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313 「日本」とは何か(7)
日本人の思想の原基(1)
2005年6月26日(日)


 このシリーズの第一回で提示したもうひとつの問題は『「日本人の自然思想や生活思想の根」 は、はたして農業だろうか。』だった。これは「日本の伝統」や「日本の文化」を問うことと 同義である。

 「日本の伝統」や「日本の文化」を、国民を支配統合するための政治の道具に使おうとしている 連中が言う「日本の伝統」・「日本の文化」は、日本国の成立したときから数えれば約1.300年前 からのことに過ぎない。
 ところで言うもおろかな当たり前なことだが、日本国が成立・出現したときに 始めて日本列島に人が立ったわけではない。1964年に岩宿遺跡で13,000年前より古い旧石器時代の 人の痕跡が確認されて以来、旧石器時代の遺跡が続々と発掘され、今では100万年前にまでさかの ぼるという説もある。しかし、残された物からその精神生活までもが解明できるのは縄文時代以降 だろうか。
 『「日本」とは何か』を考えるとき、空間的にはアラスカ、シベリアの最北東部から マリアナ諸島、パラオ諸島に囲まれた広大なフィリッピン海までもを視野に入れる必要があると 網野さんは言っていたが、時間的には縄文時代までさかのぼらなければ真の姿は見えないのは ないか。吉本隆明さんや梅原猛さんはずいぶん以前からそのような主張をしている。

 その吉本さんと梅原さんが、中沢新一さんの司会で、1994年に対談をしている。その対談を 収録した本「日本人は思想したか」(新潮社)の第一章『日本人の「思想」の土台』から、 「縄文時代までさかのぼる」という問題意識を語り合っている部分を抜書きしてみる。三人の 第一級の思索者の鼎談はとても読みごたえがある。読んでいると次々とさまざまな問題・思い が脳裏をよぎるが、途中へたなチャチャは入れないでおく。今日はまず、中沢さんの問題提起と 梅原さんの応答部分を掲載する。
中沢
 いま期せずして国家という問題が出てきました。これは日本の思想という ものを考える時、一番のカギになる言葉だと思います。たとえば日本人の思想が どうしてお茶の思想とか、お花の思想というふうな、個別的で具体的な表現の形 態として出てくるかということにも、深く関係していると思います。日本人が何 か創造的な思想を試みようとすると、実感や情念がとらえているものと、仏教や 儒教や道教のような、超越的ないし普遍的な表現のちょうど中間のようなところ で表現を試みていたように思います。たとえば、仏教はとても普遍的な表現の体 系を持っているけれども、日本人の創造的な思想家は、その体系の中で作業をし たわけではなくて、自分の実感と普遍の体系との(はざま) というか、ずれというか、そういうところに立脚して思想をつくり出そうとしてきて、 そのずれというようなものが、日本的な仏教とか日本化された儒教としてあらわれてきて、 そのことが一番出ているのが国家にかかわる問題なのだろうと思います。
 普遍的な国家という考え方を、近代日本人はヘーゲルなどを通じて知りますが、 一日本人にとって国家が実体性を持った意味を含み始めた時に、とても重要な 意味を持ったのは中国に発生した国家という考え方だったと思います。梅原さん は古代史をめぐるさまざまなお仕事をなさってきましたが、そのとき日本に起こ ることを、つねに広いアジア史の中でとらえようとしていらっしゃったように思 います。日本人の国家という概念は、ヘーゲルが考えたような国家とも違うし、 中国人がとらえていた国家とも違う。日本がおかれていた位置や環境とのかかわ りで、国家というものについて日本の特殊性が発生している。いつまでたっても 日本人には国家というものが、ヘーゲルや中国人が考えたようなものにはなり得 ない。その日本的国家という問題を、梅原さんはいつ頃を起点にして考え始めた らよろしいとお考えでしょうか。

