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287 日本のナショナリズム(38)
戦後の知識人ナショナリズム:第二の系譜
2005年5月31日(火)


 戦後の知識人ナショナリズムのもう一つの系譜、『桑原武夫・加藤周一などの近代主義的な外 国文学者による日本の近代文化の様相の検討』によるナショナリズムの方向づげだった。この系譜の 理論の基礎となっているのは、『戦後、日本の資本主義が、西欧なみの近代性を獲得し、近代 国家という概念が成立しうるようになった、という認識』だと、吉本さんは述べている。この戦後の 日本国家についての認識は、色川さんが「先進国型」と呼んでいた戦後日本についての認識と同じだと思う。
 さて、吉本さんは、加藤周一の「日本文化雑種」論はこうした認識をもとに成り立っているとして それを取り上げている。
 「西ヨーロッパで暮していたときには西ヨーロッパと日本とを比較し、日本的なものの内容を伝統的 な古い日本を中心として考える傾きがあった。ところが日本へかえってきてみて、日本的なものは他の アジアの諸国とのちがい、つまり日本の西洋化が深いところへ入っているという事実そのものにももと めなければならないと考えるようになった。ということは伝統的な日本から西洋化した日本へ注意が 移ってきたということでは決してない。そうではなくて日本の文化の特徴は、その二つの要素が深い ところで絡んでいて、どちらも抜き難いということそのこと自体にあるのではないかと考えはじめた ということである。つまり英仏の文化を純粋種の文化の典型であるとすれば、日本の文化は雑種の文化 の典型ではないかということだ。」

 ここから、加藤周一は文化の純粋日本化運動も、純粋西洋化運動も結局は、成就不可能であり、 この雑種性を、積極的な契機に転化してゆくより道はないと結論している。このような近代主義的な 西欧文学者・思想家の反省は、いかに位置づけられるものであるかは、わたしのいままでの論述から 明瞭であるとおもう。これらは近代日本の知識人「ナショナリズム」の抽出過程と、その裏目に リアリズムの認識として対立した日本(ヽヽ)知識人のインターナショナリ ズムに対して、日本の社会・文化の実体構造を、まず実体構造として前提としなければならぬ、という ことを主張しているのである。日本の国家(ネーション)を、資本制の社会構造として独自に存在し ている実体であることを認めるべきだとする論理である。このような見解は、戦争期の知識人のウル トラ=ナショナリズム(天皇主義)とウルトラ=インターナショナリズム(スターリン主義)の体験を 経て、もっとも近代主義的な西欧文学者・思想家の手によって唱えられたという意味で、戦後的なもの といえよう。
 ついで吉本さんはこの種の戦後知識人のナショナリズムを政策論として表現したものとして、上山春平の 「再び大東亜戦争の意義について」(「中央公論」昭和39年3月)の一節を挙げている。
 新しい国家体制にふさわしい新しい防衛体制の基本的特徴について、今、私の念頭にあるのは、 つぎのような諸点である。
(1) 国の政治的独立を維持するに必要な、徹底的に防禦的で、住民の分業的生活体系と密着した、 国土の外では機能しえない、非侵略的組織であること。
(2) 国の独立と安全をおびやかす人災ならびに天災に適時対応しうる体制をととのえることを 目標とし、仮想敵国は想定しないこと。
(3) 国民の総意が、生活時間の一部をさいて、何らかの仕方で参加できる権利と義務をもつこと。
(4)総ての国民が短期間ずつ参加しうる組織を維持し、改善するために、事務局ないし専門機関が必要となるが、 そのメンバーは一般公務員とし、一般国民にたいする助言者および奉仕者としての立場を明確にし、旧軍隊にお ける職業軍人の徴募市民にたいするような関係が再現しないようにすること。
(5)事務局ないし専門機関は内閣総理大臣の直属とするが、運営に当っては、超党派的な議会の防衛委員会(議員 外の専門委員をふくむ)の協議を経る等、党利党略に左右されぬよう最大の注意をはらうこと。
(6)国民は防衛義務の履行に当って、その体力・能力・志望等に応じて、技能をみがきながら、全国民的規模にお ける防災(人災ならびに天災の防禦)体制の維持に貢献しうるような多角的な機構と設備を国家に要求しうる権 利をもつこと。
(7)従来、分散的に処置されていた防災事項安全関係事項一般を総合的に研究する機関をもうけ、その総合的な対 応処置を重点的に実行すること。

  この論議は日本の資本制が近代的な意味での国家を形成するに至ったという現状認識と自己の戦争 体験の総体的肯定と部分的修正をもとにして成立している。吉本さんはこうした論議を『わたしは、 上山春平のこの到達点を、安田武の近代主義的な「戦争体験論」や、解体期スターリニズムとの融着 をすすめつつある井上光晴の文学表現とともに、戦争世代の面汚しであるとおもう。』と酷評して いる。
 いったい、この社会の現実は、上山春平の脳髄のなかで、どういうことになったのか? かつての 海軍士官は、こういう結論に到達するために、戦後知識人の思想史を歩んできたのか? ここには、 戦争世代が全力をあげて、生命をあげて粉砕すべき処方箋しかしめされてはいないのである。この 上山春平の見解は、ある意味で戦争期知識人のウルトラ=ナショナリズムからの後退であり、また、 ある意味で解体期スターリニズム(構改派)との合流をふくむ戦後知識人「ナショナリズム」の社 会ファシズム化である。
 吉本さんはこの種の論議が「実体構造論として決定的に欠いているのは何であろうか?」と問う。
 それは、ただひとつ、現在、大衆の「ナショナリズム」は、一種の「揚げ底」のうえで、戦後資本制の 高度化から思想的な現実の基盤を侵蝕され(農村の資本制化の進行)て、根拠と主題を失っているという 意味を、かれらが、まったくたずねようとしない点に存在する。
 戦後の大衆「ナショナリズム」は、ナショナリズムのウルトラ化もゆるされず、また「ナショナリズム」の社会 化もゆるされずに、その基盤である農村を戦後資本制によって収奪されているというところで、思想的な アパシー化をうけつつあるということができる。明治以後の大衆「ナショナリズム」は、「ナショナリ ズム」概念自体を喪失しているところに、現在、ナショナルな実体をおいている。
 この現状は、上山春平に象徴される近代主義知識人「ナショナリズム」による大衆「ナショナリズム」 の資本制国家への統合のイメージをもゆるさないし、解体期スターリニズム知識人(構改派)のイン ターナショナリズムによる大衆「ナショナリズム」の吸収をもゆるさないものとして世界史的な連関の なかで存在している。
 近代主義知識人たちは相変わらず「虚像」を軸に知的営為を重ねている。大衆が置かれている現況 あるいは社会の総体のビジョンをつかみ損ねたままでのこうした論議を、吉本さんは批判している。 そして、いかなる「虚像」をも否定する立場から、戦後知識人の一人として、自らの課題を次のよう に提示して、論を閉じている。
 この大衆「ナショナリズム」の現状は、いぜんとして、戦後日本の資本制とその影の部分に亡霊の ように存在している戦後天皇族の存在の在方に、逆立ちした鏡を見出している。のぞき見の興味と、 会社の重役にたいするような畏敬と、漠然たる自然感情による憧れと人気の象徴として、大衆ナショナ リズムはみずからの鏡を支配層に見出している。
 これらの大衆「ナショナリズム」の「揚げ底」化を、土着化にみちびく道は、政治的には、資本制 支配層そのものを追いつめ、つきおとす長い道と、思想的には、大衆「ナショナリズム」の「揚げ底」 を大衆自体の生活思想の深化(自立化)によって、大衆自体が、自己分離せしめるという方途以外には 存在しないのである。そのとき、戦後知識人「ナショナリズム」による国民的統合のイメージと、 戦後知識人のインターナショナリズム(スターリニズム・毛沢東主義・フルシチョフ主義・トリアッティ 主義)による擬似社会主義化のイメージは、共に根底から転倒され、止揚されるはずである。この考え は「自立」主義と他称されているが、それは名辞の問題ではなく、現実の問題に外ならぬのだ。 妥協のない歩みは、長く困難につづくとおもう。
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286 日本のナショナリズム(37)
戦後の知識人ナショナリズム:第一の系譜
2005年5月30日(月)


 吉本論文の「戦後ナショナリズムの問題点」を読む。
 吉本さんは戦後の知識人「ナショナリズム」の思想的な展開を、次の二つの系譜に分けて分析している。
 
 ひとつは、竹内好・丸山真男・久野収・鶴見俊輔・橋川文三・藤田省三などによって代表される もので、その特色は戦争体験と知識人インターナショナリズム、ウルトラ=ナショナリズムの転向体験 を検討しつつ、そこから戦後における思想的な王道を探るという方法意識に要約される。
 もうひとつは桑原武夫・加藤周一などの近代主義的な外国文学者による日本の近代文化の様相の検討をつうじての 「ナショナリズム」の方向づげである。

 第一の系譜の特徴を次のように述べている。
 その方法と展開とにそれぞれ固有性が存在するが、その根柢にあるものは、大衆「ナショナリズ ム」に、いかにして知識的方法から接近するか、大衆「ナショナリズム」は、いかにして、裏目に つねに醜悪なリアリズムが想定されるというような形ではなく、土着性としてとらえうるかという 問題意識につらぬかれている。その方法は、大なり小なりプラグマチズム的である。

 これは、色川さんの「ナショナリズムはやがて一切の排外主義や政治行為から剥離され、一つの民族の 土着的な文化意識に昇華されることがのぞましい。」という問題意識と同一である。
 吉本さんは代表としてあげた人たちの固有性を次のように分析している。
 鶴見俊輔:アメリカ=プラグマチズムの方法を、日本の大衆「ナショナリズム」の定着に試みる。

 竹内好 :中国・東南アジアにたいする戦争と、アメリカに対する戦争とを、太平洋戦争について 区別することによって、大衆「ナショナリズム」の土着化の課題に接近しようとしている。

 久野収・橋川文三・藤田省三:戦後マルクス主義が捨ててかえりみなかった近代日本の 「ナショナリズム」思想を深く再検討することによって、この課題に間接的に接近しようとする。その 志向を古典マルクス主義・リベラリズム・ナショナリズムの転向体験・戦争体験・天皇制問題の追及 を通じて貫徹している。

 このうち、「鶴見俊輔の方法」について詳論している。
 たとえば、このうちもっとも異邦的な鶴見俊輔の方法を「日本知識人のアメリカ像」を通じて考えて みよう。かれは、まず、日本知識人の「ナショナリズム」が生みだす虚像についてアメリカ観を軸にし て語る。戦争期に鬼畜米英論をかいた知識人は、戦後、日本共産党の排外民族主義路線に便乗して、

ことしこそ国の内外
カを合せ
われわれを戦争地獄に追い立てる
あぶらぎった白鬼どもを逆に
地獄にたたきこめ(「アカハタ」昭28・1・1赤木健介)

というような米国観を披瀝する。それらは、虚像として同一である。青年時代、大なり小なりアメリカ から影響をうけたり、アメリカへ留学したことのある知識人たちも、戦争・戦後にかけておなじような 虚像を披瀝していることを鶴見は指摘する。(この指摘は現在、日共および「新日本文学」的、あるい は構改派的進歩派にとっても妥当する。かれらの、ライシャワー文化攻勢という言葉は、ソ連・中国に たいするかれらの虚像を写す鏡である。)
 ところで、日本にも、米国にも、ソ連や中国にも虚像をもたないというリアリズム覚醒を敗戦体験と したわたしには、「虚像」を「虚像」で打つという進歩派にも保守派にもあまり関心がない。いずれ 虚像は死に、かれらが現実へひきおろされるとき、思想の土着化の課題が、かれらにやって来なけれ ばならないのだ。

 引用されている詩とは言えないような詩から透けて見える貧困な精神に接すると、自称進歩派知識人 への絶望感がつのる。戦中・戦前、国家に迎合して大衆を鼓舞扇動していた一連の詩となんと似ている ことか。
 吉本さんはそのような、あいもかわらず「虚像」をよりどころに空疎な言説を垂れ流している知識人 を辛らつに批判している。
 さて、「鶴見の指摘する方法が、わたしにある熟考をせまるのは、つぎのような点である。」と継いで、 吉本さん自身が大変重たい問題提起をしている。少し長いが省略しないで全文引用する。
 「この条件下で、(この文の前に徳田・志賀の「獄中十八年」からの引用があり、そこにはアメリカ 空軍の空襲のさいの拘禁所内の混乱ぶりが語られている。― 引用者註)天皇ならびに役人たちは 日本人であるという理由だけで友であるか?日本を攻撃するアメリカの飛行機は、敵であるか? 私は、 そうは思わない。この条件下で、獄中で日本の軍国主義とたたかっていた日本人は、日本の権力者に たいするよりも、アメリカ人と結びついていた。このような結びつきは当時可能であったごとく、 今後も、条件の変更によっては、日本人とアメリカ人とのあいだに起りうることなのだ。このことの 認識をぬきにして、虚像を建設することだけは、はっきりと排除したい。」
 この見解は、当然、ソ連や中共やアメリカが友であり、日本の大衆は敵であるということが、条件 次第では可能であるという認識をふくむものである。わたしは、ソ連や中共やアメリカにどんな虚像も もたないことを代償として、日本の大衆は敵であるということが条件次第では可能であるという認識に たいしては、鶴見の断定に反対したい。あるいは、あるはにかみ(ヽヽヽヽ) をもって、沈黙したい。インターナショナリズムにどんな虚像をももたないということを代償にして わたしならば日本の大衆を絶対に敵としないという思想方法を編みだすだろうし、編みだそうとして きた。井の中の蛙は、井の外に虚像をもつかぎりは、井の中にあるが、井の外に虚像をもたなければ、 井の中にあること自体が、井の外とつながっている、という方法を択びたいとおもう。これは誤りで あるかもしれぬ、おれは世界の現実を鶴見ほど知らぬのかも知れぬ、という疑念が萌さないではないが、 その疑念よりも、井の中の蛙でしかありえない、大衆それ自体の思想と生活の重量のほうが、すこしく 重く感ぜられる。生涯のうちに、じぶんの職場と家とをつなぐ生活圏を離れることもできないし、 離れようともしないで、どんな支配にたいしても無関心に無自覚にゆれるように生活し、死ぬというと ころに、大衆の「ナショナリズム」の核があるとすれば、これこそが、どのような政治人より も重たく存在しているものとして思想化するに価する。ここに「自立」主義の基盤がある。
 スターリニズムの影響下にそだった戦後の若い知識層のうちには、一連のプラグマチズム系の 学者・思想家による大衆「ナショナリズム」と知識人のウルトラ=ナショナリズムにたいする 汎アジア的または、汎西欧的なインターナショナリズムからする検討の試みと方法の発掘を、 過小評価するものがいるのはたしかである。しかし、スターリニズムは、プラグマチズムほどにも 自己のスターリニズムの否定的な意義を検討しようと試みてはいない。それらは、 大体解体期にあるとはいえスターリニズム(コミンターン=インターナショナリズム)系統が、 世界の半分を現政治勢力として支配しているということに、何か意味があり、力があるかのように 錯覚し、安堵してそのような検討に手を触れようとしないというのが現状である。しかし、 スターリニズム系統の思想と政治勢力(フルシチョフ・毛沢東・トリアッティ主儀とその同伴の 進歩派)は、いかに平和共存や、資本主義との平和競争のうちに、未来の世界史の 動向を構想しようとしてもそれ自体が背理であり、かれらは、資本主義との核戦争以外に、 世界史の未来を支配することはありえないのである。わたしは、これらの虚像を、資本制に対する 虚像とおなじように否定する。それは、大衆「ナショナリズム」の土着化(裏目なしの地点への 下降とその思想化による上昇)の立場である。

 吉本さんはここで自らの思想的立場をはっきりと明言している。『生涯のうちに、じぶんの職場と家とをつなぐ生活圏を離れることもできないし、 離れようともしないで、どんな支配にたいしても無関心に無自覚にゆれるように生活し、死ぬというと ころに、大衆の「ナショナリズム」の核があるとすれば、これこそが、どのような政治人より も重たく存在しているものとして思想化するに価する。』と、大衆の側によりそい、 「大衆」の生活思想を自らの思想に繰り込んでいく営為を自らに課している。そして、ソ連邦の崩壊という 事実を見てきた今、すべての「虚像」を「虚像」と見抜き否定することを根底において営まれてきた 吉本思想の慧眼を改めて評価したい。
 「第21回」(2004年9月4日)で引用した文が思い出される。
 わたしたちが認めうるのは、この世界には少数の支配と多数の被支配が現実を領しているということ だけである。この課題が「社会主義」国家同盟と「資本主義」国家同盟の対立、矛盾という概念に よっては救抜されないということだけはあきらかである。(吉本隆明「模写と鏡」 より)

285 日本のナショナリズム(36)
戦後の大衆ナショナリズム:60年~70年
2005年5月29日(日)


色川論文の続き。
 現代の大衆は「国家」を熱い想いで見ることなどはしない。1960年代に入っていっそう「国家」 と大衆との間は冷えきってしまった。「国家」と「市民生活」とは意識において完全に分離され、 大衆の関心事はもっぱら私的利害の領域(市民社会)にある。その私事から発し、私事を媒介としない 国家(公事)との関わりなど考えられなくなった。六〇年代の後半から各地に住民運動が起り、それが たちまち全国に蔓延しているが、それこそ大衆の〝政治″にたいする発想様式の転換の新しい質を示す ものである。ここでは最初から国事を発想の起点とし、主問題とするような既成政党などは相手にされ ない。あくまでも大衆自身の生活の場を基本とし、その市民社会におけるエゴ→地域エゴの主張と調整 から公事・国家に立ち向ってゆこうという情念が現代ナショナリズムの一つの核を形成しつつある。

 ここで色川さんが言うところの「後進国型」と「先進国型」という概念がよりはっきりとしてきた。
  「後進国型」とは「国家」と「市民社会」が未分化で、市民社会が国家に隷属しているような段階を 指している。それに対して「先進国型」とは、近代国民国家成立の歴史的・現実的前提である「近代的 市民社会」の確立された段階を指している。そこでは『「国家」と「市民生活」とは意識において完全 に分離され、大衆の関心事はもっぱら私的利害の領域(市民社会)にある。』
 この認識は「自由について」や「国家について」で取り上げた「国家」と「市民社会」との相互関係 ついての分析と通ずるものであろう。(特に「第93回・2004年11月15日」を参照)。 ただ現実問題としては、日本の大衆(市民)には「階級意識」が希薄である点でなお「後進国型」の 残滓を引きずっていると、私は考えている。
 これまで見てきたような戦前型-後進国型のナショナリズムは、戦後30年を経た今日、日本の国家 支配層にも大衆にもどちらにも存在しなくなった。かつて中江兆民が嘆いていたような対国家関係に おける日本人の過敏な〝神経症″や昂奮性や情緒の不安定性は日本社会のどこにもいちじるしく減退 してしまった。その代りに国際関係をも冷静に利害のそろばんで計量する市民社会的感覚が大衆のな かにも定着しつつあるのを見る。この根本をなしたのは日本独占資本が多国籍企業にまで成長して地 球上に普遍化されたばかりではなく、農山漁村のすべてをふくむ全国民生活のすみずみをまで支配し、 その大規模商品生産と消費の全循環過程の中に完全に包みきったところに由来している。とくに戦前 ナショナリズムの最大の培養基であった日本の農村が徹底的に収奪され、造りかえられ、大資本の直 接支配下に組みこまれたということは決定的であった。そしてその培養基が解体されたということは 一つのナショナリズム史の終焉をも意味したのである。
(中略)
 1970年代に入って(とくに劇的には1973年の石油ショックを境に)新しい意識情況が生れてきた。 大衆のナショナリズムのいっそうの「私」化・保守化である。それは戦後資本主義の高度化にとも なって1960年代に農村から大量に吸いあげられ企業体内の世界に定住した大衆の中から、あらたな 現代ナショナリズムが簇生してきたという情況である。
 それは一種の民族的エゴイズムとしての物欲主義と私的幸福追求のロマンチシズム (マイホームの夢や高福祉社会の幻想の形をとる)をメダルの裏表とした保身的危機意識として あらわれた。1973年秋まで、アラブの石油の超低廉価格での収奪の上にエネルギー革命や技術革新を 達成し、世界有数の高度生産性と賃金の急上昇を確保していた日本の独占資本主義は、その提灯もち たる未来学者どもに祝福されて長いあいだバラ色の「無限成長」の夢をむさぼっていた。その同じ 「揚げ底」の上にのっていた日本の基幹産業労働者たちは「経済大国」の分け前にあずかる中で、 企業内公害の告発に目をつぶり、ひたすら長期ローンによるマイホームの獲得や終身雇傭をたよりの長 期子弟教育計画、ゴルフ、別荘、外国旅行などレジャープランの〝充実した市民生活″を追求してい たのである。

 大衆の〝充実した市民生活″の追求をナショナリズムと呼ぶなら、さしずめ 「マイホーム・ナショナリズム」というところか。
 敗戦直後の私の記憶には、狭い借家に住まい、毎日の食料にもこと欠き、粗末な衣服しか身につけ られず、寒さや暑さをしのぐにも難儀していた時代がある。私にはゴルフも別荘も外国旅行も無縁な ものだが、私たち大衆が自前の家を持ったり〝充実した市民生活″を獲得できることはちっとも悪い ことではない。
 まず、資本主義の愉楽をしゃぶりつくせ、ということだ。
 資本主義が《商品》とそれに対する《欲望》そのものをも同時的に生産しつつ、《欲望》の充 足を達成したのに対し、《左翼》はそれを超える《世界》像を提示し得なかった。
 《左翼》の想像力は資本主義の発達のスピードに遅れをとったのだ。
 ならば、資本主義のあり方にその身を根底から洗われ、深く沈潜させないことには、どんな 《思想》もはじまりはしないはずだ。
      「164. 『「非国民」手帖』を読む(30)」より

 ただ現時点での〝充実した市民生活″の追求は、大衆間の分断という「揚げ底」の上 に成り立っていることに保留条件をつけなければならない。先に、『日本の大衆(市民)に は「階級意識」が希薄である』と書いたが、大衆支配の分断という支配者の施策に対しても 盲目に過ぎると思う。その社会的不平等の止揚がいまだ人類の最大の課題なのだ。
 日本の現代ナショナリズムの中軸的な培養基が企業世界での共同幻想だとすれば、その大衆 ナショナリズムの解体基は同じ企業世界の最底辺の民衆に存する。日本の大企業はほとんど末 端の現場労働を出稼ぎ労働者や下請けの零細業者に負わせている。そしてそれら幾百万人の労 働者は仕事の区切りごとに首を切られる無保障の流民型近代労働者であり、大企業労働者と違 って離職や移動や失業を恐れない。その近代流民自体が「経済大国」そのものの虚構を見破り、 同じ日本独占資本主義に抑圧され、犠牲にされている第三世界や「辺境」の人民への国境を こえた共感を抱きつつある。かれらがみずからその呪縛を解き放ち、その「揚げ底」を揚棄して ゆくたたかいと認識とが、基幹産業労働者を迷夢から覚醒させ、現代ナショナリズムを解体し、 人間同胞主義を展望させる一つの可能性となるであろう。

