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258 日本のナショナリズム(11)
「戦友」論
2005年4月30日(土)


 日露戦争の〈勝利〉は、明治の大衆ナショナリズムにさいしょの挫折・敗退をもたらした ―  ポーツマス条約を不満とする暴動がつげているのは、ナショナリズムの単一強化がようやく局限 にいたり、そこに〈階級〉をみいだすことによって分解せざるをえないという危機である。言い かえれば、近代天皇制国家〈像〉の確立にむかってひたすら強化され圧縮されていった現実の根 源じたいが、同時に社会=経済的に拡大していったために、もはや単一の〈局限=根源〉循環を ゆるさなくなった。

 色川さんが「真実、ナショ ナリズムに燃え、わが身を自発的に国家の側にすりよせるようになったのは、民権期ではなく、日清 戦争時でもなく、日露戦争にさいしてであった」と指摘したのは、この「ポーツマス条約を不満と する暴動」のことを指していると思う。
 「ポーツマス条約を不満とする暴動」となって爆発した大衆の(色川さんの言葉で言うと) 「野性的な絶大なエネルギー」は、支配者たちをおおいに震撼させたことだろう。また同時に この「野性的な絶大なエネルギー」を国家権力に直結させようと「大衆ナショナリズム」の収奪を 緊急の課題としたに違いない。明治の大衆ナショナリズムの「挫折・敗退」を吉本さんは次のように 述べている。
 天皇制イデオロギーは支配層によって、もっぱら大衆の「ナショナリズム」の心情の一面を逆立ちし た形で吸い上げながら、一面で「社会経済」的には、大衆「ナショナリズム」の社会的な基盤(農村) を資本制によって現実的につき崩すという両面を行使したのである。大衆の「ナショナリズム」は、こ こでは、天皇制イデオロギーに自己のイデオロギーが鏡にうつされるような幻想をあたえられ、一方で 自己の「ナショナリズム」の心情をつきくずすものが、資本制そのものであるかのように考える ことを仕向けられた。憎しみは資本制社会に、思想の幻想は天皇制に、というのが日本の大衆「ナショナ リズム」があたえられた陥穽であった。さればこそ、農本主義的ファシズムは、北一輝にその象徴を見 出されるように、資本制を排除して天皇制を生かす、というところにゆかざるを得なかったのである。

 さて、「戦友」である。
 あたうかぎり理念化され ― 加速的に進軍しつづけた明治的二拍子リズムは、そのピークをす ぎていまや減速 ― すなわちなんらかの現実化をせまられる。いささか比喩的にいうなら、この リズムじたいの内部に、いわばゆきだおれをふくまざるをえない ― それを象徴しているのが 《戦友》である。これが見捨てて置かりょうか、「しっかりせよ」と抱き起し……というように。  そしてそれ以後、この歌いじょうに〈総体的な暗い感銘〉(吉本隆明・日本のナショナリズム)を もたらす歌はほとんど不可能になった ― 〈自然さ〉がトータルにうたいだされることがなくな るのである。昭和期の軍歌は、一方で〈侍ニッポン》のように行進曲のリズムが自己放棄的な拡 散をみごとに表現してしまうといった事態をまえにしては、なんらかのモダニズムで仮装するい がい、単一強化のリズムを〈自然さ〉をふくんで回復することはできなかった。
 わたしが参照している《日本唱歌集》におさめられた《戦友》の曲譜には♪=114というテン ポの指定がある。歌の主題からしてこれはむしろはやすぎるテンポであり、全曲をこのテンポで 通すことはほとんどかんがえられない。(中略)原曲の指定通りに♪=114のテンポでうたうか ぎり、この歌(曲)はひどく軽薄で皮相なものとならずにいない。それは詩の主題がもとめると ころとかならずずれるのである。このようなテンポの二重性〈規範―心情〉は、〈国家〉の勝利 にむかっている作者(作詩者・作曲者)の理念と、じっさいにこの歌をうたう大衆がそこにこめ ようとするみずからの体験との乖離のはばをものがたっている。
 この「テンポの二重性」「〈規範―心情〉の乖離」を、アイ・ジョージが歌う「戦友」を例に、 菅谷さんはつぎのように詳述している。
 この歌の戦後的復活を可能にしたのは、ほかでもないアイ・ジョージの表現力であった。もっと も注目に価するのは、かれが曲のリズムに本質的ともいうべき修正をくわえている点である。
テンポ

譜Aのごとき反復パターンからなる原曲の長短型2/4拍子は、アクセントを強調すればするほど、 かえって一種の軽薄さをおびた加速度をもたらす。これにたいして、アイ・ジョージはその種の 惰性化にブレーキをかけ、加速度に抗して曲のテンポを恒常的に維持しうるリズム型をえらびだし た。あきらかにかれは譜Bのように、さらにいえばブルースの4/4拍子にちかくうたっている。うら の拍が強調されるので、ことばの拍音につよい指示力があたえられるのである。

この「テンポの二重性」「〈規範―心情〉の乖離」こそが 第二の「洋楽の土着様式」を解明する 鍵となる。
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257 日本のナショナリズム(10)
洋楽の土着化(1)明治ミリタリイ・マーチ
2005年4月29日(金)


 明治期の大衆ナショナリズムを牽引していった唱歌に、詩のリズムまたは音楽のリズムの面から 接近してみる。資料として利用する菅谷規矩雄著「詩的リズム」は副題を「音数律に関するノート」という。 日本語のリズム=音数律を論理的に解明しようとする意欲的な論考だ。愛唱歌がなぜ愛唱歌になるのかという問題には音数律 についての本質論が欠かせないと思うが、いまは吉本論文と関連する部分に絞って読んでいく。

 文明開化によってもたらされた洋楽の土着様式を、菅谷さんは二つ上げている。その第一の 様式のメルクマールとして、菅谷さんは「寮歌」をあげている。
 菅谷さんは「寮歌」にことよせて、帝国大学出身者という知的エリートの貧しい心性と、彼らがそ の構成員の多くを占めている支配階層の思想的鈍感さを記述している。もちろん、これは現在の支配層 にも当てはまる。
 あゝ玉杯に花うけて……をはじめ、旧制高等学校の寮歌なるものはほとんどが、やはりこの長短 長短のリズム形式でできていて、その単一さはおどろくほどだ。いまどき寮歌祭などと称して旧世代の エリートたちが肩くみあって声はりあげ陶酔しているさまを、テレビなどでみているとわたしは ただ、まずしいな……とやりきれなくなるばかりだが、さらにいえば、このまずしさをしかも、 陶酔(ヽヽ)にさかだちせしめ〈青春〉にいなおっているところに、帝国 大学出身の上級官僚あるいは大会社の幹部……といったかれらの階級=特権はむきだしにされている。 これは現実の根柢がどれだけ動乱しても、なおその根源からあたうかぎりとおくはなれて持続し残存し、 支配に直通する上限のありようを端的にものがたっている ― そこにみえるのはいわばひとつの末路 いがいではないが。

 知的エリートたちを陶酔させる寮歌のリズムの特徴を、菅谷さんは「長短長短のリズム形式」 と言っている。「長短長短のリズム形式」とはなにか。
 わが国の〈近代〉における大衆の感性に、どれだけあらたな経験が附加されたかと問いをたて て、リズム表出の基底をさぐってみようとおもう。連続する表出の基軸を、明治ミリタリイ・マ ーチの形成とでもよぶべき主題においてみるとする。はたしてそれによく対位しうるべつの基軸 はありえたか ― この点にわたしのモティーフはかかっている。
 文明開化によってもたらされた〈洋楽〉の土着様式は、第一につぎのようなものである ―  等時拍三音の土謡的発想を、強弱拍による二拍子へと変換すること、そのように変換され強化さ れた〈時間〉がすなわち支配の理念とした〈近代〉であった。
 ほんらい強弱をもたぬ日本語の拍を、西洋的な〈拍子(Takt)〉にのせようとすれば、強拍は 音をながく弱拍は音をみじかくとるという対応いがいにまずありえなかった。これはひとつの必 然的な撰択である。したがってそのリズム構成はおのずと
勇敢なる水兵
(勇敢なる水兵)
という長短型をなした ― 日清戦争期から日露戦争期にかけて定着したこのリズムは ― たと えば明治24年山田美妙詩・小山源之助曲《敵は幾万》から明治38年真下飛泉詩・三善和気曲 《戦友》にいたるまで ― 明治大衆ナショナリズムの上限から下限にいたる定型化のほぼ全域を おおいつくしているとみてよい。

 これまでに掲載してきた楽譜をみると「戦友」と「二宮金次郎」がこのリズムで作曲されている ことが分かる。
 ところで上記文中の「等時拍三音の土謡的発想」というくだりを理解するためには、菅谷さんが 日本語のリズム=音数律の論理的解明をしている論述部分を読まなくてはならない。しかしその詳細 を知らなくとも上記の文章の要旨は理解できると思うのでここでは割愛する。

 この明治ミリタリイ・マーチという形成について菅谷さんはさらに詳述している。
《敵は幾万》や《勇敢なる水兵》などの軍歌、《箱根八里》などの中学唱歌、そして寮歌から《鉄 道唱歌》までをふくむおなじリズム型、すなわち単一強化の行軍リズムとでも名づけるべきもの が明治ミリタリイ・マーチの本質であった。そして上限における強化にたいして、下限からの自 己解体をふくんであらわれたのが、テンポの二重化であり、〈規範―心情〉の乖離そして〈間の び=おもいいれ〉であり、ついにそれは行軍リズムそのものを三拍子的にひきのばすにいたるの である。
 一方の極で、社会の基盤から遊離し根源を喪失して進化を完了してしまい、時間を停止させた まま遺制のごとく残存しつづける行軍リズムの場が寮歌であったとすれば、他方の極にはおなじ リズム原型をたもちながら、それを6/8拍子へ、さらには3/4拍子へとゆりうごかしてゆく促迫があ った。
 その分岐をなすのが明治38年の〈戦友》である ― この歌は、わたしが単一強化の行軍リ ズムとよぶ明治ミリタリイ・マーチの可能と不可能とをともに最大限かつトータルに表現して、 上昇と下降の臨界をなしている。

 この後、菅谷さんの記述は、「戦友」の分析、いわば「戦友」論ともいうべき論考へと続く。 これは次回取り上げよう。
 なお、上記文中の〈間のび=おもいいれ〉という概念は「文明開化によってもたらされた洋楽 の土着様式」の二つ目の様式のことであり、次々回に詳しく取り上げる予定である。
256 日本のナショナリズム(9)
第2国歌「海ゆかば」
2005年4月28日(木)


 ちょっと横道へ。
 前々回、朝鮮人の周旋屋に売り飛ばされて異国の地で狂死していった少女たちの無残を色川さん は怒りを込めて描き、「草むす屍」という言葉を用いた。この言葉からすぐ思い出したことがあった。 もちろん色川さんもそれを念頭に置いて用いていると思う。「海ゆかば」である。いつどう覚えた のか、実は私はこの歌を歌える。

 大伴家持が長歌(万葉集巻18・4094)の中で祖先が「言立て」た言葉だとして歌い込ん でいる一節。

 海行かば 水浸く屍 山行かば 草生す屍 大君の 邊にこそ死なめ 顧みは せじと言立て ・・・

 1937年(昭和12)年10月、国民精神総動員運動の一環として、これに信時潔が曲をつけた。

海行かば


 1937年10月13日(私はまだ生まれていなかった。)から1週間繰り広げられた「国民精神総動員 強調週間」の折、ラジオ放送に「国民朝礼の時間」という番組が設けられた。毎朝『「君が代」斉唱、 宮城遥拝、著名人の訓話、「海ゆかば」斉唱』という内容の番組が放送されたのだ。「海ゆかば」は まずラジオ放送を利用して広められていった。

 いまNHKの政治権力に対する脆弱な体質が問題になっているが、マスコミを掌中にした権力は絶大な 力を得ることになる。もちろんNHKだけの問題ではない。これも何度も指摘してきたことだが、 多くのメディアがいま権力の手先に成り下がっている。現今の反動的な政治状況を促進している推進力の 一つがマスコミなのだ。

 さて、1942(昭和17)年12月15日、大政翼賛会が「海ゆかば」を国歌「君が代」に次ぐ「国民の歌」 に指定して各種会合で必ず歌うようにと通達した。いわば第2国歌というわけだ。
 国民学校の教科書では「高等科音楽(1)」に収録されている。

   狂気の大東亜戦争末期、敵性音楽撲滅運動の折、国民学校の卒業式ではそれまで歌っていた 「蛍の光」を取りやめている。敵国イギリスの民謡だから不適当だという理由だ。そして 「蛍の光」に替わって歌われたのが「海ゆかば」や「愛国行進曲」だった。これから社会人として 門出する卒業生に送るはなむけの歌が「海ゆかば」とはすさまじい。「海や野に屍となって身を晒 すことも辞するな、天皇のため死ぬことこそよろこびと思え」と送り出したのだ。

 「海ゆかば」は第2国歌だった。「君が代」と「海ゆかば」は同じメタルの表と裏だ。「君が代」 の意味するところはこの2曲のセットでより明らかになる。
 「君が代」の意味は「世襲君主の支配が永久に続くように」という意味以外のどんな解釈も できようはない。「世襲君主」に服従することは、どんなに美辞麗句と理屈を連ねても奴隷の 思想だ。「主権在民」とは相容れない。「海ゆかば」がその行き着く果てを如実に表わしている。 「君が代」大好き人間はもとより、『「君が代」、平和な歌で、別にいいんじゃないの』という人たちは、常に 「君が代」と一緒に「海ゆかば」も歌うといい。歌わないまでも、「君が代」の裏にピタッと密着して いる「海ゆかば」を常に意識すべきだ。天皇制の本質・「君が代」の隠された意味が明々白日の下に 表れることになる。

 学校の先生へ提案。どうしても「君が代」を教えざるを得ないのなら、「君が代」の本質を 考えるてだての一つとして、一緒に「海ゆかば」を教えましょう。
255 日本のナショナリズム(8)
対外戦争とナショナリズム
2005年4月27日(水)


 色川さんが大衆のナショナリズムの内奥をこじあけていった諸力の三つ目に上げたのは「対外戦争」 だった。「対外戦争」が大衆の情念をどのように収奪していったか、色川さんの言葉で言うと 「薫染(くんせん)(汚染)」していったかを色川論文から取り出してみる。

 自由民権権運動期のナショナリズムについての論考で色川さんは「一般の村びと」が「真実、ナショ ナリズムに燃え、わが身を自発的に国家の側にすりよせるようになったのは、民権期ではなく、日清 戦争時でもなく、日露戦争にさいしてであった」と指摘している。
 そしてまた、天皇制教育の完成という面からも日露戦争(1904年~1905年)が決定的な役割を果たした。 そのことが1910(明治43)年に改訂された第2期国定教科書の「読本」に顕著に表れていると、色川さ んは次のように指摘している。
 この完成された読本には各巻の一、二章にほとんど〝天皇″〝皇室″〝国体″に関するものが置かれ、 それと響きあうように〝家族道徳″〝祖先崇拝″〝郷土愛″〝模範村″の話などが配置されている。 いっぽうこの国土に住む国民の〝運命共同体的一体感″をおしえる材料として〝対外戦争″ (元冠、日清・日露戦争)が大きくとりあげられ、その国難を救った明治天皇や英雄たち、広瀬中佐 や橘大隊長、東郷大将や乃木将軍、それに勇敢な兵士たちの美談がうたいあげられている。さらに 〝労働者・農民の生活″や〝資本制社会への適応力″を育てる教材もたくみに配置されていた のである。このように見ると、そこには天皇制の精神構造に包摂されたほとんどの要素が情緒化され、 整序され、総合的に体系化されているのが分る。
 唱歌「戦友」が大衆のナショナリズムの一面を表現していることを指摘しつつ、『これをそのまま、 日本「ナショナリズム」の大衆的心情とかんがえると、誤解を生ずるとおもう。 戦争はリアルなものであり、この歌曲とおなじ位相で、「友」を弾よけにして「我」は逃げるという 場面が、戦争のなかでなんべんも繰返されるということを想定できるからである。』と吉本さんは 大衆の心情の裏側に付着しているリアリズムに注目を促していた。このことを色川さんは次のように 記述している。
 明治の後期、あいつぐ対外戦争に勝利を得た国家が、その自信の上に、当時の全国民の精神的志向を そっくり包みこんでしまうような最大限許容量(マキシム・キヤバシテイ) とその教化の様式を完成したのである。底辺民衆が幼児のころから、この組織的な国家教育によってい かに強く深く影響され、ナショナリズムを喚起され、その奔出の方向を統御されたかは想像にあまりあ る。だが、民衆はそれらの民族共同体への献身にともなう美的陶酔が、じつは一過的なものであり、た てまえ的なものであり、感傷的なものであり、非現実的(ロマネスク) なものであることを成人するにつれて同時に理解していった。戦場での兵士らをしのんで日本国民が、 「ここはお国を何百里、離れて遠き満洲の、赤い夕陽に照らされて、…‥」と涙を  浮べて感傷的に唱おうと、じつさいに戦火をくぐってきた大衆は、喧伝された英雄的な 場面(シーン)のかげに、その数百倍もあるむきだしのエゴとエゴとの暗闘 の醜悪さ、汗や糞尿だらけの戦場の臭気と汚穢、ウジ虫の山と血の海、自傷兵となっての戦線離脱、 飢餓、恐怖、掠奪、婦女暴行、厭戦の自堕落を熟知していたのである。その熟知の上に、なお涙を浮 べて小学唱歌を斉唱する生徒の如く「戦友」をうたう大衆のナショナリズムの心情核こそ、天皇制国 家がもっとも依拠し、密着したいとねがった原点だったのである。
 このような大衆のナショナリズムを大衆の迷妄と単純に断罪することは正しくないと、色川さんは 、多分自らの体験も内観しつつ、次のように書いている。
 ナショナリズムがながく共同幻想としてのカを持続しうるためには、短期間であれ、ある一時期に それが真実なものとして体験されることが必要である。つまりその体験が大衆間の共通の実感として 確認されることが一度はなくてはならない。たとえ戦場でのエゴや醜悪さと背中合わせであるとして も、日本の兵士・大衆が真に自発的に〝国難″を感じ(背後の運命共同態と自己との一体感を信じて)、 祖国と民族のために献身しようと燃え立つことがあったことを私たちは日本近代史の中に確認する。 その一つは日露戦争の時であり、もう一回は日米戦争期の一、二年の間であろう。両者はもちろん歴 史条件が違うので同列に扱えない。また近代ナショナリズムの栄光の象徴といわれるフランス革命や アメリカ独立戦争のさいの大衆ナショナリズムの自発性とも異質なものである。しかし、それにもか かわらず、錯綜した戦争の性格の中に少しでも国民戦争的な要素や民族戦争的な一面があったかぎり、 大衆ナショナリズムの共同幻想はリアルなものとして実感されることもあり得たのである。
元寇


 元 冠

一 四百余洲を挙る 十万余騎の敵
  国難ここに見る 弘安四年夏の頃
  なんぞ怖れんわれに 鎌倉男子あり
  正義武断の名 一喝して世に示す

二 多多良浜辺の戎夷(えみし) そは何蒙古勢
  倣慢無礼もの 供に天を戴かず
  いでや進みて忠義に 鍛えし我がかいな
  ここぞ国のため 日本刀を試し見ん

三 こころ筑紫の海に 浪おし分て往く
  ますら猛夫の身 仇を討ち還らずば
  死して護国の鬼と 誓いし箱崎の
  神ぞ知ろし召す 大和魂いさぎよし

四 天は怒りて海は 逆巻く大浪に
  国に仇をなす 十余万の蒙古勢は
  底の藻屑と消えて 残るは唯三人
  いつしか雲はれて 玄海灘月清し

      「音楽雑誌」19号 1892(明治25)年4月
 1892(明治25)年「元寇」の名で発表されたこの歌が、日清戦争のまぎわになって大流行し、小学生 たちまでが足を踏みならし机のフタをがたがた鳴らして熱狂してうたったという逸話はなにを物語るか。 「対外戦争」がいかに大衆的熱狂をひきだしやすいかということもあろう。そのことを権力者たちは 熟知していた。とくに軍の指導者や右翼系の革命家らはそこに日本人大衆のアキレス腱があることを 見ぬいていた。それゆえに日清・日露戦争を最大限に利用して国民の統合と国権の確立を達成しよう としたのである。

 政財官界とそのちょうちん持ち・保守論客と呼ばれているイデオローグたちがこぞって「日露 戦争」の再評価を言い出したのはいつからだったか。
 他国をあなどり敵視する排外主義がやがて昂じて対外戦争を引き起こす。この国民を統合服従させる ための政治的戦略の裏面には民衆の大量虐殺(ジェノサイド) を糧に肥えていく資本主義の冷酷な計算が密着していることを忘れてはなるまい。いまイラクで起 こっていることを注視していこうと思う。
254 日本のナショナリズム(7)
大衆ナショナリズムの原イメージ
2005年4月26日(火)


 色川さんは自分自身にとっての「大衆ナショナリズムの原イメージ」を提出している。そこからは 多くの重要な事柄がくみ取れる。かなり長くなるが、その部分の文章を全文掲載する。
 まず、国定教科書による教育の成果を物語る悲しくもやるせない逸話を二つ紹介することから 始めている。一つは森崎和江「からゆきさん」からの逸話。
 明治も末年であった。天草や山口県のどこかからせり落された一四人の少女が、朝鮮に向って 玄海灘を渡っていた。いずれも15歳未満の娘たちだったが、航海中も昼夜となく売春を強いられ、 うち12歳の子が衰弱して息絶えた。残された少女たちはその遺体にとりすがって泣き、おとむら いをしてやろうと、みんなで相談のすえ、お経の代りに次の歌を甲板で合唱した。
桜井の別れ



青葉茂れる桜井の
 里のわたりの夕まぐれ
木の下蔭に駒とめて
 世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧の上に
 散るは涙かはた露か

正成(まさしげ)涙を打ち払い
 我子正行(まさつら)呼び寄せて
父は兵庫に赴かん
 彼方の浦にて討死せん
いましはここ迄来れども
 とくとく帰れ故郷へ

父上いかにのたもうも
 見捨てまつりてわれ一人
いかで帰らん帰られん
 此正行は年こそは
未だ若けれ諸共に
 御供仕えん死出の旅

いましをここより帰さんは
 わが私の為ならず
己れ討死為さんには
 世は尊氏の儘ならん
早く生い立ち大君に
 仕えまつれよ国の為め

 此一刀(ひとふり)(いに)し年
 君の賜いし物なるぞ
此世の別れの形見にと
 いましにこれを贈りてん
行けよ正行故郷へ
 老いたる母の待ちまさん

共に見送り見反りて
 別れを惜む折からに
復も降り来る五月雨(さみだれ)の
 空に聞こゆる時鳥(ほととぎす)
誰れか(あわれ)と聞かざらん
 あわれ血に泣く其声を

