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317 「日本」とは何か(9)
琉球と蝦夷(えぞ)を結ぶもの(2)
2005年6月30日(木)


 蝦夷の「38年戦争」を題材にした小説・高橋克彦著「火怨(かえん)」 (講談社文庫)を2,3年前に読んだ。大和の支配者より、蝦夷の住人たちの方が、比べ物にならない くらい高い精神文化を築いていたと思う。大和の支配者は野蛮で残虐である。私はこの物語の中で 蝦夷の人々に感情移入し、何度涙しただろうか。私は蝦夷のDNAを受け継いでいると確信したくらい だ。もっともこれは作者・高橋さんの力量に私が絡めとられただけのことかも知れない。

 シンポジウム「琉球弧の喚起力と南島論」での吉本隆明さんの基調報告の中に、琉球と蝦夷を結ぶ 指標となる興味深い指摘がある。三つ取り上げている。ウイルスと遺伝子を普遍的な「体内言語」と とらえて、そこからアプローチしている。もうひとつは文字通りの言語(方言)によるアプローチで ある。

まずATLウィルス。脚注によると
 成人T細胞白血病(Adult T-cell Leukemia)ウィルス。
 1981年に日本の研究者により、人の癌ウィルスとしてはじめて発見・確認されたレトロウィルス (遺伝情報を逆転写によっておこなうウィルス)。
 感染力は弱く、母乳・精液を介しての母子・夫婦感染と、輸血による人工的感染の経路が考えられ る。感染後の発病率もきわめて低く、約0・05%程度。
 人間以外にもサル(オナガザルの一部と類人猿の一部)から、ほぼ同様の構造を持つATLウィル スが検出され、感染の起源とそこからの進化・消滅の過程が推測される。

 ATLウィルスは母から子へと伝えられ、それ以外の伝播の仕方をしないので、母体から、その前の 母体へとたどっていくと、祖先までたどれるということになる。吉本さんは「これは言語の機能として いいますと、自己指示言語で、いつでも自分自身を指すという機能がATLウィルス・キャリア ーのもつ特徴だといえます。」と言っている。

 各地方におけるATLウィルスをキャリアーとしてもっている人の割合を吉本さんの講演から拾い出 して北のほうから順に並べてみると次のようになっている。


北海道におけるアイヌ人…… 45・2%
東北…………………………… l・0%
東京を含めた関東…………… 0・7%
近畿地方……………………… 1・0%
四国・中国…………………… 0・5%
九州地方……………………… 7・8%
八重山諸島…………………… 33・9%

 この分布を地図にまとめたものが掲載されているので、それを転載する。

分布図1


 これによると琉球と北海道の近親性がはっきりとあらられている。

 これに対する吉本さんのコメントは次のようである。
 このウィルス言語でわかることは、ひとつは天皇制の基盤は体内言語のひとつである ATLウィルス言語でいえば1・0%という数字です。つまり、1・0%という数字がいずれに せよ天皇制の根拠であるわけです。それにたいして八重山諸島を中心とする九州、南島 全般と北海道のアイヌはまさに天皇制の基盤にたいして断層をつくっています。このこ とは近年になってわかってきました。
 僕がはじめて南島論をやろうとかんがえたモチーフは、天皇制の基盤となるものを崩 していくにはどうしたらいいかということでした。そして天皇制成立より以前の問題が 南島にあるんじゃないかということでした。それを突きとめてみたいとかんがえて十何 年くらい前だと思いますが南島論にはいっていったとおもいます。
 いまはその問題はかなりな程度はっきりしてきました。天皇制の基盤はATLウィルスか らいえば、1・0%です。九州、それから南島、それから北海道のアイヌでは数倍から数 十倍の割合で天皇制の基盤にたいして、はっきりと断層を構成しているといえましょう。 さきほどの言葉でいえば、基層の映像として天皇制がつくった日本国家に比べれば、は るかに底の深いほうにはいって、まだ存在的な根拠をもっていることがとてもはっきりし てきたということです。それはATLウィルス・キャリアーは古アジア的な北方型のモンゴ ル系に固有なもので、いまのところこのウィルス・キャリアーは日本とアフリカだけに見 出されているものです。
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316 「日本」とは何か(9)
琉球と蝦夷(えぞ)を結ぶもの(1)
2005年6月29日(水)


 「日本列島」と書くのにためらいを感じる。琉球弧から蝦夷まで、一応現在の日本国の領土ではあるが、 「日本」列島と一括りにしてよいものか。
 吉本隆明さんが「柳田国男論集成」(JICC出版局)に収録されている論文で「ヤポネシア」という 呼称を用いている。今回のテーマに関係しそうな資料をいろいろ拾い読みしていて、その「ヤポネ シア」は実は島尾敏雄さんが提唱した名称であることを知った。

   1988年12月に那覇で「琉球弧の喚起力と南島論」というシンポジウムがもたれた。そのときの基調報告 (吉本隆明)とパネルディスカッションの記録、それとその後に提出されたパネラーたちの論文で構成 された本がある。書名はシンポジウムと同じ「琉球弧の喚起力と南島論」。(この本をこれからたびたび利用することに なる。)
 その本の中に高良勉さんの「うふゆー論序説」という論文がある。高良さんはその論文を、「南島」と いう呼称に常々感じていた違和を論じることから書き始めている。その論文で島尾敏雄さんが イメージした「ヤポネシア」に出会った。その部分を引用する。
 おそらく、〈南島〉という言葉の原イメージは、『日本書紀』まで遡るだろうと言われている。 ところで、〈南島〉という言葉の中には、どうしても〈北方の視線〉を感じてしまう。さらに言 えば〈中央/地方〉〈中心/辺境〉〈日本/沖縄〉という二項対立の思考と感性も。それ故私は 〈南島論〉という表現も、あんまり好きではない。
 このことは些細なことのようだが、重要な問題を孕んでいる。結論から言うと、私たちは、北は奄美か ら南は八重山までの列島を何と自己表現していいのか、安定した呼び名を持っていないのである。一方、 この琉球列島から、北海道にいたる列島を何と呼んでいいのか、安定した呼び名としての共同幻想をいま だ形成していないのだ。「日本」とか「ニッポン」とかの国家幻想に安住した感性を信じる人々以外には。  周知のように、奄美から八重山にいたる列島を「琉球弧」と呼び、その〈琉球弧〉から〈北海道〉まで の列島を「ヤポネシア」と名付けたのは、島尾敏雄であった。その島尾の初源のイメージを引いてみよう。


   長いあいだ背中を向けていた海の方をふり向いてみると、日本の島々が大陸から 少しばかりはがれた部分であることもまちがいはないが、他の反面は広大な太平洋 の南のあたりにちらぱった島々の群れつどいの中にあきらかに含まれていて、その 中でひとつの際立ったかたちを形づくっていることも否定できない。ひとつの試み は地図帳の中の日本の位置をそれらの島々を主題にして調節してみることだ。おそ らくは三つの弓なりの花かざりで組み合わされたヤポネシアのすがたがはっきりあ らわれてくるだろう。そのイメージは私を鼓舞する。


 つまり奄美諸島と沖縄島を中心にした沖縄諸島、宮古諸島、それに石垣島を主島 にした八重山諸島などをひっくるめてわたしは琉球弧と言いたいのです。沖縄と言 うと、どうも奄美が落ちてしまうし、宮古や八重山も、時によっては含まれてきま せん。琉球とだけ言った場合には、奄美を含めるかどうかに難点が出てくるので、 地理学上での琉球弧ということばが包括的でもあり適切だと思うのです。

 「ヤポネシア」はまだ広く認められた呼称ではないが、私はこれを用いることにする。

  さて7世紀末、「日本国」成立当初のヤポネシアはそれぞれの地域にさまざまな個性をもった 社会が営まれていた。そのヤポネシア社会に「日本国」はその国制=律令制度の画一的な貫徹を 強いようとした。この「日本国」による侵略・征服の経過を概観してみる。『「日本」とは何か』から 引用する。
 すでに「日本国」成立以前、7世紀の中葉から「倭国」の支配者は北陸北部・東北の 「蝦夷(えみし)」と呼んだ人々、さらに列島北方のツングース系の民族 ともいわれる「粛慎(みしはせ)」の「征服」にのり出し、これらの人々 を一応、「朝貢」させていた。
 しかし、「倭国」の国名を変更した「日本国」は、8世紀初頭になると、北陸北部の越後、東北南 部の陸奥に軍勢を派遣、東北の侵略を本格的に開始した。そして越後の北部と陸奥の西部を割いて、 東北の日本海側に出羽国を建て、「蝦夷」 ―― 東北人を圧迫しつつ国境をしだいに北上させる一方、 南島の人々多ね(「ね」の漢字はテキストファイルでは表示できな かった。)夜久(やく)・奄美・度感(とかん )などを朝貢させるとともに、南九州の「隼人(はやと)」と 呼ばれた人々も軍事力を背景に支配下に入れ、八世紀初頭には薩摩・大隅両国を置き、国郡の制を 一応、及ぼしている。
 この「日本国」の圧力に対し、東北人も南九州人もただちには屈伏せず抵抗し、「蝦夷」「隼人」の いわゆる「叛乱」がおこっているが、「隼人」については比較的早く鎮静化し、8世紀末には班田制 が実施され、南九州は「日本国」の国制の下に入った。

 これに対し、東北人は「日本国」の侵略に頑強に抵抗し続け、たやすく屈伏しようとしなかった。  「日本国」は一時期、東北南部に石城(いわき)石背(いわしろ)両国を建てているが、神亀元(724)年に多賀城を設置、 ここに陸奥国府を置いてさきの両国を陸奥に吸収し、桃生(ものう) ・秋田に柵を設けて、北への圧力を強めた。しかしこれに反発した東北人は宝亀五(774)年、 桃生・胆沢城を攻撃し、ここに近年、古代史研究者によって「38年戦争」といわれている、長期に 及んだ東北人と「日本国」との戦争が始まった。
「蝦夷」――東北人は胆沢城を攻め、多賀城を焼いたのに対し、8世紀末の天皇桓武は本格的 に大軍を派遣するが大敗を喫したため、さらに10万の軍勢を投入して 志波城(しわじよう)を築き、国境をさらに北に進めようとした。 しかし東北人の粘り強い抵抗に阻まれ、「日本国」はついに東北最北部を支配下に置くことのできない ままに、東北人と妥協し、九世紀初頭、桓武は「軍事」――東北侵略を止めざるをえなかったの である。

    その結果、奥六郡・山北(せんぼく)三郡は、一応、「日本国」の国制の 下に入ったが、事実上、東北人の自治区――「俘囚の地」であり、東北の最北部、現在の岩手・秋田 の北部から下北・津軽にかけての地には国郡の制が及ばず、「日本国」の外にあり、むしろこの地域は北海道南部、 渡島(おしま)と深く結びついていた。

 琉球と蝦夷(えぞ)はヤポネシアの北端と南端に遠く離れているが、 「日本国」の国制外にあったことで結ばれていた。
315 「日本」とは何か(8)
日本人の思想の原基(2)
2005年6月28日(火)


 前回の梅原さんの発言の後のやり取りは次のように進む。
中沢
 いま梅原さんから、同じ言葉が二度出ました。ふたつのちがう意味をこめ て、「普遍」という言葉を二回使われました。
 ひとつは、実感を超えて超越である普遍。これはたぷんヘーゲルの国家概念 や中国の国家みたいなところにたどりついて行くんだと思います。ところが 最後に梅原さんが、たとえば神道のようなものを通して普遍へ行くんだとおっし ゃったその普遍は、まえの普遍とちょっと違うのでしょうね。

梅原
 ちょっと違いますね。

中沢
 その、あとの方の普遍というのは、いまとこれからの日本が超近代という ような形で出てくるものとして探っている普遍なんじゃないかと思うのですね。 それはひょっとすると日本の国家が、前方へむかってさぐっているものとつなが っているんじゃないか。梅原さんの考えてらっしゃるアイヌの神道などは、ヘー ゲル的な普遍とは異質な、もうひとつの普遍に触れているのかも知れませんね。

梅原
 そうと言えるかもしれん。

中沢
 それは神道以前のもので、ひょっとするとそれは、オーストラリア原住民 の神道とか、南中国の少数民族の神道とか、チベット人の神道とか、そういう神 道につながっていて、そういう形でもうひとつの普遍というものがいま大きく浮 上してきた感じがしますが、このふたつの普遍が混同されて、普遍という問題を 考える時に、日本人の思考を混乱させているのではないでしょうか。
 これは吉本さんが超近代の問題として考えているテーマとつながっている、と 僕は思います。
 古代の向こうにあるもの、アジア的なものの向こうにあるもの、それを吉本さん はアフリカ的という言葉で表現しようとしています。それは新しい普遍につなが る考えです。
 いまお二人の話の中に期せずして普遍という言葉の、二通りの使い方というものが 浮上してきて、ヘーゲル的な普遍の国家や神道や日本国家に取り込まれてしまって、 見えなくなってしまうもうひとつの神道がそこで同時に出てきました。近代の原理を 解体していくものと、壊していくものと、縄文や南島のテーマが浮上してくるプロセス が、お二人の思想の中では同時進行しているような感じを受けるのですが。

吉本
 僕はそうだと思いますね。梅原さんのアイヌについての論文は、柳田国男 の初期の仕事から延長していくと大変よくわかり、位置づけがしやすいんですが、 とても重要で、僕はずいぶん影響を受けたように思うんですね。
 アイヌの問題や沖縄の問題は、いま「遡る普遍」という言い方をすれば、どうしても 出てくるんじゃないかなという感じです。それをヘーゲル、マルクス流の国家と直かに対応 させることはなかなかできないので、現在は、対応できそうな超近代のところを 睨んで持っていくよりしょうがないと思います。でも「遡る普遍」のところでは、 かなり確実に出てくるんじゃないかと思い込んでいるんです。
 ちょうど中間のところで、梅原さんの言われた神道があって、それはふたつの 理解ができます。明治以降、天皇制神道、あるいは伊勢神宮神道と結びついた意 味の神道と、それからそうじゃなくて、田舎へ帰れば鎮守様があって、お祭りが あって、とてもいいんだ、というのと二重性があるような気がするんです。明治 以降の天皇制神道と結びついた部分は、僕も梅原さんと同じでアレルギーが多い。 つまり自分が戦争中イカレた分だけアレルギーがあって、ということになります。 そこで、遡る神道といいましょうか、あるいは村々の鎮守様へ行く神道とはちょ っと分けなくちゃいけないよ、ということになってくる気がします。鎮守様とし ての神道みたいなのは宗教というふうに言わなくて、もっと風俗・習慣というと ころで生きられる部分があるように僕は思ってます。これは国家神道にまで編成 されちゃったものと区別しないといけない。国家神道に収斂させられてしまった ものは、何となく第二次大戦までが生命だったという気がして、それ以降はある としても、そんなに生きられるものとしてあるというわけではなく、壊れつつあ る過程としてあると考えたほうがいいんじゃないか、僕はそう思ってます。
 以上のやり取りで、梅原さんと吉本さんが、方法論は違っていても、同じ問題意識を持って 日本人の思想の原基にアプローチしようとしていることが分かると思う。
 この後、梅原さんは「アイヌや沖縄の宗教に、神道の原初的な姿を見た。」という前段の 発言を敷衍してその内容を詳述しているので、その部分を抄録しておく。
 七、八世紀の神道は祓い、政の神道なんですよ。それが私、なかなかわからなんだ。 『古事記』の書かれた時代、国家に有害なやつは祓ってしまう。そしてまだ祓わんやつは禊を させて改心させる。やはりこれは律令国家体制の産物だ、という点を考えんと神道は理解でき ない、と思った。そこまでは行ったんですけど、それから向こうの神道が見えてこなかった。
 そしてアイヌをやった時に、ほんとに目から鱗が落ちるようなショックを受けたのは、アイヌ 語の神の概念、神をあらわす言葉が全部、古代日本語と一致し、しかもその古代語の中にラマット なんていう言葉がある。ラマットというのはヤッコラマットという、祝詞や宣命にわずかに出てく る言葉で、本居宣長もこれは古代語が残ったんだと言ってる。そのラマットという言葉が魂という 意味でアイヌ語にある。それを知った時に、アイヌ語と日本語は同起源である、やっぱり日 本の古代語の縄文語がそこへ残ったんだろうということと同時に、神道の古い形 がアイヌの神道の中にあるという直観があったんですね。それでアイヌの神道を いろいろやってると、国家主義なんて全然関係ない。それはやはり森の中で人間 が宇宙の精霊と、魂たちと共存して生きて、その魂の力で自分たちの生活を守り、 そして死んでいき、あの世へ行ってまた魂がこの世へ帰ってくる。そういう信仰 であるということがわかった。
 その眼で沖縄を見ると、沖縄の神道もアイヌと同じような神道ではないか。柳 田国男や折口信夫は、今まで日本研究の外におかれた沖縄を日本研究の中に取り 入れた。しかしそれは弥生時代で日本本土を沖縄と結んだ、米で結んだ。つまり 沖縄は弥生時代の古い米文化が残ったものだとした。これはいわゆるあの柳田の 南方の島を伝わって稲がやって来るという説ですが、この説は実証的に否定され ている。こういう沖縄と本土を結ぶと、米栽培しないアイヌは落ちて、それは日 本じゃないということになる。私は柳田も記紀の史観に無意識に影響されている と思う。私は、それは違う、沖縄と日本というのは縄文 でつながるんじゃないか。アイヌ、沖縄、日本、この三つを結ぶものが日本的じゃ ないかと。ずっと思弁してそういうふうになってきたんですけどね。私は そこへ来て初めて、この原理はどうもいわゆる普遍的なんじゃないかと思った。 それは恐らく、中沢さんのおっしゃったようにアボリジニーやアメリカ・インディ アンとも同じだし、あるいはシベリアの狩猟採集民族と同じ、あるいはケルトとも 同じもので、一時代前の、人類の普遍的な原理がまだ残っていたんじゃないか。そ れが日本国家をつくった後にわずかに日本に残ってる。

 「日本本土と沖縄」を米で結ぼうとし、「米栽培しないアイヌ」を見落としてしまう ことは、柳田や折口の民俗学が「日本=瑞穂の国」という虚像の枠の中で展開されている ことからくる限界を示している。「日本=瑞穂の国」という虚像については、いずれ取り 上げる予定でいる。
314 詩をどうぞ(21)
2005年6月27日(月)


 外交の何たるかを知らないコイズミが近隣諸国とのいらぬ溝を深めている。コイズミは 神道は「日本の伝統」であり、「伝統に則って」靖国神社の参拝している、外国からとやかく 言われる筋合いはないとのたまう。
 梅原さんは「明治以後の神道は、神道とさえ言えない」という趣旨のことを繰り返し訴えている。 靖国神社も伝統的な神道とはまったく違うものであるという論旨を展開していて、政治家の靖国詣 でにも反対の意見を明らかにしている。
 昨年、コイズミは「伝統に則って」羽織袴で威儀を正して靖国神社に参拝した。新聞に報道された その時のかなり得意そうな写真を見たとき、私はなんて浅薄な伝統意識だろうと、嫌悪の念を禁じえ なかった。もちろん羽織袴に嫌悪したのではなく、羽織袴でつくろっている貧困な精神に対してであり、 羽織袴の中の「日本人意識」の夜郎自大ぶりに対してであった。
 網野さんが『「日本人」という語は日本国の国制の下にある人間集団をさす言葉であり、この言葉の 意味はそれ以上でも以下でもない』とわざわざ強調しなければならない理由は「日本人」に 余分な思い入れを盛り込んだ「日本人意識」なるものが今なおはばを利かせているからに他ならない。


   金子 光晴

一

九曜
 うめ鉢。
鷹の羽。
 紋どころはせなかにとまり、
袖に貼りつき、
 襟すぢに槌る。

溝菊をわたる

蜆蝶(しじみてふ)。
…………ふるい血すぢはおちぶれて、
むなしくほこる紋どころは、
金具にさび、
蒔絵に、(はが)れ、
だが、いまその紋は、人人の肌にぬぐうても
消えず、
月や、さざなみの
風景にそへて、うかび出る。

いおり。
沢瀉(おもだか)。
 鶴の丸。
紋どころはなほ、人のこころの
根ぶかい封建性のかげに
おくふかく
かがやく。


二

日本よ。人民たちは、紋どころにたよるながいならはし
 のために、虚栄ばかり、
ふすま、唐紙のかげには、そねみと、愚痴ばかり、
じくじくとふる雨、黴畳、……黄疸どもは、まなじりに
 小皺をよせ、
家運のために、銭を貯へ、
家系のために、婚儀をきそふ。

