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224 国民学校の教科書より(12)
再び過たないために
2005年3月27日(日)


 最後にかなり長い引用になりますが、「御民われ」と「神の国」の双方から締めくくりの一文を 書き出します。

 教科書だけでは少国民練成の狂気の教育を貫徹できません。それを直接になった教師たちがいます。 教科書の分析を終えた山中さんの感想と回顧の文です。
この内容のそらぞらしさには、とても井上のいうような文学など感じられない。確かに、ある種の 緊張感と名付けたくなるような〈気張り〉は感じられる。だが、この押しつけがましい〈気張り〉 が、前にも書いたように、果して監修官たちの本心であったのか、それとも軍部に対する政治的な ゼスチュアであったのか、それは現在のところ、確かめようもない。しかし、井上は自分が退官す るまでに編纂した教科書に対しては、必ずしも否定的な評価は下していないし、石森についても 同様である。また、そうした製作側の内部に於ける政治的な駆け引きの存否が確認し得たとしても、 これらの教科書が〈皇国民ノ錬成〉のための絶対的権威を持った教材として、国民学校生徒であっ たぼくらの前におかれた現実の歴史的事実は変らない。
 とにかく、ぼくらは、この、およそ人間的な個性の感じられない、べたっとした、事務的で、 平均的な文章でつづられた、そらぞらしい〈気張り〉を己れの本音に注入すべく錬成されてしまった のである。そこに多少とも共鳴を引き出す人間的情感でもあれば、それはそれとして効率のよいアジ テーションにもなり得たであろうが、それがないから、ぼくらはそのそらぞらしさを、ひたすらお題 目として、やみくもに暴力的に学習させられてしまったのである。
 ある教師は自分の気に入った部分を、子どもたちに暗唱させ、暗唱の際、まちがいがあると「教科 書の文章は、陛下のおさとしである。それをきもに銘じていない証拠だ」と鉄拳をくらわせたという 現実や、教科書の漢字にふりがなの書き込みをしたというので、「神聖な教科書を汚したことをお許 しください」となんどもなんども教科書に謝罪させたという現実があったことを、教科書の監修官た ちはどのように考えただろうか。先にあげた井上赴の回想にしても、石森延男の回想にしても、ぼく がなんとしても額面通りに受けとれないのは、彼等の意識の中には、教科書作製の過程での自分たち の立場やその政治的状況に対する確認(これ自体また政治的でもあるが)があっても、現実に彼等の 作った教科書を絶対教典として学ばされた当時の国民学枚生徒の存在が感じられないからである。
 もちろん、この人たちには、それなりの苦労があったと思うし、当時のその立場もわからないでは ない。ひたすら〈職域奉公〉で、上からの命令を絶対として、ファナチックな天皇制ファシズムの教 典としての教科書を作らざるを得なかったであろうという点も理解できる。ただし理解できるのであ って、容認できるということではない。現実にこれらの教科書を学ばされてしまったぼくとしては、 それだけですまない何かにこだわらざるを得ない。しかも、これらの教科書を作り上げた図書監修官 たちが戦後も民間の教科書出版会社の要請に応じて教科書を作り続けていることを考えるとき、戦時 中の彼等の立場が「巳むを得ざるものであった」とされる次元で、既に〈ボクラ少国民〉国民学校世 代は切り捨てられていることを認めざるを得ないのである。また、切り捨てることにより、彼等は抵 抗なく、その後も教科書を作り得たのである。