梅原
 私が日本研究に転向した時に、一番の問題は、戦争中からの日本主義はイ コール国家主義であった。そして日本の思想家も、非常にリベラルな思想家と言 われる人も、戦争中には完全に国家主義になった。日本的であることが国家主義 であるような、そういう日本主義とは無縁なものを私は探していた。だからいま 出たヘーゲル的な国家論は、日本でたとえて言うと和辻哲郎の『倫理学』にある。 あれは見事な哲学的体系なんですよ。人間を個人と考えず、人間の間柄で考える。 間柄という概念には個人主義を止揚する重要な思想が含まれている。私は儒教思 想の現代版だと思いますけど、現代でもなお十分傾聴に値する哲学的思想だった と思うんです。しかし結論は、全部国家の中に飲みこまれてしまう。最終的には 国家が万能であり、普遍的なものである。まあ、ヘーゲルの日本版だと思います けど、そういう和辻に対して、私は厳しく批判した。それから鈴木大拙ですら、 最後はやっぱり国のために死ぬことだ、それが無だというようなことを言ってい る。そういうことも一切私は許すことができなかった。私はそういうものの批判 者として登場した。
 特に私が仏教をやったのは、明治以後の神道は完全に国家主義になってしまっ て、そういう神道に対するアレルギー反応を長い間脱却することができなかった からです。神道に対してアレルギーを脱却できたのは、アイヌの宗教を知ってか らです。仏教は比較的国家主義の色彩が少なかった。また、その時は万葉集にも アレルギーがあって、万葉より古今を、と言った私の最初の論文の『美と宗教の 発見』で、古今を日本美の中心においたというのも、一種のアレルギー反応でし てね。国家というものはとにかくかなわない、という意識が非常に強かった。そ んなことを考えていたのですが、偶然のように、七、八世紀の、吉本さんの言っ た日本国家成立期の歴史を勉強するようになった。そしてそこで『隠された十字 架』や『水底の歌』が書かれた。そこで私が見出したものは、国家成立期に権力 から排除されて、怨みを飲んで死んでいった怨霊の姿だった。たとえば、聖徳太 子は一度は体制側の人だったけど、やがて藤原氏が律令体制をつくると、それに 滅ぼされて、そして怨霊になった。柿本人麿も同じように一旦は律令体制で高い 地位につくがやがて失脚して水死刑死をする。聖徳太子とか柿本人麿の怨霊とい うような、国家形成の影に隠れた怨霊が十何年の間、私のパトスそのものだった んですね。怨霊がのりうつったわけですが、なぜ怨霊が外ならぬ私にのりうつっ たのかはよく分らない。
 私の七、八世紀研究は、主として怨霊の研究に始まったのですが、しかし自ら 七、八世紀の日本の考察をせざるをえない。七、八世紀は、日本が中国から律令 制度を移入し、それで日本国家をつくった。しかしそれは中国の律令制度がその  まま移入されたものではない。あれは中国から借りて国家をつくったんですけど、 その中国文化は変質させられた。変質させたのは、それよりも前に日本に存在し た何かだろうということに気づいたんですね。その前に何があるか、それからい ろいろ思想的に問い詰めると、どうも縄文文化がそれではないか。そして、アイ ヌと沖縄に縄文文化が残っているんじゃないかというふうに考えてきた。そうす ると、吉本さんと思弁の方法は違うんですけど、結論は大変似ているところに行 っているような気がしているんだけど。そういうふうに日本を奥へ奥へと掘り下 げてゆくことによって、国家という枠を超えた、むしろ普遍的なところに達した。 そういうところに達したことによってやっと神道に対するアレルギーを捨てるこ とができた。アイヌや沖縄の宗教に、神道の原初的な姿を見た。そこから見れば 明治以後の神道は、これは神道と言えないようなものだ。しかし神道の国家主義 化はすでに律令時代に始まっていて、だから神道は二度大きな国家主義化を受け た。ひとつは律令時代、ひとつは明治以後。明治以後の神道は、神道とさえ言え ない、プロイセン主義なりナポレオン主義に伝統の殻を着せただけのようなもの だといま考えているんですけどね。
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