―― そうだ。あの、出雲の有名な神。同じ出雲には「大国(ヽヽ) 御魂(みたま)神」(『古事記』)もある。ここが「大クニ」と呼ばれる古名をもって いたことは疑うことができない。この地域なのだ。

 考えてもみよう。『記・紀』神話でこの出雲の地が重要な一領域であることに異論は あるまい。それなのに、なぜ、国生み神話の「大八洲(オホヤクニ)」の中に出雲が 入っていないのだ?
 神話内容全体とのバランスがまるでとれていないではないか。西の筑紫はもとより、 すぐ真北の隠岐、東の越、佐渡まで出ているというのに、肝心の出雲を欠くとは!ここ でも従来の〝宣長読み″の欠陥はおおいがたい。さらにこれを削り去って〝スッキリさ せた″『古事記』編者(天武側)らの錯覚。それが明々白々とここに露呈しているので ある。


 古田さんは「『古事記』編者(天武側)らの錯覚」といっているが、かなり意図的な 「錯覚」なのではないかと私は疑っている。

 次は「筑紫洲」=「筑紫のクニ」。これまでは「筑紫のシマ」と読み九州全土と考え られていた。

 景行の熊襲遠征(「前つ君」の九州一円平定)の中で、「筑紫国」に対する「筑紫 後国」の称が用いられている。これは「日本旧記」の文面だから、同じ「日本旧記」 からの挿入である『書紀』神代巻を同じ概念で理解するのは当然だ。つまり、筑 前が筑紫国だったのである。
 今は、もっと突きつめてみよう。その中心が筑紫郡だ。今の博多駅から太宰府にか けての地帯である(現在の春日市をふくむ)。その南端、基山のそばには筑紫町もあ る(『延書式』に「筑前国御笠郡筑紫神社がある)。このような博多湾岸の東域(須 玖遺跡等を中心とする地域)こそ本来「筑紫洲」と呼ばれた原地域だったのである。  以上のように考察してくると、筑紫洲とは、意外に限定された地域である。すなわ ち、この国生み神話の本来の形(「日本旧記」)は、西日本一帯の先進地域、もしく は中心拠点である。しかも、それらはいずれも海に接した一地域・一地点なのである。
372 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(25)
「神代紀」の解読(2) ― 「草薙剣」問題
2005年8月24日(水)


 神代紀の八段の本文に次のようなくだりがある。

時に素戔鳴尊、乃ち帯する所の十握(とつか)剣を抜き、寸(つだつだ)に其蛇を斬る。尾に至りて剣刃少 し欠く。故(かれ)、其の尾を割り裂きて視れば、中に一剣有り。

 本文は

(A)此れ、所謂(いわゆる)草薙剣なり。

と続く。この後、小字で次のような「註記」が書かれている。

(B)草薙剣、此を倶娑那伎能都留伎(くさなぎのつるぎ)と伝ふ。

(C)一書に伝ふ、本(もと)、天叢雲(あめのむらくも)剣と名づく。

(D)蓋(けだ)し、大蛇居する所の上、常に雲気有り。故に以て名づくるか。

(E)日本武皇子に至りて、名を改めて草薙剣と曰ふ。

 何が問題か。

 「草薙剣」という名は、(E)にもあるように、ずっと後の景行紀の日本武尊の東国平定説話の 中に出現した故事(相武の国の焼津で野火に囲まれ、その死地をこの剣で草を刈りはらい、難をの がれたという説話)によって、名づけられた名前なのであるから、いきなりここで出てくることは 唐突である。ここでは、(C)にあるように「天叢雲剣」という名が妥当する。

 (E)は「第321回・7月4日」で取り上げた歌

さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも

を挿入歌にもつ説話だ。従って『(A)は現在(書紀編纂時)本文の形をとっているにもかかわらず、 その実、後代の「添加註記」である』ということになる。つまり『後代名(編述者にとっての現代名) の「草薙剣」に当る、として註記を加えたのが(A)の文である。』

 すなわち、「第一次註記」(「帝王本紀」での註…仁平))は現在では〝本文化″されているのである。 これに対し、「第二次註記」に当るのが、(B)~(E)だ。現在註記(小字)の形をとっているものだ。 その中は四部分に分かれている。

(B) 右の「本文」中の草薙剣の読み。 (C) 「一書」によって本来の呼称を補記。 (D) 右の呼称のいわれについての、編者の推定。 (E) 「草薙剣」と新しく呼ばれはじめた時点の解説。

 これを先にのべた『書紀』の構成「帝王本紀→日本書紀」から見ると、第一次註記が「帝王本 紀」の編者に、第二次註記が『日本書紀』の編者に属することが知られよう。すなわち、『書紀』 の編者は「帝王本紀」を単なる素材として扱い、新たに自由に〝書きおろした″のではない。 「帝王本紀」にあった部分は、基本的にはそれに依拠して、さらに註記を新しく追加しているの である。
 これは「帝王本紀」が一私人の作ではなく、〝天武朝の編纂″によるものである限り、当然の 姿勢といえよう(ただ、配置がえや拡大展開等は当然行なわれた可能性がある)。


 さらに古田さんは「旧註」の実例として次の「一書」を取り上げている。

(第二、一書)
 是を草薙剣と号す。此れは今、尾張国の吾湯市(あゆち)村に在り。即ち熱田の祝部(はふり)の掌る所の 神、是なり。

(第三、一書)
 名づけて草薙剣と為す。此の剣、昔素戔鳴尊の許(もと)に在り。今尾張国に在るなり。

(第四、一書)
 此れ今、所謂草薙剣なり。

 以上〝執拗″なまで、この素戔鳴説話の大蛇の尾の剣と、草薙剣との同一性を力説している。 この状況は、すなわちこの編者(「帝王本紀」)の関心の所在、〝立証″のポイントを示していよう。

 この「草薙剣」について面白い、もう一つの出現個所がある。それは先にあげた天孫降臨の段 だ。『古事記』と『書紀』第九段、第一、一書(全文、「帝王本紀」のもの)と、ともにそのさい随伴した 三種の神器の一つとしての剣を「草薙剣」と書いているのである。
 日本武尊説話の段階で〝名づけられた″ことになっているこの名前が、まだそんな話(相武の 焼津の草薙の故事)のありもしない天孫降臨段階で「草薙剣」と呼ばれているのは、一見奇妙だ。 おそらく天照大神も瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)も、このとき(天孫降臨時点)には、この剣の「未来の 名前」など夢にも知りはしなかっただろうから。しかし、後代名称(七、八世紀現在名)たる「草薙剣」 でもってそれ以前の名(天叢雲剣)と〝置換″して記述しているのである。これは一般に史書の 上で必ずしも不思議な用法ではない。「日本の神武天皇」とか「中国の孔子」とかいって平気な のと同じだ。
 このように「置換」や「註記」という形で古伝承や古記録と現在時点(七、八世紀)の名称と を等号で結ぶ ―― ここに「帝王本紀」が用い、『書紀』が展開した興味深い手法があるのである。


 「草薙剣」問題から汲み取るべきは「『書紀』が展開した興味深い手法」だけではない。 「〝執拗″なまで、この素戔鳴説話の大蛇の尾の剣と、草薙剣との同一性を力説している。」 のはなぜか。出雲とヤマト王権との関係の解明時に明らかになるだろう。
371 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(24)
「神代紀」の解読(1)
2005年8月23日(火)


 「天皇家は万世一系」という共同幻想の根幹を支えている核は記紀の「神話」 である。「つくる会」による扶桑社の教科書が「神話」を挿入するのは故なしと しない。今回から古田さんの「記紀神話」の解読ぶりを追うことにする。

 ところで、「万世一系」について古田さんは次のように小気味よく 喝破している。

 いったい「万世一系」とはなんだろう。
 人間はみんな万世一系なのだ。ある日、突然にアミーバから変身したわけで はない。この世に生をうけているだれ一人でも、わたしたちの血統を次々とさ かのぼっていくならば、必ず悠遠の昔の発祥の日々に立ち至るはずである。 自分の理性を否定しない限り、わたしはそれを一瞬も疑うことはできない。
 その中で、特別に「万世一系」などという特殊な家系をもつ、特殊な人々の あろうはずはない。これは自明というべく、あまりにも自明すぎることではあ るまいか。それをことさら「万世一系」などといい立てるとき、それは必ず 「特定の政治野心」の表現にはかならない。自分が普通の、変りなき人間の 一人であることを熟知する故に、にもかかわらず今、〝かかる特定の支配の 座をかちえたこと″を「合理化」せんとして、「万世一系の皇統」というよ うな、一種奇抜な概念を「創出」せねばならなかったのではあるまいか。不 遜を恐れずにいおう。それはときの新興勢力が〝必要とした概念″だったの だ、と。
 これはわたしにとっては、自明の真実だ。

 このような人のありようの「自明の真実」を理解しない迷妄がなお多くの 人を呪縛している。その呪縛の縄が天皇教という共同幻想なら、その縄を 解体するに如くはない。

 さて、本題に入る前に改めて記紀の「神代」の巻の「史料性格」を確認 しよう。

(一)
 神代の固有の天皇家内伝承は、『古事記』の示すような〝一通り″の形で あった。

(ニ)
 これに対し、外来先行の九州王朝の史書「日本旧記」は、豊富な各種の神代 記事を内蔵していた。

(三)
 上の内・外二種の神代伝承を総合した形で取捨記録したのが、「帝王本紀」 だ。それは天武10(681)年に成立した。

(四)
 右の方針をさらに拡大・発展したのが、養老4(720)年に成立した『書紀』 であった。

 すなわち、九州王朝の史書内容を「盗用」するという〝伝統″は、〝「帝王 本紀」より『日本書紀』へ″と、世襲されていたのである。


 「史料性格」を上のように断定するにあたっては、もちろん、古田さ んは綿密な論証を展開している。その長い論証を割愛したが、古田さんが 「最も明白は例」として分析している「草薙剣」問題を取り上げようと思う。
 とりたてて「草薙剣」問題を選んだのには次のようないわくを知ったからだっ た。

 友人のブログの中に次のような一節があった。

 歴史学徒のはしくれとして、一応名だたる神社仏閣は訪れるようにしています ので、熱田神宮の見物です。三種の神器の一つ草薙の剣を神体とする、由緒の古 い神社ですね。熱田神宮は三種の神器の一つ「草薙の剣」を神体とする、古い神 社だ。昭和天皇が敗戦を決断した理由は、アメリカ軍上陸によってここにある草 薙の剣を奪われることを恐れたから、という驚天動地の事実があります。『昭和 天皇独白録』からの引用です。「敵が伊勢付近に上陸すれば伊勢・熱田両神宮は 直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込みがたたな い、これでは国体の護持は難しい」
 嗚呼、言うべき言葉もありません。(と言いながらも)昭和天皇は北朝の末裔 というコンプレックスに悩まされていたようなので、天皇の正統性を保証する三 種の神器は絶対に欠かせないものだったのでしょう。少なくとも臣民の生命・財 産よりも…
 私は『昭和天皇独白録』を持っていないので代わりに『昭和天皇語録』(講談 社学術文庫)に同じようは記事がないか調べてみた。次のようなくだりがあった。
万一の場合には自分がお守りして運命を共にするほかない  (20・7・31)

 本土決戦さえ叫ばれる状況で、天皇は伊勢神宮と熱田神宮にある、皇位継承の 象徴である三種の神器の処理を心配した。

 「伊勢と熱田の神器は結局自分の身近に御移して御守りするのが一番よいと思 ふ。而しこれを何時御移しするかは人心に与ふる影響をも考へ、余程慎重を要す ると思ふ。(略)万一の場合には自分が御守りして運命を共にする外ないと思 ふ」(「木戸幸ー日記」(下)1221ページ)


 20・7・31。全国の都市が日々絶え間なく絨緞爆撃を受けて膨大な数の死傷者を出し、 「忠良なる赤子」が悲嘆と痛苦に喘いでいたさなかだ。広島への原爆投下の六日前だ。

 次回は、天皇にとって「臣民の生命・財産」よりの大事で、天皇に国民を差し置いて 「運命を共にするほかない」と言わしめた「草薙剣」の正体を見てみよう。

370 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(23)
九州王朝の形成(7)
2005年8月22日(月)


 前回の「景行紀」からの引用文中の歌

朝霜の 御木のさ小橋 まへつきみ い渡らすも 御木のさ小橋

 この中の「まへつきみ」という言葉が今回のテーマである。
 日本書紀の原文は「魔弊菟耆瀰」でありこの音表記を「まへつきみ」と読ん でいる。これを「群臣」という意味に解してこの部分の読み下し文を「岩波古 典文学大系」では「群臣(まへつきみ)」としてい る。
 古田さんによるとこの訓読み(解釈)は河村秀頼・益根という学者 (江戸時代?)の解釈を現代の学者が追従してきているものだという。
 古田さんは『書紀』全文に頻出する「群臣」「群卿」「卿大夫」「公卿」 「侍臣」の類の語句を調べ上げている。総計約220例あり、「岩波古 典文学大系」ではそのすべてを「マヘツキミ」と音読しているという。 しかし日本書紀の原文では「魔弊菟耆瀰(まへつきみ」という音表記はさき の歌の中の一例だけである。

 ここでもこれまでの学者たちは初歩的な論理の錯誤を犯している。 「群卿」「卿大夫」「公卿」「侍臣」の言葉が「まへつきみ」と音読する ことが正しいという論証があれば、「魔弊菟耆瀰」を「群臣」と訓読する ことは妥当となる。いわゆる「帰納法」だ。
 しかし、「魔弊菟耆瀰」を「群臣」と訓読する一例(しかも検証抜きの 一解釈でしかない)をもって他の類語すべて(「群卿」「卿大夫」「公卿」 「侍臣」)を「まへつきみ」と音読してしまう論理は一体何と呼ぶ「論理」な のだろうか。「定説」にとらわれた学者の視野狭窄ぶりを示す例が一つ追加 されたことになる。

 これについて古田さんは次のように論考している。

 しかし、わたしが前著(『失われた九州王朝』)で明らかにしたように、 「筑紫君」とは九州王朝の君主を指した表記だった。

筑紫君葛子(くずこ) (継体紀22年)

