2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
347 「日本」とは何か(32)
すごい本、みっけ!
2005年7月31日(日)


 一週間ぶりに『「日本」とは何か』に戻る。

 植村清二著「神武天皇」の中の津田学説の要約を読み、植村さん自身の 仮説を読んでいく予定だったが、急遽変更することにした。

  この稿はかなり混迷しているのでこれまでの内容をおさらいをしようと読み 返していたら、「第334回 ヤマト王権の出自(5)」(7月17日)の記事を 記録し損なっているのに気づいた。実は、その回に書いた内容の補充・訂正を して、そこにから改めて仕切り直そうと思ったのだった。それには次のような 理由がある。

 これまで「ヤマト王権の出自」についてのいろいろな手がかりや仮説を読んで きたが、どれにも満足できなかった。まったくの素人の勝手な感想でしかないが、どの論にも 大事なところではぐらかされたような感じが残った。私が最も関心があり、最も 解明してほしいと願っている疑問点にほとんどなにも答えてくれなかった。 戦後の「古代史」学の混迷振りは、どうやら津田理論を金科玉条の大前提とし ているところにあるようだ。

 新たな資料を求めて本屋の棚をのぞいていたら、古田武彦氏の著書が目に とまった。名前は存じ上げていた。一時期かなり話題になったことがある。 しかし、その頃私は古代史にさほどの関心を持っていなかったし、それまで の諸説と大同小異の理論だろうという先入観にとらわれていて、その著書を 手に取るまでにはいたらなかった。いま、その不明を恥じている。

 「盗まれた神話―記・紀の秘密―」(朝日文庫)を手に取りその目次をみた だけで、私が持っている種々の関心事に真正面から取り組んでいることが一目 瞭然だった。
 実際に読んでみてびっくりした。今までの諸仮説がはらんでいる問題点・ 矛盾点を克明に批判しながら、堅固な論証の上に自説を展開している。私は これまで知ったどの学説よりも正しいと思った。同時に、学者たちがこの 古田さんの一連の論文をほとんど無視しているらしいことを、いぶかしく思っ た。いや学者ばかりではなく、梅原さん、吉本さんもまったく触れていない。 ちなみにこの著書の初版は1975年に出版されている。(文庫本化は1993年)
【追記】(2005/10/16)
 吉本さんは古田説をご存じだった。『ハイ・イメージ論』の「地図論」で古田さんの神武実在説を取り上げてる。


 古田さんの解明した古代史を知った今、他の諸説は私には無用になった。 継承発展させるにせよ、批判的媒介にするにせよ、古田説をスタート台にする べきだと思う。(勿論私はただ啓蒙されるばかりの一読者に過ぎない。)教科書 も古田説に従って大幅に書き換えられるべきだと思う。

 古代史のより正しい全体像を描くことは、迂遠なようだが、「天皇制」の 欺瞞・詐術を暴くことでもあり、最近の反動的な状況への大事な対峙の仕方の 一つでもあると、私は考えている。できるだけ多くの人が、古田さんの解明し た古代史を知るようになることを願わずにはいられない。
 シリーズ『「日本」とは何か』は発展的解消(挫折したといってもいいかな。) ということにして、次回から表題も改めて古田さんの古代史を紹介して いこうと思う。ただし、古代史の全体像を描くことに重点を置き、厳密で 専門的な論証部分ははぶく。いわゆる「定説」を多く知っている人ほど 「そんなの信じられない」というような事柄に多く出会うかもしれない。 そのときはぜひ古田さんの著書を直接お読みいただきたい。
 さしあたって次の著書を利用する。

『「邪馬台国」はなかった』
『日本列島の大王たち ― 古代は輝いていたⅡ』
『盗まれた神話 ― 記・紀の秘密』
        (いずれも朝日文庫版)

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346 〈東京「日の丸・君が代」強制反対裁判をすすめる会〉結成総会
参加報告(7)

太田堯さんの記念講演(3)
2005年7月30日(土)


 だって、機械というような物はですね、融通利かない物でしょ。自分で変われ ます?自分で変わることできますか?できないでしょ、機械は。だから、土星の 探査機と、皆さんがあまり好まないゴキブリと、どっちが複雑にできていると思 いますか?もう明らかにゴキブリですよね。(笑)ゴキブリの方が複雑な生命体 なんです。人間の科学技術をもってしても、まだ大腸菌一つ作ることはできない んですから…、利用はさせてもらっていますけどね、実験上。作るということは できないんですから、まだ。ついこの間、京都大学かどっかで、細胞のほんの作 りかけの、ちょっとしたもの兆しが見えたということを報告者が言っておられま したけど…。

 「いのち」というのは自ら変わるという恐るべき力を持っているんですよ。 生命科学ではこれを自己創出力、自らを創り出す力だというふうに言います。 この自己創出力というものがありますから、ぼくたちは0.1ミリの受精卵から出 発して、こんな身体になったわけです。そう…、60キログラムの体重の方は60兆の 細胞から成っているそうじゃないですか。そんなふうに分化するだけでなしに、 内臓向きだの心臓向きだの皮膚向きだのに分割するんですから、すごい自己創 出力じゃないですか。この自己創出力というものがなかったら、話をはしょるけ ど、

 人間の自己創出力というものを今お話をしましたが、すべての生き物がこうい う変わる力を持っているわけでしょ。人間はほかの動物と同じように変わる力を 持っているんだけど、その気になって変わるというね、独特の能力を持ってい るんですよ。精神界というものを持っていますからね、その気になって選んで変わ るという能力を持っているんですよ。これが実は人間成長というものの一番根本に あるエネルギーなんです。

 皆さん方、一人一人のお子さんがそれぞれ違っていて、不完全ではあっても、 それぞれ自ら変わる力を持って自己形成をやっているということを、注目しな くてはならないでしょう。これはまさに、何と言いますか、自己創造、自己を創り 出すというアートなんですよ。芸術なんですよ。「教育基本法」にも書いてあるでし ょう。「普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造を目指す教育を普及徹底しなければ ならない」とこうなっているんではないですか。普遍的にしてしかも個性的ね、そういう 個性的な文化を創造する、創造していくような教育の普及徹底を「教育基本法」 は望んでいるのですよ。普遍的でしかも個性的という文化の創造は、アートが典型的で しょ。いや実は人間の営みはすべてアートなんですよ。自己創造なんですよ。 学校の先生方が、その一人一人の子どもの持つ驚くべき36億年の生命の歴史を背負った 自己想像力というものを、それを横から支えるということじゃないですか。 つまり主役は子どもだけど、演出は先生、先生は演出家だ、アーチスト、人生の 自己創造を助けるアーチストなんだ。当然自由を本質的に保証されなければならない。 いやー、これは先生だけの良心が保障されるんじゃなくて、あらゆる人間の生命 がアートとして尊重されなければならない、自由でなければならないという 広がりを持っているのではないかというふうに私は思うのであります。
 そう、そろそろやめます。

(司会者のほうから、質問の時間をカットしてよければ、どうぞ続けてくだいとの 提案の声あり…拍手)

 もう力の方は尽きているんです。(笑)もうこのへんでやめた方がいいと、ぼくは 思うんですけどね。

 えー、あのー、そう…、例えば、小さい子どもたちがですね、二本足で立って歩 こうとする、そして、そばからおばあちゃんが手を貸してあげようなんて考えると、 「いいよ」ってはねつける場面があるじゃないですか。あの局面というのを、子ど もの自己創出力だと思い出してほしいんです。「よけいなことしないで、自分が歩 くんだ」とこういう二足直立歩行をその気になって実現するというのを、それをわ ざわざ手を貸して妨げているというような、そういう問題なんです。そういうような感じでもって、 子どもの育つそばで子どもを見守っていくという……。

 もちろん先生方は文化というものを伝えるという任務があります。これも長いこと 言わないと、文化を伝えるとはとか文化とは何かということが問題になるんですが ね……。
 文化といったて人間の創ったものですから、みな不完全なものなんです。だから 皆さんが教えられている教材・文化というものはすべて不完全なものであって、こ れからまだいっぱい問題を残しているものです。そういう未完の文化を分かち 合って、響きあっているんだという感覚で、演出家として、アーチスト、自己創 造を遂げている子どものアーチストとの響き合い、そういう雰囲気というものを 尊重するのが教室の中での人間関係でもあると、私は思うのです。

 「違う」と「自ら変わる」という生命の二つの点からだけで言いましても、 教育とは何か、学習の権利とは何か、というような問題、あるいは教師の仕事、 そんなものがでてくるようにぼくは思うのです。そんなことが今後私どもの運 動というものを広げるということに、広げようということにぼくは大賛成です よ、それには私どもはにちにちの生活の中に、この場合、たとえば「基本的人 権」というものを手がかりとして、ピープルとピープルとの連帯を固く創るこ とによって、国家の垣根をうーんと近く、低くして、ピープルとピープルとの 連帯の思想を高くするというところに、そこのところに我々が今やっ ている運動の意味というものが出てくるのではないかというふうに思うのであり ます。

 最後に、原告の先生たちの勇気に再びお礼を申し上げ、また敬意を表して、私の 話を終わりたいと思います。(大きな拍手)

345 〈東京「日の丸・君が代」強制反対裁判をすすめる会〉結成総会
参加報告(6)

太田堯さんの記念講演(2)
2005年7月29日(金)


 子供の場合だって同じですよ。親の沿うようになれなれと…。学校の先生 だってそうでしょ。(笑)自分の思うようなものに同一化させようと、そう いう野心がたいていの教師にはあると思うのでよ。(笑)ぼくも教師の一人 だったから良く分かる。僕がしゃべった通りの答案が返ってくると悪い点が つけられない。(笑)そういう経験があるから…。それでいて「良心の自由」 だ「日の丸君が代の強制反対」とやっているけど、教室の中では子どもを自 分と同化させようとしている。自分に同化しなければ不機嫌に扱う。(笑) そして秩序を保つためにいろんな禁止事項をつくる、という熱心な先生がい らっしゃる。真面目で熱心なひとほど、教師としてはこわい。(笑)

 違うんだという前提の上に立って、そこで付き合って、共通点を探していく というのが、これが人間らしい関わり方ではないかと思うのです。そういう関 わり方の中では、教師も間違ってはいかんというふうに心配する必要はないし、 子どもの方も自由な気持ちになるのと違いますか。つまり、違いを認めるという ことは、人間らしくお互いに違いを認め合うという「基本的人権」の尊重の仕方 というもの、それが本来の姿なのであるはずなのに、私どもはしょっちゅう憲 法違反をやっている。毎日のように「教育基本法」に反した、そういう付き合い 方をやっているということも考えていくと、私はやっぱり「基本的人権」など ということも、もっと私どもの身近な問題に登場してくるのではないかと思う。

 輪を広げようという場合にそういうことがネックになっている。つまり違いを 認めないことがネックになって、私どもは相当運動を狭めているということがあ るのではないかと、私は思うのです。(拍手)のびやかで違いを認め合って、安 心して暮らせるような社会というものを、教室の中でも、家庭の中でも、一般社 会でも、そのゆとりというものを広げていく……。違う、生命が違うという本質 に基づいたゆとりのある環境というものを創り出していくということの中で、 私どもの思いの輪が広がっていくというになるのではないかと思うので す。(拍手)

 違うという裏側にですね、違いを受け入れるためにはね、自分が完全だと思っ たら受け入れがたいでしょ。そうでしょ。自分が完全だと思うと人の言うことは みな受け入れにくいということになってしまう。だから、違いを受け入れるため には、自分が不完全であるということを認めることが大事でしょ。だいいち生命 個体というものは自己充足といいますか、一つの生命体だけで生きるわけにはい かないんですよ。不完全な存在なんです、ひとつひとつが。ひとつひとつの生命 体が違うと同時にどっか欠けたところがあって、補い合って生きられるという関 係になっているんではないかと思うのです。

 ところがこの違うということと並んで、不完全性を受け入れることがとても 難しいことなんです。
 そうですね…、1946年1月1日、ご存知ですか、どういう日か。1946年1月1日は 天皇が自分は神ではない人間であるということを布告した日…それまでは天皇は 神様で絶対者だったんでしょ、そうでしょ、絶対者だったんです。その絶対者の 言葉である「教育勅語」を基にこの国の教育が行われていたということは現実な んです。その天皇が自分は人間であるとおしゃったのだから、日本列島の人間は 全部不完全者だらけになった。(笑)そうでしょう。絶対者がいなくなったんだ から。不完全者だらけになったのなら、知恵を集めて、違いを越えて、いろいろ 協議して、社会を創らなくっちゃいけない。
 民主主義というのは違いと不完全性を前提にしている。違うことと不 完全であるという自己認識を前提にして、日本の民主主義なり世界の民主主義、 それが成立しているのだというふうに私は思うのです。

 ところがこの完全性がなかなか抜けない。ついつい完全だという意識があるん ですよ。子どもから質問があると、答えられないと沽券に関わると思うし、完全 性を装うとするからでしょう、余計な苦労をするわけですよ。初めから不完全な のだというふうに思い込んで、それだは君はどう思うんだ、一緒に考えようと、 こういうふうに持っていった方が教室の授業はウンと優しい雰囲気になりますと。 そういう中で子どもを大事にしていくのが、教師の人間性も大事にされてるという ことになるんじゃないですか。そこのところに根っこを下ろした「良心の自由」の主張で あったり、そこに根を下ろした「教育基本法改正」反対であったり、「憲法改正」 反対であったりするということは、私にはどうしても必要なことだと思い、考える のですが、僕の方が間違っていますかね。一緒に考えたいというように思う ……これ時間ないですね(笑)

 三つばかりヒントを申し上げようと思っていたのですが、もう時間が、一つだけ でなくなってしまいました。でも、ヒントを差し上げるつもりだったんだから、 あとはヒントだから早期にしなくてもよいのでは…4時になりますよね。それくら いでやめておきましょうか。でもね、民主主義と基本的人権というものについての ごくあらっぽい一点は申し上げたんです。ほんとはね、「いのち」というのは 自ら変わるというやっかいなものなのだということをお話しするべきだった んです。これをもっと延々とやるべきだと思っていたんですよ。

344 〈東京「日の丸・君が代」強制反対裁判をすすめる会〉結成総会
参加報告(5)

太田堯さんの記念講演(1)
2005年7月28日(木)


 太田さんの講演の冒頭部分の要約を前回紹介した。磊落な話し振りでユーモアもあり、 心地よい笑いを誘ってくれる。演題は「教育とは何か」だが、私は「基本的人 権とはなにか」または「輪を広げるための基本理念」という副題をつけたい。
前回紹介した部分の続きから、できるだけ詳しく再現してみよう。


演題「教育とは何か」

 私は「どうなるか」という観点よりも「どうするか」という観点から問題提起をして みたいと思います。

 わが国の国というもの、その垣根が大変高い。僕らの前に聳え立っている。国語の先 生と、さきほどご自分でおしゃった先生がいらしゃいましたが、「国語」という言葉が 教科の中にちゃんと名前としてあるということも不思議じゃありませんか。「日本語」 でしょ。「イングリッシュ」であったり「フレンチ」であったりするのに、どこの教育課 程をみても、日本だけは「国語」で通っているのですから……。国の言葉ですか。私は 国に国家に属している言葉ではないと思います。「国語」という言葉が戦前から戦後まで カリキュラムの中にズーット定着していても気がつかないという状態は、私どもがいろい ろなところで感じることがある、その一つに過ぎないとおもいます。

 たとえば、昭和天皇。50年在位、60年在位にあたって、国を挙げては言いませんが、政府 を中心に盛大なさわぎが行われたことはご承知でありましょう。ですけど在位50年、在位60年 と言いますけれど初めの20年は神様じゃないですか。後の30年、40年ということになれば これは人間になられたことになっているんですから、神から人間に一夜にしてなったわけですから ……。
 満州国皇帝の溥儀はどうなりましたか。ソビエットに連れ去られて、そしてやがて、旅順でしたかね、 戦犯の刑務所に10年間いて、そこで一市民としての生活習慣を身につけて、開放され、釈放されて 一市民として生きていく。そしてこの世を去ったわけです。
 私どもの天皇は一夜にして神から人間になられたということの中にも、私どもは どんなに大きな課題をもっているかということを思い知らされるように私は思うのですが、如何でありましょうか。

 そういう観点から言うと、私どもは、どうしたらこの運動を広げられるか、私ども、 人々――ピープルの間に広い大きな輪を創っていくにはどうしたらよいか、そういうこと を真剣に議論すべきチャンスにしたいものというふうに思うのです。
 人々――ピープルとピープルとの連帯というものを生み出していくにはどうするかという、その手がかりになるのは何か といったら、私はこれはやっぱり「基本的人権」というのが手がかりになるとい うふうに思うのであります。

 「基本的人権」というものがわが国の憲法のカギとなる概念であることは、縷々 申し上げる必要はないわけです。しかし同時にこの「基本的人権」「個人の尊 厳」「良心の自由」というものは、国連憲章の中の基本精神でもあるわけですし、 「こどもの権利条約」の中の基本精神でもあるわけだし、「憲法」「教育基 本法」というものの核心にある精神でもありませんか。そうだとすれば、我々は 「基本的人権」というものを手がかりとしてピープルとピープルとの連帯を創造 するというところに、私どもの「日常感覚」「日常生活」「日常の集会」、そうい うものの中にそれを生かすということが必要なのではないかと思います。
 さきほど槙枝さんは知らぬ間に代表になっていたとおっしゃいましたが、(笑い) 「良心の自由」を問題にするこのグループで、知らぬ間に代表にされている ということが平気で通っていて、なんでもないという、たいへん進歩的な皆 さんが、…(槙枝さんの方を向いて)お認めにならない方がいいですよ。(爆笑) ごめんなさい。(向き直って)
 そういうふうに「良心の自由」とか「基本的人権」というものは、一体手 がかりというふうに考えるけれども、どういうことなのかということを、いま 私どもは考えないと、「どうするか」ということは考えつかないじゃないですか。

 「基本的人権」を辞書で調べると「生まれながらにして有する権利」と書い てある。いいことには違いないと思うけど、一体なんだろうということになる と、なかなか意味不分明というのが事実ではないかと思うのであります。
 そこで私はズーッと考え続けているのです。「生まれながらにして有する 権利」。いろいろ考えてきて、これは必ず、「生まれながらにして」だから 「いのち」と関係がある、こう思ったんで す。「いのち」の特徴というものと必ず関係があるに違いないと思った。
 法律では「基本的人権」はいろいろと難しい本がいっぱいあるんでしょうが、 ぼくは法律やそういうのは嫌いな方ですから存じ上げませんが、「いのち」から 「基本的人権」を考えてみようという努力を少しやってきたつもりなのです。

 では、「いのち」の特徴というのはどういうところにあるかというと、それは 実はまず第一の特徴、「いのち」と「いのち」の連帯を考えるのですから、その 「いのち」というものの特徴を考えなくてはならない。その特徴の第一はどうい うことかというと、「違う」ということです。生命個体はみな違う。一木一草み な違う。同じ草がありますか。同じ桜の木がありますか。一匹のブタだって、同じ ブタ、まったく同じブタがあるはずがありません。人間も勿論一人一人違っている。 我々一人一人が違っているというのは、あらゆる生命が持っている基本的な特徴 をぼくらが背負っているということではないかと思うのです。

 その「違う」というのが、なんで違うかっていうのが、これまた難しい問題だと 思うのです。それは「いのち」を創った方に聞かないとね、その理由は分からない ように思えるのですが…、推察はできると思う。それはおそらく「いのち」が多 様であるということはですね、もし同じだったらというところから考えたらいいと 思う。もし同じだったら天候の変化による異変で、サルであろうが人間であろうが、 あらゆり生命が天候の変化によっていっぺんにやられてしまう。伝染病でやられる ということも起こる。違っていますとね、生き残るのがいるんですと、かならず。 みんなここにいるのは生き残りなんですよ。(笑い)私は第2次世界大戦の生き残り 、36時間海で泳ぎました。また皆さんは交通戦争などさまざまな戦い、戦いと 言うのはあまりよくないかな、いろいろな苦労の中から生き残っていらっしゃる。 残りものというとちょっと具合が悪いけど(笑い)、しかし残ることによって種が 支えられるということになるのと違いますか。我々が生き残ってあることによって 種を支えているのじゃないですか。どこかの人間、人類というものの、どこかの 出番というものを、私たちは可能態として持っているのではないかと思います。

 そういうところに着目したときに、人間はどんな状態にあってもかけがえのない 値打ちを持っているんだというようなことを考えるようになった。特に市民革命 以後はそこから「基本的人権」という言葉を生み出したのではないだろうかと、 私は思うのです。つまりそれほど「違う」ということは重大な意味を持っている。 私ども自身のいわば種を支えているかけがえのない「いのち」としての「違う」 ということの中において語られている、こういうふうに考えてよいのではないか と、僕の推定といいますか、そういうことになるわけですね。
 ですから、さっきから輪を広げるとか何とかいう話がありましたが、それは、 みな違っていてその違いを前提にしてピープルとピープルが連帯するということ ではないですか。「違っている」という点が大事です。違っているにもかかわら ず、違いを前提にして結びつかなくてはならない。ところが、これが簡単じゃない のですよ。

 たとえば夫婦というもの、これはDNAから違いますから…(笑い)遺伝子を乗 せたDNAから違う構成で、それからどこで生まれるかという環境がも違いますよ。 だって豊かな家に生まれたいと思ったって、そうはいかないのですから、みんなしか るべきところに生みつけられるということになっている。その後がまた大変なんです。 キャリアが違うのですよ。だから夫婦といっても大きな溝が、夫と妻の間にはある はずであります。断崖絶壁ですよ。(笑)
 だけどそれがつながっているというということになると、明らかに違いを越えて つながっていくことになるんじゃないですか。だったら違いを認め合うということが 必要になりますね、当然。違いを受け入れあったからこそ夫婦が成り立ったんだという ふうに僕は思うんですよ。
 ところがです、僕の女房ともそうでしたけど、もう亡くなりましたけど、そう、意見が たまたま合ったときに、ああ私ども違っているのによくぞあったわね、というような 会話を交わしたことはありません。(笑)そうじゃなくて、自分の思うとおりに相手が 思わないとお互いに機嫌が悪い。(笑)毎日のように繰り返していたのではないかと 反省するわけです。(笑)

 違うんですから、違うということを前提にするということの付き合いだということで 、もうあきらめて思い込まないではね、いい関係はできませんよ。違うというところに 諦めをつけるところに、いい関係ができるんです。

343 〈東京「日の丸・君が代」強制反対裁判をすすめる会〉結成総会
参加報告(4)

教員にとって耳の痛い話
2005年7月27日(水)


 被支配者の側に軸足を置いている人たちの教育や教員への期待には、たぶん大多数 の教員たちには耳の痛いことが多い。

 挨拶に立たれた澤藤さんは、今回の訴訟の争点は教育が「国家有為の人材を育 てること」なのか、あるいは「個の育成」なのかという点だという。
 ほとんどの学校の教育目標や教育方針がまず「国家有為の人材を育てること」 を掲げていることを澤藤さんはご存じないのかもしれない。そして教員のほうは そのことにほとんど違和を感じていないのではないだろうか。どのような目標が 掲げられていようと「あっしには関わりのないことで」と気にもしていないか、 あるいは「国家有為の人材を育てる」という目標は当たり前ととらえているかだろう か。つまり大多数の教員の内部ではそれは争点になりようがないというのが実情だ。
 「国家」と「個」が裁判の争点となっているのなら、これはやり過ごしておくわけに はいかない問題だろう。
 大多数の教員は「国家有為の人材を育てる」ことが第一の目的である場で無自覚に 教員をやっている。だから「単位不認定」や「原級留置」(落第)などに疑問を感 じることはない。それらが「国家有為の人材を育てる」ことを目的としているため に必要とするシステムだなどと考える教員はいったいどのくらいいるだろうか。「個 の育成」が教育の第一の目的ならば、みんないろいろな違いをもって育っていく「個」 に対して「単位不認定」や「原級留置」(落第)の烙印はいったい何なのだ。それは 「個」の否定じゃないのか。
 かなり粗雑な議論であることを承知の上であえて挑発してみた。こういう問題も含 めて、自らの教育観を洗いなおす必要があると思うのだ。

