FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
335 詩をどうぞ(22)
2005年7月19日(火)


 ある新設高校の開設時にその高校に赴任しました。校舎もなく間借りを しながらのスタートでした。校章に武蔵国国分寺跡から出土した鐙瓦の一 つに刻まれていた蓮華の文様が選ばれました。校外授業で生徒たちと国分 寺跡を見学したときに、クラスの生徒向けに作ったものです。




蓮華―校章由来― 

		梵網経(ぼんもうきょう)に説く
		 廬舎那仏(るしゃなぶつ)大連華座に座したまい
		 その知恵の光はあまねく人々の心によりそい
		 世の限りなき苦しみを除いて一切の闇を開くと
		 すなわち大連華座に千華辨あり
		 その一葉ごとに一釈迦ありて仏国土をなす
		 さらに一国ごとに千百の釈迦ありてまた国をなす
		 蓮華蔵荘厳世界(れんげぞうしょうごんせかい)!
		 ありとあらゆるもの
		 蓮華につつまれ大光明に照らされるという


都に政変相次ぎ
覇を争い闇闘する王族たち
ために遷都は止むことなく
かてて加えて全国に瀰漫する疫病
豊麗な文化が成熟するとき
一つの体制が崩れようとしていた
天平十二年二月 難波宮に行幸の(みち)
河内国智識寺に廬舎那仏を(おろが)む聖武帝
苦悩する帝の脳裏に
そのとき鮮やかに芽生えたものがあった
翌年天平13年3月
大仏造立発願(ぞうりゅうほつがん)に先立つこと二年
一つの(みことのり)が全国に飛んだ
  〈宜しく天下の諸国をして
  〈各々(つつし)しんで七重塔一区を造るべし
国分寺・国分尼寺の設置



一つの体制を守ることのみが
帝の願いの全てではなかったとしても
あるいは国を統べるものの苦悩の大いさにも拘らず
過重な徭役(ようえき)を果せられ  (注1)
たえず疫病におびえ
貧窮の極みのうちに生きた農民たちには  (注2)
ましてや 人間として生きられなかった
奴碑(ぬひ)と呼ばれた人々には  (注3)
鞭打たれ血のふきでる背を
さらに鞭打たれるほどにも
それは過酷な勅命だったに違いない
都での政争はあずかり知るところではなく
律令制の崩壊はもとより望むところ
蓮華蔵荘厳世界にかける夢は
だから 彼らにあってこそ一層強く深かった  (注4)
血をしたたらせて木を伐り出し
涙をまじえて泥を()ねる
悲惨な生活をさらに悲惨にしながらの
難事業を遂行せしめたものは
心に溢れて止まぬ純朴な祈り
  (御祖(みおや)に息災を
  (子らに充足を
  (世々違えることなき真実を
天平Ⅹ年  (注5)
壮大な規模を誇る大伽藍
武蔵国国分寺建立(こんりゅう)成る



天平13年 西暦741年
国分寺跡に立ち
遥か多摩川あたりを望みながら
ぼくはひそかに引き算をする
1969 ひく 741
武蔵国国分寺が戦火に潰えてすでに久しい  (注6)
以来地中に埋もれたまま
いまぼくらに届いた一枚の鐙瓦(あぶみがわら)  (注7)
千二百有余年もの時を隔てた
この奇遇にぼくは打たれる
節くれ立った手をあやつり
鐙瓦に蓮華を刻む
破衣をまとった一人の奴人(ぬひと)
(かま)の前にうずくまり
祈りをこめて黙々と刻む
深い皺が幾すじも走り
笑いを忘れた黒い顔は
そのこころね思えばむしろ美しい
一枚の鐙瓦とともに一人の
無名の古代人の心を拾う
ぼくらいま
仏を頼むことをしなくなったが
平和を願い
自由を尊び
真理を愛する心を受け継ぐ
1969年
武蔵国国分寺の地に
新しい鎚音(つちおと)が響き始めた
やがてこの学舎を巣立つ若者たちが
ひとりびとり大きく咲く蓮華であることを願う

(注1)
口分田について租(一段につき稲二束二把)が課せられた外に、 個人の国家に対する負担として、庸(1年10日間の歳役-庸布 による代納)調(絹・あしきぬ・糸綿・布などの特産物の納入) 雑徭(1年60日、国内の雑役)などがあった。徭の負担が大きい。

(注2)
・・・かまどには 火気(ほけ)ふき立てず こしきには くものす ()きて 飯炊(いいかし)く  事も忘れて 鵺鳥(ぬえとり)の 呻吟(のどよ )()るに いとのきて 短き物 を 端裁(はしきる)ると 云えるが如 く (しもと)取る  里長(さとおさ)が声は 寝屋戸(ねやど) まで 来立ち呼ばひぬ 斯く ばかり (すべ)無きものか 世間(よのなか) の道
世間を憂しとやさしと思えども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
      (万葉集巻五 山上憶良「貧窮問答歌」 より)

(注3)
 賎民制での最下層の人たちで、独立の家族的結合を認められず、財物 同様に扱われていた。

(注4)
 奈良時代の南都六宗(三論・成実・法相・倶舎・華厳・律の六派)に 五性格別説という宗論がある。人々を現世の身分や貧富の差によって 菩薩・声聞・縁覚・不性・無性の五段階に分け、一般民衆は無性とし、仏の功徳に よっても救われないとした。道昭や行基はこれに反対し、不性・無性の中に入れられた 人々こそ仏の功徳によって救われるべきだとし、民衆救済に乗り出し、地方を巡り歩い た。行基は聖武天皇に嫌われ、処罰されている。

(注5)
 武蔵国国分寺が完成された年は分からない。あるいは天平と呼ばれた年代より後のこ とかもしれない。ちなみに大仏開眼は752年(天平勝宝4年)である。

(注6)
 武蔵国国分寺の焼失は新田義貞の鎌倉攻め・分倍の戦いのとき、1333年(元弘3年) である。

(注7)
 武蔵国国分寺跡から発掘された瓦で歴史資料として最も価値が高いのは、それを寄進し た郡郷の名が刻まれているものであろう。その中には現在も使われている地名が多く見 られる。例えば郡では豊島・足立・埼玉・入間・秩父・多摩など、郷では大井・蒲田など の名が見られる。国分寺の建立が一国を挙げての事業であったことがうかがわれる。また 馬や草木などの落書きのある瓦も面白い。当時の民衆の生活感情に直接触れるような感 慨が湧いてくる。

スポンサーサイト