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308 「日本」とは何か(2)
「日本」という呼称について(1)
2005年6月21日(火)


 前回提出した問題に入る前に国名「日本」について確認しておきたいことがある。

  「日本」を「ニホン」と読むか「ニッポン」と読むかという問題もあるようだが、ここで問題にし ているのは「読み方」のことではない。が、ちなみに私はもっぱら「ニッポン」と読んでいる。とくに 理由はなくいつの間にかの習慣だ。うろ覚えの「シロジニアカク・・・」という「ヒノマル」の歌 では「アア ウツクシイ ニホンノハタハ」と「ニホン」だったと思う。スポーツ・ナショナリズム では「ガンバレ ニッポン」ともっぱら「ニッポン」を使っているようだ。まったく根拠のないあて ずっぽうだが、右翼系の人が使うのは「ニホン」かしら?「ニホン人ならはじをしれ!」とか「すば らしいニホン文化とニホンの伝統」とか「ニホンよい国カミの国」とかは、「ニッポン」より 「ニホン」のほうが合いそう。
 ヨタ話はこれくらいで。

 では「日本」という国名はいつから使われたのか。

 「日本人」は「倭人(わじん)」という呼称で、紀元前後に始めて文献に 登場する。
「夫れ楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国をなす。」(漢書地理志)
しかし、もちろん「倭人」は日本人ではない。

 いま「チャングムの誓い」という韓国ドラマを楽しんでいる。そのドラマに「倭寇」が登場するが、 ドラマでは「倭寇」を「日本人」として扱っており、扮装も日本の戦国武士風である。私はその 「倭寇」に強い違和感をもった。高校生のときに「倭寇」は一種の海賊だと習った。そのときは、 海を舞台に活動していた国際的な集団という印象をもった。

 読みさしのままの本をいま読み直している。網野善彦著『「日本」とはなにか』 (「日本の歴史00」講談社)。今回始めたシリーズの表題はこの本が念頭にあってのことだった。 しばらくこの本を利用させていただく。(なお、網野さんは惜しくも昨年2月27日に亡くなられた。 享年76才。合掌)

 『「日本」とはなにか』に「倭寇」についての記述がある。
 網野さんは日本の教科書が倭人=日本人のような記述をしていることを指摘している。また、 韓国・朝鮮においても日本人に対する蔑称に「倭奴」という言葉を用い、日本人による朝鮮への 暴虐として「倭寇・壬辰倭乱・日帝三十六年」をあげるのが韓国では常識だという。
 それに対して網野さんは「 しかし私は豊臣秀吉によって行われた二回にわたる日本国の朝鮮 侵略、「大日本帝国」が朝鮮半島を植民地とし、朝鮮民族の日本人化を強要したことについては、 一言の弁明もなく頭を下げるが、「倭寇」をこれに加えることについては、事実に反するとして 承服しない。」と述べている。そして今日までに実証されている「倭寇」の全体像を次のように 記述している。
「倭寇」は全体として、西日本の海の領主・商人、済州島・朝鮮半島南部・中国大陸南部の海上勢 力の海を舞台とした結びつき、ネットワークの動きであった。前期倭寇には朝鮮半島の 「禾尺(かしやく)才人(さいじん)」といわ れた賎民も加わったとされ、後期倭寇には日本列島人よりもむしろ中国大陸の明人の方が多かったと いわれている。そして一方で「倭語を解し、倭服を着る」といわれ、他方でその言語は「倭語でも 漢語でも」ないとされるように、「倭寇」は国家をこえ、国境に関わることなく、玄界灘・東シナ海 で独自な秩序を持って活動していたのである。
 実際、日本国の政府-室町幕府はこれを弾圧しており、援助などしてはおらず、東日本の人々は 「倭寇」とはほとんど無関係といってよかろう。そして、高麗・朝鮮、明の政府も、室町幕府ととも に、陸の秩序を背景にこうした海上勢力を「倭寇」、「海賊」として禁圧したのである。
 このように、「倭寇」の実態は国家をこえた海を生活の舞台とする人々の動きであり、「倭人」はけ っして日本人と同じではない。それゆえ「倭寇」を日本国による朝鮮半島に対する暴虐と見るのは、 まったくの誤りといわなくてはならない。

 「チャングムの誓い」の「倭寇」はこのような学問的に実証された歴史的事実を踏まえない 「無知」あるいは「偏見」の故の描写だ。アメリカ映画でもよく噴飯ものの「日本人像」に出会うが、 むろん目くじらを立てるほどのことではない。私にもたくさんの「無知」や「偏見」があるだろう。 しかし、「無知」や「偏見」はいずれ解消されるべきだ。いや、積極的に解消を心がけなくて はいけない。お題目として「平和」を唱えるより、そうした地道な努力のほうが数等重要だと思 う。

 さて、紀元前後に文献に現れた「倭人」に戻る。
「倭人」と、日本国成立後の日本人とは、列島西部においては重なるとしても、けっして同一では ない。『魏志』倭人伝に描かれる三世紀の「親魏倭王」卑弥呼をいただく「倭人」の勢力は、たと え邪馬台国が近畿にあったとしても、現在の東海地域以東には及んでいないと見てよかろう。それ はのちの広義の「東国」の地域である。
 さらに降って五世紀の倭王武、ワカタケルは宋の皇帝への上表文で、「東は毛人を征すること五十五 国・西は衆夷を服すること六十六国」といっている。ここで「毛人」といわれているのは「蝦 夷」の表現の一つとされ、「毛野(けぬ)」の「毛」をさし、この時期に は関東人・東北人など狭義の東国人であることは間違いない。「衆夷」は中部九州以南の人々であ ろうが、これらの人々のうち関東人と中部九州人は後にものべるように成立当初の日本国の国制の 下に入っているので「日本人」であるが、けっして「倭人」ではなかったのである。
 また「倭人」と呼ばれた人々は済州島・朝鮮半島南部などにもいたと見られるが、新羅王国成立 後、朝鮮半島の「倭人」は新羅人となっていった。このように「倭人」と「日本人」とが同一視でき ないことを、われわれは明確に確認しておく必要がある。
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