 尾山さんはこの度の一連の問題を、「良心の自由とは何か」を考えるよいチャンス を与えられたというようにポジティブに受け止めようという。ご自身も今までは 「良心の自由」ということを突き詰めて考えたことがない、改めて考えはじめている と述べた。
 また、今回の訴訟では「国民のコンセンサス」を求めているのではない、意識 改革が課題だという。そして他者に意識改革を求める前に自己改革をしなければ ならないという。私は特に教員に語りかけているように聞いた。まず教員自身が自己 変革せよと。自らの教育観を洗いなおすことと別のことではないと、私は思う。
 教員は多くの場で生徒の「自由」を抑圧しているのではないか。そうしておいて自分 の「自由」は護りたいという。大変な欺瞞じゃないか。これもかなり粗雑な議論である ことを承知の上での挑発だ。

 最後に太田堯さんの記念講演があった。その冒頭で太田さんは、なぜ10・23通達 のようなものがでてくるのか、日本の民主主義が未熟だからだ、と喝破した。そして ともすると顔を出してくる自らの中の「臣民意識・臣民根性」が問題だという。 たとえば「日本はどうなるんでしょう」というような問はお上まかせの 「臣民根性」「臣民の感性」のなせる結果であり、「日本をどうしようか」とこそ問 うべきだという。私がいう「わが内なる保守反動」と別のことではないと思う。
 太田さんの講演にも、やはり教員にとって耳の痛い指摘がたくさんある。

342 〈東京「日の丸・君が代」強制反対裁判をすすめる会〉結成総会
参加報告(3)

「君が代」について(3)
2005年7月26日(火)


 さて、「君が代」について予防訴訟の会の加山さんが挨拶の中で次のような 指摘をしていた。
 君が代の元歌は「わが君は…」であり、この場合の「君」は「遊女」という 意味で、「いはほとなりて」の「いわほと」は男性器と女性器のことだという のだ、と。
 つまり遊郭で歌われていた「戯れ歌」ということだろうか。古今集では「巌」 はたしかに「いわほ」と仮名書きになっていて音の上ではそのように読めなくは ない。また大山巌が日ごろから愛唱していたいうのとも結びつくかもしれない。 大山が愛唱していた薩摩歌が上記の古今集の歌のままなのか、「わが君は」を 「君が代」と書き換えたものなのか詳らかではない。大山巌が書き換えたとも 考えられるがどうだろうか。またその「薩摩歌」はどんなときにどんな意味合 いで歌われていたのだろうか。江戸の町民文化である「端唄・小唄・都々逸」の ようなものだろうか。「日ごろから愛唱していた」というのだから儀式歌では ないだろう。
 ともあれ、初めて聞く解釈でおもしろくはあるが、私にはこの説を信じること はできない。今のところ単なる語呂合わせとしか考えられない。いつ頃からどこで そのような意味合いで歌われ継がれていたのか、何か実証的・客観的な考察があ るのなら聞きたいものだ。

 大山巌についてエピソードを一つ。
 彼の本来の名は岩次郎。それを「君が代」の中の「巌」をとって改名したと いうことだ。「君が代」ではなく「わが代」という気分だったのだろうか。さ ざれ「岩次郎」が「巌」になったとはなんとも人を食ったような話だが、なる ほど「岩次郎」よりはずーんと強そうになった。しかし、この明治の元勲、「不 敬」を働いていることに気付いてないよ。死刑なのだ!

 さてついでにもう一つ書き留めておきたいことがある。
 「anti-hkm」MLの7月18日配信記事中の「都教委包囲首都圏ネットワーク」 の渡部(千葉高教組)さんからのものだ。7月18日、日教組定期大会に向けて 「7・29都教委包囲デモ」のビラの裏面に、「『闘う日教組の伝統』をよみがえ らせ、大胆に行動を!」という文章をつけたビラを撒こうとしたが、機動隊に 排除されたというのだ。これは日教組の要請によるという。これの詳しい経緯 を被処分者の会の近藤さんが書いている。現在の日教組執行部のていたらくぶり を如実に示している。(この部分は「メールの輪」に掲載しますので、まだ の方、ぜひ読んでみてください。)

 ここで取り上げたいのは近藤さんの報告の後に渡部さんが書いているコメントの 中の次の一節だ。

 戦争教育を進めようとしている政府・文科省との「パートナーシップ路線」 をいまなお改めようとしない日教組中央は、このまま行けば「平和」の名の下 に、「日の丸・君が代」を容認し、戦争へも協力していく事になるでしょう。 (事実森越委員長は、『論座』6月号で、右翼「一水会」の鈴木邦男氏と対談 し、「『君が代』というのは、非常に平和な内容の歌ですよ。」などと言って います)
 この中の( )内に書かれたことが目下のテーマと重なる。

 いま鈴木邦男・森達也・斉藤貴男の三氏による鼎談をまとめた「言論統制列 島」(講談社)という本を、批判的な感想も多々あるが、面白く読んでいる。 文部省が学習指導要領に「日の丸・君が代」の強制を盛り込んだとき、朝日新 聞で「識者」の意見を聞くコラムを連載した。そのときはっきりと簡潔に「強 制はいけない」といったのは、私の記憶では、鈴木さん一人だった。なかなか 面白い人なのだ。いまは過激右翼からも指弾されているらしい。

 さて、森越氏や鈴木氏が「『君が代』というのは、非常に平和な内容の歌です よ。」と意気投合しているのは、それこそ思想・信条・表現の自由、なんら問題 はない。問題は森越氏のような志においても問題意識においても底が浅く、視野 狭窄にかかった人物を日教組委員長にしてしまう組合員の方にある。個々の組合 員の中には質の高い人が相当数いることは容易に予想できるが、総和としては森越 が体現しているものが今の日教組の体質だとしか言いようがない。そしては森越氏 にたいしての批判は、「『君が代』というのは、非常に平和な内容の歌ですよ。」 というような通俗的浅薄な判断をしてしまう思想の底の浅さ、視野狭窄の基に対し てだろう。

 6月の末から7月にかけて皇后・天皇(いま教科書採択の時期だ。教科書の記載 事項の関係項目から男女の順か女男の順になっているかを数えて、採択の一つの 資料にしようとしているバカな教育委員会が少なからずあるという。男女の順に 逆らってみた。)が玉砕の島・サイパンへ慰霊の旅とかにでかけた。
 7月2日に皇后・天皇が敬老センターを訪れたとき、そのセンターの約百人が 「海ゆかば」を歌ったという報道があった。新聞の論調はどちらかというと日本 はサイパンでは感謝されていることを暗示するような書き方だった。
 馬鹿をいっちゃいけない。天皇の名の下におびただしい数の島民が死に追いや られているのだ。身寄りをなくして敬老センターに身を寄せている老人たちの多 くは戦争で親族を失った人たちだろう。その人たちの心情がそんなに単純であろ うはずがない。「海ゆかば」を歌うなどと、いったい誰が仕掛けたのか。そいつ は想像力のひとかけらもない典型的な木偶の坊官僚だ。自然に歌いだした?なら ばなおさら、私にはそのお年寄りたちの心根をとても痛々しく思う。そして、 にこやかにかあるいはいくらかは後ろめたくかあるいは当然のこと反り返ってか は知らないが、そこに立っている皇后・天皇の姿は限りなくグロテスクだ。

 「海ゆかば」はいわば第2国歌なのだ。(「第256回」参照。そこで詳しく論じ た。)多くの若者を死に追いやる道具の一つだった。「君が代」と「海ゆかば」 とは同じメタルの裏と表だ。「君が代」の歌詞の裏側には「ためらわずに天皇 のために死のう」という「海ゆかば」の奴隷の思想がピッタリと張り付いてい る。
 なにが平和な歌だ。

341 〈東京「日の丸・君が代」強制反対裁判をすすめる会〉結成総会
参加報告(2)

「君が代」について(2)
2005年7月25日(月)


 当日、「君が代」についての発言がもう一つあった。それに関連したことを 書こう。と、まずはじめに「君が代」の歌詞の由来を書こうと思ったが、むかし 書いた文を思い出した。「第12回」(2004年8月24日)で、10年ほど前に担任をして いたクラスのホームルームで試みた「君が代日の丸」についてのアンケートの 回答を紹介した。そのとき、アンケートの結果と一緒に生徒に配った文書だ。 このホームページですでに利用した部分もあるが、「第12回」の続きという こともかねて全文掲載することにした。つたない内容だが、何かの参考に資する かもしれない。また、今回の集会での発言者の発言内容と重なる部分が何点かあ るので、この「集会報告」とも無関係ではない。


アンケートの回答を読んで  (1995/1/18 仁平)

 自分の考えってなんだろう。今自分がもっている考えはほんとに自分の考えな のだろうか。20才前後の頃だったと思う。こんな思いにとらわれ始めた。「時代 の支配的思想は支配者の思想である。」おれが自分の考えだと思っているのは、 実は生まれてからこの方、親兄弟・学校・マスコミ等を通して身に付けさせられ てきた「時代の支配的思想」にすぎないのではないか。これからは自分の考えを 一つ一つ疑って検討し直しながら、「身に付けさせられたもの」を引き剥がして いかなければいけない。その結果残っていくものが本来のおれなのだ。本当の勉 強というものがあるとすれば、その作業がおれにとっての本当の勉強だ。そんな ふうに考えていったと思う。

 さて、アンケートの回答を読んでの第一の感想は、「すき・きらい」といった感 覚的感情的なレベルのものが多いなということだった。感覚的感情的に捉えるの が最もよい対象・問題もあるが、日の丸・君が代のような観念的・政治的問題で は、それは思考の停止に外ならない。「すき・きらい」の根拠を問い、考えを進 め深めていく必要がある。日の丸・君が代についての自分の考えは「身に付けさ せられたもの」なのではないかと、一度は疑って検討し直してみるべき問題だと 思う。そのための第一歩は由来や歴史を知ることであろう。
 考えを進める手掛かりとして、この数年間に私が調べたり考えたりして書いて きたことをまとめ直しながら紹介しよう。もし興味があったら更に詳しく調べ、 考えるといい。私とはまったく反対の立場からの主張も調べ、比較し、考えを深 められれば更によい。また、友人と議論をするのも考えを深める上で効果がある。


「君が代」について
 一般に「君が代」の歌詞は古今和歌集からとられたと言われているが、これは 正確ではない。古今集からとられたとするなら、それを改ざんしたものというの が正しい。古今集では

わがきみは千世にやちよにさゞれいしのいはほとなりてこけのむすまで

とある。このときの「きみ」はよく言われるように「天皇をさすとは限らない。」 (一時期、君が代を強行しようとする校長らがよくこの詭弁を使った。今ではそ のような連中が「天皇で何が悪い」とうそぶけるような状況になってしまった。 )のではなく、「天皇であるはずがなく、恋人や夫以外ではあり得ない」と、私 は考えている。明らかに民衆の間に流布していた「題しらず」「読人しらず」の 「賀の歌」である。しかし「わがきみ」を「君が代」に替えると、これはもう天 皇の治世が永遠に続くことを願う歌以外のなにものでもありえない。「君が代」 という言葉は一つの熟語であり、意味は「天皇の治世」である。「君」と「代」 を分けて解釈するのはこじつけというものだ。
 参考に「教育反動-その歴史と思想-」(日高六郎・大江志乃夫監修/日教組 ・国民文化会議共編/一ッ橋書房刊)から「君が代」の由来について書かれた部 分を引用する。

 『「君が代」は国歌として制定されたものではない。もともと、明治のはじめ に日本に軍楽隊をつくろうとしたとき、軍楽隊を指導していたイギリス人フェン トンの示唆によって、大山巌がひごろ愛唱していた薩摩歌の一節を歌詞としてし めし、フェントンに作曲させた軍歌であった。しかし、フェントンの曲は日本人 になじまず、1876年(明9)11月3日の天長節を最後に演奏が中止された。その後 、80年になって、海軍省から宮内省式部寮に、軍楽にふさわしい作曲をしてほし いとの依頼があって、現在の林広守作曲のものができ、同年の天長節に演奏され たのである。したがって、「君が代」は国歌ではなく、正式には軍楽である。 1893年(明26)になって、文部省告示によって小学校儀式唱歌用としてこの「君 が代」が採用されたが、そのばあいも国歌ではなく、「古歌、林広守作曲」とし て採用されたにすぎなかった。』

「日の丸」について
 日の丸の原型は薩摩藩の船に掲げられていた旗印であると言われているが、そ れがどのようにして国旗としての役割をもつようになったのか、その由来を前提 書から引用する。

 『日の丸の国旗制定は70年(明3)のことであったが、紀元節が制定された同じ 年の73年(明6)に、国旗の掲揚は、「元始祭・新年宴会・孝明天皇祭・紀元節・ 神武天皇祭・神嘗祭・新嘗祭」、つまり天皇家の祝祭日にかぎって許可され、そ のほかの掲揚は禁じられた。国旗としての日の丸は、天皇家の独占物として、天 皇家に直接結びついた行事だけに掲げることが許可されたのであった。76年(明9) の天皇の東北巡幸にあたって、「門には日の丸旗を立て、これ巡幸え」と歌がつ くられたのは、この天皇家の独占物であった国旗日の丸とともに天皇を民衆に売 りこんでいった過程をしめしている。外航商船の国旗掲揚の布告は77年(明10) のことであった。』

 明治維新以来近代国家の為政者らは、民衆に対して、国家を家族になぞらえて 説明していたようである。(今でもそういう国家論を吹聴する者が絶えない。) この俗流国家論では天皇は父親で、国民はその赤子だから、天皇家の旗が即国旗 でもおかしくなかった。


学校の「儀式」について
 わたくしが北園高校に来た頃、入学式・卒業式ばかりか、始業式・終業式まで 初めと終わりに「一同、礼」と言う号令がかかっていた。とても奇異に思ったし、 我慢ならなかった。次のような文章を書いて配った。

 フランスやソ連やアメリカの学校では始業式はなく、ただちにその日から授業 が始まる。そして年度の始業の日は「いろとりどりの個性が開花へ向かう営みの 始まり」(日本ではほとんどの学校が教育目標の第一に「国家社会に有用な人物 の育成」といった類いのものをあげている。「いろとりどりの個性が開花へ向か う営み」が教育だなんていいね。)にふさわしい行事、「知や情を刺激し」これ からの学校生活への期待と希望をふくらませるような行事が工夫されているとい う。
 それにひきかえ、半世紀ほど前のわが国民学校の教育は次のように始まった。

 「入学して私達一年生が最初に教えられたことは・・・敬礼だった。最敬礼 だった。まず門をくぐったら、まっさきに奉安殿にむかって最敬礼することだっ た。そして次に、日の丸に対して、直立不動の姿勢をとってから、赤心こめて敬 礼することであった。」(山中恒「ボクラ少国民」より)

 国民錬成が入学と同時に始まるのだ。国家の忠実な一員、忠良なる臣民になる ための心身の修養の開始なのだった。

 こんなつまらぬ人権抑圧的儀式の形はいつごろできたのだろうか。

 学校教育での儀式ははじめは天皇家の祝祭日だけであった。始業式や入学式は、 もともとは式ではなく、単なる授業はじめであり学校開きであった。卒業式もた だの卒業証書授与であった。天皇制国家の下、臣民教育を秩序だてるために新し い「礼法」「礼式」が必要と、その形をつくり始めたのは森有礼である。 1889年に、「生徒児童の徳を強化」する目的で礼式のための「訓令案」をつく る。礼の仕方まで事細かに規定している。これがそのまま学校生徒礼式として 採用される。いま広く無自覚に継承されいる卒業式の式次第や恭しく証書を受け 取る形式は、日清戦争以後1894・5年頃に確立し、祝祭日の儀式と並び最大の式 となる。あとは次々に入学式、始業式、終業式、創立記念式とやたらと儀式がふ えていく。明治の終り頃には学校教育の中の儀式が完全に定着する。

 学校行事の式次第や礼の仕方、はては参列者の並び方までを行政権力がこと細 かに決めるなど、古今東西例があるまい。全国一律に同じやり方で天皇を崇める 儀式の統一は、これはもはや宗教である。児童文学者の中山恒さんは君が代・日 の丸の強制に象徴される動きに対して「天皇教の復活が狙われている」といいき っている。

 ところで、今(この文章を初めて書いた頃)のわれわれ卒業式・入学式はどう か。「一同、礼」で始まり、「一同、礼」で終る。首尾一貫して、ただただ緊張 ばかりを強いる。新入生や卒業生が主人公とはたてまえばかりで、儀式を支えて いる心性は半世紀前のままではないか。あと日の丸・君が代があればもうほとん ど半世紀前と変わりない。

 敗戦前の学校では教育勅語・君が代・日の丸は不可分の3点セットであった。 教育勅語が昔のまま復活することはないとしても、その思想はとうに息を吹き返 して、教育基本法に敵対し、さまざまな機会をとらえ、さまざまなところでその 勢力の拡張浸透を謀っている。文部省が指導要領に君が代・日の丸の義務化を強 引に盛り込んだ(反対の委員もいたと聞く。)のもその政治的プログラムの一環 であることはもう明白である。教育勅語的国家觀・教育観を視野に入れなくては 「君が代・日の丸の強制」の真の目論みは見えてこない。

 「一同、礼」が何に対しての礼かはもう明白だろう。慣習だからなどと、ノウ テンキなことではだめなのです。いつか、元の意味がかならず付与される。

 自民党政府の意図を先行試行してきた県、組合が骨抜きにされた「教育正常 化県」(反対の立場からは「管理主義教育県」という。)下の学校、特に小学校 はもうほとんど戦中の国民学校と同じだという。ポールには一日中日の丸がひる がえり、児童生徒は日常的に日の丸への敬礼を強要される。あるいは昼休みの終 わりに君が代のメロディを流がし、どこで何をしていようも直立不動の姿勢をと らせる、というように。

「君が代・日の丸」が過去に国際社会で果たした役割について
 今年に入ってからほとんど毎日、新聞に「戦後五十年」という文字が目につ く。たとえば今日(7日)の朝日新聞朝刊に「戦後五十年・第4部」と言う特 集がある。その大見出しは「アジアに侵略のわだかまり」であり、その見出し の添え書きは「中国も韓国も日本を友人とは考えていない。日本に対する態度 は厳しい。」である。

 上記の見出しだけで私は、アジアの人々にとって「君が代・日の丸」がどの ようにみえるのかがすべて解るような気がする。「君が代・日の丸」はアジア の人々にとっては領土を侵し、人民を虐殺しながら進軍する大日本帝国軍隊の 象徴である。「日の丸」を「血の丸」と呼ぶ人もいる。勿論日本人の中にも思 いを同じくする人がたくさんいる。その人たちにとって日の丸がシンプルでき れいなはずがない。「あれは侵略戦争ではなかった。」というような発言が最 近段々と声高になってきているが、困ったものだ。過去の誤りをはっきりと誤 りと認めるところから、未来への道は開ける。過去をうそで固めて隠蔽したま までは未来を誤る。

 ところで、例えば感覚的には私にとって日清・日露戦争は遠い昔の出来事で ある。昭和の15年戦争はもう50年も前のことだから、もしかすると君たちにと っては、私にとっての日清・日露戦争と同じ位遠い昔の出来事で「関係ない」 ことなのかも知れない。しかし昭和の15年戦争の戦後処理はまだ終わっていな い。だからこそ「戦後50年」が問題になっている。君が代・日の丸の問題を考 えるとき、アジアの人々にとってそれは日本のアジア諸国への侵略の象徴であ ったことを忘れてはならないだろう。戦争の歴史(日清・日露戦争なども含め て)をとらえ直す必要があるし、それが残した負の遺産からも目を逸らしては いけない。

「国家」について
 私は最近よく、卒業式や入学式での君が代・日の丸の強制に反対する人に「君 が代・日の丸ではない国歌・国旗ならいいんですか。」と問いかける。この問は たぶん、「国家とは何か」と言う問と同義ある。

 アンケートの回答に「日の丸は好きだけど、卒業式にはないほうがよい」と言 うような主旨のものがかなりあった。君たちにとっての日の丸は、たとえばオリ ンピックなどから受ける感動と強く結びついて、その限りでは好ましいもののよ うだ。しかし一方で、卒業式などに現れる日の丸はなんとなくうさんくさいぞ、 と言う感覚もあるのだろう。この二つに裂かれた感情・感覚の根拠を掘り下げて いくと、たぶん「国家の本質」に突き当たる。

 道路を造ったり橋を架けたり学校を建てたりなど公共の事業を遂行したり、国 民の財産・生命の安全を図ったり、福祉を増進したり、などなどの社会・経済的 な役割を果たす国家を社会的国家と呼ぶ。相互扶助を旨とする村落共同体が発展 してきたものとしての国家。これに対して国民を支配し疎外する国家、君が代・ 日の丸の強制のように心の中まで支配しようとする国家(元号の強制で時間まで 支配しようとする)を政治的国家と呼ぶ。「宗教が法となり、法が国家となる」 と言うように発展してきた共同幻想としての国家である。この二つの国家が錯綜 して一体となったものを普通国家と呼んでいる。この二つの国家は分かちがたく錯 綜しているので国家に関かわる議論もいろいろと錯綜することになる。

 日の丸をめぐっての二つに裂かれた感情・感覚は、国歌・国旗がこの二つの国家 の象徴として使い分けられていることによる。政治的国家の象徴としての役割を 担うときの国歌・国旗は君が代・日の丸であろうとなかろうとうさんくさい。

 現実として国家の成員には利害を異にする諸階層があり、その諸階層は社会的 国家のイニシアチブをとるための権力抗争をしている。社会的国家が行なう事業 は政権を担当する政党が代表する階層の利害を優先するから、政権政党よってず いぶん変わる。そしてどの政権政党もその抗争に勝ち続けるためには政治的国家 の機能を最大限に利用し、すべての階層を支配しようとする。だからどの政党の 下でも政治的国家の本質はかわらない。労働者の国家を標榜する国家が政治的国 家としてどんなひどい国家になっていったか、その無残な姿をつい最近われわれ は目の当たりにしたばかりである。

 どの国家も教育(学校)を政治的国家の最も有効で忠実な布教者として利用し ようとする。教育は政治的国家からは常に相対的に独立していなければいけない のだ。学校は常に政治的国家に対する批判力・抵抗力の拠点となるべきであると 言ったら、いささか大仰すぎるだろうか。とまれ「君が代・日の丸ではない国歌 ・国旗」だって、政治的国家を象徴する限り駄目なんですよ。これが私の結論だ。

未来に向かって
 職員会議の決定を無視してまで日の丸掲揚を強行した校長の言い分は(文部省 や教育委員会の言い分を口移ししているだけなのだが)おおよそ次のような主旨 だった。「これからの国際化社会に向かって、他国の国歌・国旗を敬うように生 徒を教育しなければならない。他国の国歌・国旗を敬うようになるためにはまず 自分の国のそれを敬うことが必要だ。」

 文部省の本当の意図は別にあり、上述のような理由付けはもともとたてまえ論 で大した意味があるわけはない。しかしそれにしても「国際化」ということを随 分と矮小化したものだ。上述のようなことは政治的国家間の儀礼の問題でしかな い。今更うんぬんする問題でもないし、教育の問題でもない。