 色川さんがこれを書いた時より、現在はひどい状況になっている。
 JR西日本の事故をきっかけに明るみに出できた「研修」という名の労働者に対する奴隷的 服従の強制は、今いたる企業で常態化しているのではないか。大企業の労働者もこのような 状況におかれている。「日の丸・君が代」の強制に不服従を貫いている教員に対する見せし めのような「研修」も同じである。そして「流民型労働者」は増え続け、その待遇もさらに 悪化している。
 この民衆支配の関連構造への認識には前史があったことを、すでに読者は気づかれていたであろう。 総体としての民衆支配のメカニズムはこの100年、根本的には変えられずに継続している。この民衆 内部に深く喰いこんだ差別と抑圧と支配の物心両面の機構を徹底的に追いつめ破砕することなしに、 欺瞞的な共同幻想としてのナショナリズムを完全に揚棄することはできないのである。
 もとより私はやがてすべての国家が廃絶され、国境が一掃され、人類が一つの自治連合機構のもと で暮すようになる日の来ることを望んでいる。だが、現実の世界がそれと逆行している以上、せめて 人類社会の中での日本民族の個性(その長所と欠点の特質)を正しく理解して、その中にひそむ歴史 的創造力を発見し、それに誇りをもって人類に寄与できるナショナリズムであるならば認めてゆきたい。 こうしてナショナリズムはやがて一切の排外主義や政治行為から剥離され、一つの民族の土着的な 文化意識に昇華されることがのぞましい。だが、人類が自滅するまえにそのようなユートピアが来ると 信じられるだろうか。ナショナリズムはこれからもまた、野性的なエネルギーを秘めた統御困難な 歴史の遺物として人類の前途を永く圧迫しつづけるであろう。

 この色川さんの結語に賛同するかどうか、私は今はまだ保留しようと思う。この文の中には さらに解明しなければならないたくさんの問題が含まれている。
284 日本のナショナリズム(35)
戦後の大衆ナショナリズム:60年安保まで
2005年5月28日(土)


 他国に対しても自国に対しても破滅的な結果をもたらした「大東亜戦争」という無謀な国家意思に 収斂していった近代日本の大衆および知識人のナショナリズムを一通りたどってきた。

 ところで吉本論文と色川論文はともに「戦後ナショナリズムの問題点」という表題の章を最後において 論を閉じている。私のこのシリーズもそれを読んで終わりとしよう。
 吉本論文の方は主として戦後知識人のナショナリズムを扱っている。戦後知識 人といっても吉本論文が書かれたのは1964年だから、1950年代までの知識人ナショナリズムである。 一方、色川論文は主として戦後の大衆ナショナリズムをテーマにしている。色川論文の執筆は 1975年ごろと推定できる。従って1970年代前半までの大衆ナショナリズムということになる。 テーマが時代的に新しければ新しいほど、論文が書かれた当時は知られていなかった 事実や資料が多くなるだろう。そういう意味での時代的制約がお二人の論文にはあることだろう。 しかし現時点でもお二人から学ぶべき点は多々あると思う。
 戦後のナショナリズムについては昨年、小熊英二さんが「<民主>と<愛国>」という大著を 上梓している。1970までのナショナリズムに関する言説を研究したもので、それを参考にすべき かもしれない。しかし今までどおり、吉本論文と色川論文で戦後のナショナリズムたどることにする。

 色川論文は戦後1970年代までの大衆ナショナリズムを概観しているので、まずそれを 読むことにする。
 まず「戦前型ナショナリズム」の終焉を語っている。
 明治維新期に発生し、日露戦争中に成熟した大衆の「実感としてのナショナリズム」は、その後資 本主義の浸透と植民地支配を受容するにつれて、しだいにその主題と心情核を喪失し、やがて 大正・昭和期の「望郷としてのナショナリズム」に退行してゆく。しかし、日米戦争の勃発は 未曾有の「国難」をもたらし、ふたたびナショナリズムの「余情」は燃え立ち、ウルトラ・ナ ショナリズムを横行させた。

 再び燃え立ったナショナリズムの「余情」についてはこの章の冒頭で次のように書いている。
 太平洋戦争下の「農民兵士の手紙」などを検討してみると、くりかえし家族や農作業や故郷の 村(半ば擬制と化していた共同体)のことが書かれており、そこには昇華された望郷の念と伝統 への回帰の情が溢れている(その意味ではナショナリズムの心情核は復活しているようにみえる)。 だが、日露戦争の時代のそれとくらべるなら、頂点の天皇や国家にたいして感激をもって進んで 自分を同一化してゆこうとする積極的な情熱が欠けていることは否定できない。つまり、第二次 大戦下の兵士たちは概念化してしまった国家像との心情的なミゾを感じていた(この意味では頂点の天 皇・国体と、底辺の家郷共同体との直截な心情的対応は弱まっていた)。それだからこそ、 いっそう家郷への想いを強め、そこに救いを求めたのであろう。戦争末期に異常な熱狂状態にま で昂まったようにみえたナショナリズムも、支配層・中間層の積極分子や純真な少年たちの叫喚 的スローガンとは裏腹に、意外にひろい生活者大衆のエゴイズムや疎隔感によって浮き上らされ ていたのである。(その内情を見ないと歴史認識を誤る。)
 それにもかかわらず、社会的分裂の兆しを未然に防ぎ得たまま、とにかく敗戦の前日まで多数の 国民感情を動員しつづけたことは歴史上にも稀なるナショナリズムの威力を示したものであった。

 そのウルトラ・ナショナリズムも敗戦によってその思想的な基盤を失い、「戦前型ナショナリ ズム」は底辺に拡散し、1950~60年代の急激な社会経済構造の変化の過程で消滅してく。
 戦後ナショナリズムは、2000日におよぶマッカーサー司令部の占領支配にもかかわらず、 反米独立のエネルギーとして広大な大衆の胸に燃え上ることはなかった。わずかにその一部が 朝鮮戦争下の反戦運動や1952(昭和27)年の血のメーデー事件に激発したにすぎなかった。
 当時、燎原の火のようにアジア・アフリカに燃えひろがっていた民族の解放と独立を求める ナショナリズムの力は、日本の革新勢力の期待に反して大衆を動かすことなく、むしろ静かな 平和擁護運動がビキニの水爆実験などを契機にして大衆的な共鳴を博したにすぎなかった。 つまり敗戦によって得た民主主義は、〝偉大な占領者″への親愛と畏敬とを抱かせこそすれ、 なんら対外的な国家意識と結びつくことを要しなかったのである。
 いっぽう支配層によるナショナリズムの反動的利用も、政策上の逆コースが喧伝されたわ りにはさしたる進展をみせず、大衆の心をとらえることに成功しなかった。1960(昭和35)年安保 問題での国民的な蹶起のなかには、なるほど反米的なナショナリズム感情の爆発も見られたけれど、 運動を主導したエネルギーはそれでなく、戦前からつづいてきた後進国型のナショナリズムは、 一応この60年安保のアメリカ大統領訪日阻止の大衆行動を最後に終ったのである。
 どういう点をさして「後進国型」というのか。その意によっては、1960年の安保闘争を 「主導したエネルギー」を「後進国型のナショナリズム」とする論には、たぶん異論があること と思う。この後の文で「後進国型」の意味が明かされると思う。
 とまれ色川さんは「1960年代に入って戦前型のそれと入れ代りに姿をあらわした現代ナショナ リズムは、故郷をも「観光」の対象として見るほどの乾いた大衆ナショナリズムに変貌していた。」 という認識を述べている。
 私は現代のナショナリズムを60年以前のものとは異質なものだとして捉える。(国家がつづくかぎ りナショナリズムは消滅しない。)1960年代に急展開した〝高度経済成長″は農村を根こそぎ変革し、 日本を〝成熟した産業社会″、いわゆる〝近代市民社会″としてつくりかえた。そこにおいて形成され た大衆の、社会に下向するナショナリズムも政治に上向するナショナリズムも、もはや戦前の後進国 型のものとはまるで違うものとなった。先進国型のナショナリズムとして形を成したのである。たと えば今日では北方領土問題で一部の者(その時代錯誤の代表たる旧右翼)がいかに煽動しようとも、 これに同調して動きだす大衆はいない。また日本の首相が東南アジアや韓国を訪問して、はげしい 反日デモにぶつかり、日章旗が焼かれ、車が壊され、大使館に乱入されたりしようと(しばしば日 本商社員が殺されても)、戦前のように〝屈辱″だ〝国辱″だと叫んで悲憤健慨するような熱い ハートの大衆の姿は見られない。そのような心理構造はもはや一部の古典左翼や青嵐会のような 愚物共の脳髄以外には見られなくなってしまったのである。

 ちなみに、イシハラは「青嵐会」という愚物の集まりのメンバーだった。「いかに煽動しようとも、 これに同調して動きだす大衆」がいない危機感がイシハラをハチャメチャな教育行政に駆っている と思われる。ただそのイシハラに投票した300万の人たちが今後イシハラの「煽動」にどう反応するか、 予断は許されない。
 また現在、中国の反日デモや北朝鮮の拉致問題に対する日本の大衆の反応にはやはり「熱い ハートの大衆の姿は見られない」と判断してよいだろうか。あるいはまた、戦前型 あるいは後進国型のナショナリズムとは違うものと判断してよいだろうか。
283 日本のナショナリズム(34)
天皇制をめぐる二つの錯誤
2005年5月27日(金)


 コミンテルン (Comintern、Communist International) =第3インターナショナル。1913年3月レーニンの 指導のもとで設立。共産主義思想の普及、革命家の育成、ロシア革命の世界革命化などが目的。
ナチスに対して反ファシズム、人民戦線路線の立場をとり、第二次世界大戦中にはアメリカ、 イギリスとの協調のため1943年5月に解散した。

 1922年に日本共産党が承認された。(日本共産党はコミンテルン支部となる)
 当初、日本共産党では君主制廃止をめぐる内部意見の対立から綱領(テーゼ)は作成されなかった。 コミンテルンの作成した綱領(案)が活動の指針になった。

コミンテルン22年テーゼ 。1922年にブハーリンが起草した「日本共産党綱領草案」。
コミンテルン27年テーゼ 。関東大震災で打撃を受けた日本共産党は1926年に再建し、 1927年コミンテルンで採択された「日本問題に関する決議」が活動方針になった。
コミンテルン32年テーゼ。コミンテルンと片山潜、野坂参三、山本懸蔵らの討議を経て、 1932年に「日本の情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」が採択され、日本共産党の 新たな活動方針になった。

 吉本さんはコミンテルン27年テーゼと32年テーゼの天皇制についての部分を引用している。
27年テーゼ
 「天皇はただに厖大な土地を私有しているばかりではない。天皇はまた幾多の株式会社・企業連合 の実に多額の株を所有している。最後にまた天皇は、資本金一億円のかれ自身の銀行を持っている。」

32年テーゼ
 「1868年以後に日本に成立した絶対君主制は、それの政策には幾多の変化があったにもかかわらず、 絶対的権力を掌中にたもち、勤労階級に対する抑圧と専横支配とのための、その官僚機構を不断に完 成してきた。日本の天皇制は一方主としては地主なる寄生的、封建的階級に依拠し、他方にはまた急 速に富みつつある貪欲なブルジョアジーに依拠して、これらの階級の上部と極めて緊密な永続的ブロ ックを結び、かなりの柔軟性をもって両階級のえせ利益を代表しながら、同時にまたその独自の、相 対的に大いなる役割と、わずかに似而非立憲的形態で軽く覆われているに過ぎぬ、その絶対的性質を 保持している。自分らの権力と収入を貪欲に守護している天皇主義的官僚は、国内に最も反動的な警 察支配を維持し、なお残存するありとあらゆる野蛮なるものを、国の経済および政治生活において維 持せんがために、その全力をかたむけている。天皇制は国内の政治的反動と封建性の一切の残存物と の主柱である。天皇主義的国家機構は搾取階級の現存の独裁の警固な背骨をなしている。これを粉砕 することこそ、日本における革命的主要任務の第一のものと見なされねはならぬ。」

 吉本さんはこの二つのコミンテルンテーゼを比べて、  27年テーゼが大地主であり、それ自体大ブルジョアであることをのべているにすぎないのに対して、 32年テーゼは「大土地所有者と資本制を代表するそれ自体独自の権力としてとらえられている。こ こには法的な国家規定の要素が介入してくる。資本制における階級対立からつつき出され疎外された 幻想としての天皇制が、封建的な階級対立(地主と小作人)をも随伴しているというふうに理解され ている。」と言い、天皇制に対するこの理解は、「コミンターン的(スターリン主義的)天皇制理解」 としては頂点にたつものである、と評価している。
 しかしこの理解は、昭和の知識人「ナショナリズム」が「裏面から肯定的にとらえられた天皇制理解に 比べて、けっして優れたものとはいえない」と言う。
 たとえば、橘樸によってとらえられた天皇制は、それが資本制支配、封建的支配の残存物を象徴する だけでなく、アジア古代的な、アモルフな大衆の共同性をも、強大な要素で包括するものと考えられて いる。橘の理解がどのような負価を負うものとしても、マルクスのいわゆる地理的(孤島)、風土的 (モンスーン的)、農耕的環境の特性によって形成された日本の大衆「ナショナリズム」と、その逆 立ちした鏡である天皇制支配の古代共同遺制の存在を、よく認知したという点で、その理解は、32 テーゼにたいし一歩を先んずるものであったといいうる。

 コミンテルンテーゼが『天皇制の封建的要素の強大さに幻惑されて、当面の革命を社会主義革命へ の強行的転化の傾向を持つブルジョア民主革命と規定』したのに対して、『日本の知識人ウルトラ=ナ ショナリズムは「古代共同体遺制の強大さに幻惑されて、資本制打倒による大衆の古代的共同体 社会、アジア共同体社会の実現に、その「昭和維新」(革命)の目標』をおいた。現在の理論の水準で は、ここには二色の錯誤があったと、吉本さんは言う。

 国家の権力が、権力としての実体構造をもって、実存するゆえんは、コミンターン32テーゼのような 二分割をも、日本のウルトラ=ナショナリストによる復古共同体への還元をもゆるさないし、また資本 階級と労働階級との生産社会的対立への単純化をもゆるさないものである。古代アジア的といい、 封建的といい、独占資本的といい、それを国家権力の実体としてかんかえるかぎりは、たんにどの要素 が主要であるかを示すだけであって、その実体のなかには、原始共同体いらいの、すべての要素を包括 するものとして存在している。
 したがって政治革命の標的として考えられる国家権力は、これらのすべての包括的要素と、現存する 主要な要素(資本制)との交点に錯合する利害の共同性として想定すべきであって、この地点から、 知識人のコミンターン=インターナショナリズムとウルトラ=ナショナリズムによって現在まで提起 されてきた「革命」論争は、根抵から批判されねばならない運命にあるといえる。

 この吉本論文が書かれたのは1964年、もう半世紀も前のことである。その後、資本制の根底からの 変貌(吉本さんは「超資本主義」と呼んでいる。)とソ連邦の崩壊という国際関係の大変動にともない、 当然吉本さんの理論も大きく変わってきているに違いない。しかし、鵺のような天皇制の不気味さと それを無化することのの難しさは変わらない。「原始共同体いらいの、すべての要素を包括 するものとして存在している」ものの呪縛から日本の大衆が解放されるどんな道筋があるのだろうか。
 現在の段階でかんかえると、日本の知識人ウルトラ=ナショナリズムの美麗なスローガンの背後に、 醜悪な現実が付着していた、というリアリズム覚醒の形で訪れた敗戦体験は、ただ古典「ナショナリズ ム」(ウルトラ=ナショナリズム)と、古典インターナショナリズム(スターリニズム)を否定的媒体 とするための、前提をなすにすぎない。わたしたちが、戦後包括し、止揚しなければならない課題は、 未知なものをふくめて、これよりもはるかに広範にわたるはずである。
282 日本のナショナリズム(33)
ウルトラ・ナショナリズム
2005年5月26日(木)


 昭和期の知識人にとって「満州事変」以後の帝国主義戦争という「事実」を追尾するためには 大衆が喪失した「ナショナリズム」の主題を思想化(ウルトラ化)することが必須の条件だった。 なぜなら現場で帝国主義戦争を担っていたのは大衆以外ではないのだから。そういう意味で昭和期の 知識人「ナショナリズム」の思想は、一見すると逆のようにみえても、やはり大衆「ナショナリズ ム」の主題の喪失を基盤とするものであった。
 その昭和期の知識人ナショナリズムの「もっとも傑出した思想化作業のひとつ」として、吉本さんは 橘樸(たちばなしらき)の「国体論序説」(「中央公論」昭和16年11月)を 取り上げている。
 橘においては、第一に「国体」の概念は、西欧の「デモクラシー」の概念とまったく同位的な意味を もつものとして「創造」される。すなわち、「国体はたんに一部の人々の情意的把握の対象となるばか りでなく、デモクラシーと同じく理知的に、すなわち歴史的・科学的に把握しうるものだということを 明らかにするのが、吾人の国体明徴工作の第一の目標である。」とされる。
 ところで、「国体」という概念は、おおむね神授説に根ざしてきたが、現在では科学的に「国体」の 発展法則をとらえ、そのうえにたって具体的な「国家改造」の方法がかんがえられねばならないとして、 橘があげている国体発展の三つの基本法則はつぎのようなものである。

一、
 民族組織の単純性(一君万民)を完成する傾向。この傾向を、仮りに超階級維持性の法則と名づけ よう。
二、
 全体と個体、すなわち統制と自由との調和の法則。ひとり日本または東洋ばかりでなく、西洋のデ モクラシーも常にかかる調和を求める強い傾向を持つのであるが、ただ西洋が、個人主義と社会主義とに 論なく、個体を基軸とするに対し、東洋は日本と大陸諸民族とを通じて全体を主調とするところに なお互に苟合(こうごう)することのできない間隙がある。
三、
 異民族との関係を規定するもので、仮りに民族協和、または通称にしたがって八紘一宇の法則と名 づけよう。西洋の対立を原則とするのに対し、東洋は融合を原則とする。満州建国の標語たる 「民族協和」は当事者の企図したところは全くこの原則の実現にあった。」

 このような橘の「国体発展の法則」と称するものが、天皇の地位を超越的にして、支配階級を除去する という結論と、一種のアジア協同体論にゆきつかざるをえないのは当然である。そして、この結論は、 当然、北一輝・大川周明らの農本主義ファシズムの結論と、軌を一つにするものとならざるをえな かった。
 このような「国体発展の法則」と称するものの裏面には、天皇制国家の大衆にたいする歴代の暴逆と 階級支配の法則が厳存し、「民族協和」の背後には、東京裁判によって暴露されたような阿片売買に よる大陸の大衆への圧制と、南京虐殺に象徴されるような無惨な現実が付着している。
 橘の思想にとっては、事、志と反したということになるかもしれないし、現実主義者にいわせれば、 理想と現実とはちがうというのが政治運動の実体だということになるだろう。しかし、わたしが、 とりあげたいのは「ナショナリズム」とインターナショナリズムの同位的対立、理想と現実のくいちがい、 「デモクラシー」と「国体」思想の同位的対立というようなものではない。
 じつに、橘に象徴される昭和の知識人「ナショナリズム」が、大衆の「ナショナリズム」を、 その鏡としての支配層の「ナショナリズム」(「国体」、天皇制)と直結しようとして、近代知識人 の存在自体の基盤である資本制支配そのものを排除しようとする指向をしめしたという点である。 橘が「国体」神授説を「国体」の科学的・理知的・歴史的な論理におきかえようとしたことは、 日本的「自然」信仰(、、)を、たんに日本的「自然」の 理念(、、)におきかえただけであり、橘のいうように「西洋社会が自然に できた社会であるのに対し、われらのものは意識的に計画的に作られた社会でなくてはならない。 作った社会はできた社会よりも一段高次の存在であるといえるだろうし、また東洋社会をかくのごとき ものとして創造することは、吾人の努力次第充分に可能であると思う。」 という意味はまったく もっていなかった。ここに橘の第一の躓きの石が存在した。かれは変革の理念と原理をもとめたのだが、 そこには連続性の理念しかなかったのである。

 橘がいかに「科学的・理知的・歴史的」であることを標榜しても、その思想は日本的「自然」 信仰(、、)以外のものではなかった。

 橘の思想は、『すでに主題を喪失した大衆の「ナショナリズム」を蘇生させようとして、それを その逆立ちした鏡である支配層の「ナショナリズム」(天皇制・国体主義)と直結し、両者の間から 資本制支配そのものを排除しようとするものであった。』この思想的な傾向とその現実運動を 「ウルトラ=ナショナリズム」と呼んでいる。近代日本の社会ファシズムと農本ファシズムは このような試みに近づこうとした知識人「ナショナリズム」の両輪であった。
281 日本のナショナリズム(32)
知識人のナショナリズム・大正期
2005年5月25日(水)


 「吉本論文」に戻る。

 吉本さんが描いた知識人のナショナリズムの変遷の図式を復習しておく。
 維新以後の資本制の急速な浸透により、大衆はそのナショナリズムの心情的な核を喪失していった。 それは政治的主題や社会的主題の喪失というように表れた。その喪失過程は、知識人のナショナリ ズムが、西洋からの輸入思想(デモクラシーやマルクス主義)をもまき込みながら、社会ファシズム をへて昭和10年代のウルトラ・ナショナリズムりへと過激な思惟を構築していった過程と対応してい る。おおよそこのようであった。

 さて、国権意識と民権意識とのわかちがたい混合から、資本制生産力「ナショナリズム」 (社会ファシズム)へと合流していった明治期の知識人ナショナリズムは大正期に入ってどのように 変貌して行ったか。
 大正期の知識人によってとらえられた「ナショナリズム」は、大衆「ナショナリズム」の主題の 喪失に対応している。そこでは抽象的世界主義にたいして、具象的民族主義が、不安や世紀病的悩 みに対しては生命主義が、観念にたいして体験が、神経にたいして筋肉が、理性にたいして本能が 対置される。

 このように述べて、第一次世界大戦期に書かれたという中沢臨川著「新文明の道程」 (私にはまったく未知の人であり、未知の書物) から次のような文を引用している。
 現代における民族主義の勃興は生命の自覚に芽ざしている。従ってその要求する愛はより 具体的でなければならない。郷土を離れ、家庭を離れ、国家を離れて何処に人道の花が咲くか。 生命は汝の隣人から始まる現実の愛を要求してやまない。われらは余りに理想や抽象を重んじ 過ぎた。本能の力に(かえ)らなければならない。われらは人道の 愛なる空漠たる観念の夢から覚めて、生命の伝統の肥えた土に立脚し、卑近な、しかし切実な 愛からだんだん大きな愛を体験せねばならぬ。要するところ、抽象的人道主義・消極的世界 主義の魔酔郷を離れて、経験の愛に生き、そして具象の人道主義を樹立せねはならぬ。