 入江さんは結びの一節を「アジアへの視点」と題して著書を閉めています。
 第二次世界大戦は、日本によるアジアの解放のための戦争だった、とする認識が、いま日本人のなかに ひろがりつつある。「侵略」という精神的な重荷を背負いつづけることに倦き、あるいはまったくその自 覚がないままに「親たちの世代」の責任をわが荷物として負わされることに不満を感じる戦中派以後の人 々にとって、それは目から鱗が落ちる思いの新しい説明であり、耳ざわりのいい救いであるだろう。
 その「歴史観」がひそかに囁かれはじめたのは、1966年、かつての紀元節が自民党政府によって建国記 念の日と名だけ改め、国民の祝日として復活をはたしたころから、と記憶する。つづいて1979年、元号法 が国会を通過し、主権在民の現憲法のもとにありながら、これら一連の時代錯誤的法律が論をつくさずに 制定されたことによって、第二次世界大戦の意味もまた変容していくのは、むしろ予定された結果といわ なければならない。
 ことに侵略戦争のスローガンである「八紘一宇」と不可分の関係にある紀元節の復活は、いま新たに アジアのリーダーをもって任じている日本人に、過去のすべての「みそぎ」が終わったという錯覚をあ たえたようである。
 経済大国という金看板を背に、「日本は大東亜戦争で果たせなかったことを、いま経済で果たした」と 豪語する人たち、あるいは、戦後の経済援助と重ねて「日本はわれわれを助けてくれたのだ、と現地の人 たちも言っている」と外交辞令ぐるみで(ヽヽヽヽヽヽヽヽ)確信をもって 語りはじめた人たち、あるいは東南アジアの街で、「見よ東海の空明けて……」の愛国行進曲をいまな お正確に歌える老人に出会った感動を語る人たち。さらには中国東北部の大都市を訪れ、当時の日本よ り遥かに進んだ都市計画の一端にふれて、日本は戦争で悪いことをしたのではなかったと短絡する人た ちを輩出した。その傾向はいま「侵略」を「解放」と言い換える口当たりのいい国家主義的方向へ収斂 されつつある。

 本書との関連でいうなら、「満洲国」、朝鮮、台湾の植民地での義務教育の普及率を数字とし て挙げて、あたかも日本人が善政をほどこしたことの証左とする人々である。
 しかしそこで行なわれた教育がどのような目的をもち、どのような内容であったかについて は問われていない。このような一見客観を装った指摘は、過去の過ちのうえにさらに新しい過 ちをかさねる行為といわなければならない。
 詳論を必要とするので、ここではあえてその存在の指摘にとどめるが、1945年8月15 日の詔勅のなかにも「朕ハ帝国卜共二終始東亜ノ解放二協力セル諸盟邦二対シ遺憾ノ意ヲ表セ ザルヲ得ズ」の文言はある。しかしその実態が真に「解放」の名に値するものであったか、と いえば、盟邦以上の関係にあった「満洲国」の実態を見れば明らかであろう。実態とまでいわ なくても、その目指すところは同時代の教科書によって窺い知ることができる。
 ことに国民学校の教科書は、終始神代からの「歴史」による天皇の「御稜威」なるものを説 き、その天皇をいただく日本国民の幸福を説き、同じ恩恵を「コレヲ中外二施シテ悖ラズ」の 教育勅語の一節を支えとして「大東亜共栄圏」の人々に施そうとしたものである。しかしこの 「理想」の裏には、「社会主義思想から天皇制を護る」という、教科書では触れない隠された動 機が存在した。1912年に清朝を、1917年にロマノフ王朝を倒壊させた社会革命が日本 に波及することを怖れて、その温床と信じた自由主義思想の根絶に目標があったのである。
 第一章でふれたように、国体明徴運動がもたらした不条理きわまる言論弾圧と表裏一体の、 やみくもな天皇への帰一、「日本は神代の昔から天地のつづくかぎり君臣の身分がさだまって いる」ことの強調。近代国家の歴史とするには論拠薄弱な神代からの口承を、唯一無二の国家 の理念とし、天皇のために死ぬことを当然と信じる「赤子」なるものを錬成するために教育制 度を改変し、国民学校という「皇国臣民錬成の場」を創出したという一事をとりあげても、国 家権力が抱いた「赤化」の恐怖の大きさを察することができる。
 その社会主義思想の防波堤として構想されたのが、変革の対極にある永続、すなわち「万世 一系」であり、「神の国」という日本独自の価値観によって日本民族の優秀性を強調し、「八紘 一宇」という欺瞞的な言葉の融合を名分として、その影響のもとにアジアの国々を置くという 大東亜共栄圏であり、その遂行のための戦争であった。
 現在もっとも説得的に語られる太平洋戦争開戦の原因「連合国による経済封鎖」は、そこま でに至る紆余曲折はあるにしても、以上の政策がもたらした結果にすぎない。いわばアジアの 国々を天皇制の防波境として位置づけたのが大東亜共栄圏であり、そのために東南アジアにす でに芽生えていた独立への動きを利用した、というのが事実であろう。
 したがって、言葉こそ「解放」と美しいが、その実態は、これまでの西欧の植民地支配とは 別種の支配下に組み込むことにほかならない。
 無知は犯罪、という近代の格言がある。それはあらゆる知識に通じるということではない。 知らないでいることに、学ぼうとしないことに値する罪が、この世にそれほど多く在るとは思 わない。しかし大東亜戦争における日本の真意に目をつぶって、「学校で教えなかった」「自分 が直接参加したわけではないから」という類の言訳のもとに、過去を知ろうとしないことを正 当化してアジアと関わるのは、どのような世代に属するにもせよ罪であると思う。
 たとえばこの時代のスローガンに「一視同仁」「内鮮一体」「五族協和」「日満一心一体」な どがある。「八紘一宇」「一億一心」「天皇に帰一」「万世一系」とむやみに「一」の文字が重用 されたが、「内鮮一体」の実態にふれず、「あのときは日本人だったのだから」と名目上平等で あったことを楯として「朝鮮」の痛みを理解しない有識者もみられる現在、この一体の意味は やはり解いておく必要があるだろう。
 たとえば朝鮮総督府より公布・実施された朝鮮国民学校令とそれに付帯する学校教則には、 第一章でもふれたように以下の独自の文言がある。
 「一視同仁ノ聖旨ヲ奉体シテ忠良ナル皇国臣民タルノ資質ヲ得セシメ内鮮一体信愛協力ノ美 風ヲ養ワンコトヲ力ムルコト」
 この項目に含まれた「内鮮一体」 についての方針が、『朝鮮国民学校教則の実践』の一節に 記されている。その言葉についての註を引用しておきたい。
 内鮮一体という事について之を内鮮平等という風に誤解してはならぬ。之は民主主義的 個人主義的観念から来るもので一体という事とは凡そ正反対の概念である。即ち平等感が 強くなれば一体感は弱くなり、一体感が強くなれば平等感が消滅するというように、氷炭 相容れない考え方である。平等感は一対一の対立関係を示し、二元的存在を前提とするも のであって、その均等関係に於いて安定を求めるのである。故に一度均等が破るれば不安 定となり反目嫉視相争うに至る可能性を内包するのである。一体感はかくの如く二元的対 立関係ではなく最も緊密な有機的、内面的結合であって信愛同情を基礎とするのである。 従って権利義務などの平等関係、均等関係でなく一体不二、相互に協力と感謝によって喜 悦を同じくするような有機的に不可分の結合をなすことを意味するのである。