筑紫君薩野馬(さちやま) 〈天智紀10年〉

 またこの表記は「百済本紀」中にも出現する。

百済本記に云ふ。「筑紫君の児、火の中の君の弟」と。(「筑紫の火の君」に 対する註記) 〈欽明紀17年〉

 以上は六世紀の呼称である。
 さらにもっとも重要な史料は『隋書』倭国伝だ。

開皇20年、?(たい=「イ」+「妥」)王有り。姓は阿毎(あめ)、字は多 利思北孤(タリシホコ)、阿輩?(「奚」+「隹」)弥(あわきみ)と号す。 ……王の妻は?弥(きみ)と号す。

 つまり「阿輩君」とは「日出ずる処の天子」と誇称した君主(天の足りし矛) の尊称であり、その后は「君」と呼ばれていた。――これが七世紀前半の九州 王朝である。


 ここでもまたまた驚くべきことに出くわした。聖徳太子とされている 「日出ずる処の天子」が九州王朝の王だという。しかも九州王朝は少なくと も七世紀前半まで君臨していたという。私はいまだに『失われた九州王朝』を読む機会を持たないでいる。こ れらの驚くべきことがどのように論証されているのか、本当に認めざるを得ない 論証なのか、知りたいと思う気持ちがはやる。が今は古田さんの「まへつきみ」 の論考の続きを読もう。

しかるに、六世紀中葉に成立したと見られる「日本旧記」に「百寮」と並ぶ 「群臣」といった朝廷の官人達をひっくるめて「……の君」と呼んだとは! わたしには到底理解することができない。
 7、8世紀以降の後代において、その使用法が「下落」し、天皇のもと 「……のキミ」が氾濫し、いわば〝「キミ」のインフレ″状況となっていた 近畿天皇家、たとえば「キミタチ=キンダチ(公達)」という言葉さえ横行 していた、そのころの通念をもって解釈してしまったのが「マヘツキミ=群 臣」説ではないだろうか。だが、「キミタチ」ならまだよい。しかし、 「マヘツキミ」の場合、率直な印象として、〝単数の呼び名〟ではないだろ うか。

 では、その〝単数〟とはだれか。ズバリ「筑紫の君」だ。すなわち、この 遠征軍の唯一の主導者、筑紫の王者の呼称以外にない。
 この主格に対する「い渡らすも」という述語の荘重な響きも、この理解を 支持するであろう。

やすみしし わご大君(天皇)の……夕には い倚り立たしし……
懸(か)けまくは あやに畏(かしこ)し 足日女(たらしひめ=神功皇后)、 ……い取らして 斎(いわ)ひ給ひし 真珠なす……


 このあと古田さんは「前つ君」の本拠地が糸島郡の「前原」(まえばる)で あったことを論証しているが、これは割愛して「九州王朝の形成」をテーマと した稿を終えることにする。
369 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(22)
九州王朝の形成(6)
2005年8月21日(日)


 「景行紀」に記されている九州大遠征は実は九州王朝による九州統一譚 だったということは先に明らかにされた。(「第361・362回」8月14日・8月15日) 古田さんの論考はその九州一円を平定した大王の分析に進む。突破口は 「景行紀」の中の次の一段である。

(景行18年)秋7月の辛卯の朔甲午に、筑紫後国の御木(みけ)に到りて、高田 行宮に居す。時に僵(たお)れたる樹有り。長さ970丈。百寮、其の樹を蹈みて 往来す。時人歌ひて曰く、

朝霜の 御木のさ小橋 まへつきみ い渡らすも 御木のさ小橋

爰(ここ)に天皇、問ひて曰く「是、何の樹ぞや」と。一老夫有りて曰く、 「是の樹は歴木(くぬぎ)なり。嘗(かつ)て未だ僵れざるの先、朝日の暉 (ひかり)に当りて、則ち杵嶋(きしまの)山を隠す。夕日の暉に当りては、 亦阿蘇山を覆(かく)すなり」と。天皇曰く、「是の樹は神木なり。故に是の 国は宜しく御木(みけの)国と号すべし」と。(景行紀)

 古田さんは「百寮」という語に注目する。まず中国史料の用例を引いて、 「百寮」とは〝天子のひきいる、朝廷内のすべての官僚群″を指す用語である ことを明らかにする。そして次のように分析する。

 景行遠征の場合、これは全く「不明の一語」だ。なぜなら、近畿からの長途 遠征のはずなのに、ここに突如〝朝廷の全官僚群″が出そろうとは!
 しかしこの奇怪な一語も、今新しく切りひらききたった史料批判の視点から は、なんの不思議もない。なぜなら、都は筑紫の中央部にあった。それで長途 の遠征を大成功裡に終えて凱旋した筑紫の王者に対して、この筑紫南端の行宮 に「百寮」が来り参じて出迎えたことは当然であるから。
 ここは例の筑後山門と隣接している。しかし、ここはこの王者の「本拠」では ない。それは、「高田行宮」の語が証明するであろう。「行宮」とは〝天皇の 仮宮″のことであるから。では、本拠はどこだろう。このあと、この遠征軍は 八女(やめ)国(今の八女市)を経て浮羽(うきは)(今の浮羽郡)に向か う。先にのべたように、ここでこの遠征軍の記事は突如終っている。では、 ここが最終目標地だろうか。

 次に古田さんは次の一節を引用している。

(景行18年)8月、的邑(いくはのむら)に到りて食を進む。是の日、膳夫等 盞(うき)(酒杯のこと)を遺(わす)る。故に時人、其の盞を忘れし処を 号して浮羽と曰ふ。今、的(いくは)と謂ふは訛(なまり)なり。昔筑紫の 俗、盞を号して浮羽と日ふ。

 再度「景行紀」の遠征地図をみてみよう。

景行紀

 古田さんの分析は次のようだ。

 ここは的(生葉=いくは)の「邑」であって、「京」ではない。その上、 「進食」(食物を進める)の用語が用いられている。

 進食之礼。(『礼記』曲礼上)

 つまり、この語は〝主人が客をもてなす″ときに使う語だ。このさい「客」 は遠征軍の主たる王者であり、「主人」は浮羽の邑の邑長・邑人たちである。 してみると、ここはいまだ王者の都城の地ではない。では、それはどこだろう。 この最終行路で、経てきた領域を考えよう。

御木(三池)→八女(八女)→浮羽(浮羽)

 筑後の南西端から東北方にむかい、筑後の北東部に達している。ここは筑後 の北辺である。そしてそのさらに北は――筑前だ。  先に「筑紫の空白」といったが、より厳密には「筑前の完全空白」なのであ る。その筑前南辺には筑後討伐の根拠地となった松峡宮(朝倉郡三輪町付近) がある。さらに北のかた、太宰府から橿日宮に通ずる道もある。これらがすな わち真の空白部、〝遠征軍の故国″なる都の地だったのである。

368 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(21)
九州王朝の形成(5)
2005年8月20日(土)


まず、神功皇后の筑後討伐地図でその進路を確認しておこう。

神功紀

①橿日宮(かしひのみや)→②御笠(みかさ)→③松峡宮(まつおのみや)
と進んでいる。しかし神功は橿日宮にいた。②の御笠以降は「日本旧記」の筑後討 伐譚から接ぎ木された説話だ、と古田さんはすでに論証している。(「第359回・8 月11日」参照)その前提のもとで「伝説的女王の本拠」を次のように推論を進めている。

(A)
 戊子、皇后、熊鷲を撃たんと欲す。而して橿日宮より松峡宮に遷る。時に飄風 (つむじかぜ)忽ち起り、御笠堕風(ふけおと)されぬ。故に時人其の処を号して 御笠と曰ふなり。〈神功紀〉

(B)
 辛卯、層増岐野(そそきの)に至り、即ち兵を挙げて羽白熊鷲を撃ちて滅す。左右 に謂ひて曰く、熊鷲を取り得て我が心則ち安し、と。故に其の処を号して安(やす) と曰ふなり。〈同右〉

 これらはいわゆる地名説話だ。「日本旧記」は地名説話つきだったのである。 「御笠」を風に飛ばされたり「我が心則ち安し」と言ったのは、もちろん神功ではなく、 かの「伝説的女王」だ。

 とすると、松峡宮へ向かう途次、今の御笠の上流(太宰府付近)で「御笠」を飛ばした この女王の真の発進地はどこだろう。
 上の文面の示すところ、そこに「橿日宮より松峡宮に遷る」とあるように、橿日宮、その地し かない。つまり、「日本旧記」の原文面にこの筑前の女王の発進地が「橿日宮」となっていたの を奇貨として、『書紀』の編者は、この地に来た神功との「接合」を企図したのである。
 このような論理の帰結をささえる、側面の証拠がある。

(景行12年)11月、日向国に到りて、行宮(かりみや)を起し、以て居す。是を高屋宮と 謂ふ。(景行紀)

 つまり、ここでは現地(日向)において仮の宮処を作り、それを「高屋宮」と命名している。

(仲哀2年)9月、宮室を穴門(あなど)に興して居す。是を穴門豊浦宮と謂ふ。(仲衷紀)

 ここでも、現地(穴門〔下関市〕)に宮室を作り、宮室名をつけているのだ。これに対し、 「橿日宮」はちがう。

(仲哀2年)己亥、健県に到りて因りて以て橿日宮に居す。〈仲衷紀〉

 「因りて以て」の一句が的確に示しているように、ここでは新たに宮室を造営したのではな い。〝すでにそこにあった橿日宮″に入り、そこを現地における拠点とした、というのである (この点、松峡宮も同じ)。
 すなわち、近畿遠征軍が占拠したその地こそ、九州王朝の創始期、神話的女王発進の聖地とさ れていた宮殿であった。
 ではなぜ、この地が「発進の聖地」とされたのであろうか。北は海に面し、東に遠賀川流域、 西に伊都国を望む地理上の位置のせいか、それとも宗像神社の遠大な海上神域を背景にした宗教 上の聖地であったからか。おそらくそのいずれをもふくんでいたであろう。だがそれは、推定た るにとどまる。
 確かなこと、それは、この神話的女王が「橿日宮に天の下しろしめす君」であったという、そ の一事である。

367 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(20)
九州王朝の形成(4)
2005年8月19日(金)


 「神功皇后紀」にあたる記事は『古事記』にはない。『古事記』にない系譜は、これまでの論理 によれば、もともとは「ヤマト王権」の伝承にはなかったものである。ではなぜ、『書紀』は「神 功皇后紀」を事改めて設けたのだろうか。
 「日本旧記」にある九州王朝の記事を剽窃・改竄するとき、九州王朝にしばしば登場する「女王」 の存在が頭痛の種だったのだ。それまでのヤマト王権には「女王」はいなかったのだから。卑弥呼や 壱与を男の王に割り当てるわけにはいかない。「女王」の時代を創らなければならなかった。 「神功皇后紀」を設けて、そこに「日本旧記」の「女王」関係記事を挿入したというわけだ。このこと についての古田さんの考察を読んでみよう。

 ここ(神功皇后紀)には、「卑弥呼・壱与」の記事が、二人の実名を伏せ、「倭国の女王」という抽象 的な表現で、つまりあたかもこの二人が「一人の女王」であるかのように見える形で、挿入されている。 この史料事実を見つめるとき、『書紀』の編者の「新規治世」特設の〝設立趣意書″第一項目が、ほかな らぬ「女性である主権者の存在」という、〝性″の問題にあった、と考えざるをえない。
このように論理を追ってくると、九州王朝のはじめ、まず筑紫一円を平定した燦たる始源の王者 が「日本旧記」中で女王として書かれていたのだ、という命題に必然的にたどりつかざるをえな い。

 さて、筑後山門の田油津媛は、この筑前の女王と同時代の人であった。この田油津媛の存在自 体も、当時筑紫の地が〝女王活躍期″であったことを示している。では、この時代はいつごろで あろうか。もちろん、この説話自体から決めることはできないけれども、一つの目安がある。そ れは、中国史書に記録された三世紀卑弥呼の存在だ。彼女は筑前を本拠として三十国に君臨して いた。その三十国は九州を中心として瀬戸内海西域に及んでいたのである。
 したがって卑弥呼は、筑後を討伐し、はじめて筑紫一円を定めたこの神話的女王とは、もちろ ん同一人物ではない。はるか後代の存在である。逆にいえば、この筑後討伐の女王は、三世紀よ りはるか古えの時期の人物として語り伝えられていたのである。
 この点、『三国志』魏志倭人伝に示唆に富んだ叙述がある。

 其の国、本亦男子を以て王と為し、住(とど)まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年、 乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰う。

 つまり、現在(三世紀)は女王だが、本はやはり(中国や東夷の諸国と同じく)男王の時代が 7,80年(二倍年暦であるから、実際は35~40年あった、というのである。
 卑弥呼という女王の時代、わたしたちはそれを〝太古の女権時代″と錯覚しがちだ。しかし、 実はその時期はすでにすぎ、この国もいったん男王期に入っていたのである。
 ではなぜ、この「相攻伐すること歴年」という乱世の中で、女王が「共立」されたのだろうか。 それは、はるか過去(男王期以前)に〝偉大なる名女王の時代″が倭国の歴史上に存在していた からだ。わたしには、そう思われる。その輝かしい時期の女王説話は、統合の王者として人々の 間に深く広く語り伝えられ、一個の「共同幻想」と化していたのである。その神話的・伝説的時 代の「偉大なる女王」の記憶に頼って、人々は〝分裂からの脱出路″を見出そうとした。そして それが〝卑弥呼と名のる一女子″に託せられることとなったのである。その方法――巧妙な「共 同幻想」の利用――は成功した。いささか推定の力に頼りすぎたようであるけれども、従来から、 わたしにはすでにそのように思われていた。

 ところが、果然、いま偉大なる筑紫統合の始源の女王の姿を、わたしはこの神話伝承の中にか いま見ることとなったのである。

 古田さんの次の問は「では、この神話的女王の本拠はどこだろうか。」である。
366 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(19)
九州王朝の形成(3)
2005年8月18日(木)


 古田さんは、『記・紀』中に挿入された「日本旧記」の記事を解読することによって 九州王朝の初源の形を明らかにした。その「初源の形」は魏志倭人伝によっても確認する ことができる。

 わたしはその分析(魏魏志倭人伝の)によって、卑弥呼の国、邪馬壹国(やまいこく) が博多湾岸とその周辺に存在したことを知った。この博多湾岸とその周辺とは、御笠川 の流域(須玖遺跡、太宰府)および基山(きやま)および朝倉付近をふくんでいる。 今の問題は伊都国との関係である。