 真の国際化とは国家の枠を越えて、民間レベルでの交流・交歓を広く深く押し 進めることである。それが真の平和と友好を産み育てる。そのとき必要なのは国 旗・国歌の尊重ではなく、他国の歴史・文化の深い理解と尊重である。国旗・国 歌を殊更に重視する姿勢は容易にウルトラナショナリズムに傾斜する。(そうい えば君が代・日の丸は右翼のトレードマークでもある。)日本やドイツのウルト ラナショナリズムは隣国や他民族を蔑視し、抑圧し、虐殺し、その文化を蹂躙し てきた。自国民に対しても、意見を異にするものを非国民よばわりし、容赦なく 弾圧・虐殺する。同じ轍を踏んではならない。

 国家の枠と意図を越えて、民間レベルでの国際化はもうとうに深く広く進んで いる。さまざまな地域でのさまざまな種類のボランティア活動、音楽・芸術・芸 能を通しての闊達な交流・交歓、インターネットに代表される情報流通の広範で 自由な往来などなど。これらの活動が友好を産み、信頼関係を築き、相互理解を 深め、平和の礎となる。国歌・国旗など全く必要としない。ナショナリズムを鼓 舞する方向はいつか来た道である。政治的国家を止揚する道筋こそ未来を開く。

340 〈東京「日の丸・君が代」強制反対裁判をすすめる会〉結成総会
参加報告(1)
「君が代」について(1)
2005年7月24日(日)


 昨日『〈東京「日の丸・君が代」強制反対裁判をすすめる会〉結成総会』 に参加した。帰りの地下鉄が四谷に停車中に震度5の地震にあった。安全点検のため 地下鉄は3時間運行停止。それにつけても我が家の遠さよ、でした。

 ところで、毎日楽しみにしていた「澤藤統一郎の事務局長日記」がおしまい になり残念だ。また何らかの形で日々のご意見をお聞かせいただけることを 心待ちにしている。その澤藤さんも発言者のお一人としてこの会にいらっしゃ っていた。「日記」継続中ならこの集会についての記事も昨日のうちに「日記」に 掲載されていたはずだ。

 澤藤さんの「日記」を頼りにして、私のいいかげんな報告は蛇足にしかなら ないと、澤藤さんも参加されている集会については参加報告を久しくサボって いた。今回は何か書こう。澤藤さんの「日記」のように鋭く的確なコメントはで きないが、集会で聞いたり考えたりしたことのうちいくつかを書いてみようと思う。
 なお、この会の『設立の目的、「結成総会」のアピール、入会のお誘い』を 、当日のパンフレットからコピーして、掲示板「メールの輪」に掲載してた。この 運動への支持者・参加者を全国に広げることが、「反ひのきみ」運動の緊急の課題 になっている。たくさんの人に知らせていただけるとうれしいです。

 さてはじめに、会の共同代表者を代表して挨拶に立たれた槙枝元文さんのお話から ひとつ。(あやしげなメモと記憶をたよりなので、聞き違い・記憶違いがあるかもし ない。その場合はご容赦を。)
 1951年、それまで禁止されていた「日の丸・君が代」の使用許可がGHQから 下りたとき、日教組と時の文部大臣・天野貞祐との間で「日の丸・君が代」の学 校での取り扱いについての議論が行われた。そのときには「君が代」については 民主国家にはふさわしくないという合意が得られたという。「君が代」に代わ る歌を作ってはという話にまでなった。今の状況と比べて、隔世の感があり ますね。
 さて、日教組は全国から歌詞を募集し、そのなかから選ばれた最優秀作に 曲をつけて天野文部大臣に提示したところ、天野さんは「いい歌」だと評価した という。日教組はこれを「国歌」にしようと提案したが、「国歌」というと国会の議決 を経たりなどかえって難しくなるので、「国民歌」ということで全国に広めたらど うかということになった。
 日教組はその歌に「振り」もつけて、レコードを一万枚用意し、全国の小中学校 に配った。その歌は運動会などでおおいに使われたという。どのぐらいの間 のことか聞き漏らしたが、やがて反動化の攻勢が強まる中で、「日教組」の歌だ からという理由で学校から排除されていったということだ。

 その歌の名は「緑の山河」。私が所属していた都高教の組合員手帳にはその扉に この歌が楽譜つきで掲載されていて、大会などの機会に歌われてきた。だからいま 多くの人がこの歌を「日教組」の組合歌と認識している。フリー百科事典『ウィキペディア』 も「組合歌」と呼んでいる。「緑の山河」で検索してヒットした中から二つ選んでみた。 どちらも日教組の「組合歌」と言っている。なおそれらのサイトはカラオケ付きで曲が聞 ける。まだ聞いたことのない方、興味があったらいかがですか。


緑の山河  【作詞】原泰子 【作曲】小杉誠治 

1.
  戦争(たたかい)越えて たちあがる
  みどりの山河 雲はれて
  いまよみがえる 民族の
  わかい血潮に たぎるもの
  自由の翼 天(そら)をゆく
  世紀の朝に 栄あれ

2.
  歴史の門出 あたらしく
  いばらのあゆみ つづくとも
  いまむすばれた 同胞(はらから)の
  かたい誓いに ひるがえる
  平和の旗の さすところ
  ああこの道に 光あれ

緑の山河

339 「日本」とは何か(31)
ヤマト王権の出自(10)
2005年7月23日(土)


 植村さんの前回に続く文を読んでみる。
 戦後旧体制の崩壊とともに、この事情は根柢から一変した。既に大正時代から 古代史の研究の進歩とともに、神武天皇の伝承については懐疑的な傾向が強く なって来ていたが、皇室に対する言論のタブーが消滅するとともに、従来の歴 史は偽られていたというような呼び声のもとに、記紀の伝説は簡単に抛棄せら れ、神武天皇も勿論その存在を否定されることになった。これにはいわゆる天 皇制に関する政治的論議、特にこれを否認する意見が、ある程度まで影響して いることも争われないようである。

 戦後の社会科はこうした科学的意見に従って、皇道の教主であった神武天皇 を、教科書から完全に追放した。国語科で「古事記」などを文学的に取り扱う 場合でも、こうした歴史的物語は注意深く削除されている。それはかつて社会 主義的思想に関するものを取り扱った場合と、対蹠的ではあるが酷似している。 そこで現在の中学生は弥生式土器や卑弥呼については、若干の知識を持ってい ても、神武天皇に関しては、殆ど何の興味も持たない。あるいはこれは戦前と 戦後によって、一般の歴史知識に変化を見た、その最も大きい一つかも知れな い。皇室に対する社会の観念の変化は、その伝説上の始祖の取り扱いまで全く 変化させるようになったのである。


 「かつて社会主義的思想に関するものを取り扱った場合と、対蹠的ではあるが酷 似している」のは隠蔽の仕方ばかりではない。ある思想はいくら隠蔽してもしても 抹消はされない。社会主義思想が抹消されなかったように、皇国史観も隠蔽しても 抹消することはできない。思想には思想で真正面から対峙するほかない。皇国史観 の存在さえ知らず、ましてや皇国史観があの無謀で悲惨は戦争遂行に大きな役割を 担ったことも知らないで育った人たちは、いまよみがえろうとしている皇国史観の毒素 にたいして免疫がなく、むしろたやすく感染してしまうのではないかと危惧する。 今その毒素は中学教育の現場を侵蝕しようとしている。
 しかし純粋な史学の立場からすれば、政治的事情の変化によって、史的事象 の評価にまで変化を生ずることは、決して好ましいことではない。歴史的問題 そのものに政治的意味を付け加えることはもとより避くべきことである。伝承 の批判の結果、神武天皇の物語が後の時代に作られたものであるとするならば、 何故にそうした物語が作られたかということは、同時に新しい一つの課題とな る。そして大和朝廷の存在ということが否定することのできない事実である以 上、それがどうしてはじまったかということは、更に解明を要する問題となる。

 伝説上の神武天皇が歴史的に存在したか存在しなかったかということは、た だいくらか通俗的な興味をひくだけの問題に過ぎないが、日本の古代国家が、 どのようにして成立したかということは、少なくとも多数の日本人にとっては 知ることを要する、また知らんことを欲する重要な問題である。まして伝承の 批判にはまだ多くの検討の余地がある。神武天皇はこの意味から紀元節や建国 祭の復活から離れて、なお新しい研究の主題である価値を失わないのである。


 まったく真っ当な考え方だと思う。このような問題意識のもと、植村さんはこ れまでの記紀、特に「神武天皇の物語」をめぐっての諸研究が「物語そのものを 合理的に説明するに止まっていた」ことを批判している。そして記紀にはじめて 科学的な批判を加えたのは津田左右吉であると指摘して、その記紀批判の要約を 紹介している。次回はその部分を読むことにする。
338 「日本」とは何か(30)
ヤマト王権の出自(9)
2005年7月22日(金)


 樋口さんは、畿内にやってきた勢力がどこから来たのかという問題には言及していない。 「ヤマト王権の出自」についての諸説をまとめてみる。

 「第328回」(7月11日)で紹介した論文「政治権力の発生」の筆者・山尾幸久 さんは邪馬台国畿内説を採っている。その邪馬台国が発展して「倭の五王」に つながっていくと考えているようだ。従ってイワレヒコ(網野さんの指摘を受 けて私は「神武天皇」という呼び名は用いないことにする。)の東征については まったくの歯牙にもかけていない。
 一方、邪馬台国北九州説を採る人たちはその 所在地を筑後山門郡とする説が有力のようだ。「神武天皇」(中公文庫)の著者・植 村清二さんはその説に同意して、邪馬台国の所在を筑後御井付近、投馬国は薩摩の川内付近 としている。そして北九州の連合国家の支配権を手にした邪馬台国が東征して畿内に入った と考えている。東征したのは邪馬台国ではなく薩摩にあった投馬国だという説もある。
 これらの諸説に対して、「戦後のあれこれの新説よりも、日本の国の成り立ち というのは記紀に記されている話の方がずっと納得可能なのではないか」という 梅原さんの考えを先に述べた(第329回)。梅原さんは「記紀」の記述の通り、ヤマト王権 の始祖は日向から東征したと考えている。

 私はいまさら何故こんなにイワレヒコにこだわるのか。もちろん最近の 政治や教育行政の反動的な動きやそれに同調する社会状況への対峙の仕方の 一つと考えているからだ。それは考古学者・森浩一さんがその著書「天皇陵 古墳」で述べている次のようなモチーフと別のものではない。

 藤ノ木古墳の家形石棺の調査にさいして、さまざまな被葬者候補がだされたときにも、〝考古学では 墓誌でもないかぎり、被葬者は永久にわからない″とする慎重とも多少投げ遣り的ともとれる発言を よく耳にした。このことは、藤ノ木古墳のように考古学資料が豊富で、しかも前期古墳や中期古墳に くらべると記紀の編纂時に近い後期古墳であっても、被葬者については有力候補をだすに終わるであ ろうとする学問的限界を示している。
 とはいえ、私も前に試みたように(『考古学と古代日本』中央公論社、1994年) 、歴史的に創作された始祖王と考えられている神日本磐余彦(かむやまといわれひこ) 、つまり神武の陵を明らかにするのは考古学的に無意味とは思わない。無意味 どころか、いつごろ始祖王なるものが創作または意識され、人びとにそれを架 空の人物ではないとする印象をあたえるため墓(陵)を作りだしたかを明らか にするのは、文献学だけではなしえない研究である。

 森さんはヤマト王権の祖とされている記紀の物語の主人公について、他の 著書(「記紀の考古学」)でも「神武」は( )つきで表記し、もっぱら「イワ レ彦」という呼び方をしている。さすが、だと思う。

 ところで、現在「神武稜」と定められている陵墓は畝傍山の東北麓にある。それは江戸時 代に、学者間の約90年間にわたる議論の末に1863(文久3)に定められたという。 幕末の「尊皇攘夷」思想と無関係ではあるまい。このあたりの経緯について植 村清二著「神武天皇」から引用する。

 神武天皇は、それがあまりに遠い上代に属するためか、こうした特殊な地位(皇室 の最初の祖)を占めているにも拘わらず、久しい間特別に記憶され尊崇された形跡が ない。応神天皇は奈良時代に起った八幡宮の信仰に結びつけられて、後世までその祭 神とされたが、神武天皇にはそうしたこともない。天智天皇は中宗と称せられ、その 陵墓は十陵八墓の最初に列せられて永世奉幣を絶たぬことと定められたが、神武天皇 にはそうしたこともない。中世の史書を代表する「愚管抄」や「神皇正統記」なども、 天皇について特筆したことはない。天皇の名はただ年代記の最初に記されるだけに止 まって、それ以上の意味を持つことはなかったのである。

 神武天皇の存在が強く意識されるようになったのは、恐らく江戸時代の中期に国学 の研究が起って、本居宣長や平田篤胤等によって古代の歴史が回顧されるようになっ てからであろう。水戸学もまた名分論からこの傾向を助長し、藤田東湖や会沢安は、 いずれも皇道の基本を天皇の事蹟に求めている。徳川幕府が権威を失って、天皇政治 の復古が唱えられるようになると、この風潮はますます盛んになり、文久年間にはそ の陵墓が決定して修理が行われ、引き続いて孝明天皇が摸夷の奉告のために、ここに 行幸されようとすることさえあるようになった。

 明治維新はこうした気運に推進されて成功したのであるから、王政復古とともに皇 室の始祖としての神武天皇が強く回想されるようになったことは極めて自然である。 大国隆正の門下であった玉松操が岩倉具視に「須く神武の創業に基づき我より古を作 すべし」と献策したのは有名な話であるが、それはいわばこの意識を代表したものに 過ぎない。
 明治5年には神武紀元が制定せられ、また天皇の即位の日を祝日として紀元節と名づ け、7年以来2月11日と定められた。明治22年には皇居があったと伝える畝傍山の東南に、 天皇を祭る神宮が創建せられ、翌年(神武紀元2550年)橿原神宮の宮号を定め、官幣大 社に列せられた。同年また軍人の勲功を顕彰するために長髄彦討伐の際の故事によって、 金鶉勲章が制定されている。

 こうして神武天皇は明治時代には過去に比類のない著しい存在となった。 美豆産(ミズラ)結び、手纏(タマキ)・足纏(アユイ)を飾り、頭椎(カプツチ)の剣 を侃き弓河(ユハズ)に鵄を止めた姿は、小学読本をはじめとして全国民の間に普及した。 それはとりも直さず、この時代に強調された皇室を中心とする国家意識の一つの象徴に 外ならなかった。従って昭和時代に反動的に軍国主義が、いわゆる皇道と結びついて拡が るようになると、神武天皇はまた肇国の精神の名によって宣伝された。紀元2600年はあた かもこうした時機に当ったために、盛大な祝典が行われ橿原神宮は拡張が行われ、天皇の 聖蹟調査委員会は伝説上の土地を決定するために設置された。その翌年が太平洋戦争勃発 の年であったことを思うと、それはある意味で旧大日本帝国の最後の光栄を示すものであ ったということができるであろう。


 なお、天皇陵選定や改修どきに国民がいかなる仕打ちを受けてきたか、その一例として 「神武稜」のケースを「天皇陵古墳」から引用する。
 最後に「神武陵」については、1917年(大正6)9月13日の計画決定以降、数年をかけて 天皇陵の神聖を犯すという理由で隣接の(ほら)村の移転が すすめられた。これは単なる民家の立退きにとどまらず墓地の改葬をともなうような徹底 したものであった。移転の内実については「強制」と「自主的献納」という二つの側面が 存在したことが今日、明らかにされつつあるが、移転が天皇制の強権と部落差別にもとづく ものであることは明白である。すなわち近世以降、継続される修築事業の本質をここに読み とることができるのである。
337 「日本」とは何か(29)
ヤマト王権の出自(8)
2005年7月21日(木)


(3)
 即ち、鳥見(とみ)の長髄彦(ながすねひこ)、菟田(うだ)の兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし) 、吉野の井光(ゐひか)、同じく磐排別(いわおくわく)、苞苴担(にへもつ)、国見岳の 八十梟帥(やそたける)、磐余(いわれ)の兄磯城(えしき)・弟磯城、磯城の磯城八十梟帥、 高尾張の赤銅(あかがね)八十梟帥、兄倉下(えくらじ)・弟倉下、波?丘岬(はたのおかさき) の新城戸畔(にいきとべ)、和珥坂(わにさか)の居勢祝(こせほふり)、臍見長柄丘岬(ほとみのながらのをかさき) の猪祝(ゐのほふり)、高尾張の土蜘蛛(つちくも)などとあります。地名は動く可能性もあり、 また奈良朝人の想定も予測されるが、地名と部族名が平行して出て来るところから、古くからその 部族がそこに住んでいたという気がします。これらの地名を現在の地図にあてはめると、全部標高 70m線以上にあります。若し神武紀が奈良朝に偽作されたものならは、考古学や地質学の知識のな い、しかも地盤隆起の原則を知らなかった奈良朝人は、これらの地名のうち一つ位は地盤の低い所 をあてても良いと想像される。このようなところに案外、古代人の活躍の史実が古典に投影してい るのではないかと思われるわけです。

 古い土地、つまりより標高の高い土地70m以上のところには土着の人たち、たぶん縄文人と弥生人が 融合しながら平穏な社会を営んでいた集落があった。
 更にこれらの遺跡を発掘してみますと、全部が縄文土器終末期のもので す。最近、晩期縄文土器の年数設定が出来た。炭素放射能の減退量をミシガソ大学が測定したと ころによると、近畿地方の中期弥生式土器は大体今から二千四百年ほど前、そして晩期縄文土器 は約二千六百年前のものと測定された。もちろんプラス・マイナス二百年の誤差はありますが、 この事実は科学的に信用せざるを得ないのではないでしょうか。従って神武天皇遺跡は大体にお いて少なくとも二千六百年、更にはそれ以上前の湖岸もしくはそれよりも高い所の地名が舞台に なっていると云うことが出来ます。14の遺跡すべてが一致してその如くであることは、単なる 偶然としては見過ごされない事実でして、寧ろ必然的な史実の投影があったと考えた方が妥当か と思います。

 樋口さんは土器から推定された紀元前600~400年という年代をそのままヤマト王権の初期の大王たち の時期とみなしているようだが、私たちが史書の記録から100~300年頃と推定した年代とはるかに異なり、 この点は容認できない。
 しかし「14の遺跡すべてが一致してその如くであることは、単なる偶然としては見過ごされない事実でして、 寧ろ必然的な史実の投影があったと考えた方が妥当かと思います。」という点は、その可能性は否定しがたい と思う。
(4)
 しかも橿原遺跡は、奈良県では珍らしく大きな縄文末期のものです。この岡で人間は半水上生 活をしていたこともわかっております。舟も着きやすく、見張りにも便であり、三方が水であっ てみれば敵から守ることにも都合がよかったようです。そしてこの遺跡から出た食糧を眺めると、 水の幸・山の幸の両面に恵まれた生活であったことが想像出来る。即ち、鼬廃鼠(いたち)・野兎 ・猪・鹿・狼・山犬・狸・狐・河獺・熊・穴熊・猿・鶴・白鳥・鴨・鳩・鴫・山鳥・鯨・石亀 ・?(えい)・鯛・河豚・鯔(ぼら)・鱸(すずき)・海豚など、まことに多種多彩です。魚類に しても近くの淡水魚はもちろん、?(えい)・鯛・鯔などの海魚は恐らく遠く大阪湾から持ち運んだ と思われ、また鯨・海豚などは紀伊方面か らの経路が想定されます。更にこの遺跡から出る石器の石質は吉野地方の緑泥片岩であって、か くみると、橿原遺跡の生活圏或は物資伝播の経路は非常に広いということになります。所で、 檪(くぬぎ)・樫はやや亜寒地性のところに好んではえる植物で、今の大和平野にはありませんが、当時の 気温環境はより寒冷に近いものだったことも同時にわかって、まことに面白いと思います。  このように縄文晩期の聚落はこの地に栄えていましたが、或る時期に川が流れて来て半島の先 をけずり、水で包んでしまったために木は枯れ、その上から堆積土が2mも重なり長い間地下に 埋まってしまった。もし橿原の地名が畝傍山の東南にあったとしても、その地名は消え去ってし まう可能性が肯けるのであります。
 かく云う私は、神武天皇個人の存在を無条件で認めているわけではない。神武天皇紀の説話に、 歴史的信憑性があり、歴史の投影があると云っているのです。

   吉本さんのコメントで結論付けると、樋口さんは「これらの根拠から、神武東征の神話が、北九州の稲作や製 鉄器の技術を伴った弥生式の文化が、畿内に伝播し、流入する経路を象徴するに足りることを結論 している。」ことになる。
 しかし私が注目したいのは、ヤマト王権がよそから畿内に侵略してきた種族だとすると、その侵略までは縄文人 たち(弥生人との融合を深めながら)が豊かで平穏な社会を営んでいたらしいということである。
337 「日本」とは何か(29)
ヤマト王権の出自(8)
2005年7月21日(木)


(3)
 即ち、鳥見(とみ)の長髄彦(ながすねひこ)、菟田(うだ)の兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし) 、吉野の井光(ゐひか)、同じく磐排別(いわおくわく)、苞苴担(にへもつ)、国見岳の 八十梟帥(やそたける)、磐余(いわれ)の兄磯城(えしき)・弟磯城、磯城の磯城八十梟帥、 高尾張の赤銅(あかがね)八十梟帥、兄倉下(えくらじ)・弟倉下、波?丘岬(はたのおかさき) の新城戸畔(にいきとべ)、和珥坂(わにさか)の居勢祝(こせほふり)、臍見長柄丘岬(ほとみのながらのをかさき) の猪祝(ゐのほふり)、高尾張の土蜘蛛(つちくも)などとあります。地名は動く可能性もあり、 また奈良朝人の想定も予測されるが、地名と部族名が平行して出て来るところから、古くからその 部族がそこに住んでいたという気がします。これらの地名を現在の地図にあてはめると、全部標高 70m線以上にあります。若し神武紀が奈良朝に偽作されたものならは、考古学や地質学の知識のな い、しかも地盤隆起の原則を知らなかった奈良朝人は、これらの地名のうち一つ位は地盤の低い所 をあてても良いと想像される。このようなところに案外、古代人の活躍の史実が古典に投影してい るのではないかと思われるわけです。

 古い土地、つまりより標高の高い土地70m以上のところには土着の人たち、たぶん縄文人と弥生人が 融合しながら平穏な社会を営んでいた集落があった。
 更にこれらの遺跡を発掘してみますと、全部が縄文土器終末期のもので す。最近、晩期縄文土器の年数設定が出来た。炭素放射能の減退量をミシガソ大学が測定したと ころによると、近畿地方の中期弥生式土器は大体今から二千四百年ほど前、そして晩期縄文土器 は約二千六百年前のものと測定された。もちろんプラス・マイナス二百年の誤差はありますが、 この事実は科学的に信用せざるを得ないのではないでしょうか。従って神武天皇遺跡は大体にお いて少なくとも二千六百年、更にはそれ以上前の湖岸もしくはそれよりも高い所の地名が舞台に なっていると云うことが出来ます。14の遺跡すべてが一致してその如くであることは、単なる 偶然としては見過ごされない事実でして、寧ろ必然的な史実の投影があったと考えた方が妥当か と思います。