これは一見すると具体性を強調しているようにみえるが、思想の肉体主義への退化ともよぶべき もので、実は政治や社会にたいして喪失された主題を語っている、と吉本さんは指摘している。
 事実、大正期の知識人によってとらえられた「ナショナリズム」は、生命・本能・体験・具象・愛 というような次元でしか、現実社会との接触感をもつことができなかった。そして、この裏目には、 観念・理性・抽象などが当然想定せられたのである。また、大正期知識人の唱える「現代における 民族主義」は、その裏目に「社会主義者によって『世界労働組合』が結ばれた。彼らにとっては自国 の富豪よりも外国の同僚が親しいものであった。国と国と戦ってお互に干戈をとる羽目に陥るよりは、 同盟罷業のほうが彼らには意味があった。」(同)というインターナショナリズムが想定され ていた。こういう位相で存在している大正期知識人の「ナショナリズム」を、わたしたちは、 古典マルクス主義のインターナショナリズムと同義対照として理解するものである。いずれも、 全否定の媒体となりうるにすぎない。
 このような知識人のナショナリズムと知識人インターナショナリズムが、どうして「全否定の媒体」に すぎないのか。
 知識人の「ナショナリズム」は、大衆のナショナルな心情から孤立する。それは、ひとつの必然的 な経路ともいえる。しかし、この孤立に、ひとつの意味があるとすれば、知識人がその位置から大衆 の「ナショナリズム」を論理づけるという点にあるのではない。おなじように、知識人のインターナ ショナリズムは、大衆・労働者のインターナショナリズムから孤立する。ここでも、知識人がその位 相から大衆のインターナショナリズムを論理づけることにレーニンのいうような意味は存在しないの である。これは、対称的な場所から、おなじように大正期の知織人たちをとらえたひとつの錯誤で あった。それらは、両方の車輪のように大衆の「ナショナリズム」からも、その逆立ちした鏡で ある支配層の「ナショナリズム」からも外れたところで、夢を織るほかはなかった。そして、夢を 織りながら、共に、それ自体が社会の現実的な動向から乖離していったのである。
 「共に、それ自体が社会の現実的な動向から乖離していった」知識人のナショナリズムと 知識人インターナショナリズムは、それゆえに『大衆「ナショナリズム」の象徴としての 「天皇」』の大正期における役割を否定的にとらえることもできなかった。
 大正期の停滞しながら膨脹した資本制は、大衆「ナショナリズム」の象徴としての「天皇」を、 自己利潤の手段として用いた(天皇機関説)ろうが、「天皇主義」としてウルトラ化する 段階にもなかったし、その必要にもせまられてはいなかったと考えられる。ここでも、支配層に、 一種の主題の喪失があったはずである。そこにあった資本制の禁制(タブー)としての「天皇」は、 ただ社会的自然としての禁制(タブー)であって、ひとつの独立した思想としての天皇制ではなかった。 このような過渡性をとらえうるものは、知識人「ナショナリズム」でもなく、知識人インターナショナ リズムでもないことは明らかである。「天皇」が資本制にとって、社会的自然としての禁制(タブ ー)にすぎないことは、肯定的には美濃部達吉の天皇機関説によってとらえられたといえるが、 否定的にこの意味をとらえることは、知識人「ナショナリズム」によっても、知識人インターナ ショナリズムによっても不可能だったのである。美濃部の天皇機関説に、意義をみとめる見地は、 この意味ではまったく無価値なものというべきである。
280 詩をどうぞ(18)
学徒兵が目撃した広島
2005年5月24日(火)


 「第247回」(4月19日)で戸井昌造さんの「戦争案内」のあとがきを紹介しました。
 若い人からの「どうしてそういう世の中になってしまったのです、してしまったのです」という 質問を想定して、戸井さんは次のように書いていました。
 ―ここのところがむずかしくて、わたしにもよくわからないのだが、ぼくの生まれるずっと前から、 長い年月かけて代々の大人たちがそういう世の中をつくってきたことだけは確かだ。そこがおそろし いのだが、そのへんを、もっと勉強するしかないと思う。

 それを受けて「日本のナショナリズム」を勉強し始めましたが、思いのほか長くなりました。今ひといき 入れています。次回から明治期以後の知識人ナショナリズムに進む予定です。

 戸井さんと同じように学徒兵として徴用された詩人・金井直さんのそれを素材にした詩を見つけ ました。今回はもう一回「詩をどうぞ」です。

つゆ     金井直

 両腿の肉を、電気のようなものが走る。と、そのひきつった感覚
で、俺の肛門がきゅっと締まる。流れ落ちようとする汚水が、俺の
腹に溜る。俺の感情はすでに雨の泥土の中で、疲労の極限に達して
いる。
 今日、日本列島は、北海道を除いてつゆに入るというニュースが
流れた。俺は、去年の暮れに流行性感冒にかかり、正月の休日を数
日間、発熱の床に臥した。それ以来、俺は断続的に激しい下痢にお
そわれた。俺の肉体は、いまだにウイルスの飢餓に侵されているの
であった。

 俺は、大日本帝国陸軍の最後の一兵卒であった。弾が出るかどう
かわからぬ粗製の九九式歩兵銃。撃ったことのない、弾薬のない、
食糧のない、飯盒のない、水筒のない、鉄兜のない、過去の軍隊を
ひきずっている一兵卒であった。だから夏は、空腹と眠気と疲労と
下痢と熱に苛まれていた。俺はただ、撃つべき目標のない、帰るぺ
き故郷のない一兵卒であった。
 日本列島上空は、ぷあつい雨雲におおわれでいた。広島の八本松
から一直線に意識の戦場へつづく夜の行軍。土砂降りの雨の中の、
俺はもはや死の国にぞくする一兵卒にすぎなかった。ただひたすら
に歩く俺の痩せた肩胛骨に銃が食いこむ。肛門から流れる汚水が、
腿を伝って膝のあたりに滑っている。
 昭和二十年。つゆの入りと同時に、俺は千葉県佐倉の東部六四部
隊に入隊した。その直後から俺の下痢は始ったのである。

 昭和四十九年六月十一日。日本列島は、北海道を除いてつゆに入
ったという。時折、稲妻をともなった大雨が降る。俺の記憶の中で
汚水がしぶく。見れば窓のむこうの町の燈火が烟っている。街燈の
あかりのかすかにとどく暗闇に、泰山木の花が白くほのかに浮んで
いる。

 彼方の暗黒の中に燈火が見えた。俺は隊列から落ちまいと、必死
に泥土の道を突き進む。すでに雨の水は、俺の全身を浸している。
肛門から流れる汚水と雨に濡れてシートのようにこわばった軍袴
が、内股をこする。脚絆にも汚水が染みこんでいる。彼方の燈火に
憑かれたように無言の隊列は行く。あの燈火はたしかに、絶望の隊
列がめざす兵舎であった。

 俺の肛門は、もはや汚水の圧力に耐えきれなくなった。俺はすは
やく便所に飛込む。不消化物の混った汚水がほとばしる。しゃがみ
こんでいる両腿の肉を、またもや不快な電気が走る。一瞬の排泄の
あと、便意を残しながら汚水は絶える。すでに尻に異物感をもたら
す脱肛の気味がある。

 俺は、兵舎の外に並ぶ便所に入って、便意がありながら排泄せぬ
痛苦をかこちながら、ひとときの自由感を味わっていた。なぜなら
この場所を占める者は、俺一人だけだったからだ。しかし、軍帽を
頭にしっかりと押えつけていなければならぬ。戸の鍵が壊れている
ために、いつ戸が開けられ軍帽を盗まれるかわからないからであ
る。即ち、片方の手を頭に置き、もう一方の手で戸を内側へ引張っ
ていなければならぬ。そうやってりきむと、排便はなく、血がした
たり落ちる。肛門が裂けているのである。

 夜が更ける。雨が小降りになる。町の燈火は消えている。ビルデ
ィングの常夜燈だけが、めざめている。町の中のひとかたまりの樹
が、小高い丘のように黒々としている。俺の眼に、それが兵舎を囲
む小高い禿山のように見えてくる。俺の下腹部がわずかに疼く。俺
の内なる傷が疼く。

 小高い禿山の頂上に立つと、はるか彼方に呉の町が望めた。艦載
機グラマンの攻撃を、俺はじっと眺めていた。日本海軍の生残りの
艦隊が、軍港で止めを刺されるのを無言で眺めでいた。波状攻撃さ
れる俺の下腹部。たちまち便意をもよおす。しかしその場所を動く
ことは許されぬ。筋力は肛門に集る。が、徐々に汚水が流れてくる
のを、俺は腿の内側で感じていた。

 暗黒の世界を引裂くように稲妻が走る。俺の両腿の肉を便意が走
る。寝静まった町の上を、消防自動車のサイレンが鳴りわたる。火
の手は見えない。再び稲妻が走る。雷鳴がとどろく。俺の眼に、あ
りありとあの閃光が見える。閃光と同時に爆発音が聞える。

 一九四五年八月六日。五時起床。朝食後、演習地に向う。畑のト
マトが飢餓感をさそう。入隊直後からつづいている下痢は、一向に
止まる気配はない。俺は憔悴の一途を辿っている。すでに二貫目は
痩せただろう。栄養失調になっているはずである。主食の高梁のほ
か、蛋白質の副食はない。俺の飢餓感はまさに本能そのものだ。
 匍匐と突撃の練習をくりかえしている俺の疲労が限界を越える。
突如、俺の眼前が暗くなる。太陽は、雲一つない底ぬけの青天にあ
って俺の頭上から容赦なく照りつける。俺は吐気をもよおしてその
場に崩れ落ちる。俺の眼には、世界が暗く見えた。とたんに少尉が
飛んできて「立て」とどなりながら俺の胸倉をつかんで引張りあげ
る。俺は銃につかまって懸命に立上る。「たるんでるからだ」今度
は横っつらを殴られる。「ハイ」と答えて俺はまた崩れ落ちる。「よ
し、そこに休んでおれ」と俺に背をむけた少尉の(うなじ)には少年の面影
が残っている。俺は、松の根本に腰をおろしていた。蝉が鳴いてい
る。風はない。いよいよむし暑くなってきた。空気が生あったか
い。貧血は軽かった。が、体が浮いたように揺れ動く。熱がある。
世界が熱を病んでいる。俺はしかし演習に復帰した。生い茂る夏草
の中に身をかくす。眼をあげると、青天がはてしない。そこの一
点、はるか彼方の上空を旋回している飛行機を、俺の眼がとらえ
る。東京空襲で見なれたB29に似ている。空襲警報は解除になって
いるはずである。俺の眼は、その一機を見守った。やがて、白いも
のが落ちていく。落下傘らしい。落下傘らしい白い下降物が禿山に
かくれると、一瞬、するとい閃光が見えた。それは晴天をさらに照
らし出してみせるかのような光であった。たとえば熔接の時に発す
るあの青白い光である。つづいて爆発音が響いた。その時、飛行機
が揺れた。飛行機の高度は約八千メートル。まさに青天霹靂であ
る。気付くと、群青の空間に湧上った巨大な薔薇色の茸雲。あれは
一体なんであろうか。<疑念>は部隊を支配した。演習が終って兵
舎に戻っても、爆発音はつづいている。<疑念>は言い知れぬ<不
安>となって部隊をどよめかせる。
 薔薇色の茸雲が崩れて、たちまち灰色から黒色の雲へ。白昼から
深夜へ。そしてさらに土砂降りの黒い雨である。
 深夜の町の上に稲妻が走り、雷鳴がとどろく。救急車のサイレン
が近付く。雨がふたたび激しくなる。俺の両腿を便意が走る。俺の
眼は、暗黒の中に廃墟と化した都市を見ている。
 今日、日本列島は北海道を除いてつゆに入ったという。

       「ユリイカ」(1974年12月号)より

279 詩をどうぞ(17)
透谷賛歌
2005年5月23日(月)


 久しぶりに詩をどうぞ。
 前回、最後に北村透谷にふれました。つたない自作を思い出しました。それと、もう一つ、もっとも深く 透谷を理解している思われる詩人・北川透さんの作品。


  他界へ 
   (1994年透谷没後100年によせて)
  
  風がとぶ
  風がなる
  
  花がのる
  鳥がのる
  風にのる
  月がのる
  
  薄明の近代を
  森羅万象を吹き散らして
  早すぎたひとつのポエジーがとぶ
  
   『実を忘れ肉を脱し人間を離れて』
   風がとぶ
  
   『空を撃ち虚を狙い空の空の空を撃ち』
   風がなる
  
   ついに『人生に相渉るとは何の謂ぞ』
   透谷はとぶ
  
   1894年5月16日 拂暁(ふつぎょう)
   一六夜の月が砕け散る
   必敗の闘いを敗れて
   透谷
   縊死(いし)
   二十五歳
   『わが死のかたはらに一点の花もなかれよ』
  
  1994年
  一世紀を一瞬に越えて
  透谷がとぶ
  空の空の空から
  世紀末の『楽き娑婆世界』を睥睨(へいげい)する
    〈幸福になりたい奴は〉
    〈おれに近づくな〉
  
  心を病む心の
  わが空洞を
  風がとぶ
  風がなる

  心を病むわが心を
  鋭く切り裂いて
  透谷のかなしみが
  疾走する
  
  花がのる
  鳥がのる
  風にのる
  月がのる
  
  森羅万象を吹き散らして
  透谷がとぶ
  
  他界へ



「北村透谷試論Ⅲ・<蝶>の行方」より

序詞 塵と登高――透谷を想う断章   北川 透

(あわれ塵の子!)
その空中からの不吉な声に抗して
くらい自閉の部屋からぬけでたのは誰か
蛇行する急坂の論理に
ひくい軒並みは波打ち 噛み合う
狂った性悪女を求めてさまよう者は
路上の夢に倒れ
捨てられた嬰児たちは東に西に疾走する
浮遊する鉄輪の軌みや
反り返った扉の咆哮は
秩序を求める 天の声や
地の声を
圧した

あれは1962年の春だったか
秋だったか
眩暈する中心に 火の車は燃えつき
黒い残骸が人々の胸廓を埋めた
戦いが敗れたとき なお勝者たる者は
敗れた者が
勝つことのない戦いをはじめている
やさしさが視えない とつぶやいて
みすぼらしい砲車を ひとり
挽きはじめたとき
おまえのことばは
通交圏を失った
(楚囚はるかなる!)

十年は一日のごとく
二十年は半日のごとく
九十年は夢のごとし
いつまでも若い〈夢中の詩人〉に嫉妬する
おまえの詩行はきょうも発熱する
いま敗れた者は地を払い
勝者たちが声高に語る日
(おお 外面に歓声を聞く者よ
 裡面に血涙の滴るを視よ!)
おまえは内部の 小さな砦を恥じて
出撃する ぺンより細い兵士
否認がしずかな意志となる
幻の 桑野原へ

幾度か鞋の紐をゆいほどき
過激に駆け抜けていった 移動の世紀を
(今は汽笛ー声 新宿を発して……)
ついに幻境は遠く 蒼海ははるかに
おまえは何度でも視よ
あの人が空なる斜面への
恐るべき登高の果てに開いた 風土の獄を
炎上する近代の都市文明を
(思い極めて いざ一躍!
 奈落の真中に……)
蓬莱の高きが故に 幾世紀を貫いて
落下する 末期の眼に
われらの廃墟は どんな憤りの
芽を吹くか

五月の未明を怖れよ
十六夜の月は
血よりも赤い

    註1 いまから九十年前の1887年夏に、透谷は「一生中最も惨憺たる一週間」
              及び「夢中の詩人」を書いた。
     註2 透谷が縊死を遂げたのは、1894年5月16日払暁のことであった。

「おまえは内部の 小さな砦を恥じて 出撃する ぺンより細い兵士 否認がしずかな意志となる」と 書き写していたとき、「日の丸・君が代」の強制と闘っている人々が私の脳裏をよぎった。
278 日本のナショナリズム(31)
翻訳賛美歌から藤村へ
2005年5月22日(日)


 明治初期のモダニズムが、ほとんど抵抗や違和なしに「国家」イデオロギイ収束してしまう様相を 見てきたが、それは「漢文脈七五調リズム」の可能性の「根源」から「局限」への過程でもあった。

 明治初期の詩的言語表出の第3の源流=「短歌-和文(美的規範)」は翻訳賛美歌にあると、菅谷 さんは指摘している。 そしてそれは「漢文脈七五調リズム」からは「はるかに遠い<和歌ーやまとことば>へとさかのぼった うえで、俗にたいする 雅(天上=彼岸)を仮構するという屈折した経路をとらざるを」えなかった、と述べている。
 それは「漢文脈七五調リズム」に対して
あらかじめ<神>を観念の上限として理念の土着をはかったキリスト教系モダニズムは、 その内的な世界性と現実の根源とのあいだにひらく隔絶を、伝統的な美意識(和歌)を媒介と してつなぎあわせるという方法を編みだした ― それは明治キリスト教が<維新>ナショナリズムと の対位を回避するかぎり、ゆいいつ可能でありまた必然の方法だったとおもわれる。

 俗にたいする雅(天上=彼岸)という屈折した経路が「讃美歌=洋楽」の上で確定された後 にはじめて、「短歌-和文(美的規範)」系である「和歌」のリズム、すなわち「やまとことばを 主脈とする七五調が<新体詩>に導入されることになる。」
 以上見てきた明治初期の詩的言語表出の三つの源流の全過程は、「他方において<洋楽>リズム に七五音律を適応させるという明治唱歌の発生と不可分の関係にあった」ことはもちろんである。

 次の詩は「新撰讃美歌・第四(植村正久訳)」である。

 一 ゆふぐれしづかに
     いのりせんとて
   よのわずらひより
     しばしのがる

 二 かみよりほかには
     きくものなき
   木かげにひれふし
     つみをくいぬ

三 すぎこしめぐみを
    おもひつづけ
   いよゝゆくすゑの
     さちをぞねがふ

四 うれひもなやみも
    わがみかみに
  まかすることをぞ
    よろこびとせん

五 身にしみわたれる
    ゆふくれどきの
  えならぬけしきを
    いかでわすれん

六 このよのつとめの
    をはらんその日
  いまはのときにも
    かくてあらなん

 この詩と対比する形で、菅谷さんは藤村の「逃げ水」(後に「ゆふぐれしづかに」と改題) を掲載している。

 ゆふぐれしづかに
      ゆめみんとて
 よのわずらひより
      しばしのがる

 きみよりほかには
      しるものなき
花かげにゆきて
      こひを泣きぬ

すぎこしゆめぢを
      おもひみるに
 こいこそつみなれ
      つみこそこひなれ

 いのりももつとめも
      このつみゆゑ
 たのしきそのへと
      われはゆかじ

 なつかしき君と
      てをたずさへ
 くらき冥府(よみ)までも
      かけりゆかん

 菅谷さんは「藤村ほど文学的に虚偽(虚構ではない!)のおおい詩人・作家はまれである」といい、 そのことについてかなり長い論考を記述しているがここではそれはおく。
 また、上の詩について「藤村の芸術的自負(それも後年の、というべきだろうが)によればこれは 本歌どりなのであったかもしれぬが、ブルジョア的私有意識からすればまぎれもなく剽窃に類するもの である。そしてわたしに言わせればこれは一種のパロディとなってしまっている作品である。」と 指摘して、その詩が表出している「複雑に屈折した思想の経路」を詳述しているが、それもおき、 「詩的リズム」というテーマを追うことにする。

 《逃げ水》の八六音律が、とくに藤村の独創でも、また試みといえるほどのものでもないことは、 本歌である讃美歌をみれば、あらためていうまでもないことであろう ― わたしたちが注意して おいてよいのは、かつてじぶんも教会で歌ったであろうこの讃美歌のリズム(その詞のたゆたうよ うなリズムと、そしてそれを要求した曲のリズムおよびメロディ ― ゆるやかな3/4拍子。現行 讃美歌集第三百十九参照)にたいする藤村のふかい執着である。
 そして藤村は、のちに《落梅集》で技法的には五七音律の多用によってこの執着をなかば解決 する途をみいだしたが、他面、モティーフの根源そのものはすでにみうしなってしまったのであ る。<新体詩>にとって<三拍子>とはなにか ― この問いにふくまれる<意味=思想>にこた えることがないかぎりモティーフの喪失は不可避であったが、それは<新体詩>の条件からは絶 望的に不可能なことであった。むしろわたしたちは藤村の受感のするどさを評価すべきであろう  ― 鉄幹はそれを受感してさえいなかったようにみえるからである。

 「<新体詩>の条件からは絶望的に不可能なこと」の極北に、時代を大きく飛び越えて 北村透谷という可能性が屹立していた。透谷という問題はまた別の問題として立てるべきだろ う。これで「知識人のナショナリズム:明治篇」を終える。
277 日本のナショナリズム(30)
山田美妙の軍歌
2005年5月21日(土)


 「抜刀隊の詩」が表出したナショナリズムは山田美妙の軍歌に引き継がれて行きつくべきところまで 行きつく。すなわち「文明開化―洋学(モダニズム)」系の表出意識を源流とするナショナリズムは対外に目を向けた 「国軍=国家」イデオロギイに収束する。
 明治19年刊《新体詞選》におさめられた山田美妙の《戦景大和魂》は、外山の《抜刀隊》を 下敷きにして書かれているとみてよい作品だが、外山によってはナショナリズムが理念(国家) へのぼりつめてゆくものととらえられているのとちょうどうらがえしに、美妙はもっぱら理念が リアリズムにゆきついた地点(戦場)でナショナリズムを歌っている。<敵は幾万ありとても、 すべて烏合の勢なるぞ>という起句の発想は、<敵の大将たる者は 古今無雙の英雄で 之に従 ふ兵は 共に剽悍決死の士>といった、西南戦役における西郷や反乱軍兵士たちの印象をまだ のこしている外山の発想とはちがって、すでに対外戦争()に眼をむ けたものだといえよう。
 そしてまた、戦死するにしても命を安売りせずになるべく高く売れとか、なまぐさい血のにお いは敵方に死人が多いためだろうから、この好機をのがさず敵を揉潰せ ― といった展開のしか たは、美妙のナショナリズムが明治の初期資本主義的(あるいは商業的)リアリズムを経由する ことなしには思想化されえない質のものであったことを告げているとおもう。この詩が日清戦争 期を代表する軍歌のひとつとして大衆化しえた理由は、おもにそうしたリアリズムにあっただろ う。もちろんそれはじっさいの<戦場>では、ひとたまりもなくふっとんでしまうようなものに すぎないことは言うまでもないが―――。