「(伊都国)世々王有り。皆女王国に統属す」

 ここで注目すべきは次の二点だ。

(一)
 女王国領域内で「王」有りとされるのは、この一国だけであること(「狗奴国王」は 女王の敵対者)。
(ニ)
 代々、博多湾岸なる女王国に「統属」してきている、として、両国の特殊関係を表記して  いること。


 ここで「統属」とはいったいどういう関係なのか、その意味を明らかにすることが 目下の問題の解明のポイントとなる。
 この語を通り一遍に「統合下に属する」と解しただけではその意味を十全に捉えたこと にはならない。ただこれだけの関係なら、女王国統治下の29ヶ国すべてがそうなのだから、 とくにこの伊都国だけのことではなくなってしまう。だが、伊都国は他の28国とちがって いた。「世々王有り。」なのだ。「王」が存在していて、女王国との関係が古来(三世紀 を「今」として)から継続してきている。いいかえれば、他の28国はより新しい段階で 次々と女王国の統治下に、討伐かあるいは帰服によって、編入されてきたことを示して いる。
 さらに、この「統属」の用語が実は『漢書』の次の用例を背景にしているという。

 属統(統ヲ属シ)、垂業 (業ヲ垂レ)、物鬼変化、天命之符、廃興何如(イカン)(『漢書』公孫弘伝)

 この「属統」は 〝トウヲツグ″ であり、〝血すじをうけつぐ″の意だ (諸橋轍次『大漢和辞典』)。「統、系なり」(正字通)、というように、「統」は 〝血すじ″の意味なのである。「血統」の「統」だ。
 つまり、伊都国は、他の28国とちがって、血すじの系列の上から、女王国につながってお り、そのため、みずから「王」の称号が許されているとともに、古えより代々女王国に所属 してきている、というのである。すなわち、ここには〝二国連合の伝統の古さ″が説かれて いるのである。このように、三世紀時点において、中国側の採取した「倭国の王朝史」、そ の史実は、先に「日本旧記」の物語るこの王朝の歴史的淵源の説話とピックリ一致して間隙 がないのであった。
 以上の分析から、九州王朝の歴史とその淵源が明らかとなってきた。筑前を本拠とし、 筑後を討伐してその傘下に収め、やがて九州一円に及んだのである。

 田油津媛(たぶらつひめ)の本拠、筑後山門は江戸時代、新井白石が邪馬台国の地に比定 してより、にわかに脚光をあびてくることとなった地である。しかし、田油津媛を討伐した のは、神功皇后ではない。九州王朝の神話時代の伝説的王者であった。
 したがってこの田油津媛の存在を卑弥呼の本拠地「山門」説と結びつけてイメージしてき た筑後山門論者は、大きな錯覚の中にいたのである。ここはいわば「被征服地」ではあって も、筑紫の王者の本拠地ではない。


  さて、この九州王朝の伝説的王者の事績が、『書紀』の編者によって「神功 皇后」の項に挿入されていた。なぜ「神功皇后」なのか。
 古田さんは言う。『この点からみると、この人物は「女王」だったのではないかと思わ れる。なぜなら、「卑弥呼・壱与」等の女王が神功皇后の項に挿入された、その第一の理 由もまた〝彼等が「女王」である″という一点にあったことは疑いないであろうから。』
 次はこの点を吟味することになる。
365 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(18)
九州王朝の形成(2)
2005年8月17日(水)


 「(A)(B)(C)の三説話は筑後討伐譚か、九州東・南部討伐譚か。」という問に対する 古田さんの答はこうだ。
 思うにこの答えは容易である。後者である。なぜなら、筑前を原点にして筑後を討伐する場合、 三者が「舟で迎える」必要はない。全陸路の討伐だ。これに対し、九州東・南部討伐譚の場合、 筑紫(「御笠-朝倉」を中心とする)から周防の娑麼までの行路は舟だ。海路なのであるから (九州東岸各地の転戦にも舟が用いられたことであろう)。
 (A)(C)とも、例の発進地「周芳の娑麼」に来て「天皇」を迎えている。(C)の「磯津 (しつ)山」は北九州市と京都郡との間の貫山(芝津山)か、とされる(岩波、日本古典文学大系 本)。(B)は「穴門の引嶋」(下関市彦島)だが、これも近辺だ。筑紫から周防の娑麼に向かう ときの、重要な中継地(関門海峡)なのである。――こうしてみると、筑紫の「Ⅹ天皇」の九州 東・南部討伐軍に、この三者が舟をもって集い、前途を祝したことを示しているのである。

 このように分析し、原型を復元してみると、「日本旧記」中においては同一事件の冒頭を飾っ ていたはずの一連の説話を二つに分解して、それぞれ景行紀と仲哀紀に分配し、配置したこの 『書紀』の編者の手ロ ― わたしはそのあまりのやり方にやりきれぬ〝憤り″さえも覚えたのだ った。いかに〝近畿天皇家の威光″を示すために恰好な道具立てとはいえ、こんなやり方が許さ れていいものだろうか。

 さて、ふたたび冷静にかえって分析の手をすすめよう。
 以上の説話復元作業によって、わたしはこの説話が考古学上の遺跡発掘の事実と対応する理由 を知ることができた。これは九州王朝発展史の中の重要な説話であり、筑紫で成立した説話であ った。そしてその説話はしっかりした歴史的事実を背景にもっていたのである。
 それは、九州北岸が「三種の神器」の共同祭祀圏に属していたこと、しかも各地方の部族ごと に、微妙に名称や祭祀形式(配置方式)を異にしてそれぞれの個性を保っていたことである。ま ことにシュリーマンの示したのと同じように、「筑前なる共同祭祀圏」の原存在という点、説話 内容と遺跡の発掘事実とは、見事な相応と一致を示していたのである。


 古田さんの理路は、当然、「初源の九州王朝」へと向かうことになる。

 まず、筑前と筑後の関係を考察している。筑前は相和した共同祭祀圏であるのに対し、筑後は 討伐の対象となっている。これは筑紫の王の本国は筑後ではなく筑前であることを示している。
 さらに古田さんは説話に現れる「熊」という語に注目する。

筑後の討伐の対象は「羽白熊鷲」で「熊」がついている。また、九州東・南部の討伐説話では 主たる討伐目標は九州南部(鹿児島県)の「襲(そ)の国」だった。そしてここが「熊襲」と 呼ばれていた。このような例から古田さんは、『異域、討伐の対象といった場合、これに「熊」 を付して呼んだようである』と推定している。
 ところで、筑前の岡県主が「熊鰐」と呼ばれている。同じ筑前の県主でも岡県主熊鰐と伊覩 (いと)国の五十迹手(いとて)とでは大きなちがいがあることになる。前者は「熊」つきであ り、後者はそれがないのだから。
 そこで古田さんは『伊覩国の五十迹手は、「Ⅹ天皇」(御笠-基山・朝倉)と、地理上、祭祀上、 血縁上においてもっとも親近した、古くからの連帯関係にあったのではないか、と思われるのだ。 すなわち、「博多湾岸とその周辺-糸島郡」原初連合国家の存在である。』と二国連合国家と いった形態を推定している。
 この二国連合の形態は、「景行の熊襲遠征説話」の中にも現れていると、次のくだりを引 用している。

 残賊なる者有り。一に鼻垂(はなたらし)と曰ひ、妄(みだ)りに名号を仮し、山谷に 響(おとな)ひ聚(あつま)りては菟狭(うさ)の川上に屯結(いわ)めり。 二に耳垂(みみたらし)と曰ふ。残賊貪婪、しばしば 人民を略す。是れ御木(みけ)の川上に居す。(景行紀12年9月)

 これについて、次のように論考を進めている。

 これは神夏磯媛が、景行天皇に報告する大分県内の四人の敵対勢力の中の、最初の二人だ。こ の「鼻垂」「耳垂」について、岩波、日本古典文学大系本は「はなたり」「みみたり」と読み、つ ぎのように註解を付している。「鼻垂は、大きく鼻が垂れる意か。次行の耳垂は、大きく耳の垂 れる意」と。しかし、「垂」は「たらし」あるいは「たりし」であり、たとえば、神功皇后の気 長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)の「タラシ」と同形であろう。
 さらに「鼻」は、実は「花」だ。つまり「花足らし」、この名は〝花のいっぱい咲き満ちた″ という意味の美称である(神夏磯媛と同じく、女王であるかもしれぬ)。その上、先にのべたよ うに、自立して「仮授権」を行使していたのである。それを「残賊」つまり敵対者であるため、 このような「卑字」で表現したものと思われる。
 同様に「耳垂」(みみたらし)の「耳」は「天忍穂耳尊」(アメオシホミミノミコト、天照大神の子) などと同じ尊称「ミミ」である。また『三国志』魂志倭人伝では、投馬国の長官を「弥弥(みみ)と曰 う」と記しているのである。
 すなわち、筑紫の王者の討伐をうける以前は、この「鼻垂」「耳垂」の両者は相結んでこの地 方に君臨していた主権者であった。そしてここにもやはり、「二国連合国家」の形態があらわれ ているのである。この時期の国家形態の、一つのタイプだったのではあるまいか。そして筑紫の 場合、「筑前二国連合」という中心地の上に立っていたのが、この「Ⅹ天皇」だったわけである。
364 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(17)
九州王朝の形成(1)
2005年8月16日(火)


 日本書紀の仲哀天皇・神功皇后の熊襲遠征の記事の中に次のようなくだりがある。

(A)
時に岡県主(おかのあがたぬし)の祖熊鰐(おやわに)、天皇の車駕(みゆき)を聞き て、予(あらかじ)め、五百枝(いおえ)の賢木(さかき)を抜き取りて、以て九尋 (ここのひろ)の船の舳(へ)に立てて、上枝(かみつえ)には白銅鏡(ますみの) を掛け、中枝(なかつえ)には十握(とつか)剣を掛け、下枝(しもつえ)には八尺瓊 (やさかに)を掛けて、周芳(すわ)の娑麼(さば)の浦に参り迎ふ。〈仲哀紀8年〉

(B)
又、筑紫の伊覩県主(いとのあがたぬし)の祖五十迹手(いとて)、天皇の行を聞き、 五百枝の賢木を抜き取り、船の舳艫(もとへ)に立て、上枝には八尺瓊を掛け、中枝に は白銅鏡を掛け、下枝には十握剣を掛けて、穴門(あなど)の引嶋(ひきしま)に参り 迎へて献る。〈同上〉

 鏡と剣と玉。「三種の神器」めいたものを舟に飾って天皇を出迎えたという記事だ。

「三種の神器」といえば、戦前の人にはおなじみだ。〝天皇が神の子孫である証拠に、代々「三種 の神器」が伝えられてきた″と戦前の教科書では教えられた。が、戦後史学ではうってかわって 〝評判″がわるい。例の「後代造作説話」では、いつも槍玉にあげられている。
 しかし、戦後史学にとって、いささか〝気になる″事実がある。それは、筑前、つまり九州北 岸の古い地層から次々とこの「三種の神器」の組み合わせで遺物が出土してくるのだ。しかも、 現代の考古学で漢代(紀元前後)と見なされている古い遺跡から、なのである。
 だから、右にあげた岡県主(遠賀(おんが)川付近)や伊覩県主(糸島郡) は、それらの遺跡の、いわば〝御当地″なのだ。とすると、〝どうせ、後代の造作さ!″と一笑に付す ることのできぬ真実味(リアリテイ)をもっているのである。

 さて今は、わたしの史料批判の立場にたちもどろう。
 上の(A)(B)の記事は、共に『書紀』の記事だ。『古事記』には一切出現しないのである。 だが、従来の見地に固執する論者はいうだろう。〝神功の筑後平定譚とちがって、こんな個所まで 「近畿天皇家の説話であることを否定しなくてもいいではないか。だって、現に仲哀・神功は橿日宮 までは行ったのだから、そこにはじめから付属していた説話と見てもいいではないか?」″と。
 ところが、そうはいかない。つぎの例を見ていただこう。


 古田さんがあげた例は次の景行紀の記事である。

(C)(景行12年、9月、周芳の娑麼)爰(ここ)に女人有り。神夏磯媛(かむなつそひめ)と曰ふ。 其の徒衆(やから)甚だ多し。一国の魁帥(ひとごのかみ)なり。天皇の使者至るを聆(き)きて、 則ち磯津山の賢木を抜きて、以て上枝には八握剣を挂(か)け、中枝には八咫(やたの)鏡を挂け、 下枝には八尺瓊を挂け、亦素幡(しらはた)を船の舳に樹(た)てて、参り向ひて啓して曰く、 ‥‥‥〈景行紀〉

 この(C)が先の(A)(B)と全く同じタイプの説話であることは誰にも否定できまい。 違う点は舟の上の三つの枝に飾る宝器の順序だけだ、と古田さんは指摘している。それをまとめると つぎのようになる。


     上    中    下
 (A) 白銅鏡  十握剣  八尺瓊
 (B) 八尺瓊  白銅鏡  十握剣
 (C) 八握剣  八咫鏡  八尺瓊

 この事実についての古田さんのコメントはこうだ。
 わたしはこの表を見ると、「魏志倭人伝」のつぎの文面を思いおこす。「男子は大小と無く、皆 鯨面(げいめん)文身す。……諸国の文身各々異なり、或は左にし、或は右にし、或は大に或は小に、 尊卑差有り」つまり、「鯨面文身」という点は共通していながら、各地方や階級でタイプがちがってい る。逆にいうと、そのタイプを見れば、どの地方かなんの階級かわかる、というわけだ。

 今の「三種の神器」の場合も、「三つでワン・セット」という点は共通しながら、各地方でか け方の位置や呼び名に、それぞれの流儀をもっているのである。
 ところで、景行の熊襲遠征譚の場合、その全体が近畿天皇家とは全く関係がないことはすでに 立証した。景行は九州へなど全く足もふみ入れていないのだ。とすると、(C)は当然、景行とは関 係がない。九州一円平定を行なった九州の王者「Ⅹ天皇」を迎えた説話、つまり「日本旧記」の 一節だ。この(C)もまた、『古事記』には全く姿を見せぬ説話なのであるから、今まで辿りきたっ た論理の進行上、これは不可避の帰結である。とすると、この説話と同じタイプ、ワン・セット の説話である(A)(B)説話も当然その運命を共にするほかはない。「日本旧記」からの 〝移植部分″なのである。