紋どころの羽織、はかまのわがすがたのいかめしさに人
 人は、ふっとんでゆくうすぐも、生死につづくかなし
 げな風土のなかで、
「くにがら」をおもふ。

                        
紋どころのためのいつはりは、正義。狡さは、功績(いさをし)。
紋どころのために死ぬことを、ほまれといふ。

をののく水田、
厠のにほふ
しつけた一家。

虱に似た穀粒をひろふ
貧乏。
とつくり頭の餓鬼たち、
うられるあまつ子。

疫病。
ながれるはげ椀。

霹靂のころげまはる草原の
つちけいろをした顔、顔。
――「怖るべき紋どころ」をみあげる
さかさまな眼。

井桁。
三つ菱。
むかひ藤。

扇面にちらす紋どころは、
ならぶ倉庫や
鉄扉。
煙突の横はらにも染めぬかれ、
或はながれる、
銀翼にもある。
紋どころをもはや、装飾(かざり)にすぎないといふものは、
神のごとく人が無擬で
正しいものは勝つといふ楽天家共である。

紋どころを蔑むものの遺骨よ。
おまへのひん曲った骨は、
紋どころにあつまる縁者におくられ、
紋どころを刻んだ墓石の下に
ねむらねはならぬ。
313 「日本」とは何か(7)
日本人の思想の原基(1)
2005年6月26日(日)


 このシリーズの第一回で提示したもうひとつの問題は『「日本人の自然思想や生活思想の根」 は、はたして農業だろうか。』だった。これは「日本の伝統」や「日本の文化」を問うことと 同義である。

 「日本の伝統」や「日本の文化」を、国民を支配統合するための政治の道具に使おうとしている 連中が言う「日本の伝統」・「日本の文化」は、日本国の成立したときから数えれば約1.300年前 からのことに過ぎない。
 ところで言うもおろかな当たり前なことだが、日本国が成立・出現したときに 始めて日本列島に人が立ったわけではない。1964年に岩宿遺跡で13,000年前より古い旧石器時代の 人の痕跡が確認されて以来、旧石器時代の遺跡が続々と発掘され、今では100万年前にまでさかの ぼるという説もある。しかし、残された物からその精神生活までもが解明できるのは縄文時代以降 だろうか。
 『「日本」とは何か』を考えるとき、空間的にはアラスカ、シベリアの最北東部から マリアナ諸島、パラオ諸島に囲まれた広大なフィリッピン海までもを視野に入れる必要があると 網野さんは言っていたが、時間的には縄文時代までさかのぼらなければ真の姿は見えないのは ないか。吉本隆明さんや梅原猛さんはずいぶん以前からそのような主張をしている。

 その吉本さんと梅原さんが、中沢新一さんの司会で、1994年に対談をしている。その対談を 収録した本「日本人は思想したか」(新潮社)の第一章『日本人の「思想」の土台』から、 「縄文時代までさかのぼる」という問題意識を語り合っている部分を抜書きしてみる。三人の 第一級の思索者の鼎談はとても読みごたえがある。読んでいると次々とさまざまな問題・思い が脳裏をよぎるが、途中へたなチャチャは入れないでおく。今日はまず、中沢さんの問題提起と 梅原さんの応答部分を掲載する。
中沢
 いま期せずして国家という問題が出てきました。これは日本の思想という ものを考える時、一番のカギになる言葉だと思います。たとえば日本人の思想が どうしてお茶の思想とか、お花の思想というふうな、個別的で具体的な表現の形 態として出てくるかということにも、深く関係していると思います。日本人が何 か創造的な思想を試みようとすると、実感や情念がとらえているものと、仏教や 儒教や道教のような、超越的ないし普遍的な表現のちょうど中間のようなところ で表現を試みていたように思います。たとえば、仏教はとても普遍的な表現の体 系を持っているけれども、日本人の創造的な思想家は、その体系の中で作業をし たわけではなくて、自分の実感と普遍の体系との(はざま) というか、ずれというか、そういうところに立脚して思想をつくり出そうとしてきて、 そのずれというようなものが、日本的な仏教とか日本化された儒教としてあらわれてきて、 そのことが一番出ているのが国家にかかわる問題なのだろうと思います。
 普遍的な国家という考え方を、近代日本人はヘーゲルなどを通じて知りますが、 一日本人にとって国家が実体性を持った意味を含み始めた時に、とても重要な 意味を持ったのは中国に発生した国家という考え方だったと思います。梅原さん は古代史をめぐるさまざまなお仕事をなさってきましたが、そのとき日本に起こ ることを、つねに広いアジア史の中でとらえようとしていらっしゃったように思 います。日本人の国家という概念は、ヘーゲルが考えたような国家とも違うし、 中国人がとらえていた国家とも違う。日本がおかれていた位置や環境とのかかわ りで、国家というものについて日本の特殊性が発生している。いつまでたっても 日本人には国家というものが、ヘーゲルや中国人が考えたようなものにはなり得 ない。その日本的国家という問題を、梅原さんはいつ頃を起点にして考え始めた らよろしいとお考えでしょうか。

梅原
 私が日本研究に転向した時に、一番の問題は、戦争中からの日本主義はイ コール国家主義であった。そして日本の思想家も、非常にリベラルな思想家と言 われる人も、戦争中には完全に国家主義になった。日本的であることが国家主義 であるような、そういう日本主義とは無縁なものを私は探していた。だからいま 出たヘーゲル的な国家論は、日本でたとえて言うと和辻哲郎の『倫理学』にある。 あれは見事な哲学的体系なんですよ。人間を個人と考えず、人間の間柄で考える。 間柄という概念には個人主義を止揚する重要な思想が含まれている。私は儒教思 想の現代版だと思いますけど、現代でもなお十分傾聴に値する哲学的思想だった と思うんです。しかし結論は、全部国家の中に飲みこまれてしまう。最終的には 国家が万能であり、普遍的なものである。まあ、ヘーゲルの日本版だと思います けど、そういう和辻に対して、私は厳しく批判した。それから鈴木大拙ですら、 最後はやっぱり国のために死ぬことだ、それが無だというようなことを言ってい る。そういうことも一切私は許すことができなかった。私はそういうものの批判 者として登場した。
 特に私が仏教をやったのは、明治以後の神道は完全に国家主義になってしまっ て、そういう神道に対するアレルギー反応を長い間脱却することができなかった からです。神道に対してアレルギーを脱却できたのは、アイヌの宗教を知ってか らです。仏教は比較的国家主義の色彩が少なかった。また、その時は万葉集にも アレルギーがあって、万葉より古今を、と言った私の最初の論文の『美と宗教の 発見』で、古今を日本美の中心においたというのも、一種のアレルギー反応でし てね。国家というものはとにかくかなわない、という意識が非常に強かった。そ んなことを考えていたのですが、偶然のように、七、八世紀の、吉本さんの言っ た日本国家成立期の歴史を勉強するようになった。そしてそこで『隠された十字 架』や『水底の歌』が書かれた。そこで私が見出したものは、国家成立期に権力 から排除されて、怨みを飲んで死んでいった怨霊の姿だった。たとえば、聖徳太 子は一度は体制側の人だったけど、やがて藤原氏が律令体制をつくると、それに 滅ぼされて、そして怨霊になった。柿本人麿も同じように一旦は律令体制で高い 地位につくがやがて失脚して水死刑死をする。聖徳太子とか柿本人麿の怨霊とい うような、国家形成の影に隠れた怨霊が十何年の間、私のパトスそのものだった んですね。怨霊がのりうつったわけですが、なぜ怨霊が外ならぬ私にのりうつっ たのかはよく分らない。
 私の七、八世紀研究は、主として怨霊の研究に始まったのですが、しかし自ら 七、八世紀の日本の考察をせざるをえない。七、八世紀は、日本が中国から律令 制度を移入し、それで日本国家をつくった。しかしそれは中国の律令制度がその  まま移入されたものではない。あれは中国から借りて国家をつくったんですけど、 その中国文化は変質させられた。変質させたのは、それよりも前に日本に存在し た何かだろうということに気づいたんですね。その前に何があるか、それからい ろいろ思想的に問い詰めると、どうも縄文文化がそれではないか。そして、アイ ヌと沖縄に縄文文化が残っているんじゃないかというふうに考えてきた。そうす ると、吉本さんと思弁の方法は違うんですけど、結論は大変似ているところに行 っているような気がしているんだけど。そういうふうに日本を奥へ奥へと掘り下 げてゆくことによって、国家という枠を超えた、むしろ普遍的なところに達した。 そういうところに達したことによってやっと神道に対するアレルギーを捨てるこ とができた。アイヌや沖縄の宗教に、神道の原初的な姿を見た。そこから見れば 明治以後の神道は、これは神道と言えないようなものだ。しかし神道の国家主義 化はすでに律令時代に始まっていて、だから神道は二度大きな国家主義化を受け た。ひとつは律令時代、ひとつは明治以後。明治以後の神道は、神道とさえ言え ない、プロイセン主義なりナポレオン主義に伝統の殻を着せただけのようなもの だといま考えているんですけどね。
312 「日本」とは何か(6)
「稀なる孤島」という虚像(2)
2005年6月25日(土)


 網野さんは高校の教員時代(1960年ころ)を振り返って、そのころ教えていた 「縄文文化」についての「常識」を次のように述べている。
 縄文文化は日本列島が島になってからの「島国文化」であり、その文化圏は北海道から先島諸島を のぞく沖縄までといわれていた。縄文文化の範囲を示すそのころの日本地図には、宗谷海峡、朝鮮 海峡にきれいに線が通っており、ほぼ日本国の領土がふくまれていた。そして縄文文化こそ日本文化 の基底をなす文化という主張もなされていたのである。私もまた、当時はこの見方に立って生徒たち に教えたことは間違いない。

 網野さんはその後、1973年にはじめて対馬を訪れたときの体験から、その「常識」が如何に誤謬 に満ちたものであるかを思い知らされたことを書き留めている。
 はじめて対馬に渡り、北端の比田勝(ひだかつ)に行ったとき、私は 晴れた日には朝鮮半島がよく見えることを知った。そして、自衛隊のレーダー基地の性能の優秀 な望遠鏡で見ると、朝鮮半島の汽車の煙や乾してある洗濯物まで見えるという土地の人の話を聞 いたのである。もちろんこれは誇張であろうが、さきの地図にもみられる通り、対馬と朝鮮半島の 間の朝鮮海峡が、きわめて狭く、近いことをそのとき私ははっきりと認識することができた。後に 聞いたところでは、この海峡は泳ぎが達者なら、たやすく渡れるということであった。
 これに対し、博多から壱岐を経て対馬に渡ったときの船は、天気もよく、さして海も荒れていた とは思われない状況であったにもかかわらず、とくに壱岐を出港してからはピッチング、ローリン グともに著しく、身体をよこたえて手すりにしっかりつかまっていないと、転がってしまうほどの 揺れ方で、酔いどめの薬をのんでどうやら無事、対馬に辿りついた。玄界灘の波は荒い、と私は 痛感したのであるが、この経験を経て、あるときフッと思った。これだけの荒い海を縄文時代の船で 渡れたのなら、なぜ、目の前に見える朝鮮半島に対馬の船が渡らなかったのだろうか。縄文文化の境 が対馬と朝鮮半島の間で引けるなどということが、ありうるのだろうか。朝鮮海峡を文化が渡らな かったことを証明するほうが難かしいのではなかろうか。

 ごく真っ当な考えだと思う。私は三宅島に居住していたことがあるが、悪天候の時の船旅の酷さを 思い出す。穏やかな日和でも日によっては岸壁に打ち寄せる波は激しく高い。黒潮が隔てる、まさに 孤島と言ってよい三宅島にも縄文時代から人が住んでいた。日本海という内海に人の往来がなかった はずがない。
 「日本海」という呼称をつかって思い出したことがある。網野さんは日本海を「日本海」と括弧つ きで用いている。ここで「日本海」という呼称についての網野さんの見解を聞いておこう。
 そしてこう考えてくると、日本列島、「沿海州」、朝鮮半島に囲まれた内海を、「日本海」と呼ぶの は僭称ではないかと思われる。秦がシナになり、地名化したシナとは違い、「日本」は地名ではな く、いまも特定の国家の名前だからであり、もとよりこれは「日本帝国主義」などとは無関係に、17 七世紀から西欧の地図に用いられてきた名称であるとはいえ、多くの国民のとりまくこの海に、特定 の一国家の国名を冠するのは、やはり海の特質になじまない。
 いつかこの内海をとりまく地域のすべての人々の合意の下で、この海にふさわしくすばらしい呼称 のきまる日が、一日も早く来ることを、心から期待したい。すでに韓国の知識人から「青海」という 提案が行われており、これはエメラルド色の美しいこの海の特質をよく表現しえた名称と私は考える が、これをふくめてさまざまな提案が各方面から行われるとよいのではなかろうか。ただ当面、本書 ではこうしたことを前提にしたうえで、便宜、現行の「日本海」を用いることとする。

 さて、網野さんの縄文文化圏についての疑問はその後、渡辺誠という学者さんが実証的に解決している という。
 渡辺氏によると結合釣針、石鋸(いしのこ)といわれる黒曜石を用いた括、 曾畑式(そばたしき)土器などの共通した文化を持つ海民が、縄文時代 前期から朝鮮半島東南岸、対馬、壱岐、北九州にかけての海で活動していた。少し時代が降ると、 その動きは東シナ海に及び、沖縄や山陰・瀬戸内海にもその動きが見られると渡辺氏は指摘して おり、縄文文化がけっして日本列島だけで完結などしていなかったことが、これによってあきらか にされたのである。
 しかもこの列島西部の文化が、列島東部を中心に繁栄した縄文文化とは異質であった点も、重要で あり、こうした列島東部の文化はアジア大陸の北東部と関係があったことも、近年、証明されつつあ ると聞いている。

 真っ当な想像力があれば誰にでも疑えるような間違った「常識」が、どうして日本人の中に深く溶け込 んでしまったのだろうか。その根源は、もちろん、明治以来の日本国家の施策にある。
 (日本列島は孤島という)虚像をあたかも真実であるかのごとく日本人に刷り込んだのは、とくに 明治以降の近代国家であり、さきの島々を領土として国民国家をつくり出すという課題を自らの課題 とした政府主流の選んだ一つの選択肢であった。政府は海が人と人とを結びつける道であることに目 をつぶり、海が人と人とを隔てる国境であることを国民に徹底して教えこみ、海軍力の強化を至上命 令として推進したのである。

 その行く着いた果てが、あの無謀な戦争だった。その悲惨な大破綻が、海という自然のあり方・海の 世界の特質を無視した国家の意志の破綻だったという事実を、はっきりと確認しておく必要があると、網野さん は強調している。大日本帝国が自ら掘った墓穴を改めて確認しておこう。
 アジア・太平洋戦争のさい、「大日本帝国」はこの広大な世界に対し、まさしく陸地支配のために 大軍を派遣し、はるか北から南までの島々を占領した。いまの若い人たちはこれらの島々の地名、と くに東南アジア・オセアニアの地名は観光地でなければ知らない。短大で教えていたとき、太平洋の 地図をみせて日本軍の占領していた範囲を示したところ、学生たちはまったく目をみはり、衝撃をう けたようだった。しかし私のように、戦時中を生きてきたものには、これらの島々、都市の地名は意 外なほどに記憶に残っており、ニューブリテン、ブーゲンビル、ガダルカナルなどの島の地図は、い まも頭に浮かぶほどなのである。このあたりに、現在の老人と若者との間の体験、知識の決定的な落 差があるといわなくてはならない。
 それだけにあらためて強調しておきたいが、こうした日本軍による島々の占領によって、これらの 島々に住む人々が多大な犠牲を強いられるとともに、アメリカ軍との戦闘を通じて、膨大な数の両軍 の兵士たちが命を失ったのである。これは海の世界に、陸の支配の論理を持ちこみ、巨大な帝国をつ くろうとしたこの「大日本帝国」の企図が、いかに現実離れした無謀な試みであったかを、莫大な流 血の犠牲を通して白日の下にあきらかにしたのであり、もとより二度と、こうした愚挙がくり返され てはならない。

 地図3

 「総合世界史図表」(第一学習社)より

 この日本の愚挙が明確に物語っているように、艦船などの海上輸送の手段が大きな発達をとげた近 代になっても、大軍が一定の期間に渡ったり、また渡海・上陸した軍隊に武器・食糧を供給するため に、海がきわめて大きな障害となることは間違いない。もとよりこれに敵対し、渡海を阻止し ようとする側は、こうした海の障害を最大限に利用したのである。それゆえ、アジア・太平洋戦争の さいの南方への兵員・物資の輸送が困難をきわめ、南太平洋の島々では餓死する兵士も少なからず いた。

 秀吉の朝鮮侵略の大敗も、日本を攻撃した大帝国元の大敗も、けだし同じ轍を踏んだ悲惨な 誤りだった。
 海は人と人をつなぐ確かな道であるとともに、人と人を隔てる障壁でもある。歴史上の問題も、 この当たり前と言えば当たり前の事実を見据えた上で、考えなければならない。
311 「日本」とは何か(5)
「稀なる孤島」という虚像(1)
2005年6月24日(金)


 今回は、第一回目に提示した問題『「日本は四面環海の島国」であるのは確かだが、「稀なる孤島」 だったのだろうか。』を取り上げる。この問題の解明も網野さんの『「日本」とは何か』に負う。

 日本列島を地理的側面から論じる場合、五つの内海をはじめ、少なくとも以下に述べるくらいの広い 視野をもって論じるべきであると、網野さんは言う。そしてもう一つ、「それは陸の支配の論理では なく、海そのものの特質を十二分に視界に入れた見方に立つ必要がある」と言っている。
 まず、網野さんが描写している壮大な地理的視野を地図を見ながら確認しよう。

地図1


 アジア大陸の東辺には、北から南に、五つの巨大な内海が連なっている。
 北米大陸のアラスカ、シベリアの最北東部、カムチャツカ半島東岸、そしてアレウト(アリューシ ャン)列島で囲まれた、ベーリング海が最北にひろがる。アメリカ大陸とアジア大陸はベーリング海 峡で結ばれている。
 その南に、カムチャツカ半島西部、シベリア東部、サハリン東岸、北海道東部、そして千島(クリ ル)列島で囲まれるオホーツク海がひらけている。
 それに続いて、サハリン西岸、日本列島の西岸、朝鮮半島東部、いわゆる「沿海州」にとりまかれ た「日本海」が、まさしく湖のような姿を見せている。
 さらにその南には朝鮮半島西岸、九州西部、南西(沖縄)諸島、台湾、中国大陸の東岸に囲まれ、 黄海を内懐に抱く東シナ海の広い空間がある。
 そして最も南に、台湾、フィリッピン群島、中国大陸南部、インドシナ半島、マレー半島、ボルネ オ島がかかえているのが南シナ海である。

 この海から西に向い、マラッカ海峡をこえるとアンダマン海、ベンガル湾がひろがり、インドへの 道がひらけ、東に向うと、いわゆる東南アジア ―― インドネシアからオセアニア ―― ニュー ギニア、オーストラリアに海の道が通じている。
 そしてさらに東には南太平洋の島々が連り、南米大陸に及ぶのである。

 また、日本列島の東南岸、南西諸島、台湾、フィリッピン群島を結ぶ島々と、伊豆諸島、小笠原諸 島、マリアナ諸島、パラオ諸島に囲まれた広大なフィリッピン海がひろがっている。

 次に、「海そのものの特質」を確認しよう。
 気候の変動の影響を強くうける海の世界は時には激しく荒れて人の往来を拒む。この故に、 海に囲まれた日本国は外敵からの攻撃、異民族の進攻を受けることがきわめて少なかった。 しかし、だからと言って日本列島を「稀なる孤島」というのは虚像に過ぎない。 網野さんは次のように言っている。
 しかしそれは日本国、日本列島が海によって他の地域から孤立していたことを意味するものでは 決してない。急がず慌てず、日和を十分に見定めて航行すれば、平穏な海ほど安定した快適な交通路 はないといってよい。それゆえ、長い時間をかければ多くの人も膨大な物も、海を通じて運ぶことが できるのである。荒れた海は、たしかに人と人とを隔てる障壁になるが、こうした穏やかな海は、人 と人とを緊密に結びつける、太く安定した交通路であった。
 そして青森の三内丸山遺跡から新潟のヒスイや北海道の黒曜石が出土する事実、福井の鳥浜遺跡 から船が発掘されたことなどによってすでに証明されているように、船による広域的な活動は縄文 時代以前にまで遡る。とすれば、日本列島がまさしく列島になった縄文時代以後も、さきにふれた 周辺の海を通じて、多くの人や物がたえまなく、この列島に出入していたことは確実といわなくて はならない。
 実際、日本列島はアジア大陸の北方と南方を結ぶ巨大な懸け橋の一部であった。

 網野さんは地図をもう一葉提示している。 「環日本海文化」に着目し、大きなシンポジウムを たびたび開催するなど、熱心に「日本海」を通じての諸国間の交流を追求している富山県が が作成した地図だという。(「環日本海諸国図/富山中心正距方位図(350万分1)