        『湊川』1899年(明32)年6月
 この歌詞の〝ふるさと″へ向う情念にこそ少女たちのナショナリズムがこめられている。 その〝ふるさと〟へ「もうおショウバイをしなくてもよくなった」あの子は帰ってゆくのだと、 みんなは泣く泣くその遺体を海へ投げこんだという。私はこの逸話を森崎和江の『からゆきさん』 で読んで、複雑な感動にとらわれた。朝鮮人の周旋屋に国籍ごと売りとばされたこの文字通り奈落の棄民たちの目から見かえされたナショナリズムが、楠公父子の永訣の歌(天皇への誠忠を誓う戦前日本の最高の国民唱歌)であらわされたとはなんというアイロニィであろ。
 この少女たちはやがて日本帝国主義下の朝鮮で、日本を見かえそうとした朝鮮人工夫たちに集団で買われ、排尿のひまもあたえられぬほどの報復的な〝愛撫〟を肉体に受けとめ、国家に代って狂死していった。天皇の国家はこの〝忠良な赤子″たちの惨死を満洲の戦場で斃れた一兵卒に対するほどにも哀悼しはしない。それなのに女たちは優しく故郷を愛し、「青葉しげれる」をうたい次々と草むす屍になっていったのである。
 明治30年代末に完成した国定教育の浸透力のなんというすぱらしさであろう。天皇制の永続を 渇望して止まないこの作為的な歴史唱歌が、天皇への憐憫とたぐいまれなヒューマニズムの哀調を 帯び、なきがらとなって故国へ帰る幼ない棄民の子らへの鎮魂歌の役割をも果し得たとは! この イメージの放射する思想史的な意味は悲惨なほどに豊かである。「日本のナショナリズム」を机上 で論ずる研究者の何人が、この放射するものをまともに受けとめ苦しむことをしてきたであろう。

 二つ目は石牟礼道子「苦海浄土」からの逸話。
 1931(昭和6)年、天皇が水俣のチッソ工場に来たさいには、沿道の部落から不浄だとして追いはら われた同じ天草流れの婦人が、その後、激症の水俣病患者になり、はじめて都から視察の厚生大臣を 病室に迎えた。そのとき、ユキ女は興奮のあまり痙攣発作を起し、「て、ん、のう、へい、か、ばん ざい」と絶叫してしまった。つづいて彼女のうすくふるえる唇から、調子はずれの「君が代」がふる ふるとうたい出されたという。この鬼気迫るシーンに大臣たちは逃げ出したが、この無明の奈落に発 する「日本ナショナリズム」のからみつきに、ただ「前期的」といって応えればよいのか研究者に問 いたい。

 ここでいう「前期的ナショナリズム」とは丸山真男がその論文「日本におけるナショナリズム」で 明治期のナショナリズムを規定した概念である。「丸山説に同調する人も対立する人も無批判に援用 しており、学界では未だに生きつづけている。それへの根本的な疑問やそれに代る概念の提出もほと んど行われていない。」と色川さんは、当時の学界・学者たちの怠慢さ・ふがいなさを批判している。

 色川さんは学徒兵として徴兵されている。上記の二つの逸話に続いて、その軍隊体験を次のように 内観し、個人的体験を取捨した浅薄な論説に異議を申し立てている。
 敗戦のとき私は軍隊にいた。まだ大学生であったが、「物を書く」という行為をはじめていた以上、 私は知識人であった。1945(昭和20)年6月、本土大空襲の下で、海をへだてた沖縄が断末魔の苦しみ におちいり、一日々々皆殺しにされてゆくのを私は無電機にしがみついてジリジリと耐えていた。 沖縄の敗滅はそのまま日本の敗北に通ずることを疑わなかった。私のそのころの同胞と祖国にたいす る憂慮の感情は、極端といってもよい異常なものに昂まり、「吉田松陰とてこれほどまでに憂いはし ない」と日記に書きつけるほどであった。私は大戦期の知識人のウルトラ・ナショナリズムという 一括言語をきくとき、つねづね反発をおぼえてきたが、それは、いわゆる言論人(イデオロー グ)のそれと、私たちのそれとを「混同するな」という実感がわだかまっていたからである。後に なって、あの6月に沖縄で乳呑児をおぶった断髪の婦人が爆雷を抱えて米軍に突入したとか、鉄血 勤皇隊やひめゆり部隊が「海ゆかば」をうたいながら射殺されたという話を聞いたとき、「辺境」 の民のヤマトへの同化をねがう皇民幻想の悲劇をあげつらうまえに、その純烈なナショナリズムの 最期に打たれたのである。これを「近代的知性」とやらで、なんとでも非難し、批判し、切り刻む ことはできる。だが、どのように言葉で寸断しょうと、これらの死者たちの存在のもつ重さ情念にとって代ることはできない。これらが私のナショナリズムにかかわる原風景(イメージ)なのである。
253 日本のナショナリズム(6)
明治期の大衆教化=小学校教育と軍隊教育
2005年4月25日(月)


 吉本論文は前回に紹介した内容に続けて「大衆ナショナリズムの変遷」と題して大正期・昭和期の 大衆ナショナリズムの論考へと進むが、大正期に入る前にここまでの吉本論文を補充したい。 色川論文を読んでみる。

 吉本論文は、唱歌を素材にしている関係上、明治末期から説き起こしている。それに対して色川論 文はまず国家成立以前にまでさかのぼって風土的・歴史的条件によって培われてきた日本人の自然思 想や生活思想の特性を俯瞰する。その上で幕末期の知識人のナショナリズム、維新期・明治初期の支 配者のナショナリズムを論考し、次いで自由民権運動期の大衆ナショナリズムへと論を進めている。
 江戸時代の知識人のナショナリズムがどのように維新期・明治期に継承され、近代日本国家の形成に どのように関わり浸透していったかという問題は日本のナショナリズムを解明する上で一つの重要な 与件だが今はそれは割愛し、吉本論文と重なる論考部分を読んでいきたい。

 色川さんは吉本論文を次のように評価している。
 明治維新から自由民権期にかけてさまざまな民衆のナショナリズムが内からと外から触発され、 徐々に視園を拡大し、それぞれ異質な自己主張をもちだしたことは概観したが、それ以後、日露 戦争頃にかけてどのように展開(ないしは沈潜)していったかを具体的に明らかにすることはき わめて困難である。(中略)いわゆる「底辺民衆」のそれや「最底辺の存在」のそれにいたって は、手がかりとなる直接のものが無いだけに雲をつかむような状態である。そこで種々の歴史的 な類推の方法がとられるわけだが、吉本隆明は自分の原体験をもとに、当時大衆の心情をふかく 捉えていた「小学唱歌」や「童謡」などを素材として、その大衆ナショナリズムの表裏の心情構 造や、それが明治、大正、昭和とどのように変化していったかを鋭い直観で解析している。 その吉本の思考の背後にはかれなりの国家観や日本資本主義分析があるが、明治期をとりあつかっ た部分はそれらとの関連がよくうかがえて、とりわけ説得力がある。

 こうして吉本論文を受け入れた上で色川さんは言う。
 文明開化-自由民権期から明治末にいたる底辺民衆(吉本のいう大衆)のナショナリズムは、 反「近代」・反「文明」の情念を内に包蔵しながらも、しだいに次のような諸力によってその 内奥をこじあけられ、異国にたいする国家的排外心や文明への漠然たる憧憬、あるいは物質的富 や平等を求める屈折した対外志向にと捉えられていったように私は思う。
 そして大衆のナショナリズムの内奥をこじあけていった諸力として次の五点を挙げている。

1 小学校教育
2 軍隊教育
3 対外戦争
4 明治天皇をカリスマとして活用した家族国家論などの支配的思想
5 資本制商品経済等々による漸進的な浸透力

 『大衆のナショナリズムは、これらの諸カとの対応-緊張と感応の過程で自己を変容させ、その測りしれ ない土着的、野性的エネルギーを統御されてゆくのである。』

 第一の力「小学校教育」について。
 まず、明治中期以降の大衆を考えるとき、その大部分が小学校卒であることに、色川さんは注意を促して いる。
 義務教育の就学率は次のように推移している。
  1877(明治10)年:男子45%、女子14%
  1897(明治30)年:男子70%、女子39%
  1907(明治40)年:男子94%、女子85%

 大衆とはこの時期は「小卒」 の日本人をいう。そしてその小学校教育は天皇制国家が直接操作した 全国画一の「国定」教育であって、国策に合致する従順で勇敢な国民をつくりだすという点では世界に も稀な成功を示した、よく組織され体系化された内容のものだったのである。私はかつてその一端を、 国定教科書の分析を通じて実証してみたことがあるが、明治三〇年代にはすでに完成されたそれ らの国定教科書は、先に指摘した天皇制のキャパシティにみごとに照応するような縦深広範な容積を 持っていたものである。それはまた戦後の日本人が考えるほど反動的なものではなかった。「知識ヲ 世界二求メ大イニ皇基ヲ振起スべシ」との方針のもとに、「世界への開眼」を説き、進んで海外情勢 から世界史的な偉人や美談を教材にとりあげ、「進化論」などの新学説の紹介をはじめ人道主義的な 逸話さえ読本に採用している。つまり天皇制が許容する枠いっぱいに、前向きに体系化している。
 西洋に追い着き追い越せの意気込みが感得できる。前に「大東亜戦争」時の第5期国定教科書を 取り上げた(「第213回」~「第224回」)が、第5期国定教科書のような狂気はまだない。しかし もちろん天皇制を浸透させ確立するための方策にも抜かりはない。
 もちろんその中核は「日本の国体」を教えるところ(「大イニ皇基ヲ振起スべシ」)にあるが、 それも押し付け的なやり方ではなく、地理・音楽・自然教科などからの「日本の国土への愛」を もりあげ、また祖先の美談や日本史上の偉人物語などを歴史、修身、国語の各教科の連携プレイに よって積み重ねながら「祖先崇拝」や「忠臣孝子」の意味を情感的に染み透させるという方法を確 立している。「楠正行」-「桜井の別れ」「児島高徳」、「乃木大将」-「水師営の会見」、 「水兵の母」-「黄海の戦い」などの国語と小学唱歌との組み合わせは絶妙であった。しかも、それ らの歌はいずれも哀調を帯びた佳品であり、大衆の心の奥深くに沈潜していった。

 このくだりを私は現今の「日の丸・君が代の強制」「心のノート」の強制配布、音楽教科書の変容、 「つくる会」の社会科教科書などに代表される教育反動の動きを二重写しにして読んだ。

大衆のナショナリズムの内奥をこじあけていった第二の力「軍隊教育」について、色川さんは次のよ うに述べている。
 「軍隊教育」は徴兵令によって大衆の子弟を強制的にあつめ、世間と隔絶した軍の世界で二年間に わたる猛訓練と精神教育をほどこすものであった。それは「軍人勅諭」を最高の教典として、たえず 「国難」を強調し有事にそなえることを心がけさせた。そこで大衆は絶対服従の規律と要領の精神を 体得するのだが、いったん郷里にもどれば在郷軍人として扱われ、草の根の軍の〝細胞″として巣ご もり志向の強い大衆を〝国難予備〟の方向にひきつけておく役割をになわされた。北一輝が『日本改 造法案大綱』で着目したのは、この大衆ナショナリズムの釣ばりである。北はこの予備軍を革命志向 の方向に利用しようと考え、そのための服従価値の源泉である天皇を「一君万民」をたてまえに既成 権力の手から奪回しようとはかったのである。敗戦後、日本が徴兵制による「軍隊教育」のシステム を失ったということは、どれほどナショナリズムの集中力の減退に作用しているか測り知れない。

 「第1回」(2004年8月15日)で私は次のような記事を書いた。
 『自由と民主を僭称する政党を中心とする支配者側は少しずつだが、狡猾にかつ着実に時代 錯誤とも言えるよこしまな目論見を実現し続けてきた。とうとう厚かましくも心の中に土足で 踏み込むように「君が代・日の丸の強制」を打ち出してきた。そして憲法改悪を目論む勢力が 大手をふってのし歩くまでになってしまった。その憲法改悪を米国が催促している。政治評 論家・森田実氏のホームページ
「MORITA RESEARCH INSTITTUTE CO.LTD」
によると、アメリカの狙いは、憲法を改定させて徴兵制を国民の義務にすることだという。」
 北朝鮮の脅威を過度に煽るマスコミや保守系政治家らの言動は憲法改悪のための布石の一つと考えても 考えすぎではないだろう。いまマスコミをにぎわせている中国の「反日デモ」について、こういう事態 を招くためにコイズムは靖国参拝を繰り返してきたのだと穿った見方をしている人もいるようだ。 中国の「反日デモ」も憲法改悪へと世論を誘導する格好の材料だ。週刊誌などは過度にセンセーショナルに に取り上げている。今日の朝日新聞に掲載された世論調査の結果によれば、中国側が「日本の歴史認識 について反省を行動で示すよう求めた」ことに対して71%が「納得せず」と答えたという。
 憲法改悪を許せば、次には当然、徴兵制が浮上してくるだろう。
252 日本のナショナリズム(5)
大衆ナショナリズムの原像(3)「青葉の笛」
2005年4月24日(日)


「二宮金次郎」「冬の夜」「故郷」などの唱歌が『社会にたいする大衆の「ナショナリズム」 の一側面をそれぞれ主題のうえに抽出して』いるのに対して、「青葉の笛」「夏は来ぬ」「すずめ雀」 「七里ケ浜の哀歌」などの唱歌は『大衆の心情そのものの核に下降した表現』と言える。そして、明治 の大衆「ナショナリズム」の表現のうち大正期の大衆の「ナショナリズム」に引継がれていったもの は、政治や社会の主題をとり出したもののなかにはなく、『大衆の心情そのものの核に下降した表現』 であった、と吉本さんは述べている。
青葉の笛


青葉の笛

一 一の谷の 軍破れ
  討たれし平家の 公達あわれ
  暁寒き 須磨の嵐に
  聞えしはこれか 青葉の笛

二 更くる夜半に 門を敲き
  わが師に託せし 言の葉あわれ
  今わの際まで 持ちし(えびら)に
  残れるは「花や 今宵」の歌
     『尋常小学唱歌』1906年(明39)

雀


すずめ 雀

すずめ雀 今日もまた
くらいみちを 只ひとり
林の奥の竹薮の
さびしいおうちへ 帰るのか

いいえ皆さん あすこには
父様 母様 まって居て
楽しいおうちが ありまする
さよなら皆さん ちゅうちゅうちゅう
  『幼稚園唱歌』1901年(明34)7月

七里浜


七里ケ浜の哀歌

一 真白き富士の根 緑の江の島
  仰ぎ見るも 今は涙
  帰らぬ十二の 雄々しきみたまに
  捧げまつる 胸と心

二 ボートは沈みぬ 千尋の海原
  風も浪も 小さき腕に
  力もつきはて 呼ぶ名は父母
  恨は探し 七里が浜辺

三 み雪は咽びぬ 風さえ騒ぎて
  月も星も 影をひそめ
  みたまよ何処に 迷いておわすか
  帰れ早く 母の胸に

四 みそらにかがやく 朝日のみ光
  暗にしずむ 親の心
  黄金も宝も 何しに集めん
  神よ早く 我も召せよ

五 雲間に昇りし 昨日の月影
  今は見えぬ 人の姿
  悲しさ余りて 寝られぬ枕に
  響く波の おとも高し

六 帰らぬ浪路に 友よぶ千鳥に
  我もこいし 失せし人よ
  尽きせぬ恨に 泣くねは共々
  今日もあすも 斯くてとわに
     1910年(明43)2月

 『ここには大衆の「ナショナリズム」の表面にある心情のル・サンチマンが、きわめ てよく表象されている』と吉本さんは言っているが、こうした唱歌に思い入れて感傷に耽る心情 =センチメンタリズムを私も多分に持っていることに思い当たる。
 センチメンタリズムは『なぜ「くらいみちをただひとり」雀はかえるのか? なぜ帰らぬ十二人 の中学生のボート死に「胸と心」を「捧げまつる」のか?』などと問わない。問う必要はない。ひたすら 感傷に没入できればよい。
 それらの歌詞は『敦盛が、熊谷から首をかき斬られたとき、どのように血が吹き出したか、雀はその巣にかえるとき どのように本能的なものにすぎないか、ボートが沈んだとき中学生たちは、いかにもがき苦しみ、 われ先にと生きのびようと努めたか』というセンチメンタリズムの裏面に付着したリアリズムを忘却す るように書かれている。しかし、と吉本さんは次のように述べている。
 しかし、忘却しているのではない。このようなセンチメンタリズムの表現こそは、銅貨の裏表のよ うに、大衆の「ナショナリズム」のもつリアルな、狡猾で計算深い(知識人などのような空想的にで はない)認識をも象徴しているのである。大衆の「ナショナリズム」の心情は、そのセンチメンタリ ズムをそのまま総体としてみることによっても、その裏を返しても、拾いあげることはできないだろう。 わたしたちが大衆の(ヽヽヽ)「ナショナリズム」としてかんがえてい るものは、この表面と裏面の総体(生活思想)を意味するもので、何らかの意味で、その表現にすくい あげられている一面性を意味しているものでないことを強調しておかねばならぬ。
251 日本のナショナリズム(4)
大衆ナショナリズムの原像(2)「二宮金次郎」
2005年4月23日(土)


 社会へと向かう大衆のナショナリズムの心情の象徴として、吉本さんは「二宮金次郎」を 取り上げている。

二宮金次郎



二宮金次郎

1 柴刈り縄ない草鞋をつくり
  親の手を()け弟を世話し
  兄弟仲よく孝行をつくす
  手本は二宮金次郎

2 骨身を惜しまず仕事をはげみ
  夜なべ済まして手習読書
  せわしい中にもたゆまず学ぶ
  手本は二宮金次郎

3 家業大事に(ついえ)をはぶき
  少しの物をも粗末にせずに
  ついには身を立て人をもすくう
  手本は二宮金次郎
   「尋常小学唱歌(二)」1911年(明治44)6月

今では二宮金次郎を知らない人のほうが多いかもしれない。二宮尊徳といえばあるいは 知っている人が増えるだろうか。
 この唱歌に対する吉本さんの分析は次のようである。
 この歌曲の象徴するものは、現実としては都市下層大衆の一部、純農村の一部にしか、現在では、 通用しないかもしれないし、感性としては、ほとんどすべてに通用しなくなっている。
 しかし、これは、近代日本の資本主義の膨脹期に、大衆によってとられた心情の「ナショナリズム」 の一面を表象する。刻苦勤勉し、節約家業にはげみ、立身出世せよという意味で、二宮尊徳の伝記の なかの挿話が唱われる。曲は出処がわからぬが、ポピュラーな歌曲としていいものである。
 これは、「戦友」とはちがって、政治にむかわずに、社会にむかう大衆の「ナショナリズム」をよ く表現している。わたしの推定では、現在、日本の大衆は、刻苦勤勉し、節約家業にはげめば、社会 の上層に立ちうるということを、現実的にほとんど信じてはいまいし、またそれは不可能であること をよくしっている。知識人もまた同様である。
 しかし、現在、日本の産業資本・金融資本を支配している人物たちは、大なり小なりこのタイプの 人間であり、また、知識人は、ごく少数のものが、このモラルを信じているだけである。それにもか かわらず、潜在的には、すべての大衆と知識人は、この資本制上昇期の大衆「ナショナリズム」をみ ずからのうちにかくしていると、わたしにはおもえる。

 次に「冬の夜」と「故郷」を取り上げ『これらはいずれも、社会にたいする大衆の「ナショナリズム」 の一側面をそれぞれ主題のうえに抽出しており、またそれ故に大衆の間に広く流布されたの である。』(下線・・・仁平)と述べている。
冬の夜


冬の夜

1 燈火ちかく(きぬ)縫う母は
  春の遊びの楽しさ語る。
  居並ぶ子どもは指を折りつつ
  日数かぞえて喜び勇む。
  囲炉裏火はとろとろ
  外は吹雪

2 囲炉裏のはたに繩なう父は
  過ぎしいくさの手柄を語る。
  居並ぶ子どもはねむさ忘れて
  耳を傾けこぶしを握る。
  囲裏炉火はとろとろ
  外は吹雪
   「尋常小学唱歌(三)」1912年(明治45)3月

故郷


故郷

1 兎追いしかの山
  小鮒釣りしかの川
  夢は今もめぐりて
  忘れがたき故郷

2 いかにいます父母
  つつがなしや友がき
  雨に風につけても
  思いいずる故郷

3 こころぎしをはたして
  いつの日にか帰らん
  山はあおき故郷
  水は清き故郷
   「尋常小学唱歌(六)」1914年(大正3)6月
250 日本のナショナリズム(3)
大衆ナショナリズムの原像(1)「戦友」
2005年4月22日(金)


 吉本論文は「大衆ナショナリズムの原像」に二つの面からアプローチしている。
 一つは政治に向かう心情表現で、「戦友」を代表例としてあげ、「広瀬中佐」、「水 師営の会見」、「婦人従軍歌」などの唱歌によって流布されたとしている。
 もう一面は社会に向かう心情表現で、「二宮金次郎」を代表例としてあげ、「仰げば尊し」、 「はなさかじじい」、「冬の夜」、「故郷」などの唱歌をあげている。

 まず第一の政治に向かうナショナリズムについて、「戦友」が戦後にリバイバルしたときの個 人的な感慨から書き始めている。
 アイ・ジョージの唱う「戦友」を、わたしはテレビの画面を通じてたびたびきいた。そこにはいつも 総体的な暗い感銘がある。その歌をうたえば復古調であるといわれないか、それは好戦的と呼ばれまい か、というようなつまらぬ知識人インターナショナリズムの理念に、わずらわされず、また、反対にこ れらのもつ意味を忘れるべきではないというような知識人の逆の意味での理念にもわずらわされず、 きわめて「自然」にちかく、唱っていることが、暗いが総体性のある感銘を形づくつている。インタ ーナショナリズムの立場からナショナリズムを評価するといった、花田清輝やその亜流のような、馬鹿げ た理念からあたうかぎり遠ざかって、みずからよい曲と信じ、よい歌詞と信じ、またみずから通過した 体験を核にして、それは歌われている。

 「戦友」の歌詞は14番まであるが、吉本さんは論述を進めるために必要な部分として、その3番から 6番の歌詞を引用している。

 ここでふと疑問に思ったことがある。吉本さんは引用する唱歌の洗礼を受けた人たちとして 30歳から40歳(論文が書かれた当時の)ぐらいまでの人を想定している。吉本論文が書かれたのは 1964年だから1920年前後から1935年前後生まれ以上の年齢になる。現在では70歳から80歳ぐらい以上の人 に当たる。
 このホームページを覗いてくれている人はどのくらいの年齢の人たちだろうか。若い人はあまりいない だろうと想定しているが、もしかすると「アイ・ジョージなんて歌手、知らないよ」とか「戦友?聞いた ことないな」という人もいるかもしれない。試みに身近にいる26歳の青年に尋ねてみたが「戦友」を知ら なかった。当然といえば当然なことだし、そんなの知らなくても一向に差し支えないのだが、座興もか ねて全歌詞と楽譜も紹介しよう思う。吉本論文や色川論文が歌詞を引用している唱歌については資料があ ればそうしようと思う。

戦友



戦友

1 ここは御国を何百里
  離れて遠き満洲の
  赤い夕日に照らされて
  友は野末の石の下

2 思えばかなし昨日まで
  真先かけて突進し
  敵を散々懲らしたる
  勇士はここに眠れるか

3 ああ戦の最中に
  隣りに居った此の友の
  俄かにはたと倒れしを
  我はおもわず駈け寄って

4 軍律きびしい中なれど
  これが見捨てて置かりょうか
  「しっかりせよ」と抱き起し
  仮繃帯も弾丸の中

5 折から起る突貫に
  友はようよう顔あげて
  「お国の為だかまわずに
  後れてくれな」と目に涙

6 あとに心は残これども
  残しちゃならぬ此体
 「それじゃ行くよ」と別れたが
  永の別れとなったのか

7 戦すんで日が暮れて
  さがしにもどる心では
  どうぞ生きって居てくれよ
  ものなといえと願うたに

8 空しく冷えて魂は
  くにへ帰ったポケットに
  時計ばかりがコチコチと
  動いて居るも情なや

9 思えば去年船出して
  お国が見えずなった時
  玄海灘で手を握り
  名をなのったが始めにて

10 それより後は一本の
  煙草も二人わけてのみ
  ついた手紙も見せ合うて
  身の上ばなしくりかえし

11 肩を抱いては口ぐせに
  どうせ命はないものよ
  死んだら骨を頼むぞと
  言いかわしたる二人仲

12 思いもよらず我一人
  不思議に命ながらえて
  赤い夕日の満洲に
  友の塚穴掘ろうとは

13 くまなく晴れた月今宵
  心しみじみ筆とって
  友の最后をこまごまと
  親御へ送る此の手紙

14 筆の運びはつたないが
  行燈のかげで親達の
  読まるる心おもいやり
  思わずおとす一雫
『学校及家庭用言文一致叙事唱歌(三)』1905(明治38)年9月

