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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
217 国民学校の教科書より(5)
君が代少年
2005年3月20日(日)


「初等科国語・三」(4年前期)より。
<君が代少年>
 昭和十年四月二十一日の朝、台湾で大きな地震がありました。
 公学校の三年生であった徳坤(とくけん) という少年は、けさも目がさめると、顔を洗ってから、うやうやしく神だなに向って、拝礼をしました。 神だなには、皇大神宮の大麻がおまつりしてあるのです。
 それから、まもなく朝の御飯になるので、少年は、その時外へ出てゐた父を呼びに行きました。
 家を出て少し行った時、「ゴー。」と恐しい音がして、地面も、まはりの家も、ぐらぐらと動きました。 「地震だ。」と、少年は思ひました。そのとたん、少年のからだの上へ、そばの建物の土角がくづれて 来ました。土角といふのは、粘土を固めて作った煉瓦のやうなものです。
 父や、近所の人たちがかけつけた時、少年は、頭と足に大けがをして、道ばたに倒れてゐました。 それでも父の姿を見ると、少年は、自分の苦しいことは一口もいはないで、
「おかあさんは、大丈夫でせうね。」
といひました。
 少年の傷は思ったよりも重く、その日の午後、かりに作られた治療所で手術を受けました。このつら い手当の最中にも、少年は、決して台湾語を口に出しませんでした。日本人は国語を使ふものだと、 学校で教へられてから、徳坤は、どんなに不自由でも、国語を使ひ通して来たのです。
 徳坤は、しきりに学校のことをいひました。先生の名を呼びました。また、友だちの名を呼びました。  ちゃうどそのころ、学校には、何百人といふけが人が運ばれて、先生たちは、目がまはるほどいそが しかったのですが、徳坤が重いけがをしたと聞かれて、代りあって見まひに来られました。
 徳坤は、涙を流して喜びました。
「先生、ぼく、早くなほって、学校へ行きたいのです。」
と、徳坤はいひました。「さうだ。早く元気になって、学校へ出るのですよ。」
と、先生もはげますやうにいはれましたが、しかし、この重い傷ではどうなるであらうかと、先生は、 徳坤がかはいさうでたまりませんでした。
 少年は、あくる日の昼ごろ、父と母と、受持の先生にまもられて、遠くの町にある医院へ送られて 行きました。
 その夜、つかれて、うとうとしてゐた徳坤が、夜明近くなって、ばっちりと目をあけました。さう して、そばにゐた父に、
「おとうさん、先生はいらっしやらないの。もう一度、先生におあひしたいなあ。」
といひました。これっきり、自分は、遠いところへ行くのだと感じたのかも知れません。
 それからしばらくして、少年はいひました。
「おとうさん、ぼく、君が代を歌ひます。」
 少年は、ちょっと目をつぶって、何か考へてゐるやうでしたが、やがて息を深く吸って、静かに 歌ひだしました。

  きみがよは
  ちよに
  やちよに

 徳坤が心をこめて歌ふ声は、同じ病室にゐる人たちの心に、しみこむやうに聞 えました。

  さざれ
  いしの

 小さいながら、はっきりと歌はつづいて行きます。あちこちに、すすり泣きの声が起りました。

  いはほとなりて
  こけの
  むすまで

 終りに近くなると、声はだんだん細くなりました。でも、最後まで、りつばに歌ひ通しました。
 君が代を歌ひ終った徳坤は、その朝、父と、母と、人々の涙にみまもられながら、やすらかに 長い眠りにつきました。

 この教材は「君が代」の歌詞を全文読む仕組みになっています。何が何でも感動させようと、 その歌詞を細かく改行をして行間に感動を溜め込むテクニックが施されています。また自国の子 どもたちに対して「台湾の少年でさえ・・・君たちはなおさら」という無言の語りかけをしていること が読み取れます。
 さらに第4学年では修身・国語・音楽の全てに「君が代」の歌詞が全文載せられているそうです。 集中的に繰り返し、いやでも覚え込ませてしまおうという魂胆です。

 ところで、国民学校発足にともなって朝鮮や台湾の教育はどんな扱いを受けたのでしょうか。
 朝鮮では1938年からこの新教育制度の実験的役割を担わされた。朝鮮総督府は 「国体明徴」「内鮮一体」「忍苦鍛錬」を教育の三大綱領としてかかげ、国民学校令の先取りをして います。1941年3月に「朝鮮教育令」を「朝鮮国民学校令」 に改めます。  この「朝鮮国民学校令」には「教授用語は国語を用うるべし」いう問題の一項があります。
 「神の国」から引用します。
 「国語を習得せずしては国民として完全なる生活を営むことが出来ない」との理由のもとに、 全国同一教科書使用を義務づけたその底意は、朝鮮においては「韓国併合」以来つづいてきた「朝鮮語」 の教科を廃止し、学校での朝鮮語による教授の禁止にあった。ただし在外邦人を中心とする学 校と非日本人を中心とする学校との間にはカリキュラムの編成には多少の配慮がみられる。
 台湾では第ニ課程校を台湾人、第三課程校を山岳少数民族のためのものと区分した。
 朝鮮における「創氏改名」、台湾における「改氏名」の受付けは、その前年 ― 紀元2600 年2月11日の紀元節(現在の建国記念の日)を期して実施されている。天皇の「一視同仁」と いう恩恵的仮面のもとに、植民地の人々の姓名を奪い、さらにその母語をも奪ったのである。 その焦眉の目的は、日本語の通じる兵士を徴兵することにあったが、どうせ変えなければなら ないなら、一年生から日本の名前でと、この学校制度改革をきっかけとして改名に踏み切った 家庭も少なからずあったと聞く。


 台湾では「国語使用運動」の一環として、役所や学校だけでなく家庭でも日本語を使って生 活する家を「国語常用家庭」として総督府が認定し、戸口にかかげる認定証を発行した。
 『日本統治下台湾の「皇民化」教育』 の著者林貴明の家庭では、父母が教師であった立場上 「国語常用家庭」 に認定される必要から分家したという。日本語を使えない祖父を戸籍から外 したことになる。

 このような歴史の事実を直視することに耐えられない未成熟な者たちが、歴史の事実を直視することを 「自虐」と呼んで歴史を歪曲し、虚妄の伝統を担ぎ出して私たちに服従を迫っています。まさにその人た ちにとっては歴史の事実を直視することは「自虐」なのでしょう。
 保守反動はいま一大勢力を形成していますが、彼らには過去があるばかりで未来はありません。
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