  地図2


この地図についての網野さんのコメントは次のようである。
 日本列島をアジア大陸から見るような形で、大陸の上によこたえ、富山を中心に250キロ、500キロ から1500キロまでの同心円を描いた地図で、実態は通常の地図と同じであるが、この地図からうける 印象はまことに新鮮で、ふつうの世界地図の中の日本列島とはまったく異なったイメージを うけとることができる。
 なにより、サハリンと大陸との間が結氷すれば歩いて渡れるほど狭いことや、対馬と朝鮮半島の 間の狭さ ―― 晴れた日には対馬の北部から朝鮮半島がはっきり見えるほどの狭さを視覚的に 確認することができる。そして日本列島、南西諸島の懸け橋としての役割が非常にはっきりと浮 かび上がり、「日本海」、東シナ海は列島と大陸に囲まれた内海、とくに「日本海」はかつて 陸続きだった列島と大陸に抱かれた湖のころの面影を地図の上に鮮やかにとどめている。
 そしてこの地図を見ると、北海道、本州、四国、九州等の島々を領土とする「日本国」が、海 を国境として他の地域から隔てられた「孤立した島国」であるという日本人に広く浸透した日本像 が、まったくの思いこみでしかない虚像であることが、だれの目にもあきらかになる。
310 「日本」とは何か(4)
「日本」という呼称について(3)
2005年6月23日(木)


 今回は、国号として「倭」や「やまと」ではなくなぜ「日本」が選ばれたのか、という問題 を取り上げよう。

 この問に対して誰もがすぐに思いつくのは7世紀初頭に遣隋使が持参した倭王の国書に書かれて いた次の文言だろう。
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」
 今国書に対して、時の皇帝・煬帝(ようだい)は機嫌を損ねている。
「蛮夷の書、無礼なる者有り、復た以って聞する勿れ」
と言ったと伝えられている。(隋書倭国伝)

 これについて、網野さんは次のように解説している。
しかしこの国号は、西郷信綱氏や吉田孝氏の指摘する通り、太陽神信仰、東の方向をよしとする 志向を背景としており、中国大陸の大帝国を強烈に意識した国号であることは間違いない。 「日本」は「日の本」、東の日の出るところ「日出づる処」を意味しているが、いうまでもなく それは西の中国大陸に対してのことであり、ハワイから見れば日本列島は「日没する処」に当るこ とになる。

 これに次いで、この国号について過去に行われてきたいろいろな議論が紹介がされている。 私には初めて知ることばかりで、大変興味深く読んだ。少し長いがそのくだりを全文掲載する。
この国号については、平安時代から疑問が発せられており、承平6(936)年の『日本書紀』の 講義(『日本書紀私記』)において、参議紀淑光(さんぎきのよしみつ) が「倭国」を「日本」といった理由を質問したのに対し、講師は『隋書』東夷伝の「日出づる処の 天子」を引いて、日の出るところの意と「日本」の説明をしたところ、淑光はふたたび質問し、 たしかに「倭国」は大唐の東にあり、日の出る方角にあるが、この国にいて見ると、太陽は国の中 からは出ないではないか、それなのになぜ「日出づる国」というのかと尋ねている。これに対し講師 は、唐から見て日の出る東の方角だから「日本」というのだと答えているが、岩橋小弥太氏も 「よほど頭の善い人だった」と評しているように、この淑光の質問はみごとにこの国号の本質を衝い ているといってよい。

 このように、この国号は「日本」という文字に則してみれば、けっして特定の地名でも、王朝の創 始者の姓でもなく、東の方向をさす意味であり、しかも中国大陸に視点を置いた国名であることは間 違いない。そこに中国大陸の大帝国を強く意識しつつ、自らを小帝国として対抗しようとしたヤマト の支配者の姿勢をよくうかがうことができるが、反面、それは唐帝国にとらわれた国号であり、真の 意味で自らの足で立った自立とはいい難いともいうことができる。

 それゆえ、穏健なナショナリストである岩橋小弥太氏は、この解釈をとると、自分が左の人からは 右さん、右の人からは左さんといわれることになり、「分裂症」的になるとして、ヤマトの枕詞に 「日の本」とある点に着目、そこに国号の淵源を求めている。しかし吉田孝氏のいうように、『万葉 集』の中で「日の本」がヤマトの枕詞となったのは一例しかなく、しかもそれは「日本」という国号 の決ったのちであり、岩橋小弥太氏の説は成り立ち得ないであろう。

 この国号はまさしく「分裂症」的であり、中国大陸から見た国名であった。紀淑光の疑問はその点 を的確についたのであるが、それより前、延喜4(904)年の講義のさいにも、「いま日本といって いるのは、唐朝が名づけたのか、わが国が自ら称したのか」という質問が出たのに対し、その時の講 師は「唐から名づけたのだ」と明言している(『釈日本紀』)。実際『史記正義』という大陸側の書に は、則天武后が「倭国を改めて日本国」としたとあり、そうした見方も早くからあったのである。

 もとよりこれは『旧唐書』の記事などから見て明白な誤りであるとはいえ、平安時代中期、すでに こうした誤解が学者の中にも生れている点に注意すべきで、それは「日本」という国号自体の持つ問 題であったといわなくてはならない。それゆえこれ以後、岩橋小弥太氏が「皆てんでんに勝手なこと を主張していたようにも思われる」と慨歎したように、国号をめぐる議論は錯綜をきわめている。

 その中で江戸時代後期、この国号を「大嫌い」といった国家神道家が現われた。幕末、尊王攘夷論 によって知られた水戸学者東湖の父藤田幽谷の書簡に、「日本国号」について近ごろさかんに議論 があることにふれた一通があり、その中に「一種の国家神道を張」る「会津士人佐藤忠満」の「一奇 談」として「日本の号ハ唐人より呼候を、其まゝ此方にて唐人へ対候て称する所のみ」と主張する 佐藤が「国号を申候事、大嫌之様子」と記されている。幽谷はこれに対し、佐藤のいう通りだが、 唐人から呼ぶなら「日(×)」というだろうが、 「日(×)」の字を用いた点に「倭人」らしさが見えるから、 この国号は「此方」で建てたことは間違いないと答えたが、これは佐藤の方が筋が通っており、幽谷 の答えはこじつけといえよう(この書簡については長山靖生氏に教えていただいた)。

 最後に次のように、「日本大好き」右翼を皮肉っている。
 このように、後年の「国粋主義」につながる人が「日本」という国名を「大嫌い」といっており、 それはそれなりに筋が通っている。1996年、NHKの人間大学で「日本史再考」というテーマで 放送したとき、かつて一部の支配者がきめたこの国号は、われわれ国民の総意で変えることができる とのべたところ、「日本が嫌いなら日本からでてゆけ」という警告のはがき、手紙をいただいた。し かしこうした立場に立つ人々こそ、さきの「国家神道家」の「筋の通った」主張を継承し、「日本」 を「大嫌い」というべきであろうし、中国大陸側に視点を置いたこの国号など、ただちに変更すべし という運動をおこされるのが当然だと思う。私自身は、本書のように、千三百年続いたこの 「日本」の徹底的総括を不可欠の課題と考えているので、もとよりそうした運動にただちに与する つもりはなが。
309 「日本」とは何か(3)
「日本」という呼称について(2)
2005年6月22日(水)


 続いて網野さんは「日本人」という呼称について、あらためて強調しておきたいと、次のよう に述べている。
「日本人」という語は日本国の国制の下にある人間集団をさす言葉であり、 この言葉の意味はそれ以上でも以下でもないということである。「日本」が地名ではなく、 特定の時点で、特定の意味をこめて、特定の人々の定めた国家の名前 ―― 国号である以上、 これは当然のことと私は考える。それゆえ、日本国の成立・出現以前には、日本も日本人も存在 せず、その国制の外にある人々は日本人ではない。「聖徳太子」とのちによばれた 厩戸王子(うまやどのみこ)は「倭人」であり、日本人ではない のであり、日本国成立当初、東北中北部の人々、南九州人は日本人ではない。
 近代に入っても同様である。江戸時代までは日本人でなかったアイヌ・琉球人は、明治政府によっ て強制的に日本人にされ、植民地になってからの台湾では台湾人、朝鮮半島では朝鮮人が、日本人と なることを権力によって強要されたのである。
「民族」の問題をそこに入れると、ことは単純でなくなってくるので、それについては後に若干のベ るが、日本人について、これまで「民族」、人種、あるいは文化の問題などを混入させ、さまざまな 思い入れや意味を加えて議論されてきたために混乱がおこり、日本人自身の自己認識を混濁させてき たと考えられるので、私は単純に、今後とも「日本人」の語は日本国の国制の下に置かれた人々とい う意味で用い続けたいと思う。
 そして、そう考えると「倭人」はけっして「日本人」と同じではないのである。

 それでは「日本」という国名はいつ定められたのか。
 この「日本人の自己認識の出発点ともなるべき最重要な」事柄が「天から降ってきたように、古く からいつのまにかきまっているという曖昧模糊たる認識」にとどまっていて、「現代日本人のほとんど が、自らの国の名前が、いついかなる意味できまったのかを知らないという、世界の諸国民の中でも、 きわめて珍妙な事態が現在もつづいている」と、網野さんは次のようなエピソードを記載している。
 実際、私が15年間、勤務していた神奈川大学短期大学部と、その退職後3年間、講義をした同学経 済学部の学生諸君に、1980年代後半から毎年、講義の冒頭にこの質問を発し、世紀を数字で紙に 書かせるか、手を挙げさせるなどの方法で調査してみたが、紀元前1世紀から20世紀まで、各世紀 に数字が分散し、多数派はない。要するに知らないのである。これは京都大学経済学部の学生約100人 もまったく同じであり、〝キャリア組〟の国家公務員50人の中の2、3名を指名したところ、19世紀、 15世紀、9世紀と正解はなかった。

 こういう不正確な知識、というより無知が「日本の伝統」というたくさんの虚偽を含んだ概念に 呪縛され、偏狭なナショナリズムを流通させていく。
 国会議員などは官僚の〝キャリア組〟と同程度かそれ以下だろう。だからこそ「建国の記念日」な どというウソをまことしやかに制定してしまう。その連中が「誇りある歴史、伝統を持つ日本を次代 に伝える」とのたまう。(超党派の日本会議国会議員懇談会というたいそうな名の無知蒙昧集団の設立 趣意書で「高らかに」うたっている。)私たち支配される者からみれば、搾取と殺戮の歴史じゃないか。 (伝統については留保をつけよう。いずれ詳しく述べる機会があるだろう。)

 では、国号がいつ決まったかというような重大な事柄を日本人のほとんどが知らないという、きわめ て驚くべき事態がなぜいままで放置されてきたのか。網野さんはご自身の反省も込めて次のように述べて いる。
 なぜこのようなことになったのかについては、まことに根の深いものがあるが、その直接的な背景 として、明治以後の政府によって、記紀神話の描く日本の「建国」がそのまま史実として、国家的教 育を通じ、徹底的に国民に刷り込まれたこと、敗戦後、それを批判し、事実に基づく学問的な歴史像 を描くことを目指した戦後歴史学も、天皇については批判的な視点を持っていたが、それと不可分の 関係にある「日本」については、まったく問題にもしなかったことなどをあげなくてはなるまい。
 1966年、政府が「紀元節」を継承する「建国記念の日」を定めたときも、これに反対し、もと よりいまも反対し続けている歴史研究者たちも、「日本国」成立についてはとくにとりあげることな く、一方で当然のように「日本の旧石器時代」「縄文時代の日本」「弥生時代の日本人」などの表現を 用いてきた点にも、戦後歴史学の盲点が端的に現われているといわなくてはならない。かくいう私自 身も20年ほど前まではまったく同様であったので、日本人の歴史認識を混濁させてきた罪を負って いる。

 「日本」という国名がはじめて現われ、日本人が姿を見せるのは、ヤマトの支配者たちの抗争= 「壬申の乱」に勝利した天武朝廷が「倭国」から「日本国」に国名を変えたときである。網野さんは 次のように詳述している。
 それが7世紀末、673年から701年の間のことであり、おそらくは681年、天武朝で編纂が 開始され、天武の死後、持統朝の689年に施行された飛鳥浄御原令で、天皇の称号とともに、日 本という国号が公式に定められたこと、またこの国号が初めて対外的に用いられたのが、702年 に中国大陸に到着したヤマトの使者が、唐の国号を周と改めていた則天武后に対してであったこ とは、多少の異論はあるとしても、現在、大方の古代史研究者の認めるところといってよい。

 国号を「日本」としたとき、「大王」を「天皇」という称号に変えている。「日本」が唐帝国に 認められ東アジア世界に通用したのに対して、「天皇」の方は公的な外交文書では用いることがで きなかったようである。この問題には今は深入りしないが、「天皇」という称号の使用に際して、 「日本」という国号の使用と同じ混乱がはびこっている事は指摘しておきたい。このことについての 網野さんの論述には網野さんご自身の呼称方法も書かれていて参考になる。
 「縄文時代の日本」「弥生時代の日本人」の表現と同様、天皇号の定まる以前についても 「雄略天皇」「継体天皇」「崇峻天皇」「推古天皇」などの「天皇」が、教科書になん のことわりもなく、当然のように登場する。教科書だけではない。歴史学・考古学等の研究者 の研究書、叙述においても、こうした表現が広く見られるのである。これはやはり「天皇」が きわめて古くから存在したという誤りを、日本人に無意識のうちに刷り込む結果になっている といわざるをえない。
 このようなことを気にかけるのは煩しいという意識も、研究者の中にはあると思うが、作家の方 がこの点では研究者よりきびしい場合も見られる。たとえば黒岩重吾氏は『茜に燃ゆ』という作品 をはじめとして、天武以前には天皇の号を作品の中で一切使用していない。これくらいのきびしさを、 歴史研究に携わるものも持つことが必要なのではなかろうか。
 私自身、「日本」についても「天皇」についても、本当にものを書くときに意識しはじめてから、 まださほど年月はたっていないが、近年『日本社会の歴史』(上)(岩波新書、1997年)では、この ことを意識して叙述をしてみた。大王については「オホド王(のちに継体とよばれる)」という表現を し「アメクニオシヒラキヒロニワ(のちに欽明とよばれる)」としてからは以下、1大王については便宜 上、後年の天皇の漢風諡号(しごう)を用いる」と注記し、大王用明、女王推 古のように呼んでみた。また、皇太子、皇后、皇子の語も、天皇の制度の成立以前は使用せず、 太子、大兄(おおえ)大后(おおきさき) 、王子と表記した。
 もとよりこの方式が最良などといえないことはいうまでもなく、さらによく考えられなくてはならな いと思うが、いちおう、これで叙述することはできたのである。人それぞれの表現の仕方、考え方に 違いのあることはいうまでもないが、「日本」と「天皇」がそれ自体、歴史的存在で、始めがあれば 終りもありうることを明確にするために、こうした配慮が日常的に必要ではないか、と私は考えて いる。
308 「日本」とは何か(2)
「日本」という呼称について(1)
2005年6月21日(火)


 前回提出した問題に入る前に国名「日本」について確認しておきたいことがある。

  「日本」を「ニホン」と読むか「ニッポン」と読むかという問題もあるようだが、ここで問題にし ているのは「読み方」のことではない。が、ちなみに私はもっぱら「ニッポン」と読んでいる。とくに 理由はなくいつの間にかの習慣だ。うろ覚えの「シロジニアカク・・・」という「ヒノマル」の歌 では「アア ウツクシイ ニホンノハタハ」と「ニホン」だったと思う。スポーツ・ナショナリズム では「ガンバレ ニッポン」ともっぱら「ニッポン」を使っているようだ。まったく根拠のないあて ずっぽうだが、右翼系の人が使うのは「ニホン」かしら?「ニホン人ならはじをしれ!」とか「すば らしいニホン文化とニホンの伝統」とか「ニホンよい国カミの国」とかは、「ニッポン」より 「ニホン」のほうが合いそう。
 ヨタ話はこれくらいで。

 では「日本」という国名はいつから使われたのか。

 「日本人」は「倭人(わじん)」という呼称で、紀元前後に始めて文献に 登場する。
「夫れ楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国をなす。」(漢書地理志)
しかし、もちろん「倭人」は日本人ではない。

 いま「チャングムの誓い」という韓国ドラマを楽しんでいる。そのドラマに「倭寇」が登場するが、 ドラマでは「倭寇」を「日本人」として扱っており、扮装も日本の戦国武士風である。私はその 「倭寇」に強い違和感をもった。高校生のときに「倭寇」は一種の海賊だと習った。そのときは、 海を舞台に活動していた国際的な集団という印象をもった。

 読みさしのままの本をいま読み直している。網野善彦著『「日本」とはなにか』 (「日本の歴史00」講談社)。今回始めたシリーズの表題はこの本が念頭にあってのことだった。 しばらくこの本を利用させていただく。(なお、網野さんは惜しくも昨年2月27日に亡くなられた。 享年76才。合掌)

 『「日本」とはなにか』に「倭寇」についての記述がある。
 網野さんは日本の教科書が倭人=日本人のような記述をしていることを指摘している。また、 韓国・朝鮮においても日本人に対する蔑称に「倭奴」という言葉を用い、日本人による朝鮮への 暴虐として「倭寇・壬辰倭乱・日帝三十六年」をあげるのが韓国では常識だという。
 それに対して網野さんは「 しかし私は豊臣秀吉によって行われた二回にわたる日本国の朝鮮 侵略、「大日本帝国」が朝鮮半島を植民地とし、朝鮮民族の日本人化を強要したことについては、 一言の弁明もなく頭を下げるが、「倭寇」をこれに加えることについては、事実に反するとして 承服しない。」と述べている。そして今日までに実証されている「倭寇」の全体像を次のように 記述している。
「倭寇」は全体として、西日本の海の領主・商人、済州島・朝鮮半島南部・中国大陸南部の海上勢 力の海を舞台とした結びつき、ネットワークの動きであった。前期倭寇には朝鮮半島の 「禾尺(かしやく)才人(さいじん)」といわ れた賎民も加わったとされ、後期倭寇には日本列島人よりもむしろ中国大陸の明人の方が多かったと いわれている。そして一方で「倭語を解し、倭服を着る」といわれ、他方でその言語は「倭語でも 漢語でも」ないとされるように、「倭寇」は国家をこえ、国境に関わることなく、玄界灘・東シナ海 で独自な秩序を持って活動していたのである。
 実際、日本国の政府-室町幕府はこれを弾圧しており、援助などしてはおらず、東日本の人々は 「倭寇」とはほとんど無関係といってよかろう。そして、高麗・朝鮮、明の政府も、室町幕府ととも に、陸の秩序を背景にこうした海上勢力を「倭寇」、「海賊」として禁圧したのである。
 このように、「倭寇」の実態は国家をこえた海を生活の舞台とする人々の動きであり、「倭人」はけ っして日本人と同じではない。それゆえ「倭寇」を日本国による朝鮮半島に対する暴虐と見るのは、 まったくの誤りといわなくてはならない。

 「チャングムの誓い」の「倭寇」はこのような学問的に実証された歴史的事実を踏まえない 「無知」あるいは「偏見」の故の描写だ。アメリカ映画でもよく噴飯ものの「日本人像」に出会うが、 むろん目くじらを立てるほどのことではない。私にもたくさんの「無知」や「偏見」があるだろう。 しかし、「無知」や「偏見」はいずれ解消されるべきだ。いや、積極的に解消を心がけなくて はいけない。お題目として「平和」を唱えるより、そうした地道な努力のほうが数等重要だと思 う。

 さて、紀元前後に文献に現れた「倭人」に戻る。
「倭人」と、日本国成立後の日本人とは、列島西部においては重なるとしても、けっして同一では ない。『魏志』倭人伝に描かれる三世紀の「親魏倭王」卑弥呼をいただく「倭人」の勢力は、たと え邪馬台国が近畿にあったとしても、現在の東海地域以東には及んでいないと見てよかろう。それ はのちの広義の「東国」の地域である。
 さらに降って五世紀の倭王武、ワカタケルは宋の皇帝への上表文で、「東は毛人を征すること五十五 国・西は衆夷を服すること六十六国」といっている。ここで「毛人」といわれているのは「蝦 夷」の表現の一つとされ、「毛野(けぬ)」の「毛」をさし、この時期に は関東人・東北人など狭義の東国人であることは間違いない。「衆夷」は中部九州以南の人々であ ろうが、これらの人々のうち関東人と中部九州人は後にものべるように成立当初の日本国の国制の 下に入っているので「日本人」であるが、けっして「倭人」ではなかったのである。
 また「倭人」と呼ばれた人々は済州島・朝鮮半島南部などにもいたと見られるが、新羅王国成立 後、朝鮮半島の「倭人」は新羅人となっていった。このように「倭人」と「日本人」とが同一視でき ないことを、われわれは明確に確認しておく必要がある。
307 「日本」とは何か(1)
しりとり式迷走談論のはじまり
2005年6月20日(月)


