FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
338 「日本」とは何か(30)
ヤマト王権の出自(9)
2005年7月22日(金)


 樋口さんは、畿内にやってきた勢力がどこから来たのかという問題には言及していない。 「ヤマト王権の出自」についての諸説をまとめてみる。

 「第328回」(7月11日)で紹介した論文「政治権力の発生」の筆者・山尾幸久 さんは邪馬台国畿内説を採っている。その邪馬台国が発展して「倭の五王」に つながっていくと考えているようだ。従ってイワレヒコ(網野さんの指摘を受 けて私は「神武天皇」という呼び名は用いないことにする。)の東征については まったくの歯牙にもかけていない。
 一方、邪馬台国北九州説を採る人たちはその 所在地を筑後山門郡とする説が有力のようだ。「神武天皇」(中公文庫)の著者・植 村清二さんはその説に同意して、邪馬台国の所在を筑後御井付近、投馬国は薩摩の川内付近 としている。そして北九州の連合国家の支配権を手にした邪馬台国が東征して畿内に入った と考えている。東征したのは邪馬台国ではなく薩摩にあった投馬国だという説もある。
 これらの諸説に対して、「戦後のあれこれの新説よりも、日本の国の成り立ち というのは記紀に記されている話の方がずっと納得可能なのではないか」という 梅原さんの考えを先に述べた(第329回)。梅原さんは「記紀」の記述の通り、ヤマト王権 の始祖は日向から東征したと考えている。

 私はいまさら何故こんなにイワレヒコにこだわるのか。もちろん最近の 政治や教育行政の反動的な動きやそれに同調する社会状況への対峙の仕方の 一つと考えているからだ。それは考古学者・森浩一さんがその著書「天皇陵 古墳」で述べている次のようなモチーフと別のものではない。

 藤ノ木古墳の家形石棺の調査にさいして、さまざまな被葬者候補がだされたときにも、〝考古学では 墓誌でもないかぎり、被葬者は永久にわからない″とする慎重とも多少投げ遣り的ともとれる発言を よく耳にした。このことは、藤ノ木古墳のように考古学資料が豊富で、しかも前期古墳や中期古墳に くらべると記紀の編纂時に近い後期古墳であっても、被葬者については有力候補をだすに終わるであ ろうとする学問的限界を示している。
 とはいえ、私も前に試みたように(『考古学と古代日本』中央公論社、1994年) 、歴史的に創作された始祖王と考えられている神日本磐余彦(かむやまといわれひこ) 、つまり神武の陵を明らかにするのは考古学的に無意味とは思わない。無意味 どころか、いつごろ始祖王なるものが創作または意識され、人びとにそれを架 空の人物ではないとする印象をあたえるため墓(陵)を作りだしたかを明らか にするのは、文献学だけではなしえない研究である。

 森さんはヤマト王権の祖とされている記紀の物語の主人公について、他の 著書(「記紀の考古学」)でも「神武」は( )つきで表記し、もっぱら「イワ レ彦」という呼び方をしている。さすが、だと思う。

 ところで、現在「神武稜」と定められている陵墓は畝傍山の東北麓にある。それは江戸時 代に、学者間の約90年間にわたる議論の末に1863(文久3)に定められたという。 幕末の「尊皇攘夷」思想と無関係ではあるまい。このあたりの経緯について植 村清二著「神武天皇」から引用する。

 神武天皇は、それがあまりに遠い上代に属するためか、こうした特殊な地位(皇室 の最初の祖)を占めているにも拘わらず、久しい間特別に記憶され尊崇された形跡が ない。応神天皇は奈良時代に起った八幡宮の信仰に結びつけられて、後世までその祭 神とされたが、神武天皇にはそうしたこともない。天智天皇は中宗と称せられ、その 陵墓は十陵八墓の最初に列せられて永世奉幣を絶たぬことと定められたが、神武天皇 にはそうしたこともない。中世の史書を代表する「愚管抄」や「神皇正統記」なども、 天皇について特筆したことはない。天皇の名はただ年代記の最初に記されるだけに止 まって、それ以上の意味を持つことはなかったのである。

 神武天皇の存在が強く意識されるようになったのは、恐らく江戸時代の中期に国学 の研究が起って、本居宣長や平田篤胤等によって古代の歴史が回顧されるようになっ てからであろう。水戸学もまた名分論からこの傾向を助長し、藤田東湖や会沢安は、 いずれも皇道の基本を天皇の事蹟に求めている。徳川幕府が権威を失って、天皇政治 の復古が唱えられるようになると、この風潮はますます盛んになり、文久年間にはそ の陵墓が決定して修理が行われ、引き続いて孝明天皇が摸夷の奉告のために、ここに 行幸されようとすることさえあるようになった。

 明治維新はこうした気運に推進されて成功したのであるから、王政復古とともに皇 室の始祖としての神武天皇が強く回想されるようになったことは極めて自然である。 大国隆正の門下であった玉松操が岩倉具視に「須く神武の創業に基づき我より古を作 すべし」と献策したのは有名な話であるが、それはいわばこの意識を代表したものに 過ぎない。
 明治5年には神武紀元が制定せられ、また天皇の即位の日を祝日として紀元節と名づ け、7年以来2月11日と定められた。明治22年には皇居があったと伝える畝傍山の東南に、 天皇を祭る神宮が創建せられ、翌年(神武紀元2550年)橿原神宮の宮号を定め、官幣大 社に列せられた。同年また軍人の勲功を顕彰するために長髄彦討伐の際の故事によって、 金鶉勲章が制定されている。

 こうして神武天皇は明治時代には過去に比類のない著しい存在となった。 美豆産(ミズラ)結び、手纏(タマキ)・足纏(アユイ)を飾り、頭椎(カプツチ)の剣 を侃き弓河(ユハズ)に鵄を止めた姿は、小学読本をはじめとして全国民の間に普及した。 それはとりも直さず、この時代に強調された皇室を中心とする国家意識の一つの象徴に 外ならなかった。従って昭和時代に反動的に軍国主義が、いわゆる皇道と結びついて拡が るようになると、神武天皇はまた肇国の精神の名によって宣伝された。紀元2600年はあた かもこうした時機に当ったために、盛大な祝典が行われ橿原神宮は拡張が行われ、天皇の 聖蹟調査委員会は伝説上の土地を決定するために設置された。その翌年が太平洋戦争勃発 の年であったことを思うと、それはある意味で旧大日本帝国の最後の光栄を示すものであ ったということができるであろう。


 なお、天皇陵選定や改修どきに国民がいかなる仕打ちを受けてきたか、その一例として 「神武稜」のケースを「天皇陵古墳」から引用する。
 最後に「神武陵」については、1917年(大正6)9月13日の計画決定以降、数年をかけて 天皇陵の神聖を犯すという理由で隣接の(ほら)村の移転が すすめられた。これは単なる民家の立退きにとどまらず墓地の改葬をともなうような徹底 したものであった。移転の内実については「強制」と「自主的献納」という二つの側面が 存在したことが今日、明らかにされつつあるが、移転が天皇制の強権と部落差別にもとづく ものであることは明白である。すなわち近世以降、継続される修築事業の本質をここに読み とることができるのである。
スポンサーサイト