 今回はこの菅谷さんの記述に付け加えることはない。 ヽ山(ちゅざん)仙士(外山正一)の「抜刀隊の詩」(全6連の うちの初めの2連と最終連を抜粋)と山田美妙の戦景大和魂(小山作之助が「敵は幾万」と改題して 作曲したときに選んだ3連。全部で8連ある。)を、参考のため以下に掲載した。これらの知識人たちは 自らは戦いに駆り出される心配のない場所にいて自らの内部に「死ぬる覺悟」などまったく持たな かっただろうし、万一戦争に駆り出されればさまざまな「恐るる事」や「たゆとう事」 に直面して身も心もただただおののくばかりになるに違いない。


抜刀隊の詩
 
我は官軍我敵は     天地容れざる朝敵ぞ
敵の大將たる者は    古今無雙の英雄で
之に從ふ(つわもの)のは    共に剽悍決死の士
鬼神も恥ぬ勇あるも   天の許さぬ反逆を
起しヽ者は昔より    榮えし例あらざるぞ
敵の亡ぶる夫迄は    進めや進め諸共に
玉ちる劔抜き連れて   死ぬる覺悟で進むべし

皇国の風と武士(もののふ)は    その身を護る靈の
維新このかた廢れたる  日本刀の今更に
又世に出ずる身の譽   敵も身方も諸共に
刃の下に死すべきぞ   大和魂ある者の
死すべき時は今なるぞ  人に後れて恥かくな
敵の亡ぶるそれ迄は   進めや進め諸共に
玉ちる劔抜き連れて   死ぬる覺悟で進むべし

我今に(しな)ん身は     君の爲なり国の爲
捨つべきものは命なり  假令ひ屍は朽ちぬとも
忠義の爲に捨る身の   名は芳しく後の世に
永く傅えて殘るらん   武士と生れた甲斐もなく
義もなき犬と云はるヽな 卑法者なそしられそ
敵の亡ぶるそれ迄は   進めや進め諸共に
玉ちる劔抜き連れて   死ぬる覺悟で進むべし



戦景大和魂

敵は幾万ありとても
すべて烏合(うごう)の勢なるぞ
烏合の勢にあらずとも
味方に正しき道理あり
邪はそれ正に勝ち難く
(ちよく)(きよく)にぞ勝栗(かちぐり)の
堅き心の一徹は
石に矢の立つためしあり
石に立つ矢のためしあり
などて恐るる事やある
などてたゆとう事やある

風に(ひらめ)く聯隊旗
しるしは昇る朝日子よ
旗は飛来る弾丸に
破るる程こそ誉なれ
身は日の本のつわものよ
旗にな()じそ進めよや
(たお)るる迄も進めよや
裂かるる迄も進めよや
旗にな愧じそ()じなせそ
などて恐るる事やある
などてたゆとう事やある

敗れて逃ぐるは国の耻
進みて死ぬるは身の誉
(かわら)となりて残るより
玉となりつつ砕けよや
畳の上にて死ぬ事は
武士の為すべき道ならず
むくろを馬蹄に懸けられつ
身を野晒(のざらし)になしてこそ
世にもののふの義といわめ
などて恐るる事やある
などてたゆとう事やある
276 日本のナショナリズム(29)
「新体詩抄」の思想
2005年5月20日(金)


 菅谷さんは詩的言語表出の第2の源流=「文明開化―洋学(モダニズム)」を「新体詩抄」に求める。

 「新体詩抄初編」は1882(明治15)に出版された。ちなみに民権田舎歌を付録に附した植木枝盛の「民権自由論」は 1878(明治12)年に出版されている。
 「新体詩抄」は外山正一、矢田部良吉、井上哲次郎という三人の東京帝大教官たちが翻訳詩13編と自作詩6編をもって 編んだ詩集である。その「初編」を見ると、三人がそれぞれに序文を書いている。井上哲次郎が漢文で、 矢田部良吉が漢文調読み下し文で、外山正一がチョッとおちゃらけた擬作調の文で。それらの序文から「新体詩抄」 編纂の趣旨を読み取りまとめ直して記載しようと思っていたやさき、一昨日購入した中村文昭編「現代詩研究 (明治篇)」(えこし文庫)で別の序文があるのを知った。初版以後に書き換えられたものだろうか。 まさに「初編」の三種の序文をまとめ直したようなもので、その趣旨がより明らかで分かりやすい。 それを転載する。
 我邦二於テハ西洋ノ詩歌ヲ翻譯スル人甚ダ少ナシ蓋シ其趣向ノ我詩歌卜同ジカラザルガ爲メ ナルベシ又適々翻譯スル人アルモ之ヲ支那流ノ詩ニ摸擬スルガ故二初学ノ輩ハ解スルコト能 ハス余之ヲ慨スル久シ以爲ク西洋人ハ其學術極メテ巧ニシテ精粗到ラザル所ナシ其詩歌二於 テモ亦之卜均ク能ク景色ヲ摸寫シ人情ヲ穿チ讃賞ス可キモノ多シ且ツ其句法萬種ニシテ韻ヲ 蹈ムモノアリ蹈マザルモノアリ緩漫ナルモノアリ疾急ナルモノアリ其語勢ノ変化殆ド捉摸ス 可ラズ而シテ其言語ハ皆ナ平常用フル所ノモノヲ以テシ敢テ他国ノ語ヲ借ラズ又千年モ前二 用ヒシ古語ヲ援カズ故ニ三尺ノ童子卜雖モ苛クモ其国語ヲ知ルモノハ詩歌ヲ解スルヲ得ベシ 加之西洋人ハ短キ詩歌ヲ好マザルニハ非レドモ亦長篇ヲ尚ビ尋常ノ日本書ノ如キ薄キ冊子ヲ 以テスレバ一篇ニシテ十餘冊ニモ上ルモノ少ナシトセズ頃日學友ヽ山仙士(外山正一)ト相 謀り吾人日常ノ語ヲ用ヒ少シク取捨シテ試二西詩ヲ譯出セリ余素ヨリ詞藻二乏シト雖モ既二 訳シ得ル所數篇二至ルヲ以テ今其一ヲ擧ゲテ江湖諸彦ノ高覧ニ供ス幸二其詞藻ノ野鄙ナルヲ 笑フナカレ  尚今居士(矢田部良吉)識

 さて、菅谷さんは「三種の序文に記されたような詩型や詩語のもんだいとはべつのところで」 「新体詩抄」は「どれだけの思想を表出しえていたか」と問う。そしてそこに収められた作品の選択は三人の 趣味や興にまかせたものではなく、三人に共通の一つの認識があったとする。
 それは明治20年代のあらたなナショナリズムの準備段階とでもいうべき<モダニズム=ナショナリズム>にかくじつに 対応しているものである。それぞれの作品は<自然-人生-社会-国家>という上昇的な分類のいずれかを代表するよう に位置づけられていてそのワクからはみだす ことがない。

 そして「自然」「人生」「社会」「国家」のそれぞれに対応する作品を分析している。

1.「自然」- 矢田部良吉(尚今居士)訳の「シャ-ル、ドレアン氏春の詩」
 <春の景色ののどけさをいかで好まぬ人あらん」と翻訳し、さらにそれをもとに<春は物事よろこばし 吹く風 とても暖かし>と《春夏秋冬》を創作しているところからもうかがえるように、詩抄の詩人たちにとって<西洋>にた いする違和はもっぱら<文物>にむけられていて、いまだその<風土>にむけられてはいない。したがってまた伝統的 な花鳥風月の美意識(自然観)にとくに修正をせまられておらず、むしろ<自然>の共通性という観念が、かれらの ナショナリズムの根柢を保証しえているのである ― さらにいえば維新以前の<歴史>はかならずこの<自然>へ回帰する ものともかんがえられている。この還元(時間の空間化)をぬきにしては他面でのかれらのモダニズムも不可能なのである。

 「<歴史>はかならずこの<自然>へ回帰する」という思考スタイルは現今の保守反動的ナショナリストたちをも根底で 呪縛している。

2.「人生」 - 《グレー氏墳上感懐の詩》、《シェークスピール氏ハムレット中の一段》
 ここにみられるのは、いわば空間化された<自然>に生起する<内部>としての人生の、あたうかぎり立体化された認識 とでもいうべきものである。と同時にこの<内部>は、《ロングフェルロー氏人生の歌》にみるように、

  されば人々怠たるな   暫時も猶予するなかれ
  運命如何につたなきも  心を落すことなかれ
  たゆまず止まず自若とし 功名手柄なしつつも
  勤め働くことをせよ

のごとく、自明の方向づけをあたえられていて、そこに矛盾があるとはかんがえられていない。
 なぜ矛盾なしでありえたかといえば(これがこの詩集の核芯なのだが)、かれら当時の進歩的知識人にとっては、<内部>と しての人生はそのまま<社会>という、かれらにとってまったくあたらしいカテゴリカルな認識に同調していたからである。

 とても分かりにくい文章だ。「新体詩抄」の編者たちは人の内部世界の違いを無視してただひたすら外部世界に合致 させて生きることを人生だと認識している、と言っていると思う。だから <内部>としての人生が「<社会>という、かれらにとってまったくあたらしいカテゴリカルな認識に同調」することのみが 人生の大事となる。これは明治期の大衆のナショナリズムでもあった。「身をたて、名をあげ、やよ はげめよ。」あるいは 「手本は二宮金次郎」。

3.「社会」 - 外山正一(ヽ山(ちゅざん)仙士)の創作詩《社会学の原理に題す》
 これは力作である。それが<全く詩の称呼に値しない>からといって<噴飯を禁ぜざらしめる底の卑俗滑稽な作物> (山宮允)だというのは、じつはこの詩をまったく読んでいないにひとしい。卑俗滑稽だとすれば、東京大学での外山の <社会学>の講義のほうがむしろそうであったとみるべきなのだ。すくなくともこの作品には、<秩序としての社会>と いう外山の認識の体系がしめされている ― そしてこの<秩序>のうえにはじめて、人生の究極としての<国家>がす がたをあらわすのである。

 菅谷さんはこの詩の詩句の引用をしていないので、その詩が表出している「認識の体系」を知るしるべがない。手元の 復刻版から転載しようかと思ったが、200行ほどの長編だった。しかも全文行書体で読み取りがたいところもある。そうとう 時間がかかりそうだ。やめにした。
 内部世界の違いを無視してただひたすら外部世界に合致させて生きることが人生だという認識のもとでは、当然人生の究極は「国家」 ということになる。
4.「秩序としての社会」から「国家」へ。
 《新体詩抄》の全思想はおなじく外山の創作詩《抜刀隊》につきている。<我は官軍我敵は天地容れざる朝敵ぞ>と西南戦役 の鎮台兵をモティーフに<国軍=国家>イデオロギイを歌いきったあと、もはやこの三人の進歩的知識人にはどんな文学的 モティーフものこらなかったはずである。

 内部世界の違いを無視してただひたすら外部世界に合致させて生きることが人生だとう認識のもとでは、意識を「国家」に 収奪されたところで個としての人生のモチーフそのものが終わる。「国家」以外に「文学的モティーフ」のあろうはずがない。 イシハラがいい見本だ。三島由紀夫も、あるいは、「文学的モティーフ」の喪失ゆえの自死だったかもしれない。
275 日本のナショナリズム(28)
<漢詩-俗謡>系の思想的根拠(つづき)
2005年5月19日(木)


 本題に戻る。
 菅谷さんは、<漢詩-俗謡>系の言語表出の思想的根拠は植木枝盛からみてとることができる と言い、前回引用されてる植木枝盛の詩の続きを引用しながら論述している。

  茫々乎たり   茫乎たり
  太平洋は    太平の
  (もとゐ)も固し    文明の
  風も(かうば)し    亜米利加州
             
  百年前は    英吉利(いぎりす)の
  国の支配の   いと(から)く
  民の自由    踏躙(ふみにじ)り
  其の暴虐も   極まれり

  蕩々乎たる   勢は
  湛えし水の   一時(ひととき)に
  堤を(さく)り    行くごとく
  山をもくずす  ばかりなり
 この句には、民権家枝盛の維新オプティミズムがよくあらわれており、そのリズム感覚は決して わるくない―――しかしこのオプティミズムが<政事>の世界にあらわれるとき、清濁あわせ呑む といったもっとも通俗的な没原理をもたらすいがいではない。

 枝盛は頻繁に遊里に通っている。いわゆる性的な「放蕩」である。その一方で公娼廃止や一夫一 婦制を論じる。菅谷さんが「清濁あわせ呑むといったもっとも通俗的な没原理」といっている背景 はこういうことだと思う。

  其の精神の   溢れ来て
  一度(ひとたび)こゝに   激すれば
  (えい)にあり在ては 査列士(ちゃあれす)の
  首を刎ねたる  (たう)となり

  (ふつ)に在ては   路易(ろういす)の
  (かうペ)を斬りし  (けん)と為り
  (ペい)に在ては   英吉利の  
  覊軛(きやく)を脱けし 檄と為り
  
  (ずい)に在ては   墺国(あうこく)の
  支配を辞せし  其の(いくさ)
  流るる血潮   積む屍
  共和の国を   開きけり
  
  電光一閃    不廬多(ぶるちゆうす)の
  思ひを遂げし  匕首(ひもがたな)
  羅馬の民の   その敵
  該撒(しいざあ)ここに   誅せらる

  激雷一発    虚無党の
  爆烈弾の    轟くや
  露西亜の国の  其の天子
  亜歴山帝(あれきさんだあ)    (かうべ)なし
 これらの詩句には、たんなる知識(空想)にすぎない<山なす屍、河なす血潮>の像を、あたかも 思想であるかのごとくに操作している(もてあそんでいる)民権イデオローグの末路があらわである ―――電光一閃、激雷一発を現実にみずからの<思想>として生き、行為しようとすればどのような 政治的悲惨が験されねばならないか。枝盛はここでまったくそしらぬかおをきめこんでいるが、明治 20年に発表されたこの詩の作者は、二年まえ、枝盛のかつての同志たち―――大井憲太郎をはじめと する自由党左派の<大阪国事犯事件-朝鮮革命計画>にしめされた、その実行(強盗事件)のみじめ さにたいして、無知でありうるわけではないのである。この計画に関連して、北村透谷は盟友大矢正 夫と訣別し、ひいては政事をまったく断念することを余儀なくされるが、他方、<朝鮮>を望見する 枝盛じしんは、もはやこの時期、かれの思想の<出自>へかんぜんに回帰し、かつその<出自>を 抒情するのみという、ナショナリストの本性をさらけだすほかなくなっている。

 枝盛の「思想の<出自>」について、菅谷さんは「幕末期から明治十年代にいたるまで、いわば土 佐モダニズムともよぶべき一系列が維新ナショナリズムの尖端に背中あわせになっていた」という。 小説や映画、ドラマで描き出され流布されている「坂本竜馬」像とだぶる。侍姿で革靴を履いている 坂本竜馬。
 枝盛はパンやスープの食事を好んだというが、これに関連して菅谷さんは「明治初期でも金さえあ ればあとは当人の好みのもんだいである …… <政事>論議とおなじようにモダニズム (知識=空想)の可能な領域に属しているものである。」と言っている。

 その「思想の<出自>へかんぜんに回帰し、かつその<出自>を抒情」する心情は、たとえば次の ような詩句に明らかに表われている。

  猶清国や      朝鮮も
  危きことの     限りなく
  ある或は版図を   縮められ
  また復いかんとも  為しがたし

  之を思へは     ただひとり
  湧くが如くに    血涙の
  浮び来りて     潜然と
  袖をうるほす    ばかりなり
 枝盛の本領はまぎれもなくイデオローグたるところにあった。明治10年代という時期が、<政事>の言論化を もたらしたために、ちょうど枝盛のようなスーパー・タレントをひつようとしていたのである。そしてイデオ ローグ植木枝盛の本質は、その徹底したウルトラ・モダニズムにある。明治10年代の<政事>は、かれのモ ダニズム(知識=空想)を最大限にくりひろげることを可能にするにふさわしい舞台であった。

 出自を抒情するほかないショナリストの本性は、<俗謡-漢詩>という出自と まったく同系の表裏をなす維新いらいの<政事家>たちの遊蕩の場と重なっている。 つまり漢文脈七五調とでもいうべきその韻律が指し示している思想の根源は、 そうした遊蕩を経ずには、<詩>に表出されえなかった。
274 日本のナショナリズム(27)
お遊びの答
2005年5月18日(水)


  外国の国名や人名の表記に、日本には「ひらがな」「カタカナ」とう表音文字があるのに、 何故漢字を用いたのだろうか。維新直後の言語表出の系は「俗謡-漢詩」が主流だったためだろう。「維新ナショ ナリズム」の特質の一面を表徴していると」思われる。
 その表記の中にはすでに中国で表記されていたものを輸入したと考えられるものもある。今ではまったく使うことも見ることも ないような漢字が使われていたり、ふきだしたくなるようなこじつけもある。明治初期の知識人たちの苦労のほど がしのばれる。まったくご苦労なことだ。今でも名残りを使用しているものもあるが、ほとんど死語になってい る。当然のことだ。とても付き合っちゃいられない。


問1 次の漢字表記はどこの国のことでしょうか。

亜墨利加……「亜米利加」と同じ、アメリカのこと。 阿留世里屋……アルジェリア 亜爾然丁……アルゼンチン 英吉利……イギリス 伊色列……イスラエル 伊大利、伊太里……イタリア 印 度……インド 挨 及、衛士府都……エジプト 濠斯刺利……オーストラリア 墺太利……オーストリア 和蘭陀、阿蘭陀……オランダ 加那太、加奈陀……カナダ 柬蒲塞、柬蒲寨……カンボジア 玖 馬……キューバ 希 臘……ギリシャ 哥倫比亜……コロンビア 暹 羅……シャム(タイ) 新嘉披、星嘉披……シンガポール 瑞 西、瑞 士、瑞……スイス 瑞 典……スウェーデン 西班牙……スペイン 錫 欄、錫 倫……セイロン 泰……タイ 智 利……チリ 丁 抹、 馬……デンマーク 土耳古、土耳其……トルコ 新西蘭土……ニュージーランド 諾 威、能留英……ノールウェー 巴奈馬……パナマ 洪牙利、匈牙利……ハンガリー 緬 甸……ビルマ(ミャンマー) 比律賓、非力彬、緋笠濱……フィリピン 芬蘭土……フィンランド 伯刺西爾、伯 国、武良尻……ブラジル 仏蘭西、仏 国、法 国……フランス 勃牙利……ブルガリア 越 南……ベトナム 秘 露、白 露……ペルー 白耳義……ベルギー 波 斯……ペルシャ 波 蘭……ポーランド 葡萄牙……ポルトガル 墨西哥……メキシコ 羅馬尼亜……ルーマニア 魯矢亜、西亜、露西亜……ロシア 問2 次の漢字表記はだれのことでしょうか。

亜立士度徳、亜利斯土的列、亜利士達……アリストテレス 歴 山……アレキサンダー(大王) 伊蘇布、伊蘇普……イソップ 維 廉……ウイリアム 維波斯徳刺……ウェブスター 維霊敦……ウェリントン 以利沙伯……エリザベス 加利列窩、加里労……ガリレオ 坎 徳、韓 図……カント 基 督……キリスト 哥蘭的……グランド 久麗王茹都羅……クレオパトラ 黒鳩公……クロポトキン 格侖児……クロムウェル 瓜 得、我義的……ゲーテ 哥白尼……コペルニクス 可 倫、閣 龍、格倫母斯……コロンブス 坤 度……コント 雑未耶……ザビエル 施福多……シーボルト 沙 翁、舌克斯畢、世幾須比亜……シェークスピア 酒児林……シェリング 昔爾列爾……シラー(シルレル) 成吉思汗……ジンギスカン 斯格的……スコット 士比瑙薩、斯比諾薩……スピノザ 斯密士……スミス 墳克底、所哥羅垤斯、瑣格刺底……ソクラテス 所羅門、速爾門……ソロモン 大 因、太 未、達 因……ダーウィン 大 闢……ダビデ 査 理、査爾斯……チャールズ 姪 騫……ディケンズ 垤加爾多、等加児的……デカルト 那破倫、那破烈翁、拿破倫、拿 翁……ナポレオン 牛 頓、牛 童、牛 董、紐 頓……ニュートン 拝 倫、梅 崙。擺 倫……バイロン 狂公子、狂皇子……ハムレット 比斯馬可、比斯馬克……ビスマルク 比的額羅斯……ピタゴラス 非布垤……フィヒテ 布拉多、布拉達、伯拉多、伯羅多……プラトン 弗蘭寄林、弗朗克林……フランクリン 希傑爾、歓傑爾、俾歇児……ヘーゲル 倍 根、馬 孔……ベーコン 馬哈黙……マホメット 彌耳敦……ミルトン 孟得士瓜、孟徳斯鳩……モンテスキュー 文 老……モンロー 飛 豪……ユーゴー 莱武尼多、莱本尼子……ライプニッツ 律 頓、笠 頓……リットン 李並士敦……リビングストン 林格倫、倫古龍……リンカーン 路 易……ルイ 婁 騒、魯 叟、蘆 騒……ルソー 路 ……ルター 列色弗……レセップス 瓦 的、瓦 徳、尾 徳……ワット (小学館「読めない漢字の読本」より)
273 日本のナショナリズム(26)
もう一回、お遊び
2005年5月17日(火)


 遊び心に誘惑されて中途半端なところで横道にそれちゃった。でもついでなので、もう少し遊びます。

 前回の答。
 どの答ももしかしたら違っていやしないかと、思いながら・・・ 請う、ご教示。

問題1 「乎」を漢和辞典で調べたら5通りの用法が出ていた。自信はないけど、「断乎」と同じ用法(物を形容する語の下に つけて、状態を表すのに用いる)と考えた。「ぼうぼうこたり ぼうこたり」と読むのでは?