 日本の支配階層とそのちょうちん持ちたちが推し進めている「共同幻想」面での戦略を一言で 言えば『「日本の伝統」や「日本の文化」を強く押し出し、正しい「日本の歴史」=「皇国史観」 を復活させ、「日本人としての自覚」=「愛国心」を励起し、非国民を排除する。』となろう。 (一言にしては、ちょっと言葉が多すぎたかな。)
 かれらが「国民の歴史」を僭称するなら、私たちは「非国民の歴史」を掘り下げることによって 「日本」という「共同幻想」をその根源から批判し、「国民の歴史」という虚偽と詐術の基盤を打ち崩す ほかはない。
 と考え、ためらいながら表題に『「日本」とは何か』と書いた。ためらうのは問題が大きすぎるから である。今までと同じくいろいろな人の「言葉」を借りて考えていくしか私には方法がないのだが、 今度はまるで構想が立てられないでいる。取り上げたい事柄は多岐にわたる。いま手元に集めた本は8冊。 進行に従ってまだ増えるかもしれない。そこでやぶれかぶれの見切り発車をすることにした。構想が立て られないのなら「しりとり式」に、その都度思いつくままにあっちいったりこっちいったり、気ままに 進んでみよう。どのくらい続くか分からない。もしかすると何度も中断するかもしれない。 あるいは2,3回で行き詰るかもしれない。
 言い訳はこのくらいにして、早速はじめよう。

 私は「第253 日本のナショナリズム(6)」(4月25日)で次のように書いた。

 『吉本論文は、唱歌を素材にしている関係上、明治末期から説き起こしている。それに対して色川論 文はまず国家成立以前にまでさかのぼって風土的・歴史的条件によって培われてきた日本人の自然思 想や生活思想の特性を俯瞰する。その上で幕末期の知識人のナショナリズム、維新期・明治初期の支 配者のナショナリズムを論考し、次いで自由民権運動期の大衆ナショナリズムへと論を進めている。
 江戸時代の知識人のナショナリズムがどのように維新期・明治期に継承され、近代日本国家の形成に どのように関わり浸透していったかという問題は日本のナショナリズムを解明する上で一つの重要な 与件だが今はそれは割愛し、吉本論文と重なる論考部分を読んでいきたい。』

 「日本と何か」を、この割愛した部分から始めたい。
 日本は四面環海の島国である。しかもユーラシア大陸の絶東にあり、モンスーン・アジアの温暖な気候 にめぐまれ、日照と降雨に富み、農作物はゆたかにみのり、港の幸・山の幸にかこまれ、その中だけで 十分に自給自足できるという文字通り〝豊穣の島″であった。しかも、他からの侵略の恐れがほとんどな いという稀なる孤島であった。
 大陸の各地から、沿海の北から南から、ながい人種戦争ときびしい自然の中での生活に疲れ、至福の大 地を求めてここに終着し、定住した人びとは、どんなにこの和やかな楽園を愛し、神々に感謝したことで あろう。(北方寒冷地や中央アジアの乾燥地帯に住んだ人びとの眼には、この大和こそ 天地(あめつち)のさきわう国、理想の地として映ったことであろう。) そうした移住民の喜びと賛歌とオプティミズムとが『古事記』の神代の巻などには溢れている。
 この島では階級間の争いはあれ、生命の連続が根こそぎ断ち切られるということはない。(種族み な殺しになるような異民族の侵入は、13世紀のモンゴルの来襲の例外をのぞいて、ただの一回もない。) 〝時″は命の勢いそのままに永遠につづくものであって、この島の民はついに絶対否定の外的契機を 知らない。産霊(むすび)の神はたえず生産をくりかえし、人びとはそれを 産土(うぶすな)(やしろ)にまつり、共同体 をつくって祖霊とともに永劫にこの大地で栄えようとねがった。来世も死も彼岸の外来観念も人びとを 虚無的にはしなかった。命は永遠で、永遠はこの今にあると思惟されてきた。その「歴史的オプティミ ズム」ともいえる信念は固有信仰となって、2000余年、いくたの世界宗教と習合しながらもヤドカリの ように一貫して生きつづけ、日本人の自然思想や生活思想の根を培ってきた。吉本隆明のいう土着的な 大衆「ナショナリズム」の原基も、歴史を遡ればじっにここにまで到るのである。

 問題点を二つあげることができる。一つは「日本は四面環海の島国」であるのは確かだが、「稀なる孤島」 だったのだろうか。
 二つ目は「産霊(むすび)の神はたえず生産をくりかえし、 人びとはそれを産土(うぶすな)(やしろ)に まつり、共同体をつくって祖霊とともに永劫にこの大地で栄えようとねがった」という記述から浮かび 上がるイメージは「その中だけで十分に自給自足できるという文字通り〝豊穣の島″」いわゆる 「瑞穂の国」=「農業国」だが、「日本人の自然思想や生活思想の根」は、はたして農業だろうか。
306 詩をどうぞ(20)

2005年6月19日(日)



 大古墳  安東次男

   古墳は盛土の労を少くする為に
   小山や丘陵を利用して造られた。

これは、
平地の
とりわけ低いところにある。
歴史のなだらかな傾斜に、
突如として
現れた
抵抗。

長さ四百八十六米
前方部正面三百五米
後円部直径二百四十五米
積土の高さ三十五米、
その周囲を
太古の色をたたえた
三重の堀をめぐらし、
墳丘から外堤に互って
幾重にも埴輪円筒が並んでいる、
その総面積は
四十六万四千坪
外堀の周囲は優に一里
大山陵という、
日本古代の大前方後円墳である。
墳墓の
大きさとその形は、
いつどこの国でも
権力の
象徴であった、
ここ和泉平野から河内大和丘陵にかけては
多くの古墳がある、
それは大小様々に入り乱れて
親兄弟を権力に替えてせめぎ合った、
血みどろの跡を
今に留める一大鳥瞰図。
それをうち率るごとく
それにうち臨むごとく、
この大前方後円墳はある。
ギゼーのピラミッドの三倍。
秦の始皇陵の一・五倍。
これの大古墳は、
塚面積十四万坪
それの墓築きのみでも百八十万人の
延人数を要すると計算された。
百八十万人といえば
千九百四十九年冬の
日本の顕在失業人口と競っている、
一年三百六十五日働きどおしに働くとしても
一日に五千人を要する
大土木工事ではないか。
それを彼らは
遠く金剛山脈や和泉山脈の横穴から

遠く河内平野の竪穴から、
でてきてやっただろう。
火うち石でカチカチと乏しい火を打ち出し
未明より日昏れまでの、
あるいはそれを超えての
雨の日の、
風の日の、
さらに冬の
ぬかるむ霙の日の、
積土と石搬びの三百六十五日は
どのようであったか、
どのような嘆きを持っていたか。
日本書紀に依れば、
工事は
ミカド
帝没年の二十年前より起されたという、
その二十年の
声の無い恨みは
どのようにつづいたか、
とぼくは念う。
石棺は
遠く金剛山脈二上山の凝灰岩
その蓋だけでも優に一千貫をくだらぬ
いま、冬、黄色に枯れた
生駒山から大和丘陵に続く尾根には、
天気のよい日には白鷺がとんでゆくが
ぼくにはいまも老いも若きも男も女も
一千貫の大石を
営営として蟻のように
曳いてゆく千五百年前の
彼ら部民の姿が見える。
金剛山脈の横穴から、
河内平野の竪穴から、
蟻のようにかり出されてくる姿が見える。
寒い寒い夜を幾夜も徹して、
曳いてゆく彼らの
かなしいうたごえが聞える。
下ッ端役人の笞の下で、
彼らの故里のアリランのようにかなしんでいる、
そのうらみつらみのうたごえが聞えてくる。
ぼくらの習った日本歴史は
仁徳天皇といえば民のかまどとおしえ
この大前方後円墳も
部民の切なる願いに依って造られたものとおしえた。
しかしそれによって裏切ることのできぬ嘆きが
ぼくの耳には聞えてくる、
千五百年前の二上山の凝灰岩の
地ずりする音が、
そのなかからとび出して死んだという
一匹の鹿の顔が。


  六十七年冬十月庚辰の朔甲申に、河内の石津原に幸して、
  陵地を定めたまふ。丁酉に、始めて陵を築く。是の日に
  鹿有りて、忽に野の中より起りて、走りて役民の中に入
  りて仆れ死ぬ。時に其の忽に死ぬるをあやしびて、其の
  痍をもとむ。即ち百舌鳥、耳より出でて飛び去りぬ。因
  りて耳の中を視るに、悉く咋ひ割き剥げり。故、其の処
  を号けて、百舌耳原と曰ふは、其れ是の縁なり。
  是歳、吉備中国の川島河のかわまたに、みつち有りて人
  を苦しむ。時にみちゆくひと、其の処に触れて行けば、
  必ず其の毒に被りて、多く死亡ぬ。是に、笠臣の祖縣守、
  人と為りいさおしくして力強し。ふちに臨みて三のおふ
  しひさごを以て水に投れて曰はく、「汝しばしば毒を吐
  きて、みちゆくひとを苦びしむ。われ、汝みつちを殺さ
  む。汝、是のひさごを沈めば、われ避らむ。沈むこと能
  はずは、仍ち汝の身を斬らむ。」といふ。時にみつち、
  鹿に化りて、ひさごを引入る。ひさご沈まず。即ち劒を
  挙げて水に入りてみつちを斬る。更にみつちのともがら
  を求む。乃ち諸のみつちの族、淵の底の岫穴(?)に満
  めり。悉に斬る。河の水血に変りぬ。故、其の水を号け
  て縣守淵と曰ふ。此の時に当りてわさわひやうやくに動
  きて、叛く者一、二始めて起る。是に天皇、夙に起きお
  そく寝ねまして、賦を軽くしをさめものを薄くして、お
  ほみたからをゆるやかにし、徳を布き恵を施して、困窮
  をすくふ。死を弔ひやむものを問ひて、やもをやもめを
  養ひたまふ。是を以て、政令流行れて、天下大きに平な
  り。二十余年ありて事無し。   (日本書紀、巻十一)


鹿はこの時代の奴隷の象徴であった。
その鹿が死んだと、
悪いみずちが鹿に化けてひさごを引入れようとしたが沈まなかったと、
それでみずちを斬ったら反乱が起ったと、
当時の
権力の正統のプロパガンディストであった
日本書紀でさえ書いている。
山陽から山陰へ
北九州から南九州へ
三河駿河を越えて
東は関東上野の辺りまで及んだ、
大和豪族の権力の光る目の下で
おずおずと書いている、
その事実をぼくは大事に思う。
おもうてもみよ。
千九百四十九年冬の、
日本の
顕在失業人口にもほぼひとしい、
延百八十万という人数を。
それの膏血の犠牲において
雨の日も、
風の日も、
営営二十年に互って
築かれた
大古墳と、
そのなかに眠る
ひからびたひとつの木乃伊を。
千五百年の暗黒のなかで
行き場を失ってきた、
千・万の
声々のいかりを。

「現代詩文庫 安東次男詩集」(思潮社)より


 「日本書記」からの引用部分は、テキストファイルでは表示できない 漢字や読めない漢字だらけなので、「日本古典文学大系 日本書記」(岩波書店)のものと 差し替えたうえ、全体の内容をつかむために必要と思われる部分は漢字をひらがなにしまし た。分からないままでは引用の意味がなくなると思いそのようしましたが、安 東さんの創作部分ではないので、お許しいただけるものと判断します。
305 日本の支配者は誰か(12)
弱いは強い、強いは弱い
2005年6月18日(土)


 独占資本や地主などの支配階級は、戦前と比べて戦後は、いったい弱くなったのか強くなった のか。例えば独占資本の場合、資本の集中力はここで見れば戦前以下であるが総体では戦前より はるかに大きいという。だが、問題の核心はそこにあるのではなく、むしろ、「彼らは弱くなった、 そこで強い支配体制が必要になった」、という点にあると、「日本の支配者は誰か」の 筆者は指摘している。

 それに対して根本的な経済関係の矛盾の方はどういうことになるか。食糧問題を例にとって 次のように述べている。
 日本では食糧が不足ではないのに、外米外麦が輸入されて高い価格をはらってゆく。 それは戦略備蓄のためであり、またアメリカのいうことをきくシャムの反動政権に財源を あたえるためである。しかも一方で強制供出をやりながら、他方では米麦が朝鮮に送られ る。都市の大衆は戦争経済の影響をうけて次第に購買力を失い、そこから農村に過剰生産 があらわれているというときに、その打撃をもっとも深くうける貧農は高い飯米を買わね ばならない。
 農村における地主勢力の支配はこのような悪循環を無限に重ねてゆかざるをえな い。それは不可避的に一切の政治的自由から ―― 民主主義と自由主義からますます 遠ざかってゆく道であり、そのことによって社会の内部に現存する矛盾をとんでも ないところまで発展させてしまうやり方である。

 このような矛盾を糊塗するための支配階級によるさまざまな政治支配の方法の一端を 見てきたわけであるが、支配階級にとってもうひとつ重要課題があった。支配イデオロ ギーの再建問題である。それについては次のように述べている。
 それは植民地化の現況にふさわしく、古いショーヴィニズムの復活とタイハイ的なコスモ ポリタニズムの二様の展開を示している。ショーヴィニズムは農村から、コスモポリタニズ ムは都会からというわけで、それが基地を背景に全国いたるところで混り合い重なりあってい る。支配階級の目から見れば、それは、現実の矛盾に目をつぶりながら、国民を軍国主義と ファシズムの彼岸へたどりつかせるための興奮剤とみられるかもしれないが、ここにも 危機感はみなぎっているわけで、うけとる側の国民は生酔い本性違わずである。イデオロギー攻勢 の中身もむかしほどではない。けだし、支配的なイデオロギーというものも支配体制の有するす べての強さと弱さ、その矛盾を反映しないわけにはゆかぬからである。

 「ショーヴィニズム」=「排外的で偏狭なナショナリズム」、「コスモポリタニズム」= 「アメリカ一辺倒の単細胞的国際感覚」と解すれば、これも現在にまで尾を引いている日本の支配層の 陥穽である。いま日本の支配層はかってないほどの強固な体制を完成しているように思えるが、その 内実は、これもかってないほどの矛盾を抱え込んでいて、粗悪な上にチグハグな材質で建てられ た巨大ビルディングのように脆弱なのではないか。

 最後に、「日本の支配者は誰か」の「結び」の一節を引用して、このシリーズを終わる。
 われわれのリストによれば、日本の支配者たちは誰も彼も、ずいぶん古くさい帽 子をかぶっていた。世界で一番新しいというアメリカ人までが、この国の支配階級 にまじると、大名社会のサムライに似てくるように思われた。彼らは前方を見るこ とをやめたためにそうなったのであろうか。  だが思うに、中世紀の特徴は、住んでいる世界がせまいこと、世界の外が見えな いこと、明日も今日のごとしと思いこんでいること、等等である。中世紀が頭の中 にへばりついているかぎり、危機も、滅亡さえもが、其の意識には上らない。まこ とに物騒千万である。しかもわれわれにとっては、これを百年前のむかし語りと聞 き捨てることは不可能である。
303 日本の支配者は誰か(10)
その時、労働組合運動は?
2005年6月16日(木)


 当時の国民所得に関する統計は次の数字を残している。日本の総国民所得のうち、資本形成に当てられる分は二十数%、 増加国民所得についてみれば資本形成に入る分は実に四十数%。これについて筆者は次のように述べている。
 こんな比率は世界のどこの国にも全く例がない。これは国民が非常な低質銀と低米価と重税とを必然的なものとして背負 わされていることを明白に示している。それらがなければ日本独占資本主義もないというわけである。これはまことに困難な、 非人間的な圧迫を前提としないでは成立しない関係だといわねばならない。

 「非人間的な圧迫」は「非常な低質銀」だけではない。先日、JR西日本の列車事故に関する報道で、社員が「研修」という名の 屈辱的な精神的圧迫を受けている映像があった。人間性を圧殺し、企業の金儲けに従順に従うような鋳型にはめ込もうとしている。 ほとんど奴隷状況だと、私は胸が痛んだ。「日の丸・君が代の強制」と闘っている教員たちが強いられている無内容な「研修」も 然り。見せしめであり、思想変更を迫るものでしかない。
 それでは「非人間的な圧迫」を強いられている側の状況はどのようだったのだろうか。
 戦前の労働組合運動は、会社の労務課、警察の特高課、それに憲兵隊までを加えた野蛮至極な弾圧と真正面から対立し、異常に 真剣な、その反面きわめて犠牲の多い闘争を展開してきた。
ところが、戦後は打ってかわって、労働組合の設置が「奨励」されることになった。労働組合運動は「民主化」政策の中でも最 も重要な部分の一つだということだったからである。しかるに、初期の占領政策の中心になぜ「民主化」が入らねはならなかった かというと、それはひとロにいって、危機の深さと植民地的支配の困難さとが見越されていたからであって、その根本的な動機の 中に、「民主化」が民主化でなくなる、反対物に転化する契磯をふくんでいた。
 このことは何よりも事物の発展によって論証された。労働組合運動に合法性をあたえて、その自由な発展を保証したのはアメリ カ人であったが、戦後の再出発の当初から「教育と指導」 ―― 別の言葉でいえば、干渉と弾圧にのり出したのもまたGHQのア メリカ人顧問たちだったのである。(この体制は「独立」後は一応うしろの方へ引っこんだ。しかし現にアメリカ大使館のエド ガーという人が新聞記者に対して「最近の総評は反米的だから親米的な総評をつくるべきである」などと述べているところをみる と、それだけの根拠が残っているのかもしれない。)
 事実、占領期間中を通してアメリカ人は労働組合運動に対して、非常な関心をもち、「教育と指導」に力をそそぎ、それが一定 の溝の中へはまりこんでゆくように終始努力をおこたらなかったのである。

 GHQが「一定の溝の中へはまりこんでゆくように終始努力をおこたらなかった」という「教育と指導」とはどうのようなもの だったのか。「一定の溝」とあどのような「溝」だったのか。「日本の支配者は誰か」の筆者は五つの事例を挙げている。
(1)
 戦後労働運動は職制的な総同盟と自由な産別とに別れて発展したが、両者による運動の分割をもっとも支持したものの 一つはアメリカである。そしてその当時GHQとの連絡にあたった人たちの記憶によると産別に対してはサンジカリズム的な 非政治主義へもってゆく政策がとられ、その線で結実したのが細谷松太の産別民同だったという。

(2)
 「経済安定に関連する大きな問題の一つは、その政治的および社会的反響の問題である。問題は現在の実質賃銀を維持し、 あるいはわずかだけ増額を確保することによって、破壊的な名目賃銀増額の要求の口実を抑えつける点にある。」(1951年 会計年度ガリオア歳出要求に関するジョセフ・ドッジのステートメント)
 しかし生活水準が戦前水準をはるかに割っているときに、そのままこれを固定化しようとする要求が激しい抵抗を呼ぶの は当然であり、経済的な交渉の範囲内で片付かなくなることも必至である。こうして二・一スト以来、アメリカは労働組合に 対する圧迫と干渉の前面にたち、官公庁労組に対するベース賃銀(ベーシック・ウェィジが日本では平均賃銀になってしま った。言葉の魔術である)と職階性と人事院の確立、民間企業に対するへプラー勧告という形の弾圧、企業整備、行政整理を 名目とするレッド・パージなどが次々にあらわれた。なお暴力的な圧迫やスパイ政策とならんで職場内部の徽妙な対立を利用 するという方法も採用された。たとえは、賃上げ要求をおさえるための家族手当が、熟練・古参労働者の不満をよびおこして いることを見るや、生活給か能率給か、という問題を出して職階制再建への道をひらいた。

(3)
 この辺になると独占資本もGHQの袖の下から出て公然と振舞うようになった。政策の基調は改良主義的な幹部を買収又は懐柔 して、分裂政策を運動内部にもち込むこと。組合の闘争を中央に集約して、これを職場闘争と切りはなし、労組の官僚化、ひ いては会社組合への転化をはかること ―― であったが、そういう政策の必然的な結果は下部大衆の組合幹部不信を呼びおこ し、逆にいえば組合の「統制力」を骨抜きにする傾向を生む。しかも単独講和以後、客観情勢は急激に発展し、民同系で固め た総評が「にわとり」から「あひる」への転化をやってのけるにいたった。
 左派民同の幹部も、多くは職制出身でシンは小ブルジョア意識が濃厚だが、口先では革命的な大言壮語をやっている。組合 指導者はある程度までそうしないと大衆を引きずれなくなったのだ。

(4)
 こうして問題はふたたび職場組織のところへ下降してきた。労働組合の枠をこえて、勤労課特審部などというものが、直接職 制幹部と連絡して職場組織(「職場防衛」という名のスパイ・暴力機構)をつくり出す。これに対して総評幹部は、組合の統制 力を強化することによって職場の産報化に対処しようとしているが、下部の闘争は現にもうはじまっているのだ、という点を見 ることが重要である。

