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254 日本のナショナリズム(7)
大衆ナショナリズムの原イメージ
2005年4月26日(火)


 色川さんは自分自身にとっての「大衆ナショナリズムの原イメージ」を提出している。そこからは 多くの重要な事柄がくみ取れる。かなり長くなるが、その部分の文章を全文掲載する。
 まず、国定教科書による教育の成果を物語る悲しくもやるせない逸話を二つ紹介することから 始めている。一つは森崎和江「からゆきさん」からの逸話。
 明治も末年であった。天草や山口県のどこかからせり落された一四人の少女が、朝鮮に向って 玄海灘を渡っていた。いずれも15歳未満の娘たちだったが、航海中も昼夜となく売春を強いられ、 うち12歳の子が衰弱して息絶えた。残された少女たちはその遺体にとりすがって泣き、おとむら いをしてやろうと、みんなで相談のすえ、お経の代りに次の歌を甲板で合唱した。
桜井の別れ



青葉茂れる桜井の
 里のわたりの夕まぐれ
木の下蔭に駒とめて
 世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧の上に
 散るは涙かはた露か

正成(まさしげ)涙を打ち払い
 我子正行(まさつら)呼び寄せて
父は兵庫に赴かん
 彼方の浦にて討死せん
いましはここ迄来れども
 とくとく帰れ故郷へ

父上いかにのたもうも
 見捨てまつりてわれ一人
いかで帰らん帰られん
 此正行は年こそは
未だ若けれ諸共に
 御供仕えん死出の旅

いましをここより帰さんは
 わが私の為ならず
己れ討死為さんには
 世は尊氏の儘ならん
早く生い立ち大君に
 仕えまつれよ国の為め

 此一刀(ひとふり)(いに)し年
 君の賜いし物なるぞ
此世の別れの形見にと
 いましにこれを贈りてん
行けよ正行故郷へ
 老いたる母の待ちまさん

共に見送り見反りて
 別れを惜む折からに
復も降り来る五月雨(さみだれ)の
 空に聞こゆる時鳥(ほととぎす)
誰れか(あわれ)と聞かざらん
 あわれ血に泣く其声を

        『湊川』1899年(明32)年6月
 この歌詞の〝ふるさと″へ向う情念にこそ少女たちのナショナリズムがこめられている。 その〝ふるさと〟へ「もうおショウバイをしなくてもよくなった」あの子は帰ってゆくのだと、 みんなは泣く泣くその遺体を海へ投げこんだという。私はこの逸話を森崎和江の『からゆきさん』 で読んで、複雑な感動にとらわれた。朝鮮人の周旋屋に国籍ごと売りとばされたこの文字通り奈落の棄民たちの目から見かえされたナショナリズムが、楠公父子の永訣の歌(天皇への誠忠を誓う戦前日本の最高の国民唱歌)であらわされたとはなんというアイロニィであろ。
 この少女たちはやがて日本帝国主義下の朝鮮で、日本を見かえそうとした朝鮮人工夫たちに集団で買われ、排尿のひまもあたえられぬほどの報復的な〝愛撫〟を肉体に受けとめ、国家に代って狂死していった。天皇の国家はこの〝忠良な赤子″たちの惨死を満洲の戦場で斃れた一兵卒に対するほどにも哀悼しはしない。それなのに女たちは優しく故郷を愛し、「青葉しげれる」をうたい次々と草むす屍になっていったのである。
 明治30年代末に完成した国定教育の浸透力のなんというすぱらしさであろう。天皇制の永続を 渇望して止まないこの作為的な歴史唱歌が、天皇への憐憫とたぐいまれなヒューマニズムの哀調を 帯び、なきがらとなって故国へ帰る幼ない棄民の子らへの鎮魂歌の役割をも果し得たとは! この イメージの放射する思想史的な意味は悲惨なほどに豊かである。「日本のナショナリズム」を机上 で論ずる研究者の何人が、この放射するものをまともに受けとめ苦しむことをしてきたであろう。

 二つ目は石牟礼道子「苦海浄土」からの逸話。
 1931(昭和6)年、天皇が水俣のチッソ工場に来たさいには、沿道の部落から不浄だとして追いはら われた同じ天草流れの婦人が、その後、激症の水俣病患者になり、はじめて都から視察の厚生大臣を 病室に迎えた。そのとき、ユキ女は興奮のあまり痙攣発作を起し、「て、ん、のう、へい、か、ばん ざい」と絶叫してしまった。つづいて彼女のうすくふるえる唇から、調子はずれの「君が代」がふる ふるとうたい出されたという。この鬼気迫るシーンに大臣たちは逃げ出したが、この無明の奈落に発 する「日本ナショナリズム」のからみつきに、ただ「前期的」といって応えればよいのか研究者に問 いたい。

 ここでいう「前期的ナショナリズム」とは丸山真男がその論文「日本におけるナショナリズム」で 明治期のナショナリズムを規定した概念である。「丸山説に同調する人も対立する人も無批判に援用 しており、学界では未だに生きつづけている。それへの根本的な疑問やそれに代る概念の提出もほと んど行われていない。」と色川さんは、当時の学界・学者たちの怠慢さ・ふがいなさを批判している。

 色川さんは学徒兵として徴兵されている。上記の二つの逸話に続いて、その軍隊体験を次のように 内観し、個人的体験を取捨した浅薄な論説に異議を申し立てている。
 敗戦のとき私は軍隊にいた。まだ大学生であったが、「物を書く」という行為をはじめていた以上、 私は知識人であった。1945(昭和20)年6月、本土大空襲の下で、海をへだてた沖縄が断末魔の苦しみ におちいり、一日々々皆殺しにされてゆくのを私は無電機にしがみついてジリジリと耐えていた。 沖縄の敗滅はそのまま日本の敗北に通ずることを疑わなかった。私のそのころの同胞と祖国にたいす る憂慮の感情は、極端といってもよい異常なものに昂まり、「吉田松陰とてこれほどまでに憂いはし ない」と日記に書きつけるほどであった。私は大戦期の知識人のウルトラ・ナショナリズムという 一括言語をきくとき、つねづね反発をおぼえてきたが、それは、いわゆる言論人(イデオロー グ)のそれと、私たちのそれとを「混同するな」という実感がわだかまっていたからである。後に なって、あの6月に沖縄で乳呑児をおぶった断髪の婦人が爆雷を抱えて米軍に突入したとか、鉄血 勤皇隊やひめゆり部隊が「海ゆかば」をうたいながら射殺されたという話を聞いたとき、「辺境」 の民のヤマトへの同化をねがう皇民幻想の悲劇をあげつらうまえに、その純烈なナショナリズムの 最期に打たれたのである。これを「近代的知性」とやらで、なんとでも非難し、批判し、切り刻む ことはできる。だが、どのように言葉で寸断しょうと、これらの死者たちの存在のもつ重さ情念にとって代ることはできない。これらが私のナショナリズムにかかわる原風景(イメージ)なのである。
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