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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
223 国民学校の教科書より(11)
消えた西欧世界
2005年3月26日(土)


 「第217回」(3月20日)で書いたように大日本帝国は朝鮮や台湾で日本語使用の強制を行ってい ます。引用してきた教材では「第216回」の<支那の春>、「第219回」の<晴れたる山>にその政 策の一端がうかがえます。
 さらに日本語を「大東亜共栄圏語」の共通語とする構想がありました。「神の国」から引用します。
 1942年、「満洲国」政府文教部が建国十周年を記念して主催した東亜教育大会の言語教 育部門でも、大東亜共栄圏の共通語を日本語とすることを前提として、その実施にともなう問 題が討議されている。しかし一貫して「わが国語には、祖先以来の感情・精神がとけ込んでお り」「国語を忘れた国民は、国民ではないとさえいわれている。国語を尊べ。国語を愛せよ。 国語こそは、国民の魂の宿るところである」(『初等科国語八』「国語の力」)というような文部省の 精神論のまえには、歴史仮名遣い、送り仮名、たとえば五日をイツカ、十五日をジュウゴニチ、 二十日をハツカと読みわける発音上の問題など異民族にたいする日本語教育の難点を指摘し、 日本語の合理化こそが大東亜共栄圏の共通語としての日本語の利益、という現場のベテラン教 師たちの提言は単なる提言として終わった。
(中略)
 このような言語についての認識 ― 日本語をつかうのが日本人だ、という発想は、当然日本 人が使用している外来語へもはねかえる。つまり外来語をつかうこと自体が非国民である、と  いう発想に短絡したとしても不思議ではない。

 この「外来語をつかうこと自体が非国民」という発想は、まず外来語として定着している英語 を敵性言語として禁止して日本語に言い換えさせるという政府通達となって現れます。そして敵 国音楽の禁止・野球用語などの言い換え・芸能人の外国名の改名命令などなど、狂気の域にまで エスカレートしていきます。この狂気の様子は稿を改めて詳しくたどって見る予定です。「美し い日本語」という掛け声がかしましくなってきている今、決して無駄なことではないと思います。

 さて、「外来語をつかうこと自体が非国民」という発想は国定教科書にはどのように反映されたので しょうか。「神の国」の記事を要約します。

 「音楽では音階呼称をドレ、、、ファソラシドからハニホへトイロハに切替え、小学唱歌とし て親しまれたスコットランド民謡やアイルランド民謡のメロディーを抹消」します。
 国語、修身の教科書からは同盟国のドイツ・イタリアも含めて西欧の地名が消えています。それば かりか満州などの占領地を除いて中国地名も抹消されています。「満洲国」と「大東亜共栄圏」内の 占領地だけという狭い世界に引きこもってしまった様相です。
 人名の方で五期の教科書にひきつがれたのは、ジェンナー、ガリレオ、ベートーベンのわずか 三人ということです。その3人についても、「ガリレオはイタリア、ベートーベンはドイツと国籍を 明記しているが、イギリス人であるジェンナーについては『ジェンナーという人がありました』とし て、その国籍を明記することを避けている。」という病的な神経の使い方をしています。
 そして、外国人として新たに教科書に登場したのは無名の3人を除けば、「満洲国」皇帝・愛新 覚羅薄儀ただ一人です。

 ここで山中さんが「初等科国語・八」(6年後期)から書き出した3編のうちのあとの2編を紹介す ることになります。その2編は「神の国」でも取り上げていて解説をしていますので、それも合わせて 掲載します。

<シンガポール陥落の夜>

この夜、 満洲国皇帝陛下は、 大本営の歴史的な発表を聞し召し、 やをら御起立、 御用掛吉岡少将に、 「吉岡、おまへもいっしょに、  日本の宮城を遥拝しよう。」 と仰せられ、 うやうやしく最敬礼をあそばされた。 御感涙の光るのさへ拝せられた。 更に、皇帝陛下は南方へ向かはせられ、 皇軍の将兵、戦歿の勇士に、 しばし祈念を捧げたまうた。 深更を過ぎて、 お電話があり、 吉岡少将がふたたび参進すると、 「吉岡、今夜、おまえはねられるか。  今、日本皇室に対し奉り、  慶祝の親電を、  書き終ったところである。  あす朝早く、  打電の手続きをしてもらひたい。」 と、陛下は仰せられた。 この夜、 陛下のおやすみになったのは、 午前二時とうけたまはる。 あけて二月十六日、 寒風はだへをさす満洲のあした、 皇帝陛下は、 建国神廟に御参進、 天照大神の大前に、 御心ゆくまで御拝をあそばされた。

 「シンガポール陥落という緒戦のもっとも輝かしい戦果と、二度にわたる訪日で知名度の高い 皇帝薄儀の日本皇室への忠誠とをむすびつけた巧妙なプロパガンダである。」

<もののふの情>(抄)

野戦病院にて
昭和十七年二月十九日、わが陸軍の精鋭は、ジャワのバリ島を奇襲し、その上陸に成功した。
 バリ島の敵の野戦病院には、アメリカの航空将校が、白い寝床の上に横たはってゐた。顔から腕、 腕から胸へかけて焼けただれ、視力もほとんど失はれてゐた。かれは、アメリカから濠洲へ派遣さ れた四十名の航空将校の一人で、わがジャワ攻略に先立ち、濠洲からジャワのバンドンへ移り、偵 察隊として出動の途中、この島に不時着して負傷したのであった。
 病院がわが軍に占領されたことを知った時、この将校は、恐怖と失望とでがっかリしたやうすで あった。しかしー日、二日とたつうちに、その気持ちはだんだんなくなって行った。
 上半身にやけどをした敵の将校は、夜となく昼となく、しきりに苦痛をうったへた。目が見えな い上に、手の自由もきかない。食事は子どものやうに一々たべさせ、繃帯は日に何回となく取り代 へ、傷の手当てをていねいにしてやることは、並みたいていのことではなかった。しかし、二人の わが衛生兵は、代る代る徹夜して、心からしんせつに看護してやった。
 椰子の葉越しに、窓から月の光が美しくさし込む夜であった。この敵の将校は、寝床の上に半身 を起して、さめざめと泣いてゐた。英語の少し話せる衛生兵の一人が、片言の英語で慰めてやると、
 「私の今の身の上を悲しんで泣いてゐるのではありません。あなたがたが、私に示されたしんせつ と、あなたがた同志の友情のうるはしさに、しみじみ感じて泣いてゐるのです。かうした温い心は、 アメリカの軍隊には決してありません。私は、日本の軍隊がつくづくうらやましくてならないので す。」
 といって、二人の衛生兵の手を、自由のきかない両方の手で、堅く握った。


 「残る無名の三人の一人は日本軍の捕虜となった米兵である。角度を変えて、敵兵のロをかりての 日本軍の称賛である。しかしその彼は『架空』というニュアンスにかぎりなく近い無名のアメリ カ人であり、『つくづく』という形容もすでに何箇所かでふれてきた『しみじみ』同種の、この教 科書が用いるみえすいた感情移入の同義語に他ならない。」
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