 樋口さんは土器から推定された紀元前600~400年という年代をそのままヤマト王権の初期の大王たち の時期とみなしているようだが、私たちが史書の記録から100~300年頃と推定した年代とはるかに異なり、 容認しがたい。その反論の根拠は素人としさし控え、深入りしない。
 しかし「14の遺跡すべてが一致してその如くであることは、単なる偶然としては見過ごされない事実でして、 寧ろ必然的な史実の投影があったと考えた方が妥当かと思います。」という点は、その可能性は否定しがたい と思う。
(4)
 しかも橿原遺跡は、奈良県では珍らしく大きな縄文末期のものです。この岡で人間は半水上生 活をしていたこともわかっております。舟も着きやすく、見張りにも便であり、三方が水であっ てみれば敵から守ることにも都合がよかったようです。そしてこの遺跡から出た食糧を眺めると、 水の幸・山の幸の両面に恵まれた生活であったことが想像出来る。即ち、鼬廃鼠(いたち)・野兎 ・猪・鹿・狼・山犬・狸・狐・河獺・熊・穴熊・猿・鶴・白鳥・鴨・鳩・鴫・山鳥・鯨・石亀 ・?(えい)・鯛・河豚・鯔(ぼら)・鱸(すずき)・海豚など、まことに多種多彩です。魚類に しても近くの淡水魚はもちろん、?(えい)・鯛・鯔などの海魚は恐らく遠く大阪湾から持ち運んだ と思われ、また鯨・海豚などは紀伊方面か らの経路が想定されます。更にこの遺跡から出る石器の石質は吉野地方の緑泥片岩であって、か くみると、橿原遺跡の生活圏或は物資伝播の経路は非常に広いということになります。所で、 檪(くぬぎ)・樫はやや亜寒地性のところに好んではえる植物で、今の大和平野にはありませんが、当時の 気温環境はより寒冷に近いものだったことも同時にわかって、まことに面白いと思います。  このように縄文晩期の聚落はこの地に栄えていましたが、或る時期に川が流れて来て半島の先 をけずり、水で包んでしまったために木は枯れ、その上から堆積土が2mも重なり長い間地下に 埋まってしまった。もし橿原の地名が畝傍山の東南にあったとしても、その地名は消え去ってし まう可能性が肯けるのであります。
 かく云う私は、神武天皇個人の存在を無条件で認めているわけではない。神武天皇紀の説話に、 歴史的信憑性があり、歴史の投影があると云っているのです。

   吉本さんのコメントで結論付けると、樋口さんは「これらの根拠から、神武東征の神話が、北九州の稲作や製 鉄器の技術を伴った弥生式の文化が、畿内に伝播し、流入する経路を象徴するに足りることを結論 している。」ことになる。
 しかし私が注目したいのは、ヤマト王権がよそから畿内に侵略してきた種族だとすると、その侵略までは縄文人 たち(弥生人との融合を深めながら)が豊かで平穏な社会を営んでいたらしいということである。
335 詩をどうぞ(22)
2005年7月19日(火)


 ある新設高校の開設時にその高校に赴任しました。校舎もなく間借りを しながらのスタートでした。校章に武蔵国国分寺跡から出土した鐙瓦の一 つに刻まれていた蓮華の文様が選ばれました。校外授業で生徒たちと国分 寺跡を見学したときに、クラスの生徒向けに作ったものです。




蓮華―校章由来― 

		梵網経(ぼんもうきょう)に説く
		 廬舎那仏(るしゃなぶつ)大連華座に座したまい
		 その知恵の光はあまねく人々の心によりそい
		 世の限りなき苦しみを除いて一切の闇を開くと
		 すなわち大連華座に千華辨あり
		 その一葉ごとに一釈迦ありて仏国土をなす
		 さらに一国ごとに千百の釈迦ありてまた国をなす
		 蓮華蔵荘厳世界(れんげぞうしょうごんせかい)!
		 ありとあらゆるもの
		 蓮華につつまれ大光明に照らされるという


都に政変相次ぎ
覇を争い闇闘する王族たち
ために遷都は止むことなく
かてて加えて全国に瀰漫する疫病
豊麗な文化が成熟するとき
一つの体制が崩れようとしていた
天平十二年二月 難波宮に行幸の(みち)
河内国智識寺に廬舎那仏を(おろが)む聖武帝
苦悩する帝の脳裏に
そのとき鮮やかに芽生えたものがあった
翌年天平13年3月
大仏造立発願(ぞうりゅうほつがん)に先立つこと二年
一つの(みことのり)が全国に飛んだ
  〈宜しく天下の諸国をして
  〈各々(つつし)しんで七重塔一区を造るべし
国分寺・国分尼寺の設置



一つの体制を守ることのみが
帝の願いの全てではなかったとしても
あるいは国を統べるものの苦悩の大いさにも拘らず
過重な徭役(ようえき)を果せられ  (注1)
たえず疫病におびえ
貧窮の極みのうちに生きた農民たちには  (注2)
ましてや 人間として生きられなかった
奴碑(ぬひ)と呼ばれた人々には  (注3)
鞭打たれ血のふきでる背を
さらに鞭打たれるほどにも
それは過酷な勅命だったに違いない
都での政争はあずかり知るところではなく
律令制の崩壊はもとより望むところ
蓮華蔵荘厳世界にかける夢は
だから 彼らにあってこそ一層強く深かった  (注4)
血をしたたらせて木を伐り出し
涙をまじえて泥を()ねる
悲惨な生活をさらに悲惨にしながらの
難事業を遂行せしめたものは
心に溢れて止まぬ純朴な祈り
  (御祖(みおや)に息災を
  (子らに充足を
  (世々違えることなき真実を
天平Ⅹ年  (注5)
壮大な規模を誇る大伽藍
武蔵国国分寺建立(こんりゅう)成る



天平13年 西暦741年
国分寺跡に立ち
遥か多摩川あたりを望みながら
ぼくはひそかに引き算をする
1969 ひく 741
武蔵国国分寺が戦火に潰えてすでに久しい  (注6)
以来地中に埋もれたまま
いまぼくらに届いた一枚の鐙瓦(あぶみがわら)  (注7)
千二百有余年もの時を隔てた
この奇遇にぼくは打たれる
節くれ立った手をあやつり
鐙瓦に蓮華を刻む
破衣をまとった一人の奴人(ぬひと)
(かま)の前にうずくまり
祈りをこめて黙々と刻む
深い皺が幾すじも走り
笑いを忘れた黒い顔は
そのこころね思えばむしろ美しい
一枚の鐙瓦とともに一人の
無名の古代人の心を拾う
ぼくらいま
仏を頼むことをしなくなったが
平和を願い
自由を尊び
真理を愛する心を受け継ぐ
1969年
武蔵国国分寺の地に
新しい鎚音(つちおと)が響き始めた
やがてこの学舎を巣立つ若者たちが
ひとりびとり大きく咲く蓮華であることを願う

(注1)
口分田について租(一段につき稲二束二把)が課せられた外に、 個人の国家に対する負担として、庸(1年10日間の歳役-庸布 による代納)調(絹・あしきぬ・糸綿・布などの特産物の納入) 雑徭(1年60日、国内の雑役)などがあった。徭の負担が大きい。

(注2)
・・・かまどには 火気(ほけ)ふき立てず こしきには くものす ()きて 飯炊(いいかし)く  事も忘れて 鵺鳥(ぬえとり)の 呻吟(のどよ )()るに いとのきて 短き物 を 端裁(はしきる)ると 云えるが如 く (しもと)取る  里長(さとおさ)が声は 寝屋戸(ねやど) まで 来立ち呼ばひぬ 斯く ばかり (すべ)無きものか 世間(よのなか) の道
世間を憂しとやさしと思えども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
      (万葉集巻五 山上憶良「貧窮問答歌」 より)

(注3)
 賎民制での最下層の人たちで、独立の家族的結合を認められず、財物 同様に扱われていた。

(注4)
 奈良時代の南都六宗(三論・成実・法相・倶舎・華厳・律の六派)に 五性格別説という宗論がある。人々を現世の身分や貧富の差によって 菩薩・声聞・縁覚・不性・無性の五段階に分け、一般民衆は無性とし、仏の功徳に よっても救われないとした。道昭や行基はこれに反対し、不性・無性の中に入れられた 人々こそ仏の功徳によって救われるべきだとし、民衆救済に乗り出し、地方を巡り歩い た。行基は聖武天皇に嫌われ、処罰されている。

(注5)
 武蔵国国分寺が完成された年は分からない。あるいは天平と呼ばれた年代より後のこ とかもしれない。ちなみに大仏開眼は752年(天平勝宝4年)である。

(注6)
 武蔵国国分寺の焼失は新田義貞の鎌倉攻め・分倍の戦いのとき、1333年(元弘3年) である。

(注7)
 武蔵国国分寺跡から発掘された瓦で歴史資料として最も価値が高いのは、それを寄進し た郡郷の名が刻まれているものであろう。その中には現在も使われている地名が多く見 られる。例えば郡では豊島・足立・埼玉・入間・秩父・多摩など、郷では大井・蒲田など の名が見られる。国分寺の建立が一国を挙げての事業であったことがうかがわれる。また 馬や草木などの落書きのある瓦も面白い。当時の民衆の生活感情に直接触れるような感 慨が湧いてくる。

335 「日本」とは何か(27)
ヤマト王権の出自(6)
2005年7月18日(月)


 前回の追記。
 もしかしたら…と思い至って、今日、念のため「日本書記」を覗いてみた。こちらの方には即位 したときの年齢も書かれていた。「紀元前660年2月11日」は日本書記を用いて計算されたようだ。
 あまりバカバカしいので全部調べる労をはぶくが、はじめの2代だけ古事記と比較してみた。 日本書記ではカムヤマトイワレヒコの没年齢は127歳(古事記では137歳)。2代目のカムヌナカワミミは 45歳で即位したことになっている。カムヤマトイワレヒコが82歳のときの子供ということになる。没年齢 は84歳(古事記では49歳)になっている。まあ、このいい加減さには、まさにあいた口がふさがらない。

 さて「対話・日本の原像」には巻末に、対話で取り上げられた 話題について、吉本さんが「註記」と題する補足を書いている。 その中の「信仰・祭祀」に関する部分を読むことにする。これは「第323回」(7月6日)の 続きということになる。ヤマト王権の「信仰・祭祀」とそれ以前の「信仰・祭祀」との関係から ヤマト王権の出自を考えるというモチーフがある。もちろん確定的なことは何もいえない。 しかし問題の核心がどこにあるのか、その全体像はイメージできる。

 ここには日本列島の住人の種族における南北問題と、縄文期、弥生期を貫き初期古墳期にいたる歴史時間 の問題が複雑にからみあっていて、神話、伝承、地域信仰や習俗を解き分けてゆかなければ、とうてい一義 的な確定が得られそうもない。この問題を具体的に整理してみる。

(1)
 諏訪地方に諏訪神社を中心とした大祝祭政体が成立していたことが、比較的よく研究されている。 このばあい男性の生き神大祝と随伴する共同体の政事担当者の起源の関係は、神話の伝承に入り込んでおり、 時代を降ってまた中世・近世の態様も比較的よく知られている。

(2)
 神話伝承の最初期の天皇群(神武から崇神まで)の祭政の在り方は、『古事記』『日本書紀』の記載の読み 方によっては、長兄が祭祀を司り、末弟(またはそれに準ずるもの)が政治を司る形態とみられなくはない。 これらは次第に皇后が神事を司り、天皇が政治を司る形、皇女が分離した祭祀を司る形へと移行する。

(3)
 おなじように長兄が祭祀を司り、生涯不犯の生き神として子孫をのこさず、弟が共同体を統括する形は、瀬 戸内の大三島神社を中心とする祭司豪族河野氏の祖先伝承として存在するとされる。

(4)
 沖縄地方では姉妹が神事を司り、その兄弟が政治を司るという形態が古くからあり、聞得大君の祭祀的な村落 共同体の統轄にまで制度化された。

(5)
 樹木・巨石の信仰は、日本列島の全域にわたって遺跡が存在する。諏訪地方における諏訪神社信仰。三輪地方に おける三輪神社信仰。高千穂地方における岩戸神社信仰。沖縄における御岳信仰。これらは神話や伝承に結びつい ているが、その他制度化されていない形で無数に存在する。そしてこの信仰は狩猟や木樵の祭儀の形態と農耕祭儀 の形態とを重層しているばあいもあれは、狩猟だけ、農耕だけの祭儀に結びついているはあいもある。

(6)
 神話、伝承の考古学的な対応性ともいうべきもの、また民俗学的な対応性ともいうべきものが存在する。それは 縄文期、弥生期、古墳期のような区分が、日本列島の地理的な条件の上では、地勢の海からの標高差に対応している 面があるからである。狩猟、木樵、漁業、農耕(水稲耕作)などの差異は、地勢上の標高差の問題と対応し、縄文、 弥生、古墳期のような歴史以前と歴史時代初頭の問題との対応をもっている。


 何の構想もないままに「日本」をテーマにはじめたこの稿はいま、「歴史以前と歴史時代初頭の問題」をめぐって迷子 になっている。ヤマト王権の「倭の五王」以前が空白のままだ。そこが空白のまま「古墳時代」になってしまう。 今手元にある日本史関係の本をめくってみても、その問題を避けているか、取り上げていても満足できる論はない。
 吉本さんがまとめた上の五つの問題へのアプローチは、その空白に近づく一つの道筋になると思われる。特に(6) に注目したい。私がいう「空白部分」はまさに「歴史以前と歴史時代初頭の問題」にほかならない。そこでは「神話・ 伝承」と「考古学」、「神話・伝承」と「民俗学」の対応が重要な問題ということになる。

 「神話・伝承」と「民俗学」の対応の一つとして、吉本さんは柳田国男の例をあげている

 わたしたちはこの問題について民俗学者柳田国男を論じたとき、柳田国男が民俗学の眼から神 話をみていた視点を想定して、つぎのように述べたことがある。柳田国男のばあいには、この種 の対応は、海流と航海技術と造船技術が、神話とのある対応関係にあるとみなされていた。

 このところには柳田国男の『記』『紀』神話にたいする微妙な異和と同和とが同時にふく まれている。始祖の神話の持主である初期王権が、いわゆる「東征」といわれたものの起点を南 九州(もちろん日向の沿海であってもいい)においているところまでは「船」を仕立て直す休 息点(あるいは「日本人」が成長してゆく熟成点)として、柳田の「日本人」がはしってゆく 流線と、一致できるものであった。

 だがそこから瀬戸内海にはいる経路と土佐国の沿岸を連ねる経路とのあいだの〈分岐〉〈異和〉 〈対立〉は、柳田のいわゆる常民「日本人」と初期王権の制度から見られた「日本人」との絶対的 差異として、柳田の容認できないところであった。

 初期王権が『記』『紀』のなかで始祖神話の形で暗喩している支配圏や生活圏の版図は、北 九州から南九州にわたる沿海地帯と、瀬戸内海の四国側寄りの沿海地帯や島々にかぎられてい る。わたしのかんがえでは、柳田国男はこの神話の暗喩する版図になみなみならない親和感を いだいていた。この親和感が、南九州(日向沿岸でもよい)のどこかで南西の島から東側海岸 に沿ってやってきた柳田の「日本人」が、「船」を整えなおしたというかんがえに愛着した理 由だとおもえる。

 またしいていえば柳田が、本来無意味なのに、じぶんの常民的な「日本人」の概念を、制度や 王権の問題にまで無造作に拡大して、朝鮮半島を南下したいわゆる騎馬民族が初期王権に坐った という説に、抜き難い不信を表明した理由であった。
 もうすこしくわしくできるだろうが、柳田のいう「日本人」は、地上二米以下のところしか歩 いたり、走ったり、願望したりしない存在だから、制度や王権にかかわりない、まったくべつの 概念であった。
          (吉本「柳田国男論」第Ⅰ部「国文学 解釈と教材」29巻9号、59年ア月号)

 整理しなおすと次のように言っていると思う。
柳田の「原」常民は宝貝を求めてはるか南の方からやってくる。南九州で「船」を仕立て直した 「原」常民は「土佐国の沿岸を連ねる経路」を通っていくはずである。しかるに「記紀」神話が 描く経路は「瀬戸内海にはいる」。「北九州から南九州にわたる沿海地帯と、瀬戸内海の四国側寄 りの沿海地帯や島々」という「記紀」神話が描く支配圏・生活圏を柳田は原「常民」の版図と考え たいのだが、ヤマト王権がたどる経路が柳田の「原」常民の経路と整合しない。その矛盾は、もと もと、「制度や王権にかかわりない」常民という概念を「制度や王権の問題にまで無造作に拡大」 したためだ。
333 「日本」とは何か(25)
ヤマト王権の出自(4)
2005年7月16日(土)


 「第330回」(7月13日)で紹介したように、梅原さんは記紀神話には 歴史的な投影があるという仮説のもとにヤマト王権の祖先を南九州から 大和に侵略してきた種族だと考えている。この問題をもう少し 追ってみる。

 久しぶりに本屋をのぞいたら「歴史としての天皇制」という本が眼にとま った。その中に書名と同じ「歴史としての天皇制」というテーマでの網野さん と吉本さんの対談が収録されている。川村湊さんが司会役ということで参加 しているが、むしろ鼎談といったほうがよいだろう。その鼎談がもたれたのは 1987年で、「対話・日本の原像」の一年後ということになる。
 その鼎談の中に次のような興味深い話がある。

吉本
 ぼくは高千穂というところに行ったことがあるんです。車で3時間も4時間 もかかる山のなかへ皇族というのが参拝に来ていて、記念の植樹とかあるん です。だけども、なんとなく、おおっぴらには参拝に来たことを、言えない みたいなところもあるんですね。
 なぜならば、おおっぴらに高千穂神社に参詣したと言っちゃえば、神話 のなかの、自分たちの出自はあそこらへんの縄文中期に栄えた山のなかの 村落にあったんだと認めたことになっちゃいますからね。天皇制がさ。つ まり神話のとおりに、自分たちの祖先は南九州の山のなかの縄文時代の村 落がたくさんある、そういうところが出自だとおおっぴらに認めることに なるわけでしょう、間接的に。
 だから、ぼくはなんとなく、これはひっそりと来ているなという感じを 持ったんです。それはとても面白かったですね。あれは、ひっそりと参詣 に来て、ちゃんと何々が来た、記念のなんとかと、ちゃんとあるからね。 だから、ひっそりとは、ちゃんと参詣しているんですね。
 それは神話にそう書いてあるから、なんか自分たちの祖先はあそこだと いうふうに、一応なっているんじゃないでしょうか。ひそかになっている んじゃないですか。でもそれをおおっぴらにしたら、別になんてことはな いじゃないか、おまえの祖先は田舎の山の奥の奥の縄文人だったんじゃな いかっていうことを認めたことになるわけでしょう。
 しかしみんな来てるなというのが、ぼくの印象で、とても面白かったで す。

川村
 「象徴天皇」のなかに出てますが、瓊瓊杵尊(ニニギ ノミコト)の陵なんてのもちゃんとあるらしいですね。

吉本
 みんなありますよ。ちゃんと対応関係は皆ありましたね。ちゃんと それは出来ているんですよ。

川村
 やっぱりほんとうに神話のなかの天皇なんですね。

吉本
 これまた考古学者の仕事なんでしょうけども、とにかく大規模な縄 文村落の発達したところですから、もちろん可能性だってあるわけだし、 出自だという象徴的必然はあるわけなんですよ。
 だけど、それをほんとうに認めたら、別になんていうことじゃない、こ の人たちは、ということにも、なってしまいます。
 つまり、畿内にきて初期王朝を築いたみたいなところにきちゃえば、 堂々たる中央の大きな王権のはじめなんだということを言えるんだけど、 しかし、もともとはあそこだったんだということを認めたら、それはどう ということはないわけです。
 ぼくの印象はひっそりと来てるなという感じです。
川村
 何とかの別荘に行くときには新聞に出るけれども、そういうときは 出ないですね。

吉本
 出たらおかしなことになりそうな気がしますね。別におかしかない んだけど、日本人の先入の印象とはぜんぜん違っちゃうみたいなことにな り、イメージダウンにつながります。


 この対話によれば、天皇家はまじめに(?)神話を歴史的事実と考えて いる、あるいは歴史的事実とみなしたがってる。ならばなおさら記紀神話を タブーにしてはいけない。梅原さんが言うように記紀の神話に歴史的な投影 があるのなら、それを徹底的に解明することは天皇制を相対化あるいは無化 する上で重要な課題だと思う。
 神話はヤマト王権のふるさとが高千穂の山の中の一集落だと語っている。 そしてどこから来たにせよ、畿内に侵略してきてうち立てたヤマト王権の初 期の大王もたかだか一地方の首長に過ぎないだろう。こういうことも検証できれば その意義は大きい。
332 「日本」とは何か(24)
楕円構造の文化
2005年7月15日(金)


 梅原さんは日本の文化を中心(焦点)が二つある楕円構造をしているものとしてと らえることを提唱している。
 僕は日本文化を楕円構造をもつものと考えると一番いいと思っている。一つの中心は 縄文文化で、もう一つの中心が弥生文化です。日本の精神構造は縄文的なものに大きく 影響されていますが、技術的なものや制度的なものは、やはり弥生の精神で、弥生時代 以来、ずっと日本人は大陸から先進文化を輸入している。古い伝統的な縄文文化を精神 の根底にしながら、絶えず海外の文化や制度を貪欲に輸入している。この二つの面を考 えないと、日本文化は解けないと思いますよ。
 ただ、私も一貫して日本とは何かを考えてきた点でナショナリストですけれど、日本 文化の根底をずっと掘っていくと、今の人類が失ってはいるが、かつて人類が共通にも っていたものにぶっからざるをえないと思います。

 私はそれを「縄魂弥才」といっているんですよ。縄文の魂に弥生の知恵――日本人は、 そういう矛盾する魂を自己の中にもっている。たしかに狩猟採集時代の文明にふさわし い魂をもっているが、弥生時代から新しい文明を海外から移入し続けていることを、つ まり私のいう弥才と称するものを考えないと日本文化は十分よく解釈されない。この縄 魂弥才が後に和魂漢才になり、また和魂洋才になったというのが私の考え方です。
 吉本さんは、日本文化はわからないことが多いと謙虚におっしゃるが、それは本当だ と思います。まだ分からないことが多い。私のは一つの仮説ですがこの仮説は誤ってい るかもしれない。日本の文化が世界の文化の中で、どのような特質をもっているのか、そ してそういう特質をもった日本文化が今後の世界にどのような役割を果たすべきなのか、 こういうことを個別科学の正確な認識にもとづいて、多くの学者でそれを明らかにすべき です。そしてその仮説は出来るだけ多い方がよい。多い理論が自然に淘汰され必要なもの のみが生き残るのが歴史の摂理なのです。だけど仮説なしには生きてはゆけない時代が来 ているように思うのです。


 一方、吉本さんは日本を日本の中から見る眼のほかに上から大きく見る鳥瞰の眼をもつ 必要があると指摘している。また、日本と日本人の分からなさのゆえんを述べて、梅原さん が言うところの楕円構造と同趣旨の意見を述べている。
 これは、梅原さんの日本学というものの根本的なモチーフになるわけですが、僕はとても 内在的といいますか、自分の中から見る眼を使うと、とても面白い考え方だと思いますし、 それはとても重要な問題提起だと思えるんです。でももうひとつ、いわゆる鳥瞰というか鳥 の眼で見る見方からいきますと、どう考えても日本国は東アジアの片隅の、小さな島に過ぎ ません。先ほどの地名でいきますと、アジア・オリエントの一般的な制度・風俗・習慣・思 想・宗教を考えてみますと、アジア・オリエントのそういうものがまず最初にあって、その 次にたとえば東アジアの風俗・習慣・宗教・思想というのがあって、そこに今度はまたもう 少し島という条件がひとつ加わって、この島も地形がかなり細長くて北と南にわたっている から、とても特殊な島でしょうけれど、そういう島という条件があって、その条件をまたア ジア・オリエントの一般条件の中から特殊に考えていかないと、日本の問題はわからないよ ――と考えています。つまり大きな地名から小さな地名、それからまたその下にある小さな 地名……と考えていきますと、「日本学」というものを取り出して、つくりあげていくとい う考え方と、もうひとつ鳥の眼で見る見方と……その両方の交錯点的なものを想像力の中で 入れてないと、なんとなく特殊の普遍化みたいな感じがするんですね。
 そういう点はどうでしょうかね。そういうところが、梅原さんの日本学という概念は、特 殊をとても普遍化するといいましょうか、そういう感じがしないこともないです。