(5)
 職場の半軍事体制は職制幹部に基礎をおくものであり、また農村における封建制の残存、構成的な失業人口の圧迫などとの組合 せによって、労働者の上に重くのしかかっている。しかもこの際特に注意しなければならないのは、軍管理工場や基地の請負事業 場での労働が半軍事体制のイデアル・ティブス(典型)をあたえ、全国の工場をこれにならわせていることである。たとえは某基 地では、労働関係法規の無視は日常茶飯事である。また賃銀は民族別、性別をふくめて最高11万3640円から最低4400円までの287段 階になっている。(他の軍管工場では六、七千人の労働者の全給与の三割に等しいものを五十人の外国人がとっている)
なお、こまかいことをつけ加えると、このような職場ではアメリカ式の点数制度を採用しているが、それが職制の手でめくら報奨 金にかえられる。そこに職制の権威が生まれ、低質銀が保証される。

 「細谷松太」、「ガリオア歳出要求」、「へプラー勧告」『「にわとり」から「あひる」への転化』、前回にでできた「復金融資」 とか、いろいろ知らない人名や事項があるが、その当時の情勢は垣間見る事ができる。
 現在の労働運動の実態はまさにGHQと総資との企みどおりになってしまっていると思える。「日本の支配者は誰か」の筆者はその時 点でにおいて今日を次のように予測していた。
 国民経済の軍事化はいまのところ基礎部門を中心に展開されており、直接兵器生産については端緒がひらかれたという程度にす ぎない。それは敗戦後の再軍備という特殊な条件から来ているもので、従属的下請軍需工業の最大の利用者であり顧客であるはず のアメリカとの間にさえ、多くの問題点が存在していたし、今もって現存しているという状態である。しかし客観情勢の展開は、 米日両独占資本間の矛盾をここ当分は表面化させないで、むしろ急速に一致点をつよめる方向に作用するであろう。財閥企業が 全面的な軍事化にのり出すことはすでに日程に上りはじめたとみてよいわけで、それにつれ職場の軍事体制が一層普及化され、強化 されることは当然予想されるところである。
302日本の支配者は誰か(9)
財閥はどのように生き返ってきたのか
2005年6月15日(水)


 敗戦直後の官僚と政治党派および天皇制の危機・動揺・復活の諸過程をたどって来た。 当然のことながら、現在の深刻な諸問題のほとんどが、第一の戦後のときにその種を 胚胎していたことがわかる。
  「日本の支配者は誰か」は次に経済構造(下部構造)に照準を向ける。戦後政治の性格をきめ ている日本独占資本主義の根本的な要求と特徴とを分析するのが目的である。

 まず、日本独占資本主義の再建が軌道にのってきたことが国外からの目にも明らかに なってきたことを示すものとして、ソ連共産党19回大会(1952年10月)でのマレンコフの報告 を紹介している。
 億万長者の連中はブルジョア国家を動かしてこれに新戦争準備と軍拡の政策を指令し、 今や厖大な利潤をえている。……イギリスの独占成金、フランス、イタリア、日本その 他各国の独占資本は、自国経済が長期にわたって停滞しているにもかかわらず、莫大な 利潤をあげた。

 それは莫大な利潤がふたたび生産されはじめたこと、したがって、また、強烈な搾取が 再現されたことを物語っている。どうしてそういう過程がひらかれたか。なぜそうならざるを 得なかったのかと問い、次のように分析している。
 まず第一に検討しておく必要があるのは、戦争の影響である。 戦争によって非常な打撃をうけたのは、国民大衆の富でこそあれ、 独占資本の蓄積ではなかった。戦災をうけたとか、戦時補償の打切りが痛かったとか、 表面的には非常な価値の喪失があったように言いふらされているが、たいていは事実を過大に 見積っていたのである。ことに安本統計などは、「科学的」な誇大宣伝を一手に引受けた感が あった。後になって「朝鮮戦争ブーム」がおこった時、安本関係の一資料は、日本経済がな ぜかくも急速に快復しえたかを示す理由の一つとして、彪大な遊休設備の存在をあ げていた。それこそ問わず語りというものである。

 「安本」なる人物をまったく知らないが、御用学者だろうか。いつの世にも支配者に揉み手をして近づき 支配者に都合のよい資料をでっち上げる御用学者がいる。そのような御用学者が垂れ流すインチキ情報 を見抜くためにも、政治社会の問題の歴史的論理的な解明を目指す営為に学ぶことは多い。

 <付記>
お恥ずかしい報告
上で『「安本」なる人物をまったく知らないが、御用学者だろうか。』などと書きましたが、気になっていろいろ調べた結果、「経済安定本部」の略語で「アンポン」と読むということだった。なんの注釈もなかったので、「日本の支配者は誰か」が書かれた1953年当時では常識だったのだろう。お恥ずかしい次第ですが、こういうおもしろい誤解の一例として、削除せずにこのまま残しておくことにします。


 だが、これほど大きな遊休設備をかかえたままで、軍事力は破壊され、輸送手段 は寸断され、植民地市場(原料・輸出)は喪失し、おまけに国民は窮乏のふちに喘 いでいるという状態は、たしかに経済体制そのものの危機期をあらわしていた。独占 資本の前には、荒廃し、破壊された経済諸条件を恢復し、生産諸部門が相互に市場 となり合うことができるような方向を見出さねはならぬという困難な課題がおかれ ていた。それを解決しなければ、独占資本主義は、「多かれ少かれ規則的に」拡張 再生産をつづけてゆくことができなくなってしまうだろう。つまり資本主義体制の 枠の中では、必然的な死滅がまっているということであった。

 そこで日本の独占資本主義は、火事場の荒かせぎからはじめて、あらゆることを やってのけた。まだほんのこの間おこなわれたばかりのことで、罪障消滅とはいか ないだろうから(どなたの記憶も全く消えうせてはいないだろうから)、時間的順序 などにはあまりこだわらないで思い出すままにならべてみよう。

(1)
 戦争に敗けた44年の財政支出は1582億円で、当時の国民所得の二倍に及んでいた。 これは出鱈目な価格で軍需品を買上げたり、出来もしない商品への前払いをやったりし たからである。進駐軍はその年の九月に、財政金融に対する厳格な統制を指令したが、 二ヵ月もするかしないうちに、方針を転換した。「和解」のテムポはずいぶん早かった わけである。

(2)
 新円交換による500円生活の強制。無力な国民は500円の枠の中でちぢこまっていたが、 独占資本主義は、財政支出や日銀貸出をうけて大いに自由を享受した。国民の「繰りの ペられた需要」は、これらの「措置」によって、国民のやせたふところから最高利潤率の 運動の中へあっという間に移転させられた。

(3)
 「進歩的」な学者が官僚と協力して経済復興のための傾斜生産を考え出した。これは賃銀 水準の「安定化」とも照合しあうものであった。この場合も他の場合と同じく、表面は技術 的な問題として ―― 少い「もの」を使って、いかに拡張再生産の筋道をつけるか、とい う風に ―― 説明されたが、その結果、莫大な利潤にあずかったのは事実として石炭、鉄、 肥料の独占諸部門である。

(4)
 財政上の価格差補給金などという手段もあった。これは、巨大独占資本が寄り集って、お手 盛りで原価計算をやり、通産省、スキャップとも然るべく連絡をとるというやり方だったから、 赤字をようやくトントンまでうめてもらっているはずの企業が、いつの間にやら工場設備全部の 補修を完了していた、などの事実が48年ごろにはもうあらわれていた。こういうお手盛り会議の 事例としては、鉄鋼資本の箱根会談、肥料資本のどこそこ会議などが今でも噂に上るほどである。

(5)
 復金融資。あまりにも有名だから説明を省略する。

(6)
 見返り資金。―― 粗悪な外国の食糧を買って、社会的な「動揺」を抑圧し、それを貧困なる 国内市場に流して、資本蓄積を促進した。その売上げは価格差補給の名の下に税金と合体され、 積立てられて、資本支配の原動力となった。まことに目覚ましいほどの一石数鳥ぶりで、戦後型 外資の範例とすべきものである。断わっておきたいが、この場合、範例となるかならぬかの基準は、 援助物資あるいは見返り資金が、アメリカ独占資本主義の最高利潤率の引上げにいかに貢献したか で決まるだろう。

 筆者は「まだほかにもあげろといえば、いくらでもあるが、あまり多すぎても無意味だから止め ることにしよう。」と述べている。以上の事例だけでも、国民からの搾取と資本蓄財のからくりがよく 分かる。それは資本主義の本性から発する必然的な要求であり、正に根源的なものにほかならない。
 「独占資本主義は重税をとり上げ、インフレーションを利用し、また従属産業に貸し倒れの苦しみを 味わせる。さらに彼らの利潤の大きな源泉を上げれば、独占価格、低賃銀と低米価である。――  つまり労働者たちは生産者としても消費者としても繰返し搾取の対象にならざるをえないのである。

 もちろん現在はその搾取がいよいよ露骨で、資本の膨張はいよいよ激しい。富を生み出してい るのは労働者の労働力(知的労働や精神的労働も含めて)だ。年収何億なんていうものがいる一方で、 毎日90名もの自殺者がいる。無論すべてが経済上の理由によるわけではないだろうが、これはもう狂った社会 というほかあるまい。
 資本主義の矛盾はますます深刻になっている。富への際限のない欲望とそれゆえの人民支配の冷血性から 自ら解放されない限り、支配階層には人間解放という根本的な解決をする能力はない。かって、『自己の 内部矛盾の解決を「乾坤一擲」の侵略戦争にかけて、まんまとやりそこなった日本資本主義』は、いまま た戦争を準備している。今度はどのような戦争を企んでいるのか。アメリカの尖兵をつとめるつもりか。
301 日本の支配者は誰か(8)
政党にはどんな役割が振ってあるか。「改革」の意味はどこにあるのか
2005年6月14日(火)


 「以上のような前提をおいて、政党の全社会的な配置について簡単な描写を試みよう。」と、 論文の筆者は各政党の性質役割を次のように素描している。
自由党
  政府与党として、支配階級を正式に代表する。したがって全体的な立場は向米一辺倒が 本質となる。しかし党内分派は一種の野党とみるべきである。

改進党  幹部の大部分は向米一辺倒的な思想の持主だが、彼らの存在は野党である。軍事占領と 植民地化という条件の下では、反動主義者やボス、ダラ幹の類にも、それなりのフンマンや 不平がある。野党は政府に対してそれを鳴らさなければ政権の座につく可能性を失うことに なる。マーフィーにすすめられたという保守提携が容易にはかどらないのも、また党内「民族 資本派」が ―― この一派は見方によっては不当に進歩的であるかもしれないのだが ――  党を出たり入ったりしてつづけていられるのも、その根本は右にのべたような基本条件の反映 である。

右派社会党
 右派社会党は今では自由党の「社会主義分派」という色彩を強くしており、一部は完全に社会 ファシズムへ移行した。労働運動の中でも、愛労運動を中心とした労働組合の産報化と分裂工作 を受けもっているが、そのやり方が労働階級から嫌われはじめているので、たよりになる「支柱」 としての真価を疑われそうになっている。

左派社会党
 日本の左派社会党は、左右を区別する場合の国際的な基準である容共統一戦線派か、否か、という 点で特別の態度をとっている。民族革命の路線における統一という中心問題について、左派幹部 (とくに統制官僚を中心とする一派)は、思想の上では民族戦線の側へ改良主義的なやり方で接近 しているように見せながら、行動の上では共産党との統一行動を頑固に拒否している。これは共産党 が左派幹部の思想を叩きながら、傘下の勤労大衆に対して絶えず統一戦線を目ざす共同行動を呼びか けているのと正に背中合せの形になっており、このあたりが危機の激化と共に支配階級からの期待を 増しつつある所以である。しかし昨年下期の炭労ストあたりを境目とする最近の傾向は、下部の幹部 批判が盛んになった点にあらわれており、それが労働組合の政党に対する「不信」という形でひずん でゆくような危険性もあらわれている。左派社会党が統一への展開をはばめばはばむほど、大 衆をファシズムがさらってゆく可能性も強まるということを、すでに最近の情勢の発展が示している。

 自由党と改進党は55年に合同して自由民主党となり、憲法「改正」・再軍備をその基本政策とした。 その保守党の政策を阻止するために、同じ年に左右社会党も日本社会党に統一される。いわゆる55年 体制である。ちなみに、小熊英二さんはここまでを「第一の戦後」といい、その後の「第二の戦後」 と区分している。

 さて、「日本の支配者は誰か」はこの政党の分析を踏まえて、次のように続けている。
 支配階級の権力機関とみる場合、政党の配置は、議会主義の枠の中へ大衆の政治 的エネルギーを封じこむためにのみ、評価され、その目的に合するかぎりのエセ民 主化が取り上げられる。終戦後いまにいたるまでの経過は正しくそういうことだっ たのである。しかしブルジョア・小ブルジョア政党は権力機関の一部として育成さ れるものにはちがいないが、それぞれに社会的基礎(地盤)を維持してゆかねばな らないので、そこに一種の逆作用があらわれ、党の階級的本質と若干の喰違いをお こす場合が生ずることも敢えて怪しむには当らないわけである。しかるに支配階級 の基本政策が軍国主義と戦争準備体制を目ざしている場合には、このような逆作用 は決して消化されないわけで、矛盾はもっとはげしく内攻してゆかざるをえなくな る。矛盾の発展はブルジョア的代議機関(国会・政党)に対する国民の不満をこめ て、ファッショ化の危機をさらに前面に押し出しつつある、というべきであろう。

 「支配階級の基本政策が軍国主義と戦争準備体制を目ざしている」とか「矛盾の発展は ブルジョア的代議機関(国会・政党)に対する国民の不満をこめて、ファッショ化の危機を さらに前面に押し出しつつある」とかいう文言は、私には、まるで現在の状況を言い表して いるように読める。
300 日本の支配者は誰か(7)
政党と「金づる」との依存関係
2005年6月13日(月)


 前回明らかにされた事実をまとめると次のようになる。
 「国権の最高機関」であるはずの国会の背後には日本支配階級のバック・ボーンとして 官僚勢力が大きな影響下にある。その官僚をアメリカが自らの政策遂行の媒介として利用 している。
 しかし、米日両支配階級の間の関係は、単にアメリカの支配者に日本の支配機構が従属 しているという主従関係だけで成り立っているわけではない。それはやはり二つの異った 受益集団の協定であり、共同利害を基軸とした同盟関係であろう。

 それでは当時(1950年前後)、政党が国内支配層のどのような勢力と利害をを代表し、その支配層と どのように相互依存をしているのか。次はそのくだりを読んでみよう。
 第一、戦後の政党(とくに自由党)におけるいわゆるアプレ(戦後派)とアヴァ ン(戦前派)のどちらが有力かという問題。
 この場合、アヴァンは待合政治的なかけ引きにすぐれ、アプレは小粒ながら戦後の空白期を もたなかった点が強味だといわれているが、残ってきているのは大体有力な金づるをもったも のばかりである。
 アヴァンの復活ということは、前田、大麻、松村、緒方、それから岸というような 名前によって想起される旧翼賛・翼壮的な戦争協力者たちの公然たる復活という点 でのみ意味があるといえよう。また戦前と戦後で大粒小粒をきめるというのは事大 主義的な感覚にすぎないのであって、政界の現状に関するかぎり、大勢をアメリカ 一辺倒の方へもっていっているのは ―― その意味における「主流」は ――  吉田側近の官僚と小物グループだと言いうるのである。

 第二、政党の金づるについて。
 政党の軍資金はむかしは財閥の献金(主要な方法は株の操作)、はげしいのになると軍部から 逆に鞘をとったという豪傑もあったが、戦後は財界再編成で(というよりも、国家独占資本主義 の形態がもう一進展をとげる過渡期にあたっていたために)従来の資金源は一応涸渇した。現在 重役の数は多いが、個人資産はせいぜい一億どまりで、自家用のキャデラックなど持っているも のはほとんどないといわれているが、それは右の資金源の状態に対応したものである。
 そこで戦後は、大きな政府の撒布資金、たとえば電源開発とか造船とか、そういう大きな政府 投資、特銀関係の融資などのかすりをとるほかないので、そういうところへ顔の利く池田などが Bクラスの大蔵官僚から一挙に大物閣僚への転化をとげるにいたったというわけである。
 戦後の閣僚番附をみると、官僚のほかにいろいろとインフレ事業家、銀行家などの顔ぶれが出 たり消えたりしているが、第四次吉田内閣ではかつての三井財閥の総帥向井忠晴が蔵相の椅子に 坐って、財閥復活のはっきりした傾向を具現してみせた。財界も、表面は財閥解体やパージで尾 羽打ち枯らしているというが、そうした事態の裏側で進められたいわゆる「経済復興」や国民経 済軍事化の過程は、とりもなおさず最大限利潤追求の過程であり、世の中は不景気でも巨大軍需 コンツェルンは巨利を博してきた。そしてそれは直ちに再編を終った財閥のふところに流れこんで いた。向井蔵相の就任は正にそのことをあらわすものにはかならない。

 第三、政党の金づるには、このほかに個々の事業会社、山林所有者等と代議士と いったような個々のつながりが幾重にもできている。これは独占資本と地主勢力と の同盟関係の下に生み出されている全国的な経済上のヒエラルヒーを反映するもの である。ある新聞社の平凡な政治記者の一人は「自由党の前身である政友会はむか しから地主党といわれるくらいで、幹部とか代議士には農村出身者が多かったが、 いざとなると高橋是清のような都市の金融資本と結びついている者の発言が物をい うようだ」と頭をかしげていた。ここにいう金融資本に近い勢力とは、必ずしも金 融資本そのものをさすのではなく、いまものべたような支配階級のブロックの下に 形成されたヒエラルヒーの最上層をしめるもの、ということではないだろうか。
 支配権力の道具としての政党はこのヒエラルヒーに沿って国民を上から下へつかんで ゆくのである。そこにブルジョア政党の本領がある。
 国家財政を糧に財閥が蘇生していく過程と、農村を基盤とした保守政党の支持母体が 形成されていく過程が、「金づる」というブルジョア民主主義の真骨頂を通して述べられて いる。
 つまり、政党=ブルジョア政党は国民の上にたつ支配権力としては官僚勢力と相互補完的な関係 にある。官僚群が弾圧と徴税の諸機関を一手に手中にしているのに対して、政党の方 の役割は政治上の組織者としての役割であり、社会的にはさまざまな個別的特殊利害の 衝突の緩衝機能を果たしている。そして国会は、形式的には「国権の最高機関」であるが、 ブルジョアによる間接支配を貫徹するための「煙突」の役割を果たしていることになる。
 しかし一方、戦後の議会政治の中で、はじめて社会民主主義政党が権力の一隅をしめるようになり、 共産党がはじめて合法舞台に出てくることがみとめられた。これらいわゆる革新政党も含めて、 次回は各政党ごとの役割の分析に進む。
299 日本の支配者は誰か(6)
政党と国会はアメリカの意志で動いたし、動いている
2005年6月12日(日)


 ここで考えてみると、われわれは敗戦この方、実に奇妙な混乱の中へ入りこんで きたことがわかる。われわれには生れてから今日になるまで「市民」(シトワイア ン)と呼ばれる名誉をもった経験もなければ、市民的自由を享受することのよろこ びに浸ったおぼえもない。しかるに一方ではブルジョア・デモクラシーの限界性な どということを問題にしなければならないばかりか、さらに帝国主義ブルジョアジ ーの反民族的・反民主的な性格に直面せざるをえない。しかもその帝国主義は、前 時代的な半封建的な日本に対して「民主主義的生活様式」を導入しようというので ある。重苦しい擬制が名目的な饒舌とからみあい、重なり合って、とんでもない虚 構が生産される。それはいかんともしがたい事実だが、しかも民主とか自由とかを もとめる国民のねがいにいつわりがあるはずはない。なんという混迷か。だが、い ずれにせよ、われわれはこの虚妄の海を渡ってゆかねばならない。

 1950年前後の進歩的知識人が直面していた社会的・政治的問題意識の代表と見てよ いだろう。「重苦しい擬制が名目的な饒舌とからみあい、重なり合って、とんでもない虚 構が生産」されているのも「民主とか自由とかをもとめる国民のねがいにいつわり」がな いことも現在とて同じである。
 また、私は現在イラクの人たちが強いられている状況をも重ねて考えている。
 しかしわれわれが知りたいのは、現実の日本社会に対する政治支配の実体であり、 そのすべての特殊性でなくてはならない。だから、われわれはより具体的なものへ 進んでゆく必要がある。この場合、まず第一にはっきりしなければならないことは、 国会や政党が全支配機構の中でどんな位置をあたえられているかということである。 われわれが、「支配者はだれか?」という問いを発するとき、それは「生々流転」の 機会を待ちかまえているような新憲法の規定がどうかということよりも、実際の権力 がどこにあるかということでなくてはならぬからである。

