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222 国民学校の教科書より(10)
御民われ生けるしるしあり
2005年3月25日(金)


 山中さんは「初等科国語・八」(6年後期)からは3篇書き出しています。みな有名?なものらしいの で3篇とも掲載しようと思います。
 教材はそれぞれ、フィリッピン、シンガポール、ジャワでの戦闘を素材としています。 それぞれの教材を読む前に、この一連の戦闘の呼称についての山中さんの意見を聞いておこうと 思います。

 1931年の満州事変からをひと続きの戦争と見て、「昭和の15年戦争」と呼ぶことがあります。 私のあやしげな記憶によると、この呼称は小田実さんの提唱でした?
 一般には1941年12月8日の「宣戦の大詔」を以って開戦として「太平洋戦争」と呼んでいます。 しかし当時の日本ではそれを「大東亜戦争」と呼んでいました。「太平洋戦争」という呼称は 「昭和の15年戦争」と同じように戦後の歴史記述の過程で作られたものだと私は思っていましたが、 そうではないようです。その辺の事情も含めて山中さんの記述を読んでみます。
 ところで今日では一般的に「太平洋戦争」と呼ばれているこの戦争の呼称について、海軍が最初 「太平洋戦争」を主張したが、陸軍は単に太平洋海域だけの問題ではないし、大東亜共栄圏確立に端 を発する戦争ということで「大東亜戦争」を主張し、結局は陸軍側の主張が通り12月12日、つぎ のように発令された。
 内閣陸甲第九十六号(昭和十六年一二月一二日、文部次官宛、内閣書記官長)
 今次戦争ノ呼称並二平戦時ノ分界時期等二関スル件
標記ノ件本日別紙ノ通閣議決定相成侯条為念此段及通牒候
 今次戦争ノ呼称竝二平戦時ノ分界時期等二付テ
一、今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移二伴ヒ生起スルコトアルへキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜 戦争卜呼称ス
二、給与、刑法等二関スル平時、戦時ノ分界時期ハ昭和十六年十二月八日午前一時三十分トス
三、帝国領土(南洋群島委任統治区域ヲ除ク)ハ差当り戦地卜指定スルコトナシ
  但シ帝国領土二在リテハ第二号二関スル個々ノ問題二付其地ノ状態ヲ考慮シ戦地並二取扱フモノトス

 はっきり言って、この戦争は『大東亜戦争』として戦われたのであって、〈THE PACIFIC WAR〉というア メリカ製の呼称で戦われたのではない。多分、アメリカ人は『太平洋戦争』という名で戦争したのだろう が、ぼくらは「太平洋戦争」のために〈皇国民ノ錬成〉を強いられたのではない。「大東亜戦争」が聖戦 であるという観念のもとに、またそれ故に、あのファナチックな教科書を学び、教師の暴力を当然の 錬成として耐えたのである。その意味で『大東亜戦争』という呼称にこだわりたいような気がする。 「太平洋戦争」という言い方で、歴史的年表の事項として客観的に処理されてしまうには、あまりに も口惜しいと思う。しかし一般的には 「大東亜戦争」 の名称を使用しているものは、例えば林房 雄の「大東亜戦争肯定論」といったような、いわばぼくたちにとっては、何としても連帯しかねるよ うなものが多い。
(中略)
全く逆の立場で『大東亜戦争』という呼称を、ぼく自身の中に存続させたいと思うのである。 「太平洋戦争」というのは、アメリカが日本に不意打ちを食わされ、受けて立ち、勝利した戦争なので ある。「大東亜戦争」というのは、日本が積極的に仕掛け、その名で日本が戦い敗れた戦争なのである。 そして「太平洋戦争」は1941年12月7日午前7時55分、アメリカ合衆国領土ハワイで開始された戦 争であり、「大東亜戦争」は昭和16年12月8日、「未明西太平洋に於て」開始された戦争なのである。

 侵略戦争を聖戦と言い紛らわして行われた「少国民練成」の暴虐をもろに受けた世代の人のこだわり がよく分かります。侵略戦争を「八紘一宇」の聖戦と言い紛らわして行われた「大東亜戦争」の呼称を 欺瞞的な呼称として批判的に使うことを私もうべないます。今アメリカが手前味噌な自由と民主主義を イラク人民を殺戮しながらイラクに押し付けているのと同じで、「八紘一宇」の聖戦などアジアの国々にとっては余計なお世話だっ たに違いありません。

 さて、山中さんによれば、1941年12月8日の開戦の臨時ニュース以来国民はラジオの前に釘づけに なったといいます。そして山中さんは12月8日以降の臨時ニュースを次のように拾い出しています。
12月10日(午前2時放送)フイリッピンに敵前上陸を敢行。(午後4時20分放送)海軍機、マレー半島 東岸クワンタン沖に於いて英東洋艦隊の主力、戦艦プリンス・オブ・ウェルズを撃沈、戦艦レパルス を轟沈。両艦とも世界最強の不沈海城、海の要塞と称せられていた。(午後7時放送)ハワイ海戦の海 軍に偉功嘉尚の勅語下賜。