 ここで古田さんは問いかけている。『では、この(A)(B)(C)の三説話は「日本旧記」の中におい てどちらの平定譚に属していたのであろう。筑後討伐譚か、九州東・南部討伐譚か。』
363 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(16)
「熊襲」とはどこか(7)
2005年8月15日(月)


 以上の謎を解く鍵を古田さんは「景行紀」の次の一節の中の「巡狩」という 概念に見出した。

十八年春三月に、天皇、将(まさ)に京に向ひ、以て筑紫国を巡狩せんとす。

 「巡狩」とは「天子が辺境を巡行すること」であり、中国の史書に頻出する 言葉だという。(岩波の日本古典文学大系「日本書紀」では「巡狩す」を「めぐりみそな はす」と読んでいる。)

 さて、導きの糸はこうだ。この「京」は、近畿の都のことだとすると、近畿 を原点として、「筑紫国」を「巡狩」する、というのなら、当然筑紫国自体を 「辺境」と見なしていることとなる。とすると、筑後から筑前にむけて、つま り筑紫国を南北に巡るのでなければ、この語の内容にふさわしくない。
 ところが、巡行の事実は、熊本県から島原半島へ行き、このあと「筑紫の 南辺」(福岡県の南辺)を往復しているのである。「筑紫の南辺」だけをめぐ ることが、なぜ「筑紫国巡狩」となるのだろうか。変だ。
 この問いを正確に見つめて、論理的におしつめてゆくと、その帰着は意外な 地点にゆきつく。――これは、筑紫の中央部(たとえば太宰府近辺)を原点 として、筑紫国の辺境(ヽヽヽヽヽヽ)たる「南辺」 を「巡狩」しているのではないか、と。そう考えると、「巡狩」の語の用法に まさにピッタリだ。すなわち、この場合「京」とは、筑紫の中央部(ヽヽヽヽヽヽ) にあるのである(この文は、率直にいって、「京」に向かう、その行路の途中 に「筑紫国南辺巡狩」がある、そういった感じだ)。

 以上の「巡狩」をめぐる考察から、いままでにあげられてきた問題点・疑問点は 次々と解きほぐされてくる。
 第一、「筑紫の空白」は当然だ。この謎の遠征軍の、真の出発地は「筑紫」 そのものだったのだから。筑紫を「本国」とする遠征軍なのだ。筑紫は現在 の福岡県が示しているように奇妙な形をしており、その東端は関門海峡にと どいている。当然、この海峡をおさえるため、両岸を占拠していたであろう。 とすると、その東岸(山口県西部)に「周芳の娑麼」という、この遠征軍発 進地があったこととなるのである。

 第二に、九州東・南岸は「討伐」、九州西岸は「巡狩」という形態もなんら 不思議ではない。この筑紫国は、熊本県をすでに「安定した領域」としており、 未征服地たる東・南岸を討伐するのが、この遠征軍の目的なのである。

 第三に、「浮羽」がこの大遠征の終着点になっているのも当然である。 「辺境巡狩」はここで目的を達した。あとは辺境でなく、「京」である筑紫 中央部(たとえば太宰府近辺)に入れば、それでいいのだから。すべてきわ めて自然な巡路だ。いきなり阿蘇山地群を大飛躍して「日向」から再出発す る必要などいささかもない。

 第四に、「地名の詳述」という点。日本武尊命や仲哀天皇・神功皇后の説話 は明らかに近畿天皇家を原点とする説話だ。出現地名も乏しい。ところが、そ れと全く異質の地名群詳述。それは異質の系列の説話記録であることを物語る。 つまり、これは筑紫を原点とする、筑紫の王者の九州東・南岸平定譚だ。 だから、九州内部地名にきわめて詳しいのも当然なのである。

 さらに第五に、以上の〝景行天皇の熊襲遠征説話は本来近畿天皇家の説話で ないものを、あとからはめこんだものだ″という命題には、最大の証拠がある。 それは、この説話が『古事記』に全く出現しない、という、その一事である。  考えてみよう。この説話は『記・紀』の中で全く異色の存在だ。なぜなら 「神武東征」をのぞけば、近畿なる天皇家にとって、天皇自身による、最初に して最大の遠征譚、しかも唯一の完全勝利譚だ。先にのべたように、日本武尊 の場合は「暗殺譚」にすぎない。仲哀遠征の場合は「天皇敗死譚」だ。これら に比べて景行遠征の場合は文句のつけようがない〝輝かしき大武功〟だ。
 それなのに、なぜ『古事記』はこれを載せないのだろう。もし、この伝承が 真に「近畿天皇家内伝承」として七、八世紀まで伝承されていたのなら、 なぜ、だれが、これを削除するだろうか。近畿天皇家自身の庭の真只中で。
 天武天皇が「削偽定実」だ、といって削るだろうか。この「実」とは天皇家 中心主義という大義名分上の「実」である。それなのになぜ、この輝く大武功 を削る必要があろうか。稗田阿礼が暗誦し忘れたというのか。考えられない。 太安万侶が独断で削ったのか。それも到底許されることではない。
 その答えは一つ。一この説話は本来、近畿天皇家内の伝承には存在し なかったのである。それは、先にあげた「利害のフィルター」を通して見ても、 疑いえぬ、自明の帰結である。
 では、どこから〝取って″こられたのか。それはこの説話内容の示すとこ ろ、筑紫を原点とする「九州王朝の説話」でしかありえない。すなわち、まず 筑紫を基盤とし、その上でさらに九州一円を勢力範囲におさめた、その時点の 征服譚にほかならないのである。

362 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(15)
「熊襲」とはどこか(6)
2005年8月14日(日)


 今回から、熊襲説話の中では一番年代の古い「景行天皇の熊襲大遠征」の解読だ。
 この説話は、これまでの二つの熊襲説話とは全くちがった性格が二つある。

第一
 「景行天皇の熊襲大遠征」は『書紀』にだけあって、『古事記』には全くない。
第二
 「仲衷・神功の熊襲遠征説話」ではただ一つであり、「日本武尊の熊襲暗殺説話」では皆無 であった地名が「景行天皇の熊襲大遠征」ではやたらと出てくる。
 発進地の周芳(すおう)の娑麼(さば)(山口県防府市佐波付近)をはじめ、九州内部約20 個の地名が進路順に次々とハッキリ書いてある(下の地図参照)。

景行紀

 この点について古田さんは次のような戸惑いを述懐している。

 後代の研究者であるわたしたちにとって大変ありがたい話なのだが、実はそのことが変なので ある。なぜなら、時代的にあとに出てくる日本武尊(景行天皇の代)や仲哀・神功の方に地名が たった一つしかあらわれないのに、より古い景行の方はこんなに詳細をきわめているとは! 率 直にいえば、日本武尊や仲哀・神功の方はたしかに古代説話らしい無邪気な大らかさ(粗放さ) をもっているのに、こちらの方はこれではまるで逐一の〝遠征記録〟だ。少なくとも伝承の素朴 と記録の精緻と、両者はすっかり性格がちがうのである。

 以上の二点の特徴に加えて、古田さんは「景行説話」の内容上の問題点を四点あげている。

その一 「筑紫の空白」問題。
 景行の遠征路ほぼ九州の全域にわたっているのに筑紫だけはほとんど全く立ち入っていない。 それも、筑紫南辺はくりかえし往復していながら、肝心の筑紫中心部へは入っていない。『「こ の奇怪な「筑紫の空白」は一体どうしたことだろう。』

その二 「浮羽ー日向」間の大飛躍問題。
 『「娑麼――浮羽」間は、順を追って進む地名が約20も列記されている。ところが、最終点の浮 羽に来て突如、「天皇、日向より至る」〈景行紀19年項〉という文面に転換している。「浮羽 - 日向」間は距離も相当遠い上、その間は阿蘇山地にさえぎられている。そ れなのに、途中のルートや経過地を全く書かず、いきなり「日向より」では、あまりにも唐突だ。 これまでの詳密な地名列記と、鋭い断層がありすぎるのである。これも奇怪というほかはない。』

その三 「討伐と巡行」問題。
 この説話の遠征路は前半(討伐)と後半(巡行)に分かれている。
[討伐]=娑麼(山口県)→襲の国(鹿児島県)→日向(宮崎県)
[巡行]=日向→葦北(あしきた)(水俣市付近)→高来県(たかくのあがた) (島原半島)→浮羽(福岡県)
 『つまり、前半の九州東・南岸部は「討伐」、後半の九州西岸部は「巡行」という形である。 これは変だ。なぜなら、もし近畿の都を原点として見た場合、この逆ならば自然であろう。より 近い地域が巡行、より遠い辺境が討伐となるべきだからだ。』

その四 「日向、非聖地」問題。
 神武東征の出立地、つまり「ヤマト王権」発祥の地である日向へ来ても、景行は何の感慨も持 たない。『一度もそれらしい言葉をのべないのだ。シーザーの名句「来た、見た、そして勝 った!」ではないが、〝わたしは今、わが祖先の発進の聖地に来た!″ こういったたぐいの 感激の辞が一行くらいあってもいいではないか。ところが、一片すらない。』

 これらの疑問点については、とうぜん、従来の論者たちもふれている。その理論と古田さんの 批判は次のようである。
 まず「その一」について。

 従来の論者も、この間題に時としてふれている。そしてつぎのようにいう。〝筑紫はもはや天 皇家にとっては安定した勢力範囲となっていたので、今回の討伐の対象ではなかったからだろ う″と。しかし、この理由づけは、よく考えると一層おかしい。なぜなら、近畿からの遠路の征 討軍だ。筑紫がそんなに安定した領地だったのなら、まずここに立ち寄り、遠路の疲れをいやし、 補給をすませ、ここを根拠地として、九州の東・南部への征討に出発するのが当然ではないか。 また、もしかりに先を急いで筑紫に立ちよらず、直ちに九州東・南部で征討戦を行なった、とし よう。それなら、それが完了したあとは、その〝安定した領域″たる筑紫へ堂々と凱旋して、当 地の大歓迎をうけるべきではあるまいか。それもせず、目と鼻の先の「浮羽(うきは)」から、 そそくさと日向へひきかえすとは! 不自然きわまりない。こう考えると、従来の論者の説明は、 率直にいって〝説明になっていない″のではあるまいか。
 しかも、大切なのはつぎの点だ。すなわち、このような大矛盾は、例の津田学説――戦後史学 の得意とする後代造作説をもち出してみても、なんの解決にもならない、という一点である。 〝7、8世紀の大和朝廷の史官など、こんな矛盾にも気づかぬ、そんな程度の頭のやからだ″ ――もし、こんな〝軽侮″の概念をもちこんで解決するとしたら、それは史料解読上、フェアで はない。

 次に「その二」について。

 津田左右吉も、この点を疑い、「あの物語を書きとめた人の頭には、さういふことが思ひ浮ば なかったものと見える」(『古事記及び日本書紀の新研究』514ページ)といっているが、 『記・紀』の中でもっとも印象的な大叙述「神武東征」の発進の地について、「思い浮ばなかった ものと見える」という、安易な消し方で果たしてすむことだろうか。ここには重大な謎がいまだ に生きているのである。
 また、この景行紀に日向聖地記載のないことから、神武東征説話の方が新しい成立である証拠 だ、とする方法もある。つまり、古く景行説話が成立した時点には、まだ神武東征説話は成立し ていなかったのだ、とするのである。この見地は、たしかに深い示唆をふくむ(この点、以下の論 証で明らかにされる)。
 しかし今、〝では、7、8世紀の『記・紀』の作者はなぜ、そこに「造作」の手をのばし、前 後つじつまのあうようにしなかったのか?″と聞かれれば、たちまち窮しよう。またもや津田流 の〝思い浮ばなかった″説に逃避するほかはない。この点、7、8世紀の「後代造作説」の論者 にとって〝自縄自縛の謎″となるのである(従来、日向の地とされてきた「天孫降臨説話」から も、同じ問題がおきよう)。
 それなのに、津田の論断に安住して、〝すべて解決ずみ″のように見なしてしまい、これを再 び疑いかえすことがないとしたら、それは探究心の大いなる怠慢というほかないのではあるまい か。

 古代史学会の「権威」・「定説」がこんなに稚拙な論理で組み立てられていたとは! 学閥という轍に足を取られた学者たちの情けないことこの上ない。
361 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(14)
「熊襲」とはどこか(5)
2005年8月13日(土)


 「日本武尊の熊襲暗殺説話」の第二の問題、『古事記』によると「熊襲国の統治形態が兄弟統治であった」という点 についての論考を読む。

(天皇)「西の方に熊曾建二人有り……」……爾に熊曾建兄弟二人、其の嬢子を見感でて……。

 前回の暗殺場面でも熊曾建は「吾二人」と言っている。

 古田さんはこの説話の内容を、『盗まれた神話』の前著『失われた九州王朝』で明らかにしたという九州王朝の史実と 比べている。(『失われた九州王朝』を入手できず、まだ読んでいない。とりあえず「九州王朝の史実」の論証を正し いとして読み続ける。)
 まず、九州王朝は、中国の天子に対して「臣」と称しながら、国内に対しては「仮授の権(称号や名前を授ける権限)」 を行使していたことを指摘している。例として、『宋書』倭国伝の倭王武の上表文の一説をあげている。(「倭王武」 はヤマト王権の王ではなく、九州王朝の大王である。(「第348回・8月1日」参照)

窃(ひそ)かに自ら開府儀同三司を仮し、其の余は咸(み)な仮授(ヽヽ)して、以て忠節 を勧む。

 つまり、熊曾建が小碓命に「ヤマトタケル」という称号を贈ったとして、熊曾建を「仮授の権」の所持者として 描いていることとよく相応しているという。
 つぎに兄弟統治の件についても、九州王朝は「兄弟執政」をその政治形態の一つの特徴としていたという。 また、卑弥呼が「男弟」と共に統治していたことは周知の事実だ。(卑弥呼の「邪馬() 国(やまゐ)」は現在の博多あたりにあった。(古田さんの著書『「邪馬台国」はなかった』参照。この本は読みました。 この本の論証も見事なものです。)次のような例文をあげている。