 新憲法は国会を「国権の最高機関」と規定したが、「主権在民」の実質は確保されていた のだろうか。
 「日本の支配者は誰か」の筆者は、「占領期間中を通じて国会と政党がアメリカの完全支配をうけて いたことはすでに周知の事実だ」と述べ、次のような事実をあげている。

法案の提出、修正、可決、否決等のすべてについて、GS(軍政部)のコミットメントが入用だった こと。

 しかも、このような政治を動かしている本当の裏の体制が単独講和=「独立」後もいっこう 崩れていない。
 予算の編成にあたっては、閣議決定の前に蔵相が大使館へ「念のため」「敬意」を表しに出かけ ていた。

 さらに次のように詳述している。
 一事が万事である。現在の日本では、政権がいつまでもつかというようなことも、 アメリカの世界政策、とくに極東政策がどんな状態になっており、それと内閣の施策 との関係がどうなっているかということ、また総理に対するアメリカの評価がどういう 風に動いているかということが、終極的な重さをもってみられる。このことは「独立」 を達成したという日本が、「援助」によって財政を把握され、アメリカ軍の特需で 国際収支をやりくりするような立場に立たされ、おまけに軍事、外交その他たいていの 部門で、アメリカ人顧問の直接的又は間接的な引き廻しにあっている事実からいえは、 何も不思議がることはないといえるだろう。
 前にもどって、日本人の間では「吉田はあちらさんの信用があるから……」というような 表現が今でも残っているが、本当のところは、人間としての吉田が信用されているのではなく、 むろん、支配と従属という特殊な関係で結ばれた米日支配階級の同盟だけが問題であり、 吉田はそのような関係における日本支配者層の統一の人格化という点でだけ評価されるという のが真相であろう。もう一度言いなおすと、アメリカはアメリカの意志を従順に遂行してゆく ような政治上のまとまりが出来れば、その事実関係を評価するのであって、現在は吉田政府と 自由党がそういう意味の「信用」を博している。その次が重光になるのか、まかり間違 って河上丈太郎になるのか、それはどうでもよい。というのは、問題が政権担当者 の人物や思想(「赤」はダメとしても)にあるのではなく、もっと客観的な、いわ ば道具としての価値に近いようなものであることは、占領期間中、吉田ワンマンの 性格がGSのウィロビー一派から徹底的に嫌いぬかれたにもかかわらず、いまだに命脈を保って いることからも明らかに察知されるであろう。(しかしまた、アメリカ側が次期政権工作など に超然と不干渉の態度をとっていると考えるのは事実に相違するようだ。現におこなわれている 保守連携工作は世上「大使館筋」の斡旋によるものだと伝えている)

 ここで述べられていることも現在に通じる。コイズミがブッシュのポチであることはいやというほど 思い知らされているが、今国会で争われている「郵政公社民営化」もアメリカからの強い要請による という。森田実さんのホームページ
から引用させてもらう。

 『月刊日本』2005年6月号に「郵政民営化は『米国による日本改造』プログラムの一環だ」と題する 関岡英之氏のインタビュー記事が掲載された。すぐれた迫力あるインタビューである。そのポイントを紹介 する。

 (1)《現在、我が国の様々な分野で構造改革が進められていますが、これらの多くは米国の国益極大化を 目的とする、米国政府からの要望に基づいたものです。私はそれを「米国による日本改造」と命名しまし た。》

 (2)《おそらく最初は日本の官僚も米国の対日経済戦略に気づき、必死に抵抗したものと思われます。 しかし経済制裁という脅しに譲歩を重ねているうちに、いつの間にか日本側が妥協するというパターンが できてしまった。こうした状況が続くと、官僚の頭の中には米国の内政干渉に応ずることが当然になって、 何も疑問をもたないようになったのです。》

 (3)《1993年の宮沢喜一首相とクリントン大統領の首脳会談で、日本側が米国に譲歩する形で (年次改革要望書の交換が)合意された。(米国側はこの年次改革要望書に)日本の産業、経済、行政 から司法に至るまですべてを網羅し、米国は様々な要求を列挙しています。》

 (4)《司法制度改革は「日本改造」の突破口として位置づけられています。目指すのは自由放任で何 でも裁判で白黒を決めるアメリカ型社会です。百戦錬磨の弁護士を雇う金銭的余裕のない人は裁判で 争う前に敗北し、社会から疎外されてしまう。目指す社会は「強者のパラダイス」ですが、大多数の 日本人にとっては、いたたまれないようなすさんだ世の中です。弱肉強食で貫かれた発想といえるで しょう。》

 (5)《郵政民営化の背後に明らかに米保険業界の要求がある。米国が最初に公式文書で郵政民営化に ついて言及したのは、対日「年次改革要望書1995年版」です。「郵政省のような政府機関が民間保険 会社と直接競合する保険業務に携わることを禁止する」といった要求が出されました。》

 (6)《米国の狙いは、まず郵便事業と簡保を切り離して完全民営化することで、全株を市場で売却しろ と要求しています。切り離された新簡保会社はたちまち外資の餌食になるのは間違いありません。》

 (7)《米国当局者は、次の日本のターゲットとして「医療・保険制度」とともに「教育」もあげている。 教育特区で全教科を英語で教えることを可能にする動きも予想されます。(この動きが広がれば)日本 の古典文学や歴史、文化をどう教えるかという問題が生じる懸念もあります。》

 (8)《こうした一連の「米国による日本改造」を拒否するためには、問題の本質をシッカリと把握 して議論し、日本の国益を守るために大奮闘している国会議員を、日本国民は支持してゆく必要がある と思います。》

 以上が、関岡英之さんのインタビュー記事の要旨です。正論です。

 アメリカのハゲタカファンドが狙っているのは簡保と郵貯を合わせて350兆円と言われている 市場(=国民財産)だという。
298 日本の支配者は誰か(5)
労働組合運動と天皇の権威の低下
2005年6月11日(土)


 「戦前にはなかった明らかな変化と希望の芽」とは労働組合運動と天皇の権威の低下 である。

 官僚権力の復権に対しては、下級官僚を中心とする官公労の運動を対置することができるだろう。 当時の組合運動の状況は次のようであった。
 現在の段階において、もしも官僚の民主化がカッコなしでおこなわれ、そこに公僕意識のごとき ものが生れるとしたら、その現実的な基礎の一つは確かにここにあることが考えられる。過去何年 間かの経過をみると、いわゆる「官公労の闘争」は、二・一ストをピークとして衰退過程をたどり、 レッド・パージによってさらに追撃を喫した形になっている。労組運動の中にさえ官僚意識が残 っていて、それが「引き廻し」という表現をとることにより組合の団結をそこなったのが挫折の 原因の一つになっているが、むろんそればかりではない。官公労組の小ブル性とか、政府の統制 強化とかいうこともあわせて考えなければならぬであろう。しかしいずれにせよ、官庁の「民主化」 という問題との関係で現在の労組運動をみるとすれば、それの沈滞が、官僚の公僕意識の減退と符節 を合わしているというように、むしろ否定的なメルクマールとされる方がスワリが良いことは事実であ る。だからといって、労組運動がなければ逆コースがさらに激化されることはいうまでもない。


 現時点でも、闘う労組はわずかしかない。詳しい事情を知らないものの偏見を含んでいるかもし れないが、多くの労組はむしろ企業・官僚機構の御用組合に成り下がって労働者の統制管理に血道を あげているという認識を、私は持っている。これを「協調路線」と言うらしい。
 しかし、わずかではあっても闘う労組がなお健在であることは、希望の芽である。闘わない労組の中 にも希望の芽がある。多くの労組で、高邁な意識をもった組合員が労組の再生を目指していることと思う。 闘わない「都高教」の中にも、「日の丸君が代」の強制と闘っている教員が、闘うことで「ダラ幹」を 厳しく批判している。
 「日本の支配者は誰か」の筆者は当時の状況を「進歩は小さく後退は大きい、という感じがするわけ で、結局は軍国主義とファシズムの方向に結びつけられてしまうのであるが、さりとてこの小さい変化 は決して無視されてよいとはいえない。」と希望をつないでいる。そしてもう一つの「小さな変化」、 天皇と天皇制官僚のプレステイジ(権威)に対する国民意識の変化を表すものとして取り上げる。
 第一、戦前は、むろんハラの中では馬鹿にしていたという面はあるが、 やはり天皇と天皇制官僚に対して一種のプレステイジを感じていた。ところが戦後 になると、表面的には頭を下げるが、ハラの中では官僚について、自分達のエイジ ェントとまではいかなくても自分達の利益のために利用するという面がつよくなっ ている。官庁の汚職事件などにはこういう「親しさ」の反映とみられる点もある。

 第二、天皇についてのプレステイジは、今のところ、経済的な利害関係の薄いと ころや、とくに青少年の間では「老人達」をおどろかせるほどになっている。一つ の事例 ―― 先日天皇が護国寺にある秩父宮の墓に参拝したとき、あの辺の中学で学 生をならばせたが、むかしとちがって、今は「礼」をさせない。そこで学生の方は お辞儀をしないで見ているが、天皇の方はえらく愛想がよくて、しきりにお辞儀を したらしい。そうすると、高等学校二年生のある生徒が、「彼は参議院に立つのか しら」と言ったという。これは言った当人が見たままをしゃべったにすぎないとい うことで、かえって実に皮肉な指摘になっている。ここには、天皇の神格化という ようなことが自然の理法をねじまげたものであるだけに、いったん破れたとなると、 雲間から紺碧の空を仰いだような感じになることをあらわしている。国民の間に生 れ、ひろがっているこういう合理主義的な気分は、目立たないところで、非合理的 な天皇制の再興を絶えず引きとめる方向に作用するであろう。

 しかし、このような「変化」にもかかわらず、戦前とはその内実に違いはあっても、 天皇制官僚の全面的な復権への過程が積み重ねられてきて、現在に至っている。
その分掌上の理由から文部科学省が特に突出していが、全官僚勢力を挙げて天皇の権威 復元に懸命である。もちろん官僚だけではない。支配階層全体が、天皇を利用した国民の 支配統制の施策をむき出しに打ち出してきているといえる。
 「日本の支配者は誰か」の筆者は当時の状況をどう認識していたか。
 だがこのような「変化」にもかかわらず、基調は天皇制官僚の全面的な復位に向 っているといわねばならない。それは国民の「抵抗」が今のところ、まだ幼弱で、 部分的だということを反映しているのかもしれないが、それよりも、天皇制が支配 階級の支配体制だからそういうことになるのである。天皇制およびそれをささえる 官僚のプレステイジが、国民の目にますます馬鹿らしく見えるようになったことは 事実であっても、危機が深まれば、天皇制とその官僚的=軍事警察機関は、従属的 で、エセ民族主義的で、軍国主義的なその本質をますます前面に持ち出さざるをえ なくなる。国会の無能さとか、官僚、財閥の腐敗とかが、軍国主義とファシズムへ の導火線に使われやすいことは、過去にわれわれが経験したことと全く同じである。 だが新しい天皇制は軍国主義とファシズムのためにどんな構図を描きはじめている のか。それは政治体制の全部面にわたることであり、現在の客観情勢下における日 本社会の全領域に関係したことである。われわれの分析もこの辺で場面をかえてみ る必要があるようだ。

 次回から、本来のテーマである「統治形態」の実際を具体的に見ていくことになる。
297 日本の支配者は誰か(4)
「民主化」の実体は何か
2005年6月10日(金)


 前述のような条件の下で、復権をしていく官僚たちのさまざまな活動経緯はおよそ次 のようである。

 統制官僚はアメリカ帝国主義の資本輸出のパイプ(余剰物資の輸入と資本化、見返 資金等々)として、経済復興、半戦時体制を名とする独占資本の強奪的な蓄積の吸上げポンプ (重税とインフレ、物資の割当統制と補助金、物資の隠匿や払下げに関連したスキャンダル等々) として、戦時中にまさるとも劣らぬ「指導性」を発揮したが、官僚磯構の中枢神経である弾圧機 構もまた、比較的早くから復元されていた。この点は目立たぬようにおこなわれたが、重要である。 次の表は、全官僚機構の中で、平和的な行政機構や国営事業の従業員は次々に行政整理の名の下に 減員され、国警や予備隊(保安庁)、税務官吏などの特別職だけが、逆に年毎に拡大されてきたこ とを示している。

  一般会計(単位千人)
       46年  47年  48年  49年  50年  51年
  一般職   225   217   177   155   151   149
  特別職    149   217     205   280   269   356

  特別会計(単位千人)
  郵 電   487   436   443   405   406   412
  国 鉄   607   604   627   500   493   469
  専 売    33   36   41   38    41   40
  
   合  計  1619   1599   1677   1458   1539   1519

 47年を境に、一般職と特別職の増減は逆比例している。1947年は時の総理・吉田茂が年頭の 放送で、労働組合の左派指導者を「不逞の輩」と非難することで明けた。議会はまだ「帝国議会」 だった。2月には「2・1スト」の挫折。一方、憲法・教育基本法をはじめ、戦後の法整備が 一挙に進んだ年でもあった。いずれにしても、戦後の日本のありようを規定する大きな結節点と なった年だ。

 敗戦下の資本主義国という制約の下での施策だから当然、官僚的軍事警察機関 の復元にはさまざまな障害があったはずである。また、日米の支配階級の政策が、さし当りは矛 盾点よりも一致点を多くもっていたとみられるが、その日米関係においてもさまざまな齟齬・摩擦 があった。しかし、この時点でこの論文の筆者は「基本的な条件が天皇制の全面的な復帰に 向っているとすれば、すべての障害や抵抗にもかかわらず官僚の復位はいずれ貫徹 されるとみなければならない。少くともそういう方向で問題にしなければならない。」と当面の 予想と警告を書きしるしている。
 官僚勢力は、一時追放された場合でも、さまざまの外郭団体を根城にして温存された。たとえば、
 内務省関係でいえば中央・地方の教化団体、農林省でいえは農林・漁業関係の諸団体、大蔵省では 特銀をはじめ納税・酒造その他の諸団体、商工省は一時にくらべてアンチ・トラスト法その他で 凋落したことは争えないが、戦時中の統制諸団体がいろいろに姿をやつして存続していたのは事実で あって、このような温床に依存しつつ、官僚は自分たちの背後を固めることができたし、また追放者、 退職者などのいわゆるOB組はいつでも第一線に復帰できるような足場をつくっていたのである。

 このような隠然たる官僚勢力の復権の仕方のひとつとして、1952年10月の総選挙での官僚出身者の 目覚しい進出を取り上げている。
 出てきた顔ぶれをみると、警察機構の上に立っている内務官僚、徴税機構の上に立っている大蔵 官僚、農業団体の上に立っている農林官僚など、すべてが官庁の地方機構と密接に結びついたもの ばかりである。彼らは現役時代に売り込んだ「顔」を使っているだけではなく、官庁の下部機構を直 接選挙に動員する。そして首尾よく当選した場合には、国会における官僚の利益代弁者となる。 彼らはたとえば自由党員かもしれないが、その前に農林官僚だというわけである。

 ここで指摘されている票の集め方や議会構成の構図の中での官僚出身者の役割は、そのまま現在に 引き継がれていることは言うまでもないことだろう。
 ちなみにこのときの総選挙の結果を掲載する。

第25回衆議院議員総選挙。自由240、改進85、再建連盟1、右派社会57、左派社会54、労農4、協同2、 諸派4、無諸属19、共産党0、計466。投票率76.43%。

 投票率が76.43%とは、驚きだ。投票率100%で政治が変わるという期待を持っている人はこの結果から 何を読み取るだろうか。「まだ100%じゃない、100%になれば」とあいかわらず期待し続けるだろうか。

 官僚の政界進出は、もちろん官僚としての第一線復帰とは違う。しかし、官僚勢力の権力を 維持・伸長するためのおおきな源泉のひとつである。
 一度第一線を引いた官僚はいわゆる「現役」には戻れない。政界進出を選ばなかったものは、 これもいわゆる「天下り」をして、そのまま第一線に復帰したのと同じほどの権力の座に居座る。 彼らの役柄は、上は国会議員(政党幹部)、外郭団体の役員から、下は国警、特審のスパイにい たるまで、あらゆるところへ復活してゆくが、それらによって官僚の勢力と機関は補足され、完成 される。つまりこういう過程を通して、天皇制の全組織がふたたび日本社会を網の目の中につかまえ、 そのすべての気孔をふさいでしまう。そういう過程の一つがここに示されているとみたいのである。

 しかし、戦後のこうした官僚体制の復元は、すべてが全く元通りのところへ逆行しているわけでは、 もちろんない。戦前にはなかった明らかな変化があり、そこには小さいながらも希望の芽があった。 その芽は何であり、今はどうなっているだろうか。
296 日本の支配者は誰か(3)
占領体制は天皇と官僚を利用した
2005年6月9日(木)


 敗戦はたしかに天皇制官僚に大きな打撃をあたえた。とくに日本の天皇制は、軍 事警察的天皇制の異名があったくらいで、その厖大な官僚的=軍事警察機関に大き な特徴があったのだが、敗戦はともあれ、それらを一応は骨抜きにした。最後まで 象徴的な形で残されて、いかにも名残り惜しそうだった三千名の禁衛府部隊もつい には解散されたし、内務官僚は内務官僚で、特高陣はもとより大政翼賛会から武徳 会関係までが追放の憂目をみた。

 大日本帝国の圧制に抵抗していた人たちや圧制に苦しめられていた人たちが連合軍を解放軍だ と思い込んだことを、今なら甘い幻想に過ぎなかったと批判できるが、当時としては当然の受け止め方と 言ってよいだろう。
 その幻想は1947年の2・1ストの挫折と、その後に続くレッドパージではかなくも潰えていくが、 実はアメリカの占領政策は当初からその幻想とは遠いものであったのだ。
 だがそれにもかかわらず、打撃は部分的であり、一時的なものだったといえよう。今日、官僚は 税金と公債に基礎をおく寄生機構=弾圧機構として、またかなりの独自性をもった政治勢力として、 相対的に昔以上と思われるほどの権勢を示しているが、彼らが容易に打撃から立ち直りえた第一の原 因は、アメリカ占領軍がいわゆる「間接支配」の道具として彼らを使ったことにある。
 たとえば安本を中心とする統制官僚の一派は、現にダレスードッジのラインに沿って「民主化」の 推進力となり、自由主義の「体制」をまもるためと称して国民経済軍事化のお先棒をかついでいるが、 (戦前の)内閣資源局時代この方、彼らの歩んできた足どりをみると ―― 企画院 事件のように「赤」だといってしめ出されるという場合もあったことは事実だが ――  ほとんど一貫して軍部と提携し、国防国家体制の中心となり、いわゆる天皇制ファシズムの物質的 基礎の方を受けもってきたことは明白である。
(中略)
 アメリカが「間接支配」の道具として日本の官僚を使ったということは確かにそれだけのこと  ―― たとえば、虎の威をかる封建的小役人根性の温存に役立ったということをあらわすにす ぎないが、その官僚が、ただの官僚ではなく、日本資本主義の矛盾の特殊な産物である天皇制官 僚だったということは、問題を単なる技術や組織の問題とはちがった、もっと複雑な政治的連関 の下においているのである。

 アメリカによって「民主化」のコースに引きいれられ、米日両支配勢力間の媒介として働いた 官僚が日を経るにしたがって元の天皇制にたどりついてゆく必然性を、「日本の支配者は誰か」の 筆者は、当時の日本資本主義の状況から説明している。
 日本資本主義は、その内的矛盾の解決を、中国をはじめとするアジア諸地域への 侵略に求めたが、その結果は、競争相手である米英帝国主義に打ち敗られ、また社 会主義のソ同盟からは数十年にわたる植民地侵略の成果を、一挙に、かつ全面的に 「解放」させられた。しかも問題はそれだけではない。日本帝国主義の敗退は、同 時にアジアにおける帝国主義の植民地体制の崩壊過程を意味するものであり、とく に最も重要な市場である中国には新鮮な生活力をもった対立的な経済圏があらわれ た。これらの事実は、日本資本主義の存在条件として、「全般的危機の第二段階」 がいかに形成されていったかをあらわすものである。
 そこから日本資本主義の前途に提起された根本問題をあげてみると、
 第一、日本資本主義は前進的なアジアで旧世界にしがみついている孤児のような 存在になってきた。日本独占資本主義と半封建的土地所有との宿命的な結びつきを 打ちこわすことができない以上(敗戦はそのことを少しも解決しなかった。農地改 革については後にふれる)日本は天皇をバック・ポーンとする古い体制の復活へと もどってゆくほかはない。
 第二、日本資本主義は敗戦というだけではなく、「全般的危幾の第二段階」をさ まよってゆく孤児としても、アメリカの「援助」なしにはやってゆけないことを 「発見」した。独占資本と地主勢力とそれらのバック・ボーンたる官僚のブロック にとっては、アメリカの戦争体制への従属以外に生きのびる道は映ってこない。逆 にいえば、アメリカ帝国主義は、日本の古い体制とその軍国主義をまるごと抱えこ む以外には、自分の同盟者を見つけ出すことができなかったと言ってもよい。