 唱歌を作詞作曲するのは知識人である。そこに表現されている理念は知識人によってとらえられた 大衆ナショナリズムであり、これをそのまま大衆のナショナリズムと考えることはできない。しかしこの 唱歌が大衆の心情をとらえたのは確かであり、だから愛唱歌として歌い継がれていった。吉本さんは そのことを次のように言っている。
 これをそのまま、日本「ナショナリズム」の大衆的心情とかんがえると、誤解を生ずるとおもう。 戦争はリアルなものであり、この歌曲とおなじ位相で、「友」を弾よけにして「我」は逃げるという 場面が、戦争のなかでなんべんも繰返されるということを想定できるからである。しかし、知識人に よってとらえられた日本「ナショナリズム」の大衆的「連帯」の理念はこのようなもので あった。そこでは「お国の為」が、個人の生死や友情と矛盾し、それを圧倒し、しかしあとに余情が 残るということが表現された。この表現には、いうまでもなく、その裏面に、他人のことなど、己れ の生命のために構ってはいられない、また己れの利益のためには「お国の為」などかまっていられな いという、明治資本主義が育てた理念を、かならず付着しているものである。

 そして続けて「ウルトラ・ナショナリズム」に言及している。
 おそらく後年、昭和にはいってウルトラ=ナショナリズムとして結晶した天皇制イデオロギーは、 己れのためには「天皇」や「国体」なぞは、どうなってもしかたがないという心情を、その底にか くしていたのである。明治において、はじめにたんなる裏面に付着していたにすぎない個人主義が、 ひとつの政治理念的自己欺瞞にまで結晶せざるを得なかった実体を、わたしたちは、「天皇制イ デオロギー」あるいは「ウルトラ=ナショナリズム」とよんでいる。このような自己欺瞞は、大な り小なり、理念が普遍性を手に入れるためにさけることができないものである。

 普遍性をもつ理念には何らかの自己欺瞞が含まれていると言っている。さらに吉本さんはこの政治へと向かうナショナリズムを流布していった唱歌「戦友」、 「広瀬中佐」、「水師営の会見」、「婦人従軍歌」などに関連して、戦前の左翼的知識人が 陥っていた陥穽にふれている。
 現在(1964年当時・・・仁平)、四十歳をこえる者は、大方これらの心情を、肯定または反撥 として通過しているはずである。 第二次大戦前の古典時代に、日本の知識人が、少年期をへて長じて社会意識に目覚め、左翼イデオロ ギーを獲取してゆくばあいは、ひとつには、このような意味で表現された大衆的「ナショナリズム」の 裏面に、どれだけの虚偽が付着しているかに気付いてゆく過程としてあらわれた。いいかえれば、社会 のリアリズムに目覚めていく過程として。そして、このリアリズムが、またどれだけの虚偽をスターリ ニズムとして含むものであるかを知らなかったのである。

 左翼イデオロギーの理念の中にも自己欺瞞と言う虚偽が含まれること知るべきだと言っていると思う。
249 日本のナショナリズム(2)
「大衆」とは何か
2005年4月21日(木)


 これからお世話になる論文を改めて書き留めておく。

吉本隆明「日本のナショナリズム」(「自立の思想的拠点」所収)以後吉本論文と呼ぶ。
色川大吉「日本のナショナリズム論」(「岩波講座・日本歴史17」所収)以後色川論文と呼ぶ。
菅谷規矩雄「詩的リズム」(大和書房)これはずばり「詩的リズム」と呼ぶ。

 さて、吉本論文はまずナショナリズムと言う言葉の意味とナショナリズム論の混迷状況から 説き起こしている。
 「ナショナリズム」というとき、ひとによってさまざまなかげりをこめて語られる。社会学・政治学 の範疇では、世界史が資本制にはいってから後に形成された近代国家そのものを単元として、社会や政 治の世界的な諸現象をかんがえる立場をさしている。近代資本主義そのものと相伴う概念である。
 しかし、「ナショナリズム」という言葉が、世界史の尖端におくればせに登場した国家・諸民族に よってかんがえられるばあい、民族至上主義・排外主義・民族独立主義・民族的革命主義などの、さま ざまなかげりをふくめて語られる。そこでは、すでに規定そのものが無意味なほどである。
 さらに、これが、日本の(ヽヽヽ)「ナショナリズム」として、明治以後 の日本近代社会におこった諸現象について語られるとき、天皇制的な民族全体主義・排外主義・超国家 主義・侵略主義の代名詞としての意味をこめて、怨念さえ伴われる。もちろん、この場合でも、桑原 武夫・加藤周一その他におけるように、近代日本資本主義社会の体制的表現としてのナショナリズムの 意味でつかわれ、その再認識が語られるばあいがないわけではない。しかし大抵は、日本のナショナリ ズムは、天皇制を頂点とする排外主義・帝国主義・膨脹主義の権化としてリベラリスト・進歩主義者・ 「マルクス主義」者の指弾の対象として取上げられるか、あるいは、この反動として日本近代天皇制 トオタリズムの再評価すべきゆえんとして語られるか、である。
 さらに、日本の「ナショナリズム」が、政治や社会の諸現象のレベルをはなれて、体験のレベルとし て、それぞれの個人によって語られるや否や、あらゆる論議は、冷静さを失い、その様相は一変する。 つまり、日本の「ナショナリズム」は、まだ論理的な対象として分離されない段階にあることがわかる。

 戦後のナショナリズムについて、最近、小熊英二さんがそれを論理的な対象となして「<民主>と <愛国>」という成果をあげているにもかかわらず、ナショナリズムをめぐる社会的・政治的状況は 吉本論文が書かれてから30年後の今日でもほとんど変わっていない。吉本論文は、謂わば、日 本の「ナショナリズム」を「論理的な対象として分離」する試みであり、現在でも意義ある論文だと 思う。
 吉本さんはまず「大衆ナショナリズム」を解き明かそうと試みているが、ここで言う「大衆」の意味を 確認しておく必要がある。
 個人的な体験から世界観にわたるこの思想性の錯綜を考慮にいれたうえで、日本の「ナショナリズム」 を系譜としてとりだすことは、不可能であるとおもわれる。やむをえず、わたしの問題意識をもとにし て、これに接近するほかはない。
 わたしがもっとも関心をもつのは、決して「みずから書く」という行為では語られない大衆の「ナショ ナリズム」である。この関心は、「沈黙」から「実生活」へという流れのなかで消えてしまって、ほと んどときあかす手段がない。

 マス・コミュニケーション下にみずから登場する「知的大衆」を「大衆」と見なし、知識人にちかづく ことを高次にあるものと見なすという一般的に流通している大衆概念に反対して吉本さんは 『「大衆」を依然として、常住的に「話す」から「生活する」(行為する)という過程にかえるものと してかんがえ』ている。すなわち『けっしてマス・コミ下に登場しない「マス」そのもの』が吉本さんが言う 「大衆」である。
 この大衆が知的に上昇していったとき、『すなわち「書く」という行為と修練に参加したとき、すでに これらの大衆にとらえられたナショナルな体験の意味は、沈黙の行為から実生活へと流れる大衆そのものの思考 とはちがったものとなっている』。と吉本さんは言う。したがって戦没学生の手記、戦没した農民の 手記、疎開学童の記録、主婦の戦争体験といった記録にあらわれた体験と思想を、そのまま大衆の体験と 思想とみなすことはできないと言う。
 それでは、『「みずから書く」という行為では語られない大衆の「ナショナリズム」』をときあかす手 段はあるのか。
 このようにして、大衆のナショナルな体験と、大衆によって把握された日本の「ナショナリズム」は、 再現不可能性のなかに実相があるものと見倣される。このことは、大衆がそれ自体としては、すべての 時代をつうじて歴史を動かす動因であったにもかかわらず、歴史そのもののなかに虚像として以外に登 場しえない所以であるということができよう。しかし、ある程度これを実像として再現する道は、わたし たち自体のなかにある大衆としての生活体験と思想体験を、いわば「内観」することからはじめる以外に ありえないのである。
(中略)
 ある時代のある文化のヒエラルキーは、大衆そのものからの、彎曲を意味している。ただ、この彎曲を とおしてしか、ある時代思想は、すすめられることはないのである。文化を主軸とすればもちろん、歴史 体験を主軸とするとき、つねに大衆それ自体は、決して舞台に登場することのない主役としての存在であ ろうか? この問いは切実である。

 かくして吉本さんは自分自身の中にある『大衆としての生活体験と思想体験』への内観と、『大衆そ のものからの彎曲』したものという認識を保持しつつ大衆の文化(愛唱歌)を、『「みずから書く」という 行為では語られない大衆の「ナショナリズム」』をときあかす手段として選んで論考を進める。
248 日本のナショナリズム(1)
はじめに
2005年4月20日(水)


 前回の『もう一度「戦争案内」の案内』で引用した戸井さんの文章に次の一節があった。
 「どうしてそういう世の中になってしまったのです、してしまったのです」 ―ここの ところがむずかしくて、わたしにもよくわからないのだが、ぼくの生まれるずっと前から、 長い年月かけて代々の大人たちがそういう世の中をつくってきたことだけは確かだ。そこ がおそろしいのだが、そのへんを、もっと勉強するしかないと思う。

 このホームページで私はもっぱら他人のことばの受け売りをやっている。それは私に人に語るべき ほどの蓄積がないからだ。つまり私はこのホームページで戸井さんが言うところの「勉強」をしてい るつもりなのだ。そして「もっと勉強するしかない」と思っている。

 北村小夜さんの「危ない教科書・音楽」を取り上げていたとき、二つの課題が浮かび上がっていた。 一つは明治からこのかたの大衆の愛唱歌を素材に「日本のナショナリズム」を論じている吉本隆 明さんの同名の論文を読み直すことである。(この論文の一節を「第136回・2004年12月28日」で 引用している。)
 もう一つはそれらの愛唱歌がなぜ愛唱歌になるのかという疑問をもった。日本語や日本人 の音楽的感性にどんな特質があるのか。この疑問に答えてくれそうな論考として菅谷規矩雄さんの 「詩的リズム」が思い浮かんでいた。これも読み直してみようと思った。実は「詩的リズム」には 吉本論文について論評している部分がある。

 吉本さんの論文「日本のナショナリズム」はナショナリズムの岩盤にまで掘削を届かせたユニーク でかつ優れたものと思っているが、その後、肯定的にであれ批判的にであれ、これを超えるナショナ リズム論はないようだ。小熊英二さんの「<民主>と<愛国>」は戦後日本のナショナリズムがテーマ なので吉本さんの「日本のナショナリズム」を取り上げる場ではないかもしれないが、本文では全く 触れていない。註でほんの少し言及しているだけだ。

 「国定教科書」をテーマにしているとき、何かよい資料はないかと岩波講座「日本歴史17」をめくって いたら、色川大吉さんの「日本のナショナリズム論」という論文に出会った。色川さんはそのはしがき で吉本さんの論文「日本のナショナリズム」を高く評価している。

   いまなぜ「ナショナリズム」を取り上げるのか、「ナショナリズム論」の状況はどうなっているの か、その中で吉本論文はどう位置づけられるのか、色川さんの「日本のナショナリズム論」はどういう 動機と意図を持って書かれたのか。まずそれらの観点から色川さんの「はじめに」読んでみる。

 色川さんはまず「日本のナショナリズムを総体として論じ、思想としての衝撃力を持った論文が戦後の 日本にどれほどあったろうか」と問い、日本史学会にはめぼしいものがほとんどないと嘆いている。
 そして「よく戦後三〇年の風雪に耐え得たもの」(色川さんのこの論文が書かれたのは1975年前後) として、「西欧近代のモデルを理念化し、自己否定の契機として日本のナショナリズムの病理を総体とし て解析した丸山真男の「日本におけるナショナリズム」(『現代政治の思想と行動』)」と、「魯迅や 中国のモデルを否定の契機として日本ナショナリズムの特質を摘出した竹内好の諸論文(竹内好評論 集、第三巻『日本とアジア』)」をあげている。いずれも 戦後数年のあいだに書かれたものである。
 それから約10年後(1964年)、「安保反対闘争の過程で大衆ナショナリズムという新しい概念を提出し、その 基底の視角から日本のナショナリズムの総体(支配層のナショナリズム、知識人のナショナリズム、大 衆のナショナリズムの関連構造)を逆照射して丸山らを批判した吉本隆明の論文(「日本のナショナ リズム」)があらわれ、大きな影響をあたえた。」
 それ以後、上山春平、神島二郎、橋川文三、松本三之介らのカ篇が書かれているが、本質的な方法 論上の論争に発展せず、思想的な衝撃力という点からするなら、丸山・竹内・吉本のそれに及ぶこと はできなかった。右の三氏はそれぞれするどく現実とかみあい、本質的な視点を提起し、総説を展開 していたからである。
 こんど私はそれらを通読して、あらためて日本のナショナリズムの問題が理論面でもまだ解決されて いないことを痛感した。実証的な面における研究の不足についてはいうまでもない。この問題は日本文 化および日本社会の伝統的体質や近代化の理解と結びついているばかりでなく、何よりも天皇制の本質 と深く関連している。その上ナショナリズム生成の時期が近世中期から現代までの二世紀余にわたり、 しかも日本近代の思想史、政治史の骨格をなしているものだけに、その総体を歴史学的に実証してゆく ことはきわめで困難なのである。
(中略)
だが、この詩人にして思想家なる人の大胆な「ナショナリズム」論は(かれのスター リン主義批判や「自立」の理論と共に)、多くの読書人に衝撃をあたえたにもかかわらず、学界内部 の研究者には破壊力を及ぼすことはできなかった。学界内の研究者は亀甲のように厚い皮をかぶった 進歩主義史学なるもののパラダイムの中に安住し(しかも、ほとんど大学に職を得て保守化しており)、 吉本論文を気のきいたエッセイのたぐい、新左翼の口の悪い男の一評論ぐらいにしか受けとめなかった のである。つまり、「私の近代史研究とは関係ない」「あれは学問ではないよ」 といった程度の反応であった。
 私はそのことを同じ研究者の一人として残念に思う。その批判が学界外のどこから誰から来たものであ ろうと、近代史の方法の本質にかかわるものであるなら、研究者は謙虚に受けて立つべきであった。吉本 論文中、もっとも激しい批判をあびた上山春平は、吉本の激語を冷静な学的態度でうけとめ、丸山真男 と対照して吉本隆明の思想的位置を確定し、吉本説を相対化しようとする論文を発表した。その態度は 立派だが、上山のその試みは見当はずれであって成功していない。だいいち上山は吉本の思想言語を理 解せず(たとえば「揚げ底」などについては全くの誤解である)、 吉本の思想を単純化しすぎたため、吉本の大衆ナショナリズムの視点から日本のナショナリズムの総体を関連づけて 把握したその方法上のメリットを評価できないで終った。そこで私もかれらが提起した仮説にたいして、遅ればせな がらこの機会に研究者として発言してみたいと思う。

 次回から吉本さんの「日本のナショナリズム」と色川さんの「日本のナショナリズム論」と菅谷 さんの「詩的リズム」を読み合わせながら日本のナショナリズムについての理解を深めていこうと 思う。ずいぶん欲張ったことを考えてしまった。私にとっては大変な難題で、うまく いくかな?チョッと心配になっている。
247 もう一度「戦争案内」の案内
2005年4月19日(火)


 「戦争案内」のあとがきを抜粋して、戸井昌造さんの思いを反芻しておこうと思う。
 侵略地・中国から命からがら復員した学徒兵・戸井昌造はどのように生きてきたか。
 私はとりあえず早稲田大学に復学したが、生きて帰ってくるやつらは、一応のインテリ だから、みんな私と同じ気持だとばかり思っていた。 ―おれたちの生命がなんでこんな に軽々しいものにされてしまっていたのか、そのことになぜ平気でいられたのか、おれた ちの人生って何だろう、人間の尊厳はどうなってしまったのだろう……どこかが根本的に 違っている― 私の考えは単純素朴ながら本気でそこへ行きついた。学友たちみんなが私 と同じだろうと思った。ところが、生きて帰れたクラスメイト46人のうち、このよう に考えて、人間というものを社会的視野からとらえ、人間性をないがしろにする、社会の 構造的矛盾に気づき、社会の変革のための行動に参加していったやつが、私を含めて3人 しかいなかった。私の(はえ)ある少数派人生はこのとき から始まった。

 同じ体験をしてもそこから何を掴むか、人さまざまだ。体験から本質的な課題を掴んで それをその後の生き方に生かす戸井さんのような人はごく少数だ。「教育の戦争責任」で 見てきた人の生き方のさまざまなタイプの比率はここでも同じだ。多くは『戦友会に出て、 酒のんで、軍歌を高唱して「あのころはたいへんだったなあ、時代が悪 かったなあ、戦争はもうコリゴリ、二度としちゃいかんなあ……」などとほざいてなぐさ めあう』のがせいぜいで、まるで戦争体験などなかったかのように時流に埋没して行った。
 しかし、戦争体験をしっかりと受け止めた戸井さんでさえ次のように述懐する時が来る。
 ふり返ってみれば、戦争から帰って最初の十年間は、戦争のセを聞くのもいやだった。  二十年経つとそれほどでもなくなり、三十年経ったころには、辛かったことがなつかしく さえなってきているのに気づいて愕然とした。 そして四十年-戦争は冥茫(めいぼう) のかなたに遠ざかりつつある。いま、この本ができてよかったと思う。

 体験しても体験しないものが圧倒的多数だ。体験を体験した者も記録をしなければ体験は人に知 られず消え去る。戦争体験を次の世代に伝えることの何と難しいことか。
 いまこの本を書き終えて思う、もうひとつは、わたしたち六十歳以上の人間は、ツケを 次代にまわすようなことだけはやっちゃいけないということ。そしてできれば、ボケてし まわないうちに、もう一度自らの人生をしっかり反省しておくべきではないか、というこ とだ。その反省のなかに「戦争」をキチンと据え、あのとき自分はどう考え、なにをした かを、真正直に想い起こすべきではないだろうか。そうして、自分自分の 『戦争案内』を 次代に残すべきではないだろうか。
 一言つけ加えると、戦中、戦後の苦労もさることながら、「戦前」 に対する反省がわた したちに欠けているように、近ごろ思えてならない。
 反省はいくらしてもしすぎることはない。なぜならば、どんなに反省しても、決して 「侵略された側」 に立つことはできないのだから。
 さきに、日本人の戦争犠牲者についての数字をあげたが、中国では、四百万人の中国軍 将兵が死傷し、二千万人にのぼる一般中国人が殺されたり傷ついたりしているのである。 これが「侵略」でなくてなんだろう。

 いま中国では「反日デモ」が暴動寸前にまで激しくなっているが、それへの対処には上記の ような事実をしっかりと踏まえた上で臨まなくては真の解決はありえない。今の日本の為政者 たちにそれは望むべくもない。
『「戦前」に対する反省がわたしたちに欠けているように、近ごろ思えてならない。』と戸井 さんは言う。いままた「戦前」がめぐって来た。いやもう「戦中」だという人もいる。
 私は、私なりに権力の横暴に抗し、社会の不正と闘い、戦争への道を赦さない行動をし てきたから、もうちょっと明るく希望的な老後が来るはずだと思っていた。ところがこの ままいけば、未来は明るいどころか、たいへんなツケを次代に残してしまうことになる。  この本が、過去のいまわしい戦争の単なる記録としてでなく、今の日本のおぞましき事 態を変えていくきっかけにちょっとでもならないだろうか。そういうふうに読まれてこそ、  この本が再刊された意義があるということではないだろうか。

 最後に戸井さんの若い人たちへのメッセージを、若い人のひとり?として、私も受け止 めようと思う。
 この本を読んで、若い人は「よくまあ、そんなバカなことが……」と思うだろう。たし かにバカげたことだったのだ。しかし「そんなバカなことはもう二度とあり得ない。そん なことは社会がゆるさないし、良心がゆるさない」と思われたら、それはちょっと違うん じゃないかな。もう少し深く読んでほしい、そして考えてほしい。
 気骨ある若者はこう迫るかも知れない。「どうして忌避しなかったんだ」と。これには はずかしながら頭をさげるしかない。
 言い訳めいたことをちょっと言わせてもらえば、当時の「忌避」は即、決定的身柄の拘 束か、悪くすると(たとえば戦場では)銃殺刑だったのです。そういう時代になってからで はおそいのです。
 「どうしてそういう世の中になってしまったのです、してしまったのです」 ―ここの ところがむずかしくて、わたしにもよくわからないのだが、ぼくの生まれるずっと前から、 長い年月かけて代々の大人たちがそういう世の中をつくってきたことだけは確かだ。そこ がおそろしいのだが、そのへんを、もっと勉強するしかないと思う。
 ある読者は「戦争って、ちっともカッコよくないし、軍隊もいい加減なものだったんで すね」と言うだろう。そうなんだよ。
 戦争はコンバットでもなければ、バトルでもない。もっと大きく、つかみどころなく、 不潔で、隠微で、だらしなく、気狂いじみたものなのだ。それが「国家」のやる戦争なん だ。宇宙戦争になっても同じこと、結局へイタイが死ぬのです。その死にかたも「悲惨」 や「悲壮」なものばかりではないのです。戦争には悲惨や悲壮の局面がたしかにあります。 しかしそれは、戦争というものの、突出した一部分にすぎない。「悲惨」は、批判の余地 もない極限の状況だから、それ自体で完結してしまう魔力を秘めているし、「悲壮」は難 なく悲壮美につながる魔性をもっている、とわたしは思うのです。それらがひり出されて くる底には、圧倒的な「非人間的日常」が重苦しく沈んでいるのです。
 終戦時に、帝国陸軍の百万以上の大軍が中国大陸に釘づけにされていた。その一人がわ たしなのだが、無為の百万の軍勢 ―これをどう思いますか。戦争とはそんなものなので す。

 どうか、多くの人に「戦争案内」を読んでほしいと思う。
246 おそまきながら「九条実現」報告
2005年4月18日(月)


 先週の日曜日(4月10日)「九条実現」という集会に参加した。「くじょうさねみ」という お公家さんを支援する会だと思って行ったが、あにはからんや鶴見俊輔、澤地久枝、小田実の 話を聞く会だった。飛び入りで、なだいなだまで登場した。各氏の話の内容は主催者の「市民意見30の会」 が機関紙「市民意見30の会・東京ニュース」に集約するということなので詳しくはそれを待つことにし、 ここでは特に印象に残ったことだけを書きとめておく。もう一週間以上もたっていて、ただでさえ いい加減な記憶がさらにいい加減になっていてはなはだ心もとないのだが。

