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289 統治形態論・「民主主義」とは何か(1)
教科書民主主義
2005年6月2日(木)


 朝日新聞(5月5日・夕刊)で橋本大三郎が天皇の継承問題についての論説を書いていた。 その最後のくだりはこうだった。
 天皇の血統が断絶して何が問題なのかと、私は言いたい。天皇システムと、民主主義・人権思想とが、 矛盾していることをまずみつめるべきだ。そもそも皇族は、人権が認められていない。結婚は「両性の 合意」によるのでなく、皇室会議の許可がいるし、職業選択の自由も参政権もない。皇族を辞める自由 もない。公務多忙で、「お世継ぎ」を期待され、受忍限度を超えたプレッシャーんにさらされ続ける。 こうした地位に生身の人間を縛りつけるのが戦後民主主義なら、それは本物の民主主義だろうか。皇位 継承者がいなければ、その機会に共和制に移行してもよいと思う。日ごろ皇室を敬えとか、人権尊重と か主張する人びとが、皇族の人権侵害に目をつぶるのは奇妙なことだ。皇室にすべての負担を押しつけ てよしとするのは、戦後民主主義の傲慢であろう。皇室を敬い人権を尊重するから、天皇システムに 幕を下ろすという選択があってよい。共和制に移行した日本国には天皇の代わりに大統領をおく。 この大統領は、政治にかかわらない元首だから、選挙で選んではいけない。任期を定め、有識者の選考 会議で選出して、国会が承認。儀式などの国事行為を行う。また皇室は、無形文化財の継承者として 存続、国民の募金で財団を設立して、手厚くサポートすることを提案したい。

 皇室が差別を基調とした現在の日本社会の象徴であるという認識には同意する。またいわば 皇室民営化論を提示しているがそれにも賛意を表しよう。しかしそれが「本物の民主主義」とか 「戦後民主主義」という文脈で語られているかぎり、その「皇室民営化論」は単なるヨタ話になって しまう。その点において私はこの論議に底抜けのオポチュニズムを感じる。この人は「民主主義」をど のように理解しているのだろうか。
  「民主主義とは、《関係者の全員が、対等な資格で、意志決定に加わることを原則にする政治制 度》をいう」という橋本の民主主義理解を、「『非国民』手帖」で「歪」氏が「学級会レベルの平板 な民主主義」と揶揄していたのを思い出した。(第109回参照)まったく進歩していないようだ。

 ここで思い出したことがある。もう4ヶ月ほども前になる。「市民インターネット新聞・JANJAN」 で「九条の会のアピールへのアピール」という九条の会のアピールを批判した記事にであった。 その記事があまりにも「いい気なもの」だったので、その記事への批判文を書いた。 (第190回~192回参照)JANJANではその記事の掲示板で議論が行われていたので私の批判文を 投稿してみた。最後のところで「国家論」を書くつもりだったが、抽象的な理論より分かりやす いだろうと思い、それに代えて秋山清氏の文を引用した。その最後のくだりを再度掲載する。
 国家観に関してもう一つ重要なことは「国家」と「市民」(私は「人民」という)の関係を 「支配-被支配」あるいは「抑圧-被抑圧」という関係から捉えることである。この観点から世界を 見れば、世界にはブッシュが言う様な「自由主義国家」対「ならず者国家」などという対立はなく、 あるのは「支配者・抑圧者」対「被支配者・被抑圧者」という対立があるばかりだという歴然とした 事実が大きく浮かび上がる。
 憲法前文は、この「支配者・抑圧者」対「被支配者・被抑圧者」という対立を克服するという課題 のための国家の役割を述べている。そしてこの課題は世界の全市民(人民)の共通の課題であるとも 言っている。「アピール」が「世界の市民の意思」と言っているのはそういうことだ。この私の理解 では「アピール」の言説にこれぽっちも「矛盾」はない。

 憲法「改正」において大きく意見が分かれる論点の多くは、国家観の違いに由来する。あなたと 「アピール」、あるいはあなたと私の、憲法を巡る意見の相違も煎じ詰めれば国家観の違いと言う ことになると思う。乏しいながら私の知る範囲では、上述のような国家観を私は今のところ一番「正しい」と確信し ている。