 「天皇をバック・ポーンとする古い体制の復活へともどってゆくほか」はなかったが、 その現実過程は単純ではない。次回はその現実の発展過程を詳しく見ていくことになる。
295 日本の支配者は誰か(2)
いつの世も、なぜ支配者は冷酷なのか
2005年6月8日(水)


 年間3万人を超す自死者も支配者どもにとっては、もちろん、ただの数でしかない。時には 破廉恥にも「人ひとりの命は地球よりの重い」などという心にもない歯の浮くような台詞をはくが、 彼らにとって、戦場の兵士と同様、自死者の命は鴻毛ほどの重さもない。彼らの頭の中には、あたかも、 どのようにして支配の永続化をはかるかという問題しかないようだ。

 時は45年の春、すでに硫黄島陥ち、沖縄も亡んで、本土決戦が叫ばれていたころのことである。 時局の収拾に大きな影響をあたえた重臣Aと新聞記者Bとの対談、彼らはほとんど定期的に情報の 交換をしていた。

B、食糧問題を考えても、もう敗け戦をつづける根拠は全くありませんね。昨日出あった政治家某も 考えているようでしたが、最後は、陛下にラジオ放送をやっていただくほかはない……

A、お上は御先祖に対して深く責任を感じておいでのようだな。しかし陸軍がいつ折れるという見透し がつきますか。国民は苦しくなっているだろうが、これは固まった政治力にはならないし、それを使 うことは問題にならんでしょう。(手帳をめくって)いまソ満国境でソ連が急速に兵力を充実させて いる。八月ごろには彼我の兵力比が多分三対一以上になるでしょう。(つまり戦争がはじまる公算が つよくなる)そのとき果して軍がどうでるか。そこでしょうねえ、問題は。

 遠山茂樹氏は戦争政治にあらわれた日本支配層の政治意識を分析して次のように書いた。

 深夜ひそかに訪い、遊びに事よせて集まり、互に腹の中をさぐり合いながら、さりげなく、婉曲に 意を通じあい、人から人へと同志を結びつけてゆくという終戦工作が、いつも戦争のテムポに立ちお くれてしまい、ついに原子爆弾の悲劇を招くに至ったことは、太平洋戦争史を読むものの心を痛まし めることである。(『改造』三月号)


 言ってみれば、そういうことである。(中略)その当時天皇制支配機構の最上層にあって 事態の収拾にあたった一指導者は、何百万、何千万の飢餓を黙殺しながら、凄惨なもう一つの機会の 到来を待ちうけていたのである。
 この言語に絶する冷酷さはどこから生れてくるのだろうか。現在の支配体制 は将来とも動く筈がないし、動かすべきでない、それをいかにして無傷で維持するかのみが関心事である、というおそろし くねじ曲った「信念」以外には、このような考えを裏づける根拠はないのである。


 支配体制維持のための冷酷さは、何も天皇制ファシズム下の為政者に限ったことではない。

 問題はどこにあるのだろうか。戦後の出発点においては ―― 国民はほとんどそれを信じな かったが、政治の方から、国民に対して国民との結びつきを強めようとする呼びかけがおこなわ れた。たとえ上からであろうが、外からであろうが、「民主化」とはそういうことでなくてはな らぬはずだった。もしそれができるならば、社会の矛盾を力ずくで押えつけるというやり方にか わって、矛盾を取り上げ、それを具体的に解決しようとする近代的な方法がわが国の政治生活に 取りいれられるわけであった。近代的な方法といっても、それは所詮社会的に対立している諸勢 力を将来の発展に適するような形で社会の表面に引き出してくるだけのことかもしれない。だが、 それは重要なことであり、またそれだけのことをするのにも、おそらく支配者の顔ぶれを取りか えるという問題がおこらざるをえないだろう。ところである意味ではたしかにその顔ぶれもかわる にはかわったが……たとえば、われわれは国会で公然とのべられた次の言葉を何ときけばよいのだ ろう?
 例の破壊活動防止法案の審議に際して、労働組合、民主団体、学界代表等が、戦争防止および人 権擁護の立場から猛然と反対したのに対し、吉田首相の答弁はこうだった。

「この法案に反対するものは、暴力団体を教唆し、煽動するものである」 (朝日 52/7/2)


 戦前と戦後とその政治のありようは、何が変わり何が変わらなかったのか。
 戦後の日本再生は、良かれ悪しかれ、敗戦国日本が受託したポツダム宣言規定のもとで行われる はずであった。ポツダム宣言には次のくだりがある。
 われわれは無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは平和、安全および正義の新秩序が生じ えないことを主張し、この理由で日本国民を欺瞞し、世界征服の挙に出るような過誤を犯させた者 の権力および勢力は永久に除かれねばならない。

 われわれは日本人を民族として奴隷化しようとし、または、国民として滅ぼそうとする意図はな いが、われわれの捕虜を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては、厳重な処罰を加える。日 本国政府は日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障害を除去しなけれ ばならない。言論、宗教および思想の自由ならびに基本的人権の尊重は確立しなければならない。

 以上のような事実を列挙した上で「日本の支配者は誰か」の筆者はいう。

 過ぎ去った七年間を顧みると、中身を失った単なる言葉の山うずたかい。口にと なえられる政策と実現される事実との間の背離は、戦後の「民主化」の過程におい ては、むしろ必然性であり、「原則」であったとさえいえるだろう。

(中略)

 今の政治が国民との間の緊密な結びつきを振りすてて、軍国主義やファシズムの 方へますます移行しつつあることは周知の事実である。それは国民の頭を次第に低 くたれさせ、言葉を失わせるような傾向をまねいている。だが、そのような傾向が、 日本資本主義のいかなる矛盾によって生み出され、またそれをいかに深めてゆくか、 つまり、それが日本社会の歴史的な運動をいかに発展させるかということは、まず 第一に、支配者の階級的な性格と、彼らのおかれている実際的な客観条件の特徴に 依るところが大きいのである。日本の支配者はだれか? 彼らはどうして反民族的 な反民主的なコースを選ばねはならなかったのか。われわれは権力の所在に対して 政治分析のためのラジオ・カーを次々に巡廻させてみたい。

 この論文の研究者たちは戦後7年目にしてすでに「軍国主義やファシズムの方へます ます移行しつつあることは周知の事実である」という認識を持っていた。
 建前と現実は、戦後7年たった当時、どのようにどの程度に背離するに至っていただろうか。 A級戦犯を問われた岸信介が総理大臣になるのは、この論文が発表された4年後であった。
 次回から、敗戦時から戦後7年当時までの政治状況、とくに統治形態の推移と実態を見ていくこ とになる。
294 日本の支配者は誰か(1)
国民は息がつまりそうに感じている
2005年6月7日(火)


 タイトルを変えましたが「民主主義とはなにか」の続編です。 前回までがいわばその理論的な解明で、今回からはその応用篇というつもりです。

 社会的経済的支配層(財界・各種産業・業種団体・資本家など)と政治的支配層(議会・政府 ・官僚・政党など)との縦横の結合・離反・闘争という相互関係、つまり今日における統治形態の実態を 現実に即して解明できるとよいのだが、マスコミが報道する情報は氷山の一角に過ぎず、私たちの ような一市民には水面下の動きを知るよしもない。また最近のマスコミの多くは、いろいろの人が 指摘しているが、大政翼賛化しており支配階層の統制下にあり、その情報は一面的に過ぎる。心ある ジャーナリストの仕事を期待したい。

 ところで、今日における統治形態の実態は当然歴史的な変遷経緯の結果としてある。一応戦後の 統治形態のスタートは敗戦後の占領軍・アメリカによる統治に規定されて始まった。一時的に追放 されはしたが大日本帝国時代の支配階層が生き残り、戦後においても隠然たる勢力を残した。これは アメリカの占領政策の結果ではあるが、日本人民は敗戦という 大きなチャンスを、真の意味での「主権在民」を獲得する大きなチャンスをものにすることが出来 なかった。その日本人民の敗北の連綿としたつながりの結果として今日がある。このものいいは敗北 主義ではない。私は厳然とした事実として言っている。

 過去を顧みることも現在を照射する有効な手段である。戦後の統治形態はどのように形成されてき たのか、戦後初期のころの実態を見てみたいと思う。
 手元の「『天皇制』論集」(三一書房)に「日本の支配者は誰か」という論文が収録されている。五人の報告 者の調査・研究をまとめたものある。「概括と執筆」を担当した方は堀江正規、報告者として、小倉 正一、木下半治、黒川俊雄、小池基之という五氏が名を連ねている。不勉強な私には始めて知る名 ばかりだし、どのような思想的立場の方々なのかも、もちろん、知らない。しかし、通読したところ 私の今のテーマにピッタリの内容であった。これを利用させていただく。論文の発表は「中央公論」1953年 4月号、敗戦後まだ8年たらずである。

 政治や社会の問題にほとんど関心を持たなかったノンポリの私の耳目にも、政財界・官僚たちのス キャンダルは絶えることなく入ってきていた。今にして思えばなんら驚くとことではない、ブルジョ ア民主主義の本性であり、その限界が露呈しているだけなのだ。
 「日本の支配者は誰か」の筆者は、序言「われわれの課題」(副題<国民は息がつまりそうに感じ ている>)を当時の外相・岡崎の選挙違反というスキャンダルから書き始めている。事件の核心を 握っている出納責任者が逃走していて、この男がつかまらない限り、岡崎本人は結局選挙違反に 問われないですむだろうと書いている。もうこの頃から時には自殺者を出すこの種のスキャンダル は絶えることなくあったのだ。
 (出納責任者が)うまく逃げおわせれば、岡崎氏は結局選挙違反に問われないですむだろう。 その代り、岡崎氏への疑惑はいつまでも国民の胸から消えない。-
 だが本当のことをいうと、国民の疑惑はこんな三段論法から生れてくるわけでは ないであろう。国民は岡崎氏がとどのつまりは「時効」を獲得するにちがいないと 直感しているのであって、検察庁が「時効停止」をやっても取り立てて公正だと思 う気持にはなれない。岡崎氏を真剣に追及しえない何ものか が現存することを見てとって、積極的にせよ消極的にせよ、それの片棒をかついでいる すべてに対して、不正を感じているのである。この感じには都合のよい解決や 救いはあたえられないのだが、その内容は鋭いものである。これは - この種の叡智は、 国民が職場や街頭でつねに感じているチクリチクリと背後から電気で刺されるような圧迫 感によって呼びさまされるもので、いつでも不幸な予感をふくんでいる。不幸ではあるが現実 的であり、それゆえ正しいといわざるをえないものである。

 多くに国民が感じ取っているであろう「追及しえない何ものか」を明らかにすることがこの論文の テーマの一つであろう。
 だが現時点では「チクリチクリと背後から電気で刺されるような圧迫感」を日常的に感じている人は 一体どのくらいいるだろうか。街中で行き交う人たちからは、一見、圧迫感を受けていると思えるような背中を 見出すのはむづしい。自足している背中ばかりと見るのは私の僻目か。背中は自分には見えない。私の背中も同 じだろうか。真に満足しているなら芽出度いこと だが、一昨日、自殺者が7年連続で3万人を超えたとの報道があった。日に80~90人もの人が自ら命を絶っている。これは 大変は事態ではないだろうか。
293 統治形態論・「民主主義」とは何か(5)
統治権力としての官僚
2005年6月6日(月)


 以上みてきたように、「議会」は、様々な産業・業種の 特殊利害とそれらを横断的に貫く特定企業 集団の特殊利害等を直接担ったブルジョアジーの政治的代 理人が、一般的「法律」の決定をめぐって 対立・抗争・妥協・調整を演じる舞台である。その対立・ 抗争・妥協・調整を通じて、実は、支配 階級としての政治的結集と統一的一元化が可能となる。 要するに「議会」とは政治的階級意志と世論 の形成=総資本的意志形成が、公然または自発的形態で 行なわれる唯一の公的機関に他ならない。 しかも、統治権力の主体をなす執行権力=政府-執行的諸 機関の活動は、ときには 大きな独自の能動性を示すとはいえ、少なくとも形式制度 上は、すべて「議会」裁可の一般的「法律」 を法的前提としている。従って「議会」が、ブルジョア ジーによる国家的支配(階級独裁)実現の、 最も確実かつ主要な政治的武器であることは、全く疑う余 地がない。この意味で「議会」は、ブル ジョア独裁を可能とするブルジョアジーの政治的権力構成 を公的制度として容認し保障 する特殊な歴史的性格をもっている。

 しかしこのようなブルジョア独裁は、統治形態レヴェル すなわち執行権カの統治権力としての独立 性との関連に即してみると、実は政府-執行的諸機関に よる政治的指揮・主導の下に形式上包 摂されている。なぜなら、政府-執行的諸機関中枢の指 揮・主導のもとに推進される内・外 政策がすべて、社会・経済政策における財政政策のように ブルジョア諸層の経済的特殊利害をたんに 機械的に反映するものばかりではないからである。
 具体的にいえば、政治的秩序維持に直接関わる軍事・ 外交・治安・文教政策などや、経済的秩序 維持に関わる経済政策のなかでも対外貿易政策や金融政策 のような政治的・観念的性格の濃い、第三 権力の本来的活動に関する領域においてそうである。そこで は実質上の総資本的見地とはいっても、 より観念的・国家的立場にもとづく政府-執行的諸機関中 枢の官僚層が、ブルジョアジーに代って 政治的に思考し立案するという、大きく見れば支配階級内 部における政治的分化と分業が成立している。
 このようなブルジョアジーに対する官僚層の統治階級と しての相対的分離・独立性発揮される 分野では、官僚層の純粋に観念的・国家的見地からする実質 上の総資本的意志の先取り的な形成と先導が 行われる。それらはブルジョアジーによる自生的現実的な 総資本的意志形成とはつねに乖離しているため、 両者の不和・敵対が深刻化する事態にたちいたることも決 して珍しくない。
 要するに、ブルジョアジーの意のままになる〈議会制民 主主義〉形態をとった典型的ブルジ ョア独裁といえども実はその内部構造は、ブルジョアジー とその政治的代理人を含む統治階 級との間の相対的に独自な分離、ときには深刻な不和・敵 対を招くような生き生きとした媒介的関 連を孕んでいることになる。

 「ファシズム的」統治形態をこの点からみれば、銃剣を もった「官僚」層が、自己の党派的・イ デオロギー的立場から純粋に観念的な国家的・政治的利害 を追究する統治階級として、たんに 被支配的諸階級・階層ばかりか支配階級としてのブルジョ アジーをも含めた一社会全体に対して 完全に独立化した特殊な国家体制に他ならない。
 それは、直接には、ブルジョアジーの議会における政治 的代理人(ブルジョア諸政党)間の 不和・抗争などの絶えざる政治的混乱により、政府-執行 的諸機関に対するブルジョアジーの 統一的かつ一元的支配が実質上不可能になった政治的危機 の到来を契機としている。大き くみれば、政府-執行的諸機関とその中枢を占拠した政治 党派が、統治階級として失格したあるい は未成熟であった支配階級=ブルジョアジーにとって代っ たものといえる。

 以上で滝村さんの「統治形態論」の要約を終わる。
292 統治形態論・「民主主義」とは何か(4)
議会制民主主義とブルジョア独裁の仕組み
2005年6月5日(日)


 ブルジョア革命は封建社会から人間を解放した。ただし それは人間の全的な開放ではなく、封建制という 政治的なくびきからの開放にとどまり、封建社会の基礎を なしていた社会構成員としての利己的な人間 のあり方の政治からの分離でしかなかった。つまり近代国 民国家は、ブルジョア革命による政治的国家と 市民社会の分離の必然的な結果として成立した。人間は政 治的に解放されたが(平等な一票を得たが)、 市民社会の成員としては大きな社会的不平等のもとで、む き出しのエゴとエゴの抗争を強いられることと なった。『人間は宗教から解放されたのではなく宗教の自 由を得たのである。人間は所有から解放され たのではない。所有の自由を得たのである。人間は営業の 利己主義から解放されたのではなく、営業の 自由を得たのである。』(マルクス「ユダヤ人問題に寄せて」より)

 社会的不平等が近代国民国家存立を可能としている土台 である。 「議会制民主主義」は「国家というシステムが人民に奉仕 するために編み出された」ものではなく、 国家というシステムがブルジョア階級に奉仕するために編 み出された。この「議会制民主主義」の 歴史的成立事情は現在の成熟した国民国家においても変わ らない。
 統治形態論の次の課題は「議会制民主主義」と「ブルジ ョア独裁」の構造的連関を解明すること にある。つまり、議会と政府-執行的諸機関とが、社会的諸 階級・階層とくに経済的支配階級として のブルジョアジーの階級的特殊利害にもとづく意志・要求 と、どのように結びついているか、あるい は敵対しているのかを分析することとなる。

 国家意志の一般的形態である「法律」の決定権は、立法 権として「議会」にある。もちろん、 執行権をもつ政府-執行的諸機関は、たんに議会が裁可し た一般的「法律」の執行にのみ限定されている わけではない。一般的「法律」を実際に「生きた法律」と しての実践・連用していくための政令・通 達など下級法規範という国家意志の裁可・決定権を政府 -執行的諸機関は掌握している。 従って、政府-執行諸機関の執行権力は、「議会」で裁可 された一般的「法律」にそって実際の国内政 策あるいは対外政策を遂行する際には、その一般的「法 律」に関連した個別的諸法や政令・通達等を 自在に駆使し運用するとともに、その運用の過程で新たな 関連個別的諸法や政令・通達等を裁定して 、逆に一般的「法律」を実質的に先導することもある。 そういう意味で政府-執行諸機関の執行権力 は大きな能動性と独立性をもっていることになる。
 もちろんこれは、「議会制民主主義」を前提とした典型 的な近代的統治形態のー般性なありかたである。 歴史的・現実的には、第三権カの専制的統治権力としての独 立性が肥大化する大陸法圏(独・仏中心) と、民主主義的伝統の強い英米法圏とではかなりの相異が ある。大陸法圏では、政府-執行 的諸機関の統治権カとしての独立化の傾向が強いが、それ に対して、英米法圏では議院内閣制をとるか 大統領-共和制をとるかにかかわらず、司法機関と共に 「議会」が鋭い監視の眼を光らせることに よって、少なくとも形式上は「議会」は統治権力の中枢 の一翼を担っている。

 では、社会的支配階級であるブルジョアジーはどのよう にして政治的支配をも掌中におさめるのか。 つまり、議会や政府-執行的諸機関とブルジョアジーとの 関係如何を問うことになる。
 ブルジョアジーによる国家的支配といっても、国家意志 の形成過程 とその実践的な支配過程とでは、その規定の仕方は異な っている。
 まず国家意志の形成過程つまり主として議会を舞台と した一般的諸法及び特定政策のための関連個別 的諸法で構成される一般的「法律」の形成・確定過程に おいては、ブルジョアジーの階級的意志は、 様々な内部的対立・抗争・軋轢等を孕みつつも、外部的に は大きく統一された階級的意志・総意として、 つまりは集成された総資本的意志という形態で押し出され る。
 この場合の総資木的意志形成に際しては、他の社会的 諸階級・階層とくに被支配階級に対する 支配階級の共通的な一般的利害(いうまでもなくこれは、 ブルジョアジーの生存諸条件としての 資本制的生産様式によって、構造的に基礎づけられている) が問題である。従って個別資本の 地域的・業種的特殊利害にもとづく不断の相互対立・抗争 は、支配階級としての統一され一般 化された観念的「共通利害」の立場から、内部的に調整さ れ制御される。
 もちろんこのような支配階級内部での調整と制御がうまく いかないで行き詰まることがある。 その場合には、有力政治家(議員)や所轄高級官僚(政府 -執行的諸機関)を直接巻き込んで、 ときにはかなり強引な個別資本やその関連グループの特殊 利害の圧殺等が断行される。

 このようにして形成された総資本的意志が、一般的「法 律」として形成されていく道筋は、大きくみて 二つある。
 一つは総資本的意志が、直接の政治的代理人である有力 議員層の手を通じて、政府-官僚機構 へ強引に押しつけることにより、政府法案ないし官僚の手 を借りた議員立法という形で押し出され る場合である。
 いま一つは、未だ明確に確定できていない総資本的意志 を、政府-執行機関が、より観念的かつ 国家的見地から先取りしてすくい上げてその能動性を発揮 する場合である。この場合は「国家百年 の大計」などといった意気込んだ言質をともなって官僚 層が「法律」を立案することとなる。これは 総資本による実質的な意志ではなく観念的かつ国家的 な意志であり、総資本のより現実的 かつ直接的な意志との落差を生み、ときには深刻な敵対的 性格をもつこともある(とくに対外 経済政策や独禁法を想起するとよい)。もちろんそのと きには、有力政治家を使ったブルジョアジー の執拗な妨害・抵抗によって、法案の成立自体が難しく なる。また、他の諸階級や 世論の支持を背景としてかりに成立したところで、多く の場合、政策遂行レヴエルにおいて実質上 骨抜きにされてしまう。
 かくしていずれの形態にあっても、議会における国家意 志を一般的「法律」として策定し、かつその 内容を根本的に規定しているのは、ブルジョアジーの総資 本的意志であることに変りはない。