 鶴見さんはこの国はもうだめだという。最後のぎりぎりのところで座り込みで抵抗する。逮捕され て投獄されたら日米の監獄比較論を書くと、冗談めかして言っていた。周知の通り、鶴見さんは日米 開戦のときにアメリカで投獄されている。
 先週ちょうど戸井昌造さんの「戦争案内」を読んでいた。そのあとがきで戸井さんの次のような 現状認識に出会っていたので、鶴見さんの現状認識をそれと重ねて聞いていた。
 私は敗戦後、今日まで五十数年間の人生を「人間として生きる」ということを、体の奥 底に据えて生きてきたつもりである。社会的行動としては反戦平和を貫き、少しでも戦争 に近づくようなことに対して抵抗し続けてきたつもりである。いちいち振り返る余裕は今 ないが、つきつめて言うならば、非人間、非民主主義的思考の元兇は天皇制であり、政治 的社会的諸悪の根源は日米安保条約にあるということ、これが基本である。
 六〇年安保闘争に私たちが負けたことが、今日の日本にずーっと尾をひいている。その 安保が今、さらに、いわゆる「新ガイドライン法案」で徹底的に日本人に禍いをもたらす 方向で強化されようとしている。そのほか、俗に言う「盗聴法」とか「日の丸・君が代法 制化」とか、おぞましい悪法がどんどん国会を通っていく、あるいは通っていこうとして いる、この不気味さはなんだ。
 私は初版本のあとがきに「戦前に対する反省が大事」というようにも書いた。私は機会 あるごとにそのことについて話したり、書いたりしてきた。つい一年ぐらい前までは「今 の日本は私のこどもだった昭和二、三年ごろとよく似ている」と言ってきたのだが、今は 一挙に数年間飛んで昭和六、七年ごろ、つまり軍国日本が公然と(もちろん謀略的方法を もって)中国大陸侵略を始めたころに立ち至ったと思わざるを得ない。
 しかもあのときは「お国のため」とか「東洋平和のため」とか「東亜新秩序のため」と か、欺瞞にしても日本国中の愚民を頷かせるスローガンがあった。そしてすべての国策の 頂上に天皇がいた。だから私たち皇民は反対できなかった。そういう点では、今は天皇の かわりに安保である。そしてさらにひどいことに、新ガイドラインでアメリカの世界戦略 の子分にしたてあげられようとしている。このような由々しき事態に国民の圧倒的多数は 無関心であり、巷には愚劣と頽廃と兇悪が横行している。大人たちは不況と失業の不安に おびえながらなにもできないでいる。これはもう昭和十三年の国家総動員法体制の前夜で はないか。世界に誇れる「日本国憲法」は一体どこへ行ってしまったのか。

 飛び入りのなだいなださんが「鶴見さんのような弱気になってはいけない、諦めずにがんばろう。」 と言う。
 小田さんは「だめになっているのは国家であり、国家などだめになっても無くなっても一向に差し支 えない。国家が無くなったところからまた始め直せばよい。」と言う。
 澤地さんは「現在の子どもたちやこれから生まれてくる子どもたちにどのような社会を残してあげら れるのか。私たちの責任だ。そのためにやれることをしっかりやろう。」と言う。

 大変厳しい状況だが、うん、まだまだこれからだ。

 さて、澤地さんは現在の反動的な時代状況を許している原因一つとして戦争体験の引継ぎの希薄化を 挙げて、 「まだの人は大岡昇平の『レイテ戦記』をぜひ読んでほしい、そして若者たちに薦めてほしい」と言って いた。戦争を直接体験した人が、戦争体験を語る人が少なくなってしまったのだ。

 私は「レイテ戦記」を読んでいない。澤地さんは「『レイテ戦記』が長すぎると言うのなら『野火』を 」とも言っていたので「レイテ戦記」は相当な長編らしい。
 そこで私としてはつい先日読み終わったばかりの戸井昌造著「戦争案内」(平凡社ライブラリー) を推薦したい。第一次学徒出陣で徴兵され、兵隊に仕立て上げられ、占領地・中国に送られた体験を、 シビアに、時にはユーモラスに描いていて読みやすく一気に読める。戦争や軍隊の非人間性・不条理・残 虐性などが余すところなく伝わって来る。

 それにしても、鶴見俊輔83歳(1922年生まれ)、澤地久枝75歳(1930年生まれ)、 小田実73歳(1932年生まれ)、なだいなだ76歳(1929年生まれ)、皆さん声が若く元気でその衰えぬ 精神力・記憶力に驚嘆した。私たちわかい者?がへこたれてどうする!!
 そして戸井昌造もべ平連に名を連ねた人だ。「昭和18年(1943年)12月1日、ぼくは 兵隊になった。第二早稲田高等学院の二年生で、ちょうど二十歳になったばかりだった。」と 「戦争案内」を書き始めている。 鶴見俊輔と同い年のようだ。「戦争案内」の平凡社ライブラリー版のあとがきの日付は1999年7月、 その翌年2000年4月18日に亡くなられた。合掌。
245 むかしむかし、こんなことを考えていた。(5)
なぜ教師か(2)
2005年4月17日(日)



 差別と選別の教育体制のもとで、いためつけられ、黙殺されてきた生徒たち ― その生徒たち をほんとうにできるようにする。一人前の人間に育てあげていく。そのことと、私たちの生活や 権利を守ること ― 首切り合理化阻止のたたかいとは、深く結びあわされていたのだった。
 つまり、この職を離れてどこにもいくところはない。私たちの生活の基礎はこの職場をおいてほか にない。だとするならば、この生徒たちをまともに引き受け、まともに育ててゆく、それ以外に私たち の生きる道はないのではないか ― これが私たちの、いつわりのない裸のままの姿であった。 (正則学院教職員組合編「高校生活 ー青春をきずく生徒と教師たち」)

 つねに首切りの問題に立ち会わされている正則学院の教師たちのこの問題意識は、僕ら都立高校の 教師には欠落しがちである。都立高校の教師にはクビになる心配はほとんどない。もう少し正確に言 えば、意識的であろうとなかろうと、積極的に国家権力の代弁者代行者の役回りを担うか、積極的で はなくとも従順にその役回りから逸脱しないか、あるいは常識的に適当にやり過ごしている(これは これで充分に体制擁護者である。)限り、絶対にクビにならない。ぼくは最後の部類だろうか。まず はご同慶のいたりというべきか。

 さて、正則学院の教師たちが優れた実践を担い通せたのは、彼らの教育活動が何よりもまず、自分 のためのものだったからにほかならない。彼らには理念皆無の現実論も、イデオロギー至上のタテマ エ論も無縁である。<教えるものー教えられるもの>という構図を突出して、彼らは生き生きとした 人間ヅラをしている。


 「社会」であれ「生徒」であれ、教師であることの根拠を「自分」以外のところに置く限り、僕ら の実践は中途半端なツジツマを合わせるだけのものに終わってしまうことを痛感する。ぼくは、今ま で放置しておき、意識化・論理化できていなかった「自分のため」という根拠を掘り下げてみなけれ ばならない。

 「自分のため」というもの言いには<自己の人格完成>というような倫理的な響きもあるが、ぼく の言う「自分のため」は、勿論のこと、そのような意味合いは含まない。
 また、先の正則学院の教師たちの手記からの引用文では、「自分のため」は単なる<なりわいのた め>のように誤解される恐れがあるが、ただそれだけではない。<なりわい>はあらゆる活動の基盤 だから、言うまでもなく大事である。しかし単なるなりわいのための実践がぼくらを強く打つはずが ない。
 問題を問い直せば、「自分のため」のうちの<なりわい>以外の何が実践を優れたものになし得る のか、なぜそれは普遍的な価値や意味を持ってぼくらを打つのか。


 ぼくは6月問題の後も、尼崎工高を訪ねた。前川さんや福地さん(仁平注:ともに尼崎工高の教師) から当時の模様を聞き、生徒たちも偉かったが、それを真正面から受けてたった教師集団も大したもの だと思った。ある生徒は「わしが、そこらのパチンコ屋で時間を過ごすよりも、ここに居てよかったと 思うような充実した授業をしてみい」と教師に迫ったという。こうして教師たちは鍛えられ、成長して いった。中には、この厳しさに耐えられず、ノイローゼになり転勤したり、退職したりした教師も居た そうである。
 僕は一種羨望の念を抱きながら、前川さんたちの話を聞いていた。無論僕がこうした状況に耐えられ る力を持った教師であるという自信はない。もしかするとノイローゼになる方かも知れない。しかし、 教師などという大それた職業を選んだ以上、それだけの覚悟はついていた。むしろ生徒たちの打倒目標 となり、ついには彼らに乗り越えられることこそ、教師のしあわせではないか。そのときこそ、ニッコ リ笑って僕が教師を辞められる時だろう。 (菅龍一著「教育の原形を求めて」)

菅龍一氏自身が川崎のある定時制工高に勤める優れた実践者であるが、尼崎工高の教師たちが担った 状況は、氏をして「耐えられる自信がない」といわしめるほど厳しいものであった。僕などは「転勤し たり、退職したり」の部類になるだろう。しかし、やはりぼくも尼崎工高の教師集団に「一種羨望の 念」を抱く。
 「わしが、そこらのパチンコ屋で時間を過ごすよりも、ここに居てよかったと思うような充実した授業 をしてみい」(この言葉は、ぼくらのもの言わぬ問題児たちの沈黙を代弁している)という生徒を真正面 から受けて立つ教師集団とは一体なんだろう。そのよって立つ根拠は一体なんだろうか。

 ぼくの知る限りでは、都立高校ではこういう教師集団は想像もできない。くだんの生徒は「生徒のくせに」 とか「この不良が」とかの一言で一蹴されるだけだろう。「教師の指導に従わない」ということで処分の 対象になるだけだろう。

 学園闘争を思い出した。教師たちの多くはあの学園闘争が僕らにつきつけた問題の本質を理解していな いし、ほとんど何も学んでいない。いま話題にしても、単なる暴力沙汰としか回想しない。
 さらに横道にそれるが、この国の知識人の戦争のくぐり抜け方にも思いが向いて行く。多くの教師たち の学園闘争のくぐり抜け方は、あの戦争のくぐり抜け方と見合っている。僕らは負の遺産を清算し得てい ないばかりか、さらに増幅している。これは戦後責任の問題につながる。だがこれも、稿を改めるべき問 題である。

十一
 正則学院や尼崎工高の教師たちの置かれた状況とぼくらのそれとは大いに異なるが、そのよって立つ べき根拠には何ら違いはないはずだ。僕らの場所も深く掘り下げていけば、同じ鉱脈に達するに違いない。 そうでなければ彼らの実践がぼくらを打つはずがない。

 ぼくらが「楽しい授業」を目指すのは何故か。ぼくらが問題児を「宝」と呼ぶのは何故か。ぼくらが 民主的な生徒集団・教師集団を希求するのは何故か。ぼくらが公教育という閉じた空間の形式的な仕組 みに大きな違和感を持ち、変革を試みるのは何故か。総じてなんのための教育活動か。
 ぼくらが強いられている教育活動がよそよそしいことを実感し、その実質を自らのものとしたいから ではないのか。

 正則学院や尼崎工高の教師たちの優れた実践とは、菅氏の言葉を借りれば、「体制から<与えられ>た 労働の部署で<生かされ>ている」ものが、「その労働を通してしか自己が実現できない口惜しさを抱 えながら、労働の実質を自らの手に<奪い返し><生きる>ための苦しい闘い」である。
 自分の労働が<与えられた>ものであり、自分の人生が<生かされ>ているものであるという<口惜 しさ>を共有できるかどうかはイデオロギーの問題では決してない。おそらく認識の問題である前に 感性の問題であると、ぼくは思う。ここではぼくらのイデオロギーではなく、感性が問われている。

 <与えられ、生かされている口惜しさ>を、生徒は学校の窮屈さ・授業のつまらなさとして日常的 に味わっている。ぼくらは<与えられ、生かされている口惜しさ>を生徒と共有している。しかしこれ は<教えるものー教えられるもの>という構図の中に安住しているものには分からない。そこから抜け 出る営みを始めるためには、多くの教師はすでに感性を磨耗し切ってしまっているのだろうか。

 うちの学校のええ所は卒業したら分かるんや。うちの先生は、こちらがあれたり、問題を起こした とき、一緒に歩いてくれる。これが励みになるんや。べつに問題をかいけつしてくれんでもええんや。解 決するのは 自分や。そやけど、一緒に歩いてくれるいうことは、こらたいせつなこっちゃ。

 尼崎工高のある生徒の言葉を引用して、菅氏は言う。「教育の営みとは、教師と生徒が互いに生きる 意味を検証し合う」ことだと。
 これが「自分のため」ということの本当の意味である。「自分のため」の実践が、優れたものとなり、 普遍的な価値なり意味なりを持つ根拠である。
実質を自らのものとした労働を通して「生きる意味の検証」をする教師たちに、理念皆無の現実論も イデオロギー至上のタテマエ論も無用であることは論を待たない。

十二
 ぼくは「生徒のため」と言うべきではなかった。「生徒のため」という決まり文句を、以後ぼくは 使わない。  (1974年11月)
244 むかしむかし、こんなことを考えていた。(4)
なぜ教師か(1)
2005年4月16日(土)


なぜ教師か

ぼくは自分の醜悪な顔にふと気づいて、深い自己嫌悪に陥り滅入ってしまうことが度々ある。
 教師は教師ヅラをしているとき最も醜悪である。その醜悪さは自らの教師ヅラに無自覚である ことによる。
 無自覚な教師ヅラを一皮むくと、どんな人間ヅラが現れるだろうか。おそらくその無自覚さに 相応の貧相な人間ヅラが現れるだけだろう。
 教師にとって本質的な問題は自分自身である。


 教師は聖職者である、いや労働者だ、いや専門職というべきだ、いやいや労働者であるとともに 聖職者でもある、などなどどうでもよい論議が政治状況の結節点で繰り返し繰り返し現れ、あたか もそれが本質的問題であるかのように流通していく素地は、僕らの無自覚な教師ヅラがつくってい る。なんとも教師をばかにした論議だが、現在教師はこのくらいバカにされるにふさわしい。
 右からであろうと左からであろうと、あらゆる政治党派のご託宣はいらない。僕らの唯一の本質 的課題は、不可避的に強いられるものであろうと、自ら好んで身につけたものであろうと、自らの 教師ヅラを対象化し(自己省察)、実践においても理論においてもそれを止揚して人間ヅラを豊か にし(自己教育)、教育現場を人間ヅラを押し通せる場にしていく(自己決定)ことである。

 自己省察力、自己教育能力、自己決定能力。教育の目的はこれら三つの力を生徒が自らのものに していくことにつきると、ぼくは考える。現在、教育の不幸は誰よりも僕ら教師自身がそれらの能 力に乏しく、教師ヅラが教師の血肉化していくところにある。

 教師ヅラが血肉化した教師はやがて、定められた労働時間以上の仕事はごめんだとか、この低賃 金では割りにあわないとか、休暇を全部消化しなければ損だとかの理念皆無の現実論や、教師は労 働者であるとか、専門職であるとか、聖職者であるとかのイデオロギー至上のタテマエ論やの、と もに自己疎外を増幅するばかりの次元に低迷して生きて臆面もない。


教師ヅラとは<教える者ー教えられる者>という構図の中になんの疑いも持たすに安住している おめでたくも安直な精神のことである。この精神の中では俗説が得意然とまかり通る。

<教える者ー教えられる者>という構図を突出したところに生き生きとした人間ヅラが現れるだ ろう。自らの中に巣くう俗説を検討することが人間ヅラを豊かにする第一歩である。少しでもうさ んくさい俗説をひっくり返してみることが、どうやら<考える>ということの秘訣のようだ。

 日常の生活実感を逆なでするような俗説や、何らかの圧力をともなう俗説はいかがわしいと思って まず間違いない。
 例えば、「勉強とは本来苦痛をともなうものであり、生徒は勉強を好まない。どうしてもアメとム チが必要である。」「なんてできないヤツラだろう。もともと能力がないんだ。」という類の俗説を ひっくり返して考えてみる。
 「勉強とは本来楽しいものであり、生徒は勉強が好きである。なのに彼らが意欲をみせないし、効 果も上がらないのはどうしたことだろう。オレの授業がダメなんだ。点数をつけない、進級や卒業に も無関係という場合でも、生徒がのってくる楽しくよく分かる授業をやる力量が今のオレにはない。」 どうやらこの方が真実である。


俗説は<決まり文句>となって日常化し、僕らを内部からむしばむ。教師の使う決まり文句は教師 ズラを写す鏡である。

 どこの学校の教育目標にも、教育の目的は国家社会のために役に立つ有能な人材を育成することに あるというような一節が、必ずといってよいほどかかげられている。ぼくにとってはこれは日常の生 活実感を逆なでする俗説である。しかも相当の圧力をともなっている。
 このような教育の目的になんの疑念も持たない人は勿論のこと、そうでない人も「国家」をとって 「社会のため」とか「全体のため」といったあいまいな、決まり文句をよく使う。使わないまでもそ の決まり文句には弱い。これらの決まり文句に写っている顔は一見人間ヅラのようであるが、ぼくに は醜悪な教師ヅラに見える。

 決まり文句の多くは、ホンネというアンコをタテマエという厚い皮で包んだ安物のマンジュウみた いなもので、ダメである。考えるとは言葉で考えることだから、決まり文句の使用は思考の停止であ る。教師のやる教育論議や会議の多くが不毛でつまらないのは、それが決まり文句を軸にして展開す ることによる。皮の部分をなでまわして、マンジュウの品定めに始終しがちとなる。アンコの部分の 毒性や人畜無害性(どうでもよいということ)に気づかぬまま、マンジュウを食いつづける結果が人 間ズラの矮小化あるいは崩壊である。

先の<決まり文句>=<社会のため><全体のため>について念のため書き添えると、そうした観 点が全く無用であると主張するつもりは勿論ない。ただその決まり文句を安直に受け入れることによ って起こる価値基準の転倒を問題にしたいのだ。教育は<数>の問題ではなく、すぐれて<個>の問 題だと、ぼくは考える。
 さらにその決まり文句を安直に受け入れてしまう精神構造のことも念頭においている。この問題は、 深く追い詰めれば、ぼくらが日常の生活過程において身につけてしまった、あるいは身につけさせられて しまった健康な秩序感覚・内なる国家意識の問題になるだろう。<内なる国家意識>については稿を 改めて考えたい。


あまりに見え透いた決まり文句が臆面もなくまかり通る場では、ぼくは絶句してしまう。決まり文句 常用者への反論は無駄だなあという徒労感のため苦しい沈黙を強いられる。その徒労感を克服し得て も、えぐり出すべきアンコの毒性が強ければ強いほど、反論の結果起こると予想される「場」の変容 あるいは破壊の大きさにみずから恐れてしまって、やっと口にできるのは言うべきことの三分の一ぐ らいだろうか。僕らは言葉にしたより以上の沈黙を抱えこみながら生きる。

 僕が真実を口にするとほとんど
  全世界を凍らせるだろうという
  妄想によって僕は廃人であるそ
  うだ(吉本隆明「廃人の歌」)

 タテマエが他者に与える負荷の大きさに思いいたると、決まり文句の使用は一種の言葉の暴力で ある。ホンネは他人に言わせるべきではなく、本人が言うべきである。


「社会のため」とか[全体のため」とかの決まり文句を、ぼくはとうに願い下げにしてきたが、 「生徒のため」という決まり文句にはかなり執着していた。ただし、この決まり文句を口にする とき、抽象的な生徒一般ではなく、該当の個々の生徒の顔が浮かび上がってくる限りにおいてである。


 「生徒のため」という決まり文句は黄門様の印篭ほどもの威力を持つようだ。考えの相反するもの 同士が「生徒のため」を掲げて譲らず、議論は「生徒のため」をめぐって空転し、生徒のためには不 毛に終わる。よくあることだ。

 あるとき、互いに譲らない一人がぼくであった。相手のM教頭は、ぼくの「生徒のため」に対して、 『「生徒のため」をかくれみのにしている』と口走った。「生徒のため」はタテマエで、本当は手を 抜いて楽をしようとしているとか、生徒に迎合してものわかりいい教師ぶりたがっているとか、おそ らくそんな意味のことを言いたかったのだろう。こういうくだらぬ言いがかりは黙殺するだけだが、 このときそうした相手の思惑をはるかに超えたところで、僕は自分の醜悪な教師ヅラをみた。「生徒 のため」という決まり文句に付着している本質的な欺瞞を明瞭に悟った。
 誤解を恐れずに言えば、僕らの教育の営みは「生徒のため」である前に「自分のため」のものである。  「自分のため」とはどういうことか。
243 むかしむかし、こんなことを考えていた。(3)
夜間中学(3) 2005年4月15日(金)


三、夜間中学
     特権性を拒むかどうかは、個人にとってはたかだか自己
     倫理の問題にすぎないが、特権性にたいして自覚的であ
     るか否かは、感性的な変革の政治的課題でありえる。
                           (吉本隆明「情況」)

 恥ずかしいことだが、ぼくが夜間中学の存在を知ったのは教師に なって八年目わずか四年前のことである。たいへんな衝激だった。 夜間中学の存在が衝激とは、思えばうかつな話しである。

 ぼくは三十近くになるまで、政治・経済・社会の問題についてほ とんど無関心であった。自然成長的に身につけた程度の認識しか持 っていなかった。敗戦後二十年ほどのぼくの家庭はたいへん貧乏で ぼくはあの頃のぼくの家庭ほど貧しい家庭はないと思っていた。そ んな中でかなり恵まれた教育階梯をはせのぼってきたのは、兄や姉 たちのおかげであるが、それ以上の内省はなく、しごく当り前のこ とのように見過してきた。だから、どんな家庭の子でも義務教育は 必らず受けているはずだと思っていた。その義務教育を受けられな い子がいるという事実がまず衝激的だった。さらにそうした子に普 通の子と同じように義務教育を受けられる充分な手だてをせずに、 夜間中学を思いつく教育行政の無体さを改めて知って、今さらなが ら怒りを覚えた。

 「義務教育」というときの「義務」とは子どもが負うべきもので はなく、子どもにはただ教育を受ける「権利」があるばかりだ。子 どもの側からは「権利教育」というのが正しい。小学校を終えたば かりの子どもが暖い団欒を望み得べくもない環境のもとで、苛酷な 労働に従事しながら夜間中学に通っている。経済大国という虚像の 裏側で最小限の権利さえ蹂躙されている人がたくさんいる。

 今ぼくが勤めている高校には地域の中学校卒業生のほとんど全員 が入学している。中には漢字の読み書きが小学校二、三年程度だっ たり、くり上り、くり下りのある加減のできないような生徒もいる。 夜間中学の存在は四年前に朝日新聞にのった中岡哲郎氏の文章によ って初めて知ったのだが、今それを読み返してみると、一層のリア リティがあり多くの刺激と示唆を受ける。

 中岡氏はまずある夜間中学の国語の教師の実践を紹介している。 漢字は勿論、ひらがなもろくに読めない生徒に一時間に五つという 目標をきめて新しい漢字を教える。時間の終りに生徒に漢字カード を作らせる。生徒は職場で作業の合間や昼休みにそれをくりながら、 次の時間までにその五つの漢字を頭にたたきこもうとする。一年間 で五百以上、二年かければ当用漢字は全部覚えられるはずだと、そ の教師は言う。「途方もなく気の長いその作業をとおして、彼はし かし、生徒の中に少しずつ確実に自信を育てていった。彼のクラス のダイナミズムの中に組みこんでいった。」と中岡氏は報告している。

 ぼくが現在の高校に転勤して二年になる。この二年間、小中学を ほとんど空白として過したと言っても過言ではないような生徒と初 めてぶつかって、ただ暗中模索するばかりであった。ぼくは彼等の 中にどれほどの自信を育て得ただろうか。彼等をクラスのダイナミ ズムの中に組むことができただろうか。赤面するばかりである。日 日ただ徒労感ばかりが残る。「このような根気よい努力をとおして、 一体何ほどのことが教えられるか。何ほども教えられはしない。」