 最後に私が上述の国家観を「正しい」と断ずる所以の援護として、「国家について」で引用した 文章を再録して終わることにしよう。このような国家観とあなたがお持ちであろう国家観とを、 どうか、現実と照らし合わせてることによって比較検討されんことを。

 「国家の経済的繁栄が、そのまま日本人民衆の繁栄であるかのような錯覚に満ちわたっている。 日本の民衆は、自分たちが民衆にすぎないということすら、自覚していないのだ。かくては、毎日 の生活と生活環境への順応、治安の維持(支配のための)のための道徳と法律、その法律をつくる ための議会、議会のための選挙、われわれの坐臥、24時間、365日、この国家という権力機構の操作 の外に出ることはできない。繁栄といわれている現在ほど民衆の精神生活が、わが精神環境の外側 に吸収されて飢餓に瀕したことはなく、逆に国家権力がこれほど安定していることもない。国家が 民衆のものであるなどと、ぬけぬけとしたいい方があり、しかもなお民衆がそれを疑惑することすら できない。」

 「われわれは国家というものが、大衆の意志などとまるでまったく無関係な政府によって、政府 をつくる政党によって、政府をバックアップする階級によって、資本家によって、官僚によって、 あるいは地主らの総合的利益のためによって、つくられて運営されて、下級民衆にはそのための必 要によってのみ支配の手が緩急されるという事実をあまりにも痛切に経験しつつある。
(中略)
 国家、それは、社会主義を名乗ろうと王国であろうとデモクラシーの近代的国家であろうと、その 国家と民衆との関係は、圧制者と権力にしいたげられる奴隷との対立であることにかわりはない、と いうことにつきる。」 (秋山清「反逆の信条」より)

 このくだりについて、議論を主導していたらしい人(「アピールへのアピール」の筆者ではない)から 次のような反批判が掲示板に掲載された。
「国家」と「人民」は対立しません。対立させないためのシステムが、「民主主義」なのです。 民主主義は、国家を人民が運営していくためのシステムであり、それが本質です。国家という システムが人民に奉仕するために編み出されたのが、まさに民主主義なのです。

>ブッシュが言う様な「自由主義国家」対「ならず者国家」などという対立はなく、 あるのは「支配者・抑圧者」対「被支配者・被抑圧者」という対立があるばかりだという歴然とした 事実が大きく浮かび上がる。

とおっしゃいますが、ではそのブッシュ氏が権力を持っているのは何故でしょうか。ブッシュ氏を 権力者に選んだのは誰ですか?

「国家」と「人民」が対立しているのであれば、それは民主主義が機能不全に陥っている証左です。 そこで問題にされるべきは「民主主義システムの正常化」であり、「国家システムとの闘争」で はありません。

 安易にそれを対立させることは即ち民主主義の否定であり、そうであるならば、「国家」と 「人民」が対立しない別のモデルを示すべきなのです。

 秋山氏は間違っています。秋山氏が指摘したような搾取の構造があるのであれば、それを拒否する 権利をも人民に与えたのが民主主義なのですよ。秋山氏がしたことは、現在の社会にある矛盾点を 掘り出し、それを国家システムの問題と摩り替えているに過ぎません。

つまり、現在の社会にある問題点とは、我々一人一人が選択したことの結果・ひずみが顕在化しただ けのものであり、それは即ち我々自身の問題なのです。「民主主義とは、愚か者に滅ぶ権利すらも 与える」ものなのです。であれば我々がするべきことは、「賢い人民」になり、「よりよい国家 システム」を実現することではないでしょうか。

 ここで述べられている民主主義は「教科書民主主義」といったらよいだろうか。やはり凡庸で平板な 民主主義がはびこっている。
 『我々がするべきことは、「賢い人民」になり、「よりよい国家システム」を実現することではない でしょうか。』
 その通り。だがそのための第一歩は「教科書民主主義」を止揚することだ。「教科書民主主義」の 誤謬を知ることは「賢い人民」であるための必要条件なのだ。
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