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316 「日本」とは何か(9)
琉球と蝦夷(えぞ)を結ぶもの(1)
2005年6月29日(水)


 「日本列島」と書くのにためらいを感じる。琉球弧から蝦夷まで、一応現在の日本国の領土ではあるが、 「日本」列島と一括りにしてよいものか。
 吉本隆明さんが「柳田国男論集成」(JICC出版局)に収録されている論文で「ヤポネシア」という 呼称を用いている。今回のテーマに関係しそうな資料をいろいろ拾い読みしていて、その「ヤポネ シア」は実は島尾敏雄さんが提唱した名称であることを知った。

   1988年12月に那覇で「琉球弧の喚起力と南島論」というシンポジウムがもたれた。そのときの基調報告 (吉本隆明)とパネルディスカッションの記録、それとその後に提出されたパネラーたちの論文で構成 された本がある。書名はシンポジウムと同じ「琉球弧の喚起力と南島論」。(この本をこれからたびたび利用することに なる。)
 その本の中に高良勉さんの「うふゆー論序説」という論文がある。高良さんはその論文を、「南島」と いう呼称に常々感じていた違和を論じることから書き始めている。その論文で島尾敏雄さんが イメージした「ヤポネシア」に出会った。その部分を引用する。
 おそらく、〈南島〉という言葉の原イメージは、『日本書紀』まで遡るだろうと言われている。 ところで、〈南島〉という言葉の中には、どうしても〈北方の視線〉を感じてしまう。さらに言 えば〈中央/地方〉〈中心/辺境〉〈日本/沖縄〉という二項対立の思考と感性も。それ故私は 〈南島論〉という表現も、あんまり好きではない。
 このことは些細なことのようだが、重要な問題を孕んでいる。結論から言うと、私たちは、北は奄美か ら南は八重山までの列島を何と自己表現していいのか、安定した呼び名を持っていないのである。一方、 この琉球列島から、北海道にいたる列島を何と呼んでいいのか、安定した呼び名としての共同幻想をいま だ形成していないのだ。「日本」とか「ニッポン」とかの国家幻想に安住した感性を信じる人々以外には。  周知のように、奄美から八重山にいたる列島を「琉球弧」と呼び、その〈琉球弧〉から〈北海道〉まで の列島を「ヤポネシア」と名付けたのは、島尾敏雄であった。その島尾の初源のイメージを引いてみよう。


   長いあいだ背中を向けていた海の方をふり向いてみると、日本の島々が大陸から 少しばかりはがれた部分であることもまちがいはないが、他の反面は広大な太平洋 の南のあたりにちらぱった島々の群れつどいの中にあきらかに含まれていて、その 中でひとつの際立ったかたちを形づくっていることも否定できない。ひとつの試み は地図帳の中の日本の位置をそれらの島々を主題にして調節してみることだ。おそ らくは三つの弓なりの花かざりで組み合わされたヤポネシアのすがたがはっきりあ らわれてくるだろう。そのイメージは私を鼓舞する。


 つまり奄美諸島と沖縄島を中心にした沖縄諸島、宮古諸島、それに石垣島を主島 にした八重山諸島などをひっくるめてわたしは琉球弧と言いたいのです。沖縄と言 うと、どうも奄美が落ちてしまうし、宮古や八重山も、時によっては含まれてきま せん。琉球とだけ言った場合には、奄美を含めるかどうかに難点が出てくるので、 地理学上での琉球弧ということばが包括的でもあり適切だと思うのです。

 「ヤポネシア」はまだ広く認められた呼称ではないが、私はこれを用いることにする。

  さて7世紀末、「日本国」成立当初のヤポネシアはそれぞれの地域にさまざまな個性をもった 社会が営まれていた。そのヤポネシア社会に「日本国」はその国制=律令制度の画一的な貫徹を 強いようとした。この「日本国」による侵略・征服の経過を概観してみる。『「日本」とは何か』から 引用する。
 すでに「日本国」成立以前、7世紀の中葉から「倭国」の支配者は北陸北部・東北の 「蝦夷(えみし)」と呼んだ人々、さらに列島北方のツングース系の民族 ともいわれる「粛慎(みしはせ)」の「征服」にのり出し、これらの人々 を一応、「朝貢」させていた。
 しかし、「倭国」の国名を変更した「日本国」は、8世紀初頭になると、北陸北部の越後、東北南 部の陸奥に軍勢を派遣、東北の侵略を本格的に開始した。そして越後の北部と陸奥の西部を割いて、 東北の日本海側に出羽国を建て、「蝦夷」 ―― 東北人を圧迫しつつ国境をしだいに北上させる一方、 南島の人々多ね(「ね」の漢字はテキストファイルでは表示できな かった。)夜久(やく)・奄美・度感(とかん )などを朝貢させるとともに、南九州の「隼人(はやと)」と 呼ばれた人々も軍事力を背景に支配下に入れ、八世紀初頭には薩摩・大隅両国を置き、国郡の制を 一応、及ぼしている。
 この「日本国」の圧力に対し、東北人も南九州人もただちには屈伏せず抵抗し、「蝦夷」「隼人」の いわゆる「叛乱」がおこっているが、「隼人」については比較的早く鎮静化し、8世紀末には班田制 が実施され、南九州は「日本国」の国制の下に入った。

 これに対し、東北人は「日本国」の侵略に頑強に抵抗し続け、たやすく屈伏しようとしなかった。  「日本国」は一時期、東北南部に石城(いわき)石背(いわしろ)両国を建てているが、神亀元(724)年に多賀城を設置、 ここに陸奥国府を置いてさきの両国を陸奥に吸収し、桃生(ものう) ・秋田に柵を設けて、北への圧力を強めた。しかしこれに反発した東北人は宝亀五(774)年、 桃生・胆沢城を攻撃し、ここに近年、古代史研究者によって「38年戦争」といわれている、長期に 及んだ東北人と「日本国」との戦争が始まった。
「蝦夷」――東北人は胆沢城を攻め、多賀城を焼いたのに対し、8世紀末の天皇桓武は本格的 に大軍を派遣するが大敗を喫したため、さらに10万の軍勢を投入して 志波城(しわじよう)を築き、国境をさらに北に進めようとした。 しかし東北人の粘り強い抵抗に阻まれ、「日本国」はついに東北最北部を支配下に置くことのできない ままに、東北人と妥協し、九世紀初頭、桓武は「軍事」――東北侵略を止めざるをえなかったの である。

    その結果、奥六郡・山北(せんぼく)三郡は、一応、「日本国」の国制の 下に入ったが、事実上、東北人の自治区――「俘囚の地」であり、東北の最北部、現在の岩手・秋田 の北部から下北・津軽にかけての地には国郡の制が及ばず、「日本国」の外にあり、むしろこの地域は北海道南部、 渡島(おしま)と深く結びついていた。

 琉球と蝦夷(えぞ)はヤポネシアの北端と南端に遠く離れているが、 「日本国」の国制外にあったことで結ばれていた。
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