 だがあの国語の教師は言う。「彼等が生きてゆくために最小限ぎ りぎり必要なことが教えられれば成功であり満足だ。」と。この言 葉は重い。ぼくは目からウロコが落ちる思いがした。過去十年間、 ぼくは高校教師として「よりよい生活のための最大限」を求め、あ るいは求められる教育の場しか知らなかった。そこで身につけた学 校に対する認識がなかなか払拭しきれなかった。「僕たちのまわり ですべての親と教師たちが熱中している『よりよい生活のための最 大限』とでも言うべき教育の全体系を、その彼の言葉が告発してい る。」

 続けて中岡氏は、「よりよい生活のための最大限」の追求の下に足 げにされてうめいているのは「人間として最小限」である、という。 足げにされ続けてきた「人間として最小限」はぼくの高校でさらに 足げにされる。大多数の教師や親や生徒はことあるごとに言う。 できない者のためできる者が犠牲になる、できない者自身が苦しむ だけで本人にとってもマイナスであると。こうした優等生論理が臆 面もなくまかり通る中で、「低学力」の生徒たちは「学業不振」そ れ故の「度重なる問題行動」を理由に退学させられていく。こうし た状況を打破できない自分の実践や力量の弱さに滅入ってしまう。

 教育とは何か、と改めて自らに問う。指導要領をなぞる教育観か らは決して見えてこない視座がある。中岡氏は先の夜間中学生の履 歴を紹介して言う。「『生きてゆくための最小限』の教育は何より もまず子どもの背後にあるものとの格闘である。」「読めない漢字を とおして、教師はそのすべて(子どもの全生活史……仁平)と向き あうのだ。そのすべてとたたかうことが、彼にとって教育である。」
この視座に立てば、文部省が決めた「学力」を基準に「できる子」 「できない子」と振り分ける教育の犯罪性は明らかだ。

 だがこの視座はおそらく通りが悪い。この視座を肯んじない主要 な論理を二つ考えることができる。

 一つは自称進歩派教師たちの考えである。勤評闘争の敗退期に論 争された問題で、教師は「教室で勝負」すればよいとする。子ども たちの内部に好ましい資質・傾向をつくりあげれば、やがてその子 どもたちが政治や経済にはたらきかけ社会の進歩に寄与すると言う。 つまり教育をまっとうすることによって政治を超えるというわけで ある。この論理を俗に「二十坪の論理」という。なんというオポチ ュニズム!足げにされている「最小限」への目くばりがすっぽり落 ちている。

 これに対して中岡氏は「二十坪」の外を切り離してはまともな教 育はあり得ないと主張している。勿論ぼくは中岡氏に共鳴する。「 二十坪」の外との対決を孕んだ緊張関係を欠落さすとき、教育は政 治を切り離した一つのイデオロギーとしての機能を現実的に果すほ かない。現状を補完するだけである。

 二つは現体制に埋没している教師たちの論理である。「最大限」 の教育が「最小限」を足げにすることによって成り立っているとい うことそのものを肯んじない。この国ではすべての国民がその能力 と勤勉さに応じて、より豊かで文化的な生活を保障されており、貧 困であったり文化の享受と無縁なのは当人の資質的欠陥や怠惰な生 活態度の当然の結果であるという。この論理はこの国が民主的な自 由国家であるということを先験的に前提とすることで成り立ってい る。

 はたしてそうであろうか。現在のこの国の体制は貧困が貧困を生 み、無教育がさらに無教育を強いられる仕組になっている。「低学 力」の生徒たちの全生活史がそのことを雄弁にものがたっている。 1961年の日教組教研大会で二十才の夜間中学生古江美江子さ んが行なった鋭く正当な告発がある。「生活に追われ、四才頃から 子守り、コンブ拾い、農家、パチンコ屋、飯場の飯炊き、バーのホ ステスなど手取り早く金になり、学歴を必要としない仕事だから学 について考えた事がなかった。学とはなんだろう? ― 空、山、川 など簡単な字以外は新聞も読めないし、九九もわからない。足し算 引き算の計算は、指や足でやればできるが、34+12=式になる と、前からやるのか後からやるのか全然見当がつかなかった。時計 の見方や電話の掛け方など日常生活に必要な知識がなんにもわから ず毎日苦しんだ。こんな私でも九年間の義務教育を受けたことにな っているのです。」
 古部さんは夜間中学ではなく普通の中学校を卒業したことになっ ている。
 「臭い、バカ、貧乏たかれ ― などとののしられながら、学校に 行きたくとも行けず、夢中に働き必死に生きてきた。 今ようやく ― 勉強したい ― と思ったら法律が目の前に立ちふさがり私の道をじ ゃまする。」
 古部さんは義務教育を終えたことになっていたので夜間中学への 入学の資格がなかった。古部さんは一人でがんばって、とうとう夜 間中学入学を果す。

 今、夜間中学は古部さんのような人たちが勉強 をするための大事な場となって、新たな存在意義を持っている。こ の夜間中学を教育行政は、今度は、夜間中学誕生当初の存在理由は なくなったとしてつぶしにかかっているという。

 「学とはなんだろう?」という古部さんの問いかけは無視できな い。ぼくの問題で言えば「高校とは何だろう?」「高校の水準」を 守るという観点に一体どれほどの正当性と意味があるのだろうか。 ぼくの高校の「古部さん」を切り捨てることによって維持する「高 校の水準」とは何だろう。

 古部さんは全員が何らかの疾病に苦しみながらもがくように生き ている家族を紹介し、次のように続ける。「私自身も小さい頃の肺 炎がもとで両耳があまり聞こえない ― 我が家には健康で満足なの は一人もいない!もし、お金があったら、病院に行っていたら、学 校に行っていたらこんなことにならなかったのだ!私や私の家族を こんなめにしたヤツを殺してやりたい!私たちが何をしたと言うの だ。われわれ形式卒業者を作ったヤツは責任をとれ!(中略)そし て、私のようなかけ算の九九も時計の見方もわからないような形式 卒業者をこれ以上一人もつくらないでほしい!そのために私や私の 家族が食うものも食わないで働いた税金をつかうべきだ!」

 古部さんがこう告発してから十年以上たった。今なお形式卒業者 はあとをたたない。そして、教科書=文部省の手本を金科玉条のご とく忠実になぞることで、自らが「できない生徒」を作っているこ とに思いも及ばない教師にかぎって、「きびしく落第させろ!」と 臆面もない。古部さんに、ぼくら高校教師もうたれている。いや現 教育体制総体がうたれている。

四、おわりに
 未整理のまま書きついできて、冗長さと欠落ばかりが目立つが、 問題点の摘出と自らの間題意識のあり所の整理はある程度なし得た と思う。そして、今、自分の生存の拠り所の一つである教育の総体 の絶望的状況と自らの実践の卑小さを改めて自覚して、苛立ちと羞 恥で胸がつまる。このいささか大げさな言辞は、しかし決して単な るレトリックではない。日々思う。どのつらさげて生徒の前に立と うか。このつらさげて立つことに堪えるほかない。自らの欠落は自 らの生きざまを通して徐々にうめていくほかはない。自己教育の契 機を失なったとき、ぼくは教師をやめるだろう。
                           (1973年12月)
242 むかしむかし、こんなことを考えていた。(2)
夜間中学(2)
2005年4月14日(木)


二、なぜ夜間中学か
     時はなにがしかの魔力で人間からその思想をひきはがし
     固定する。その時はじめて人は一瞬の己が影に責任をも
     たねばならなくなる。誰に向つて?
                 (谷川 雁「原点が存在する」)

 「特殊学級に、息子をむかえに行く。息子たちに、一般の子供た ちとの交流カリキュラムはないが、それでも、息子たちと同じ小学 校の児童たちはかれらに優しい。通学途中の私鉄経営の学園にかよ う幼いエリートたちのみが、バスでいやがらせをすることがあった。 ウツルゾ、と騒ぐ。障害によって足弱な子供に、なお足ばらいをか けたりもした。」 (大江健三郎「日記から」)

 この障害のある子供への幼いエリ一トたちの仕打ちは、子供の単 なる悪ふざけではないし、特殊な事例でもない。ぼくは、社会全体 を律するほどにあまねくはびこっている「教育の荒廃」の原型を見 せられたように思う。

 今日教育問題の要は高校であると言われている。高校への進学率 が約97%(東京都)と、ほとんど全入である今日、幼稚園以来 の選別、分断の積重ねによって傷つき発達を疎外されつくした子供 たちが選別、分断の完成の場として振り分けられてくるのが高校で ある。高校が、国立、私立有名校-公立有名校-それ以外の公立普 通科校-私立普通科校-公立職業科校(専門科目によってさらに細 分される)-その他の私立校、というようにはっきりと序列つけら れていることは周知のことである。この選別、分断によって「荒廃」 させられているのは「できない子」だけではない。あらゆるランク の生徒が「荒廃」にさらされている。

 「私は、高校生活を、こう送ろうと思う。まず受験の科目以外は、 テストの時以外、絶対に勉強しない。クラブも、生徒会も参加しな い。H・Rの時は、絶対発言しない。指名されても『どうでもいい』 という。………どうでもいいから、三年間を無事に送って、希望の 大学へ行けたらそれでいい。(都立目黒高校生)」(白鳥元雄「十代との対話」)

 この他者や集団への無関心・無責任・無気力は次のような恐ろし いエゴイズムと五十歩百歩である。

 「…‥ぼく個人のもつ教育の理想ですが、それは、ぼく以外の人 間が、ぼくより劣った環境で、ぼくより能力が高くならないように 教育されること、つまりぼくだけが甘い汁を吸えることが理想です。 (日比谷高校生)」(村田栄一「闇への越境」)

 これが「足弱な子供に、なお足ばらいをかける」幼ないエリート の成長した姿である。こうした例は枚挙にいとまない。決して例外 ではないのだ。高校入試制度(小尾構想)に対する高校生の反応を まとめた記事で、「日比谷高校新聞」 (1966年9月1日付)は 次のように結論しているという。

 「そこで提案する。普通科高校を減らせと。普通科が減ったぶん だけ、職業高校や専門高校をつくる。大学へ行っても意味のない人 はそちらへまわすだけだ。」

 これがエリート高校生たちの平均的感性である。中教審答申が出 されたのは1966年10月31日であるから、「日比谷高校新聞」 はそれより二ヵ月も前に、「荒廃」の根をさらに強化する「後期中 等教育の多様化プラン」を先取りしているわけである。やがてこの ようなエリートたちが高級官吏、企業の首脳、政治の中枢をしめる。 そして今の自民党政府、財界と同様に彼等も自分自身の「荒廃」を 認める能力を持たないだろう。国家権力の保身のための「期待され る人間像」のような徳目主義的、前近化的な道徳の注入がその教育 対策となろう。相変らず人民を支配ないしは管理・操作の対象とし てしか見られない。先に引用した文章の続きで、大江健三郎氏も指 摘している。
 「かれらには、身ぢかで特殊児童たちを理解する機会がない。か れらには特殊児童への思いやり、すなわち弱い他人の立場になって ものを考える想像力が育つことはむづかしい。受験競争をこえてか れらが入って行く社会が、またおよそそのような想像力に欠けた者 たちのリ一ドする社会である。」

 教育が社会機能の一つである以上当然のことであるが、教育はそ の時代の社会体制、社会構造のくびきから自由ではあり得ない。教 育の問題とまともに向き合うとき、ぼくらは政治や社会体制の問題 からも目をそらすわけにはいかなくなる。

原点


 現在のこの国の教育体制はその社会体制と見事なほどパラレルで ある。粗雑にすぎることを承知でその構造を図式化すると、右の図 のようになる。
 円柱は時代の情況が強いる本質的問題で、それは最下層から最上 層までまっすぐ縦に貫いている。切り抜かれた円錐体は各層におけ る特権性であり、上層にいくほどその特権性によって本質的問題が 相殺され、問題の本質(各断面の斜線部分)は隠されている。例え ば、最近「自由」とか「福祉」とかが自民党のキャンペーンになっ ているが、「自由」とか「福祉」とかは円錐部分であり、それは底 辺にはとどかない。教師たちはBあたりであろうか。教師たちの多 くは「自由」のおこぼれにあずかって、現状に埋没する。
 逆に「石油危機」のようなものは円柱であり、もろにいためつけ られるのは最下層である。上の方はいたくもかゆくもない。儲ける 奴は普段より以上に儲けている。「石油危機」が作られた「危機」 と言われるゆえんである。現体制を擁護しながらの「自由」とか「 福祉」とかはまやかしである。

 時代の情況が強いる本質的問題を、もっとも広い意味での「疎外」 と言いかえてみる。先の図は「疎外」と「特権性」との相関関係を 示すことになる。

 「疎外は、私の生活手段が他人のものであるということにも、私 の欲求するものが私の手に入らない他人の占有物であるということ にも、またあらゆる事物そのものがそれ自体とは別のものであると いうことにも、また私の活動が他人のものであるということにも、 最後に ―そしてこれは資本家にもあてはまることだが― 一般に 非人間的な力が支配しているということにも現れる。」(マルクス 「経済学・哲学草稿」)

 右の引用文で「生活手段」を「教育手段」と、「資本家」を「教師」 あるいは「エリート」といいかえて読むと、教育問題についてもす べてが言いつくされていると思える。
 先の図においてAが国立・有名私立高校あるいは東大である。問 題の本質が最も鮮明に見えるあらゆる疎外の集中する極・C。それ をぼくは原点と呼ぶ。現教育体制で原点Cは夜間中学であろうか。自 らの立つ場を掘り下げれば問題の所在にいきあたるはずであるが、 夜間中学の実態を見ることによって問題の本質をより鮮明にしてみ たい。
241 むかしむかし、こんなことを考えていた。(1)
夜間中学(1)
2005年4月13日(水)


夜間中学

一、 平均的教師
    環境が人間によって変更されなければならず、
    教育者みずからが教育されなければならない。
        (マルクス「ドイツ・イデオロギー」)

 教育という仕事に対する深い理解もなく、学校教育がはらんでいるラジカルな問題に対しても まったく無知のまま、抱負らしい抱負を持たずに教師になったという点で、ぼくはデモシカ教師 として出発した。しかし、教えられる者から教える者へと立場を入れかえたとき、初めて見えて きた教育現場の内実はデモシカ教師をも徹底的に滅入らせた。
 落第や単位不認定の問題に対する教師たちの冷酷な言動、生活指導という名の生徒処分、いつ も悪くてバカなのは生徒で教師のくだらなさは自覚されようもない。一人の生徒の一生にかかわる ような問題を何の痛みもともなわず「よろしくご指導」してしまう。知識の仲介者にすぎぬくせに いい気なものだと思った。すでに自己変革のエネルギーを失なって微温な日常に埋没し居直ってい る教師たちより、悩み苦しみ苛立ちもがいて、なお生きるすべを得られない「問題児」たちの方が 人間として数等上であると思った。

 教師になって間もなく、日本数学教育会の研究大会の下働きにかり出されたが、そこで見聞した 研究発表に対しても、教科書を焼直しているだけで研究だなんて大げさな、という感想を持った。 あんなつまらぬ研究をしなくとも教師はつとまるとうそぶいた。(最近民間の教育研究団体には研 究の名に値するすばらしい実践がたくさんあることを知った。今はそれらに多くを学んでいる。) どうつくろっても教育はマイナーな仕事であると思えた。ぼくは数学の勉強を続けて、いずれささ やかでも何かオリジナルな研究をすることを一生の仕事にしたいと考えた。

 また、儀式の折に「君が代」や「日の丸」に心から敬虔の意を表している教師たちの滑稽さもさ ることながら、日頃の言動とは裏腹に何の抵抗感もなくそうした場に立ち会い、しかも生徒にそれ を強要すらするような教師たちの思想的無節操の方に一層の憤りを覚えた。内部をくぐらせること によって苦闘して得た思想の片鱗すらなく、知識の量が多少多いだけでえらそうな顔をして生徒に 対しているのが気にくわなかった。

 ではかく言うぼくはどうだったのか。軽蔑していた先輩教師たちと何ほどの違いもなかった。無 知故の思いあがりは必ずシッペガエシを受ける。誰に打たれるのか。むろん生徒にである。感覚的 ・心情的にしか問題に関わり合えぬかぎり、現状をただ補完するだけである。例えば「問題児」に 心情的に組しても彼等にとってぼくは「同じ穴のムジナ」でしかない。

 最初の補任校の校長に、酒の席で唐突にポツンと言われたことがある。
 「君、学問と教育とは違うものだよ。」
 校長が何を意図して言ったのかは知らないが、この何の変哲もない言葉が妙に耳に こびりついていて今だにはっきりとおぼえているのは、その頃ようやくぼくの内部で教育に対する 認識がゆらぎ初めていたためだろう。

 見え初めた諸問題はいまだ断片にすぎず、対象化、論理化できるほどには見えていない。ぼくは 苛立ち、さまざまのイエスとノーを相手かまわすぶっつけた。大きなノーがぼくの中で反響する。 ぼくはうちのめされる。

 苛立ちは自らへの告発となって凝縮した。
 「一体おれは何をしてきたのか。否、何をしてこなかったのか。」
 何をしたか、より、何をしなかったか、という詰問がぼくをまいらせた。卒業生や生徒の 顔が、とりわけいわゆる「問題児」の顔が文字どうりねてもさめても脳裏に浮かんで病的に 苦しんだ時期があった。あの校長のことばがさまざまに変奏した。
 「君、君の授業は教育とは違うよ。」
 「君、君のクラス運営は教育とは違うよ。」
 「君、君の生活指導は教育とは違うよ。」
 「君、君の進路指導は教育とは違うよ。」
 「君、君のクラブ指導は教育とは違うよ」
 「君、君のやっていることはすべて教育とは違うよ。」
 一体ぼくは何のために教師を続けているのか、何故続けられるのか。生徒のため?ウソつけ。
 「君、君のやっていることは教育ではなく飼育だ!」

 ぼくは何故このような長々とした私的繰り言から初めなければならなかったのか。
 「教育の荒廃」ということが言われて久しいが、ぼくは何よりもまず、教師の「荒廃」を、ぼく 自身の「荒廃」を見定めたかった。恐らくぼくは最も平均的な教師の一人であろう。この「平均」の中 に「荒廃」の根が胚胎している。今ぼくが行なっている日々の営みは十年前とさしたる違いがなく、教 育現場の内実はますます悪化している。前述の自己告発は今なおぼく自身への告発である。
 「おれは一体何をしていないのか。」
 変ろうにも変われない状況を列挙して居直ることも、しようと思えばできる。しかしぼくにはそうし た図太い神経がない。たてまえと優等生の論理が圧倒的な力を得て進行する職員会議で、失語状態 になり苦いものを呑みこむしかない自らの卑小さを思う。ぼくは自らを告発し続けることによるほか、 教師を続けることに堪えられない。絶えざる自己否定を通して徐々にでも望ましい営みを模索しつ づけなければならない。
 だが「望ましい」とは何か。それが感覚的心情的なものである限り、ぼくは相変わらず「同じ穴の ムジナ」だろう。自己告発を倫理的な問題として済ますわけにはいかない。「教育の荒廃」の根源を 摘出しておく必要がある。常にその根源に意識的に関わり続けなければ、「望ましい」営みなどあり 得ない。「何をしていないか。」という詰問に対時する第一歩である。
240 教師の戦争責任(10)
墨塗りをした教師たち再論・二つのタイプ
2005年4月12日(火)


 「第235回」(4月7日)で次のように書きました。『「墨を塗った教師」のその後の生き方は三つの タイプに分類できそうです。「A先生」と「おっかない校長」の二つのタイプと、今回はその三つ目 です。』その三つ目のタイプの代表は「過ちを犯した教育者に時効はない」を書いた百武福寿さんで した。
 長浜さんの分類に当てはめると「A先生」は第一のタイプで「おっかない校長」は第二のタイプに 当たります。この二つのタイプについての長浜さんの論述を読みます。
タイプ1:「辞めるべきだが残る」型=出直し型
 やめるべきであるが残る ― という論理はその前提として、戦争責任の自覚 がある、ということである。それを踏まえたうえで「民主教育」をやっていこうという、いわば出直 しの思想をそこにみることができる。しかし、荻野未・金沢嘉一などのように、その出直しの思想は 教育基本法や新教育指針といったものに拠る出直しであって、己れの思想から出発したものではない。 教育界においては、たとえば荒正人が戦後間もなく叫んだような「戦後の世代は、正直のところ他か ら(それがどんな権威であるにせよ)教えられることに飽いているのだ。また、だまされたくはないぞ、 という心理なのだ」(「二十代の不信」『中央公論』昭和22年12月号)といった徹底さはみられない。
 東井義雄が十幾年の沈黙を破って教育界に名乗りをあげたとき、友人の国分一太郎が東井のその著 『村を育てる学力』に序文を寄せ、つぎのように述べた。「そこで東井さん。私もあなたも弱かった のだ。弱いものはあやまりやすいのだ。しかし、あやまりだったと知ったとき、教師たるものが悔い 改める道はどこにあろう。いま目の前にいる子どもに正しく新しく奉仕する以外に、ほかの道はない のではないか」。
 この論理はこの型をすべて包摂しているが、問題は「正しく」奉仕する基準をどうつくっていくか、 ということであって、「目の前にいる子ども」に奉仕することを先行させている国分一太郎の認識で ある。「弱いものはあやまりやすい」といういい方も問題とすべきであろう。教師を弱いものの側に 位置づけたなら、こどもはどういう場に位置づけるのだろう。戦時下、教師たちはまったく無抵抗の こどもに鉄拳と制裁の嵐を加えたのである。そういう立場を「弱いもの」と規定する論理はまさに傲慢 不遜であり、そういう認識にしか立てない人間が、どうして「正しい」方法を身につけることがで きよう。この出直しの型は表面的にはわかりやすく、きこえはいいが、その内実は右のようなもの だったのである。

 このタイプの教師について問題点が二つ指摘されています。
 一つは教育の内容や方法を「己れの思想から」考えるのではなく「教育基本法や新教育指針とい ったものに拠る」ことです。これは「民主主義」を接ぎ木しただけなのでその「民主主義」が他の 何かに容易に変わってしまう危うさを引きずっています。「君が代・日も丸の強制」に屈服した ある学校の教頭が「私は今まで間違っていた。」と言い、卒業式で大声で君が代を歌った という話を確か『良心的「日の丸・君が代」拒否』で読みました。
 二つ目は教育を営む根拠を「いま目の前にいる子ども」だけに限定してしまう危うさです。 この考え方は批判的に「二十坪の論理」と言われています。かなり以前から論じられていることがらで、 私も30年以上も前にこの問題について文章を書いたことを思い出しました。探し出して読み返してみま した。少し気負いすぎが鼻につきますが、基本的なところでは考えは変わっていません。(要するに 進歩していないということです。)これまで長浜さんの論考をたどるだけで私自身の考えをほとんど 述べていませんので、もう30年以上も前の文章ですが、加筆訂正をしないでそのまま次回から掲載す る予定です。

 タイプ2:「やめるべきではないから残る」型=居直り型
 この教師たちの最大の特徴は命令があればどんなことでもやる、ということである。さらにいえば 国や校長のいうことには絶対服従で、こどもに対しては絶対支配権をふりかざす、もっとも悪質なタ イプである。量的にいえば、この型がもっとも多かったのだから、考えてみればおそろしい話である。
 いまひとつこの型の特徴は記録に乏しい、ということである。沈黙を守り通しているのである。自 己批判をさけているのだから、あたりまえといえばあたりまえだが、たとえば鈴木源輔に至っては 『戦時国民教育の実践』(昭和17年)から『民主教育の実践』(昭和21年)の間には無気味な沈黙が 横たわっている。思想の決算と新たな形成には苦悩と葛藤が不可欠だが、このタイプはそれらを経験 しない。そういう無節操な人間がこどもに接するのである。こどもがどんなふうに育っていくかは 予想がつく。思想のない人間ほど、上から操られても走狗であることを自覚しないし、そういう人間 ほど、こどもに悪い影響を与えるものである。