問題2 「瑞」は「スイス」で「墺国」は「オーストリア」。ウイーン会議でスイスが永世中立国に認められたこ とを指している。

問題3 「査列士」はピューリタン革命で処刑されたチャールズ1世
    「路易」はフランス革命で処刑さたルイ16世
ご存知、『ブルータス、お前もか!』の「不廬多」ブルータスと「該撒」はシーザー。
    「亜歴山帝」はアレクサンドル2世で、露土戦争後に「ナロードニキ」に暗殺された。



 新たな問題
問1 次の漢字表記はどこの国のことでしょうか。

亜墨利加 阿留世里屋 亜爾然丁 英吉利 伊色列 伊大利 伊太里 印 度 挨 及 衛士府都 濠斯刺利 墺太利 和蘭陀 阿蘭陀 加那太 加奈陀 柬蒲塞 柬蒲寨 玖 馬 希 臘 哥倫比亜  暹 羅 新嘉披 星嘉披 瑞 西 瑞 士 瑞 瑞 典 西班牙 錫 欄 錫 倫 泰 智 利 丁 抹  馬 土耳古 土耳其 新西蘭土 諾 威 能留英 巴奈馬 洪牙利 匈牙利 緬 甸 比律賓 非力彬 緋笠濱 芬蘭土 伯刺西爾 伯 国 武良尻 仏蘭西 仏 国 法 国 勃牙利 越 南 秘 露 白 露 自耳義 波 斯 波 蘭 葡萄牙 墨西哥 羅馬尼亜 魯矢亜 魯西亜 露西亜 問2 次の漢字表記はだれのことでしょうか。

亜立士度徳 亜利斯土的列 亜利士達 歴 山 伊蘇布 伊蘇普 維 廉 維波斯徳刺 維霊敦 以利沙伯 加利列窩 加里労 坎 徳 韓 図 基 督 哥蘭的 久麗王茹都羅 黒鳩公 格侖児 瓜 得 我義的 哥白尼 可 倫 閣 龍 格倫母斯 坤 度 雑未耶 施福多 沙 翁 舌克斯畢 世幾須比亜 酒児林 昔爾列爾 成吉思汗 斯格的 士比瑙薩 斯比諾薩 斯密士 墳克底 所哥羅垤斯 瑣格刺底 舌克斯畢 世幾須比亜 酒児林 昔爾列爾 成吉思汗 斯格的 士比瑙薩 斯比諾薩 斯密士 墳克低 所哥羅垤斯 瑣格刺底 所羅門 速爾門 大 因 太 未 達 因 大 闢 査 理 査爾斯 姪 騫 垤加爾多 等加児的 那破倫 那破烈翁 拿破倫 拿 翁 牛 頓 牛 童 牛 董 紐 頓 拝 倫 梅 崙 擺 倫 狂公子 狂皇子 比斯馬可 比斯馬克 比的額羅斯 非布垤 布拉多 布拉達 伯拉多 伯羅多 弗蘭寄林 弗朗克林 希傑爾 歓傑爾 俾歇児 倍 根 馬 孔 馬哈黙 彌耳敦 孟得士瓜 孟徳斯鳩 文 老 飛 豪 莱武尼多 莱本尼子 律 頓 笠 頓 李並士敦 林格倫 倫古龍 路 易 婁 騒 魯 叟 蘆 騒 路  列色弗 瓦 的 瓦 徳 尾 徳
272 日本のナショナリズム(25)
<漢詩-俗謡>系の思想的根拠
2005年5月16日(月)


 菅谷さんは、<漢詩-俗謡>系の言語表出の思想的根拠は植木枝盛からみてとることができる と言い、前回引用されてる植木枝盛の詩の続きを引用している。それを、前回の分も含めて掲載する。

  茫々乎たり   茫乎たり
  太平洋は    太平の
  (もとゐ)も固し    文明の
  風も(かうば)し    亜米利加州
             
  百年前は    英吉利(いぎりす)の
  国の支配の   いと(から)く
  民の自由    踏躙(ふみにじ)り
  其の暴虐も   極まれり

  蕩々乎たる   勢は
  湛えし水の   一時(ひととき)に
  堤を(さく)り    行くごとく
  山をもくずす  ばかりなり

  其の精神の   溢れ来て
  一度(ひとたび)こゝに   激すれば
  (えい)にあり在ては   査列士(ちゃあれす)の
  首を刎ねたる  (たう)となり

  (ふつ)に在ては   路易(ろういす)の
  (かうペ)を斬りし  (けん)と為り
  (ペい)に在ては   英吉利の  
  覊軛(きやく)を脱けし  檄と為り
  
  (ずい)に在ては   墺国(あうこく)の
  支配を辞せし  其の(いくさ)
  流るる血潮   積む屍
  共和の国を   開きけり
  
  電光一閃    不廬多(ぶるちゆうす)の
  思ひを遂げし  匕首(ひもがたな)
  羅馬の民の   その敵
  該撒(しいざあ)?(*注)に   誅せらる

  激雷一発    虚無党の
  爆烈弾の    轟くや
  露西亜の国の  其の天子
  亜歴山帝(あれきさんだあ)    (かうべ)なし

(*注:「玄」を二つ並べた漢字です。マイクロソフトのIMEの漢字表にはあるのですが、
私が使っているHTMLテキスト作成ソフトでは「?」になってしまいます。)
 
 わお!面白いなあ。ちょっと本論から外れます。
問題1 「茫々乎たり   茫乎たり」の「乎たり」はなんと読むのでしょうか。
問題2 「瑞」と「墺国」って、どの国のこと?
問題3 「査列士」、「路易」、「不廬多」、「該撒」、「亜歴山帝」は それぞれ誰でしょうか?
271 日本のナショナリズム(24)
明治憲法と新体詩
2005年5月15日(日)


 初期<新体詩>の作品はほとんどが七五調である。新体詩誕生の土壌の一つである伝統的 な詩歌(俗謡・和歌・漢詩など)の枠組みから考えられるのは五・七と七・五の二種の韻律定型である が、なぜ<新体詩>は七五調なのか。<新体詩>が七五調を選ぶに至ったのは必然であり、 そこには「詩史的な研究や解説ではふれることのできない、<新体詩>のモティーフの根柢と 全域があるはずである。」と菅谷さんは言う。

 明治10年代の五日市(武州多摩)における自由民権グループの活動をもとに、地方民権家たちが 「政治」(とくに憲法草案運動)と「文学」(漢詩文をつくること)とを<開かれた形で両立> しえた幸福な一時期についてのべていると、色川大吉著「明治の文化」の「漢詩文学と変革思想」 という章から、菅谷さんは次の文を引用している。
 明治初期の漢詩文学は、これまで見てきたように、まず維新の革命家によって詩精神を一 新され、自由民権運動の潮のなかでおどろくほどひろく底辺の知識層にひろがっていった。  これら新しい漢詩の使い手たちは、この文学形式に自分たちの生活や階級的欲望や政治の情 熱を託することに努め、それを通じてこれまでになかった新風を導きいれ、詩精神をさらに 一新していった。


 「維新ナショナリズム」は、言語の面で「しゃべる」ことから「書く」ことへの上昇=転位 を伴っていた。この転位は「表現」としての言語の獲得と「規範」としての言語の疎外と という二つの位相に分岐していく。そしてその二つの到達点が、表現としての「新体詩」であり、 規範としての「帝国憲法」であった。

 <帝国憲法>は、自由民権派に主導された全国的な憲法草案作成運動すべての敗退の象徴に ほかならないが、この敗退の本質は主体である<大衆>が、そのみずからの主体をまず社 会革命におくかわりに(あるいはそれを回避した結果として)、すでに確定された政治権力のい っそうの規範化<=法制化>に参与しようとした錯倒のうちにある。
 この倒錯は、草案作成過程におのずとこめられた、大衆の知的上昇志向と政治的上昇志向と の錯合をともなっている ― この運動のゆくてに人民主権をおもいえがくのは政治的空想でしか ない。そしてこの空想がすなわち<デモクラシイ>というものである。大衆の実存はいかなる時 代・社会においても違法性のがわにあるものであって、憲法<制定>にしろ憲法<擁護>にしろ、 人民の存在を<規範>化しようとする政治運動によっては表現しえない本質をなしている  ― これは<自由民権>運動にとどまらず、まさにげんざいの情況を告げるものでもある。

 ここで指摘されていることはまさに現在進行中の問題でもある。すでにいくらかはその 問題について考えてきており、「選挙について」と「非暴力直接行動」としてまとめた。ここでは この問題には深入りしない。もう一つの位相、「表現としての言語」=「新体詩」の問題を 追おう。

 大衆が知的上昇過程で「維新」の全社会的変動に対応するための観念=表出形態を、もっぱら漢語 (漢文脈)に依存せざるをえなかったのは漢詩文の特質による自然=必然な過程である。
「維新の革命家」から「自由民権運動の潮」のなかへ漢詩表現が継承されえたとすれば、 その基軸は、漢語(漢字音)の口語化をふかく内在した韻律の変動にもとめるいがいにない  ― これがさきにあげた三つの系の第一、<漢詩-俗謡>系である。変動は、江戸期の 全韻律表現にわたる<近世七五調>とよぶべきものと維新期の<漢語>との根柢的な相互 浸透となってあらわれている。すなわち明治初期において俗謡的七五調と漢詩的表出とは、 まったく同系(等価)かつ不可分の表裏一体をなしている。
 ようするに、<新体詩>の発生条件の第一は、漢字音の多用によって強音律化された俗謡的七 五調にもとめられねばならない。この強音律を前提としてこそ、単一強化の行軍リズムというべ き<明治ナショナリズム>の韻律が導かれるのである。そして前提としてのこの系の終局は、明 治20年、植木枝盛の《自由詞林》にあますところなく代表されている。


  茫々乎たり   茫乎たり
  太平洋は    太平の
  (もとゐ)も固し   文明の
  風も(かうば)し   亜米利加州
             
  百年前は    英吉利(いぎりす)の
  国の支配の   いと(から)く
  民の自由    踏躙(ふみにじ)り
  其の暴虐も   極まれり
  
        ―――――――――――――――

  さらば人間と云ふものは   自由で生きてこそよけれ
  自由が無れば死んだも同じ  おまへ見んかへあの塩を
  塩と云ふのはからいが塩じゃ からくなければ沙である
  砂糖と云ふのは甘いが砂糖  甘くなければ土じゃぞへ

 上記のように植木枝盛の詩の一節と「民権田舎歌」の一部を引いて、 菅谷さんは次のように述べている。
 わたしは《楚囚之詩》(1888年)以前の<新体詩>のうちで植木枝盛をもっともたかく評価 するが、上の引用のように洗練された詩句の出自が、ほかならぬ《民権田舎歌》とおなじ根源を ()していることはいうまでもないだろう。
270 日本のナショナリズム(23)
維新ナショナリズム
2005年5月14日(土)


 思想家・吉本隆明と歴史学者・色川大吉の論考による明治期の知識人ナショナリズムの分析を 読んできたが、今回から詩人・菅谷規矩雄の「詩的リズム」の論考を読む。明治期の詩人とその 詩的表現から明治期の知識人ナショナリズムにアプローチすることになる。私は「詩的リズム」 の第6章「新体詩=論」が明治期の知識人ナショナリズムというテーマに沿うと思いそれを読む ことにした。

 まず、新体詩の領域を俯瞰しておく。

(Ⅰ)1891(明治24)年、北村透谷《蓬莱曲》がその極北である。
(Ⅱ)1897(明治30)年、島崎藤村《若菜集》およびこれと同時期の与謝野鉄幹の作品群 (1896年《東西南北》より1901年《紫》にいたるまで)がその芸術的頂点となる。
(Ⅲ)1897(明治30)年以降、土井晩翠、薄田泣菫、蒲原有明などがあいつぎデカダンス (美意識の優先、規範化)を現象しはじめる。

菅谷さんは「新体詩」を上記の詩的表現の領域と規定している。

 では、「新体詩」とはなにか。菅谷さんは、維新後にそれまでの詩歌とは異なる詩的言語表出 を可能にした、あるいはその詩的言語表出の質を決定した条件を確定することから始める。
 情況をひとまず1887(明治20)年ころまでにとってこれをもとめてゆくと、わたしたち は三つの系をみいだすことができる。

(ⅰ)俗謡―漢詩  (ナショナリズム)
(ⅱ)文明開化―洋学(モダニズム)
(ⅲ)短歌―和文  (美的規範)

 これらはいずれも同位的(ヽヽヽ)に存在していたとかんがえられる。 したがって表現がどの系から発したとしても、さいしょにかくとくされる〈仮構〉の水準はともに ひとしく、条件としての優劣はなかったといえる。

(i)のメルクマールをなす詩人には植木枝盛(1887、自由詞林)や山田美妙(1886、新体詞選  ― そのうちとくに《戦景大和魂》)をあげることができる。
(ⅱ)には外山正一ほか《新体詩抄》の詩人たち、また讃美歌の訳者(作者)たち。
(ⅲ)には小学唱歌集(第三編、1884)の作詞(訳詞)者たち、および《孝女白菊の歌》(1888) の落合直文などがあげられる。


 「表現された作品じたいは、表出の過程をふくんでいるから、<出自>としての系と 過程における撰択としての系とが交錯してあらわれることになる。」例えば、「新体詩」 の芸術的頂点となる藤村と鉄幹は、それぞれ(ⅱ)と(ⅲ)、(i)と(ⅲ)を複合して 獲得された〈仮構〉の上に成り立っている。
 透谷が表出した新体詩の極北は、これら三つの系をすべて同時に、まさにラディカルかつトータル に超出したかなたにあった。菅谷さんは「この極北は、いまなお未踏の暗黒だと言うべきも のである。」と透谷を評価している。つまり、透谷とは、(i)~(ⅲ)の<仮構>の根拠に対する 否定力に」他ならないと言う。
 透谷が指し示している「極北」は「いまなお未踏の暗黒」であると同時に、と言うよりむしろ 「未踏の暗黒」だからこそ無限の可能性をはらんでいると思う。

 さて、〈新体詩〉がその表出の局限をかけて対位することをせまられた現実の根源は、明治10年の <西南戦役>から17年の<秩父事件>にいたる過程である。明治20年代はじめ、いわば<維新ナショ ナリズム>からあらたな<明治ナショナリズム>へと屈折し転位してゆく大衆の情況と対位し、その 対位に耐え抜くこと以外に新体詩の本質的な存在理由はなかった、と菅谷さんは述べている。
 そして<西南戦役>から<秩父事件>にいたる過程は「おおまかにいえば(維新)イデオロギイの 大衆化=土着の過程である。」と言い、次のように続ける。
 第一にそれは、<西南戦役>に代表されるような下層士族階級の反乱となってあらわれた。 言うまでもなくこの反乱の特質は、主体たるべき<大衆>の存在が、反乱軍の主力をなす下 層士族と、農民をはじめとする庶民階級(とりわけ政府軍の徴兵)とのあいだで、ほとんど 媒介不能の倒錯を余儀なくされていたところにある。(中略)
 この戦役によって確立された〈国家=軍隊〉イデオロギイの大衆化は、他方で広汎な農民一揆 に自由民権運動が結合することによって拡大しつつあった〈維新〉イデオロギイの土着にたいし て、内在的にも外在的にも超えがたい境界をなすものとなった。
 政治運動の上限としての<自由党>はこの境界を一歩もこえることなくみずから解体した ― 右派 は<憲法=国会>へとひたすら内訌し、左派は<朝鮮革命計画>へと脱出した。
 明治17年11月の<秩父事件>は、日本の<近代>における最初にしてさいごともいうべき、 本格的な大衆武装蜂起であった。その武装は、<維新>の土着がゆきついたもっとも深い地点を しめしており、それはゆいいつ明治<国家>の境界をふみこえて真に違法性への越境をなしとげ た反乱であった。極北が象徴するのは、その敗戦の深部にのみこまれた<無言>の所在である。

 詩的規範を越境することが詩的「極北」なら、法的規範を越境することが人民の実存に真の解放をも たらす「極北」と言うべきか。
269 日本のナショナリズム(22)
アジア主義・宮崎滔天
2005年5月13日(金)


 パソコンがソフト的に故障。OSのインストールからはじめて、すべての設定をやり直すはめ になりました。12日、13日は休刊しました。

 アジア主義はナショナリズムとは完全に重なるものではない。しかし、そこにはさま ざまな形のアジア諸国の連帯への指向性が共通して見られる。その一例として、色川さんは 宮崎滔天を取り上げている。

 滔天には八郎、弥蔵という兄がいる。宮崎兄弟は「もともと自立性の強い肥後の国の辺境、荒尾村の中世土豪の 旧家に生れ、そこに息づいてきた反官反逆の草賊のたましいを感じとり、それに誇りを抱いて生きつづけ てきた人間であった。それゆえ、かれらの感性の中には明治前期の日本の底辺民衆の〝反文明〝〝反近代〟の情念と通じるものが あり、また煮えたぎる解放への土着的ナショナリズムと響き合うなにかがあったはずである。」と 色川さんは言う。そして、宮崎兄弟の研究者渡辺京二による新しい評伝の内容を紹介している。
 それによると宮崎八郎、弥蔵、滔天らは〝近代的国民国家創出にあたってのモダニズム的コース″へ の徹底的反抗者として捉えられ、中国革命を志した弥蔵は狭隘な日本の国家意識を完全に越えた人間 として描かれている。  宮崎弥蔵は一連のアジア主義者の限界を突破し、ほとんど苦行者的なリゴリストの生活をしながら、 中国人になり切り、中国に赴いてそこに革命根拠地を設定しょうと考える。アジアに人民連合勢力に よる同時革命を起し、アジア共和国を樹立する、そのためには中国をおいて他に根拠地は求められない、 というように思索をつきつめていったその論理性を、渡辺京二は高く評価する。そして、ついには 「革命中国をひきいて天皇制日本と革命戦争を遂行するほか、弥蔵にとって手を握る途は存在しない のではないか。私は論理的な弥蔵はかならずここまでその考察を徹底させていたと信じる」と言い切る。 読者はそのあまりにも大きな論理の飛翔に首をかしげるかも知らぬが、私は渡辺説を固定観念に縛 られた研究者に猛省をせまる独創的な仮説として受けとめたい。

 宮崎滔天はこの兄の思想を受け継いで、孫文を助け、中国革命の救援運動に奔走する。
 だが、じっさいにはかれも挫折に挫折を重ねる。かれの〝国家否定″は、世界革命の根拠地としての 中国への期待を昂じさせても、日本国民内部の革命的要素との連携のルートを閉しかねない。滔天が 孫文らの支援のために犬養毅や頭山満らの庇護をうけたことは、やがて彼のインターナショナリズムに 手ひどくはねかえってくる。
(中略)
 しかし、滔天の真情を推察するならば、そこへ落ちこんだ止むをえない理由も考えられる。 かれは兄八郎の死後、日本人民の革命性がますます狭隘化し衰退してゆくことの不安に焦慮していた。 日本人民の底辺や辺境での流離反逆の精神がうすれ、抵抗心が衰弱してゆくにつれて、国家が肥大化し、 ついにその肥大した国家のナショナリズムが人民の生活領域を押し包んで自立の余地すら無くしてゆく という現実に、かれは慄然としていたはずである。
 国家は亡びても民族は亡びない、中央権力とは遠く離れた底辺の次元で〝鼓腹撃壌〟し、事あれば流 賊化してたたかう中国民族とくらぺて、

 「我日本は如何でしょう。国家的に亡びたならば、民族としての日本人は、私は心細く感ぜざるを得 ないのです」(『銷夏漫録』)

 そうした幻滅と絶望が滔天兄弟をしていっそう強く中国の地に革命の夢を追い求めさせたのであろう。 晩年、かれがその矛盾に気づいたとき、「余や泥土に(まみ)れたる落花 とならん哉」の一語がかれの肺腑を突く真実の響きとなった。

 やがて滔天は牛右衛門を名乗って天中軒の一座と流浪の浪曲師に落ちこんでいった。そのときの 滔天の心情には土着型の倒映関係がなまなましく残っている。「その意味でかれの敗残は、日本 の〝幻想の草賊″としての底辺人民の敗残でもあったのである。」

 滔天の「思想基盤であった草賊的な人民の伝統要素が急速に失われ、国内革命 の可能性への幻滅が深まっていった。それらの根底からの不安を感じとっていた滔天のような知 識人のナショナリズムが過激早急なインターナショナリズムの形をとったのも当然であった。」 が、それは滔天を代表とするアジア主義の「敗残」の理由でもあった。色川さんは次のような 評価をしている。
 一国の革命が世界同胞主義などでできるだろうか。結局、あくまでもその国の人民の自発的な力に よる以外にはないではないか。〝そういうナショナルな通路を経ない国際主義的思考″は逆に個別国 家権力によって収奪される。そうした悲喜劇をわれわれはあまりにも多く見てきた。

 「ナショナルな通路を経ない国際主義的思考」とは吉本さんが「移植デモクラシー」とか「移植 マルクス主義」とか言っていること(第263回・5月5日)と同じことだと思う。吉本さんは 「大衆の原像」を繰り込まない思想は無効だといっている。
 私たちはつい最近、ソ連や中国をプロレタリアの味方と信じ過大な期待を託し、ソ連の崩壊時に 周章狼狽をした左翼知識人たちの「悲喜劇」を見たばかりである。
268 日本のナショナリズム(21)
知識人のナショナリズム:色川論文から
2005年5月10日(火)



 色川論文の明治期知識人ナショナリズムを論じた章に入る。

 大衆と支配者の双方から疎外されたものとして機能するほかない知識人のナショナリズムを規定する直接的 要因は、明治初期にあっては、「世界史的な危機意識であり、それと表裏をなす欧米からの新知識への 驚きであった」。大衆ナショナリズムの動向が知識人の意識に深い影響を与えたことは否み得ないが、それは間接 的なものであり、多くの場合かれらにはっきりと自覚されていない。
 こうした認識に立って色川さんは「後進国日本の危機の認識」を強く表出している例として、次のように前期 明治期知識人の言説を拾い上げている。
 福沢諭吉や内村鑑三のナショナリズムの揺れ具合もその視角から捉えてみることができる。かれらは当初は日本の 世界史的な位置への危機認識に刺激されて欧米列強に対抗する原理を西欧文明そのもの、万国公法やキリスト教の中 に見出している。福沢の有名な『唐人往来』にあらわれる主張、

 「唯一つの道理を守て動かざれは、敵は大国にても恐るるに足らず」
 「理があればアフリカの黒奴の前にも恐れ入り……」
 「世界普遍の道理に従って信実を尽すべし」

は、「道理を押立てて日本国の威勢を張」ろうというかれらのナショナリズムでもあった。その主張は10年後の板垣退 助や植木枝盛らの

〝世界の道義に背き、侵略する大国に対しては、万邦の世論に訴え、非を難ずると共に、四千万水 際にて討死せん〟

という「道義立国論」「万国共議政府論」にも貫徹している。そして、こうした普遍の道理への執着 は、1887(明治20)年の中江兆民『三酔人経綸問答』中の洋学紳士君のインターナショナリズムにもはっきり受 け継がれているのである。

 しかし、これらの主張が当時の日本の現実の中ではリアリティのないのもであり、むなしい反応しかありえなかった だろう。彼らの周章感は相当なものだったに違いない。
 その衝迫が、福沢をして「脱亜論」の方向へ、中江をして「南海先生」の韜晦へ、内村をしていっそうの「世界主義」 の方向へと追いやる。中江が伝統と近代、土着と文明の間を往復しながら思想のリアリティを確保すべく苦渋の思想営為 をしなければならなかったのもこの理である。
 福沢の〝アジアの隣人切捨て″による国権の確保(日本共同態の安泰確保)の発想も、最深の所では 前章で指摘したような日本の民衆の三層間の疎外の構造に土着的な根を持っていたことを私たちは見落すべきではあ るまい。とくに朝鮮―〝辺境″切り取りへの志向は、日本の大衆の被支配の構造とそれからの脱出の潜在心理の中に 生きつづけてきたものだからである。自由民権運動はこの被支配のメカニズムや大衆の深層心理を認識し、これに挑 戦できるほど思想的に成熟したものではなかった。秩父暴動などにそれへの挑戦の萌芽はあらわれたが、それとて民 権運動を内から越えることはできなかった。中国における太平天国の戦いなどとの大きな違いである。