(1)名づけて卑弥呼と曰う。……男弟有り、佐(たす)けて国を治む。〈『三国志』魏志倭人伝)
(2)(倭国の使者言う)「倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き、 伽扶(かふ)して坐し、日出ずれば便ち理務を停め、云う『我が弟に委ねん』と」〈『隋書』倭国伝〉
(3)戊寅(558年)、兄弟と改元す。〈『海東諸国記』〉

 (1)は卑弥呼の「姉弟統治」として著名の一節である。
 (2)は九州王朝七世紀前半、「日出ずる処の天子」の自称で有名な多利思北孤(タリシホコ)の使 者の言である。兄は未明の宗教的祭祀権、弟が昼の行政権をそれぞれ分担しているさまが描かれ ている。
 (3)は、前著『失われた九州王朝』で明らかにした「九州年号」の一つである。

 このような「兄弟執政」の点もまた、九州王朝は熊襲説話の所伝とよく一致しているのである。

 以上によって、
(一)地理的位置(北九州博多湾岸)
(二)大義名分(授号権)
(三)統治形態(兄弟執政)
の三点とも、中国史書の中から分析された史実としての九州王朝と、『記・紀』の所伝の熊襲の性格と、両者 一致していることがハッキリした。

 なお、問題点をさらに立ち入って追跡しよう。
 この説話が「日本武尊の熊襲征伐」と呼ばれることがしばしばある。わたしのように戦前に小 学校を出た者には、ことに教科書で〝おなじみ″の表現だ。しかし、これは「神功皇后の三韓征 伐」と同じく、説話内容の事実からはなれた、いかにも軍国主義好みの〝誇大宣伝″だ。天皇家 の皇后や皇子に、やたらといさましい「征伐」を行なわせたいのだ。
 ことにこの日本武尊の場合、単独でのりこんで「刺殺」したのであるから、〝遠征軍を派遣し て攻略する″意の「征伐」とは、およそかけはなれている。要するに「熊襲の首長暗殺譚」なの である。

 さて、「暗殺」のさいの「公理」はつぎのようだ。
 AがBを「暗殺」するとは、第一にAの実力はBより劣であり、第二に、したがってAは通常 の方法(大軍派遣)による攻撃を、強力なるBに対してなしえない。そういうときに行なわれる 行為ではないだろうか。つまり「征伐」と「暗殺」とは、その意味では反対語なのである。
 いいかえれば、この段階では、天皇家は実力においていまだ熊襲に及ばなかったのである。つ ぎの段階の仲哀でさえ、遠征軍を主導したけれども、勝つことができず、みずから「敗死」して しまったのである。すなわち、筑紫の九州王朝は近畿の天皇家に対して、大義名分をもつととも に、軍事力においてもまた、まさっていたのである。
 さらに、暗殺に関する第二の「公理」がある。〝暗殺によって大義名分は移動しない″。これを わたしは自明の真理だと考える。すなわち、

(一)
 この暗殺によって大義名分は近畿天皇家(近畿の強大豪族)に移動しはしなかった。つまり、依然として、 この後も、客観的には大義名分は熊襲の側にとどまっていた。
(二)
 ただ、この伝承は〝この事件によって大義名分は天皇家側に移ったのだ″と、天皇家側が主観的に主張しようと している説話なのである。そこに、瀕死の熊曾建に苦しい「断末魔の授号」を行なわせねばならなかった、この 説話の苦肉の秘密がある。

360 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(13)
「熊襲」とはどこか(4)
2005年8月12日(金)


 熊襲三説話のうちの第二の説話「日本武尊の熊襲暗殺説話」の論考に 進む。
 これは、小碓(おうす)命が熊襲国へ行き、少女に変装してその国の首長の 酒宴にもぐりこんだ。そして油断に乗じて熊襲の首長兄弟を刺殺した、 という話だ。この説話には「地名」は出現しない。 (『書紀』の場合、熊襲の首長は「川上梟帥(たける)」と呼ばれているが、 この「川上」についてはのちにのべる)。
 この説話では注目すべき点として次の二点を挙げている。

第一
 熊曾建〈『古事記』〉が死のまぎわに、暗殺者である小碓命に「倭建命 (日本武尊)」という名を贈ったという点。
第二
 『古事記』によると、熊襲国の統治形態が兄弟統治であったという点。  第二点については古代史の問題を解く大きな鍵の一つとして、吉本隆明 さんも注目していた。(第335回・7月18日)

 さて、第一の点の何が問題なのか。このくだりの「記・紀」の記事は次の ようになっている。

①熊曾建白す、「西の方に吾二人を除き、建く強き人無し。然るに大倭国に 吾二人に益して建き男坐しけり。是を以て吾、御名を献(たてまつ)らむ。 今より後は、応(まさ)に倭建御子と称すべし」と。是の事白し訖(おわ) れば、即ち熟?(ぼぞち)の如く振り析(た) ちて殺すなり。〈景行記〉

②即ち啓(もう)して曰く、「今より以後、皇子を号して応に日本武(やま とたける)皇子と称すべし」と。言ひ訖(おわ)りて及ち胸を通して殺しき。 〈景行紀〉

 暗殺されたものが暗殺者に称号を献上したという行為がもんだいなのだ。 「記・紀」には他に例がない。当然学者たちもこの点に注目した。しかし、 この問題についても「定説」は「後代の大和朝廷の官人の造作」であった。

 『記・紀』において名前が「A→B」と渡される場合は、「上位者→下位者」 という一方向の例にみちている。その中で、なぜ、後代の官人がこれに反する 話を造作したのか。それが問題である。七、八世紀段階で〝地方豪族が天皇に 名前を献上する″といった慣例ができていた様子もないから、これは変だ。 〝日本武尊の方が相手(またはその子)に熊襲建という名前を与え、以後、 彼等はよく服従した″といった話なら、いい。だが、これは話が逆なのである。 この点、「後代造作」説には、致命的な矛盾があるのではないだろうか。

 では古田さんはこの問題をどう読み解いているか。
(一)
 まず、〝名前の献上″というときのの「献上」という言葉。先にあげた例 (前回に掲載した)で、中国の天子から「朝貢」をもってきた、と書かれて いた。これと同じく、天皇家の方が〝得た″ものは、『記・紀』ではすべて 「献上」なのである。だから、このような大義名分上のイデオロギー用語 を根拠にして、両者間の実際の上・下関係を論ずることはできない。

(二)
 だから、要は「熊曾建→小碓命」という方向で、名前(日本武尊)が贈られ たのである。

 (三)
 このことは、『記・紀』全体の授号の定式(上位者→下位者)から見ると、 この説話は〝熊曾建(川上梟帥)が上位者であり、小碓命(日本武尊)が下 位者である″という上・下関係を背景にして成立していることとなる。

 これは、従来千有余年の天皇家至上主義の「常識」から見れば、まことに 驚倒すべき〝非常識〟であろう。しかし、〝古代説話は古代通念の中で理解 する″――これを、わたしは自明の真理と考える。そしてこの場合の「古代 通念」とは、『記・紀』の示すところ、〝名前は上位者から下位者に与える″ という不動の命題にあった。
 『記・紀』だけではない。中国の天子にとって、夷蛮の王に「称号を与え る」ことは、その重要な権限だった。このことは、「漢の委奴(いど)の国 王」という志賀島の金印や「親魏倭王」という卑弥呼への称号授与の例に見 る通りだ。そして他の何人にも天子はこの権限を許さなかった。『三国志』 によると、遼東の公孫淵がみずから「百官を置い」たとき、魏の明帝は断乎、 これを討伐したのである。
 これと同じ例は『記・紀』自身の中にさえ見出される。菟狭の川上にいた 「鼻垂(はなたらし)」は、「妄(みだ)りに名号を仮した(勝手に名前を名 乗り、授けた)」として討伐されたのである(景行紀12年項。この点、のちに 再びのべる)。

 このような「古代権力社会における厳格な授号の論理」から見ると、わたし は「日本武尊」の名号問題も、この論理にもとづいて考えるほかはない。

359 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(12)
「熊襲」とはどこか(3)
2005年8月11日(木)


 わたしは「戦死」の方だ、と思う。この点、あるいはある人々には、論証などなくとも、 直観の力で賛成していただけるかもしれぬ。しかし今必要なのは、論証だ。煩をいとわず、 吟味してみよう。

 古田さんは他の説話の例も援用して「二つのフィルター」越しの論証を展開しているが、 その部分は割愛して先に進む。
 仲哀が賊の矢に当って戦死したとすると、橿日宮の地で、仲哀は賊と「接戦」していたことと なる。とすれば、南九州の熊襲とどうやって接戦できるのであろう。橿日宮と南九州との間の戦 場名など一切出現しないのであるから。とすると、「熊襲=南九州」という先入観なしに、端的 にこの説話内容自身を読めば、この熊襲は〝北九州の存在″に見えてくるだろう。もっと切りつ めていえば、博多湾岸(太宰府、基山付近をふくむ)を本拠とする熊襲に対し、近畿から襲来し た仲哀軍が、博多の東の側面に当る橿日宮領域まで接近し、そこで「接戦」した。そしてその接 近戦の中で、指揮者仲哀は戦死した。――このように考えると、この説話はまことに 現実的(リアル)な、緊迫力を帯びてくるのではあるまいか。

 熊襲=南九州ではつじつまの合わないことが、仲衷・神功の説話の中にもう一つある。
 『書紀』本文によると、仲哀の死の前、神功皇后が神がかりしたとき、神はつぎのようにいった という。

 〝熊襲討伐がうまくいかないといって心配することはない。この国以上の宝ある国が海 の向こうにある。新羅の国だ。自分(神がかりした神)をよく祀ったら、平和的にその国は従うだ ろう。そしてまた、熊襲も自然に従うだろう。″

 いいかえれば、熊襲討伐がうまくいかないのは、新羅がその背後にあるからだ、といわんばかりの 口吻である。少なくとも全く無関係の二国ではないように見える。
 では、〝新羅と熊襲を結ぶ″具体的な関係はなんだろうか。たとえば、軍需や物資の交流があ ったのだろうか。そしてなによりも、そのさいの地理的関係はなんだろう。
 このさい、かりに熊襲を南九州の存在とした場合を考えてみよう。はるか九州の西方海上を通 じて連絡しあっていたのだろうか。それではあまりにも、迂遠な関係であり、「熊襲討伐難渋」 の背景とはなりにくい。
 それに対して、この熊襲を博多湾岸に本拠をもつ存在として考えてみよう。

狗邪(こや)韓国(釜山近辺) ― 対海国(対馬) ― 一大国(壱岐) ― 末盧(まつろ)国(唐津)  ― 伊都(いと)国(糸島郡)

を結ぶ、古来の幹線道路(『三国志』魏志倭人伝)があって、博多の西側に通じている。 だから、いくら仲哀軍が東から切迫して攻撃しても、この西のルートの確保されている限り、熊 襲は容易に陥らないのである。こうしてみると、〝熊襲討伐の難渋″から、その背後の新羅の存 在へと目をむける、いわば必然性があるのではあるまいか。

 このようにみてくると、旧来の〝熊襲=南九州″説に立った場合、この説話の全体はなにかピ ントがボケている。ちょうどわたしたち素人が時々やらかすピンボケの写真でも見せられている ように。ところが、いったん〝熊襲=北九州(博多)″という目から見た瞬間、説話全体はにわ かに生動し、各部分は必然の脈縛をうちはじめる。 ― それをわたしは疑うことができない。

357 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(10)
「熊襲」とはどこか(2)
2005年8月10日(水)


 古田さんは『記・紀』の説話を解読する際の前提事項として二つの原則をあげ ている。
 わたしは『記・紀』を見る場合、つぎの二つの原則を大前提とする
(1) 『記・紀』は、天皇家中心の「大義名分」に貫かれた本である。
(2) したがって『記・紀』は古来の伝承に対して、天皇家に「有利」に改削・新加 (新しく付加)することはあっても、「不利」に加削することはない。

 まず、(1)について説明しよう。
 すでに前の本で詳しくのべたように、〝天皇家は永遠の昔から、この日本列島の中心 の存在だったのだ″という「大義名分」が『記・紀』を貫いている。それは「歴史事実 の実証」以前の、いわば「観念」としての大前提なのである。それは国内問題だけではな い。たとえば、

冬十月に、呉国、高麗国、並に朝貢す。(仁徳紀58年)
夏四月に、呉国、使を遺して貢献す。(雄略紀6年)

とあるように、中国(や高麗)との通交さえ、あちらが日本の天皇家に臣従L、朝貢してき たように書いてあるのだ。だから、これは「朝貢」の事実を示す記事ではない。『記・紀』 『記・紀』の大義名分に立った筆法なのである。

 (2)については、健康な常識をもってすれば自明の判断だといえよう。もっともなにが 有利か不利か、理屈をいえば種々疑いが生じよう。たとえば〝これは一見「不利」に見える。 しかし、そのような「不利」な事件をのりこえてきたところに天皇家の歴史のすばらしさが あると見えるように、わざと一見「不利」に造作したのだ″といった風に。
 しかし、『記・紀』はトリックにみちた近代の推理小説ではない。天皇家が公的に開示し た正規の史書(ことに『書紀』の場合)なのだから、あまりまわりくどくひねた解釈で強い て〝「有利」ととる″のではだめだ。簡明率直、万人に与える直裁な印象が問題なのである。

 以上二つの自明の命題、これをわたしは「二つのフィルター」と名づけよう。『記・紀』とい う本の記述には、すべてこの二つのフィルターがかかっている。だから、わたしたちは逆にいつ もこの〝フィルター越し″に、問題の真相を見つめねばならないのだ。この本の進行の中でいつ も・この方法を厳正に適用してゆくとき、この方法のもつ「深い意味」をわたしたちはくりかえ し思い知らされることとなるだろう。


 さて古田さんの解読を読んでみよう。古田さんは時代の新しい方から始めている。つまり

 ③ 仲衷・神功の熊襲遠征説話(『記』『紀』とも)

から。

 この説話には地名はただ一つだけ出てくる。「橿日(かしひ)の宮」。 北九州の福岡市の東にある現在の香椎宮(かしいぐう)。タラシナカ ツヒコ(仲哀)がここで死んでいる。ところがその死に方には二通りの説がある。