 敗戦時にどう身を処したのかという特殊条件をはずして一般化しても、上の二つのタイプは 教員の類型として有効だと思います。私が教員だった頃と変わりがなければ、まことに残念なが ら、現在の教員構成もこの第二のタイプが多数派だと推測できます。はからずも「君が代・日の丸の 強制」がそのことを証明しています。特に管理職に限れば、もうほとんど全員といってよいでしょう。 今は管理職を目指すのはこういうタイプの教員だけだといったらよいでしょうか。あるいはこういう タイプの教員しか管理職試験に合格しないシステムになっているといったらよいでしょうか。
 「自己の内部の世界を現実とぶつけ、検討し、理論化してゆく過程」 とその逆過程をたゆみなく歩んでいる 第三のタイプの教員たち(「第42回・2004年9月25日」を参照してください。)に期待するほかありま せん。しかし、第三のタイプを加えてその構成比は3:6:1ぐらいでしょうか。私の教員体験だけを 根拠のあまり当てにならない勝手な推量ですが、一抹の寂しさを感じています。
 なんども繰り返し言ってきましたが、教育に限らず全ての面で「戦争責任」をあいまいにして敗戦 をやり過ごしてしまったツケがいま露呈してきたのです。
239 教師の戦争責任(9)
墨塗りをしなかった教師たち(3)
2005年4月11日(月)


  一条ふみ、荻野末に次いで金沢嘉市、黒沼光翁、鈴木源輔、東井義雄、林進治、とそれなりに有名な 人たちの戦前・戦後の検証が続きますが、いわゆる「墨塗りをしなかった教師」ではないのでこの稿では 割愛します。
 さて、「墨塗りをしなかった教師」で、そのまま黙って身を引いていった教師も少なくないだろうと 思います。その人たちは「黙って身を引いた」ので自ら書いたものを残していません。その人とたまた ま縁があった人が書きとめたものが残っている場合しか知るよすがはありません。そのような人たち についての断片を「第四章」から拾い出してみます。
 「もう、ぼくのやる教育は終った。まちがったことを教えたとは思わないが、これからの教壇に立 つことはできない」(金沢嘉市『ある小学校長の回想』)と、戦時下の教育を肯定したまま、田舎に 帰っていった丹葉節郎のような教師。

 「終戦と同時に、今まで最も嫌った個人主義、自由主義が、もっとも正しい生き方の基本となったの だから、一八〇度なんていうものでない転換だったからね。殊に私などは、全体主義にこり固ったも のだったから、ついてゆけないものがあったし、すでに戦のために死んだ男らのことを思うと、なん と申訳してよいか判らなかった」(菊地利助の発言『小松小学校百周年記念誌』)といって、辞表を 出した教師。

 次の引用文は、敗戦直後自らの責任をとって辞職した野路当作という方の述懐です。野路さんは 罪亡ぼしと生活のために日雇いをやって生活をしのいだと言います。
 周辺をみるや「軍国教育に指揮刀を鳴らして狂奔した同年輩の教師たちが、敗戦となるとその日から 学校の看板を塗替えて、平和国家文化国家建設の先達に納まり、追放された者でさえ、解除後は悠々 と高い地位に舞戻り、今や功成り名遂げて莫大な退職金と恩給とに豪勢な老後」(「前途は明るい」『世 界』昭和33年8月号)を送っている連中をみる。そしていう。「あえて自分を戦犯者の一人なりと決め つけ、余りにも世間を知らず浪曲的な仁義にかたまって、愛と真実一点張りで教壇生活を棄去った私 は、退職金もその当時封鎖で二百円、恩給も彼等の何分の一。彼と言い此と言い、考えれば考えるほ ど、責任をとることのみに燃えていた私は、結局バカ正直の素ッ裸を新しい太陽の下で、見せつけら れた」。

 この野路さんの生き方について、長浜さんは次のようにコメントしています。
 道理を貫くことが人間の行為のなかでどんなに崇高なことか、という価値観をもたない人間は野路 当作をあざ笑うだけであろう。そしてまた道理を貫くことの大切さを教え得るのもまた教育の場にお いてであろう。わたしが教育の戦争責任を考えるうえで「辞職」にこだわるのは、教師は正義や道理 を観念のうえだけで教えてはならない、と思うからであり、こどもたちもまた観念だけの教授によっ ては正しい意味で人間を大切にするということを学びはしないと思うからである。

 「教師は正義や道理を観念のうえだけで教えてはならない」という指摘を、私は「君が代・日の丸の強制」問題に 引きつけて読まざるを得ません。思想・良心・表現などの自由だって「観念の上だけで教えてはならない」 と思います。

 次の例は本多顕彰著『指導者』からの孫引きです。長浜さんのコメントがあるので合わせて掲載します。
 私は、終戦直後に配給所で会った山の小学校の先生のことをいまはっきり思い出す。
 その先生は、私がだれであるかを知ると、それまでしていた雑談をやめて、私にむきなおり、 「私は学校をこの夏休みかぎりやめます。私は、いままで教えてきたことが、全部ちがっていた、 と、いまさら児童たちにいえませんから」といった。彼は、学校をやめて百姓になり、二度と人 を教えるような言葉は口にしないといった。私はだまってうなずいただけだったが、心の中では、 ひどく感動した。私はこの本を読むひとが、もしも、小・中学校の先生のなかにいたら、このくだ りを日教組の総会の席上で朗読していただきたいと思う。
 本多顕彰が辞職する教師に感動を覚え、それを日教組に伝えようとしたのは、上にあげたいく つかの例ような姿勢が日本の教師たちに欠如していたからである。いや、もっと正確にいえは、 教壇を降りていった人間に心の支援を送るどころか、バカなやつだ、ソンなことをしおって、と いう反応の方が多かったのである。

 くり返しになるが、しかし、それにつけても身を挺してこどもに、そのことを示そうとした教師は あまりにも希少であった。それを見送る教師もまた、その意味と価値を己れに刻みこもうとはしなか った。そのことが日本の教育の不幸をもたらす遠因となった。
 教壇に居残った教師たちには、二つの型があった。ひとつは、辞めるべきだが残るという型である。 いまひとつは、やめるべきではないから残るという型である。結果の形は同じだが、両者は本質にお いてはかなりの差がある。そして、この両者が戦後日本の教育を実質的に担ってきたのであるから、 このふたつの差異を論じることは価値のないことではない。

 「日本ファシズム教師論」は1981年の出版です。長浜さんはそのとき既に日本の教育の状況を 「不幸」な状況と認識していたことになります。そしてその不幸の遠因は教育の戦争責任を曖昧 にやり過ごしてしまったことにあると言っています。

 「教壇に居残った教師たち」の「二つの型」についての論述は「第四章 戦争責任の論理と倫理」の まとめに当たります。次回はそれを読みます。
238 教師の戦争責任(8)
墨塗りをしなかった教師たち(2)
2005年4月10日(日)


 長浜さんが次に取り上げたのは「ある教師の昭和史」という著書をもつ荻野末という人です。
 まず荻野氏が「墨を塗らなかった」いきさつはこうです。
 敗戦のとき、荻野は国民学校から青年学校に転じていて、川崎の軍需工場内の教育課長をつとめて いた。だから敗戦と同時に工場も閉鎖となり、彼は失業する。この前後、彼には戦争責任の自覚は生 まれていない。
 しかしやがて教師として復職し、新しく戦後教育を「おのれの良心をかけ」て実践する中で 「戦争責任の自己追求」がなされていきます。
 荻野は、しかし、自分の戦争責任をやや抽象的ながらも自己の責任に据え、これと正面から向きあ った数少ない教師の一人であったことは疑いようのない事実である。彼の教師としての戦争責任に関 する結論はこうである。「たんに戦場へ送ったというだけではなく、あの子どもたちの、あの頑強な、 とりかえしのつかない天皇制意識を、かれらのなかにつくった教育というもの、その太い綱の端を、 教師として力強く振っていたのだという犯罪行為が、二重にさばかれなければならないのだというこ とを思い知らされたのです」
 長浜さんは荻野氏の著書を「戦争責任の自己追求」という点で脱帽に値すると評しています。

 ところで荻野氏が再び教師の道を選んだ動機を長浜さんは二つ読み取っています。
 ひとつは散歩の途中、写生会に出てきていたかつての同僚と思いがけなく出会って、その女教師から こういわれる。「先生! 先生は小学校へおかえりにならないのですか、これからはきっと、学校も おもしろくなると思うの……」この一言は荻野をかなりゆきぶる。そのときに彼はたとえ「おもしろ くなくってもいい、もう一度子どもを教えたい」と決心をかためる。
 いまひとつは憲法と「新教育指針」である。これを目にしたときのことを荻野はつぎのように述べ ている。
 憲法と「新教育指針」に対する 荻野氏の驚き・感動・憧れの文が続きますが、略します。

 この二つ目の動機について長浜さんは次のように論述しています。現在「君が代・日の丸」の強制に どう対応すべかという問題とも重なる内容なので全文引用します。
 ところで、この荻野の教壇復帰について、わたしは一点、問題点を指摘しておきたい。それは荻野 の教壇返り咲きが、憲法と教育指針を読んだからだとしている点である。逆にいえば、それでは憲法 や教育指針というものがなければどうだったのか、という疑問が生じてくるのである。もっといやみ な言い方をすれば、これは教育における杜子春ではないか、と思うのである。金のあるときだけいい 寄るのは真の友人ではあるまい。状況が悪ければなおそれだけ、その状況をかえるための思想と人間 が必要なのだ。仮に憲法が改悪されたとして、そこで辞職する教師が出るとしよう。また教職にとど まる人も出てこよう。そのさい、どちらが正しいかということになると、早急な結論は出せない。し かし、こういうことだけはいえるであろう。辞職するのも抵抗の一つだが、踏みとどまるというのも一 種の抵抗になるだろう、ということである。というのは現実問題として辞職する人はごく少数に限ら れる。ふみとどまった人のなかには甲羅のないカニみたいな無思想の木偶がかなりいるだろう。そう なると教壇はそういった連中にふりまわされることになる。「歯をくいしばれ、股開け」としかいえ ない教師ばかりになったら教育界は暗闇である。こどもにとっての救いもなくなる。こういう事態は 極力、避けなければならない。
 さらに、もうひとつのことをいっておく必要がある。それは教育の自主性ということである。憲法 がどう、教育基本法がこういっているから教育が存在する、というのでなく、こどもの生命を預かり、 彼らの人権を守るという点に、教師の独自性が存在するのであって、憲法や教育基本法はそのための ひとつの示唆でしかない、ということである。
 生命と人権のまえでは憲法や教基法もただの文言でしかない。荻野は教壇への返り咲きを、こうし たものに求めたが、たとえ憲法や教基法がどうあっても、自分はこういう教育をやるのだ、という決 意が本来なら先行しなければならないのである。
237 教師の戦争責任(7)
墨塗りをしなかった教師たち(1)
2005年4月9日(土)


 「日本ファシズム教師論」の「第四章 教育における戦争協力の論理と倫理」を読んでいきます。
 まず、岩手の辺地で教師をしていた一条ふみという方の日記「淡き綿飴のために」からの引用文を 掲載します。1945年8月17日、敗戦からわずか二日後の記述です。
 「ね、先生。やっぱり辞職すべきでしょう。私、そう思うわ。だって責任というものがあるでしょう。 今まで子どもたちに押し付けるようにやってきた教育が、根こそぎひっくり返されて、全然別のものを、 同じ教育者である自分がそのまま子どもたちに与える……。そんなこと、とても私にはできない……。 良心の呵責にとても耐えられないわ……」
 「そうね、たみ子先生の考え方にも賛成。たしかにその通りよ。現在までにやってきた教育に責任を もつべきだと思うけど……。ただそのことにだけ責任を感じて辞職するということが、果たして許され るものかどうか。自分はそれで割り切れるかも知れないけど、子どもたちはどうなることかしら……」
 「子どもたちのことを考えていたならば、いつまでたっても辞職なんて、できゃしないじゃないの。 これはあくまで自分自身の責任の問題じゃないかしら。自分が、現在までのことについて責任をとると いう……」
 「責任というものは、それは自分自身がとるべきものなのよ。でも、今この敗戦という惨めすぎる現 実に遭遇して、現在までの教育に責任を感じて辞職しても、それで責任をとったとは言い切れないと思 うの。相手は日々成長していく子どもたちよ。その子どもたちを投げ出してしまったことにもなると思 うわ、自分たちの現在までにやってきた教育という仕事に責任を感じて、その責任をとるためにも、今 後子どもたちを見守っていくべき重大な責任があるとも言えると思うのだけれども」
 「そういう責任のとり方もあると思うわ。でも私は、自分という人間が生きていく過程の一つの段階 としての区切りをつけたくなっちゃったのよ。つまり自己の内部問題……」
  「そう。それは誰でもおんなじだと思うわ。自己の内部の転換を迫られることにおいては教師はみ んな逃げられないのよ。絶対、ということはありえないなどと言ったりしたけど、敗戦国となった今、 もうどんな人でも絶対だと思うわ。その間題を考える個人個人の差によって、責任の感じ方もずいぶん 違ってくると思うの。それは、現在までの生き方につながっていると思うわ。真剣に毎日を生き抜いた 者ほど、責任を強く感じるのは当然だと思うけど……」

 女教師の中にも「股を開け、歯を食いしばれ」と言ってピンタを張ったものもいたそうですが、 この会話の二人はそんな暴力とは無縁の人でしょう。むしろ児童たちに慕われるような教師だと 思います。
 軍国主義教育下にあってもどちらかと言えば良心的だった教師が真摯に自らの進退の是非を 悩んでいます。ただし、敗戦後二日のことでないものねだりになりますが、個人的な内部問題の みの議論で、責任の核心の議論がありません。つまり教育そのもの、これまで信奉してきた教育 内容や方法への反省・批判、さらにそれに取り込まれてしまった自らの思想との対峙という踏 み込みがありません。
 辞職という責任をとることは逆にこどもへの責任放棄ではないかという議論に対する長浜 さんの意見は辛らつです。
 このことに関するわたしのコメントは簡潔である。日く、そんなことはない。戦時下の教育は 惨憺たるものだった。勤労動員で授業がまったく停止したこともある。 しかし彼らは育った。いまの日本を支えているのがこの世代である。現代社会の評価はともかくとし て、へたな教育など行われないほうがいいのだ。いまでも、いやがるこどもを大学だけは、高校だけ は行けと強制的に送る親が多いが、そういう〝教育″のなかで、こども・青年はどれだけ歪められて いるかわからない。右も左もわからず、ただひたすらお上のいいなりにしかやれない教師は一人残ら ず教壇から消えてしまったほうが、こどものためになるのである。

 上記の会話では辞職に否定的だった一条ふみさんは結局はこの年の12月に「まるで私の魂は宙に浮い ているわ。とてもこのままでは、自分が失われてしまい、子どもたちに何もしてやれないことに気づい たのよ」と同僚に告げて教壇を去ります。その日の日記に
 「国民をここまで引きずってきた巨大な権力機構の責任などというものの存在とは、まったく別に、 私は、子どもたちに対して、自分自身の今迄の生き方に対して、深い責任をはっきりと感じとめていた」
と書きとめています。
 その後は岩手で民衆の文化運動の記録という活躍を続けたと言うことです。
236 教師の戦争責任(6)
教育学者と教師の身の処し方の違い
2005年4月8日(金)


 「墨塗りをした教師たち」の次は「墨塗りをしなかった教師たち」、つまり敗戦のときに教壇を 去った教師たちに焦点をあててみたいのですが、その前に教育学者のことに触れておきます。

 長浜功さんの著書「教育の戦争責任」は教育学者の戦争責任の取り方、というより取らなさ方 を個人名を挙げて、一人一人について克明に追求しています。それぞれ著名な教育学者です。 いずれ詳しく紹介する予定です。
 「日本ファシズム教師論」はその続編で「第四章 教育における戦争協力の論理と倫理」では教師の 戦争責任の取り方あるいは取らなさ方を、ここでも個人名を明らかにして論じています。その人たちは これまでの人たちとは違い、それぞれ自らの著作物をもつ当時のオピニオンリーダー的役割を果たして いた人たちです。(「日本ファシズム教師論」の論述には部分的に多少異論があるのですが、この稿では それはおきます。)

 私は上の文で教育学者の場合は「戦争責任の取り方、というより取らなさ方」と言い、教師の場合は 「戦争責任の取り方あるいは取らなさ方」と微妙に違った言い方をしました。教育学者の中には戦争責任 とまともに対峙したものが皆無だったと言うことです。このことに関して上提の 「第四章」のはしがきを読んでみます。

 長浜さんは「教育の戦争責任」で「国民学校の教師たちが悶々と、戦争責任者としての自分 の立場に悩みをかかえているとき、教育学者たちは平然と教壇に返り咲いていった。」と書いています。 「第四章」で教師の戦争責任を論述するに当たり「このことを避けて論述することはできない。どうして も触れていかなくてはなるまい」とし、本論に入る前に、この教育学者と教師の身の処し方の違いを、 悩み方の違い、研究室と教室という場の違い、返り咲き方の違い、の3点で論じています。
このはしがきを私は、現在「君が代・日の丸」の強制で踏み絵を強いられている教師たちと この事について口をつぐんでいる学者たちをオーバーラップして読みました。要約して紹介します。
 第一の悩み方のちがいについて、結論からいえば質的にも量(人数)的にも、教育学者と比べて、 教師たちのほうが深く傷つき、深刻に悩んだ、と いっていい。戦争賛美の論文をものした教育学者がほとんど戦後またぞろ教育界に、なんの自己 批判もなしに復帰して〝大活躍″したのに比べ、教師たちのなかには自らの戦争協力を痛烈に反省 し、責任をとって野におりた人間がかなりいる。むろん、量的にいえば居残りが圧倒的に多かった けれども、教育学者の百%の復帰からみれば、明らかに教師の反応は良心的だったということがで きる。(後略)

 第二の研究室と教室のちがいについていえば、(中略)教師は受け持っているこどもの生命を 預っている。こどもが喧嘩で怪我でも しようものなら、教師は名指しで非難される。学校での事故も同様だ。ところが研究室の論文は責任 の形が具体的ではない。侵略戦争を聖戦といっても、教師が親から責められるような形で批判されな い。とりわけわが国ではそうだ。杉靖三郎のように、空腹はかえって頭をよくするなどとのたまわっ ても、責任を追及されない。そうした責任追及の差が両者の差異である。本当なら、これは逆になら なければならないのだ。研究室で無責任なことを言ったり書いたりしたやつがなんの批判も受けず、 彼らの参画した教科書を使って教えた教師が非難を浴びるのは、どう考えても順序が逆だと、わたし は思う。

 第三の返り咲きのちがいについてであるが、これもまた実に対比的である。学者たちは時流にあわ せて、戦後民主主義の潮流に乗り移ったけれども、教師たちはそうはゆかなかった。学者は自分の書 いた本を庭で焼き捨てればよかったが、教師たちは昨日まで神聖無比と教えてきた教科書に墨をぬら せなければならなかった。教師たちには己れの良心に目をとざしていても、それを責めるこどもの目 があった。しかるに教育学者たちときたら、己れの良心を押し殺しておけば、誰も責めるものはいな かったのである。かくして学者は平然と復帰をし、良心的な教師であればあるだけ、教壇から身を遠 ざける結果を招いた。(後略)

 以上、みてきたような点からいってもなお、わたしは教師の戦争責任の所在を掘り下げてゆく必要 性を痛感する。学者と比べればその比重は、はるかに軽いといえるかもしれないが、しかし教師とい うものが、人間の生命を預かる固有の仕事である限り、歴史のなかで果たすべきこと、為すべきこと およびそれとはまったく反対の極としての犯罪と誤謬について学ぶことは重要である。その意味から いって、戦争中に果たした教師の仕事についての反省は、単純に割り切ることのできる問題ではない としても、先ず、この問題に取り組むということから、始まるのだと思う。

 次回は「墨塗りをしなかった教師たち」を取り上げてみます。
235 教師の戦争責任(5)
墨を塗りきれなかった教師
2005年4月7日(木)


 「墨を塗った教師」のその後の生き方は三つのタイプに分類できそうです。「A先生」と「おっか ない校長」の二つのタイプと、今回はその三つ目です。

 1975年8月15日の読売新聞の投書欄<気流>に「戦争と平和/この日に思う」という特集がありました。 その投書の中の一編を山中さんが「撃チテシ止マム」で取り上げています。
過ち犯した教育者に時効はない
30年ぶり、教え子の同級会に欠席   無職 百武福寿 59
 三十年ぶりで、教え子たちの同級会が開かれるので出席していただきたいという意味の招待状が来 た。涙の出るほどうれしく、今すぐにでも飛んで行きたい気持ちだったが、辞退の手紙を出した。もち ろん、別の口実である。
 なぜ、せっかくの招待を断ったかというと、あの時小学校の五年生だったこの子供たちの担任だった 私は、だれにも負けず、熱心に、軍国主義をやったからである。戦争に負けた時、責任を自分なりに感 じて教員を辞めようと思いつめながら、ついにそれさえも実行出来なかったこのおれが、いまさら、何 の面下げて「恩師でござい」と彼らの前に出られようか。過ちを犯した教育に「時効」はないと思う。 それにしても、他の友達の元教員は、喜々として参加し、ごく自然に楽しく振る舞って、みやげ話など をしているが、余程自信ある教育をしたのだろう。
 ああまた、あのいやな敗戦記念日がやって来る。絶望に髪をかきむしった日が……。(山梨県富士吉田 市)

 この投書に「深い感銘を受けた。」と、山中さんはその感銘の根拠を分析しています。そのポイント 部分を引用します。
 この僅か400字程度の短い文章にこめられた書き手の<思い>の深さ、重さといったものはなみなみな らぬものであろうと思われる。これは単なる自己批判を越えて、戦時下教師への鋭い告発となって  いる。
さらに当時の時代情況を俯瞰した上で次のように述べています。
 そうした情況から判断すれば、あの時期に「だれにも負けず、熱心に、軍国主義をやった……」こと は、ある意味では不可抗力であったともいえる。もちろん、投書者はそんな弁解などしていない。そし て敗戦の折に教職を辞そうと思いながら、それが出来なかった自分、つまり自分なりに責任をとれなか った点をあげ、更に「過ちを犯した教育に『時効』はない」と結論している。まさにその通りなのであ る。教育という営為は、特に初等教育は取りもどしがきかないのである。その意味で、当然、気楽に同 窓会に出席する教師たちに言及せざるを得なくなる。  この投書者は、教育というおとなの営為のもたらす恐しさを知っている。特に戦時下の教育が<教 育>と呼ぶには余りにも非教育的でおぞましいものであったこと、それに積極的に手をかしてしまった ことを「過ち」として主体的に把握しているのである。

 過去の自らの過ちに墨を塗っただけで済ますことができずに、その過ちと真摯に対峙している姿勢を 評価しています。そして山中さんは、この投書に対して<教え子の同級会>に出席する教師の側から反論や弁明 が出てくるであろうと予想していました。山中さんの「予想通り、四日後の8月19日の読売新聞に、神 奈川県藤沢市に在住の五一才の元教師の主婦による、つぎの投書が掲載」されました。
 軍国主義教育をした自責の念から、三十年ぶりの同級会に欠席したという元教員の「過ちに時効はな い」という投書を拝見して胸が痛みました。私も正にその一人だったからです。
 生徒と共に歴代天皇名を斉唱中、放送をきくようにとの紙片が回ってきて、歴史の授業を終えるや玉 音を聞きましたが、戻ってきたクラスで、まだ「百万人といえどもわれ行かん」と女だてらに意気まい てしまったのです。今考えれば、とても恥しく思いますが、しかし、あの当時の行為をだれが責め続け られるでしょうか。かえってそのような教育者の方が熱心に子供たちを導いていたのではないでしょう か。私も間もなく、自我に目覚めて、悔恨と共に真の意義を知り、教職から身を引きましたが、同窓会 の招待があれば、出来る限り出席しています。教え子たちにわびる機会でもあり、国家と個人とを考え るよい機会ともなるからです。
 こんなことから、より平和に対する認識を深め、より社会にも貢献しようと自覚し、励まし合えるか らです。いつまでも教師を責める教え子は一人だっていません。
 気持ちの転換はなかなか出来ないのは分かりますが、どうぞ識者や市井の声を糧とし、納得し、教え 子たちが失望しないようにお姿を見せてあげて下さい。今こそ教え子たちから教わる謙虚な気持ちで参 加して欲しいのです。