 僕は、いま梅原さんが言われたことと同じことなんですが、ニュアンスを違えて考えて、 日本も日本人も、よくわからないなと思っているところがあるんですね。
 つまり先ほどから、アジアの全体から見て東アジアの片隅の小さい島だと考えて、地勢 的には済んでしまうところもあります。現在の日本を考えると、世界第二の先進国だという のが気になってきます。現在の日本の社会の規模と高度さを支えている技術の多様さは、ち ょっとどうしようもないくらい高度なものです。多分、理屈とか技術の詳しい内容はわから なくても、この間行なわれた筑波万博を見ても、秋葉原の電気製品街を歩いても、どんな高 度な技術製品が並べてあっても、民衆の誰もびっくりしない。何か一種の古さと、わけのわ からないほど高度になっている新しさとが共存している奇妙なあり方はたいへん不思議な気 がします。これはちょっと、日本というのはわからないぜ、というのが僕の実感ですね。
 梅原さんが言われたように、僕も楕円というのを考えていて、世界有数の高度な技術を 持っている技術民としての現在の日本あるいは日本人と、依然としてアジア的な農耕社会の 共同体意識を残している古い面の日本あるいは日本人と、この二つの軸を中心として回って いて、しかも共通に重なり合う部分もあると思います。この二つの軸を強いて一致させては いけないのではないかというのが僕の考え方です。そう考えていかないと日本についての理 解は間違えるのではないかと漠然と考えています。
 梅原さんが日本の歴史の深層を掘っていき、弥生的と縄文的という両方の軸を考えないと いけないと言われたのは、そういう意味でとても興味深いことですね。

 網野さんが農耕民以外の人たちに焦点当てたり、島国の中だけでなく海の方にも視線を 向けてるのも、梅原さんや吉本さんと同じモチーフによるものだと思う。
331 「日本」とは何か(23)
国家神道
2005年7月14日(木)


 話題は再度、精神文化とくに信仰や祭祀の問題が取り上げられる。まず神道について梅原さんが自論 を展開している。その根源を縄文時代までさかのぼれる宗教としてとらえている。
 日本の土着宗教は二度、国家による大きな変化を受けた。一度は律令時代、もう一度は明治以後。 ふつうわれわれが神道と考えるのは律令神道で、これも当時としては大変新しいものだったのではな いだろうか。国家を造っていく場合に、「要らないやつは祓ってしまおう。そして、心の悪いやつを 改心させよう」という、祓い禊の神道ですが、これもそれほど古いものではないと思うんです。あの時 代、7,8世紀に、むしろ道教などの影響を受けながら作られたものだと思います。

 ちょうど明治以後の国家神道が、ヨーロッパの国家主義を伝統宗教で受け止めようとして生ま れたように、律令神道も律令国家建設という大きな歴史的課題のもとで、道教を神道の伝統と結 ぴつけてつくりだされたものだと、僕は考えるのですね。


 この観点から、政治家たちが政治的に利用して日本の伝統と妄言している「靖国神社」について、 次のように述べている。
 靖国神社にしても、あれは日本の国のために死んだ人だけ祀っているんでしょう。ところが、 日本の神道の本来はそうじゃないですよ。自分たちがやっつけたほうを祀っている。それのほう が恨んでいるわけですから、それの鎮魂をする知恵なんです。だから敵を味方にする知恵ですね (笑)。自分のほうだけ祀るのでは、昔の敵はいよいよ恨みを深める。これは、日本民族の知恵と 反対のやり方だ。だから僕は、明治の国家神道は、ほとんど外来のものだと思うんですよ。

 では国家による作為を受ける以前の土着宗教はどんなものだったのだろうか。
 日本の土着宗教の最も基本的な哲学は、やはり霊の循環という考え方じゃないかと、この頃思う んです。人間の生まれてくるのは、霊が肉体に宿ることから始まりますが、その霊がやがて肉体を 離れて天に帰って行く。すぐには天に行けないから山にゆき、そこで清められてから天に行く。そ して天に何十年、何百年いて、またこの世に還ってくる……。これは人類が自分の住んでいる世界 を考える場合、すべてそういう循環の理に従っていると考える。太陽が朝昇って夜没する。そして 次の朝また出てくる。太陽も生きて、死んで、また復活してくる。月が満月になったり欠けたりす るのもそうだ。植物も春夏秋冬と生死のリズムを繰り返す。昆虫も同じである。そういう循環する 世界を見ていたら、人間の霊魂も、一度天に昇って、また還ってくると考えるのは、きわめて自然 でしょうね。
 その霊魂が人間・動物・植物みんな共通で、そういう生死の輪廻を無限に繰り返しているとい う世界観は、旧石器時代の人類に共通したもので、とくに狩猟採集文化が後代まで続いた日本で は非常に色濃く残っているのじゃないか、といまは考えているんです。

 神道の本質は基本的にはそういう思想にあるんじゃないかと、この頃考えているんです。で、僕は そういう考え方がだんだん好きになってきたな。死んで地獄へは行きたくないけれども、極楽へもあ んまり行きたくはない(笑)。極楽を考えるのは、よっぽどこの世で恵まれてない人間ですよ。向こ うへ行ったら、今度は腹いっぱい食べて女にもてたいと思っている。死後の地獄極楽という考えの中 には、この世はどうにもならない悪の里だという考えがある。(笑)
 ところがキリスト教のようになってくると、イエスが再臨して、最後の審判がある。そこで良 いものと悪いものが二分され、裁判される。これはニーチェのいうように復讐心の末世への投影 である。仏教は少しちがうが、やはり地獄極楽に分かれる。キリスト教や仏教の世界観は、厳し い階級社会から生まれてきたもので、どうも日本人の本来もっている世界観のそれとは違う。死 んでも、ときどきはお盆やお彼岸には孫の顔を見に還ってきて、あんまり邪魔しないで三日ほど で帰っていって、何十年、何百年、天に留まって、また子孫に生まれかわってこの世に還ってく る……。こういう世界観が、だんだん好きになってきました。

330 「日本」とは何か(22)
ヤマト王権の出自(3)
2005年7月13日(水)


 三浦つとむさんの著書に「レーニンから疑え」(1964年刊)という本がある。まだレーニンの権威が 絶対的だったときに堂々とそのような書名をかかげた。三浦さんの独創的な仕事は、たぶんこのような 権威への懐疑精神のたまものではないだろうか。ちなみに、三浦さんに先駆けてレーニンの誤謬を 取り上げた津田道夫著「国家と革命の理論」(1961年刊)は、レーニンの権威にしがみついていた さる筋の圧力により、書店での入手ができなくなってしまったということだ。
 どの分野でも権威に縛られていてはそれ以上の発展は望めない。権威のたなごころの中で視野は 狭くなる。勿論むやみやたらに権威を否定するわけではない。それでは単なる暴論に過ぎなくなる。 継承すべきところは敬意をはらって継承しなければならない。ただ権威のたなごころの中では説明 し切れない問題を解決するために行う必然の成り行きとして否定する。これまでこの「対話」 では金田一京助、柳田国男などの権威との検証が行われてきた。
 記紀の神話をまったくのフィクションとして古代史解明の資料から退けるのは津田左右吉の権威 だろうか。梅原さんは記紀の神話に歴史の投影があり、痕跡が残されていると考えている。しかし そのことをまったく留保なしに前提することへの危惧も念頭において発言している。
 それを認めても、決して国家主義の史観にはならないのではないか。天皇家の祖先が日本列島 にやって来る以前から日本人があり、日本文化があった、そう考えさせるものがすでに記紀の中 に秘かに含まれているのじゃないか、という気がしてしょうがないんですね。柳田国男とちがっ て記紀神話を、天つ神の方からでなく国つ神の方から読むことが可能ではないでしょうか。

 「天皇家の祖先が日本列島にやって来る以前から日本人があり、日本文化があった」という くだりの「日本人」「日本文化」は、もちろん「縄文人」「縄文文化」と読まれるべきだろう。 また「天つ神の方からでなく国つ神の方から読む」という読み方により新たに開けてくるものが あるかもしれない。梅原さんの仮説を聞いてみよう。
 そして、それは南九州の権力が大和に攻めてきたということになっている。文化的にみると、 北九州は弥生時代にすばらしい文化をもっているわけで、北九州文化圏あるいは大和文化圏と二 つの文化圏があって、弥生時代の末になって一つに統一される、ということが大体いえるわけで すね。そこで和辻(哲郎)さんは、北九州権力が大和に攻めてきて、統一したのではないかと考 えている。私もそういう考えでしたが、だんだん記紀神話どおり、北九州権力ではなく南九州権 力が大和へ攻めてきたと考えた方がいいのではないかと考えるようになってきた。
 大体、そういう言葉があるように、金持ちはあまり喧嘩しないもんでね(笑)。アレキサンダー とかジンギスカンのように、遠征したり冒険したりするやつは、みんな貧乏でハングリー精神を もっている(笑)。だからおおよそ弥生末期にいわゆる天孫族が外国から日本に入ってきたとして も、北九州のいいところは全部、先に来た部族に押えられていて南九州にゆくより仕方がない、 そして南九州は環境的にとても不利なところですよ。ああいう所で農業をしていたら食っていけ ないに決まっているから、そこで大きな賭に出た。今でも薩摩の人は気が荒い。おくればせに日 本にやって来た天孫族とアマ族との混血の部族集団が大和へ攻めてきたと考えてよいと思う。
 そして、宮中儀式に使ういろいろなものは、南のものが大変多いですね。例の仁徳天皇の豊楽 の式のときに、紀州でも南の新宮地方にしか出ないようなミツナガシワが必要になって、それを 求めるために仁徳天皇の皇后のイワノヒメが紀州に行く。すると、その間に天皇はワカイラツメ と浮気をしていた。カシワの葉を船に積んで帰ってくる途中でその浮気のことを聞いたイワノヒ メは、怒って摘んできたカシワをみんな海へ捨てたという話がありますけど、そんな南にしかな いものが即位の式に必要だということは、やはり南方説をどこかで裏付けているような気がしま すよ。だから僕は、そういう意味で、記紀神話というのが意外に事実を忠実に伝えているのじゃ ないかと考えているんです。

 どうやら弥生人は稲と鉄とともに、中国大陸の殺戮・略奪・征服による富と権力の樹立方法を も携えてきたようだ。縄文時代の穏やかな暮らしは一変する。
329 「日本」とは何か(21)
ヤマト王権の出自(2)
2005年7月12日(火)


 山尾さんの説から当面のテーマに沿った部分を取り出してみる。

1. 朝鮮半島西南部と北部九州とはかなり長期にわたって接触があった。
2. 北部九州に朝鮮からの本格的な移住が始まったのは、真番郡の設置から放棄までの 前108年~前82年ごろからである。
3. 弥生文化は縄文晩期のそれを基礎とし南部朝鮮の文化を受容して成立した。

 また、山尾さんは中国の史書の記述を詳細に吟味して、そこに登場する倭人の「国」 の地理上の位置を次のようにまとめている。すなわち『前一世紀中葉ごろの北部九州の多数の 「国」、一世紀半ばの那珂郡の「奴国王」、二世紀初頭の北部九州の「倭国」とその王、 三世紀中ごろ、「親魏倭王」が都する畿内の「邪馬台国」』。「邪馬台国」畿内説を採用して いるが、「邪馬台国」がどの地方の「国」なのかという問題は、いまは問題としない。そのか わりに初期ヤマト王権の王と考えられている「倭の五王」の記事が「宋書」に書き留められ たのが413年~502年であることを付け加えておきたい。

 以上のことを前提として梅原さんと吉本さんの対話に戻る。
 まず江上波夫さんの「騎馬民族渡来説」が取り上げられる。「騎馬民族渡来説」は、た ぶんいまは歴史学会ではまったく問題にされていないのではないか。吉本さん、梅原さんも もちろん否定的取り上げている。

 吉本さんは時間の幅を問題にする。異質の宗教と乗馬の技術と武器をもった一団が、 何の抵抗もなくスーッと入ってきて短期間に畿内へ進出したと考えるのは不自然だという。  ヤマトにやってきたヤマト王権の祖先が騎馬民族だったのか、北九州の定住民だったのか、 あるいは記紀が記述するとおり高千穂の峰あたりからやってきたのか、いずれにしても九州に 定住した弥生人であり、幾世代もの定住を経ながら漸進してきたと考えるのが自然だという。
 そのそのように考えるヒントの一つとして柳田さんの考えを紹介している。

 そこで、興味深いと思えるんですが、稲の種子とか耕作をもって南の島づたいに来た人たちは どうやって近畿地方に入ってきたかについて、柳田さんが言っていることは、外側、つまり四国 の土佐の太平洋側を海岸伝いに通って近畿地方に入るのは、それほど高度な航海術や大きな船で なくても可能であったということです。けれど、豊後水道か北九州の関門海峡かわかりませんが、 そこを通って瀬戸内海を航海するというのは、相当な航海術と船の大きさとがなければできなか ったといっています。
 だから、柳田さんの考え方を敷術すると、琉球・沖縄から島づたいにやってきた、稲作をもっ た人々は、南のほうからやってきて、海峡を通って瀬戸内海から近畿地方に入るという船の技術 が充分に身につくまでは、そこまで来るコースによって北九州か南九州かわかりませんが、そこ へんの沿岸に何代かにわたって住んでいた、というふうに潜在的に考えていたんじゃないか、と 僕は思っているんです。

(中略)

 つまり日本列島で人類が発生したと考えない限りは、どうせ大陸から渡ってきているわけです から、おおざっぱにいえば王権も民衆も大陸から渡ってきたというのは確かでしょう。しかし、 それは時間的にたくさん幅をとらないといけないので、あまり早急に考えると違ってくるのでは ないか。


 柳田さんは稲と稲作技術が南の方から伝わってきたという説に依拠している。私が冒頭にまとめ た朝鮮渡来説とは真っ向から対立する説である。南方渡来説が今なお有力な説の一つなのかどう か詳らかにしないが、ここでは太平洋側の海岸伝いの航海より瀬戸内海の航海のほうが難しいと いう点に注目したい。そして、弥生人の移住が本格的に始まってから「倭の五王」までに数百 年の時間があることを考慮すれば吉本さんの「時間的にたくさん幅をとらないといけない」とい う判断はきわめて「常識的」だと思う。

 この吉本さんの考えを受けて、梅原さんも「騎馬民族説」を二つの点で退けている。一つは 歴史書にその反映がないこと、二つは騎馬民族は父系社会で日本は双系社会と間には相当に断 絶があるという点をあげている。そして、梅原さんはさまざまな新説よりも記紀の記述のほう がずっと納得できるといっている。

 その点、『古事記』にあらわれているニニギノミコトから神武天皇までは――曾孫ですね。こ れは非常に自然ではないでしょうか。ニニギノミコトというのは向こうから来た種族にしても、 その次に来ると、オオヤマヅミノミコトの娘のコノハナサクヤヒメとの間に次の子ができて、そ れが二代にわたってワダノカミの娘との結婚によって神武ができるということになると、外国か ら来た血統が結局、八分の一になってしまいますね。そういう土着の血が入らないと渡来民が、 なかなか日本を支配することは難しいのじゃないかという気がしますね。
 それでもしかし、神武天皇が大和に入ってくれば、さっそく土地の娘を娶らなきゃならんとい うことになる。次代の天皇は、九州の女の子どもではなくて、大和の三輪山の神の血を引く娘の 子どもでなければならぬという――こういうところにそれが事実でないとしても日本の国の成り 立ちが、大変よく説明されているような気がするんです。ですから、いろいろな人が頭で考えた 戦後のあれこれの新説よりも、日本の国の成り立ちというのは記紀に記されている話の方がずっ と納得可能なのではないかと、この頃思うようになりましたよ。

 梅原さんは前々回(第327回)でも記紀の神話をもとに自論を展開していた。記紀の神話部分 は偏狭なナショナリストたちが歴史的事実として一心にしがみついている事柄だから、記紀の 神話をこのように取り上げることにたぶん大方の人は拒否反応を示すのではないか。神話を歴 史的事実とする考えはまったくの迷妄にすぎないが、一方それをまったくのフィクションで あり取るに足らないとする考えは硬直した思考であり、それも誤りだと私は思う。もう少し梅原 さんの考えを聞いてみよう。(次回に続く。)
328 「日本」とは何か(20)
ヤマト王権の出自(1)
2005年7月11日(月)


 吉本さんと梅原さんの対話が次に取り上げたのはヤマト王権の出自である。この問題に まつわる事柄はいまだほとんど仮説の域にあるが、それらの仮説を照らし合わせたり組み 合わせたりしながら、より信憑性のある説を作り出すほかはない。そのときの基準・方法は たぶん、「常識的な感性」だと思う。

 ヤマト王権は弥生文化を生活基盤とする人たちによって樹立された。ヤマト王権の 出自を問う前に弥生文化がだれがどこからどのようにヤポネシアに伝えたのか、まず 歴史学者の見解を聞こう。「岩波講座・日本の歴史1」所収の山尾幸久氏の論文「政治 権力の発生」を利用する。山尾さんはもちろん、考古学や文献学の成果を論拠にして 論を進めているが、それらの論拠は省いて、大まかな論旨だけを追うことにする。

 朝鮮に青銅器文化が始まったのは遅くとも前四世紀ごろを下らないとといわれている。やがて 中国戦国時代末期、前240年代~前220年代、燕や斉の亡命者が鋳造鉄器を朝鮮にもたらした。 漢が朝鮮に四郡を設置(前108年~前107年)した後には錬鉄鍛造品も作られるようになったという。 南部朝鮮が鉄器時代に入るのはさらに一時期遅れて一世紀とされている。
 燕や斉の亡命者は鉄だけではなく、鉄とともに稲をももたらしたと考えられる。 「日本の弥生文化複合の物質的二大要素すなわち鉄と稲」はまず朝鮮半島に伝えられた。

 そのころの南部朝鮮の人々の生活様式特色の一つは西南部の多島海などでの漁撈活動にあり、 造船・航海術にも習熟していたことが察せられる。また、低湿地では初期的な水稲栽培が行わ れていたと考えられる。
 さて、中国を統一した漢は朝鮮を征服して四郡を設けた。そのうち 「真番」という郡は早くも26年後(前82年)完全に放棄された。その理由として反乱などの 外的要因は考えられない。そこで山尾さんは次のように推論している。

 漢の郡県制支配の特色の一つは、前後三回行なわれた戸口調査を基礎とする人頭課税と力投 徴発であるが、国家権力の基盤「庶民」「編戸の民」の中心、力役や兵役を負担する15~56歳 の男子が種々の方法で国家権力の掌握から逃れて減少し「荒地」(『魏志』韓伝)と化した場合、 長吏を派遣して郡県として維持する意味は稀薄になる。真番郡廃止の理由の一つとして、この ような事情があったのではなかろうか。(その逃亡者たちが)豪族の私的経済機構に流入する といった事態は考えられないから、郡県支配の及ばぬ地に、かなり多数の人々が新たな安住の地 を求めて移動したのであろう。

 漢の郡県制を嫌った南部朝鮮の人々の中にヤポネシアにまでやってきた人たちがいただろう ということは、地理的条件や北九州の海民たちの活動からも容易に考えられる。山尾さんの説 は次のとおりである。
 北部九州人の縄文晩期以来の南部朝鮮人との接触または歴史的親縁性を前提として、当初の ある期間、弥生文化の主として物質的・技術的領域などが学ばれていたのであろう。その後し ばらくして伊勢湾沿岸までの西日本に、比較的短期間に人間集団が飛び地的に移住することに より、この文化が伝播したとされる。その人間集団は南部朝鮮の系統であったらしいが、しか し水稲栽培がなぜ日本列島に定着したかとは一応別個の説明を要するはずの、南部朝鮮からな ぜ人間集団が移住したかの問題は、いまだ必ずしも明らかではない。弥生時代の開始期を想定 するについても、その時期の南部朝鮮の可耕地がどのように分布しており、いかなる稲作がど の程度行なわれ、人間集団を移住させた特殊歴史的な事情はなにであったのか、あまり関説さ れてはいないように思われる。小稿のように鉄と稲との大同江流域への伝来を前三世紀後半と 考え、南部朝鮮への伝播や北部九州人の海を越えての接触による習得の期間をある程度考えた 場合、前三世紀じゅうに、南部朝鮮人または北部九州でのその二世などが、畿内から伊勢湾沿 岸にまで移住して弥生文化を伝えたといったことは、あまり考えられなくなる。かりにそのよ うなことがあれば左に述べる特別の政治的事情は畿内などへの弥生文化伝播の第二波であった ことになりかねないが、小稿は、前記した前108年ないし前82年の、真番郡の設置から放棄まで の時期に、注目したいのである。
 朝鮮半島西南部全羅道地方の、鉄器を使用し稲作を行ない、航海にも長じた半農半漁民の一 部分が、漢の郡県制支配を忌避して朝鮮半島東南部慶尚道地方などに移住する過程で、さらに その一部分は、すでにかなり長期にわたって接触があった北部九州にも渡来し、西日本の各地 に初めて進出したと考える可能性もあるのではなかろうか。
 こう考えると朝鮮四郡の設置は、北部九州などに限られていた弥生文化の西日本各地への伝播 の直接的契機であり、弥生文化は縄文晩期のそれを基礎とし南部朝鮮の文化を受容して成立した ことになり、朝鮮のそれ自体が、江准地区や山東地方の稲作や墓制、北アジアに系譜がたどれる 遼寧地方の牧畜民の青銅器文化や墓制、もちろん戦国期の四大文化系統の一つとされる燕・斉の 鉄器文化等々が、朝鮮半島西南部の河畔・沿海の漁撈生活者としても特色があった人々の新石器 文化を基礎として、習合したものであったことになるであろう。
327 「日本」とは何か(19)
天皇制の古層(7)
2005年7月10日(日)


  数学の授業をしていたとき、数学の歴史の話しをする機会がよくあった。ピタゴラスとか ユークリッドとかアポロニュウスとか特に古代ギリシャの数学者を話題にするとき、私は 必ずといってよいほど同時代のヤポネシアはまだ縄文時代だったことを指摘していた。こうし た知的な到達点の落差を、どちらかというと、自嘲的に語っていたように思う。いわゆる 進歩史観にとらわれた価値観を披瀝していたことになる。いや、このような心情も一種のナショナリズ ムと言えそうだ。
 次のような梅原さんの考え方に触発されて、このような本来のテーマとは関わりのないこと を思い出した。
、農耕があると富の蓄積がきくわけですね。狩猟社会というのは絶えず移動していますから、富 を一カ所に貯蔵することはなかなか困難ですね。だから例のオオクニヌシノミコトが袋を背負っ ていくというのは、狩猟民族の移動方法を示しているのではないかと私は思います。
 獲物があった場合でも食べられない分は腐ってしまいますから、自分だけ一人占めにすること はできないだろうし、部族の全部に分ける――そういう、非常に共産主義的な社会だったと思い ます。

