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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
239 教師の戦争責任(9)
墨塗りをしなかった教師たち(3)
2005年4月11日(月)


  一条ふみ、荻野末に次いで金沢嘉市、黒沼光翁、鈴木源輔、東井義雄、林進治、とそれなりに有名な 人たちの戦前・戦後の検証が続きますが、いわゆる「墨塗りをしなかった教師」ではないのでこの稿では 割愛します。
 さて、「墨塗りをしなかった教師」で、そのまま黙って身を引いていった教師も少なくないだろうと 思います。その人たちは「黙って身を引いた」ので自ら書いたものを残していません。その人とたまた ま縁があった人が書きとめたものが残っている場合しか知るよすがはありません。そのような人たち についての断片を「第四章」から拾い出してみます。
 「もう、ぼくのやる教育は終った。まちがったことを教えたとは思わないが、これからの教壇に立 つことはできない」(金沢嘉市『ある小学校長の回想』)と、戦時下の教育を肯定したまま、田舎に 帰っていった丹葉節郎のような教師。

 「終戦と同時に、今まで最も嫌った個人主義、自由主義が、もっとも正しい生き方の基本となったの だから、一八〇度なんていうものでない転換だったからね。殊に私などは、全体主義にこり固ったも のだったから、ついてゆけないものがあったし、すでに戦のために死んだ男らのことを思うと、なん と申訳してよいか判らなかった」(菊地利助の発言『小松小学校百周年記念誌』)といって、辞表を 出した教師。

 次の引用文は、敗戦直後自らの責任をとって辞職した野路当作という方の述懐です。野路さんは 罪亡ぼしと生活のために日雇いをやって生活をしのいだと言います。
 周辺をみるや「軍国教育に指揮刀を鳴らして狂奔した同年輩の教師たちが、敗戦となるとその日から 学校の看板を塗替えて、平和国家文化国家建設の先達に納まり、追放された者でさえ、解除後は悠々 と高い地位に舞戻り、今や功成り名遂げて莫大な退職金と恩給とに豪勢な老後」(「前途は明るい」『世 界』昭和33年8月号)を送っている連中をみる。そしていう。「あえて自分を戦犯者の一人なりと決め つけ、余りにも世間を知らず浪曲的な仁義にかたまって、愛と真実一点張りで教壇生活を棄去った私 は、退職金もその当時封鎖で二百円、恩給も彼等の何分の一。彼と言い此と言い、考えれば考えるほ ど、責任をとることのみに燃えていた私は、結局バカ正直の素ッ裸を新しい太陽の下で、見せつけら れた」。

 この野路さんの生き方について、長浜さんは次のようにコメントしています。
 道理を貫くことが人間の行為のなかでどんなに崇高なことか、という価値観をもたない人間は野路 当作をあざ笑うだけであろう。そしてまた道理を貫くことの大切さを教え得るのもまた教育の場にお いてであろう。わたしが教育の戦争責任を考えるうえで「辞職」にこだわるのは、教師は正義や道理 を観念のうえだけで教えてはならない、と思うからであり、こどもたちもまた観念だけの教授によっ ては正しい意味で人間を大切にするということを学びはしないと思うからである。

 「教師は正義や道理を観念のうえだけで教えてはならない」という指摘を、私は「君が代・日の丸の強制」問題に 引きつけて読まざるを得ません。思想・良心・表現などの自由だって「観念の上だけで教えてはならない」 と思います。

 次の例は本多顕彰著『指導者』からの孫引きです。長浜さんのコメントがあるので合わせて掲載します。
 私は、終戦直後に配給所で会った山の小学校の先生のことをいまはっきり思い出す。
 その先生は、私がだれであるかを知ると、それまでしていた雑談をやめて、私にむきなおり、 「私は学校をこの夏休みかぎりやめます。私は、いままで教えてきたことが、全部ちがっていた、 と、いまさら児童たちにいえませんから」といった。彼は、学校をやめて百姓になり、二度と人 を教えるような言葉は口にしないといった。私はだまってうなずいただけだったが、心の中では、 ひどく感動した。私はこの本を読むひとが、もしも、小・中学校の先生のなかにいたら、このくだ りを日教組の総会の席上で朗読していただきたいと思う。
 本多顕彰が辞職する教師に感動を覚え、それを日教組に伝えようとしたのは、上にあげたいく つかの例ような姿勢が日本の教師たちに欠如していたからである。いや、もっと正確にいえは、 教壇を降りていった人間に心の支援を送るどころか、バカなやつだ、ソンなことをしおって、と いう反応の方が多かったのである。

 くり返しになるが、しかし、それにつけても身を挺してこどもに、そのことを示そうとした教師は あまりにも希少であった。それを見送る教師もまた、その意味と価値を己れに刻みこもうとはしなか った。そのことが日本の教育の不幸をもたらす遠因となった。
 教壇に居残った教師たちには、二つの型があった。ひとつは、辞めるべきだが残るという型である。 いまひとつは、やめるべきではないから残るという型である。結果の形は同じだが、両者は本質にお いてはかなりの差がある。そして、この両者が戦後日本の教育を実質的に担ってきたのであるから、 このふたつの差異を論じることは価値のないことではない。

 「日本ファシズム教師論」は1981年の出版です。長浜さんはそのとき既に日本の教育の状況を 「不幸」な状況と認識していたことになります。そしてその不幸の遠因は教育の戦争責任を曖昧 にやり過ごしてしまったことにあると言っています。

 「教壇に居残った教師たち」の「二つの型」についての論述は「第四章 戦争責任の論理と倫理」の まとめに当たります。次回はそれを読みます。
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