 山中さんは「皇国民の練成」という名の暴力教育をもろに受けた世代の一人です。それにもかかわらず 「ボクラ少国民」シリーズの論調には感情的になることを抑えて、できるだけ客観的に冷静に記述する 姿勢が窺えます。しかし上の投書に対しては、めずらしく感情をあらわにして怒りを爆発させています。 投書者の居直り・欺瞞・ウソを克明に分析しています。その居直り・欺瞞・ウソは「墨を塗った教師」の 第一のタイプの典型的な心性を表していると思われます。かなり長いのですがその部分の文章を全文引用し ます。「皇国民の練成」をもろに受けた人の怒り・無念を代弁する記述として、その怒り・無念を共有したいと 思います。
 正直なところ、こちらの投書を読んだときは、むかむかするほど腹が立ってきた。前の投書者の心情 を低い次元で捉えて、したり顔でお説教をぶったれている厚かましさに、文字通り唾棄したい気分にな った。「あの当時の行為をだれが責め続けられるでしょうか」などということを当事者本人の口から言い 出すに至っては、まさに笑止も甚しい。これはかなりたちの悪い居直りである。しかも、「かえってその ような教育者の方が熱心に子どもたちを導いたのではないでしょうか」に至っては、盗人たけだけしい 言い草である。
 あの<教育>というには、あまりにもおぞましい犯罪的営為を逆に高く評価しているの である。国民学校初等科一年生になったばかりの少女の防空頭巾がまがっているというだけで、一週間 もはれがひかないようなびんたをはった教師、他の学級ではやらないというのに其冬に上半身はだかに して町内一周のマラソンを毎日やらせた教師、奉安殿への最敬礼が粗略であると殴った上に足蹴にした 教師、授業中にポケットに手を入れたというので、用水桶の氷を割って、その中へ手をつっこませてお いた教師、こんな非人間的な例なら、それこそはいて捨てるほどある。
 はっきり言って、<ボクラ少国民>は彼等によって導かれたのではない。その恣意的暴力を伴う錬成 と称する体罰に怯えながら、唯唯諾諾と従わざるを得なかったのが本音である。それをなんの抵抗も なく「かえってそのような教育者の方が熱心に子どもたちを導いたのではないでしょうか」などと平気 で言える感覚には呆れてものが言えない。熱心にやりさえすれば、犯罪も許されるといったふうな論理 はなりたたない。だからこそ、前の投書者はその問題を「過ちを犯した教育に時効はないと思う」とこ だわり続けているのである。そうした本質的なところを見もせず、続けて「私も間もなく、自我に目覚 めて、悔恨と共に真の意義を知り、教職から身を引きましたが……」と述べているが、それすらも信じ 難くなってしまうのである。もしそれがこの文章の通りだとしたら、まちがっても前記のような言い草 が出て来るはずもない。
 そこまで疑ったら身も蓋もなくなるが、1945(昭和20)年8月15日は水曜日で、夏期錬成期間であり、 国民科国史は五年生以上の教科目であったが、当日はほとんどの学校で授業をしていなかった。一般 に高学年生は<田の草取り>とか<松根油採取>などといった勤労作業にかり出されていたはずである。
 それに、彼女は同窓会の招きには出来るだけ出席する、それは教え子たちにわびる機会でもある……と言っている が、そのことさえも悪意をこめて疑いたくなってしまうのである。仮にわびたとしても、酔っぱらいの 肩たたき的ななにわ節的なわび方でお茶をにごしたに相違あるまいなどと思ってしまうのである。「い つまでも教師を責める教え子は一人だっていません」などと、よくも言えたものである。一体、何を根 拠にこんなことを言い出すのだろう。 ぼく自身、満45歳になった今日でも、いまだに何かのはずみで、街のどこかでばったり顔を合わせる ようなことがあったら、実際に出来るかどうかは別として、ものも言わずに殴りつけてやりたいと思って いる教師がいる。
 それにしても、結びの文章のしたり顔のお説教には辟易させられる。「気持ちの転換はなかなか出来 ないのは分かりますが……」など親切ごかしに言っているが、実はこの人物、何もわかっていないから、 こんな後生楽が言えるのである。「今こそ教え子たちから教わる謙虚な気持ちで……」と、前の投書者に謙虚な気持ちがないかのよう な言い方をしている。こうした一見善意の倣岸不遜な押しつけには敵意以上のものを感じてしまう。
 ぼくがこの投書を読んで腹を立ててから数日後、<学童集団疎開>問題を追究し続けている佐々木直 剛から、この投書についての手紙をもらった。彼もまた、ぼくと同様に腹を立て、こうした人間がいる 限り、あの時期のことを刻明に記録し、告発すべきだと書いてきたが、まったく同感である。
 もちろん、ぼくは教え子たちの同級会に出席する教師たちをひとまとめにして非難しようなどとは思 ってもいない。ぼく自身、国民学校の同窓会に出席し、年老いたかつての恩師たちの涙を有難いと思っ た。教え子の肩をつかみ、何もいわずにぼろぼろ泣いていた恩師の姿は忘れられない。また、それを機会 になんどか個人的に恩師たちを訪問し、当時のことを取材させてもらった。個人的にはみんないい人た ちである。だがこういう人たちを、あの狂気の錬成にかり立てたものは何であったか、また何故に、それ をしてしまったのか……ぼくはその<過ち>は<過ち>として、明確にしておくべきだと思うのである。

 いまでも大方の教員は「個人的にはみんないい人たち」です。しかし「いい人」というだけでは 現在の危機的な状況に立ち向かえないでしょう。教師たちの過去の過ちから学ぶべきことは 多々あると思います。
234 教師の戦争責任(4)
墨塗り教師
2005年4月6日(水)


 「日本ファシズム教師論」からの孫引きです。
 そのころは、まったく軍国主義教育であり、すばやく軍国の子に育てる目的のために、教師は幼い わたしたちを気が遠くなるほどよく殴った。教科書をたいせつにしない子にはとくにそうであった。
 それが戦争が終ったら「教科書を開くまえに一度教科書におじぎをしないと罰が当たるよ」とまで 教えてくれた同じ教師の命令で、わたしたちは教科書に墨をぬったのである。
 村に軍人はいない。軍人と教師のどちらが偉いのかはわからなかったが、とにかく軍人のいない村 に、教師以上の偉い人はいない。教師のいうことは、子どもにとってはもちろん、親にとっても絶対 であった。
 それゆえにこそ、教師に説得されると、数え年十五のわが子を軍隊や満州に送り出していたので ある。その教師が、こともあろうに教科書のなかでも特別に力をいれて教えた部分こそよけいに濃く 墨をぬらせたのである。
 教科書に墨をぬる ― ということは、それまでの教育をまっこうから否定することではないのか。 それまでの教育を否定するのであれば、それまでとは異った意識で以後の教育にあたらねばならないの ではなかったか。
 このことを、生徒も教師も忘れていいのか、忘れさることが許されるのか。そのときから四半世紀も 過ぎ去ったからといって忘れていいのか。ほんとうは、忘れることは罪ではないのか… (和田多七郎『ばくら墨ぬり少国民』太平出版社、昭和49年7月)。

 教師たちはGHQの命令に従って生徒たちの教科書に墨を塗らせました。ともかく命令には従ふ人たちです。 そのとき大方の教員たちは同時に自分の心にも墨を塗ったのです。軍国主義教育にどっぷりと浸かった自分の 思想・精神を厳しく検証して棄揚するのではなく、民主主義教育と言う墨を塗りこっそりと隠して敗戦をす り抜けていったのです。
 わたしが教師になりたての頃だから、確か昭和30年前後のことである。ある研究会で、授業を見 ようと階段を駈け登ったとき、二階から降りて来たA先生と、正面からばったりと出会った。十年ぶり で出会った恩師を見上げ、わたしは体じゅうの血が、逆流する程の憎悪を覚えた。先生は、しばらく わたしを見おろしていたが、高慢な勝利者の顔で、うす笑いを浮かべたまま、階段を降りて行かれた。
 その研究会の最後は、A先生の「民主主義教育の何とか」という、いかにもアメリカやヨーロッパだけ が教育の先進国のような、反吐の出そうな講演であった。この、時代の寵児に対して、わたしは唇を嚼ん だものであった。
 その十年前。わたしが小学校五年生だつたから、昭和19年のことである。
 担任のA先生に召集令状が来た。先生には、二度目の応召だった。襟の詰った黒い軍服を着、金色の ゴボウ剣を腰につけた、りりしい姿で、全校生徒の前に立たれた。「自分もきょうからまた、日本海 軍軍人であります。この非常時に、天皇陛下に召されて出征できることは、日本男児として本望であ ります。」
 先生のことばに、わたしたちは酔っていた。これ程の、興奮はなかった。
 教室へ来られた先生は、まず黒板の上に飾られた皇居の写真に向って、
 「まもなく、自分は天皇陛下のおそばへ参ります。」
 と、挙手の礼をされた。目深にかむった軍帽、白い手袋は、戦時下における「われら少国民」の、 もっとも憧れる海軍将校の雄姿であった。みんなも敬けんな気持ちで、写真に向って最敬礼をした。
 「いいか、みんな」その日、先生の顔には、いつもの笑顔はなかった。「自分はかならず死んで来る。 鬼畜米英を倒さん限り、生きては還らんぞ。」
 溢れる気持ちを鎮めようとしたのか、先生はー息つき、さらに「おまえたちも日本男児だ。かならず 後に続け。自分の教え子として天地に恥じない人間となり、皇国(みくに) のためにご奉公してくれ、今生の別れだ」と、疎開学童のため八十余名にふくれあがった教え子のひ とりびとりと握手をされた。
 わたしの番になったとき、思わず体が震えた。両手で先生の手を握って、
 「先生、死、ぬな。」
 泣き声になったとき、目の前に火花が散った。こめかみあたりを殴られ、倒れた。「女々しい事。……それ でもおまえは日本男児か、海軍軍人の教え子か。」
 その日、A先生は八紘一宇、滅私奉公ののぼりの中を、勇壮なブラスバンドに送られ(いずみ) ってしまった。
 そして終戦のよく年三月、先生は復員された。その時がまた、お別れのことばだった。
 「先生していても、まんまが喰えねえすけえ、のう。先生やめて、百姓になっさ。」
 方言まる出しで、完全な三枚目の挨拶であった。百姓でなければ、食料のない時代であった。
 六年生であったわたしは、割りきれなかった。折り目正しかった軍人の、この豹変ぶりに、軍国教 育を受けていた当時のわたしは、失望した。こういう場合、おとなという者は、日本男児と百姓の 距離を、子どもに説明してはくれないものなのだ。
 時代が落ち着くと、また復職された。そしてあの民主主義教育云々の、先生一流の論法が、時代を 先行しているという錯覚を他人にもたせ、栄達の道を進まれた。
 今でもわたしは年毎に、あの殴られ方を鮮かに思い出すのである。  (本間芳男「軍国教師の戦後転向」『昭和教育史の証言』山脈出版の会、 昭和51年8月)
 このA先生は墨で塗り隠した思想・精神と新たに与えられた民主主義とを自らの内部でどうように 闘わせたのでしょうか。そのおおよそのことは偶然出会った教え子に対する対応から推察できます。 「厳しく検証して棄揚」してきたとはとても思えません。墨の下はそのままで民主主義者に成りす まして出世してきたようです。
 次は国民学校(現・東京都府中市立府中第一小学校)で「おっかない」校長と生徒に畏怖されていた 吉田亮という人の手記(遺稿と書簡)の一部です。(「御民ワレ」から)
(前略)昭和十七年、国の施策として満蒙開拓青少年義勇軍の計画があり、全国から募集した。
 府中小学校からも九名応募参加した。卒業直前の三月内原訓練所に入所、約一年の訓練の後渡満し昌 図に入った。
 思えば十五歳、青雲の志を抱いて満蒙に骨を埋める決意、その意気懦夫を起たしめるものがあった。
 昭和十八年七月、東京府の慰問団(七名の校長)の一人に加わった私は、彼等の入植地昌図を訪ねて、 二日二晩生活を共にしたが、熾んな意気で艱苦欠乏を内原精神で堪えている姿に安堵したものだ。
 この旅行の日程は、朝鮮・旅順・奉天・ハルピン・孫呉・黒龍江・牡丹江などの慰問、見学で、 一か月で得ることも多大であった。



 小生も老来益々健康にめぐまれ、ヒョンな事から昨夏来、市の教育委員になり、殊に教育長たる 地位から、勤評の実施、これが反対闘争の組合行動に立ち向い、もって生まれた性格と信念で、 フン張り続けています。余事はさておき兄に満腔の敬意と謝意を表したいことがあります。というの は、昨日ゆくりなくも大国魂境内で、忠魂永存の碑を拝見したからです。
 裏面にまわりまして七百余名の方々のみ名を見て行く時胸がつまり目がしらがあつくなりました。  かうしたものは決して小生だけではなく、あまたの人がそうだろうと思います。それが「忠魂永存」 です。小生、二年ほど前、保谷天神で、やはり忠魂碑を見ましたが、その時もいゝ事がしてあるなと 思ったのですが、府中に於ては、一段も二段もそう思わせられました。
 小生も三〇年退職後直ちに、かつての任地拝島、深大寺、府中の、教え子を葬った寺二十数ヶ所の 墓参をし、線香を供え乍ら泣いて来ました。
退職したらと心に誓っていたので三〇年になりますと、度々夢を見ていたので、墓参後は重荷をおろした ような感がしています。(以下略)

 この人は自らの思想・精神をごまかしたのは墨を塗った一時だけで、塗った墨はいち早く拭い去って 旧態然の思想・精神のまま国家権力の忠犬として「フン張り続けて」いったようです。
 もちろん、墓前で流した涙は教え子を死地に追いやったことへの悔恨の涙ではなく、児童たちに押し付 けた忠魂への自己陶酔の涙です。外国の地で侵略者として死んでいった、いや祖国から見捨てられ殺され ていった人たちの無念さを感受する感性を欠き、その人たちの慟哭を聞く耳ももたず、自分が生き残った ことへの後ろめたさもこれっぽっちも感じない貧相な精神を得意がる忠犬です。
 今ほとんどの自治体では教育長とか教育委員とかは、この手合いの国家主義亡者で占められているのではないで しょうか。権力の犬として「フン張り続けて」いるのは都教委だけではありません。改めて恐ろしいこと と思わざるを得ません。
233 教師の戦争責任(3)
児童は「常在戦争」の兵士
2005年4月5日(火)


 「御民ワレ」からの引用です。
 太平洋戦争期にはいると、学校は<皇国民ノ錬成道場>であるばかりではなく「常在戦争」(常に 戦場に在るとの意識で戦地銃後一体化のスローガン)が言われ始め、学校は<戦場>であるという意 識が絶えず植付けられた。教場では子どもたちは兵士であり、教科書、文房具の類は武器と看倣され た。忘れ物をしようものなら「武器を忘れて戦場に来る兵隊がいるか!」と厳しい体罰が科せられ た。つまり鉛筆一本、雑記帳一冊に、学校にいる限り、殺戮のための道具としての観念が与えられた のである。特に教科書に対する扱いは厳しかった。教科書を粗略に扱うことは絶対に許されなかっ た。地方の学校によっては、授業の始まる直前に、教科書を恰も勅語騰本のように拝礼させたり、お しいただかせたりした。教科書には天皇陛下のおさとしがしるされているというのである。まさに軍 隊に於ける<菊の御紋章>を付した小銃と同じ扱いであった。
 所持品検査などというのもしばしば行われた。これは学校へ持ち込むことを禁止された物品を摘発 するためばかりでなく、筆箱の中の筆記用具、あるいは教科書、雑記帳が<八紘一宇ノ聖戦>の武器弾 薬として、いかに丁重に扱われているかという検査の意味も兼ねていたのである。ちびたケシゴム、 鉛筆の類が武器弾薬に変化し、それを疑いもない当然のことと思いこませる教化の徹底度は、国民学 校期が最高のものである。


 それにしてもひどかった。雨の日、始業前の教室で騒いでいたところ、道化たのがひとり、「先生 来たぞ!」と警告した。一瞬、教室は静かになり、みんなは廊下に目をやった。廊下に姿を現わした のは、ぽくらの担任教師ではなかった。みんなで道化者をなじってぶうぶう言った。ところがその教 師はいきなりぼくらの教室へはいって来るなり、「先生を犬猫同然に『来た』とは何事か!」と件の 道化者が鼻血を吹いてぶったおれるほどに殴りつけ、あまつさえ、そうした不心得者を出したのは連 帯責任であるとして、全員を廊下に二列横隊に並べ「前列一歩前へ進め、廻れ右」で<相互びんた> をやらせた。
 しかし、これなどは扱いはともかくとして、一応原因があるのだが、教師がわけもなく殴るという ことだってあった。ぼくらの学校ではなかったが、女子の学級で第一校時が始まると、教室へはいって 来て、やにわに竹の棒でクラス全員の頭をしびれるほどの激しさでぽかぽか殴って廻る教師がいたと いう。「これで少しは目がさめて緊張したろう、その引きしまった気持ちで勉強しろ!」というので ある。これが毎朝恒例であったという。これなどは体罰というよりも、まるっきり暴力でしかない。 もっとも、この学校の校長は、大東亜戦争も末期になると、毎朝、朝礼で日本刀の抜き身をふりまわ したというから、それぐらいのことがあっても不思議ではなかった。
 自分で体罰を加えるのが面倒なのか、級長、副級長あるいは学習班長を呼びつけ、手を出させ、竹  の棒でいきなりその手を殴りつけ、自分が指名する生徒のところへ行き、その痛みを忠実に伝えろと  命令した横着な女性教師もいた。

 国民学校のこの酷い状況に親たちはどう対処したのでしょうか。
 また、ぼくに限らず、学校で教師から厳しい体罰を加えられたとしても、余り名誉なことではなか ったから、子どもたちはそんなことを親たちには報告しなかった。何かのはずみで親が知ったとして も、親は親で、自分たちも多少似たような経験をして小学校を出ているので、教師が殴るのは当然の 教育的行為で、殴られるようなことをした子どもの方がよろしくないと頭から決めこんでいた。何か のはずみで、教師が全く不当な体罰を加えたとしても、子どもたちは黙っていた。そんなことで親が 学校へ抗議にでも来たりしたら、いい恥だと思っていたのである。<過保護>という言葉は無かった が、過保護のめめしい奴だと思われたくなかったのである。だから、実際に親たちはその実態を知ら なかった。

 それでも中には子どもがそんな酷い扱いを受けていることに抗議する親もいたに違いありません。 それに対して、前回登場した坂本一郎という主事がこんなことを書いています。
 時々新聞面を賑はす記事に、体罰を加へた先生を子供の親が告訴する事件があります。もちろん体 罰をみだりに加へることはよいことではありません。しかし、その鞭によって、子供は国の子として の覚醒を求められたのであって、さうするより外に手段がなかったとすれば、やむを得ぬことだとし なければなりません。それがたとひ先生の過失であったとしても、子供の非は棚にあげて、親の体面 を傷けたとか何とか息まき、表沙汰にするのは、先生に復仇することはできるかもしれませんが自分 の子供の魂はまったく親の手で虐殺するも同然です。その子供は将来、学校教育を素直にうけて国の 子として成長することは断じてできなくなります。のみならずその影響は広く他の子供にも及ぶので あります。いつまでも子供を、家の子として独専してゐては、決して有為の日本国民とはすることが できないのであります。子供をかはいがる心持の裏には、国の子としての頼もしい成長を念願すべき であります。そのため、家庭教育を、学校中心の教育方針に立ててゆくべきであります。 (坂本一郎『国民学校と家庭教育』)

 「体罰をみだりに加へることはよいことではありません。」と一応「体罰」を批判するポーズはとり ますが、「しかし」と今度は体罰批判を全面否定する理屈を書き連ねていく詭弁を展開しています。今でもよくお 目にかかるレトリックです。それにしても体罰批判が「子供の魂」を「親の手で虐殺する」ことと同然と は、まったくあきれた神経と頭脳の持ち主です。この男が児童文化の功労者というのですからこの国は一体どう なっているのでしょうか。
 若者たちの「脆弱ぶり」を嘆き、「軍隊(自衛隊)生活を経験させればすぐシャッキッとする」などと いうような発言が政治家の中から出てきています。政治家に限りません。教育とは「練成」であるとい う教育観は一般にも根強くはびこっています。教員の中にも、と私は思っています。もっとも今では 「練成」を「しつけ」と言い替えています。

  今はそれを論じる場ではありませんが、「しつけ」について一言だけ付け加えます。
 一般に「しつけ」という言葉によって期待されているものにはうさんくさいものもありますが 、私は全面否定しているわけではありません。しかしそのましな部分も訓練や説教によって押し付けるもの ではなく、人と人との深い関わりを通して一人一人が自ら考え選び取っていくものだと言いたいのです。 学校とは「人と人との深い関わり」を創る場でありたいものです。
232 教師の戦争責任(2)
近代日本のスタート時からの病根
2005年4月4日(月)


「日本ファシズム教師論」から、まずかっての少国民の証言を読んでみます。

  小学校の思い出
   ―おりあらば、俺たちの
     前でS先生に読まし
     てやりたい詩

いまごろは
あいつはどこでなにをしている
 だろう
あいつは俺たちを四年間うけ
 もった
しかし 俺たちは
あいつに教わったことをおぼえ
 ていない
俺たちの組には
友だちどおしのなかに先生代理
 というのがいた
君らがちゃんとしらべてきて
時間ごとにかわって教壇にたった
あいつはいつもすわっていた
あいつは自分勝手なことをして
 いた
そしてあいつは
時間中でも俺たちに肩をたたか
 した
順番をきめてたたかした
その順番で
あいつは自転車も掃除さした
靴みがきもさした
すすんでやったものは点数をも
 らった
それであいつはいつもすわって
 いた
ちょっとアゴをしゃくれば
俺たちはとびまわった
俺たちは点数がほしかったのか
俺たちはあいつになぐられるのが
 おそろしかったのだ
あいつは俺たちをびしびしぶんな
 ぐった
あいつの気がすむまでぶんなぐら
 れた
みがいた靴のそろえ方がわるいと
 いう理由で
着物がよごれているという理由で
顔の感じがわるいという理由で
試験の点数が三点たりなかったと
 いう理由で
あいつは俺たちを
床板にたたきつけるほどなぐりつ
 けた
俺たちは 思い切りの悪い方法で
 あいつに反逆した
俺たちはあいつの太い腕がおそろ
 しくて
あれが勢一ぱいの反逆だったのだ
俺たちは失敗した
あいつは俺たちをコン棒でぶんな
 ぐった
俺たちのなん人かは
まっさおになってぶったおされた
俺たちのあるものは
頭のハダをたたきられて
まっさおな頬を紅の篠がつっぱ
 しった
あるものは立ったまま小便して
 しまった
俺たちはわすれやしない
一人としてわすれやしない
あいつ あいつ
あいつは陸軍伍長だった
あいつはいまごろ
どこでなにしているだろう
そしてあいつは
俺たちの幼い魂がきずつけられた
 かなしさと
そのために一そう強くはねかえった
 今のこの俺たちの勇気を
ちょっとでもかんがえることがある
 だろうか
   (こばやしつ
   ねお『こばやし・つねお詩集』
   解放社、昭和23年11月)

