FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
329 「日本」とは何か(21)
ヤマト王権の出自(2)
2005年7月12日(火)


 山尾さんの説から当面のテーマに沿った部分を取り出してみる。

1. 朝鮮半島西南部と北部九州とはかなり長期にわたって接触があった。
2. 北部九州に朝鮮からの本格的な移住が始まったのは、真番郡の設置から放棄までの 前108年~前82年ごろからである。
3. 弥生文化は縄文晩期のそれを基礎とし南部朝鮮の文化を受容して成立した。

 また、山尾さんは中国の史書の記述を詳細に吟味して、そこに登場する倭人の「国」 の地理上の位置を次のようにまとめている。すなわち『前一世紀中葉ごろの北部九州の多数の 「国」、一世紀半ばの那珂郡の「奴国王」、二世紀初頭の北部九州の「倭国」とその王、 三世紀中ごろ、「親魏倭王」が都する畿内の「邪馬台国」』。「邪馬台国」畿内説を採用して いるが、「邪馬台国」がどの地方の「国」なのかという問題は、いまは問題としない。そのか わりに初期ヤマト王権の王と考えられている「倭の五王」の記事が「宋書」に書き留められ たのが413年~502年であることを付け加えておきたい。

 以上のことを前提として梅原さんと吉本さんの対話に戻る。
 まず江上波夫さんの「騎馬民族渡来説」が取り上げられる。「騎馬民族渡来説」は、た ぶんいまは歴史学会ではまったく問題にされていないのではないか。吉本さん、梅原さんも もちろん否定的取り上げている。

 吉本さんは時間の幅を問題にする。異質の宗教と乗馬の技術と武器をもった一団が、 何の抵抗もなくスーッと入ってきて短期間に畿内へ進出したと考えるのは不自然だという。  ヤマトにやってきたヤマト王権の祖先が騎馬民族だったのか、北九州の定住民だったのか、 あるいは記紀が記述するとおり高千穂の峰あたりからやってきたのか、いずれにしても九州に 定住した弥生人であり、幾世代もの定住を経ながら漸進してきたと考えるのが自然だという。
 そのそのように考えるヒントの一つとして柳田さんの考えを紹介している。

 そこで、興味深いと思えるんですが、稲の種子とか耕作をもって南の島づたいに来た人たちは どうやって近畿地方に入ってきたかについて、柳田さんが言っていることは、外側、つまり四国 の土佐の太平洋側を海岸伝いに通って近畿地方に入るのは、それほど高度な航海術や大きな船で なくても可能であったということです。けれど、豊後水道か北九州の関門海峡かわかりませんが、 そこを通って瀬戸内海を航海するというのは、相当な航海術と船の大きさとがなければできなか ったといっています。
 だから、柳田さんの考え方を敷術すると、琉球・沖縄から島づたいにやってきた、稲作をもっ た人々は、南のほうからやってきて、海峡を通って瀬戸内海から近畿地方に入るという船の技術 が充分に身につくまでは、そこまで来るコースによって北九州か南九州かわかりませんが、そこ へんの沿岸に何代かにわたって住んでいた、というふうに潜在的に考えていたんじゃないか、と 僕は思っているんです。

(中略)

 つまり日本列島で人類が発生したと考えない限りは、どうせ大陸から渡ってきているわけです から、おおざっぱにいえば王権も民衆も大陸から渡ってきたというのは確かでしょう。しかし、 それは時間的にたくさん幅をとらないといけないので、あまり早急に考えると違ってくるのでは ないか。


 柳田さんは稲と稲作技術が南の方から伝わってきたという説に依拠している。私が冒頭にまとめ た朝鮮渡来説とは真っ向から対立する説である。南方渡来説が今なお有力な説の一つなのかどう か詳らかにしないが、ここでは太平洋側の海岸伝いの航海より瀬戸内海の航海のほうが難しいと いう点に注目したい。そして、弥生人の移住が本格的に始まってから「倭の五王」までに数百 年の時間があることを考慮すれば吉本さんの「時間的にたくさん幅をとらないといけない」とい う判断はきわめて「常識的」だと思う。

 この吉本さんの考えを受けて、梅原さんも「騎馬民族説」を二つの点で退けている。一つは 歴史書にその反映がないこと、二つは騎馬民族は父系社会で日本は双系社会と間には相当に断 絶があるという点をあげている。そして、梅原さんはさまざまな新説よりも記紀の記述のほう がずっと納得できるといっている。

 その点、『古事記』にあらわれているニニギノミコトから神武天皇までは――曾孫ですね。こ れは非常に自然ではないでしょうか。ニニギノミコトというのは向こうから来た種族にしても、 その次に来ると、オオヤマヅミノミコトの娘のコノハナサクヤヒメとの間に次の子ができて、そ れが二代にわたってワダノカミの娘との結婚によって神武ができるということになると、外国か ら来た血統が結局、八分の一になってしまいますね。そういう土着の血が入らないと渡来民が、 なかなか日本を支配することは難しいのじゃないかという気がしますね。
 それでもしかし、神武天皇が大和に入ってくれば、さっそく土地の娘を娶らなきゃならんとい うことになる。次代の天皇は、九州の女の子どもではなくて、大和の三輪山の神の血を引く娘の 子どもでなければならぬという――こういうところにそれが事実でないとしても日本の国の成り 立ちが、大変よく説明されているような気がするんです。ですから、いろいろな人が頭で考えた 戦後のあれこれの新説よりも、日本の国の成り立ちというのは記紀に記されている話の方がずっ と納得可能なのではないかと、この頃思うようになりましたよ。

 梅原さんは前々回(第327回)でも記紀の神話をもとに自論を展開していた。記紀の神話部分 は偏狭なナショナリストたちが歴史的事実として一心にしがみついている事柄だから、記紀の 神話をこのように取り上げることにたぶん大方の人は拒否反応を示すのではないか。神話を歴 史的事実とする考えはまったくの迷妄にすぎないが、一方それをまったくのフィクションで あり取るに足らないとする考えは硬直した思考であり、それも誤りだと私は思う。もう少し梅原 さんの考えを聞いてみよう。(次回に続く。)
スポンサーサイト