(一)
(a)
其の大后息長帯日売命(オキナガタラシヒメノミコト=神功)は、当時神を帰(よ) せき。故、(仲衷)天皇筑紫の討志比宮(かしひのみや)に坐(ま)し、将に熊曾国を撃た んとせし時、天皇御琴を招きゐて、建内宿禰大臣、沙庭に居て、神の命を請ひき。
(中略)
爾(しかる)に稍(やや)其の御琴を取り依りて、那摩那摩邇控(なまなまにひ)き坐し き。故、未だ幾久(いくだ)もあらずて、御琴の音を聞かず。既ち火を挙げて見れば、既 に崩じ訖(おわ)んぬ。(『古事記』)
(b)(仲哀)天皇忽(たちま)ち痛身有りて、明日崩ず。(『書紀』本文〉

(二)一に云ふ、天皇親(みずか)ら熊襲を伐ち、賊の矢に中(あた)りて崩ずるなり。 (『書紀』の「一云」)

 『古事記』では「神がかり死」あるいは「自然死」している。『書紀」本文は「病死」だ。 この二つに対して、(二)の『書紀』「一に云ふ」の方はまったく違う。熊襲征伐中に敵 の矢に当って戦死している。古田さんは問う。「どちらが本当だろう。いいかえれば、どちらが 本来の伝承だったのだろうか。

356 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(9)
熊襲はどこか(1)
2005年8月9日(火)


 古田さんによると、「日本旧記」という古記録のアンソロジー本は6世紀中頃 に成立したという。「ヤマト王権」が「日本」という国名や「天皇」という大王の呼称を 用いるようになったのは7世紀中頃~8八世紀初めだから、それ以前の書名に「日本」 が使われるのはおかしいと思った方がいるに違いない。私もそう思った。しかしこれも 訂正しなければならないようだ。「日本」や「天皇」はヤマト王権の独占用語 ではなかったのだ。
 百済系三史料(「百済記」「百済新撰」「百済本記」)には 倭国との交渉史が記録されているが、そこに「貴倭・倭国・日本」「天王」「日本の天 皇」等の名称が記載されているという。その交渉史上の「倭国」は九州王朝だから (このことは追々明らかにされるだろう。)そこに記載された各種名称も当然九州王朝 を対象としたものとなる。

 前著(『失われた九州王朝』)で明らかにしたように、「百済記」等の百 済系三史料がいう「貴倭・倭国・日本」「天王」「日本の天皇」等の名称は、いずれも九 州王朝のことである。近畿天皇家のことではない。
 とすると、「日本旧記」という場合の「日本」も、当然、九州王朝のこととなるほか ない。この「日本」という国号について、前の本をふりかえってみよう。近畿天皇家が 「日本」という名称を使いはじめたのは、七世紀の半ば、もしくは八世紀のはじめからだ (『三国史記』によると670年。『史記正義』によると、八世紀初頭、則天武后のとき)。 そこで従来の論者は、「日本」という国号の使用自体、七世紀以前にはなかった、と信じ てきた。これは、近畿天皇家至上主義と唯一主義の大わくの中にみずから知らずして、 しっかりととらえられてしまっていたからである。(「盗まれた神話」より)

 次々と確かだと信じられてきた「定説」がくつがえされていく。実にスリルがある。 ミステリー小説より面白い。いま私の趣味の一つであるミステリー読書が すっかりお留守になってしまった。

 さて、「記・紀」からこぼれ落ちてくる史実を救い出していく古田さんの見事なお手並 みを楽しむことにしよう。まずは九州王朝とは何か。
 ヤマト王権が日本征服を進める上での最大の難敵が熊襲だった。古田さんがまず問題に 取り上げたのは「熊襲」だった。その熊襲はどこにあったのか、と古田さんは問う。
 「定説」は南九州である。この「定説」の史料上の根拠は何か。『古事記』の国生み神話 の中に出てくる次の記事だ。

 次に筑紫島を生みき。比の島も亦、身一つにして面四つ有り。…筑紫国は…、豊国は…、 肥国は…、熊曾国は…。

 なるほどこれは明瞭だ。この配置なら、疑う余地もなく、「熊襲=南九州」という定理 が成立できる。従来、疑われなかったのも、無理はない。
 しかし、わたしは考える。〝蝦夷は東へ移動する″という、有名なテーマがある。 「蝦夷」というのが、東方における「天皇家の未征服民」を指す以上、天皇家の征服領域が 拡大すれば、「蝦夷の住地」もまた、東へ移動するのは当然のことだ(そこで蝦夷と呼ばれ ているものの実体が、同じ種族であるか否かを問わず)。とすると、西なる「熊襲の住地」 も、同じではあるまいか。時代によって、歴史の変転の中で、指す場所が変ってきているの ではないか。つまり、〝北から南へ移動しているのではないか″というわけだ。――この 考えが、一つの突破となった。
 もし上のようだとしたら、『記・紀』を通じてたった一つしかないこの『古事記』の政治 地図にあてはめて、『記・紀』の全熊襲説話を解読してゆくとしたら、これは危険きわまり ない。

(中略)

 この政治地図の生まれや素性、つまりこれがいつ、どこで、だれによって生み出さ れたかは、不明だ。これらを明らかにしない限り、この孤在した一枚の政治地図に頼って 全熊襲説話を読解する、それは、史料操作のやり方として、慎重さを欠いてい る。―わたしはそう判断するほかなかった。
 では、熊襲の位置を実際に判定するには、どうしたらいいか。この出自不明の地図は一応 わたしの手もとに「保留」しておいて、これとは別個に、熊襲説話自身のさし示す熊襲の 地理的位置を求めねばならない。これがわたしの新しい方針となった。


 そこで古田さんは『記・紀』中の次の三つの熊襲記事全部を精読することとなる。

 ① 景行天皇の熊襲大遠征〔『日本書紀』のみ)
 ② 日本武尊の熊襲暗殺説話(『記』『紀』とも)
 ③ 仲衷・神功の熊襲遠征説話(『記』『紀』とも)

355 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(8)
「古事記」対「日本書紀」
2005年8月8日(月)


 「記・紀」による古代史解読の論考に立ち入る前にもう一つ明らかにしておきたいこと がある。
 「一つの史料をあつかう場合、そこに〝なにが書かれているか?″を論ずる前 に、その史料の成り立ちと素性、つまり「史料性格」を吟味しなければならぬ。 それをやらずに、内容だけ論ずるのでは駄目だ。」
 これは前回引用した文中の一説だ。「記・紀」についても、その「史料性格」を 知っておく必要があるだろう。

 古事記については「序文偽作説」とか「本文偽作説」とか研究史上(江戸時代から) 絶えることがないという。
 偽書説の主論拠は次の二点だ。

(一)

 『続日本紀』の和銅五年項に、『古事記』撰進の記事がない。他の項にも、一切出 現しない。
(二)

 『古事記』の写本は、奈良・平安・鎌倉期とも一切なく、南北朝期(14世紀)になって  やっと出現した(真福寺本)。

 この二点について、古田さんは次のように述べている。

 〝『古事記』ほどの本が本当に和銅5年に作られ、元明天皇に献上されたとしたら、 『続日本紀』にそれが全く記載されないのは不可解だ″ ― これがあらゆる古事記 偽書説の〝不滅の源泉″だった。たしかにもっともな疑いだ。そして従来のいかなる 偽書否定論も、この問いに対する明快な解答を用意しえなかったのである。
 けれども、今までの論証の立場に立つとき、これに対する答えは決して難解ではな い。その第一のポイントは、「削偽定実」という共通の「天武命題」に立ちながら、 これに対する具体的な実行方法は、『記・紀』両者全く相反している、という点だ。 『古事記』はその大体において、天皇家内伝承に依拠してそれを記録化した。しかし、 『書紀』はこれに満足しなかった。九州王朝の史書たる「日本旧記」、九州王朝と百 済側との交渉史たる百済系三史料(「百済記」「百済新撰」「百済本記」) ― こ れらを続々と〝切り取って″きて近畿天皇家そのものの歴史として編入し、新たに構 成した。 - 端的にいって実在の歴史ならぬ、仮構の歴史の「新作」の史書だった のである。

 その〝切り取って″編入した説話や史実を解読していく見事な論考の数々を次回から 読んでいく予定だ。ここで古田さんがあげている例は「景行の九州大遠征」。これは、 『書紀』においては完全な〝史実″として記載されているが、『古事記』には全くない。 つまり『古事記』においては〝史実″ではないということなのだ。
 現代の学者たちなら、〝どうせ作り話だから……″とか、〝それぞれ、そのような異 伝があったのだろう″として、さして抵抗感もなく、物わかりよくこれに対応できるか もしれぬ。
 しかし、『書紀』は決して〝歴史理解の一説″として書かれているのではない。〝これ が真の歴史である″という、近畿天皇家の「正史」として、書かれたのである。つまり、 近畿天皇家にとって〝以後、これが史実であり、これ以外は史実ではない″として、決定 されたもの、いわば検定ずみの書、国定版の「公認の歴史」なのである。
 これに対して『古事記』はどうだろう。そのような歴史の大がかりな〝虚構操作〟と 〝新編成〟には与せず、内面から近畿天皇家の正統性を語る ― そこにとどまっている。 つまり、和銅5年(712)から養老4年(720)に至る元明・元正の間において、少なくとも 二派の立場が存在したのだ。権力による積極的、全面的な歴史変造を実行しょうとする一 派と、そこまでは踏み切れない一派と。
 そして「帝王本紀」の業績を承けた前者の立場が「正史」としての権限をにぎったので ある。 ― これが『書紀』だ。

 検定不合格の『古事記』の運命はどうなるか。
「正史」なる『書紀』の内容が事実である限り、それに反する『古事記』の内容は事 実ではない。つまり、権力の手で検定された、公認の「正史」が『書紀』なら、これ に反する『古事記』は「偽史」なのだ。一言にしていえば、この両書は〝倶に天を戴 くことのできぬ″関係にあったのである。とすれば、同じく「正史」たる『続日本紀』 に、どうして両者の成立を並載できようか。
 一般に、『続日本紀』は記録性が高い、といわれる。それは事実だ。しかし、それは 〝そこに書いてあることは事実だ″というにとどまる。決して〝権力検定の手がこの 「正史」には、とおっていない″という意味はもたぬ。それは当然だ。だから、「九州 王朝の歴史統合(盗用)」の道が権力の方針として決定されたあと、「正史」として正 面に出ることを拒否された『古事記』、それは書かれなかった ― それだけなのだ。 〝書かれている″としたら、その方がよっぽど〝奇妙″なのである。

 この「記・紀」の「史料性格」についての論考にも、私は全面的に賛意を表すほかない。 そうすると、生き残っていた真福寺本が姿をあらわすまでの約600年間、 「古事記」が存在しなかったことも何ら「謎」ではなくなる。
 近畿天皇家は『古事記』を「公認」せず、流布させなかった。奈良・平安期に朝廷で盛ん に行なわれたのは、『書紀』の講読であって、『古事記』の講義など一切なかったのであ る。
 だから、『古事記』が南北朝期になって〝突如として″出現したのは、近畿天皇家内の 公的なルートではなく、一種〝秘密のルート″、つまり、私的なルートから〝流れ出た″ ものと見られる。おそらく、太安万侶自身の家の系列にながらく「秘蔵」されており、そ の線から、長き時間の暗闇を経過して、やっと「浮上」した写本。それが真福寺本なのでは あるまいか。もちろん、その伝来の詳細は一切不明であるけれども、『古事記』出現の仕方 が『書紀』の公然たる流布と全く異なるというこの事実は、『記・紀』の性格のちがいと、 そのためにたどった両書の運命の隔絶を知りえた今、あえて不審とするにはあたらないので はないだろうか。
 今、『記・紀』と並称される、この二書の間には、権力によって公認されたものと、され ないものと、その差別がハッキリと横たわっていたのである。
07 354 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(7)
「日本書紀」がいう「一書」とはなにか
2005年8月7日(日)


「日本書記巻第一・神代上」は次のように書き始められている。

 古(いにしえ)に天地(あめつち)未だ剖(わか)れず、陰陽(めを)分れ ざりしとき、渾沌(まろか)れたること鶏子(とりのこ)の如くして、 溟(ほのか)にして牙(きざし)を含めり。

 そして、その段落の後に次のように「異伝」を記述している。

 一書に曰く、天地初めて判(わか)るるときに、一物(ひとつのもの)虚中 (そらのなか)に在り。状貌(かたち)言ひ難し。……」

 この「一書」とはなにか。
 古田さんは「日本書記」中の「一書に曰く」を丹念に調べ上げている。 各段ごとにいえば、最少1個(第三段)から最大11個(第五段)の「一書」 が引用されていて、総計実に58個もあるという。これは『日本書紀』の成立 以前すでに日本神話を記録した古典が少なくとも11個くらい、成立していた、 という事を意味している。古田さんのコメントを引用する。

これは当然だ。しかし、不思議はこの直後に発生する。巻第三の「神日本磐余 彦天皇(神武天皇)」以降は、バッタリとこの「一書に曰く」が消滅するとい う事実だ。時に「一に云う」といった形のものはあらわれるけれども、質量と もに神代(巻一、二)の「一書」群の比ではない(ただし、書名を明記した外 国史料の引用としては、『三国志』や百済系三史料〔「百済記」「百済新撰」 「百済本記」〕の引用がある。「神代」については、これほど国内に古典がす でに乱立していたのに、神武以降、ピタリとそれがなくなるのはどうしたわけ だろう。

(中略)

 しかしわたしは、『日本書紀』研究史上のいずれの研究書においても、その 理由を明白にのべているものに出会うことができなかったのである。
 一つの史料をあつかう場合、そこに〝なにが書かれているか?″を論ずる前 に、その史料の成り立ちと素性、つまり「史料性格」を吟味しなければならぬ。 それをやらずに、内容だけ論ずるのでは駄目だ。 ― こう考えると、こんな に唐突な出没の仕方を見せている「神代」の巻々の「一書」を、その成立の謎 を解き明かさぬまま、その内容を論ずることは危険きわまりない。わたしには どうしても、そのように見えたのである。