 ところが農耕が発明されて、富の集中が可能になり、そしてそこから国ができる。国ができれ ば国家を統一する大宗教、世界宗教が出てくる。そして巨大な神殿ができてくる。それからそれ に対して必ず文字が出てくる――ということになると思うのですが、縄文文化というのは、そう いう意味でいうと、すでに世界の他の地区にそういう大文明が出現しているのに、一時代前の生 産方法のもとにかなり精神的に高い文化を発展させた特殊な文化であったと思いますよ。

 日本では農耕の成立が遅れ、巨大な国家の出現が遅れたために、富の集中する社会が出てくる のがたいへん遅かった。それから文字の出現も遅かったと思いますが、それはいいことではなか ったか、といま僕は考えているんですよ。

 国家のできるのが遅かったからよかったという考え方です。巨大国家が造られたときは富の集 中があって、階級社会ができて、うんと金持と貧乏人の差ができる。そういうところから生ずる 人間の心の歪みがたいへんきつい。そのきつい歪みを世界宗教が反映しているのではないかと、私 は思うんです。


 縄文文化は、巨大国家や大文明は生み出さなかったが、それはむしろよいことだったのだと言っ ている。大文明の代わりに「精神的に高い文化を発展させ」ていた。現代の人類が陥っている陥 穽から人類を救い出し人類の未来を開くための新しい思想あるいは倫理を創出する手懸りが、 縄文文化を発掘・考究することによって得られるのではないか。梅原さんと吉本さんの対話から、 こんな壮大なモチーフが浮かび上がってくる。

 さて、いきおい、お二人の話題は「日本国」ということになる。
 梅原さんの要請に従って、吉本さんが「共同幻想論」のモチーフと方法論を次のように語って いる。「第323」(7月6日)で一度話題になったことで重複するきらいがあるが、より詳しい論述 になっているので引用する。

吉本
 制度的というか、政治的というか、そういうところから考えると、日本人の歴史と、日本 国家、つまり初期の大和朝廷成立以降の国家らしい国家が農耕を基礎にしてできあがったことは 同じではありません。つまり日本国の歴史と日本人の歴史は違って日本人の歴史の方がずっと古 いわけです。それこそ縄文早期、あるいはもっと前から始まっているかもしれませんから。日本 人の歴史と日本国の歴史――もっといえば天皇家の歴史とを全部同じものとして見るのは不当で はないかという感じ方はあったのです。
 だから、天皇家の始まりが日本国の始まりというのはまだいいとしても、天皇家の始まりが日 本人の始まりだ、というのは少なくとも違うから、日本人の歴史というところを掘り起こしてい けば、天皇家を中心にしてできた日本国家の歴史のあり方を相対化することができるのではない かということが問題意識の一番初めにあったわけです。

 網野さんの厳密な定義に従えば、日本国成立以前には「日本人」はいなかったことになるが、 吉本さんが「日本国」と「日本人」とを使い分けている意図が網野さんの問題意識と同じであることは 言うまでもないだろう。吉本さんは「日本人」という語を「日本国の国制の下にある人間集団をさす言葉」 として用いているのではない。ヤポネシアを「日本列島」と呼ぶときと同じで、吉本さんがこの文脈で 「日本人」というときの「日本」は国名ではなく地名を表していると考えてよいだろう。
 不要な解説だったかもしれない。吉本さんの発言の引用を続ける。
 ですから初めの頃、熱心にやったのは、天皇家の即位の仕方とか宗教の作り方というもの――僕は主と してそれを琉球・沖縄をみて、沖縄にずっと後まで、十世紀以降まであった聞得大君 (キコエオオキミ)という女官の制度的な頂点にいる、宗教を司る女性たちの即位の仕方と比べ ると、たいへん似ているところがあるのではないか、そこを知ろうとしました。
 『共同幻想論』の中では何を考えたかというと、能登半島などの田の神が来訪してくるという田 の神の儀式と、大嘗祭の神事のやり方とがわりあい似ているのではないか。同じ型があるのでは ないか――それを調べて研究すると、日本人の歴史という問題と天皇家の成立以降の国家の歴史、 あるいは天皇家の祭儀や祭の中に残っている制度的な名残りなどを類型づけられるのではないか というふうに考えて、初めはそんなことばかりつつき回していたように思います。

 初期の天皇家が大和盆地に入ってきて、そこで地域国家らしきものを造っていくときの信仰の ありかたは、沖縄の聞得大君の即位のときの信仰のやり方と似ていて、いずれもはっきりいえば 一種の巨石信仰あるいは樹木信仰みたいなもので、その巨石や樹木、あるいは小高い丘の頂点か ら神が降りてくるという感じがあって、それは同じ類型づけができるのではないかと考えたんで す。
 それが、天皇家あるいはもっと普遍化して農耕民に特有な信仰だったのか、あるいはそれ以前 からあった信仰を継承したのか、そこがわからないから、初めは農耕民のいちばん古い祭の仕方 を、天皇家が大和盆地で継承して最初にやったのだと考えたのですけれども、後になるにつれて、 それは前からいた先住民の信仰ではないのかと思えるようになってきているんです。でも本当は、 そこがよくわからないんです。
 つまり初期の天皇をみていても、相続は少なくとも長子相続ではない。しかし婚姻になるとい つでも姉と妹がいて、入婿的で、女系的な匂いがするのは確かです。そうすると、そこのところ はどういうふうに理解したらいいか。つまり宗教的な為政と、現実に一族のあり方としてとって いる相続の形とがどうしても混合していて、よくわからないというのが問題です。

 これと異質なのは、縄文時代からの狩猟民的な祭式といわれる、諏訪湖のほとりの諏訪神社の 祭のあり方と相続の仕方です。あれは男系の子どもを連れてきて、何十日かその子どもを籠らせ たあと、岩盤みたいなものの上で相続の儀式をする。それは一種の生き神様の役割をさせるとい う形で、大和朝廷が近畿地方、大和盆地でやったやり方とちょっと違うんですね。

 それと、瀬戸内海の大三島神社の古くからの相続の仕方――河野氏の祖先でしょうけれども  ――あのやり方が、兄が生き神様を相続して、それは生涯結婚できず子孫を残すことかてきない ことになっていて、弟が支配するという形を強固に保ってきた――わずかにその二つぐらいが異 質だということがわかっていた。

 江上(波夫)さんのいうように、もし大陸からやってきたのが天皇家だというのならば、その とき大勢の原住民がいて宗教的な形態も決まっていた、そこに支配的な民族が土着の人たちより 少人数という形で入ってきた場合に、自分たちの宗教を押しつけるものなのか、あるいはそこに 元からあったものをうまく使うのか――僕は、そこのあたりの解明がとても重要ではないかとい う感じがします。

梅原
 記紀の記事を尊重すると、神武天皇の次に重要なのは崇神天皇でしょう。神武天皇も崇神 天皇も、どちらもハツクニシラススメラミコトといわれている。どうして二人に同じ名前をつけ たのかという問題が生じてくるけれども、政治支配は神武天皇から始まっている。記紀の記述に 従って南九州からやってきて、巨大な統治政権を固めたのが神武天皇だとすれば、それの宗教的 な基礎を固めたのが崇神天皇であるということになる。そういう意味で崇神天皇が神武天皇とと もにハツクニシラススメラミコトと呼ばれるのだと思います。

 崇神天皇の時代に疫病がはやってたいへん多くの人が死んだことがある。どうして疫病がはや るのか占ってみたら三輪の神様が崇っている。そこで三輪山の神様の子孫であるオオタタネコを 見つけ出して三輪山を祀らせたら、疫病はおさまって日本の政治はうまくいったという記事が 『古事記』にも『日本書紀』にも出ているんです。
 これは、神武天皇以後九代までの天皇が向こうからもってきた、近くは南九州、その前はおそ らく朝鮮半島からもってきた宗教で交配しようとしたけれどうまくいかない。そして世の中がい ろいろ乱れたので、結局、先住民が信仰していた宗教を祀ることによっておさまった、というこ とではないかと私は解釈するんです。三輪山の宗教が縄文時代までさかのぼるものか、それとも 弥生時代に始まるものか、これまた難しい問題ですが……。

 一応、日本の国を考えるときに、言語だの宗教だのはだいたい土着のものを基本にして、それ を継承したのではないか。そうしないと、少数の支配者が多数の被支配者をうまく治めることは できないだろうと、そう考えているんです。

 それでは先住民、縄文住民の宗教はどうであって、弥生初期にどう変って、再びいまの天皇家 の祖先が来たときにどう変ったかということはなおわからない。私は、いわゆる神様が山の峰に 天降って、それが現在の支配者の祖先だという考え方は、天皇家が大陸のほうからもってきた思 想ではないかと思っていました。ところがそれもやはり、それ以前の縄文時代の人たちがすでに もっていた考え方ではないか――沖縄やアイヌの例もあって――そういうふうに今は考えて おります。
 アイヌでもかれらの祖先が降った山が必ずあるところを見ると、天上から神が降臨すると いうのがアマツカミ渡来農耕民の考え方であるとはいえないようです。

326 「日本」とは何か(18)
天皇制の古層(6)
2005年7月9日(土)


 サンカの誰かが里に下りてきて、古事記あるいは日本書紀を読む機会をもった。その中の 「ヤクモタツ・・・」という歌を知り、自分流に解釈しなおしてサンカ社会に流布した、な んてとても考えられない。とすると「ヤクモタツ・・・」の歌は古事記の編者が伝え聞いた 伝承と同じ発祥のものを、古事記編纂の時代よりずっと古くから、古事記とは無関係に、 サンカの祖先の社会に伝承され、今日まで伝えられてきたと考えるのが自然だ。そういう点 からもサンカの人たちが解く解釈の方が確からしい。

 サンカの人たちは出雲族を誇示しているという。出雲族というのは歴史的な信憑性のある 種族だろうか。
 出雲神話はまったくの作り話だというのがこれまでの通説だが、梅原さんはこの通説にも疑問を 呈している。

 実はこの間、出雲にすばらしい銅剣がたくさん出たので見に行きました。銅剣が356本。 これは今まで日本全土で出ているより多い数です。それに銅鉾が16本、銅鐸が6個――ちょっ と日本の古代史を書き換えなくてはならない。われわれもそうですが、長いこと「出雲神話」は フィクションだと考えてきた、これは津田左右吉に影響された日本の古代史家が一様にもってき た考え方です。
 ところが、「出雲神話」の中心地である斐伊川の近くの、ほんの小さい丘からそれだけのもの が出てきて、国譲りの話をそのままあらわしているようなことになってきた。
 それから、和辻哲郎の銅鐸文化圏、銅剣・銅鉾文化国の対立で弥生文化を、近畿文化圏と北九 州文化圏の対立と考える図式もすでにおかしくなってきましたが、この荒神谷遺跡の出現でもう 一度大きく問い直されなければならなくなった。
 そこで、どうしてそんなものがそこに埋められていたか、いろんな説が出ていますが――最 初、銅鐸を使って地の祭をしていた。ところが今度は太陽を祀る宗教になったから、要らなく なって埋めたという説が有力のようですが、埋めたにしては数が多すぎる。それと同時に、地 の神から太陽の神へと、そんな簡単に信仰の対象が移るものかどうか。どうにもうまい説明が つかないんですね。私はこの遺跡がヤマトタケルと関係する記紀や『風土記』のタケルべの里 であることを考えて、やはり出雲権力の大和権力への降服儀式ではないかと思いますね。

 「発掘・日本の原像」がこの神庭荒神谷(かんばこうじんだに) 遺跡に関連した記述をを書き出してみる。

  島根県松江市に弥生時代の戦場跡らしい遺跡がある。田和山遺跡という。この田和山の西約 40kmに出雲大社、約17km西南西に神庭荒神谷と加茂岩倉の両遺跡がある。
 この田和山遺跡は標高46mの丘陵にあり、2100年あまり前の弥生時代前期後半につくられ、200 年ほど続いた不思議な遺跡だという。まるで砦か、聖地のようだという。人が住んでいた形跡はない。 こんな弥生遺跡はきわめて珍しい。見晴らしの良い丘陵に、倉庫にしてはあまりにも小規模、しか も厳重な防衛態勢をとって営まれた形跡が濃い。いったいどんな施設だったのだろうか。神庭 荒神谷遺跡はこうした周辺の遺跡とも関連して考えなければいけないだろう。

 神庭荒神谷遺跡から大量の銅剣、銅鉾、銅鐸が発掘されたのが1984年。梅原さんがそれに 注目して上記のような発言をしたのが1986年のこと。その後、1998年には吉野ヶ里遺跡 から九州初の銅鐸(高さ約26cm)が発見されている。さらに99年6月、これまで6種類以 上の鋳型が出土している大阪府茨木市東奈良遺跡から、朝鮮式小銅鐸と日本式銅鐸双方の特 徴をもち、「日本式が考案される過程でつくられた祖形のひとつで、絶滅してしまった型の 遺物」ともいわれる古い銅鐸(高さ14.2cm)が出土している。同じ年の9月には奈良県田原 本町の唐古・鍵遺跡で、類例のない文様の銅鐸鋳型が見つかった。このように近年、銅鐸関 係の新発見が続いている。しかし、鋳型が見つかった約35ヵ所のうち、30ヵ所を近畿地方が 占めている。

 このため、春成秀爾・国立歴史民俗博物館教授(考古学)は「近畿に銅鐸の中心部があったこ とは依然、揺るがない」という。そして「高度で繊細な技術やデザインなどから見ても、銅鐸は 当時の地域集団にとって、格別なものだった。とても対価を支払って入手できるものではなく、 製作も限られていた。贈り主と贈られた相手の間には、半永久的に従わざるを得ないような関係 ができたに違いない」とし、社会統合の象徴とも考えている。

 銅鐸はこれまで、その用途や埋納目的に関心が向きがちだった。奈良国立文化財研究所は、加 茂岩倉銅鐸の原料産地などの科学分析を始めている。詳しい分布状態や製作推定地、兄弟関係な どから、銅鐸の「動き方」が解明されれば、ここからも弥生社会の実態が見えてくるだろう。

325 「日本」とは何か(17)
天皇制の古層(5)
2005年7月8日(金)


 記紀歌謡の中には近世以来のこじつけに近い解釈が多くある。このことと 山窩が結びついて思い出したことがある。
 吉本さんは著書「共同幻想論」で柳田国男の「遠野物語」や「記紀」の神話の他に三角寛の 「サンカの社会」 を素材に用いている。その「共同幻想論」の「規範論」に、古事記の中の次の 歌の意味について論じているくだりがある。

 夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁徴爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁(やくもたつ いずもやえがき つまごみに やえがきつくる そのやえがきを)

 通説ではこの歌を
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」
と読み下している。そしてその意はおおよそ「八雲の幾重にも立ちのぼる出雲の宮の幾重もの 垣よ。そこに妻をむかえていま垣をいくつもめぐらした宮をつくって共に住むのだ」とするのが 通説だ。

 学者たちは何故そのような読解と解釈をしたのか。
この歌は、「天津罪」を犯して高天原を追放されたスサノオが出雲を平定し、その地に宮を作ったという 物語に挿入されている。

 故ここをもちてその速須佐之男命、宮造作るべき地を出雲国に求ぎたまひき。 ここに須賀の地に到りまして詔りたまひしく、「吾此地に来て、我が御心すがすがし。」との りたまひて、其地に宮を作りて坐しき。故、其地をば今に須賀と云ふ。この大神、初めて須賀 の宮を作りたまひし時、其地より雲立ち騰りき。ここに御歌を作みたまひき。その歌は、
 夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁徴爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁
ぞ。

 「其地より雲立ち騰りき」という物語の地の文にとらわれてのことであるのは明らかだ。 勿論これは古事記の編者の意図であっただろう。
しかし、記紀の歌謡については、物語の部分とは別個に考えなければならない場合が多いこと が一般に認められている。伝承の歌があってそれをもとに物語が作るられたり、物語の前後の 関係からその物語にうまく会う伝承歌を挿入されたりした可能性があるのだ。

 実はこの歌はサンカの社会にも伝承されていて、サンカの解釈はまったく違うという。吉本 さんが「サンカの社会」から引用している部分を孫引きする。

サンカは、婦女に暴行を加へることを「ツマゴメ」といふ。また 「()込めた」とか、「女込んだ」などともいふ。 この「ツマゴメ」も、往古は、彼らの得意とするところであった。そこで、「ツレミ」(連身) の( ヤヘガキ)ができて、一夫多婦を禁じた。 それが一夫一婦(ツ レ)制度(ヤヘガキ) である。

 ここで問題になるのは、古事記・日本書紀に記された文字と解釈である。すなはち、

(古事記)夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都麻碁微雨夜幣賀岐都久留骨能夜幣賀岐衰
(日本書紀)夜句茂多菟伊都毛夜覇餓岐菟磨語妹爾夜覇餓枳菟盧贈廼夜覇餓岐廻

 右に見るやうに、両書は、全く異った当て字を使ってゐるが、後世の学者は、次のやうに解 釈してゐる。

八雲立つ 出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を

と、決定してゐるやうであるが、サンカの解釈によると、(昭和11年、富士山人穴のセプリ外 18ヶ所にて探採)次の通りである。
ヤクモタチ(ツ)は、八蜘昧断ち(つ)であり、暴漢断滅である。イヅモ、ヤへガキは、平 和を芽吹く法律で、ツマゴメ(ミ)ニは、婦女手込めにし、である。ヤへガキツクルは ( ヤヘガキ)を制定して、コ(ソ)ノヤへガキヲ、はこの ( ヤヘガキ)をこの守る憲法を―で、これが「一夫一婦」の ( ヤヘガキ)である。
 それで出雲族を誇示する彼らは、自分たちのことを、「沢瀉(おもだか) 八蜘蛛断滅」だと自称して、誇ってゐるのである。


 吉本さんは「サンカの伝承の方が確からしく思われてくる」と言い、その理由を次のように述べて いる。
 なぜこういう解釈に吸引力があるかといえば、スサノオが追放されるにさいして負わされた〈天 つ罪〉のひとつは、農耕的な共同性にたいする侵犯に関しており、この解釈からでてくる婚姻につ いての罪は、いわゆる〈国つ罪〉に包括されて土着性の濃いものだからである。『古事記』 のスサ ノオが二重に象徴している〈高天が原〉と〈出雲〉における〈法〉的な概念は、この解釈にしたが えば大和朝廷勢力と土着の未開な部族との接合点を意味しており、それは同時に〈天つ罪〉の概念 と〈国つ罪〉の概念との接合点を意味していることになる。

 「規範論」はこのあと「〈天つ罪〉の概念と〈国つ罪〉の概念との接合点」を論究していく。
 久しぶりに「共同幻想論」をひもといて、もう一度、今度は精読しようと思ったが、 今はこれ以上深入りしない。
 前回、梅原さんが「こういう記紀史観が当時の日本人の共通の史観になっていた。それに柳田 さんも影響されているのではないかと思います。だからどうしてもアマツカミ、主体の歴史観 だった。われわれは今は、クニツカミを重視した歴史観を考えていかねばならないと思います よ。」と言っていた。上記のような記紀歌謡の洗い直し、あるいは記紀の神話の古層の掘り 起こしはそのことと別のことではないと思う。網野さんのお仕事もその線上にある。
324 「日本」とは何か(16)
天皇制の古層(4)
2005年7月7日(木)


 縄文文化と弥生文化を対比するとき、その違いは非農耕民と農耕民の違いに還元される部分が 多いと思う。そして非農耕民と農耕民という場合、縄文人と弥生人という対比の外にもう一つ 考慮すべきことがある。「山の民」と「里人」の対比である。

 山の民=山人とは何か。
 私たちは普通「山人」というと、木地師や 木樵などと呼ばれている人たち、さらに は狩猟を仕事とする 「マタギ」や「山窩」と呼ばれている人たちを考えると思う。しかし山人研究をしていた柳田国男は、 放浪の鍛冶屋とか 鉱山師、あるいは放浪の修験者とか放浪の宗教者みたいなものも山人として考えてい たらしい。

 柳田は山人研究を半ばにして放棄しているが、これについて梅原さんが次のように言っている。

吉本 柳田さんはそれ(山人)を異人種、人種が違うと考えていたんでしょうか。

梅原 初期にはそうでなかったと思いますね。『山人の研究』で「自分の生まれたところは昔、 異族が住んでいたところだと『播磨風土記』にある記事を見て、自分も山人の子孫の血が入って いるのじゃないかと思った」という意味のことを言っている。それが彼にはショックだったと思 いますね。だから彼はたいへん厭世的になり、民俗学の研究に入っていく。あの玉三郎が演じた 泉鏡花の『夜叉ケ池』で竜の女と住む学者は柳田さんがモデルだといわれているくらいですから ね。自分の血とつながっているそういう山人の文化のすばらしさを明らかにし、里人をおどろか してやろうという気特が、山人の研究に入っていった彼の気持であり、それが『遠野物語』にな ってゆく。彼の民俗学の出発点は明らかに「山人研究」「異族研究」なのです。
 しかし柳田さんは大正六年頃を境として変った。山人研究は完成しなかった。おそらく私は、 幸徳事件などが間接的な原因と思います。山人研究を続けていたらたいへんなことになると心配 し、それは天皇制とぶつかって危険だと、官僚でもある柳田さんはそこで転向し、山人研究から 里人、つまり常民の研究者となる。自分を山人じゃなくて里人と一体化する。そこで新しい柳田 民俗学が生まれたと思います。そういうふうに、柳田さんには微妙な転換があるような気がします ね。だから、初期の柳田さんはアイヌに対する関心が非常に強かったのだけど、どこかの段階 で捨ててしまった。柳田さんを考えるときに、そのへんがいちばん大事になってくるのじゃない か、と私は思うんです。


 山人研究から常民研究への柳田の転向の理由を幸徳事件と結びつけるのは、私には穿ち過ぎの ように思える。しかし、そういう結びつきを想像できる要素が山人研究には濃厚に含まざるを得 ないのは確かだ。

 吉本さんと梅原さんの対話は、天皇制の基盤である農耕民とその古層の狩猟採集民との関係 を神話から読み解く議論に移っていく。

吉本 そういうところから考えますと、柳田さんは何を日本人というふうに見ていたのでしょう か。
 『海上の道』でもそうですが、よくよく突きつめてみると、柳田さん流にいえば、稲作をもって 南の島からだんだんと東北の方に行った、そういうものを日本人と呼んでいるみたいに思えます。 これではとても狭い気がしますね。そうすると、ほとんどが日本人じゃない、ということになり そうな気がしてくるところがあるんですが、それはどうでしょう。

梅原 柳田さんは農林省ですか、勤めていたのは。

吉本 農商務省ですね。

梅原 やはり農商務省の役人としての職業意識が強くなると、どうしても日本を農業国と考える。 稲作農耕民の渡来によって日本の国はできたと考えた。しかしその背後には記紀史観の影響があると思 いますね。
 アマテラスオオミカミ、というのは明らかに農耕民族の神だし、その孫のニニギノミコトも農耕 民族として日本の国に来た。ところが土着のクニツカミ、というのがすでにいた。たとえばオオヤ マヅミというのは山民ですし、ワダノカミというのは漁撈民でしょう。ニニギとその子孫が、そ のオオヤマヅミやワダノカミ、の娘を娶った曾孫が神武天皇です。ですからあの神話は、農耕民が やってきて、山地狩猟民や漁撈民と混血して、日本民族ができたということを物語っている。
 日本人は渡来の農耕民が土着の狩猟民を支配してつくった国家だ――こういう記紀史観が当時 の日本人の共通の史観になっていた。それに柳田さんも影響されているのではないかと思います。 だからどうしてもアマツカミ、主体の歴史観だった。われわれは今は、クニツカミを重視した歴史 観を考えていかねばならないと思いますよ。