12月11日(午後4時放送)マニラ方面にて米空軍の大半81以上を撃墜破。

12月12日(午後7時放送)今時戦争の呼称を「大東亜戦争」とする。(午後9時放送)マレー沖海戦の 偉功に勅語下賜。

12月13日(午前9時放送)陸軍、九龍半島攻略。12月14日(午後1半放送)陸軍機、ビルマ敵飛行場 大空襲。(午後4時放送)マレー方面陸軍、英軍機械化1師団を撃滅。

12月15日(午後2時放送)陸軍機、フィリッピン=デルカルメンその他の飛行場を急襲。同じくマレー、 ペナン方面のアエルタワル、イボー飛行場を急襲。

12月16日(午後2時20分放送)陸海軍部隊協同で烈風(風速20メートル)を衝き英領ボルネオに敵前上陸。

12月17日(午後4時放送)海軍、香港で敵艦艇7隻撃沈。

12月18日(午後3時45分放送)ハワイ海戦の綜合戦果。初めて「特別攻撃隊」登場。我が方の損害、飛行 機29、未だ帰還せざる特殊潜航艇5。

12月19日(午後2時放送)陸軍、香港島に上陸猛攻を展開中。

12月20日(午後1時放送)海軍機、デルモンテを急襲。(午後6時放送)陸軍、ミンダナオ島に上陸。

12月21日 海軍、開戦以来敵潜水艦9隻を撃沈。

12月22日 ルソン島新方面に上陸開始。

12月23日(午後6時放送)ダバオ完全占領。

12月24日(午前11時半放送)ウエーキ島に敵前上陸、完全占領。

12月25日(午後9時54分放送)香港島の英軍降伏。

12月26日(午後2時放送)陸軍機、第三次ラングーン空襲、敵機40機撃墜。


 これらのニュースの内容の信憑性の問題はともかくとして、緒戦の捷報は日本国民を徹底的に 酔っぱらわせ、真実、日本は神の国であり、日本軍は神兵であると思いこませることにかなり効 果的であった。

 斯くして運命の1941年は興奮のうちに終るのだが、ぼくらはその運命の12月8日にめぐりあえたこ とを幸せに思えと、くり返し教えこまれた。

  御民われ生けるしるしあり天地の
      栄ゆる時にあへらく思へば

 その日が12月8日であるというのであった。

 さて、「初等科国語・八」(6年後期)からの教材の一つを掲載します。上記の臨時ニュースに 「12月23日(午後6時放送)ダバオ完全占領。」とあります。その「ダバオ」です。

<ダバオヘ>

ダバオヘ、ダバオヘ。
 一万八千名の在留邦人を、一刻も早く救ひ出したいと、北方から疾風のやうに、皇軍はダバオをめ ざして押し寄せた。
 武装した兵士を満載したトラックが、ダバオ市内に突入して、町の十字路にさしかかると、梶棒を 持った二三人の男がとび出して来た。
 「萬歳、萬歳。」
 シャツもズボンも破れて、泥だらけだ。足も手も顔も、ほこりにまみれ、目だけが異様に光ってゐる。
 「日本人か。」
 トラックの上から勇士がどなった。もちろん日本人であった。その人々の顔には、感激の涙がとめどな く流れた。さうして、声をふるはしながら、
 「ありがたうございました。」
 と、何べんもくり返すのであった。
 「日本人は、みんな無事ですか。どこにゐますか。」
 と、トラックの上の兵士たちは口々にたづねた。
 「みんな無事で、学校に監禁されてゐます。」  といふ答へを聞くが早いか、トラックは、市の中央部へ突き進んで行った。  ダバオ攻撃部隊は、ダバオ州政庁・市役所・裁判所・電話局などの要所をまたたく間に占領して、 屋上高く日章旗をかかげた。  兵士を載せたトラックが、帝国領事館の横へ来ると、そばの学校から、黒山のやうな邦人の群が、 わあっとなだれを打って道路へ押し出して来た。大東亜戦争開始以来、この学校に監禁されてゐた 約八千の邦人が、皇軍の入場を知って、狂喜してこれを迎へたのであった。
 トラックの上の兵士たちは、高く手を振って挨拶しながら、敵を急追してフィリピン中学校附近 まで前進した。すると、今までしんと静まり返って死んだやうになってゐた校舎の中から、どっと ばかりに四千名の邦人が出て来た。校庭は、「萬歳、萬歳。」の声で埋った。
 トラックは、校庭の中央に止った。
 部隊長は、トラックの上に立ちあがって、やさしい、いたはりの心のこもったことばで訓示を した。人々の中からは、かすかにすすり泣きの声がもれた。
 部隊長の訓示が終ると、林のやうに静かになってゐた邦人の間から、厳かに君が代の合唱が起った。 不動の姿勢をしたトラックの上の勇士も、校庭に居並ぶ邦人も、頬を伝ふ涙を払ひもせず、泣きなが ら歌ひ、歌ひながら泣いた。
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