 「一書」からの引用が「古事記」にはまったくないことを手ががりに古田さんは 次のような事実にいきあたる。(そこまでにいたる論証は省く。)
 『古事記』にない ― この事実はなにを意味するだろう。今まで辿り きたった論理に従えば、〝それは天皇家内伝承にはなかった!″ということ だ。
 では、天皇家内伝承の中にないものが、なぜ『書紀』にあらわれたのだろ う?これも、今までの論証のさし示すところ、〝他から取ってきて挿入され たもの″だ、 ― この帰結しかない。

 天皇家の神話伝承として、だれ一人今まで疑わなかった『書紀』の神代紀、 それまでが、他からの「接ぎ木」だとは!ある人は失笑しよう。ある人は怒り だすだろう。しかし、論理の筋道は厳としてその一点を指さしているのであ る。


 では「天皇家内伝承」でないのなら、「一書」はどこで創られたものなのか。 ずばり、それは「九州王朝発展史」なのだ。むろん九州王朝の神話も収録され ている。その「一書」の書名も「日本書記」に現れている。

 日本旧記に云わく。「久麻那利(こむなり)を以て末多王(またわう)に 賜ふ」と。蓋し是、誤りならむ。久麻那利は、任那国の下?埠呼?県 (あらしたこりのこほり)の別邑(わかれむら)なり。(雄略紀)

 この「日本旧紀」は「記・紀」以前にあったとされる天皇家の史書「帝紀」 や「旧辞」などとは、もちろん、異なるものだ。「日本古典文学大系」 (岩波書店)の頭注には「この書、他に見えず」とある。

 古田さんは「日本旧紀」という書物を分析し、文献資料として次のように 位置づけている。

 『古事記』や『旧事紀』と「日本旧記」との間には、大きなちがいが 一つある。それは前者が「古事の記」「旧事の紀」という書名をもつの に対して、後者はズバリ「旧記」である点だ。つまり、前者の場合〝古事 や旧事を今記した書″という意味だ。ところが、後者の場合、「旧」は 「記」にかかっている。つまり、〝古い時点ですでに記録された本の類集″ 〝古い記録類の集成書″という意味をもっているのだ(「古くから書かれ た一冊の本」そのものなら、今あらためて「旧記」と呼ぶ必要はない。もと の書名のままでいい。「旧記類の今の類集書」であるからこそ、今「日本 旧記」と名づけられたのである)。
 いいかえれば、この本の成立自体は先にのべたように六世紀中葉だ。だが、 その「六世紀中葉」という「今」において、旧来の伝承を記録した、そういう 本ではない。六世紀中葉から見て、より古い時代にすでに記録されていた資料 類がその内容だ。だから少なくとも五世紀段階に成立していた多くの記録類を 「今」(六世紀中葉)の時点で集大成した、 ― そういう性格を示す書名な のである。

 「日本書記」の「神代紀」の舞台は九州であり、九州王朝の神話である。だ から「神代紀」に頻出していた「一書」群が、神武以降つまり九州が舞台でな くなったとたんに、姿をけしてしまったのだ。つまり、この一線を境に依拠 すべき資料・史料がすっかりちがってしまったのだ。

 「日本書紀」は最も肝心なところで、「日本旧紀」からの接ぎ木、挿入、 改ざん、剽窃によって出来上がっている。そのように読むと、いままで「謎」 とか「矛盾」とかされながら解決されないまま放置されていた種々の問題が が濃い霧が晴れるように解決されてしまう。

353 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(6)
『記・紀』の中の東鯷国
2005年8月6日(土)


 これから読む部分は「神武東征」(古田さんは「神武東侵」と呼んでいる。)の説話を 史実を反映したものとする古田さんの解読の結果が前提となる。「神武東侵」の論考は いずれ詳しく読むことになるが、いまはその解読の結果である初期の「ヤマト王権」成立 の経緯を簡単にまとめておく。

 奈良盆地に侵略したイワレヒコはその一画を占拠することに成功はしたが、それ以上の成果は なく、むしろ失意のうちに没する。とても「国家」といえたものではなく、やっと地方の 一小豪族として蟠踞したにすぎなかった。
 その後第2~9代までの王の時代は大和盆地外への勢力拡大はできなかった。初期八代に ついての「記・紀」の記事が貧弱なのはそのためである。(記事らしい記事がないことを 理由に初期九代(イワレヒコも含めて)を「架空のおはなし」とみなすのがこれまでの 「定説」だ。)
 第10代(崇神)・11代(垂仁)の時代になって、大和盆地外への侵出戦争を開始し、 勢力拡大に成功した。銅鐸圏、すなわち東鯷国の中枢部を打倒し、その遺産を簒奪した のである。
 それに次ぐ第12代(景行)の拡大・安定期を経て、ようやく天皇家は、王朝 (正確には、九州王朝の分王朝)としての資格と実質をそなえるにいたった。

 本題に入る前に、一度表にしておくと何かと便利なので、イワレヒコ(神武)から ホンタ(応神)までの和風呼び名と漢風諡号を掲載しておく。(「日本書記」による)


 1 カムヤマトイワレヒコ(神武ジンム)     ⇒一世紀末頃?
 2 カムヌナカワミミ(綏靖スイゼイ)
 3 シキツヒコタマテミ(安寧アンネイ)
 4 オホヤマトヒコスキトモ(懿徳イトク)
 5 ミマツホコカヱシネ(孝昭カウセウ)
 6 ヤマトタラヒコクニオシヒト(孝安カウアン)
 7 オホヤマトネコヒコフトニ(孝霊カウレイ)
 8 オホヤマトネコヒコクニクル(孝元カウグヱン)
 9 ワカヤマトネコヒコオオヒ(開化カイクワ)
10 ミマキイリビコイニヱ(崇神シウジン)
11 イクメイリビコイサチ(垂仁スイニン)
12 オホタラシヒコオシロワケ(景行ケイカウ)
13 ワカタラシヒコ(成務セイム)
14 タラシナカツヒコ(仲哀チウアイ)
15 オキナガタラシヒメ(神功ジングウ)
16 ホムタ(応神オウジン)            ⇒四世紀末頃?

 なお、古田さんの論証によれば、五世紀の倭国の中心(首都圏)は
いまだ筑紫にあったという。

 さて、古田さんは『記・紀』の中から「東鯷国」の存在を裏付ける記事を拾い出して、 次のように論じている。

 成務記および成務紀には、次の有名な記事がある。

(1) 故、建内宿禰を大臣と為し、大国・小国の国造を定め賜ひ、亦国国の堺、及び大県・ 小県の県主を定め賜ひき。(『古事記』成務記)
(2) 五年秋九月、諸国に令し、国郡を以て造長を立て、県邑に稲置を置く。並びに盾矛を 賜ひ、以て表と為す。則ち山河を隔てて国県を分ち、阡陌に随ひて以て邑里を定む。 (『日本書紀』成務紀)

 ここでは、「県」や「県主」といった行政単位や称号が、天皇家によって定められたこと がのべられている。すなわち、創設記事である。
 ところが記紀ともに、成務時代以前に、「県」や「県主」の記事は頻出する。

(a) 此の天皇、師木県主の祖、河俣毘売をして生める御子……。 (『古事記』綏靖記)
(b) 此の天皇、河俣毘売の兄、県主波延の女、阿久斗比売を娶して生める 御子……。(『古事記』安寧記)
(C) 此の天皇、旦波の大県主、名は由碁理の女、竹野比売を娶して生める 御子…。(『古事記』開化記)
(d) 遂に菟田の下県に達す。(『日本書紀』神武紀)
(e) 此の両人は、菟田の県の魁帥なる者なり。(同右)

 創設記事以前に、これらの記事が遠慮なく出現する。これは一体どうしたことであろう か。矛盾だ。この矛盾に対して、本居宣長は苦悶した。ために『古事記伝』の中の成務記 において、長文を割いて弁じている。県に対する語解を種々試みた末、結局「県」とは「御 県の略」であって、〝天皇の直轄地″のこと、そのように彼は論じた。

 かゝれば県と云は、もと御上田より起れる名にて、又共に准へて、諸国にある、朝廷の 御料ふ地をも云フ、此に大県小県とあるは是なり。

 のごとくである。では、先の矛盾に対しては、いかに回答するか、いわく、

① さて国ノ造と云物を、此ノ時初めて定メ賜ふには非ず。是レより前にも有りつれど も、此ノ時に更に広く多く定め賜へりしなるべし。(『古事記伝』〕
② さて此に県主を定メ賜ふとあるも、初めて此ノ職を置れたりとには非ず、かの国ノ造 を定メ賜へると同じことなり。(同右)

 このように「定める」とは、「補修」の意で、「創設」に非ず、として一気に中央突破を 図ったのである。
 けれども、冷静に再検証すれば、この企図が暴断であったことは、直ちに判明しよう。な ぜなら、

 第一、『古事記』の他の個所では、「定め(賜ひ)き」とある場合、補修の意ではない。 また宣長も、そのように解していない。

  又木梨之軽太子の御名代と為て軽部を定め、大后の御名代と為て、刑部を定め…… (『古事記』允恭記)

 しかるに、ここだけ、こちらの都合で意味を改変するのは、不当だ。

 第二、もしこれが「補修記事」なら、創設記事がどこにもなく、いきなり補修記事という のは不可解だ。

 第三、「補修」ならば、この回にとどまらず、何回もあったであろう。しかるに、ここだ け補修記事というのでは、おかしい。

 以上だ。宣長の長広舌も、新たな矛盾の馬脚を次々と露呈しているのである。  では、真の回答は何か。


 宣長のつじつま合わせの理論はいただけない。真の答は、当然、次のようになるだろう。
 (1)(2)の記事は、当然創設記事だ。それも、天皇家による創設の記事なのである。
 (a)~(b)の記事の「県」や「県主」は、当然天皇家任命下のそれらではない。天皇家以前 の、あるいは天皇家以外の行政単位、また称号名である。「神武~開化」の頃は、 とても行政単位や、その長の称号名を独自に設けるほどの分際ではなかったのだから。

 最後に古田さんは、以上の論定を裏付けるものとして次の2点を挙げて締めくくっている。 いる。

(A)
 先にのべたように『古事記』のしめすところ「神武~開化間」は、大和盆地内の支配に とどまっていた。しかるに、右の(c)では、大和盆地外の豪族として「旦波の大県主」の名が ある。この称号が天皇家任命下の称号であるべき道理がない。
(B)
 『日本書紀』が語る「革命の論理」、「革命」前の覆された王朝には、行政単位も、その 長の称号名もない、そんなことが考えられようか。神武の前王朝の存在を自明とした 『書紀』の編者は、また天皇家以前の、また以外の、行政単位やその長の称号名の存在を 自明としていた。それゆえ、平然と成務紀に、天皇家による創設記事をおきえたのだ。 このように考えることが『書紀』という文献の事実に則すべき、唯一の見地ではあるまい か。

 以上によって、「神武即位」をもってわが国の建国記事と見なす歴史観、それが不当であ ること、わが国の歴史とは合致せざること、それが証明された。わたしにはそのように信ぜ られる。


352 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(5)
会稽海外、東鯷人有り!
2005年8月5日(金)


 よく知られているように、弥生時代には二つの異なる文化圏があった。 「銅剣・銅矛・銅戈圏」(以下「銅矛圏」と略す。)と「銅鐸圏」であり、 その接した領域に「混合領域」がある。

青銅器圏図

 いわゆる「倭国」は北九州を中心とする銅矛圏の国家である。では銅鐸圏には 国家はなかったのか。もちろんあった。そして、もちろんそれは「ヤマト王権」 ではない。ヤマト王権が簒奪した前王朝である。その名は東鯷国(とうていこく)。「日本列島の大王たち」から引用する。

 倭国という呼び名が、中国の史書に現われていたように銅鐸圏の呼び名も、 同じくそこ(中国の史書)に出現しているのだ。

(A)
 楽浪海中、倭国有り。分れて百余国を為す。歳時を以て来り献見すと云う。 (『漢書』地理志、燕地)

(B)
 会稽海外、東鯷人有り。分れて二十余国を為す。歳時を以て来り献見すと云う。 (『漢書』地理志、呉地)

 (A)は『漢書』の中の一文だ。古代史の本や教科書などの各所に引用されてい る。著名だ。だが、なぜか、一対をなす(B)の一文が盲点の中にあった。
 見れば一目瞭然、両者は同質の文章だ。『漢書』がすべてこんな文体なのでは ない。この二文だけなのである。したがって一方は燕地((A))、他方は呉地 ((B))にありながら、同一の原資料にもとづいた引文もしくは叙述であること、 これを疑うわけにはいかない。だから、もし(A)をとりあげるなら、そしてその 内容を論ずるなら、当然(B)とワン・セットの形でとりあげるべきだ。そうせず に(A)だけとりあげて、学問的な判断、つまり史料批判など、できるわけがない のである。しかるに、日本の古代史学界のほとんどは、平然と(B)の存在を無視 してきた。これは大きな欠陥だった。
 では、(B)の東鯷人とは、何を意味する名前だろうか。「鯷」は普通〝なまず″だが、これでは意味をなさない。魚へんをとると、「是」、これには「是非」の「ゼ」と共に、「テイ」と読んで〝はし、かぎり″の意味がある。これだと、〝東のはしっこの人″の意となる(高句麗(『三国志』)は、高句驪(『同、帝紀』等)とも書かれる。馬の名産地であり、中国に馬を献上したからである。東鯷人も同類ではあるまいか。また、『三国志』の倭人伝でも、「度」と「渡」は共用されている)。


 この後、古田さんは「東鯷」という表記が現れる他の文献をも読み解いて、東鯷国が三世紀初頭までは中国の文献に現れているが、三世紀をもって中国への貢献 を断っている(つまりその存在を絶った)と結論している。
 ちなみに銅鐸圏も弥生末期(三世紀ごろ)をもって消滅している。
351 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(4)
倭人は1年に2度年をとった!
2005年8月4日(木)


 記録しそこなった幻のバックナンバー「第334回」(7月17日)に書いたことで 2点訂正したいことがある。その第ニ点。

 前回の那珂通世説の紹介文の中に、神武の即位を紀元前660年とした結果、 「書紀の紀年は実際の年代よりいちじるしく延長され、不自然に長寿の人物を 多く巻中に出現せしめた。」というくだりがあった。私もずーっとそのように思 い込んでいた。そこで「ヤマト王権」の初期大王の享年を古事記から調べて 在位合計年数を推測したものを、「第334回」の記事に掲載した。ところが、 である。