 しかし記紀のニニギから以後の九州での話は、事実そのままではないとしても、日本人の成立 の過程についてたいへん正確に語っていると思われます。渡来した稲作農耕民を父系、土着の狩 猟採集民を母系に、その二つの混血によって日本人はできてきたということをその神話は示して いる。そのために出産のときにトラブルが起きたりする。文化が違うと出産がいちばん問題だと 思います。出産のときに必ず文化のトラブルが起きてくる――そういうものを、とてもうまく語 っていると私は思いますけれどね。


 次いで、「マタギ」と「山窩」の社会習俗や宗教が話題となる。
吉本 それから、柳田さんのいう山人の中に事実として、たとえば山の中腹から煙が立っている のを見て、「あれは山窩の人がまたやってきたんだ」というような言い方で出てくるけれど、山 窩というのは、つまり山人のうちにどういうふうに位置づけられるのでしょうかね。

梅原 まあ、柳田さんを読むとびっくりするのは、大正天皇の御大典のときに、京都の若王子の 山の中腹から煙が出ていた、あれは天皇の即位を祝って山人がたいた火の煙だと書いてあるんで すね。僕は若王子の山裾に住んでいるんで、どうしてそんなことを柳田さんが考えたか、びっく りしてしまいますけれど。(笑)

 山窩とかマタギという人たち――山窩とマタギとはどう違うのか。マタギというのは東北に住 んでいる狩猟民で、山窩というのはもうちょっと中部の山岳地帯に住んでいる狩猟民ですね。マ タギのほうがまだ農耕民との間の、ある種の友好関係があるけれど、山窩は差別され非常に迫害 されていた、と考えていいのではないでしょうかね。

 ところがマタギ社会ですけど、ご承知のようにカメラマンの内藤正敏さんがダムで埋没する新 潟県のマタギの社会を撮っていますね。この間、私も山形県の小国町という所のマタギ部落へ行 って、マタギの熊祭を見てきましたよ。マタギ部落というのはもうどこでもほとんどなくなって しまいましたが、まだそこには少し残っているんです。
 熊を獲るのに、今はライフルですから、かなり遠い所からでも撃てるはずなんですよ。ところ が、そんなふうにパッと撃たないで、やはり勢子が出て、熊を下の方から追い上げ、一の鉄砲、 二の鉄砲、三の鉄砲が待ちうける。そしてずーっと追い詰めてきて、一の鉄砲から順に撃って行 く。武器がすっかり近代的に変っても、昔、熊を追い込んで、槍で仕止めるのと同じ方法でやっ ているんです。

 ここにどうしてマタギ社会が残ったのかというと、彼らは片方で農耕をやっている。冬になっ て農耕ができなくなってからマタギの生活に入るんですね。ふだんは農耕をやって、冬の間だけ マタギですから、かえって純粋に残ったのです。
 そこでいろいろ聞きましたけど、完全な共産社会ですね。分配が実に公平です。つまりマタギ の親方を能力によって、今度の熊狩りには誰がいちばんいいか相談して決める。一種の職能的な 秩序が完全にできていて、親方はご飯も炊かなくていいし、寝ていればいい。しかし親方の命令 には全部従う。その代り、親方は責任をもたなくてはならない――そういう形でやっているわけ です。ところが熊を獲って、熊の肉を分けるのはみんな平等で、狩りに参加できない未亡人とか 年寄りにもちゃんと平等に分けるんです。ですからマタギ社会は見事な平等社会で、長は機能に 応じてできる………というので、私は感動しましたね。

 そんな彼らが熊祭をしている。それがいつやるかというと、マタギをやめるとき、つまり熊が 冬眠からさめて出て来るときに熊を獲るわけです。ですから熊を獲り終ると春で、彼らはそれか ら農耕生活に入るんです。その熊祭もやはり、アイヌの熊送りに似ていました。熊の魂を天に送 るという、そういう意味が残っているようでした。同時に、熊祭を終えて、自分たちはこれから マタギをやめて農耕の生活に変るという、そういう意味ももっているけれども、どこかにアイヌ の熊祭の面影を保っていました。

 ところで、そういうマタギとか山窩――山窩はまたちょっと生活が違うと思いますけれども ――彼らの生活習慣を見ていると、ふつうには、山人はやはり異民族だと考えられるんじゃない かと思うんです。しかし、分配の見事な平等主義の社会を実際に見ると、やはり感動しましたね。

323 「日本」とは何か(15)
天皇制の古層(3)
2005年7月6日(水)


 琉球やアイヌの文化を読み解くことによって、縄文人の精神構造や宗教意識が理解できるの ではないか、と梅原さんは言っている。それは同時に天皇制の古層を掘ることでもあり、天皇 制の相対化あるいは無化へと向かう道筋でもある。

 吉本さんと梅原さんの対話は、ヤポネシアを広く覆っていたであろう天皇制以前の精神文化や 宗教意識の問題へと続く。吉本さんの問題提起から。

 たとえば、中央部でも岩磐とか巨石とか樹木信仰というのがありますね。これはむしろ先住民 の信仰だと考え、そこに天皇家みたいなものが入ってきて、それをそのまま容認したんだという ふうに考えると、三輪山信仰でも考えやすいところがあります。

 それから、たとえば諏訪神社の信仰もそうですが、どうもこれは北方系あるいは東北からきて いるんじゃないかと思えるのですが、信仰の形として男の生き神様を造って、それは生涯不犯で 神事ばかり司って、その兄弟が政治を司るみたいな形がいろんな所に見えるのですね。諏訪地方 の信仰もそうですが、瀬戸内海でも大三島の信仰のあり方もそうです。

 そういうのと、そうじゃなくて母系制で、耶馬台国のように女の人が神事を司り、その御託宣 によってその兄弟が――これは沖縄もそうですが――政治を司る、そういう形と両方あるような 気が僕はするんですね。

 ですから神話の中でも、実在かどうかわかりませんが、神武というのがいて、その兄に五瀬命 (イツセノミコト)というのがいますが、これは神事を司っていた長兄と思われますが、遠征の 途中で登美の那賀須泥此古(ナガスネヒコ)と戦って撃退され、熊野の方に廻って転戦して、戦 死してしまうことになっています。この五瀬命が、神人というか神事を司っていたと考えると、 男系の匂いもするんですね。

 そうはいうものの、たとえば神武が熊野から入っていって三輪山の麓まできて、その地の村落 共同体の首長の娘を嫁にもらうか入婿するかどちらかわからないが、それと結婚する。すると、 それはどうも母系制に従っているようにも思える。ところがいろんなところを見ていくと、男系 の神様を奉っておいて、兄弟が村落を支配するという形が、どこかにほの見えたりして、よくわ からないところがあるんです。  これをどういうふうに理解すればいいのかということです。それはつまり時代の差異とか、そ ういうものを象徴しているのか、あるいはまた先住・後住ということを意味しているのか、それ とも系統が違うということなのか、そこがよくわからないんです。


 この問題について、以下のように対話が続く。
梅原 おっしゃるように、どれが縄文文化なのか、どれが弥生以後の文化なのか、またど れが記紀にいう神武天皇という新しい支配者が出た大和朝廷以後の文化なのか、それを分別する のは容易ではないですね。私は構造として縄文文化を根底において、次に弥生文化を――神武伝 承以前の弥生文化というものもあると思いますけれど――その次に神武伝承以後の大和朝廷の文 化を考えますと、三輪山はどこに属するのか。朝鮮などに行くと、そっくりそのまま三輪山みた いな山があって、同じように崇拝されている。こう見ると、これは端的に縄文文化とはいえない 。あるいは神武以前の弥生文化の遺跡ではないのかとも思われますが、それらは重層的に重なり 合っているので粘り強く一つ一つ解いていくよりしょうがないだろうと思います。

 最後に出された男系の問題ですが、男の司祭の問題は、私は気がつかなかったが、たいへん面 白い。それも父系社会と双系社会の問題と関係するのではないでしょうか。社会学者の中根千枝 さんなどの考え方でも、中国・韓国は父系社会であるけれども日本はそうじゃなくて、双系社会 だという。ところがアイヌも双系社会なんですね。どういうふうに違うかというと、父系社会と いうのは、本貫を同じくする氏により団結がたいへん固い。ですから当然大家族制になってくる。 そして同姓娶らず、その範囲では結婚はできない。中国や韓国は今でもそういう社会です。
 そういう社会だと姓は増えないわけです。だから韓国は全部で二百姓ぐらいしかない。中国も 百姓といいますが、今ちょっと増えましたが、少数民族を含めても五百くらいでしょうね。こう いう父系社会では同姓を超えた団結はなかなか生まれません。会社でも同姓で集まるし、異姓の 人が入っても絶対に社長になれないから、どうしても会社に対する帰属感がない。

 ところが日本ではそうではなくて、父系社会の団結が弱い。古代では「物部鹿島」というよう な複姓がある。父は物部氏、母は土着の鹿島の人、そこで物部鹿島という姓ができ、物部氏から 独立する。だから姓は無数にふえる。日本の苗字というのはほとんど地名ですが、結局、氏、血 よりも今住んでいる土地のほうが大事なんです。だから苗字が何十万とあるわけです。

 またアイヌでは、財産を継承するときに、男のものは父系で相続、女のものは母系で相続する のです。弓矢のような男の持ち物は男の血縁で相続され、女の持ち物は女の血縁のほうに行く。 上代日本もそうではないかと思われます。それから、「同姓娶らず」の韓国では本貫を同じくす る同姓のものが結婚したら、禽獣の行為だとされるくらいたいへんです。同姓を娶ったら法律で 罰せられて、監獄に行かなければならない。それを免れるためには亡命をしなくちゃならん。現 に最近でもそういう悲劇の実例があるのを私は知っていますよ。

 ところが古代日本の場合は、父親が一緒でも母親さえ違えば兄妹でも結婚してもかまわない。 それは父系社会からみれば、まったくの禽獣の行為としかみえないかもしれないけれど、それは それで双系社会の掟はある。母親が一緒だったら、これはやはり畜生の行為ということになるわ けです。

 いまの話でいうと、初期天皇家が父系的な社会であったか、双系的な社会であったか――私は、 入ってきたとき、初めは父系的であったと思います。けれど、いつの間にかだんだん双糸的に変 ってきたのではないかという気がしてしょうがないんです。
 入婿の話が出ていましたが、父系社会では入婿は絶対あり得ないわけですね。

吉本 あり得ないですね。

梅原 ところが、神武天皇が大和を支配するために入婿みたいな形になっていますね。

吉本 入婿ですね。三輪山の麓の長の娘と結婚して、そこに入婿していますから。そこ で僕は思うんだけれど、初期天皇でも、十代目ぐらいまでたいてい長男坊ではないですよね。 それは長子相続ではなかったという意味なのか、それとも長男というのは隠れているけれど、 宗教的な司祭をしていて、全然子孫を残さないことになっているから、長男ではなかったのか、 そこがよくわからない。

梅原 末子相続でしょう。

吉本 それに近いと思います。

梅原 アイヌも末子相続です。アイヌは家が小さいから、大家族はできないのですね。 長男が嫁さんをもらうと独立をしてまた家をつくる。兄弟がだんだん独立をすると、最後の子 どもが年とった親父さんと一緒にいる。だからアイヌは財産は子どもにみんな平等に分けるけ れど、最後まで親父さんと一緒にいるのは末子ということになる。ここに末子相続的な原理が 含まれていると思うんですね。

 それと、いま吉本さんがおっしゃった、天皇家はだいたい末子相続ということとつながりが出 てくるような気がしますね。応神天皇の時、ウジノワキイラツコとオオササギノミコトが皇位を ゆずりあって困り、ついにワキイラツコが自殺したという事件がありますが、あれも伝統的な末 子相続と儒教的長子相続の争いと見られます。この場合、末子相続法によって皇位の相続の権利 を主張できるワキイラツコが儒教信者であり自分は相続すべきではないと考えたところに悲劇の 原因があったと思います。とすると古代日本社会はアイヌ社会に似ていた。だからいまの問題は 言語だけでなくて、習俗というものを考えても、アイヌと沖縄をみると古代日本のことがいろい ろわかってくることになるのじゃないかと思いますね。

吉本 そう、アイヌの問題を調べていくと、弥生時代から残っているいろいろな宗教的 な行事とか文化的なもの、風俗・習慣もそこに保存させている部分がありますから、そういうこ とがとてもわかってくるという問題があるわけですね。

梅原 しかし、アイヌにないものを調べることも大事だと思いますね。弥生時代にすで にあってアイヌにまったくないものは何かということです。それは外から持ち込んできたもので ある可能性が高い。アイヌでは消えてしまった可能性もありますけれど。そういうものをいろい ろと比較・検討してみると、今までわからなかったものが、少しずつわかってくるのじゃないか という気がしますね。

322 「日本」とは何か(14)
天皇制の古層(2)
2005年7月5日(火)


記紀歌謡をもういちど、アイヌと琉球の歌謡との比較を通して見直してみる必要があると、お二人 の意見は一致している。枕詞だけではなく、記紀歌謡の中で、どう考えても近世以来のこじつけに近い解釈 が多々ある。もしかすると、そういうことは全部、アイヌや琉球の歌謡とよく照合することができれば、 解明できるのではないかと考えている。
 そういう観点から、枕詞の次に取り上げられたのは「逆語序」という文法面での古層だった。

吉本さんの問題提起。
 これは地名の重ねと同じことになるんですが、琉球の古い歌謡の『おもろ草子』の中にも例がありますが、 古い問題ではないかと考えていることが一つあるのです。それは僕が考えたというよりも、その前に折口信夫 が「日琉語族論」などでいちはやく指摘していることなんです。

 現在の常識でいえば、地名を呼ぶ場合、東京都中央区とか京橋何丁日というふうに、大きか地域の地名を先 に言って、だんだん小さくしていきます。
 ところが、折口さんは古い形はそうじゃなくて逆語序になっていて、小さい地名を先にいって大きい地名を後 でいう言い方があったんだと指摘しているんですね。その例は『おもろ』の中にいろいろあります。
 「ヒルカサリ(辺留笠利)」という場合に、「カサリ」村の中の何とかという意味で「カサリ」の方が地域的 に大きい。

 逆語序の関連でいうと、「大工の吉本」というのが普通の語序ですが、『おもろ』の中では「吉 本」を先にいって「吉本が細工」のように、大工だから細工人というような言葉を後でいう言い 方がある。折口信夫は「それは古い言い方なんだ」といっているんですね。
 たとえば「山があってその傍に村がある」とすると、それをヤマカタという。それをカタヤマというふうにいうと、 後世は「片山」という言い方になってしまって、片方が削げている山みたいに思うかもしれないけれど、本当は、 昔はそうじゃなくてヤマカタと、いって、山の傍という意味で、山の途中をそう呼んだと、折口さんは言っているわ けです。

 それらを全部合わせて、いわゆる「逆語序の時代」というのがあったというのが折口さんのとても大きな指摘で、 僕らも初期歌謡を調べてその種の例をいくつか見つけて、折口さんの説が正しいということを論じたことがありま す。その種のことを考えていくと、これは梅原さんのご領域でしょうが、日本の古代あるいは古代以前のことは、 どうも半分だけわからないところがあるような気がしてしょうがないのです。

 この問題について、梅原さん次のように応えている。
 地名を小さい順から書くというのは、外国もそうですね。アイヌと沖縄の形容詞の書き方を比べてみると、 アイヌ語はわりと自由で、形容詞が名詞の前にきていたり後にきていたり、いろいろあると思うのです。どちらの 形が古いのか、そこのところはまだ検討していないのですが、たいへん面白い問題を含んでいると思います。

 これは少し大胆すぎる意見かもしれませんが、アイヌ語では顔のことを「エ」および「へ」といい、 お尻のところを「オ」あるいは「ホ」というんです。古代日本語でも上と下の対立を「エ」と「オト」で表現します。 「エヒメ」「オトヒメ」、「エウカシ」「オトウカシ」などです。また、「エボシ」とか「エダ」とか、上のほうを 「エ」あるいは「へ」という。それでお尻のほうも尻尾のことを「尾」という。「山の尾」というのも山の裾ではなく て、ちょうど山のお尻にあたる所と考えるとよくわかる。

 ところでアイヌ語では動作を表すのに「ホ~」「へ~」というのが実に多いんです。人間の動作を、顔と尻の二点で だいたい表現している。それが名詞の前にもおかれ、「へ何々」「ホ何々」という。「へ何々」というのは、何々に顔 を向けて、何々の方へとなり、「ホ何々」は何々の方へ尻を向けて、何々から、ということになる。こういう言葉から、 さらに「へ」および「ホ」が言葉の後について、「何々へ」「何々ホ」「何々ヲ」となる。こうなると日本語の助詞 「へ」と「ヲ」に近くなる。日本語の助詞と非常に似ている。「東京を発って京都へ行く」は、東京に尻を向けて京都 へ顔を向けるという意味であるということになるわけです。

 そういうふうに考えると、肉体の部分を表す「エ」あるいは「オ」が前置詞のように用いられ、 後に後置詞になって、助詞になってゆくという、そういう助詞の成立の過程がわかるように思う んです。さきの逆語序という問題とこの問題とはつながっているように思われて、私にはたいへ ん興味深い。

 それから吉本さんが「わからない部分がある」とおっしゃったのは、まさにその通りでして、 私はついこの間まで、縄文文化というのはわからないと思っていたのですね。考古学ではある程 度物質生活は知ることができるが、精神生活を知りえない。いくら頑張っても、考古学だけでは 縄文人の精神生活や宗教意識がわかるはずがない。ところが私はいま、アイヌ文化を発見して、 沖縄文化との対比で考えると、あるところまで縄文人の精神構造や宗教意識が理解できるのでは ないかと思うようになったのですね。今までわからなかった縄文文化を解く鍵が多少みつかって くると思います。

321 「日本」とは何か(13)
天皇制の古層(1)
2005年7月4日(月)


 どうやら、琉球・蝦夷とヤポネシア中央部との間の大きな断層とは、まったく無関係という意味の 断層ではなく、ヤポネシア全体に分布していた古層の上に、中央部だけ新来の人種が覆いかぶさって 新たな層=天皇制の基層を形作った結果である、と考えてよさそうだ。そうであれば、天皇制の基層 とその下の古層との関係を明らかにすることは天皇制を相対化あるいは無化する上で重要な課題とな る。

 「第314回」(6月28日)の引用文の中で梅原さんは、アイヌ語の魂を表す言葉ラマットが 祝詞や宣命に残っている古代日本語=倭語と一致していると指摘していた。日本文化の古層に あるアイヌ文化の痕跡を言葉の面からもう少し探ってみる。「対話・日本の原像」から拾い出す。 二つの第一級の思索が響きあう対話は気持ちよく読める。内容もとても興味深いものなのでそ のまま引用する。

 まず吉本さんが地名を二つ重ねる枕詞を論じている。枕詞については吉本さんは著書「初期 歌謡論」(枕詞論・続枕詞論)で詳細に論じているが、ここでは「初期歌謡論」を調べる労はとらない。 「対話・日本の原像」で話題にされたものでその大略を知ればよいとする。

 枕詞の中に地名を二つ重ねる枕詞がある。例えは「春日の春日」――「ハルヒノカスガ」と読みま しょうか ―― とか「纏向の檜原」とかね。これはとても古い、原型にちかいタイプの枕詞なん です。
 『古事記』に、ヤマトタケルが東国へ遠征してきたところ、海が荒れ、オトタチバナヒメが海に 飛び込んで海を鎮めるという話がありますね。そこのところで、オトタチバナヒメが「さねさし 相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」という歌を詠んで飛び込むのですが、この 「さねさし相模」の「さねさし」というのは、どういう意味か全然わかっていないんです。アイ ヌ語に、陸地がちょっと海の方へ突き出た所という意味で「タネサシ」という言葉があって、僕は、 「さねさし」はアイヌ語の地名じゃないか、というふうに考えました。
 つまり相模もちょっと出っ張った所ですから、そこに昔、アイヌあるいはそれに近い人たちが 住んでいたときに地形から「タネサシ」というふうに言われていた。それをもうひとつ重ねて 「さねさし相模の小野に燃ゆる火の」とした。「さねさし」という枕詞はアイヌ語だとするのが一 番もっともらしいのじゃないか、そこのところで、柳田国男の地名の考え方にちょっと接触して いくのです。

 柳田は、アイヌ語の地名は自然の地形をそのまま名づけた所が多いのだという。なぜアイヌ語 の地名が残っているのかというと、それは単にそこにアイヌ人が住んでいたからではなくて、ア イヌ人またはそれに近い人たちが住んでいたときの地名があった所へ、後から移り住んで来た人 間がいる。先住民たちを完全に駆逐してしまったら、その地名はなくなってしまう。そこで地名 が残っているということは、アイヌ人たちと後から来た人間たちとが共存状態であったのだろう、 というふうに柳田は言っています。
 つまり、アイヌ語の地名という問題はそういう意味でとても大切なことになってきます。先住 民と後住の人とが異なった人種であっても、共存していたか、駆逐してしまって新しい地名をつ けたか、またはこの「さねさし相模」みたいに、枕詞の形で残したか ―― そういうふうに分ける と微妙にいろんな段階があって、それはとても重要なことだなと、たしか『地名の研究』の中で 言っているんです。

 これを受けて、梅原さんは次のように応答している。
 枕詞の発生はそういう二つの異言語の接触、いってみれば「春日の春日」というのは、「カス ガ」をどうして「春日」と書いたかという謎を説明しているわけですね。そういう言語の違う二 つの文化が接触して、そこで生ずる言語のギャップを枕詞によって埋めようとしたという説はた いへん興味深いのです。私もぼんやりそういうことを考えていました。「さねさし」は「タネサ シ」から来ているだろうとおっしゃるのは、きっとそうでしょう。「タンネ」というのはアイヌ 語で「長い」という意味で、「種子島」も「長い島」ですからね。アイヌ語で解ける地名が東北 地方に広がっているのは当然ですけれど、もっとはるか沖縄にまであるということは非常に重大 な問題だと思います。

 日本の真ん中にはなくて、北と南の両端にだけ残っている言葉がだいぶたくさんあるんですね。 例えば沖縄ではサンゴ礁と海の境目を「ヒシ」といいますが、アイヌ語でも、海と浜との境目 -海岸線を同じように「ピシ」というんです。ところが興味深いことには、『大隅風土記』に 必志の里というものがでてきて、その必志の里に「海の中の州は隼人の俗の語に必志という」と 註がついています。ということは、『大隅風土記』が作られた八世紀現在でもヒシという言葉は もう中央ではわからなくなっていたけれど、大隅の国では方言として残っていたということです。
 そうすると、ヒシという言葉はアイヌと沖縄に現在も存在し、本土では八世紀にわずかに大隅 地方の方言として残っていた、この問題をどう考えるかということです。いまの「タネ」の問題 でもそうですが、そういうのがたくさんありますね。たとえば「ト」という言葉はアイヌ語では 湖あるいは沼を意味しますが、古くは海を意味したと知里其志保はいいます。ところが『おもろ 草子』に「オクト」とか「オオト」という言葉が出てきますが、それは「奥の海」「大きい海」 を意味します。本州の「トネガワ」とか「セトノウミ」の「ト」も海あるいは湖の意だと思いま す。利根川は海のような川、セトはおそらくセプト、広い海ということになります。

