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210 北村小夜さんの講演から(3)
歌は旗とともに人の心を唆す
2005年3月13日(日)


 「つくる会」の教科書が教育教材面での反動の最先端を露払いしている。
 北村さんは言う。「新しい歴史教科書をつくる会の歴史教科書(扶桑社刊)が検定に合格した ということは、全ての教科書がつくる会的になってきたということである。」
 教育問題はいわゆる主要5教科(国社数理英)を中心に語られがちだが、北村さんは周辺教科といわれる 体育・家庭・図工・音楽にも問題が多いと指摘する。このことは私の中でも一つの盲点だったと気づか された。
 私の世代(国定教科書第三期の最後)は、体育はいうに及ばないが、図工といえば戦意昂揚のポ スターばかり描いていた。家庭科では銃後の守りをしっかり教え込まれた。
(中略)
 そして音楽。歌は旗とともに人の心を唆す。音楽(音楽に限らないが)は一つの目的手段に なった時、芸術ではなくなる。戦前、音楽は修身の手段であった。例えば「柴刈り縄なひ草鞋 をつくり、親の手を助け弟を世話し、兄弟仲よく孝行つくす、手本は二宮金次郎」と調子よく 歌わせておいて、修身で「二宮金次郎は、家が大そうびんぼふであったので、小さい時から、 父母の手だすけをしました」と教えた。
 忠義の手本として広瀬武夫の勇気と部下思いを教え、「轟く砲音(つつおと)  飛く来る弾丸」と歌わせるといった具合である。

 「修身」と「音楽」がタイアップして国家意思の刷り込みが行われた。「修身」は首位教科と言われて、 全ての教科が「修身」を補完する役割をになった。
 いま学習指導要領の総則の冒頭には道徳教育が掲げられるようになっている。そして音楽の教科書も版を 重ねるにつれて「日本人としての自覚」が強調され、国家主義に基づく畏敬の念を育てようという意図 が露骨になってきているという。「心のノート」が「修身」の教科書なら、それとタイアップして 「音楽」を道徳教育の手段とする戦前の手法がよみがえってきたのだ。
 北村さんはまず学習指導要領で音楽に限って必ず載せなければならない共通教材が示されていることを 指摘する。
 小学校学習指導要領音楽は、1958年以来、必ず扱うべきものとして共通教材を示してきま した。1998年改訂(2002年実施)からは内容の三割削減に伴って、鑑賞教材については直接 曲名をあげることはなくなりましたが、歌唱教材については「日本のよき音楽文化を世 代を超えて歌い継ぐようにするため、現行と同様、長い間多くの人々に親しまれてきた文部省 唱歌や、各学年の指導内容として適切なものの中から選択して、これを示すことにする」とい う教育課程審議会の答申に従って、各学年4曲、計24曲をあげています。指導要領は、このう ち3曲を必ず載せるよう指示していますが、小学校音楽教科書を発行している3杜は24曲全 部を載せています。
 その24曲は次のようである。

 歌唱共通教材一覧

第一学年
うみ(文部省唱歌)1941
かたつむり(文部省唱歌)1911
日のまる(文部省唱歌)1911
ひらいたひらいた(わらべうた)1977

第ニ学年
かくれんぽ(文部省唱歌)1941
春がきた(文部省唱歌)1910
虫のこえ(文部省唱歌)1910
夕やけこやけ(中村雨紅作詞草川信作曲)1941

第三学年
うさぎ(日本古謡)1941
茶つみ(文部省唱歌)1912
春の小川(文部省唱歌)1912
ふじ山(文部省唱歌)1910

第四学年
さくらさくら(日本古謡)1941
とんび(葛原しげる作詞柴田貞作曲)1977
まきばの朝(文部省唱歌)1932
もみじ(文部省唱歌)1911

第五学年
こいのぽり(文部省唱歌)1913
子もり歌(日本古謡)1977
スキーの歌(文部省唱歌)1932
冬げしき(文部省唱歌)1911

第六学年
越天楽今様~歌詞は二節まで(日本古謡)1989
おぼろ月夜(文辞省唱歌)1914
ふるさと(文部省唱歌)1914
われは海の子~歌詞は三節まで(文部省唱歌)1910

※右の数字は、その歌が初めて国定教科書(戦後は検定教科書)に載った年です。
※日本で初めて音楽の国定教科書が作られたのは1911年です。

 これらの教材について、北村さんはそれぞれの歌が作られた時代背景を追っている。

1910~13年
 その大半が1910~13年に作られたものであることに驚きます。言文一致に対抗して「気品高い 唱歌を作ろう」という人々によって作られた初期の文部省唱歌の多くは、国民として身につける べき徳育と我が国の自然を誇る花鳥を主題にしていますが、明治末から大正にかかるこの時期です。 当然のこととして国民思想統一の任もしっかり担っていました。

1932年
 スキーの歌とまきばの朝が入っています。32年といえぱ満州事変の次の年で満州国が作られた 年です。次代を担う少年少女に対する期待が読めます。同じ頃文部省唱歌としては蛍や動物園 等とともに男子用に太平洋が女子用に月見草がつくられています。

1941年
 学校制度が変わり、小学校は国民学校になり、唱歌から芸能科音楽になりました。うみ、かく れんぽが作られ、タやけこやけとともに古謡としてうさぎとさくらさくらが採用され国粋主義が強 調されます。
うみについては、故山住正巳さんが「子どもの歌を語る(岩波新書)」で「どうして、あの戦時 体制下、このようなおだやかな歌が国定教科書に掲載されたのか。」といっておられますが、 太平洋戦争開戦直前です。そのころ海辺に立てば、「この真直向うが南洋諸島」などと指さし あって南進日本の先駆けのつもりでいた自分を考えても、充分侵略の意図が読みとれます。 飛行機の爆音などをきき分ける音感教育も始まっていました。

 1977年改訂された指導要領は「君が代」を国歌扱いにしました。とんびとわらべうたひらい たひらいたと古謡として子もり歌を入れ、ますます日本の伝統文化を強調します。
 そして89改訂ですが、「君が代」の強制と相俟って「日本の音楽」がさらに強調されます。 越天楽もそれです。今様ですから歌詞は子ども向きではありません。
 われは海の子は戦後一旦途絶えていましたが、この改訂で復活しました。それは社会科の 近現代史を、日本は日清日露の戦争に勝利して今日の繁栄の基礎を築いたと押え、東郷平八郎を 登場させたことに連動しています。日本の子どもが海に親しみ体を鍛えておくのは六節のような ことを恐れず、七節のように世界の富を得、国を護るためです。その意図を当面隠すため歌 詞は三節までとしています。

 その大部分が天皇制教育確立の時期につくられた文部省唱歌である。歌わせ、聴かせながら マインドコントロールすることの有効さを活用する施策だ。

 「われは海の子」の六節と七節を掲載する。私は知らなかった。

六.浪にただよう氷山も
  来らば来れ 恐れんや 
  海まき上ぐるたつまきも
  起こらば起れ 驚かじ

七.いで、大船を乗出して
  我は拾わん 海の富 
  いで、軍艦に乗組みて 
  我は護らん 海の国
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