 明治政府は近代的な軍隊整備のための至上課題は兵士への一般的教養の付与であると認識していました。 徴兵令に先駆けて1872年(明治5)年8月に制定された「学制」は何よりも「強兵」作りのためだったので す。大日本帝国下の教育の暴虐な体質はそのスタートから決定づけられていたと言えます。(この 「学制」には激しい民衆の抵抗があったと言います。それが弾圧・鎮圧されていく経緯もいずれ調べたい と思っています。)
 その「学制」が敷かれたばかりの頃から教師をしていたという人が当時を回顧している文章が「御民 ワレ」に引用されています。その一部を孫引きします。
 併し当時の教師は、父兄からは神の様に尊ばれ、財産家などでは自分の家に居て貰うことを名誉の 様にしてよく世話をして呉れたので、今の様に生活は困難ではありませんでした。尚当時は実に自由 なもので、何時休みにしても旅行しても平気で、明日から盆であるから三日間休みだとか、何処の村 に芝居があるから休みだとか、校長の独断専行で何処からも指揮を受けるでもなく、認可を願うわけ でもなく、実に教師独尊時代とでも云う有様でした。
 児童の訓練などに就いてもその標準用語は「此の野郎、此のアマ」等の一言が万事の訓練語であっ て、実に簡単で十分に用が足りたのです。其の次は直ちに拳固・直立・留置等でした。直立には茶碗 に水を入れて持たせるか、又線香に火を灯ぼして消ゆるまで持たせるとか、又大算盤などを捧げ持た せる等で、罰の軽重に依って酌量すると云う有様でした。
 教師の持つ鞭なども、教鞭として用いられずして、黒板をたゝくとか机をたゝくとか児童を打つと かに用いられたものでした。そして其の鞭は児童に命じて、各児童の家の竹薮から、細くて節の密度 した根竹で、よくしなって打ってもたゝいても容易に折れぬものをさがして持参せしめるので、児童 は無邪気で何の気なしに先生様の気に入る様なものを選んで持参して呉れるのでした。 (『平塚小誌』1952年・平塚市)

 生徒を「此の野郎、此のアマ」と口汚くののしって殴ったり、「直立には茶碗に水を入れて持たせるか、又 線香に火を灯ぼして消ゆるまで持たせる」など陰湿にいびる事を「訓練」と言っています。「大東亜戦争」 下の国民学校では「皇国民の練成」と言っています。あきれたものです。
 「皇国民の練成」を理論づける教育学者たちの文章は後にまとめて読むつもりですが、ここでは当時 「東京第一師範附属校主事」という肩書きをもつ坂本一郎という教師の文章を掲載します。
 
 惟ふに、大東亜共栄圏の確立は、米英の非望を破砕して世界新秩序を建設したる後にはじめて可能 である。しかるに世界征覇を夢みる米英陣営はその財力と資源とに物言わせて、頑強に抗戦すること は必至である。高度国防国家体制はこの頑敵を殲滅するわが鉄壁の攻勢陣を意味するものであり、皇 軍は火弾を抱いてその第一線に奮進する。しかしわれわれは国民学校なる発射管に児童を装填して、 絶忠の火薬に火を点ずる第二線の重責に立つ。誰ぞ教育を不急の平和事業といふ。われわれの手許に 些かの緩みがあっても、それは直ちに操縦桿を振る神兵の精神に反映するものであることを思はねば ならない。(阪本一郎『少国民錬成の心理』はしがき)

 国民学校は発射管であり、児童は「絶忠の火薬」を以ってそこから戦場へ送り出す砲弾だと言うので すから驚きです。ちなみにこの坂本一郎という男は民主主義者ヅラして戦後も活躍したようです。 「児童文化功労賞」というのを受けているそうです。

 冒頭に引用した詩の中の教員Sは「陸軍伍長」とありますが、「大東亜戦争」当時の教員には 軍隊帰りが多かったようです。その頃の男性教師で徴兵検査甲種合格であったものの多くは、 兵役短期現役(5ヵ月)で下士官任官という特典により半歳を待たずに下士官になって学校に戻っています。 短期間で下士官に任官となるのですから、その教師たちが軍隊で受けてきた教育は相当に苛烈であったこと でしょう。そんな連中が「軍隊へ行ったら、こんなものじゃないぞー」と少国民を練成するのですからたまっ たものではありません。
 アッツ島の場合が昭和18年5月、サイパン島のそれが翌19年の7月だった。全校生徒を各自の座席に正 座着席せしめ、週番士官全員が手分けしてクラスごとにひとりひとりの頬を張って回るのだった。たるんだ空 気に活を入れ、奮起をうながすという触れ込みだった。
 「米軍の狂暴なる侵攻作戦のために、アッツ島守備のわが皇軍将兵は全員玉砕されたっ」
 週番士官が教壇に立ち、腰に両手をあてがって叫ぶように言う。
 「おんしらぁは、気がゆるんじょる。全員玉砕はそのためじゃっ。よって、皇国必勝のために週番士官が制 裁を加えるっ」
 今から考えれば三歳の童子にさえ判断がつく程度の非合理ぶりだが、当時の空気の中ではさほどおかしいと も思われぬ論理だったし、また、たとえおかしいと感じても異を立てるにはよほどの勇気を要したのだ。「動 くなっ ー 目を閉じよ。めがねを掛けちゅう者は、はずせ。ロをつぐんで、しっかり食いしばっちょれ」
 そうしないと、口内が切れて出血するのだった。注意事項が終わると、二名の週番士官が机の問をめぐりな がら叩き始める。平手で一人一回なのだが、態度のわるい生徒、ふだんからにらまれている生徒は、二回三回 とおまけがつくのだった(山川久三「反面教師としての軍国主義教育」広島平和教育研究所編『戦前の教育と 私』朝日新聞社、昭和48年11月)。

 「週番士官」というのは、教師が上級生のうちからお気に入りの「優等生」児童を任命した風紀の監視・ 取締まり係りです。実体は〝公的″な「ピンタ係」だったのです。  前にも書いたように、私は敗戦時には国民学校2年生でした。私の担任はまともな先生だったのでしょう か。殴られた記憶がありません。しかし戦後4・5年もたった中学生の時に一度ならず、クラス全員だったか一部だった か、廊下に並ばされて殴られた記憶があります。何が原因だか全く記憶がありません。きっと些細な事だった に違いありません。教育界には大日本帝国と新生民主日本との切れ目はなかったのかもしれません。いや、教育界 だけではなく、日本全体がそうだったのかもしれません。大日本帝国の亡霊が蘇える素地を残して しまっていたのです。
231 教師の戦争責任(1)
戦争責任回避のツケ
2005年4月3日(日)


 「君が代・日の丸」の強制に屈服しっぱなしの校長・教頭などの管理職ばかりではなく、その闘い を迷惑がる一部の教員の現今の言動に接するにつけ、皇国民教育の亡霊が蘇えってきているのが見えます。 これは教育界だけの問題ではありませんが、戦争責任を曖昧のままごまかし、皇国民教育の 体質を奥底に引きずったまま民主主義教育を接ぎ木しただけで戦後教育を始めてしまったツケでしょう。 戦後の教育の今日のていたらく、「君が代・日の丸の強制」に象徴される教育反動をを引き寄せてしまった のはけだし当然の成り行きというべきでしょう。「撃チテ止マム」の中に岡牧夫著「現代史のなかの教師」(1973年・毎日新聞社)からの 次のような引用文があります。
 この100年の間で果たしてきた教師の役割は決して小さいものではなかった。しかも、それは総じ て、国民の側にではなく、権力者の側にたたされ、いや、もっと率直にいうならば、権力者の尻馬にのって、 のせられたという形で、日本の現代史の汚辱の部分で大きな役割を果してきたとさえいえるのである。  「現代史のなかの教師」のなかには、その汚辱に組みこまれることを拒否してたたかった少数の人び ともいた。しかし全体として日本の教師たちは「皇国臣民」の道を日夜教壇で説き、ファシズムの暗い 時代には、教え子を戦場に駆りたてる役割をも果してきたのである。  今日の情況のなかで30年、40年前の教師たちの恥部にふれることは、まったく意義のないことで はないだろう。それは「学制100年」のその内側を照射することによって、「教師とは何か」を問い なおす素材が発見できるからである。  いま、私たちは、体制の側のうちだすさまざまな政策にひたすら順応し、文部省の学習指導要領にの み忠実に、与えられた授業時数を大過なくこなし、一日もはやく管理職に身をおこうと考えつつ、実は 子どもたちに対して加害者の立場にみずからをおいている教師が決して少なくないことを知っている。  そのような教師は、戦中に少年戦車隊や予科練や、はては満蒙開拓義勇軍に子どもたちを志願させ、 大陸や南の海の戦場に送りだした教師と本質的にかわることはない。そればかりではない、父母から遠 く離れたところに身をおいて、体制側の求める人づくりに積極的に手をかしていることをも意味しているのである。

 長浜功著「日本ファシズム教師論」のはしがきに同様な指摘があります。
 本書は前著『教育の戦争責任ー教育学者の思想と行動』の続編ともいうべきものである。今回は 戦時下教師レベルの問題にしぼって論述した。問題を掘り下げれば下げるほど、ますます教育界の病 巣の深さに驚愕する。
 日本の教育界はいつも目先しかみていない、という欠陥をイヤというはど見せつけられる。たまた まわたしはその病理を戦時下に求めているのだが、その本質は戦前も戦後も変わらない。そのことに 気付くだけでも教育界は進歩するのだが、実際はそういう発見でさえ教育界は不可能になっているの である。
 前著が出て以来、少なくない読者の激励の反応があったが、教育界は足並みをそろえたように黙視 した。それは予想していたことではあったが、正直いって淋しい思いはかくせない。ある程度、わた しの研究姿勢をわかってくれていると思っていたわたしと同世代の研究者までが「人を後ろから撃っ た」と表現した。真理と真実より周囲と恩師への気がねが優先されている土壌にわたしの入る余地は ないようであった。
 前著を世に問うてよかったと思うのは敵と味方が実にはっきりしてきた、ということである。ふだ んはものわかりのよさそうな論文を書いたり、いったりしている人間が、実はわたしの敵であり、相 手にする必要ないと思っていた人間が味方であったりした。もうひとことつけ加えるなら、いわゆる 〝革新・民主派″のなかにもっとも悪質な敵が伏在しているという実感をもったことである。
 なんとか力を寄せあって、いい教育、ほんものの教育を育てあげてゆきたいというのが、わたしの ホンネである。本書はともすれば教師のだめさ加減ばかりを述べていると誤解されるかもしれない。 しかし、敢えていいたいのである。ダメな所から出発することが道は遠くとも確実な解答になりうる、 と。わたしが教育界を批判するのは教育界がだめだからではなく、よくしたいからである。その批判 さえタブーになってしまったら立ち直るきっかけは見つかるまい。
 教科書に対する、政財界の攻撃は亡国をねらう悪質な姿勢としか思われない。その時期に本書が出 ることはタイミングを失する観があるが、わたしはむしろ本当の腐敗は外因より内因から生じるし、 それが最もこわいと思う。自己批判を返上したとき人と組織は野心と傲りにうちかたまる。
 本書が再び教育界の冷たい反応にあうことは忍びがたいが、道はそこから始まると信じている。

 このような指摘に対して私は忸怩たる思いを禁じえません。いささか遅きに失するきらいがありますが、 「わが内なる保守反動」と対峙するために、しばらく国民学校の教師と児童やそれを理論的・心情的に 教導した教育学者たちの言動を追う ことにします。今まで用いてきた山中さんの著書の他に、長浜功著「教育の戦争責任」「日本ファシズム 教師論」を利用します。それらの著書から皇国民教 育の当事者たちの証言・著作文・作品を書き出して読んでいくことにします。
230 そのとき「大国民」たちは?(6)
言い替えごっこ
2005年4月2日(土)


 1943年7月にムッソリーニが失脚してからイタリア音楽も追放の憂き目に会いました。そして 外来語の使用そのものが槍玉に挙げられるようになります。「敵性語排撃運動」という言い替えごっこ で忠誠心を競い始めました。
 例えば楽器の名称が次のように言い替えられました。
 ピアノ=鋼琴、クラリネット=竪笛、ヴァィオリン=提琴、ヴィオラ=中提琴、チェロ=大提 琴、バス=特大提琴。
 こんなバカげた言い替えごっこに日夜頭を悩ますとは、まったくご苦労なことです。
 この言い替えごっこのエピソードは枚挙にいとまがありません。面白いといいましょうか、情け ないといいましょうか、ともかく噴飯ものの例が一杯あります。
 「前後左右自由機」あるいは「走行転把(てんぱ)機」。なにの言い替えか 分かりますか。自動車のハンドルだそうです。
 「自動昇降機」「自動階段」。これはなんとなく分かりますね。そうです。それぞれエレベーター 、エスカレーターです。
 「中庸」、「硬」、「3硬」、「軟」、「2軟」はどうでしょうか。鉛筆の芯の硬軟を表す記号 なのです。それぞれHB、H、3H、B、2Bです。

   「敵性語排撃運動」の一番の受難者は敵性スポーツでした。
 スポーツの名称の言い替えは今日でも使用されているものがあります。
 バレー・ボール=排球、ラグビー=闘球、フット・ボール=蹴球、バスケット・ボール=籠球、 ホッケー=杖球、ウオーター・ポロ=水球、テニス=庭球、ピンポン=卓球、ドッジ・ボール=避球、 インドア・ベース・ボール=蹴塁球、などなど。

 敵性スポーツの中でも、ゴルフはぜいたくでもあるというので、一番受難がはげしかったようです。 次が日本ゴルフ協会(大日本体育会に統合されていた)の労作です。

 ゴルフ=打球、ホールス=競区、フェア・ウェイ=芝地、ラフ=野地、バンカー=砂窪、 パー=基準数、バーディ=隼、イーグル=鷲、ホール・イン・ワン=鳳、ハンディキャップ=均率、 ティ=球台、フック=左曲り、スライス=右曲り、アウト・オブ・バウンズ=逸れ球、 ソケット=逸れ打ち、プロフェッショナル=専門選士、キャディ=球童

 隼、鷲、鳳とは恐れ入りました。お寿司などのランク名称「松竹梅」の替わりに使えそうです。

 アメリカ発祥のスポーツ・野球の場合はさらに悲喜劇的でした。
 まずチーム名。タイガースは「阪神軍」、イーグルスは「黒鷲」など。セネタースは「翼」だそうです。 はてな?これは何故でしょう。「オーナー有馬頼寧氏が大政翼賛会の事務総長であったため、翼賛の字か ら、翼を借りたもの」だそうです。
 野球用語の方は、まず審判用語ですが、それは選手に対する「号令」であるとして次の如く改められ ました。

ストライク     ヨシ!一本、二本、三本
ボール       一つ、二つ、三つ、四つ
三 振       それまで!
フェア。ヒット   よし!
ファウル・ヒット  だめ!(これはやがて「もとえー」と変る)
セーフ       よし!
アウト       ひけ!
ボーク       反則
タイム       停止
インタフェア    妨害
ホーム・イン    生還(後、得点と変る)

 また、スコア・ボールドは、ストライクが「振」、ボールが「球」となり、ツウ・ストライク、 スリー・ボールは「二振三球」ということになります。
 その他の用語も全て言い替えられました。次のようなぐあいです。

ストライク      正球
ボール        悪球
フェア・ヒット    正打
ファウル・ヒット   圏外
セーフ        安全
アウト        無為
ファウル・チップ   擦打
バント・ヒット    軽打
スクイズ       走軽打
ヒット・エンド・ラン 走打
ボーク        擬打
フェア・グランド   正打区域
ファウル・グランド  圏外区域
ファウル・ライン   境界線
グラブ、ミット    手袋

 このようなバカバカしいことをプロ野球連盟が自発的に真面目にやったのです。そうしないと プロ野球そのものが継続できなかったのです。末期段階では連盟名を「日本野球報国会」に、 チーム名も「産業軍」とか「近畿日本軍」とか時流に迎合したものに改めたり、ユニフォームの色を 「国防色」にしたりと涙ぐましい努力を続けます。

 最後に「ボクラ少国民第三部・撃ちてし止まむ」の結びの文を掲載してこのシリーズ『そのとき「大 国民」たちは?』を終わることにします。
 主人が番頭に、番頭は小僧に、小僧は犬に……式に錬成の命令は〈ボクラ少国民〉の上にひたすら天 下り続けた。しかも〈狂気〉を帯びて、その度合も「撃ちてし止まむ」と、とどまるところを知らずエ スカレートしていった。〈ボクラ少国民〉は無告の民として、その全てを受け入れ、ひたすら天下る錬 成に耐えた。それも「故山本五十六元帥・アツツ島玉砕英霊部隊」に続いて、天皇陛下の御為に「水づ く屍、草むす屍」となることを目指してである。
 戦後の多くの回想録に「この頃『撃ちてし止まむ』の合言葉が流行した……」というように、そっけ なく書きとばされているのを見るが、これはいままで述べてきたように、ただ単なる流行語といった性 質のものではなかった。多くの人々の理性を圧殺し、天皇制ファシズムを強力に支える狂気をあおりた てるための戦争指導者たちの呪文であった。そしてまた、彼らによって始められた無謀な戦争を「神武 東征」になぞらえ、「八紘一宇の聖戦であるが故に勝利は歴史的必然」とカリスマに陶酔させる魔力を 伴うキー・ワードでもあった。
 このスローガンがシュプレヒコールされたとき、翼賛壮年団は神社の境内で星条旗や洋書を焼き、婦 人会はルーズベルトのわら人形を竹槍で突き、校長は朝礼台で抜き身の日本刀をふりまわし、教師は酷 寒のプールで〈みそぎ〉を強いられ、子どもたちは教師の暴力を伴う錬成にひたすら耐えさせられた。 それはエスカレーションを伴う狂気性において、まさに悪魔のメッセージであった。確かに天皇制ファ シズム自体・狂気ではあったが、戦時下の日本国民のさまざまな狂気を、もっとも有力に、効果的に支 えたスローガンが、この「撃ちてし止まむ」であった。
229 そのとき「大国民」たちは?(5)
レコード盤の受難
2005年4月1日(金)


 もちろん、迷妄の棍棒がうち振るわれたのは童謡や人形だけではありません。大国民の趣味・娯楽 も大弾圧を受けました。ダンスホールは既に開戦の前年1940年に内務省命令で永久閉鎖されてい ました。さらにレストランなど飲食店でも生演奏、レコード演奏を問わずダンス用音楽は一切禁止さ れました。
   しかし、これは営業関係ばかりではなかった。法令による対象ではなかったが、一般家庭でも、 その種のレコード鑑賞をしていることが外へもれたら、それこそ愛国派の老人に大喝叱正される か、通行人によって派出所へ密告され、巡査に踏みこまれて「時局に無関心な不心得者」として、 こってり説諭されてしまうのがおちであった。なにしろ現在のレコード・プレイヤーのように、 ヘッド・ホーンなどという便利な装置の無い時代のことであった。
 ここでも下層指導層が為政者の思わく以上の忠誠心を発揮して、相互監視・密告に励んでし まっています。

 1943年、戦争指導者たちはこの種の音楽禁止を強化するだけでは気がすまなくなり、遂にレコード 廃棄を要求してきました。山中さんは「週報」(328号=1月27日号)の記事を全文書き出していますが、 その冒頭部分だけを掲載します。
 「米英音楽の追放」
 大東亜戦争もいよいよ第二年を迎へ、今や国を挙げてその総力を米英撃滅の一点に集中し、是が非で もこの一戦を勝ち抜かねばならぬ決戦の年となりました。大東亜戦争は、単に武力戦であるばかりでな く、文化、思想その他の全面に亘るものであって、特に米英思想の撃滅が一切の根本であることを思ひ ますと、文化の主要な一部門である音楽部門での米英色を断乎として一掃する必要のあることは申すま でもありません。

  一掃せよ、米英音楽
 情報局と内務省では、大東亜戦争の勃発直後に、米英音楽とその蓄音機レコードを指導し、取締るた め、当面の措置として音楽家に敵国作品の演奏をしないやうに方針を定め、また、これらのレコードの 発売にも厳重な指示を与へたのでありますが、それにも拘はらず、今だに軽眺浮薄、物質至上、末梢感 覚万能の国民性を露出した米英音楽レコードを演奏するものが跡を絶たない有様でありますので、今回 さらにこの趣旨の徹底を期すため、演奏を不適当と認める米英音楽作品蓄音機レコードー覧表を作っ て、全国の関係者に配布し、米英音楽を国内から一掃し、国民の士気の昂揚と、健全娯楽の発展を促進 することになりました。
 今回の措置の対象は、差当りカフェー、バー、飲食店等で、これらの場所での演奏を、内務省が地方 庁警察部を通じて取締ることになってゐますが、情報局、文部、内務両省が指導、監督に当ってゐる社 団法人日本蓄音機レコード文化協会では、今回の措置に全面的に協力し、右の一覧表に該当するレコー ドを、蓄音機レコードの販売店から引上げ、また一覧表を販売店に配布し、備へ付けさせて、一般の方 方の参考に供すると共に、進んで該当レコードを供出されようとする方に、斡旋の労をとることになっ てゐます。
 供出を受けた該当レコードは、昨今不足勝ちなレコード資材の再成に用ひられます。供出は献納の形 で無償で行ひ、各蓄音機レコード会社が払ふ代価を、陸海軍へ国防献金することになってゐます。
 続いて「週報」は「演奏不適当な主な曲」を列挙した上で、全部で1,126件という長大な「米英音楽作品蓄音機 レコード一覧表」を掲載しています。

 山中さんのコメントです。
 清沢例は『暗黒日記』の中で、戦争指導者たちの自己満足的、小児的言動に呆れはてて はいたが、アメリカ系軽音楽一切を「文化的にも少しの価値のないもの」と言い切る独断専行はすさま じいばかりである。こういうことに手を貸した音楽の専門家たちの意識構造はどうなっていたのか知り たいものである。音楽家である以前に、人間的な平衡感覚に狂いが生じていたのではなかろうか。
 とにかく、このようにして、〈クラシック〉〈ジャズ〉〈タンゴ〉〈ブルース〉〈ハワイアン〉〈フ オーク・ソング〉のメイド・イン・USA系の音楽はこれを機会に一切禁じられてしまう。確かに「ラ スト・ローズ・オブ・サンマー」と「ホーム・スヰート・ホーム」については「この標題のものが日本 語で歌はれてゐる場合は、これらの歌は学校でも歌はれ、長い間に日本的に消化され、国民生活の中に 融け入ってゐるものでありますし、日本吹込みの日本盤となりますので、今回の措置の範囲には入らな いことは申すまでもありません」(「演奏不適当な主な曲」のただし書き・・・仁平注)などと、一見、 ものわかりの良さそうなことを言っているが、これなどは前の論旨と著しく矛盾した御都合主義である。 前の論旨からすれば、その種の米英系音楽が、日本の国民生活に融け入っているなどというのは、それ こそ米英の謀略であり、由々しき一大事ということにはならないのだろうか。そう言い切れなかったと ころに、やはり後めたさがあったのだろうし、それ以上突っ込むと、陸海軍軍楽隊の歴史にまで文句を つけなければならなくなることを恐れたのであろう。
 しかし、実際には、その『庭の千草』も『埴生の宿』も歌えなくなってしまった。前者はメロディが センチメンタルであり、後者は米英的家庭主義に根差しているので、総力戦態勢下の国民生活感情にふ さわしくないというのである。