 こうした思想課題にもっとも深く迫った知識人として、色川さんは中江兆民と田中正造をあげている。
 兆民が『平民の目さまし』(1887)から「新民世界」(1888)への思想営為の中で「社会の下層更に最下層 に居る」被差別部落民の立場に視点を移すことをし、その最下層への「社会的の妄念」を払拭しないかぎり日本の平 民全体の解放も達しえないと論じたことは画期的であった。その兆民なるがゆえに1891(明治24)年北海道へ行 ったときにも、そこにアイヌ抑圧を見てとり、
 「開化とは晴衣を衣たる社会の謂には非ずや、蛮野とは褻衣(せつい)(ふだんぎ)のまま の社会の謂には非ずや、彼れ無情無残の日本人共は、其泥に塗れたる絹服もて、彼土人の無垢の褻衣を汚し去りて、 而して得々然たり」

と痛評しえたのである。兆民の認識は「文明」の名による天皇制国家の民衆総体の分断的 支配のしくみに迫るものがあった。かれは国内の少数民族を蔑視抑圧することが最下層の「貧賎民」への差別抑圧と 構造的に関連していることを直覚していたようである。だが、その中江兆民の大才をもってしても、その構造が幕藩 体制時代からの衣鉢を継いだ天皇制国家の全人民統御のからくりの一環であったことまで論理的に読み抜くことはで きなかった。
 最後に「おれは谷中の人民さまの付き人である」と徹しきった田中正造とても同様であったと思う。それゆえに正造 は死に臨んで『聖書』を懐中に絶対者を念じていたのであり、兆民は「民権是れ至理也、自由平等走れ 大義也……百の帝国主義有りと雖も此理義を滅没する」能わずと、人民主権の原理に固執して逝ったのである。
 かれらの底辺での思想のたたかいは凄絶であったのに社会的には孤立していた。その苦悩がかれらの思想と行動のあの激 しさ、あの振幅の大きさとなって同時代の人びとの理解をむずかしくしていたのであろう。兆民や正造ちが抱えこん でいたその思想の〝混沌″の意味は、今後最底辺の民衆存在の視点からも徹底的に究明されなくてはならない。その ときにはじめて未完の自由民権革命の思想の真髄が私たちの共通の遺産としてよみがえるであろう。


 こした知識人のナショナリズムは日清戦争の勝利後にはっきりと分裂してくる。

福沢諭吉:列強の干渉と内乱により中国の分割問題が起ることを見越して、
 「(わが国は)いよいよ分割の場合には最も要勝にして最も利益ある部分を占むるの権利を有する」 (『時事新報』1894年12月13日)。

徳富蘇峰:

 「北において旅順、南において台湾をとれば、清国の鼻ずらと尻つぽとを握ったやうなものになるから、 わが国が英露に対し『東洋の覇権』を確保できる」(『国民新聞』1894年2月27日)。

尾崎行雄:
 「清国を征服して天皇の統治下におくことが西力東漸を防ぐことになる」(『改進党報』1894年12月8日、28日)。

 一方これらの言説に対して内村鑑三は痛烈な自己批判を発表する。
 日清戦争は正義の戦いどころか結局「朝鮮掠奪の手段」にすぎなかったと内外に向って詫びたのである。内村はその後、 新聞や雑誌などによって激烈な政府攻撃と支配層への批判活動をおこなうが、その過程で「神」と「人民」に依拠して戦 うという信念をつかんでゆく。日本の支配層が義和団事件を利用して北京に大軍を派遣し、まごうかたなき帝国主義の尖 兵の役をつとめたとき、内村はむしろ民族解放を助ける反帝闘争の側に立って次のように述べている。

 「日本人ばかりがわが同胞であると思へば我は失望する……かの南アメリカにあって自由と独立とのために苦闘し つゝあるボアー人もわが同胞である。かのフイリツピンにあって、すでに三年の永き、米人の猛威に屈服することな く、東洋における最初の自由国を建設せんとて戦ひつゝあるタガル人種もわが同胞である」(『万朝報』1901年3月)。

 内村は、私は二つのJを愛する。イエス(Jesus)と日本(Japan)だとし、「世にキリスト信者の愛国心にまさる潔い熱 い高い深い愛国心はありません」(『聖書之研究』1903年2月)と断言して、日本人の偏狭な「愛国心を排す」ぺく激 しい批判を浴びせていた幸徳秋水と協力している。内村のこうしたナショナリズムはキリスト教的文明一元論の立場 といわれるかもしれないが、かれのインターナショナリズムは、かつて中山みきや出口なおらが「世界中はみなきょ うだいぞや」と叫んだその同じ地点の対極にあるように思われる。ここでは「国」の観念が越えられているのである。

 中山みきや出口なおらが言う「世界中はみなきょうだいぞや」という宗教に立脚した思想には、「抑圧―被抑圧」 あるいは「支配―被支配」という社会的・政治的な矛盾に切り込む契機はなく、さらなる支配・抑圧を重ねてしまう機能を 果たしてしまうのではないか、という危惧を感じる。しかし、内村鑑三の引用文には「第21回」(2004年9月4日)で引用した 吉本さんの言葉と通じる思想が見られ、その先駆性に驚かされる。吉本さんの言説を再掲載する。

 「わたしたちが認めうるのは、この世界には少数の支配と多数 の被支配が現実を領しているということだけである。この課題が 「社会主義」国家同盟と「資本主義」国家同盟の対立、矛盾と いう概念によっては救抜されないということだけはあきらかである。」 (吉本隆明「模写と鏡」より)
267 日本のナショナリズム(20)
天皇制による人民支配の構造(2)
2005年5月9日(月)


 ひろたまさき氏が提出した明治前期民衆の「三層構造」論を色川さんは「思想史研究者に一つの 斬新な衝撃をあたえた」と評価している。ただし『明治前期の「底辺民衆」が反近代・反文明意識 を持った実体的な階層であるという主張には、異論が百出するであろう。』と言い、その異論の 根拠を『ひろたも認める通り、当時、欧米資本主義列強の世界支配は決定的であり、それが後進国 に強制する近代化・文明化は不可避の事態であり、日本の民衆もまた全体としては近代化、文明化 を受容し、志向することを余儀なくされていたものと認められるからである。』と述べている。 そして次のように続けている。
 ただし、ひろたの主張は実体論にとどまらず、「底辺民衆」の文明開化の体系への否定的な反応、文明 への反乱のもつ思想上の質的な独自性に注目し、1968(明治元)年の新政反対一揆から1976(明治9)年 の三重の反乱、1884(明治17)年の秩父の反乱まで続いたとしている。秩父事件の評価について、この 視点で割り切ることには私は反対であるが、他の一連の困民党事件は、大局的にみて文明開化の体系へ の否定的反応であったと認めることはできる。それを強いて自由民権と結びつけて解釈することの無理 については、実地踏査者として私自身も異和感を抱いていた。困民党の指導者の観念上の問題はおくと しても、それに同調した数百、数千人の底辺人民にとっては、明治国家が制度化した文明的なものは異 質にして冷酷なものとして映っていたのであり、かれらの在来の世界を根底からおびやかすものとして 意識されていたであろう。そのことは、かれらの行動形態や訊問調書などのはしばしからも推測 できる。(今後この点の実証的検討が必要である。)それは『遠野物語』(柳田国男)や『山の人生』 (同前)などに記録された事例と照応しているように私は思う。これを単に日本資本主義の本源的蓄積 の強行にたいする人民の抵抗・反撥と割りきってしまうような考え方がそもそも皮相だったのである。
 こうした底辺の抵抗の意識のなかには、当然「均田徳政」などをねがう伝統的な解放幻想を核とする 土着的な意味をもつ民衆のナショナリズムが胚胎していたはずである。だが、それらは新しい近代形成 のヴィジョンに表現されることなく終った。わずかに天理教から丸山教、大本教などにいたる民衆の 創唱宗教が、知識人や支配層のナショナリズムの対極に、かれらの「国」意識を越えたインターナショ ナルな宗教的世界像を築きえたにすぎなかった。ひろたまさきは安丸良夫とともに実地に丸山教を踏査 研究してゆく過程で、教祖の伊藤六郎兵衛が(ちょうど同じ武相の地に困民党事件が激発していた 明治10年代後半)、「文明は人倒し」だと呪詛し、〝文明の象徴たる天皇から国会、自由 党まで文明的なるものの一切を否定し……底辺民衆の全面的救済をかかげ″ている事実を発見して 衝撃をうけ、それを軸としてみずからの福沢研究の視点をも転回していったのであろう。

 ひとり言を少し。
 この辺の話になると、私の不勉強ぶりが明らかになってくる。日本史は遠い昔、高校生のときに 学習しただけ、しかも受験対策の勉強で近現代史はほんのなぞるだけというていたらくだったよう に思う。だから上の文に記述されている事柄は私にとってほとんど未知の分野だ。明治初期に 明治政府による文明開化に対し広範な底辺民衆の反乱があったことや丸山教の教祖の思想など 教科書にないものなあ。

 さて、底辺民衆のさらにその下に最底辺の民衆を据える民衆分断は維新後の発明ではなく、 徳川幕藩政治から継承したものであった。
 幕藩制国家の封建的恩頼を柱としたイデオロギー面での全般的な人民支配の構造が、(明治維新に おいて支配的思想の交替はあっても、構造自体は)その基部から粉砕されなかったということは、 日本人民の解放にとっておそるべき困難を残した。底辺民衆が依然「揚げ底」に乗せられつづけた ばかりでなく、その底辺民衆の中から生れたプロレタリア自体もまた「揚げ底」にされる宿命をに なったのである。ことは国内問題にとどまらない。前述のように朝鮮をも沖縄・アイヌと同じ次元で 「辺境」と「奈落」の民の一環に定置させ、日本の一般民衆の「共同体」生活秩序を保持するための 不可欠の媒体であるように意識させつづけるという重大な結果をまねいた。自由民権家ですら朝鮮民族 に対しては(中国民族に対する態度とは違って)、真に外国人扱いはしていない(対等な外国だと認め ていない)、琉球などと同一視する一段低い蔑視の態度を持っており、それがやがてかれらの「国権」 主義への躓きの石になるということに気づかなかったのである。それはかれらの民権思想の未熟・不徹 底というより、かれらが自分たちをも「揚げ底」の上にとりこんでいた支配のしくみや枠組を認識し、 それを突き崩すことができなかったからではあるまいか。朝鮮を琉球や蝦夷と同一次元視するこの民 族的な偏見は、先述したような幕藩体制国家の全人民支配の本質的な構造かち来ているものであり、 そうした豊臣時代いらいの歴史的・伝統的観念を民権派が打ち破れなかったところに原因があるように 私には考えられる。

 この朝鮮に対するいわれなき蔑視は、いまだにイシハラのような愚物の貧しい精神に巣食っている。 それは天皇をありたがる奴隷の精神と同じメタルの裏表なのだ。
 また、この自由民権運動の「躓きの石」は同時に民衆の敗北の石でもあったろう。「一切の社会的 対立を隠蔽もしくは抑圧し、大衆の自主的組織の成長をおしとどめ、その不満を一定の国内国外の 贖罪羊(スケープゴーツ)に対する憎悪に転換する」天皇制による人民支 配の構造を打破しない限り日本人民は敗北を重ねるほかないのではないか。
 当時、支配者自身さえはっきりとは自覚していなかった全体的なこの支配の狡智 と偽瞞を知るべくもなかった「奈落」と「辺境」の民が、それゆえに、一時期、天皇の国家に熱い解 放の遠隔幻想と期待とをよせたことは当然であったし、沖縄の民衆史や部落解放運動史の研究が進む につれてその脈絡も明らかになってきた。そしてその視点をとりこむことによって、私たちの目にも 「支配」の総体というものがようやくはっきりと見えはじめてきたのである。天皇制が〝不可測″だ といわれてきた意味は、「文明」も「文明への呪狙」も、域外の民の「解放幻想」をも、一視同仁 に〝無限抱擁″して、いったん内に包みこんだあと、その内側でたがいに (せめ)ぎあわせて統御・支配するという凹型の 受身的(パッシブ)な政治装置でありながら、それでいて膨大な情動と 観念のキャパシティを持つものであるというところにあった。このキャパシティとその包摂→相殺 →超立→永続の政治の型こそ天皇制の1000余年の歴史的産物であり、古典マルクス主義の経済的社 会構成体の一般理論では捉えられなかったものであり、政治支配の民族的個性ともいうべき機能で なくしてなんであろうか。天皇制とはすべての民の異質なるものを抱擁して内部で相殺させ、抜牙 し統御するという政治的「混沌」の如きものであったとして捉えなくては、とうてい理解できまい。
266 日本のナショナリズム(19)
天皇制による人民支配の構造(1)
2005年5月8日(日)


 前回の引用文の中で色川さんは、自由民権運動には「当時のアジアの民衆ナショナリズムと同調できる可能 性があった」がその運動を主導していった人たちの「朝鮮観」がその運動の「躓きの石になった」との 見解を述べていた。この「躓きの石」=「朝鮮観」は天皇制による支配の狡猾にして欺瞞に満ちた施策 にとらわれたゆえのものであった。日本のナショナリズムを考えるとき、天皇制による人民支配の構造 を解明することが必須の要件である。今回はその問題に対する色川論文の論述をたどる。

 「第93回」(2004年11月15日)で国家権力の本質について滝村隆一氏の研究を紹介した。 それはおおよそ次のようであった。すなわち、国家権力は形式上は諸階級の上に立つ第三権力という 形態をとり「一般的共通利害」の立場をとるが、その実際の社会的・階級的性格は支配階級の階級 意志=総資本的意志の支配下に置かれている。
 色川さんも同様の国家観から明治国家の分析を始めている。
 もともと「国家」は支配階級の総体的利害を人民の眼に普遍的なものとして映じさせるというイデオロ ギー的役割を本質とする。そこで、社会を構成するすべての個人や諸階級・諸階層にたいして、かれら から独立した高い普遍的な(公)機関、超越した(幻想的)存在としてふるまい、とくに民衆諸個人の 目には国家が一大共同態であるように映ずることにつとめる。この国家の一般的本質からすれば、明治 国家の支配的思想の主要な内容をなしているものは、第一に天皇制の思想(国体観念)であり、第二に 日本ナショナリズムであったといえる。その日本ナショナリズムは、天皇および天皇制思想を核観念と することによって特殊強靭な集中力、国民の結集カをもちえたのである。(その逆の関係も成り立っ ている。)

 ( )内で指摘されている「その逆の関係」とは、「天皇制思想」によって「特殊強靭な」集中力・結 集カとして収奪され国民化された人民自身がさらに人民支配の「核観念」を強固なものにするとい う逆過程を指していると思う。
 色川さんは、天皇制イデオロギーの「成り立ちから機能まで、まだ科学的に十分解きつくすことができ ていない。これを「古代遺制」とよび、「非合理的なもの」「前近代的なもの」と批判しても核心に迫る 解決にはならない。」と指摘している。そして次のような見解を述べている。
 私は天皇制国家のもつキャパシティは、福沢諭吉らの「文明の論理の土俵」以上のものであったと思う。 「王政復古の大号令」というのは単なる虚偽のスローガンでも戦術上の粉飾でもなかったと思う。私は先 に尊攘派のナショナリズムの支柱となった「国体意識」が歴史的・風土的にはどのようにして形成された かを見たが、明治国家が天皇制の国家であったかぎり、その政治的な本質には古代以来の累積された 「法」観念や、民衆の生活思想に照応する民俗的な幻想領域内の諸カや、自然思想などのエスプリが 抽象化されてあったはずである。それらが支配的思想の核心をなしていたはずである。この点、吉本隆明 が近代日本の国家の本質を次のように指摘したことはするどい。「明治憲法の第一条が「大日本帝国 ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とうたったとき、政治的国家としての天皇制は、宗教と法の歴代の 累積する思想的強力をもふくめた綜合性を意味したのである」(「自立の思想的拠点」)。

 吉本さんは最近では天皇制の本質を「生き神様信仰」と規定している。この知見は上の引用文中の『古代以来の 累積された「法」観念や、民衆の生活思想に照応する民俗的な幻想領域内の諸カや、自然思想などのエ スプリが抽象化されてあったはずである。』の部分に照応していると思う。
 別のところで色川さんは次のような明治天皇「御製」の和歌を引用して、底辺民衆の「深い不安と 希求は、わが国の場合、支配の頂点にあるカリスマの中にもっともあざやかに倒映される関係にあ った。明治天皇の最晩年の和歌はその一つの鏡である。底辺民衆がいかにこの頂点に感銘し、 〝大帝″の遺骸を働哭のこえをもって見送ったかが目に浮んでくる。」と述べている。

(しず)がすむ わらやのさまを見て思ふ 雨風あらき時はいかにと(1904年)    l
県守(あがたもり)こころにかけよ しづがやの かまどの(けむり)
たつやたたずや(1905年)
風寒き秋のゆふべにおもふかな 水のあふれし里はいかにと(1907年)
重荷おひてゆく人いかになやむらむ ふぶきになりぬ のべの通ひ路(1911年)
思はざることのおこりて世の中は 心のやすむ時なかりけり(1912年)
とこしへに民安かれといのるなる 我が世を守れ伊勢の大神(「明治天皇御製」)

 人民から搾取した富によって成り立っている支配の高みから逆立した慈悲を垂れる。 いい気なもんだとしか言いようがないが、土着的な生活思想にまみれたままの民衆にとっては まさに「生き神様」の慈悲だったのだ。このような民衆の取り込みを色川さんは「無限抱擁」と 言っている。色川さんはひろたまさきという歴史学者(私には全く未知の人)が提出したという 明治期の「民衆の三層構造」という概念を導入して、狡猾にして欺瞞に満ちた「無限抱擁」の内 実を解明しようとしている。

 まず『「文明」の体系そのものに自分たちの世界とは全く異質で敵対的な世界の出現をみたもの』 たちを「底辺民衆」=「中農、貧農、半プロレタリア」と規定し、文明派である「豪農層」と するどく区別する。さらにこの「底辺民衆」の下部に、最底辺の民衆存在としての「奈落」と「辺 境」の被差別民の据え、「底辺民衆」をも相対化する。
(ひろたは)この「底辺民衆」をも揚げ底にしている被差別部落民、「賎民」など「奈落の民」や、 アイヌ・琉球・朝鮮などの「辺境の民」の価値意識を「最底辺の民衆」の視角として思想史に導入し、 民衆の三層構造の相互関連をトータルに考察しようとした。なぜ、そうした最底辺の民衆存在が権力 の人民支配にとって必要であったかは、これまでもすでに何人もの人によって説かれている。封建的 な恩頼の世界の枠内で、平和と生存を保障されていた村落共同体を、安定した清浄な共同体のまま で維持する(底辺民衆をその共同幻想の中にとじこめておく)ためには、異端や汚穢や、兇賊や夷 狄などの他者性を排除する必要があり、その排除の媒体もしくは緩衝体として、「奈落」と「辺境」 の民が必要とされ、組みこまれていたからだという。
265 日本のナショナリズム(18)
自由民権運動
2005年5月7日(土)


 じっさいに生きて動いている歴史においでは、その総体的な認識と個別的認識とはつねにうまく整合しな いものだから個別的認識の真実を総体的な認識の筋書きの中にむりやり整合させるべきではない。しかし 歴史の個別認識においては総体的な規定からいちじるしくはみだすものがあるが、その個別性は無意味 なのではなく、歴史の未発の可能性を示すものとして重視されなくてはならない。色川さんが述べている 歴史家としての学問上の方法論である。この方法論上の認識を色川さんは近代日本のナショナリズムに ついての歴史的認識に適用している。丸山真男の「日本の旧ナショナリズムの最もめざましい役割は……、 一切の社会的対立を隠蔽もしくは抑圧し、大衆の自主的組織の成長をおしとどめ、その不満を一定の国 内国外の贖罪羊(スケープゴーツ)に対する憎悪に転換することにあっ た。」(これはいつの時代でも国家権力が使う常套手段だ。昨今の中国での反日運動や北朝鮮の拉致問題の 扱われ方をあげるまでもないだろう。)という丸山真男の言説を受けて、色川さんは近代日本のナショナリズムに ついての「総体的認識」を次のように述べている。
 近代日本のナショナリズムが総体としては日本人民の解放をさまたげ、アジアの諸民族や人民の解放 をさまたげ、終局的に「日本帝国の発展の方向を正当化するという意味をもって展開して行った」点で、 歴史的な反動の役割を果したことは、今ではほとんどの人が承認している。

 しかし日本のナショナリズム史において下からのナショナリズム運動として、明治の自由民権運動と 昭和の社会ファシズム運動についての個別的認識が内包していたものは、その運動が挫折したとはいえ 本質的に重要な意味をもつ、として次のように論述している。
 ナショナリズムというこの野性的な絶大なエネルギーをもったものを、いかに正しく社会革命に導く かをめぐって、多くの人が期待をかけ、試行錯誤し、失敗した。西郷隆盛、大井憲太郎、中江兆民、 東山満、内田良平、北一輝らはそうであろう。そのエネルギーは結果としては国家支配層によって反 革命の方向に利用されてしまったが、これに注目しなかった革命家や運動体はほとんどこの国では 現実の変革勢力にはなりえなかった。尊皇攘夷論も倒幕の強烈なエネルギーをひきだす役割を果した。 そして、深沢名生(多摩郡深沢村の山林地主で、黒船についてのスケッチと記述を残している。…仁平註) の黒船ナショナリズムも〝草の根″におどろくべき創造力を賦活させた。やがて五日市憲法草案を生み 出したのもかれの村でのかれの支援によるものであった。そして、なによりも1880(明治13)年前後に 全国30余府県に湧き起ったいわゆる「豪農民権」の昂場は、次のような鮮烈な同 胞兄弟主義に立つ民主革命を志向したナショナリズムをエネルギー源としていたのである。 ここではナショナリズムは、〝社会的対立を暴露もしくは解放し、大衆の自主的組織の成長を推し進め、その不満を国内国外の 抑圧に対するたたかいに転換した″と言いかえ得る。