 これにひきかえ、裁可された一般的「法律」を実践する 支配・執行過程では、一般的「法律」として の国家意志の確定にむけて総資本的意志を形成するために 隠しもたれたブルジョアジー内部における 様々な特殊的利害が全面的にぶつかり合う。すなわち、 公共事業をめぐる予算のぶんどりや補助金獲得、 また各種許認可権等をめぐる支配階級内部の対立・抗争が、 赤裸々な形態で現出してくることになる。

 このようにしてブルジョアジーは、一般的「法律」とし ての国家意志形成過程では、統一的な支配階級 として、何よりも「議会」と大きく構造的に結合して現わ れ、政府-執行的諸機関を主体とした政策遂行 レヴェルでは、自由経済原理にもとづく個別資本相互の不 断の対立・抗争を、そのまま「中央-地方的」 官僚機構を軸とした利権争奪をめぐる対立・抗争という形 態で再現することになる。そこで はブルジョアジーと、とくに政府-執行的諸機関との結合は 、もっぱら直接的個別的であり、隠微な 黒い癒着形態をとらざるをえない。個別資本(及びその関 連グループ)と、個々の有力政治家 (グループ)を介した個々の高級官僚(グループ)という 具合に。
291 統治形態論・「民主主義」とは何か(3)
「民主主義」と「専制」
2005年6月4日(土)


 これからの議論は「国家本質論」を「統治形態論」として具体的に展開していく ものなので、いわば「第93回 滝村隆一の国家論」(2004年11月15日)の続編ということになります。 まだの方は「第93回」を先に読んでください。

 以下、滝村さんの「統治形態論」を要約しながら紹介していく。

 まず、統治形態とは国家意志の最高の裁可・決定権をめぐる第三権力の一般な組織的・制度的 構成と形態を指す。したがって、「統治形態上の政治的概念」としての「民主主義」とは 第三権力が国家意志とくに「法規範」という国家意志を決定するための組織的・制度的な一形態のこと である。
 一般論としては、「民主主義」とその対比的な概念である「専制」との違いを見ることに よってその内実ははっきりするだろう。
 十分に発展した近代国民国家においては、第三権力の国家としての国民支配の形態は、直接には 立法機関・執行機関・裁判機関という三大機関の分立形態をとった、いわゆる「三権分立」とし て整備されてきた。統治形態という場合には、このような第三権力の組織的・制度的構成のもとで、 国家意志を形成するための一般的法規範を決定する立法権とそれを実践遂行していく執行権が、 統治権力としてどの程度に独立的主体的であるかを問題としている。つまりその核心は、 統治権力の中枢をなす執行権力と「議会」との立法権をめぐる制度上の権力分掌がどうなっている かという問題に収斂する。国家意志を裁可・決定する最高の権限がどこにあるかという問題と言い直し てもよいだろう。

 「民主主義」とは、国家意志とくに一般的「法律」としての国家意志の決定権が、少なくとも形式的 制度的には「議会」によって掌握されている国家的支配の形態である。法律の国民諸階級・諸階層への 実践遂行は統治権力の中枢をなす執行権力によって行われるが、その実際的運用は多くの場合、 国家意志形成の具体化ともいえる「政令・通達等を通じた裁量権や行政指導」という下級的法規の形を とって行われる。しかし、議会を最高の国家機関として規定する法治国家の建前上、あくまでも 「議会」が裁可した一般的「法律」によって根本的に規定されている。したがって一般論として、 「民主主義」においては国家意志を裁可・決定する最高の権限は「議会」にある。

 これに対して「専制」とは統治権力の中枢をなす執行権力が実質上、「議会」から立法権を剥奪・ 吸収してしまい、国家意志を裁可・決定する最高の権限を独占的に掌握した国家的支配の形態である。 執行権力が直接の全統治権力として独立化する。近代以降ではボナパルティズムやビスマルク体制、 近年では戦時国家体制やファシズムなどの特殊な統治形態を指している。
 そこでは「議会」は形式上存続しても、執行権力裁可の国家意志をたんに形式的に追認するだけ 協賛機関へと転落している。また執行権力が直接に統治権力として独立化する場合には、 いわゆる「統治の一元性」が純粋に作用して、デスポティックな「親裁」体制を復古的に蘇生 せしめる。かくて「専制」的統治形態の発展に伴い、国家意志が一般的「法律」形態をとって押し出 されること自体が稀となる一方、デスポティツクな「親裁」体制に固有の各種執行命令、 すなわち勅令・勅命等の形態をとった国家意志が、たんに量的に膨大化するばかりか、実質上最高の 国家意志として君臨することになる。
290 統治形態論・「民主主義」とは何か(2)
「教科書民主主義」の問題点
2005年6月3日(金)


 「国家」と「人民」は対立しません。対立させないためのシステムが、「民主主義」なのです。 民主主義は、国家を人民が運営していくためのシステムであり、それが本質です。国家というシステ ムが人民に奉仕するために編み出されたのが、まさに民主主義なのです。

 教科書に書かれているようなこうした民主主義理解には問題点が二つある。

 一つは「教科書」を金科玉条となし、現実を度外視した観念的な(正しいと思い込んだ)認識 が一人歩きしている点にある。そして、あたかもその観念的な認識が現実であるかのような錯誤 に陥っている。
 もちろん絶対的に正しい認識などはない。認識とその対象=現実との常なる照合によって、より 正しい認識を得ていくほかはない。しかし、正しいと思い込んだ認識が現実であるかのような錯誤に 陥っては、見るべき現実が見えない。現在の日本国家を「教科書民主主義」を体現した国家と誤認 してしまう。そのような認識は硬直したままで発展深化されることはないだろう。だからそこには現実 を変えていく契機はまったくない。

 ところで、社会生活レヴェルでも「民主主義」という言葉が使われている。そのもっとも皮相な ものが「多数決で決めて、みんなでそれを守りましょう」というそれこそ「学級会レヴェルの民主 主義」だ。これから考えようとしている「民主主義」はこうした意味でのものではない。 あくまでも政治概念としての「民主主義」である。

 問題点の二つ目はその政治概念としての「民主主義」そのものを誤認している点にある。 「民主主義」は「国家というシステムが人民に奉仕するために編み出された」ものでは決してない。 近代国家が形成されてきた歴史的事実からはそのような民主主義理解は得られない。現実にも 「人民に奉仕する国家」など、日本国憲法の前文の中にしかない。(今日本の支配者らは人民を 理念の上でも「国家に奉仕する国民」にしようと躍起になっている。)これは歴史的事実に目をつ ぶっているために、対象から認識の在り方を逸脱させるという誤謬に陥っている。しかしこれが 広く流布されているいわゆる「民主主義」なのだ。この種の「民主主義」信奉者は次のような、実 に楽天的な、どちらかというとほほえましいとも思える意見を吐露することになる。
 何度でも言います。国を変えたかったら選挙に行きましょう。今いる議員に何かを変えてもらうんで はなくて、国民全員巻き込んで投票で意思表示しましょう。
 護憲や改憲の立場で何を言おうが何をやろうが、投票で意思表示しなかったらただのたわ言、 ざれ事ですよ。
 法治国家において、世の中を変えるのに一番簡単なことなのになんでみんなその権利を使わない のかな?100%の投票率で何も変わらなかったら、それはそれで仕方ないけどね。

 反対に投票率0%もまったくありえないことだが、もしも投票率0%になったら確実に政治はかわ るだろう。ただし、その変化がファシズムに向かうか真の人間開放に向かうか、その吉凶は「賢い 人民」の賢さの質による。

 さて、政治概念としての「民主主義」の意味を明らかにすることがこのシリーズのテーマだが、 もちろん私がそれを自力で解明できるわけはない。その理論的解明には研鑽を積んだ専門家の 知力と膂力を必要とする。私にできることは、今までもそうだったように私自身が学ぶ目的を兼ねて、 私の知る範囲で私が最も信頼している理論を紹介することである。滝村隆一著「国家をめぐる論戦」 所収の「現代革命論の理論的再建のために」を用いる。

 「民主主義」とは近代ブルジョア国家の統治形態全体に関わる概念であり、「民主主義」とは何かを 問うことは、いわば、統治形態論を読み解くことと同意である。とくに「議会制民主主義」の原理的な 解明ということになる。
 ところで、滝村さんは統治形態論は「ブルジョア独裁を実現している様々な国家的支配の形式・形態 に関わるものであって、国家論のなかで理論的には最も重要にして困難な」問題だといい、「統治形態論」 の現況(1980年頃)について次のように述べている。
 凡そ国家論の統治形態論としての発展的具体化を可能としない国家本質論、あるいは統治形態論として の具体的展開を理論的裾野として把持しない国家本質論など、文献哲学者の空虚な思弁的妄想でな かったら、大海に浮遊する枯葉の如き代物でしかない。

 「空虚な思弁的妄想」や「大海に浮遊する枯葉の如き代物」しかないのが「国家論」の現状だと 認識している。「この問題をはじめて正面から扱い、その理論的解明に死力を尽してきた」と研究 過程を述懐し、自らの研究に対する自負を述べている。その研究成果を謙虚に賞味することにしよう。
289 統治形態論・「民主主義」とは何か(1)
教科書民主主義
2005年6月2日(木)


 朝日新聞(5月5日・夕刊)で橋本大三郎が天皇の継承問題についての論説を書いていた。 その最後のくだりはこうだった。
 天皇の血統が断絶して何が問題なのかと、私は言いたい。天皇システムと、民主主義・人権思想とが、 矛盾していることをまずみつめるべきだ。そもそも皇族は、人権が認められていない。結婚は「両性の 合意」によるのでなく、皇室会議の許可がいるし、職業選択の自由も参政権もない。皇族を辞める自由 もない。公務多忙で、「お世継ぎ」を期待され、受忍限度を超えたプレッシャーんにさらされ続ける。 こうした地位に生身の人間を縛りつけるのが戦後民主主義なら、それは本物の民主主義だろうか。皇位 継承者がいなければ、その機会に共和制に移行してもよいと思う。日ごろ皇室を敬えとか、人権尊重と か主張する人びとが、皇族の人権侵害に目をつぶるのは奇妙なことだ。皇室にすべての負担を押しつけ てよしとするのは、戦後民主主義の傲慢であろう。皇室を敬い人権を尊重するから、天皇システムに 幕を下ろすという選択があってよい。共和制に移行した日本国には天皇の代わりに大統領をおく。 この大統領は、政治にかかわらない元首だから、選挙で選んではいけない。任期を定め、有識者の選考 会議で選出して、国会が承認。儀式などの国事行為を行う。また皇室は、無形文化財の継承者として 存続、国民の募金で財団を設立して、手厚くサポートすることを提案したい。

 皇室が差別を基調とした現在の日本社会の象徴であるという認識には同意する。またいわば 皇室民営化論を提示しているがそれにも賛意を表しよう。しかしそれが「本物の民主主義」とか 「戦後民主主義」という文脈で語られているかぎり、その「皇室民営化論」は単なるヨタ話になって しまう。その点において私はこの論議に底抜けのオポチュニズムを感じる。この人は「民主主義」をど のように理解しているのだろうか。
  「民主主義とは、《関係者の全員が、対等な資格で、意志決定に加わることを原則にする政治制 度》をいう」という橋本の民主主義理解を、「『非国民』手帖」で「歪」氏が「学級会レベルの平板 な民主主義」と揶揄していたのを思い出した。(第109回参照)まったく進歩していないようだ。

 ここで思い出したことがある。もう4ヶ月ほども前になる。「市民インターネット新聞・JANJAN」 で「九条の会のアピールへのアピール」という九条の会のアピールを批判した記事にであった。 その記事があまりにも「いい気なもの」だったので、その記事への批判文を書いた。 (第190回~192回参照)JANJANではその記事の掲示板で議論が行われていたので私の批判文を 投稿してみた。最後のところで「国家論」を書くつもりだったが、抽象的な理論より分かりやす いだろうと思い、それに代えて秋山清氏の文を引用した。その最後のくだりを再度掲載する。
 国家観に関してもう一つ重要なことは「国家」と「市民」(私は「人民」という)の関係を 「支配-被支配」あるいは「抑圧-被抑圧」という関係から捉えることである。この観点から世界を 見れば、世界にはブッシュが言う様な「自由主義国家」対「ならず者国家」などという対立はなく、 あるのは「支配者・抑圧者」対「被支配者・被抑圧者」という対立があるばかりだという歴然とした 事実が大きく浮かび上がる。
 憲法前文は、この「支配者・抑圧者」対「被支配者・被抑圧者」という対立を克服するという課題 のための国家の役割を述べている。そしてこの課題は世界の全市民(人民)の共通の課題であるとも 言っている。「アピール」が「世界の市民の意思」と言っているのはそういうことだ。この私の理解 では「アピール」の言説にこれぽっちも「矛盾」はない。

 憲法「改正」において大きく意見が分かれる論点の多くは、国家観の違いに由来する。あなたと 「アピール」、あるいはあなたと私の、憲法を巡る意見の相違も煎じ詰めれば国家観の違いと言う ことになると思う。乏しいながら私の知る範囲では、上述のような国家観を私は今のところ一番「正しい」と確信し ている。

 最後に私が上述の国家観を「正しい」と断ずる所以の援護として、「国家について」で引用した 文章を再録して終わることにしよう。このような国家観とあなたがお持ちであろう国家観とを、 どうか、現実と照らし合わせてることによって比較検討されんことを。

 「国家の経済的繁栄が、そのまま日本人民衆の繁栄であるかのような錯覚に満ちわたっている。 日本の民衆は、自分たちが民衆にすぎないということすら、自覚していないのだ。かくては、毎日 の生活と生活環境への順応、治安の維持(支配のための)のための道徳と法律、その法律をつくる ための議会、議会のための選挙、われわれの坐臥、24時間、365日、この国家という権力機構の操作 の外に出ることはできない。繁栄といわれている現在ほど民衆の精神生活が、わが精神環境の外側 に吸収されて飢餓に瀕したことはなく、逆に国家権力がこれほど安定していることもない。国家が 民衆のものであるなどと、ぬけぬけとしたいい方があり、しかもなお民衆がそれを疑惑することすら できない。」

 「われわれは国家というものが、大衆の意志などとまるでまったく無関係な政府によって、政府 をつくる政党によって、政府をバックアップする階級によって、資本家によって、官僚によって、 あるいは地主らの総合的利益のためによって、つくられて運営されて、下級民衆にはそのための必 要によってのみ支配の手が緩急されるという事実をあまりにも痛切に経験しつつある。
(中略)
 国家、それは、社会主義を名乗ろうと王国であろうとデモクラシーの近代的国家であろうと、その 国家と民衆との関係は、圧制者と権力にしいたげられる奴隷との対立であることにかわりはない、と いうことにつきる。」 (秋山清「反逆の信条」より)

 このくだりについて、議論を主導していたらしい人(「アピールへのアピール」の筆者ではない)から 次のような反批判が掲示板に掲載された。
「国家」と「人民」は対立しません。対立させないためのシステムが、「民主主義」なのです。 民主主義は、国家を人民が運営していくためのシステムであり、それが本質です。国家という システムが人民に奉仕するために編み出されたのが、まさに民主主義なのです。

>ブッシュが言う様な「自由主義国家」対「ならず者国家」などという対立はなく、 あるのは「支配者・抑圧者」対「被支配者・被抑圧者」という対立があるばかりだという歴然とした 事実が大きく浮かび上がる。

とおっしゃいますが、ではそのブッシュ氏が権力を持っているのは何故でしょうか。ブッシュ氏を 権力者に選んだのは誰ですか?

「国家」と「人民」が対立しているのであれば、それは民主主義が機能不全に陥っている証左です。 そこで問題にされるべきは「民主主義システムの正常化」であり、「国家システムとの闘争」で はありません。

 安易にそれを対立させることは即ち民主主義の否定であり、そうであるならば、「国家」と 「人民」が対立しない別のモデルを示すべきなのです。

 秋山氏は間違っています。秋山氏が指摘したような搾取の構造があるのであれば、それを拒否する 権利をも人民に与えたのが民主主義なのですよ。秋山氏がしたことは、現在の社会にある矛盾点を 掘り出し、それを国家システムの問題と摩り替えているに過ぎません。

つまり、現在の社会にある問題点とは、我々一人一人が選択したことの結果・ひずみが顕在化しただ けのものであり、それは即ち我々自身の問題なのです。「民主主義とは、愚か者に滅ぶ権利すらも 与える」ものなのです。であれば我々がするべきことは、「賢い人民」になり、「よりよい国家 システム」を実現することではないでしょうか。

 ここで述べられている民主主義は「教科書民主主義」といったらよいだろうか。やはり凡庸で平板な 民主主義がはびこっている。
 『我々がするべきことは、「賢い人民」になり、「よりよい国家システム」を実現することではない でしょうか。』
 その通り。だがそのための第一歩は「教科書民主主義」を止揚することだ。「教科書民主主義」の 誤謬を知ることは「賢い人民」であるための必要条件なのだ。
288 詩をどうぞ(19)
愚作2編
2005年6月1日(水)


 1991年に次のような文を書いていた。職場の仲間に配るつもりっだったようだが、 実際には配らなかったのではないか。怪しげな記憶がそういっている。
 当然のことながら、イシハラを尖兵とする今日の極右傾向は突然にやってきたのではない。やはり 長い過程がある。そして昭和天皇の死去がその傾向が大きくカーブする結節点だったので はないか。最後のカリスマ天皇の消滅が右翼保守層に大きな危機感を与え、明確なプログラム をもった具体的な政治的・社会的な行動を引き出した。今にして思えば、その結節点は1991年 だったかもしれない。



    右翼テロと自由民主党

 本島長崎市市長が右翼に狙撃たれた。激しい憤りとともに、この国の自由と 民主主義の底の浅さに情けない気持ちになる。自分の日常にも自由と民主にも とる言動がままあり、その底の浅さの責の一端は私にもある。
 しかし個人レベルの問題とは別に、自由と民主の成長を阻止し続けてきた 、自由と民主を標榜しているこの国の独裁党の政治姿勢が一番問われるべき だ。特にその文教政策は一貫して自由と民主を抑圧するものであった。また 最近の天皇の代替わりに関わる問題に対する政治姿勢も自由と民主の抑圧で はないか。
 自民党政府の教育支配のもくろみは遂に最終目標に達したようである。 自民党の意を受けて文部省は言う。学習指導要領に従わぬものは処罰すると 。ねらいは君が代・日の丸の強制だ。これを伝習館裁判の反動判決をもって 最高裁が追認する。この国には司法府はなく、立法府と行政府があるばかり だ。
 右翼はテロで脅して自分たちと異なる思想・信条を圧殺しようとする。 文部省は処罰をちらつかせて全ての教師に自民党の思想・信条に服従せよ という。直接処罰の対象とならないが、全ての生徒・父母にも服従を強い ていることになる。テロと処罰の違いはあっても、そのやり方と目的は同 じではないか。自民党政府にはこの度のテロ事件を非難する資格はないし、 東欧の民衆の自由と民主主義へのたたかいにエールを送る資格もない。

元旦にこんな詩を作った。

 日の出、いまだし 

 日出づる処の国では
 自由と民主の衣着て
 一党独裁半世紀
 自由と民主が
 民衆を威嚇する

  日出づる処の国は
  民主の国なれば
  世襲君主を寿ぎに寿ぐ歌を
  歌わぬものは 処罰

  日出づる処の国は
  自由の国なれば
  白地に赤く民の血染めてあゝ美しい
  旗掲げぬものは 処罰

 1990年
 日出づる処の国は
 万世一系の
 まことしやかな欺式の年で
 自由と民主は
 ますますよれるか
 まことの日の出は
 いまだはるか

 彼方の
 東欧の民衆の
 自由と民主へのたたかいが
 まぶしい
     (1991年)


 もう一編はつい3年前のもの。


メイモウの国 

ヤギがメイとなくと
ウシはモウとなく

首相がヤギで
首都の知事がウシで
ヤギとウシがメイモウと勇ましい

ためにヤギウシが急速に繁殖して
メイモウの唱和が喧しく

メイモウヒノマル
メイモウキミガヨ
メイモウヤスクニ

ちかごろヤギウシは
「手味噌正義」のブッシュに迷い込み
1938年のヤギウシに退化して
いよいよ威丈高だ
メイモウメイモウと踊りながら
先の大戦での膨大な死者たちに
無駄死を強いようとしている

が、ヤギウシはその迷妄に気づかない

          (2003年)