 同じ例は「満洲国」における「五族協和」にも見られる。この場合の協和とは、五つの民族 がそれぞれ対等な国民として協力するのではなく、指導民族の日本人の下に、朝鮮族、満洲族、 蒙古族、漢族の順位が定められ、それをふまえた上での協和であった。
 一視同仁、内鮮一体を唱えながら、朝鮮民族を同時代の「満洲国」においては第二民族とし て位置づけたという事実が、一視同仁、内鮮一体の矛盾を語っている。
 スローガンとは政治の言葉であるという一面は、否定できないが、しかし過去に日本人がか かげた理想と実際の乖離を知る人々は、それを忘れることができるだろうか。戦時中の問題が、 いまだに(うず)み火のようにアジアの人々の心から消えないのは、 日本人が過去に用いた言葉にたいする不信に根ざすところが大きいからであろう。
 そして問題は、同じことが日本人の中から消えつつある、あるいは敢えて忘れられつつある ことであり、と同時にこれらの言葉と意識を支えた特異な歴史観が、完全に過去のものとして 葬られていないという点にある。昨今、私たちの国の教科書問題といえば「歴史」教科書であ った。問題は「歴史」教科書以外にはないかのようであった。しかし、その歴史観を違和感な く受け入れるための初等教育の過程もまた、問われなければならないと思う。
 かりにアジアの人々が問わなくても、自ら問いつづけなければならないことのひとつと思う。 またいつの日か別種の大義名分による大号令にからめとられないためにも……。
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