 「鮮烈な同胞兄弟主義に立つ民主革命を志向したナショナリズム」を表徴するものとして色川さんは 檄文を掲載している。
 同胞兄弟に告ぐ。鳴呼我同胞三千五百有余万の兄弟よ。仰いで芙蓉峯の高きを望み、俯て琵琶湖の深き を()よ。豈に美なる山川に非ずや、豈に愛すべきの邦土に非ずや。此の 美なる山川(さんせん)に、此の愛すべき邦土に、居住棲息する我々同胞三 千五百有余万の兄弟よ、今日は是なにらの時ぞや、貴ぶべきの民権すでに 伸暢(しんちょう)するか、重ずべきの国権すでに拡張するか。
(中略)
 鳴呼我同胞三千五百有余万の兄弟よ。兄弟はすでに我輩と感を同ふし、情を同ふせば、なんぞ進で国 会の開設を懇望せざる、なんぞ奮って民権の伸暢を欣慕せざる、なんぞ誓って国権の拡張を企謀せ ざる。
 鳴呼、仰いで芙蓉峯の高きを望み、俯て琵琶湖の深きを瞰よ、この美なる山河の風光、この愛すべき 富饒の邦土、なんぞ美とせざるや、なんぞ愛せざるや、起てよ愛国の精神、奮へよ独立の気象、かくの 如きの邦土山川、(いな)がら人に付するか。
   明治十二年十二月二十九日   岡山県両備作三国有志人民

 この檄文は、手から手へ口から口へと伝えられ、自由民権の「在村的潮流」のなだれ現象をよび起し、 この美文は「この時分の人で暗誦しないものはなかった」といわれている。
この運動が国権の恢復(欧米列強に対する不平等条約の撤廃要求)と民権の伸張(国内の民主革命の 要求)とをかたく結びつけた近代ブルジョア民主主義的なナショナリズムの性格をもつものであるこ とは明らかであろう。つまり、基本的には反封建・反帝国主義の性質を保有していたという意味で (支配層による「日朝修好条規」のような押しつけがあったとはいえ)、当時のアジアの民衆ナショナ リズムと同調できる可能性をもつものであった。事実、「大東合邦論」や「日清提携諭」が民権派の内 部で真剣に討論されもしたのである。(ただ、その蹟きの石になったのは、かれらの朝鮮観であった ので、そのことは後述する。)

 吉本さんが言う「国権意識と民権意識とのわかちがたい混合」が明治のナショナリズムの 当初からの特質であった。
 色川さんは自由民権運動の歴史的な意義を次のように論述してこの稿を締めくくっている。
 私は自由民権運動を豪農層の階層的利害に限って考える態度に反対である。服部之総から 下山三郎、後藤靖にいたる在村的潮流の研究の成果を継承して、自由民権運動を国民的な課題 をかかげ、広汎な人民の支持を期待した「国民的な運動」であったと評価している。広汎な人民 の支持を期待できたというのは当時まだ資本主義や寄生地主制などが確立せず、豪農層と中・貧農 など底辺民衆との間の矛盾は敵対的なものではなく、全農民と国家(支配者集団)が新たな課題 たる地租や参政権や国家像をめぐって真向から対立できた最後の一時期であったと考えるからで ある。「同胞兄弟に告ぐ。鳴呼我同胞三千五百有余万の兄弟よ」とくりかえし高らかに朗らかに 全人民によびかけ得たのも、この運動がそうした楽天的な共同幻想の上に立っていたからであり、 その期待が崩れるにしたがってこの運動もまた内部から崩壊した。借金党、困民党の反抗は、その 前触れであり、またそれを促進するカをもったのである。

 この日本人民の解放の可能性をはらんでいた民衆の大きなうねりは、しかし明治政府の打ち出す 経済政策にからめとられていき、挫折する。
 豪農と底辺民衆との間の矛盾は、松方財政下においてふたたび幕末の世直し一揆のときのような 敵対的なものに変化し、権力の弾圧も加重されて「国民的な運動」は退潮していった。もしもこの とき、「太平天国」の乱の場合のように豪農的指導層をのりこえる底辺民衆の成長(かれらによる 民権運動の立て直し、秩父の困民党はそれに成功しかけたものである)が見られていたら、日本の 民衆ナショナリズムも民主主義運動も違ったものになっていたであろう。
 だが、わが国の底辺民衆の思想的成長は一般的には弱く、政治的結集は期待できなかった。民権 運動は挫折し、せっかく成立した近代ナショナリズムは担い手を失って分解する。大井憲太郎ら自由 党左派のグループが焦燥感に駆られて、「朝鮮革命義挙」の陰謀(大阪事件)を企てたのも、このナ ショナリズムの野性的なエネルギーを「国内改革」の方向にふりむけ、利用しょうとしたためであった。 しかし、いかに大井や磯山清兵衛らが奮闘しょうと、志士のカでは民衆の思想的成長に代ることはで きなかったのである。
264 日本のナショナリズム(17)
幕末から維新へ
2005年5月6日(金)


 吉本論文は明治期の知識人ナショナリズムを「国権意識と民権意識」という観点から分析しているが、 この観点からのみの論述なので多くのものが欠落している。知識人のナショナリズムに関しては、歴史家 の視点で多角的に論述している色川論文から多く学ぶことができる。色川論文を読んでいくことにする。
 明治期の知識人ナショナリズムを論じている部分に入る前に、その前提として、幕末から維新にかけての 知識人たちの思想形成と、明治政府の支配イデオロギーの核となった近代天皇制イデオロギーの形成 過程の分析を読むことにする。

 「一木一草にいたるまで天皇制がしみ込んでいる」と言ったのは竹内好だったか。「一木一草にいたる まで天皇制」に取り込まれてきたのは何故か。それを対象化し明らかにしていくことが天皇制を 無化するための第一歩となろう。
 色川さんはまずその不可視的な要因として、モンスーン・アジアの温暖な気候と四面環海の島という 地理的風土的条件によって有史以前から培われてきたこの島の民の自然思想・生活思想の特質をあげている。
 この島では階級間の争いはあれ、生命の連続が根こそぎ断ち切られるということはない。 (種族みな殺しになるような異民族の侵入は、13世紀のモンゴルの来襲の例外をのぞいて、ただの 一回もない。)〝時″は命の勢いそのままに永遠につづくものであって、この島の民はついに絶対 否定の外的契機を知らない。産霊(むすび)の神はたえず生産をくりか えし、人びとはそれを 産土(うぷすな)(やしろ)にまつり、共 同体をつくって祖霊とともに永劫にこの大地で栄えようとねがった。来世も死も彼岸の外来観念も 人びとを虚無的にはしなかった。命は永遠で、永遠はこの今にあると思惟されてきた。その「歴史的 オプティミズム」ともいえる信念は固有信仰となって、2000余年、いくたの世界宗教と習合しながら もヤドカリのように一貫して生きつづけ、日本人の自然思想や生活思想の根を培ってきた。 吉本隆明のいう土着的な大衆「ナショナリズム」の原基も、歴史を遡ればじっにここにまで到るので ある。

  この地理的・風土的条件の中から生れた日本人特有の自然思想が、長いくりかえしのうちに習俗や 慣行に深くしみこみ、日本人の基本的な思惟様式(思惟の際のフィルターの役割)を成すにいたった、 と言う。そしてさらに可視的な要因を次のように記述している。
 記紀万葉いらい南北朝の悲歌や幕末の尊皇志士の詩歌にいたるまでの1000年余にわたる文芸の伝統が ある。国学、心学、水戸学、神道、民衆宗教などの著作や能・謡曲など芸能的表現によって強調され、 伝承されてきた国体意識が重なり合って作用している。それらが重層的にたくわえられ、文化意識とし て上層から中層、下層へとしだいに深く浸潤していったところにその観念の根底がつくられたものと 思われる。

 天皇制イデオロギーを問題にするとき、常に上述のような「伝統的材料と思惟のフィルター」を考慮 する必要がある。
 さて、明治政府による近代天皇制イデオロギーの形成の根幹には江戸時代知識人のナショナリズム が先行する。江戸時代の中ごろに国学や神道系儒学などによって皇室の価値が浮上しはじめるにつれ、 国難を憂えるナショナリストたちは天皇を思想の核として復活させた。日本を世界の中心と見、 天皇を日本の転回軸と考えた。幕末期の国学たちの言説に次のようは主張がみられる。

 「皇国は万国の祖国」(平田篤胤)
 「天皇は宇内の総帝」(鈴木重胤)
 「日本は万の国の君国なり、今こそあれ、後世には万国の王どもみな日本を君国と讃へ、天皇を万国 の天皇と仰ぎ、これにまつろひ帰るべき国になんある」(大国隆正)

   こうした幕末期の知識人の観念について色川さんは次のように述べている。
 こうした観念を幼稚愚昧な妄想、井の中の蛙の排外的ナショナリズムと頭から否定することは正しく ない。ここには有史以来の未曾有の民族的危機に直面した幕末知識人の緊迫した精神が表現されており、 当時の中国や朝鮮の知識人に見られる華夷的世界観と共通している。日・中・朝東アジア世界が本来は 提携して当らなければならないはずの外夷の侵寇にたいして、中・朝両国が未開のまま立遅れ、ひとり 日本のみが列強に対峙して孤軍奮闘しなければならぬという孤立感の反映でもある。こうした世界史的 な位相における早急で激越な知識人のナショナリズムは倒幕運動の過程においては強烈な変革のエネル ギーとして作用した。だが、維新政権の成立後にはこうした過激思想は支配層にとって邪魔になる。 大久保・木戸らの参議政府は1871(明治4)年に早くもかれらを権力内部からしりぞけ、神道 家たちを失脚させた。

 この維新期の知識人ナショナリズムの命運に関連して、支配層からも大衆からも疎外されていく 知識人のナショナリズムの一例を示すものとして、色川さんは『「お上」の冷淡を怒って狂死して ゆく「夜明け前」の青山半歳の悲劇」をあげている。
 「早急で激越な知識人のナショナリズム」を排除した上で、明治政府は国民統合のためのイデオロギー 装置を形成していった。
 既存の伝統的材料と思惟のフィルターを活用して、日本の国家統合を実現するために、 これに新しい価値を付加し、権力の要求に見合うように造形したのが、明治の「国体」論、天皇 制イデオロギーにほかならない。このとき支配者はすでに志士たちの純情なナショナリズムから 冷却しており、あくまでもそれを「国民統合」の手段として醒めた目で把握し直していた。 尊攘・倒幕派の志士だった木戸孝允や大久保利通らが支配者の座に上ったとき、かれらの知識人 的なナショナリズムはたちまち虚偽意識化され、新国家の支配思想づくりの素材として見かえされ るようになった。いわんや大衆のナショナリズム的感情などは、政策次元の操作対象としてしか 意識されなかったのである。

 「知識人的なナショナリズム」の「虚偽意識化」とともに、「大衆のナショナリズム的感情」は、 「政策次元の操作対象として」かなり意識的に支配者のナショナリズムに繰り込まれていったと思う。 支配者の「ナショナリズム」は大衆「ナショナリズム」の逆立ちした鏡である。
263 日本のナショナリズム(16)
知識人のナショナリズム吉本論文から
2005年5月5日(木)


 今回から「知識人のナショナリズム」をテーマとする。まず吉本論文を読む。

 「第136回」(2004年12月28日)でも引用した吉本論文の一節を再度引用する。
 大衆の現実上の体験思想から、ふたたび生活体験へとくりかえされて、消えてゆく無意識的な 「ナショナリズム」は、もっともよくその鏡を支配者の思想と支配の様式のなかに見出される。 歴史のどのような時代でも、支配者が支配する方法と様式は、大衆の即自体験と体験思想を逆さ にもって、大衆を抑圧する強力とすることである。
 このような問題意識にたいして知識人とは、大衆の共同性から上昇的に疎外された大衆であり、 おなじように支配者から下降的に疎外された大衆であるものとして機能する。わたしたちは、日本の 「ナショナリズム」を、この大衆「ナショナリズム」と、そこから上昇的に疎外された知識人の「ナ ショナリズム」と、大衆「ナショナリズム」の逆立ちした鏡としての支配者の「ナショナリズム」に 区別した位相で、つねに史的な考察の対象としなければならないのである。

 大衆と支配者の双方から阻害された存在である知識人のナショナリズムが、明治期から昭和期へと どのような変遷をたどってきたのかをたどる。

 これまで大衆ナショナリズムの変遷過程をたどってきたが、それは大衆ナショナリズムの心情的 な核あるいは主題の喪失過程だった。これは知識人ナショナリズムの次のような過程と対応していると、 吉本さんは述べている。
 知識人にとって、国権意識と民権意識とのわかちがたい混合から、それらが、すべて資本制生産力 「ナショナリズム」(社会ファシズム)へと合流し、この空隙によって充たされないものが、「叛臣」 的な「ナショナリズム」意識から、移植デモクラシーをへて移植マルクス主義へと分離し、これがふた たび昭和10年代に、生産力「ナショナリズム」(社会ファシズム)をへて、知識人の「ナショナリズ ム」のウルトラ化と合流する過程と対応している。

 そして明治初期の知識人のナショナリズムの「国権意識と民権意識とのわかちがたい混合」 の例として、1886(明治19)年に発表された徳富猪一郎(蘇峰)の「将来之日本」を引用 して次のように述べている。
 「吾人はわが皇室の尊栄と安寧とを保ちたまわんことを欲し、わが国家の隆盛ならんことを欲し、 わが政府の鞏保ならんことを欲するものなり。これを欲するの至情に至りては、あえて天下人士の 後にあらざることを信ず。しかれども国民なるものは実に茅屋の中に住する者に存し、もしこの国 民にして安寧と自由と幸福とを得ざる時においては国家は一日も存在するあたわざるを信ずるなり。 しかしてわが茅屋の中に住する人民をしてこの恩沢に浴せしむるは実にわが社会をして生産的の社会 たらしめ、その必然の結果たる平民的の社会たらしむるにあることを信ずるなり。すなわちわが邦 をして平和主義を採り、もって商業国たらしめ平民国たらしむるは実にわが国家の生活を保ち、皇室 の尊栄も、国家の威勢も、政府の鞏固も、もって遥々たる将来に継持するのもっともよき手段にして 国家将来の大経綸なる者は、ただこの一手段を実践するにあるを信するなり。」

 大衆的な「ナショナリズム」にとって、あるいは支配層の国権意識にとって、これがどんな虫のいい、 めでたし、めでたし主義にみえようとも、明治初期の知識人にとって、矛盾や分裂があらわれないとい う意味で、おそらく多数を象徴する進歩思想であった。「将来之日本」は、知識人によって迎えられ、 当時のペスト・セラーのひとつであった。
 大衆の「ナショナリズム」にとっては、「生産的の社会」や「平民的の社会」は、まだみずからの 対立物として自覚せられないままの所有物であった。支配層の国権意識にとっては、「生産的の社会」 (資本主義)のためにのみ、国権意識の拡張が必要とされたのであり、蘇峰のいうような折衷と調合は、 嗤うべき夢物語にすぎなかったことは疑いをいれぬ。
 「生産的の社会」を支配する明治の産業資本や、「皇室」を明治革命の政治的標識として統合しよう とする政治的支配にとっては、蘇峰が民友社をおこし、「平民的の社会」を鼓吹しても、組しやすいも のと見えたにちがいない。現在の「反体制」運動が、資本制にとって組し易いとみられているのとおな じように。
 しかし、ここで蘇峰が「皇室の尊栄」というふうにつかっている「皇室」は、現在かんがえられてい る天皇制とはまったく異質のもので、むしろ明治革命の一般的表象の意味であることに注意しなければ ならぬ。また、ここで、「わが政府の鞏保ならんことを欲するものなり。」というようにつかわれてい る「わが政府」は、ブルジョワ革命政府そのものをさしていることも、いうまでもないことである。こ こに明治革命の当時の知識人による原イメージが存在している。

 吉本さんは、この知識人の原イメージは明治の後期にはいると完全に分裂し、蘇峰のいう折衷論の 系譜は知識人ナショナリズムとして一種の自覚された国権と民権との綜合のイメージとしてあらわれ ている、と言い、そこに社会ファシズム論の新芽が存在することを認めている。
 その最も先鋭な例として、進歩派知識人の思想を代表する陸羯南をあげ、1997(明治30)年の陸 羯南著「国家的社会主義」から引用し、次のように述べている。
「国家的社会主義は『国家をして社会経済の弊を匡救せしむ』というにあり。国家の本分はただ中外 の治安を保つにあるのみ、社会経済はよろしくこれを個人に放任すべしという者、これいわゆる自由 論派なり。国家的社会主義はまさしくこれと相反す。藩閥政事家らはこの主義より干渉的部分を ()き取りてもって国家主義と名づけ、その自由論派と対戦するの武器 となすや久し。すなわち社会経済に干渉するの一点を見れば、彼らのいわゆる国家主義てふものは国 家社会主義に類すといえども、干渉其事の目的は全く相反す。藩閥党の『国家主義』は軍人官吏貴族 富豪の利益を保護するために干渉を旨とするも、わが輩がここに叙するところの『国家的社会主義』 は、これに反して弱肉強食の状態を匡済するにあり。云々。」

 羯南によって象徴される知識人の進歩的「ナショナリズム」は、すでに社会ファシズム論の形を明確 にもった。いいかえれば、蘇峰では抱合せであったものが、ここで大衆の「ナショナリズム」とち がった、知識人の「ナショナリズム」思想としてはっきりと分離せられたということができる。この意 識は、人権思想と国権思想の分離的統一ともいうべき形で自覚された。この時期の大衆の「ナショナリ ズム」が、無自覚なままではあるが、その裏面に付着しているという形でもっていた現実社会のリアリ ズムとのちがいは、羯南のばあいはっきりとあらわれている。社会ファシズム論は羯南から昭和の中野 正剛にいたるまで支配層のイデオロギーとなりえたことはない。社会ファシズム論は、あくまでも知 識人「ナショナリズム」の形で終始せざるを得なかったのである。

 明治期の知識人ナショナリズムの特徴を、吉本さんは「人権思想と国権思想の分離的統一」と とらえている。そして、その思想は昭和期の社会ファシズム論へと継承されていくが、「支配層 のイデオロギーとなりえたことはない」。
 それに対して、大衆の「ナショナリズム」の逆立ちした形の農本ファシズムは「支配層のイデオ ロギーになりえた。」と言っている。その理由については次のように述べている。
 日本の社会ファシズムが支配イデオロギーとなりえずして、天皇制イデオロギーに支配の形をゆ ずらざるをえなかったとすれば、それらが近代日本の資本制の成立過程を肯定しつつ、「天皇制」 的(農本的)国家機関をもって「社会経済の弊を匡救せしむ」ことを目ざした矛盾によっている。 天皇制イデオロギーは支配層によって、もっぱら大衆の「ナショナリズム」の心情の一面を逆立ち した形で吸い上げながら、一面で「社会経済」的には、大衆「ナショナリズム」の社会的な基盤 (農村)を資本制によって現実的につき崩すという両面を行使したのである。大衆の「ナショナリ ズム」は、ここでは、天皇制イデオロギーに自己のイデオロギーが鏡にうつされるような幻想を あたえられた陥穽であった。さればこそ、農本主義的ファシズムは、北一輝にその象徴を見出され るように、資本制を排除して天皇制を生かす、というところにゆかざるを得なかったのである。

 この後の論述を要約する。
 「政治革命としてみるかぎり、明治以後の日本革命をもっとも実現の近くにまで導いた のは、北一輝に象徴される農本主義的ファシズムである」が、しかし農本ファシズムの革命も実現 不可能な構想でしかなかった。なぜなら「北一輝などの政治革命は、絶対に社会革命を包括するこ とができない先験性をもっていた。社会革命は、 資本制を否定的媒体として肯定する(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ) という思想なしには不可能であり、」資本制を排除した北らの思想は、この一点において、「はじめ から社会革命として実現不可能な政治革命の構想にすぎなかった。」
262 日本のナショナリズム(15)
昭和期の大衆のナショナリズム
2005年5月4日(水)


 明治期から大正期にかけて大衆ナショナリズムはその主題を政治→社会→過去への郷愁(明治典型期の 農村、家庭、人間の関係の別離、幼児記憶など)と変遷していったが、昭和期にはいって、そのナショナ ルな心情は、さらに農村、家、人間関係の別離、幼児記憶などに象徴される主題の核そのものにも、 心情としての実感性をうしないそれを「概念化」せざるをえなくなってくる。吉本さんは、その表徴と して次のような唱歌をとりあげて、昭和期における大衆の「ナショナリズム」の特徴を解説している。
  こうした昭和期における大衆の「ナショナリズム」の根源的喪失と「概念化」は、たとえば、 つぎのように象徴される。

 おみやげ三つに 凧三つ
 おみやげ三つは 誰にやる
 さよならいう子に 分けてやる
 背なかをたたいて ポンポンポン
 おみやげ三つに 凧三つ
 凧は凧でも いたい凧
 背なかにしょわせる いたい凧
 そらそらあげるよ ポンポンポン
   (「おみやげ三つ」西条八十)1931(昭和6)年

    *
 かきねの かきねの
 まがりかど
 たきびだ たきびだ
 おちばたき
 「あたろうか」
 「あたろうよ」
 きたかぜ ぴいぷう
 ふいている
   (「たきび」巽聖歌)1941(昭和16)年

    *
 てんてん手鞠 てん手鞠
 てんてん手鞠の 手がそれて
 どこから どこまで とんでった
 垣根をこえて 屋根こえて
 おもての通りへとんでった とんでった
  (「鞠と殿さま」西条八十)1929(昭和4)年

      *
 あの子はたあれ たれでしょね
 なんなんなつめの 花の下
 お人形さんとあそんでる
 かわいい美代ちゃんじゃ ないでしょか
  (「あの子はたあれ」細川雄太郎)1939(昭和14)年

  これらは、いずれも、優れた歌曲として流布されているものである。しかし、ここに表現された 日本の大衆の情緒的な基礎には、すでにどのような裏目をかんがえることもできない。また、どのよ うな実感の存在もかんがえることができない。たんなる「概念的」に把握された心情の表現にすぎな くなっている。ここに象徴される大衆の「ナショナリズム」は、すでにそれ自体が、みずからを喪失 し、表現としての情緒的迫力を失っている。この意味では、歌曲に表現されたものに対応する現実的 基盤が、大衆の「ナショナリズム」からうしなわれていることを、これらの正直な歌曲作家たちは表 現したといえる。

 こうした大衆ナショナリズムの情況が指し示している思想的意味を、吉本さんは次のようにまとめている。
一、
 政治思想としての「ナショナリズム」は、それ自体としては、大衆のナショナルな核を包括するもの となり得なくなったこと(ウルトラ=ナショナリズム化する契機をもったこと)。

二、
 農村の資本化に対応するような生産力ナショナリズム(社会ファシズム)が、左右両翼の知識人から 生れる基盤が生じたこと。しかし、それは大衆「ナショナリズム」の心情を疎外しそれと対立している ため、あくまでも知識人の思想であって、支配思想とはなりえなかったこと。

 これらが、昭和期にはいって移植マルクス主義(スターリン主義)運動と、知識人「ナショナリズム」 運動が、社会ファシズム運動へ、また大衆の「ナショナリズム」が、支配層のウルトラ=ナショナリズ ム(農本主義・天皇主義)に吸引された思想的な理由であった。