  魏志倭人伝の筆者・裴松之が倭人伝中に『魏略』から次の記事を引用している。

魏略に曰く「其の俗、正歳四節を知らず。但々春耕・秋収を計りて年紀と為す」

 古田さんの解説によると「正歳は陰暦の正月、四節は暦の上の春夏秋冬をさ す。つまり正歳四節とは陰暦の体系をさしている。」
 これに続く古田さんの論考は次の通りである。

 この文章は、すなおに理解すれば、倭人は「春耕」と「秋収」の二点を 「年紀」とする、つまり「一年に二回歳をとる」という意味だ。この解読の正当 なことを示すのは、倭人伝のつぎの記事である。

その人、寿考(ながいき)、或は百年、或は八、九十年。

 前にのべたように「或はA、或はB」の形は「AかBかである」という形だ。 つまり、倭人の寿命は平均「九十歳くらい」の長寿だ、というのである。従 来は倭人伝全体を「誇張のプリズム」を通して見てきた。だから、「ああ、 ここもか」で片づけられたのである。けれども、今はすっかりちがう。倭人 伝は実地の実際について、おそろしく正確なのである。一方『三国志』中、 死亡時の年齢の書かれているもの90名(全332名の2割7分)について、その年 齢を平均すると、「52.5歳」である。このうち、とくに高齢者であるた め記載された例をのぞくと、「30代と40代」が頂点となっている。
 これにくらべると、倭人は「約二倍の長寿」となっている。しかも、これを もはや簡単に「誇張」視しえない、とすると、どうなるか。その回答の鍵は、 先の『魏略』の文によって与えられる。すなわち、この「倭人寿命」の問題は、 魏使の「直接の調査・統計」によったとは考えられないから、当然「倭人の知 識」を聞いて書かれたのである。そのとき倭人の「年齢計算法」は、魏の「正 歳」の二倍、つまり「一年に二回歳をとる」方法だったのである(この間題は、 『日本書紀』・『古事記』の史料批判に対して深刻な影響を与えるものである。 これについては、別に執筆したい)。(『「邪馬台国」はなかった』より)


 たしかにこの事実は「『日本書紀』・『古事記』の史料批判に対して深刻な 影響を与え」ずにはおかないだろう。何の先入観にもとらわれずに『日本書 紀』・『古事記』の史料批判を綿密にやり直さなくてはなるなまい。古田さんの 諸説がその研究の結果というわけだ。

 というわけなので改めて「記・紀」の初期大王(イワレヒコから16代ホンダ ワケまで)の享年と在位年数を調べてみた。 (在位年数は日本書記による。直接の記載がない場合、私が計算・推測したも のなので正確ではないが、大きく違うことはないと思う。


   古事記  日本書記  在位年数
 1   137    127     76
 2    45     84     33
 3    49     57     38
 4    45     77     34
 5    93    113     83
 6   123    137     102
 7   106    128     76
 8    57    116     57
 9    63    115     60
10   168    120     68
11   153    140     99
12   137    106     60
13    95    107     60
14    52     52     9
15   130    100     69
16   130    111     41

合計  1583   1690     935

2で割ると
     792    845     467

平均年齢          平均在位数
     49.5  52.8     29.2

 平均年齢「52.5歳」「30代と40代」が頂点(度数のことだろう)という 同時代の中国の集計と比べて「誇大」という批判はあたらないことが分か る。
 また「第334回」で、イワレヒコの「東征」説話に歴史の投影があるとすれば、その時期は それは1世紀から2世紀ごろではないかと推測したが、その推測とも合いそうだ。

350 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(3)
「建国記念の日」=「紀元節」のバカバカしさ
2005年8月3日(水)


 記録しそこなった幻のバックナンバー「第334回」(7月17日)に書いたことで 2点訂正したいことがある。

第一点。
 そのときイワレヒコの即位年月日を誰がどのように計算したのかという長年持っていた 疑問を提出した。そのときは古事記や日本書記に記載されているヤマトの王の年 齢や在位期間などをこねくり回して計算したのではないかと思い込んでいた。 さにあらず、だった。

 日本書記のイワレヒコ即位の記事は次のようになっている。

辛酉年(かのとのとりのとし)の春正月(むつき)の庚辰(かのえ たつ)の朔(ついたちのひ)に、天皇、橿原宮に即帝位す。是歳を天皇の元年 とす。

 日本古典文学大系「日本書記・上」(岩波書店)の補注にこの記述についての 学説の紹介があった。この紀年問題をめぐって「多くの学説があるが、学界で最 も広く受け入れられている代表的な説」ということで、那珂通世(1851~1908) の説を紹介している。その部分を引用する。

 書紀が神武即位を上述のように定めたのは、中国から伝えられた讖緯の説に よるものであるとした。すなわち、三善清行の革命勘文に引用された緯書によ り知られる辛酉革命の思想では、一元六十年、二十一元一千二百六十年を一蔀 とし、その首の辛酉の年に革命を想定するのであって、この思想の影響の下に、 推古天皇九年辛酉より二十一元の前に当る辛酉の年を第一蔀の首とし、古 今第一の大革命である人皇の代の始年に当る神武の即位をここに置いたの である。その結果書紀の紀年は実際の年代よりいちじるしく延長され、不 自然に長寿の人物を多く巻中に出現せしめた。試みに神功・応神二代の紀 年を朝鮮の歴史と比較するに、両者の干支符合して、しかも書紀は彼より も干支二巡百二十年古いこととなっている事例が多多見出される、百済の 近肖古王以下の時代においては、彼の年紀に疑うべきところなく、これを 古事記に記入された崇神以下各天皇の崩年干支との関係と併せ考え、この 二代の書紀紀年は百二十年の延長あるものと考えざるを得ない、雄略紀以 後は大体朝鮮の歴史と符合するので、紀年の延長は允恭紀以前にとどまる とみてよかろう、干支紀年法は百済の内附後に学んだものと考えられ、朝 鮮との関係のない崇神以前の年代は推算の限りではないけれど、試に一世 三十年の率を以て推すに、神武は崇神九世の祖に当るから、崇神までの十 世の年数は三百年ばかりとなり、神武の創業は漢の元帝の頃(西暦一世紀 前半頃)に当るであろう、というのである。

 「蔀」だとか「首」とか知らない用語があるが、いまは「辛酉」の年に 「大革命」が起こるという中国の「讖緯(しんい)説」に依拠しているとい うことを知れば足りる。これをもって「建国記念の日」とは、笑わせるじゃ ないか。

 上記引用文中の「ヤマト王権」と朝鮮との関係、特に「肖古王」との関係は 「ヤマト王権」の詐術・欺瞞を解く大事な役割をする。いずれそれを取り上げ ることになる。

 ところで、この那珂説について古田さんが次のような辛辣なコメントを 寄せている。

 この那珂理論は、ことの、より重要な反面を故意か偶然か見落している。 あるいは欠落している。なぜなら「革命」とは、「前王朝を武力で打倒する」 事実を前提とした術語だ。その不法行為を「天命」によって合理化した言葉、 それが「命を(あらた)める」ことだ。すなわち、 これこそ天命が前王朝から我(打倒者)に移ったため、と称するのである。し てみれば、前王朝の存在なしに、この「革命」の語、もしくはその概念を用う ること、それは全くありえないことだ。
 だから、『日本書紀』の編者が神武即位に「辛酉」をもって当てたというこ と、それはとりもなおさず、「それ以前に、前王朝が存在した」という主張を ふくむことになる。むしろ、それを自明のこととして、前程しているのである。 その前王朝の仔細について書くのは、もちろん『書紀』の目ざさざるところ。 しかし、大義名分上の立場は右のごとし。疑う余地はない。

 してみれば、「わが国は、神武即位をもって建国された」というような思考 法 ― 本居宣長が強調し、平田篤胤が熱狂的に拡大し、明治維新政府が「紀 元節」としてこれを定式化した歴史観、そして今日の「建国記念の日」制定に 至るまで、これに盲従してきた人々の立場、それは決して『日本書紀』という 古典の立場ではなかった。八世紀の『書紀』の編者たち〔『古事記』はもちろ ん)は、後代の彼等ほどには、狂信的な皇国史観の持主ではなかったからであ る。(「日本列島の王者たち」より)


 「紀元節」のばからしさはさて置き、古田さんのコメントには 大変大事なことは含まれている。
 「それ以前に、前王朝が存在した」。「ヤマト王権」はその前王朝から権力 を簒奪したことになる。そのことについては、そ知らぬふりをしていたかった のに、日本書記がはからずもそのことを漏らしてしまったということだ。
 ではその「前王朝」とはどんな王権だったのか。
349 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(2)
「倭の五王」とはだれか
2005年8月2日(火)


 ところで、「倭の五王」を「応神~雄略」に比定する「定説」は教科書に も載っている。学者の結論を信じて、私たちはそれを受け入れていた。しかし、 割り当てられた『記・紀』側の各王「応神~雄略」の和風の呼び名とも漢風 の諡号とも何の関係のない「讃・珍・済・興・武」という名をどのようにし て「応神~雄略」に結びつけたのか、疑問に思っていた。知りたかったが、 その説明に出会ったことがない。
 ところが「盗まれた神話」にそのことが取り上げられていた。

 以上のべたように、津田史学を始発点とし、川副理論を終着点としたのが、 日本古代史の戦後史学であった。それは敗戦後から現在まで、この約30年間(「盗まれた神話」 の出版は1975年…仁平)に出現した一切の古代史研究中の「定説」の座を占めていた。
 その中では、史実と『記・紀』説話とのくいちがいは、-遠慮せずにいえば-〝真面目に 考えられる〝ことがなかったのである。なぜなら、すでにくりかえしのべてきたように、津田の 「記紀造作」説を自明の前提としてきたからだ。しかし、意外な地点から問題は急旋回すること となった。日本古代の史実を示す基準として、疑いなきものとされてきた倭の五王や高句麗好太 王碑か、実は近畿天皇家とは無関係だということ、その事実が判明してきたからである。

 古田さんは「近畿天皇家」という言い方をしているが、私はいままで通り「ヤマト王権」とい うことにする。また古田さんはこの節では「倭の五王」と「高句麗好太王碑ひ」の2点の問題解明を しているが、まずは「倭の五王」の場合の驚くべき真相を伺おう。
 これまで五王を「仁徳~雄略」と結びつけてきた唯一の〝きめ手〝は「人名比定」だった。たと えば、五王の最初「讃」を例にとろう。これには「履中」説と「仁徳」説がある。
 まず、履中天皇にあてる論者は、履中の名「去来穂別(いざほわけ)」の第二音「ざ」を中国側 が勝手に抜き出して「讃」と表記したのだ、というのである(松下見林『異称日本伝』)。これに対 し、この「讃」を仁徳天皇にあてる論者は、仁徳の名「大鶴鶉(おおささぎ)」の第三・四音に当 る「さ」または「ささ」を切りとって、中国側が「讃」と表記した、というのである。
 これらの説の背景をなす、暗黙の前提はこうだ。つまり、日本側の長たらしい王名は、中国側 の名のつけ方に合わないので、中国風の一字名称(たとえば、魏の曹操の名は「操」)の形に強 引に直したのだ、という想定である。

 いやー、びっくりしたな、もう。こんな恣意的で脆弱な理論が定説の根拠だったとは! 従来の古代史学がまったく信じられなくなってくる。
 それでは「一切の先入観を排し、まず原文全体の表記のルールを見出す。つぎにそ のルールによって問題の一つ一つの部分を解読する。」という古田さんの研究方法による 結論ははどうか。
 上記のようなこじつけに疑問を感じた古田さんは、『宋書』全体の夷蛮(中国周辺の国々)の王名を 調査した。すると、四字・七字といった長たらしい名前の王名が続々見つかった。〝一音勝手切 り取り表記″など、『宋書』中、例がないという。
 阿柴虜(あしりよ)(遼東鮮卑)とか 舎利不陵伽跋摩(しやりふりようがばつま)(?達国)といった風に 4字・7字といった長たらしい名前の王名が続々見つかってきたのである。だから、もし「イザホワケ」 なら、たとえば「夷坐補和卦」といった風な、五字表記をするはずであって、〝一音勝手切り取り表 記″など、『宋書』中、例がない。そういうことがハッキリしたのである。つまり、従来「仁徳~雄略」 を五王と結びつける論証とされてきた唯一の鍵が、実は鉄の鍵ではなく、〝泥の鍵″だったというわけ である。

 「一切の先入観を排し」て判断すれば、従来の「定説」は誤りであり古田さんの説が正しいというこ とは、私には自明のことと思える。
 それでは「倭の五王」はどこの王なのか。
 そればかりではない。倭王武の上表文にあらわれている有名な文句、

東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。

は、中国の都(南朝劉宋の建康〔今の南京〕)を原点とした表記であり、近畿を原点としては理解 しえないことがわかってきた。
 なぜなら、倭王武は自分のことを二回も「臣」と書いている。中国の天子を中心にした大義名 分のもとに、この文面は作られているのだ。だから、「衆夷」とは、自分たち(東夷)をふくむ 周辺の倭人(九州)を指す表現であり、「毛人」はさらにその東(瀬戸内海西半分〔強〕)である。 近畿を原点とした従来の読み方では、倭王が自分を「天子」の位置におき、西を「夷」と称し、 すぐ東を「毛人」と称したこととなる。「東夷の国々」の一つとして記された倭国の記事として、 これは〝めちゃくちゃ〟としかいいようがない。こんなめちゃくちゃのままで、中国側が正規の 史書に記録する。こんなことは、断じてありえないのである。また、朝鮮半島南半部を指す「海 北」という表現も、九州を原点とした場合において、もっともスッキリすることはいうまでもあ るまい(これらの点、詳しくは「失われた九州王朝』第二章参照)。


 戦後の古代史学が深い霧の中で混迷し続けてきた大きな原因は「記紀は造作」説ばかりではない。 他の一つに、5世紀~6世紀の王権が「ヤマト王権」だけであり、その「ヤマト王権」が近畿周辺だけではなく、西 は九州から東の関東地方ぐらいまでの征服を果たしていたという誤った思い込みがあった。「ヤマト王権」一辺倒 の陥穽に落ち込んでいたのだ。
 「倭の五王」は九州王権の大王たちだった。