 私も枕詞についてそういうことを考えることがあって、例えば「チハヤ」という言葉があるで しょう。「チハヤビト宇治」とか「チハヤフル神」とか、『古事記』には、「チバノカドノニ」と いう言葉がある。「チハヤフル」「チハヤビト」「チバノカドノニ」 ―― 全部神様につながってい るけれど、意味はよくわからない枕詞なんですね。
 ところが「チバ」というのは、アイヌ語では「ヌサバ」なんですよ。つまり神に祈る時にイナ ウというものを作るのですが、イナウが集まったものを「ヌサ」という。日本の古代語では御幣 そのものをヌサというけれど、アイヌ語では御幣の集合をヌサといいまして、ヌサのある所がチ バなんです。そうすると「チハヤフル」は神を祭るヌサのあるチバが古くからある、だから神に つく。「チハヤビト」というのはヌサ場で一族が集ってお祭をする、だから氏につく。「チバノカ ドノニ」というと、チバの多くあるカドノニ。平城京跡からたくさんイナウが出てきた。古代日 本にも到る所にチバがあったと思います。私はそういう解釈で、「チハヤフル」などの枕詞は理 解できるのではないかと思うのですよ。

 だから、おっしゃるように、そういう異言語の接触で、枕詞として古い言葉を残しておくとい うのはたいへん興味深い解釈で、いま言われた「さねさし」が「タネサシ」から、というのは私 は気がつかなかったのです。これは柳田国男の洞察に敬意を表したい。枕詞をもう一度、アイヌ 語で考えてみることは必要なんでしょうね。金田一(京助)さんのようなアイヌは異民族でアイ ヌ語は異言語、アイヌ文化と日本文化とは全くの異文化であるという通説、その通説について私 は批判しましたが、その通説のタブーさえなくなればいまのような解釈は十分成立可能だし、そ う考えることによって、日本の古代語研究は飛躍的に進むと思いますよ。
320 「日本」とは何か(12)
縄文人と弥生人
2005年7月3日(日)


  吉本、梅原、中沢三氏の鼎談より8年前(1986年)に、吉本さんと梅原さんは対談をしている。 その対談が「対話・日本の原像」(中央公論社)という本になっている。今回から資料として 追加する。
 その本の中に梅原さんが日本語の源流について次のような意見を述べている。
 縄文人のつかう縄文語というのがあって、これはかなり日本列島全体に行き渡っていただろ う…‥。縄文土器が朝鮮半島にはほとんどないのに、日本列島にはほぼ全体に普及している。 そのように、だいたい同質の言語が南は沖縄から北は千島まで、多少のローカルカラーがあるけ れども、日本列島に普及していたのではなかったかと思います。
 そして弥生人が入ってきて日本列島の中枢を占領した。そして弥生人はまったく縄文人とは違 う言語をもってきたけれども、言語学の法則として、少数の民族が多数の民族の中に入ってきて、 それを支配する場合、その言語は被支配民族の言語になるが、発音その他は相当な変更を蒙り、 そして、支配民族が新たにもってきた新文化や技術にかんするものの名称は支配民族の言語で呼 ばれる、というふうな法則がある。こういうことが弥生時代以後、起こったのではないでしょう か。
 だから縄文語が弥生時代以来かなり変質した言語が倭人の言語であり、それが日本語の源流に なったのじゃないかと思うんです。そして南と北により純粋な縄文人が残っていて、縄文語がよ り純粋な形で生きのびて残ったのではないだろうか。琉球は朝鮮や中国とも近いから人種も混血 し、言葉もかなり変質しているけれども、あそこは稲作農業には不適な所なので、かなり強く縄 文文化が残っている。北の方は中国などとの交渉も薄いし、沿海州あたりとの接触があるにせよ 混血も少なく、縄文語がいちばん強く残った。それが小進化してアイヌ語になったと考えている んですけれどね。

 この梅原さんの仮説と考古学の成果を照らし合わせてみよう。
 近年、古代遺跡の発掘がいよいよ盛んで、古代像のさまざまな仮説・通説が書き換えられている。 その近年の考古学の成果をまとめた本がある。天野幸弘という方の著作で、こちらの書名は「発掘・日 本の原像」(朝日選書)という。
 この本から梅原さんの仮説に関係すると思われる部分をまとめてみる。もちろん、考古学 による学説もいまだに仮説レベルのものも多い。さしあたってはそれらの学説から古代の おおまかなイメージが描ければよいとする。
 まず縄文人について。
 東アジアで縄文人と似た人骨が判明した例は今のところない。ということは、特定の 集団が日本列島になだれこんで縄文人になった形跡はないわけだ。こう考えて、京都大学霊長類 研究所の片山一道教授(人類学)は科学誌『サイアス』(1997年5月2日号)に書いた。タイト ル「縄文人は来なかった」は刺激的だ。これまでに見つかっている縄文人骨の特徴を詳しく分析 したうえで、「縄文人は日本列島で生まれ、育った」と結論づけている。決着がついたとされる ルーツ探しより、これまでに数千体見つかっている縄文人骨の精査の方が大切だと考える片山さ んは、「混血しなくても体格が変わるのは、われわれ現代人も経験した通りだ。生活の変化も大 きな要素だ」。だから縄文人がどのように形づくられたか、生活の復元こそが問題だ、と強調す る。例えば「海民的な性格が加わるなど、大陸の人びととは別の道を選んだ結果なのだろう」。
 確かに、縄文時代は独特だ。その次の弥生時代から現代までの五倍弱、一万年近くも続いた。 ところが北海道から琉球列島に至るまで、人びとの体格などに地域による大きな違いはなかった。 地域差より、時代の推移に伴う変化の方が目立つといわれる。アメリカ人の生物学者エドワー ド・S・モースが東京の大森貝塚を発掘調査し、七体の縄文人骨を見つけて以来、120年間に わたる調査や論争、研究の結果である。そして、「縄文人は先住民などではなく、現代日本人の 祖先だ」というのが、大方の研究者の見解になってきた。

(中略)

    この年(1998年)、北海道の北西端の離島、礼文島にある船泊(ふなどまり) 遺跡でも、同じころの縄文時代の人骨約三〇体分が発掘された。サハリンやバイカル湖周辺で見つかる のと似た形式の貝製装飾品、日本列島南方産の貝製品も副葬されていたため、「縄文時代に大陸から来 た渡来者か」と注目された。先の片山教授の説と食い違いが出そうだったが、専門家の詳しい鑑定によ る結論は「すべて典型的な日本列島の縄文人」だった。もちろん、縄文人の活発な行動力を印象づける 発見として、重要な遺跡が新たに分かった意義ははかりしれない。


 弥生人は縄文人に比べて顔が細長く彫りが浅く、縄文人より長身だ。それまでの縄文人とかなり 異なる体格などから「渡来系」とされてきた。では弥生人はどこから来たのか。
 「土井ケ浜遺跡人類学ミュージアム」館長の松下孝幸さん(人類学)たちは中国社会科学院考 古学研究所の韓康信教授らと共同で、山東省出土の紀元前5世紀から400年間ほどの人骨500体分 を調べた。その結果「体の各部の計測データや顔面のプロポーションのほか、神経が通る頭の骨 の小さな穴といった細かい部分も土井ケ浜人とそっくりだった。」
 調査は新たに黄河、長江の最上流部の青海省へ舞台を移す。「人と文化はおそらく、中国では大 河に沿ってつながるに違いない。これまでの南北の流れとは別の『東西の道』を探りたい」から だ。中国原郷説への自信がのぞく。
 青海省での1998年までの日中共同調査でも、山東省に似た結果が出た。李家山など三遺跡から 出土した約3000年前などの人骨計約300体は、いずれも土井ケ浜や佐賀県の吉野ヶ里などから出た 渡来系弥生人骨の特徴をそなえていた。「黄河、長江上流の人びとが北部九州など一部の弥生人 の祖先だった可能性がある」という分析結果なのだ。
 1999年の共同調査では、長江下流の江蘇省梁王城(りようおうじよう) 遺跡と福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡出土の二体の人骨の、母系遺伝子に限定されるミトコンドリ アDNAの塩基配列がぴったり一致する例まで分かった。縄文時代の稲作伝播も長江との関係で考えら れており、重視されている。

 一方、縄文人そっくりの弥生人の人骨が発掘されている。 阪神・淡路大震災の被災者住宅の 建設に先立つ調査(1997年)のときに出土した人骨は、紀元前三世紀の前半、弥生時代前期のも のである。しかしその人骨は縄文人そっくりの特徴を示していた。典型的な弥生時代の遺物、遺 構の中から、土井ケ浜遺跡で見つかったような渡来系の人ではなく、弥生以前に一万年近くも続 いていた縄文時代の人の体つきの人骨だったのである。
 福岡県志摩町新町遺跡から出土した人骨も「縄文的な弥生人」だった。しかもこの遺跡の墓は 中国東北部から朝鮮半島にかけて築かれているものとよく似ているという。さらに、中国・秦時 代(紀元前221~202年)の銅貨や新時代(紀元8~23年)の硬貨も出ている。またその近くの、 明らかに稲作が行われていたとみられる曲り田遺跡では出土した土器のうち朝鮮半島由来の無文土 器はごくわずかで、多くは縄文時代の流れを汲む土器だったという。
 これらの事実は何を物語っているのだろうか。
 縄文的な特徴をとどめた弥生人骨は、西北九州などからも出ている。ところが、遺物との関係 がつかめないことが多い。この新町や神戸の新方は数少ない例である。「朝鮮半島から渡来人が 稲作などをもたらした時、地元がそれらの中からいいものを選び取った。土器が激変しないのは 渡来人がそんなに多くはなかったためで、やがて在来人は彼らと融合しながら変わっていった」 と、中橋さんは見る。「大勢の渡来人が縄文人を追い払い弥生時代になった」という人もいる。 しかし近年、調査・研究が進むにつれて、ひとことではいえない複雑な様相が弥生当初、各地で 繰り広げられたことが浮き彫りになってきた。
 中橋さんが数学者の飯塚勝さんと連名で1998年に『人類学雑誌』(106号)に発表した論 文「北部九州の縄文~弥生移行期に関する人類学的考察」は、その面からも興味深い仮説といえ る。弥生時代の中期、渡来系弥生人と見られる人びとが占める割合は80~90パーセントにの ぼっている。これは中期初めまでに形成された人口構成と見られる。しかし、初期の渡来人はこ れまでの発掘成果から見て、少数だったようだ。そうすれば、200~300年間にこの逆転現 象が一体、なぜ起きたのか。その答えは「渡来系集団の人口増加率が、水田稲作などの進んだ文 化を背景に、土着系集団を大きく上回り、弥生中期には圧倒的になった可能性が大きい」という ものだ。弥生の開花期はこうして始まったようだ。その後、人びとの行き来は次第に頻繁になり、 多くの渡来人が来た、と歴史書にも記されている通りだ。
319 「日本」とは何か(11)
琉球と蝦夷(えぞ)を結ぶもの(4)
2005年7月2日(土)


 ウイルスと遺伝子という体内言語によるヤポネシアの人種的構成の分析に、シンポジウムのパネラー のお一人である比嘉政夫さんが次のような批判文を書いている。(「琉球弧の喚起力と南島論」収録 論文「文化の基層をみきわめるために」)
 私の興味を呼んだのは、南島人の北方の人との共通性の指摘である。最近梅原猛氏などもアイヌと 南島を結びつける問題提起をいろいろ出しているが、研究の視野をひろげることは大いに賛成であり 研究成果を期待するものである。南島人の形質人類学上の先祖が北方につながるということは、稲作 などさまざまな技術文化が北からやってきたという考え方と並行するものである。
 天皇制を育んだ弥生以降の文化が南島モンゴル系に結び付くことは、天皇制神話のなかにある垂直 下降的な神観念など北方遊牧民文化の要素に関心を払う視点とは異なるものがあると思う。むしろア マテラス神話のなかでの東南アジア大陸部の文化につながる要素、例えば天の岩戸と鶏の鳴き声など の神話的要素などの存在からみると、この人種学的データは説得力がある。しかしながら、天皇制は 文化の問題であり、人種的な隔たりとは直接はかかわらないのではないか。人種学的な基層性やその 類似共通性だけでは国家を超える力としては弱いのではないか。国家、さまざまな制度は文化であり、 歴史的・後天的に形成された生活様式であり、遺伝子によって継承される先天的な身体の特質とはか かわりはない。制度としての国家、文化としての「日本」を超えるには、遺伝子による自己同一性を ふまえた基層を見据えるだけでは力にならないと思う。文化的自己同一言語をどう剔出し、どう見据 えるかが問われなければならない。その営みは私たち自身がしなければならないと思う。そうでなけ れば、日本国家成立以前から住んでいた人種の末裔というだけの自己同一になってしまうのではない か。
 「その営みは私たち自身がしなければならない」というときの「私たち」とは、琉球に生を受け継 いできた「私たち」という意味だと思う。前にその文章を引用させてもらった高良勉さんも琉球の人 だ。自分たちの手で琉球の文化的な基層を掘り起こそうとしている人たちだ。

 吉本さんが提出した人種学的データは琉球と蝦夷との類似共通性と、琉球・蝦夷とヤポネシア中央 部との間に大きな断層があることを示している。しかし私が持ったイメージでは、その断層はまったく無 関係という断層ではなくい。ヤポネシア全体に分布していた古層の上に、中央部だけ新来の人種が覆い かぶさって新たな層=天皇制の基層を形作った結果である。従って、琉球・蝦夷に保存されている古層と 同じ古層が天皇制の基層の下にうずもれて保存されている。たぶん、体内言語ではなく、文化的古層に ついてはそのようなイメージになると思う。

 さて、吉本さんが、琉球と蝦夷を結ぶ指標として三つ目に取り上げたのは「方言の分布」だ。国立国語 研究所の編纂「日本言語地図」という調査報告から「女」という言葉についてひとつのパターンを取り 出している。
 「女」という言葉にM系とO系があるという。


M系
 八重山諸島………「ミディウ(ム)」
 能登半島…………「メロウ」
 アイヌ語…………「メット」「メチ」「マチ」

 このM系の言葉は八重山諸島と北海道アイヌと、能登半島の突端の所だけに分布しているそうだ。
 ちなみに、最後の例の「マチ」は、小野小町の「マチ」や何々小町という美人の呼び方のときの 「マチ」で、もともとは女を意味するアイヌ語が語源だという。


 O系
 九州、四国、中国、近畿地方……「オナゴ」
 関東地方、中部地方………………「オンナ」
 東北地方……………………………「オナゴ」

 このような例を挙げた上で吉本さんは次のようにコメントしている。
いま標準語のようにいわれているオンナという言い方になります。オンナとオナゴは、関 西か関東かとか、西か東かということで、一応の分布の説明が済むわけです。方言、ある いは言葉の分布の時間性をかんがえれば、オンナとオナゴのちがいはそんな大昔までさかの ぼらなくてもよろしいでしょう。でも多分M系の言葉とオナゴ系のO系の言葉との分岐は、か なり古いものだとかんがえてよろしいんじゃないでしょうか。
 それはなぜかといいますと、この分布のパターンが、この場合にはウイルス言語の分布の パターンや、Gm遺伝子言語のパターンととてもよく似ているからです。つまり、おなじよう なとても似ているパターンをもっているので、M系とO系の分離の仕方は、南島を特徴づけ、 北方を特徴づけ、そして天皇制の支配が及んだ本土中央を中心とした地域と、はっきりした 断層をあらわしているだろうなとおもいます。

分布図2


 この種の言葉はたくさんあるという。吉本さんはもうひとつ「口」という言葉にもk系と FまたはH系の二つがあって、その分布もウイルス言語の分布や遺伝子言語のパターンととても よく似ていると指摘している。
 このあと、このようは問題の解明を課題とするモチーフを述べている。とても大事な視点 だと思うので、少し長いが省略なしで引用する。
 言葉の分布の仕方とか、訛りの仕方、それから歴史の時間に対応して、 必然的にかわっていく変化の仕方はさまざまで、簡単にいうことができ ません。しかし、そのかわり方に、共通のパターンをとりだせるとすれ ば、たぶん方言の分布は、たんなる方言の分布ではなくて、時間的な分 布、あるいは基層の深さの違いにまで拡大できるんではないかとおもい ます。もしー定の定数を設定しますと、方言の分布の仕方は基層の深さ、 あるいは時間的な相違に変換できるんじゃないかという気がします。
 その定数が何かということは、なかなか難しいことです。これはたく さんの例と、たくさんのほかからの問題も含めた考察が必要だとおもい ます。でもある一定の定数を決定しますと、相互に転換してみることが できるんではないかとかんがえております。

 普遍的な言葉からみた南島ということは、これからとてもかんがえて いきたいようなことです。ほかの隣接する分野からの智恵とか、助けと かをかりながら、どんどん突きつめていきたいことのひとつです。その ことをどうしてもお話してみたいとおもいました。そして、そこにはっ きりとある南島の基層の深さというものと、日本国の基盤の浅さという ものと、その両方の間にひとつの目安がつけられ、その目安から以前に ある基層に普遍的な映像と、普遍的な意味を与えることができれば、結 局は南島論は、単に南島だけの問題、あるいは日本国だけの問題ではな くて、世界史の問題につながるところまでいける可能性があるとかんが えます。

 皆さんのあいだにはどんな考えが流布されているか存じません。都市 と農村を対立させるとか、自然と人工を対立させるとか、後進地帯と先 進地帯を対立させるとかという、二元的対立の仕方が流布されているか もしれませんが、僕らが主戦場とかんがえているのはそこじゃないとお もっています。国家がいま世界史のなかの最大の障壁のひとつだとかん がえれば、その障壁がどこからどうこえられるか、それは基層からこえ るか、そうでなければ、さきほどからいいます世界都市性からこえるか、 どちらかからこえる以外にないと僕はおもいます。つまり、それをこえ て、普遍性に到達する以外にないとかんがえるのです。ですから、僕に とって都市論と南島論(あるいは北方論でもいいんです)はちっとも別 の問題ではありません。しかし、もしも都市と農村、後進地帯と先進地 帯、第三世界と第一世界というふうに、これをたんに対立させる観点を もったならとてつもないところにいってしまうと僕はおもっております。

 つまりすでにそこが主戦場だという時代は過ぎたというのが、僕など の認識です。国家の枠をこえていくには、上からも世界都市みたいなも のが必然的にそうなりつつあります。また、皆さんのおられる南島の基 層を国家よりさらに深いところまで掘ってそれをイメージ化できれば、 それはやはり国家をこえて、人類がまだ普遍性をもって、民族語とか種 族語とか、そういうものに分岐しない以前の母胎というところまでいえ れば、人類的な普遍性に到達する可能性を具えていると信じます。どう せいくんでしたら、そこまでいってほしいわけです。つまらないところ でへんな対立を設けて停滞しているのでは、ちょっと情けないような気 がします。もっと徹底的にいって、人類の普遍性に達するところまで基 層性を掘っていくのが、すでに現在の課題じゃないでしょうか。それが、 僕などの考え方です。
318 「日本」とは何か(10)
琉球と蝦夷(えぞ)を結ぶもの(3)
2005年7月1日(金)


 思い上がりや差別意識の裏には必ず無知が張り付いている。こういう物言いを、もちろん私は自戒を込め ていっている。
 ずいぶん以前に首都移転をめぐっての議論で財界人の一人の無知丸出しの発言に接して唖然と した経験が頭の片隅にあったが、それを網野さんが書きとめていた。
 十五、六年前、ある著名な洋酒会社の社長が、テレビの首都移転問題の討論で、仙台が名のりをあ げたのに対し、「あのような熊襲の住んでいる未開なところに、首都を遷せるものか」という趣旨の 発言をして大変な物議をかもしたことがある。これはまさしく、かつての征服者の流れをくむ関西人 の発言であり、関東人、東北人、中南部九州人は口がさけてもこのようなことは言わないであろう。  あろうことに、この社長は「熊襲」と「蝦夷」を間違っている。それは九州・東北それぞれに強烈 な反発をまきおこしたが、この直後、東北に旅をした私は東北人の怒りを直接、経験した。一生この 洋酒会社のウイスキーは口にしないといった友人はいまもそれを守っているし、この会社の商品の売 行はガタ落ちだったと聞いている。
 列島の地域社会の「日本国」に対する姿勢がけっして一様でないこと、その背景には「日本国」と 各地域社会の「侵略」「征服」を含む長い歴史のあることをこの事件はわれわれによく教えてくれる。

 別段どうでもいいことだけど、どういうわけか私は青年のころからこの洋酒会社のウイスキーを愛用 している。

 ところで、私は「北海道」ではなく「蝦夷(えぞ)」を地名として用いてい る。もともとアイヌ人たちが先住していた地域を何時から「北海道」というようになったのか詳らかで はないが、高良さんが「南島」という呼称にこだわりを持ったのと同じようなこだわりを、私は「北海 道」に感じる。
 「蝦夷(えみし)」はヤマト王権が用いた蔑称だが 「蝦夷(えぞ)」はもともとアイヌ語が起源ではないかと、これも詳らかでは ないが、勝手に解釈して「北海道」の代わりにあえて「蝦夷(えぞ)」を用い ている。間違っているかもしれない。どなたかご教示いただければ幸いです。

 さて、吉本さんは次にGm遺伝子を取り上げている。また脚注から。
Gm遺伝子
 血液型の分類には、ABO式やRh式など赤血球の免疫反応にもとづくものの他に、血清中の抗体 の種類による分類がある。そのうち、IgG(ガンマ・グロブリン)抗体を指標とするものが、Gm (ガンマ・マーカー)型である。
 Gm遺伝子はIgGを形成するアミノ酸の基本的な配列(H鎖)をつくりだす遺伝子。その組み合 わせの型は、人種・民族によって異なる。日本人を含む蒙古系民族では、四つの遺伝子によって 決定される九つの表現型を持つ。

 吉本さんによると、このGm遺伝子の言語としての性格は、一種の自己同ー言語だという。 またこの遺伝子はキャリアーからキャリアーへと一億年ぐらい変わらずに伝播されるという。 したがって、この遺伝子の出現頻度をその地域について調べていけば、ATLウィルスの場合と 同様に祖先が何者であって、いまは何者なのかということがはっきり出てくることになる。

 まず、Gm遺伝子を一番多くもっている種族はバイカル湖畔にいる北方モンゴル系の種族だということ を確認しておこう。
 次に吉本さんのお話から各地域の北方の蒙古系の遺伝子と南方蒙古系の遺伝子の割合を抜き書き する。(吉本さんは松本秀雄著「日本民族の源流」を参考にしているようです。)

(北方の蒙古系の遺伝子)対(南方蒙古系の遺伝子)
北海道(アイヌ)………80%対4・0%
東北地方から南は九州まで………南方的な要素8~10%
八重山諸島………81%対4・0%

 アイヌ人と八重山諸島の人たちは圧倒的に北方の蒙古系の遺伝子が多く、まったくといって よいほど一致いしている。また南方蒙古系の遺伝子については、東北から九州までの人たちは アイヌ人と八重山諸島の人たちより二倍ぐらい多いということになる。
 これについての吉本さんのコメントは次のようである。
 これをすぐに結びつけるのがいいかどうかは別としまして、縄文人及び縄文人以前的な日本人 が、北方蒙古系として日本列島に分布していました。そのところに数千年前に、南中国あたりを 起源とする南方蒙古系の人たちが入ってきました。その人たちはいずれにせよ、九州に来たり、 北の方から来たかもしれませんし、朝鮮半島を経由したかもしれません。それが日本全土に分 布していきました。しかし、八重山諸島と北海道アイヌでは、分布の要素、混血の要素を可能 なかぎり少なくしながら、いってみればもっとも基層性をたもちながら、現在まで存続してき たとみると、いちばんいい見方になるとおもわれます。
 天皇制は近畿地方に弥生時代以降に成立しているわけですから、天皇制の基盤は大体南中国 から入ってきた南方系でしょう。南方系の人達が8~10%の割合を占めるようなGm遺伝子の割合 になったそのときに、天皇制の基盤は日本列島に成立したとかんがえられればよろしいとおも います。つまり、遺伝子的な言語からみましても、南島は北方とともに、日本国家の成立より もはるかに以前の基層を、確固として存在の基礎として保持しているといえることになります。