 知識層の「ナショナリズム」思想によって、直接に大衆の「ナショナリズム」が表象されるのではなく、 逆に大衆の「ナショナリズム」が「実感」性をうしなってひとつの「概念的な一般性」にまで抽象され たという現実的な基盤によって、はじめて知識人による「ナショナリズム」は、ウルトラ=ナショナリ ズムとして結晶化する契機をつかんだのだ、と言っている。
 そして吉本さんはさらに大衆のナショナリズムと知識層のナショナリズムと支配層のナショナリズム の相克とその時代の動きを次のように記述している。
 大衆の「ナショナリズム」が心情としての実感性をうしなったということは、すでに村の風景、家庭、 人間関係の別れ、涙などによって象徴されるものが、資本によって徐々に圧迫され、失われてゆく萌芽 を意味している。このような意味での資本制化による農村の窮乏化と圧迫と、都市における大衆 の生活の不安定とは、知識層によって、ウルトラ=ナショナリズムとして思想化され、それは満州事変 いらいの戦争への突入と一連の右翼による直接行動の事件の思想的な支柱を形成したのである。
(中略)
 大衆の「ナショナリズム」の心情的な基盤の喪失こそは、知識層が、「ナショナリズム」を思想と してウルトラ化するために必要な基盤であった。支配層は、これに対し、経済社会的には大衆の「ナ ショナリズム」の最後の拠点である農村、家族にたいする資本制的な圧迫と加工を加え、政治的に は、大衆の「ナショナリズム」の「概念化」を逆立ちさせたウルトラ=ナショナリズム(天皇制主義) によってこれに吸引力を行使したのである。この支配層の二面の方法は、さまざまな錯綜と混乱を生ん だ。どのような政治・思想勢力も、これに対応する方法をうみだすことができなかったほどである。

 かくして大日本帝国は、支配層の思わく通りに大東亜戦争へと突き進む思想的道すじを獲得して いったのだった。
261 日本のナショナリズム(14)
大正期の大衆のナショナリズム
2005年5月3日(火)


 吉本論文に戻る。
 吉本さんはこの論文の方法論 ― 歌曲の表現をかりて、大衆「ナショナリズム」の原像とその変遷 の基本的な間題をかんがえる ― について改めて言及している。まずその確認をしておこう。
 これは、単に、これらの歌曲が、その時代に応じて、広く大衆に流布されたものだから、という理由 によるのではない。これらの歌曲の作家たちが、あたうかぎりそのときどきの大衆の支配秩序に向う感 性に追従しているため、ある種の近似的な類推が可能となるという理由によっている。すくなくとも、 これらの歌曲は、その時代の知識人からは軽蔑されながら口ずさまれ、支配コマ-シャリズムからは、 広く流布される性格を見ぬかれて迎えられ、じじつ広い大衆が受け入れてきたものである。

 さて、明治期のナショナリズムのその後の変遷を、吉本論文で、たどることにする。
 大正期における大衆の「ナショナリズム」は、あきらかに、政治性としての「御国の為」意識と、 社会性としての「身を立て名を挙げ意識の主題を失った。おそらくこのことは、支配層において、 国権意識によって大衆を統合しうるという意織と、腕一本で支配層にもなりうるものであるとい う資本制意識によって、大衆を統合しうるということが、潜在的には、信じられなくなったことの 象徴であり、おなじように、大衆にとってそれが信じられなくなったということを象徴している。 このようにして、眼に見えるような形で、政治あるいは社会的な主題が喪失したことは、 大正期の大衆「ナショナリズム」の表現の特徴である。

 その主題を喪失した大正期の大衆のナショナリズムの表層をよく表している愛唱歌として次のような 歌をあげている。
「雨」(北原白秋)      1916(大正5)年
「かなりや」(西条八十)   1918(大正7)年
「浜千鳥」(鹿島鳴秋)    1919(大正8)年
「背くらペ」(海野厚)    1919(大正8)年
「靴が鳴る」(清水かつら)  1919(大正8)年
「叱られて」(清水かつら)  1920(大正9)年
「てるてる坊主」(浅原鏡村) 1921(大正10)年
「七つの子」(野口雨情)   1921(大正10)年
「赤蜻蛉」(三木露風)    1921(大正10)年
「夕焼小焼」(中村雨紅)   1923(大正12)年
「花嫁人形」(蕗谷虹児)   1923(大正12)年
「あの町この町」(野口雨情) 1925(大正14)年

 どれも今なお愛唱されている歌曲だ。吉本さんは、代表として次の歌詞をあげている。傍線は 吉本さんが付したものである。

唄を忘れた金糸雀(カナリヤ)は 後の山に棄てましょか
いえ いえ それはなりませぬ
唄を忘れた金糸雀は 背戸の小薮に()けましょか
いえ いえ それはなりませぬ
唄を忘れた金糸雀は、柳の鞭でぶちましょか
いえ いえ それはかわいそう  (「かなりや」)
  *
雨がふります 雨がふる
遊びにゆきたし傘はなし
紅緒の木履(かっこ)緒が切れた
雨がふります 雨がふる
いやでもお家で遊びましょう
千代耗折りましょう たたみましょう (「雨」)
  *
夕焼小暁の
あかとんぼ
負われて見たのは
いつの日か

山の畑の
桑の実を
小籠に摘んだは
まぼろしか

十五で姐やは
嫁に行き
お里のたよりも
絶えはてた  (「赤蜻蛉」)
  *
きんらんどんすの帯しめながら
花嫁御寮はなぜ泣くのだろ
文金島田に髪結いながら
花嫁御寮はなぜ泣くのだろ   (「花嫁人形」)
  *
あの町 この町
日が暮れる 日が暮れる
今きたこの道
かえりゃんせ かえりゃんせ


お家がだんだん
遠くなる 遠くなる
今きたこの道
かえりゃんせ かえりゃんせ (「あの町この町」)

 吉本さんは『これら歌曲はそれぞれ優れた部類に属している』と評価してその理由として、『大 衆の「ナショナリズム」の時代的な核を、ある的確な側面から抽出することに成功している』を あげている。その詳論を読んでみる。
 「切れる」、「棄てる」、「忘れる」、「絶えはてる」、「泣く」、「かえる」というような動き の表現は、大衆の「ナショナリズム」の心情の側面を的確に象徴している。これら大正期の大衆歌曲 の伝える、凝縮と退化の感覚は、社会的主題をうしなったのちの心情の下降に対応している。政治・社 会といった主題がどこにもないが、ここに大正期の大衆の心情の「ナショナリズム」がよく表現されて いる。これらの表現を大衆のル・サンチマンとしてよむのは古典的なモダニズムの愚物だけであって、 むしろこれらは、それなりに成熟期にはいった日本の資本制社会の物的な関係のすさまじさ、高度化と 停滞の逆立ちした表現にあたっている。これらの大衆的ル・サンチマンの背後には、物欲主義の臭 気がただよっているし、その物的な怖れが表現されている、というふうによまないかぎり、文学を社会 の動向に結びつける道はありえないのである。この大正期の大衆的「ナショナリズム」の表現にいたって、 ついに「御国の為」や「身を立て、名を挙げ」という当為は、まったく主題性を喪失するにいたった。 わたしは、それを、知識人のデモクラシー思想の普及や移植マルクス主義の影響であるという解釈をと らない。デモクラシーや移植マルクス主義は、かつて大衆「ナショナリズム」の核をとらえたことはな いのである。これらは、まさに支配層によってとらえられた現実の、鏡にうつされた姿にほかならなか ったのである。
 大衆の「ナショナリズム」は、その統一的な主題を喪失するやいなや、これらの歌曲が表現している ように、すでに現実には一部しか残っていないが、完全にうしなわれてしまった過去の(いわば明治典 型期の)、農村、家庭、人間の関係の分離などの情景を、大正期の感性でとらえるというところに移行 した。そして、これは幼時体験の一こまと結びつかざるなえなかった。これらの作者たちは、知識人と しては、北原白秋・西条八十のようにモダニストであり、野口雨情・蕗谷虹児のようにアナキストであ った。しかし、かれらによって一面を抽出された大衆の「ナショナリズム」は、ひとつの現実喪失、 または現実乖離というような形で、はるかに間接的に大正期社会そのものの物的関係とつながっていた のである。
260 日本のナショナリズム(13)
洋楽の土着化(3)3/4拍子とはなにか
2005年5月2日(月)


 明治・大正期の唱歌のなかで、代表的な作品とみなされる3/4拍子の曲には、ひとつの共通した 発想形式がみられる。前章でもふれたが、ひとまずそれを等拍三音の発想型とよんでおこう。  〈間のび=おもいいれ〉の型とならんで、もうひとつの系をなすものであって、《青葉の笛》 《冬景色》《故郷》などをあげることができる。
 2/4拍子のばあいには、長短長短……の反復によって、七五調のことば(ヽヽヽ) を音楽のリズムのもつ強弱アクセントに適合させるという定式がみいだされた。他方、3/4拍子の曲を 創作するばあいには、逆に曲(音楽)そのものからあたうかぎり強弱アクセントを排除しうるような、 独特の手法を小学唱歌の作者たちはあみだしている。いや、その功績は田村虎蔵という作曲家ひとりに 帰せられるものかもしれない。くわしく調べる手数をはぶいてものを言う怠慢をひとまずゆるしてい ただきたいが、堀内・井上編《日本唱歌集》を、順をおってみてゆくだけでも、田村の存在はき わだっている。《青葉の笛》を例にとってみよう―

 「第252回」(4月24日)で「青葉の笛」の楽譜を掲載したが、ここに再度掲載する。
青葉の笛

  一の谷の 軍破れ
  討たれし平家の 公達あわれ
  暁寒き 須磨の嵐に
  聞えしはこれか 青葉の笛
 いちの、たにの、いくさ、やぶれ……の音節構成にみられるごとく、作詩者(大和田建樹)と 作曲者(田村虎蔵)とのあいだには、おそらくひとつの前提的な了解があった。それは邦訳讃美 歌から継承したものとかんがえてよいだろう。創作曲のばあいには、旋律がさらにもうひとつの 要因をなす。土着の旋法にちかづけばちかづくほど、3/4拍子のリズムはきわどい均衡のうえにた たざるをえなくなる。したがって《青葉の笛》から《故郷》にいたる経過を対象とするかぎり、 そこにこめられた意味はしだいに稀薄になってゆく ― 明治ナショナリズムの自己喪失がゆきつ くところ、空白感じたいが仮象(ヽヽ)を形成するにいたる。 《故郷》はその末期的な下限をしめしている。

 つまり「故郷」の詞が描き出す「ふるさと」は既になく「そこにこめられた意味は」稀薄になったが 、その「空白感」じたいが形成する「仮象」が歌う者の心情を満たしている。その根拠は「土着の旋法」 に限りなく近づいた「3/4拍子のリズム」にある。

 三拍子についてもう一つの分析がある。3/4拍子でしかも機械的に強弱々のリズムを強いるとどうなる かという例。前回、「詩と曲との乖離」が「おのずとかえうた(ヽヽヽヽ)を うみだ」すという指摘があったが、それとも関連する、私にとっては懐かしくも楽しい例が挙げられて いる。
 《港》(空も港も夜ははれて)という唱歌を、小学校の何年生のときにおしえられたかはわすれた が(三年生の歌か)、学校でならうよりはやく、わたしたち腕白小僧は、ドレミミソラソソ…… の階名をもじったかえ歌を、さかんにどなりちらしていた。小学校の音楽教育で階名唱法という ことが一般に言われだしたのは、昭和に入ってからのことだろうとおもう。そして《港》のパロ ディは、この教育にたいする子どもの反応の、歴史的なドキュメントともいうべきものである。

  ドレミッちゃん耳だれ、目はやん目、
  頭のよこちょにハゲがある……

という徹底した悪口雑言が、ほんとうはむしろそれをうたう子どもたちじしんの、正確な自画像 をなしたところに意味がある。戦前から戦後しばらくのころまでそうだったとおもうが、男の子 はみんな坊主あたまで、おできのあとの大小のハゲが目につかない子はほとんどなかったし、ト ラホームや結膜炎やで目ヤニをいつもためているヤン目の子、耳だれをとめるために綿で栓をし ている子は、いくらでもいた。そうした現実的な貧困にとざされた子どもの感性が、《港》の歌 に最大限の違和をしめし、パロディをうんだ。しかもそこで、大人たちのおもいもおよばないひ とつの本質を直感した ― ことばが曲の指標をなすことの逆説がここにはある。

 こどもの歌う替え歌は、どうしてどのようにかは分からないが、瞬く間に全国に広がるようだ。 この替え歌は私も子どものころ歌っている。試みに5歳年下の身近にいる女性(子どもの頃は別の県 に住んでいた)にたずねてみたら、知っていた。今26歳の身近にいる青年は、当然ながら知らない ということだった。
 わたしはこの稿を書きはじめるまで、空も港も夜は晴れて……の歌詞にえがきだされた風景の 現実的な(ヽヽヽヽ)意味に注意がおよばなかった。子どものときから なんとなく好きになれない歌という以上の関心をもたなかったせいだろう。いまからみると、これ はなんとも人をくったような奇体なものである ―
  空も港も夜ははれて、
  月に数ます船のかげ。
  端艇(はしけ)のかよいにぎやかに、
  よせくる波も黄金なり。

 この歌は明治29年に発表されている ― その時代的なリアリティは、すでに昭和に入って からの子どもにはピンとこないものであった。銭湯の壁に画かれたペンキ絵の風景にうかんでい る帆かけ舟、五百石船とか千石船とかいわれた和船が、わが国の海運史上もっとも隆盛をきわめ たのは、紀文大尽のミカン船どころか、じつはむしろ明治になってからのことであり、それも20年 代からほぼ30年代にまでつづくものであった。鉄道や汽船にとってかわられるまで、日本 の初期資本主義をささえたもっとも重要な国内交通が、ほかならぬこの和船による海運であった ことをぬきにしては、《港》にあらわれたにぎわいはイメジをむすばないわけである。まさにそ れは〈波も黄金〉の一攫千金をはたして、港はいつも春なれや……と、つかのまわが世の春を謳 歌した海運成金の時代なのだった。
 いまでもこれは小学校三年生の音楽科必修教材だそうである。先生たちはどんなつもりで教え ているのか、わたしには見当がつきかねる。昭和10年代においてさえ、子どもたちはこの歌の素 朴すぎるオプティミズムをうけいれなかった。ある歌曲がとくにかえ歌を生みだすにいたる理由 は、主として曲のリズムとことばのリズムが同一の根源を() さないというすきまにもとめられる。譜面どおりの、3/4拍子でしかも機械的に強弱々のリズムで うたうことを教室で強いられれば強いられるほど、曲とことばのズレにひそむインチキくさいもの をかぎつけ、それでは歌えないのだと違和感を表明するにいたった。そのあげくは、かえ歌に よって逆に、この曲にありうるはずの、またあるべきゆいいつの本源へとリズムの指向を変換して しまった ― 出だしをアウフタクトに変えて、決定的なまでの強弱リズムを体現するのである。

  _         _      _
 ドレlミッ・チャン・ミミl・レ・メハl・ン・メl●●

 まさしくそれは、絵そらごとの背後にかくれたなにものかを斥した ― このイロニイはしかし それからどこへ行ったのか。

 「詩的リズム」のうち、上記の稿が書かれたのは1975年である。そのころの音楽教科書には「港」が 載っていたという。ちなみに「第210回」(3月13日)で掲載した小学校学習指導要領音楽の「歌唱共 通教材一覧」を見てみたが、その中にはなかった。現在この歌は教材として採用されていないようだ。 指導要領を編さんする御用学者や文部官僚の中にもこの歌の詞の意味を理解するものがいなくなって きたのだろう。
259 日本のナショナリズム(12)
洋楽の土着化(2)センチメンタリズム
2005年5月1日(日)


 文明開化によってもたらされた洋楽の第2の土着様式のメルクマールとして、菅谷さんは 「美しき天然」をあげて、その特質を3点指摘している。
 ()武島羽衣の詩《美しき天然》は、儀式的な叙景詩(ヽヽヽヽヽヽヽ) という以上の意味をもたない、いわば詩というより美文に類するものであり、わずかに〈調べ自在に 弾き給ふ神の御手の尊しや〉といったところに讃美歌的モダニズムのかげがうつっている程度のもの である。
 したがって曲からするかぎり、作曲者がこの詩のなにをみずからのモティーフとして表現しよ うとしたかは不分明であり、それがこの歌に詩と曲との乖離をゆるさざるをえないところである ―  おのずとかえうた(ヽヽヽヽ)をうみだし、さらには曲だけがもっぱ らサーカスのジンタにのって流布するにいたる。しかもこの曲の真価はむしろそこにあらわれたの である。そしてこの曲を愛好した大衆にとっても、〈空にさへづる鳥の声……〉云々の詩句は、楽器 も楽譜も手にしていないかれらが曲をおぼえるための音符=記号にすぎなかった ― ということは その大衆のひとりとしてのわたしじしんの経験から言えるとおもう。わたしはこの歌のメロディはよく しっているが、詩はほとんどおぼえていないのである。

 朋友の死を弔うのにお経代わりに「青葉茂れる桜井の」を歌った少女たち(第254回・4月26日)に とって意味のあることばは「とくとく帰れ故郷へ」の部分だけであり、歌詞の他の部分は音符=記号 に過ぎなかったのかもしれない。
 ()Valse Lento というテンポの指定にもあらわれているように、作曲者のほんとうのモティ ーフは、歌曲をつくることではなく、なによりもワルツ曲をうみだすことにかかっていた。それ 以前にもこころみられてはいたかもしれないが、《美しき天然》は明治音楽史上さいしょの 国産(ヽヽヽ)のワルツ曲といっていい位置をしめており、かつそれ以後も 日本の〈洋楽〉はこれに匹敵するワルツ曲をほとんどうみだしていないと、わたしにはおもわれる。
 ()さきに詩と曲の乖離といったが、曲じたいにも乖離を指摘できるだろう ― 当時の〈洋楽〉 の知識・技術を水準以上に身につけていただろう作者(軍楽隊長!)の〈近代〉的な意図と、曲 がじっさいに体現しえた〈せざるをえなかった〉ものとのずれである。それはごくテンポのゆる い短調の3/4拍子でしかも基本のリズム型がリズム1
をいくらもでていないという、三つの要因の重層から必然的に派生せざるをえなかった。

 ここで「第252回」(4月24日)の冒頭のテーマにつながる。再録すると

「二宮金次郎」「冬の夜」「故郷」などの唱歌が『社会にたいする大衆の「ナショナリズム」 の一側面をそれぞれ主題のうえに抽出して』いるのに対して、「青葉の笛」「夏は来ぬ」「すずめ雀」 「七里ケ浜の哀歌」などの唱歌は『大衆の心情そのものの核に下降した表現』と言える。そして、明治 の大衆「ナショナリズム」の表現のうち大正期の大衆の「ナショナリズム」に引継がれていったもの は、政治や社会の主題をとり出したもののなかにはなく、『大衆の心情そのものの核に下降した表現』 であった、と吉本さんは述べている。

 この吉本さんの論考を受けて菅谷さんは次のように述べている。
 吉本はもっぱら詩を対象として歌を論ずるという方法をとっているために、じぶんの受感がなに に根ざしているかを、うまくとらえきっていないきらいがある ― 心情そのものの核に下降する 表現は、外化された主題(詩)をまったくはなれて曲そのものにもっともよく体現されたばあいが ありうる、というひとつの極をわたしは《美しき天然》にみいだすのである。この極から《七里ケ 浜の哀歌》にいたる領域、吉本の受感の根がなんであるかは、かれが例にあげている歌に、わたしが あげる例をあわせてひとつの表をつくってみれば、ほぼつきとめることができるとおもう。


1 仰げば尊し    明17  6/8拍子
2 夏は釆ぬ     〃29  4/4 〃
3 はなさかじじい  〃34  2/4 〃
4 すずめ雀     〃34  2/4 〃
5 美しき天然    〃38  3/4 〃
*(戦友)      〃38  2/4 〃
6 青葉の笛     〃39  3/4 〃
7 七里ケ浜の哀歌  〃43  6/8 〃
* (二宮金次郎)  〃44  2/4 〃
8 冬の夜      〃45  4/4 〃
9 故郷       大 3  3/4 〃
 《二宮金次郎》は典型的な行軍リズムによってつくられているが、明治44年のものである ―  ということは、〈社会にむかう〉方向性は、単一強化のリズム型がその上限〈政治=国家〉から、 あらためて下限へむかう(むかわざるをえない)下降過程のうちにみいだされるのであることを しめしているはずだ。この下降がゆきつくところの表現の典型を吉本はセンチメンタリズムとよ ぶのである ― 
(中略)
ここでいわれているセンチメンタリズムが、さきに〈間のび=おもいいれ〉のリズムとよんだも のの発生をさしていることはたしかである。
 表にならべた例からよみとれるように、社会にむかう大衆の「ナショナリズム」がセンチメン タリズムとして表現されるにいたる過程とはすなわち、リズム2
とまったく同一のリズム原型を保持しつつ ― 2/4→4/4→6/8→3/4拍子……と変貌をかさねてゆく過程 である。なにが変貌し、それはどこへゆきつこうとするのか。
 じっさいにとられたのはひとつの回帰の形態であった。上限からの脱落は、〈近代〉的強弱拍そ のものの回避を意味した。そして強弱リズムをあらかじめ放棄した、土謡的な等時拍三音の発想 を西洋ふうの三拍子に癒着せしめそこに定住すること ― 《青葉の笛》がそうであり、また近代 唱歌のひとつの到達点というべき《故郷》がもっとも典型的にしめしているのも、それいがいで はない。この過程が意味するのは、上限から下限へ、そしてまた下限から上限へ、〈根源=局限〉 がほとんど同一的に循環をくりかえしている定型様式の所在である。

 現在でも「故郷」は広く好んで歌われている。テレビの歌謡番組のフィナーレに出演者・観客が、 一体感をかもし出そうと意図して、一緒になって歌う歌はたいてい「青い山脈」か「故郷」だ。 しかしこれらの歌曲は〈間のび=おもいいれ〉というリズムが呼び起こすセンチメンタリズム とは別の系統に属する。
 なぜ「故郷」は愛唱され続けているのか。詞が描き出している「ふるさと」はもはや壊滅状態だ から、かろうじてウサギを追ったり小鮒を釣ったりした体験を持つ稀有な人たちのノスタルジア を呼び起こす以外の意味はない。にもかかわらず、ウサギを追ったり小鮒を釣ったりなどの経験皆 無の都会生まれで都会育ちの人たちもなお愛唱しているのは何故か。この問いに対して、「強弱リ ズムをあらかじめ放棄した、土謡的な等時拍三音の発想を西洋ふうの三拍子に癒着せしめそこに定 住すること」の一つの到達点だという「故郷」についての分析は腑に落ちる。この「強弱リズムを 放棄した」「土謡的な等時拍」という三拍子が日本の大衆の心情に共振を揺り起こす。
 この「故郷」に代表される三拍子についてはさらに分かりやすい論述があるので、次回でもう一度 取り上げたい。