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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
202. 再軍備はどのうに行われてきたのか(3)
警察予備隊から保安隊へ改編
2005年3月3日(木)


 今回から主に利用する資料は「岩波講座・日本の歴史23」所収・福島新吾「日米安保 体制と再軍備」。断りがない場合は引用文はその論文からのものである。

 講和条約は日米安保条約と抱き合わせで進められた。再軍備の第2段階はこの講和条約・安保条約 締結の流れの中から浮上する。保安隊発足までの講和条約・安保条約関係の年表をつくってみる。


1951/03/30 アメリカ、ソ連ほか14ヵ国に対日講和条約草案を送付。
1951/03/31 ダレス米国務省顧問、対日講和条約草案概要発表。
      ソ連の参加は不可欠でないと演説(ロサンゼルス)。
1951/05/07 ソ連、対日講和条約米草案に対する覚書を米に交付。
      米英中との4ヵ国外相会議の開催を要求。
1951/05/19 アメリカ、ソ連が5月7日に交付した覚書、4ヵ国外相会議開催提案を拒否。
1951/07/13 米英の対日講和条約草案をGHQ(連合軍総司令部)発表。
1951/07/21 自由党、講和条約締結に関し共産党を除く各党派に協力を申入れ。
1951/08/15 周恩来中国政務院総理、対日講和条約草案について「沖縄、小笠原
      の日本分離は如何なる国際協定にも規定されていない」と非難。
1951/09/08 日米安保条約(「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」)調印。
1951/09/18 周恩来中国政務院総理、中国不参加の対日講和条約は無効と声明。
1951/10/03 三木武夫、千島列島の領土権、奄美・琉球・小笠原諸島住民の国籍不変更等
      の条件付きで講和条約批准に賛成、同時に安保条約の説明不十分を理由に批
      准は延期すべきだとの民主党方針を表明。
1951/10/25 社会党、講和・安保両条約の賛否をめぐり第二次分裂。左・右社会党樹立。
      左社:講和条約・安保条約反対。右社:講和条約賛成、安保条約反対。
1951/10/26 衆議院、講和条約を307対47、日米安保条約を289対71で各承認。
1951/11/18 参議院本会議、講和条約(174対45)、日米安保条約(147対76)で承認可決。
      批准手続終了。
1952/04/15 トルーマン米大統領、対日講和条約批准書・安保条約批准書に署名。
1952/04/28 サンフランシスコ平和条約、日米安保条約発効。
      GHQ(連合軍総司令部)解消。
1952/04/28 日米安保条約第3条に基づく行政協定発効。
1952/05/01 血のメーデー事件。逮捕者211人死亡2、重軽傷1500人以上、
      警官重軽傷832人。
1952/06/24 吹田事件。大阪府吹田市で朝鮮戦争2周年記念集会後、
      デモ隊と警官隊衝突。60人逮捕。
1952/06/25 新宿駅周辺でデモ隊と警官隊衝突、30人逮捕。
1952/07/31 公安調査庁法(法241)、保安庁法(法265)成立。
      警察予備隊を保安隊に改編。
1952/10/15 保安隊発足。
 5月~6月の警察力による弾圧は、これも仕掛けられた謀略ではなかったかという説がある。 メーデーでは講和条約、日米安保への抗議も行われていた。
 ちなみに警察に機動部隊を設け、特殊放水車、金属カブト、ジュラルミンのたて、防弾チョッキ、 乱闘服、パトカー等々今日にいたる弾圧用装備を整備したのはこのときからのことだという。

 これらの暴力による弾圧は功を奏して、国民の政治に対する批判は急速に封じられていった。
 一方、政界の混迷は社会党のみではなく、保守政党も政策対立と利権を巡って派閥抗争を展開 していた。そのような状況の中でアメリカは日本に対して太平洋防衛機構の創設や、地上軍30万 の即時整備、防衛産業の育成、それらの裏付けとしてのきびしい均衡財政、予算支出の削減など 繰り返し強く要求していた。

 「第188回」(2月17日)で引用した文章の中で鶴見俊輔さんが「吉田が、戦後に憲法を逆手に とってアメリカに対抗しているのは、よくわかったね。」と言っていた。確かにこのとき吉田首 相は再軍備より経済復興を優先課題としていていた。
 そしてこれ(アメリカの要求)に抵抗する吉田の内意を体して、池田が一人で渉外工作を引きう けていたことも今では明らかになっている。
 吉田はアメリカの要求にストレートに応じていたわけではなく、憲法のわくをたてにとって、 急速な再軍備を拒んでいた。これに反し鳩山は旧軍人の服部卓四郎元大佐(米軍と再軍備を画 策した)の意見を不用意に取り次ぎ、安易な自立再軍備と改憲をとなえた。改進党もその前身 国民民主党のころは三木武夫らの強硬な再軍備反対論がリードしていたが、重光総裁とともに 自衛再軍備に大きく傾いた。

 それでは吉田は警察予備隊から保安隊への改編をどのように位置づけていたのか。
 8月4日吉田は保安庁長官事務取扱いとして保安庁で本庁幹部および第一幕僚監部(保安隊)、 第二幕僚監部(警備隊)の制服幹部に訓示し、保安庁新設の目的は新国軍の建設であると述べ、 世論にショックを与えた。
 再軍備をスローダウンさせていたが、本格的な軍隊への一過程と考えていたことになる。
 またスローダウンしたとはいえ再軍備への道は、朝鮮戦争特需がしぼんだ後を継ぐ、 旧財閥系列企業の甦生と肥大化の道でもあった。資本は戦争を食い物にして肥えていく。今アメリカの イラク侵略でどこの国のどの資本が肥えて続けているのだろうか。

 吉田の経済復興政策は電力開発、海運・造船、鉄鋼合理化、石炭振興、道路網の整備などを重点とし ていた。旧財閥系列企業を中心とする財界主流の要求に応えた政策と言える。
 そしてこれらの政策が吉田側近派(それは池田派などに長く受けつがれる)に大きな政治資金ルート をつくり出した。その資金は政治資金規正法によって届け出られるものばかりでなく、巨大な「裏金」 を生んだ疑いがあり、今日にいたる政治腐敗の発端をなしているようにみえる。有名な造船疑獄 (1954年1~4月捜査)はその最大の実例であった。
 また政府は旧軍用施設の払下、電力開発、兵器生産の保護育成、鉄鋼・海運等の合理化、企業の 整理統合などにあたり、旧財閥系企業の再結集に大きな援助を与え、対日援助見返資金、MSA見返 資金、世界銀行借款などをさかんに活用した。これに対して別の巨大な「裏金」が流れたときに、 吉田派の権勢が急速に傾いたように見える。
 「裏金」という献金を多く獲得するものが権力を握る。なるほど立派な民主主義国家だ。

 こういう事例と並べて読んでみると、例えば、次のような一節がよく理解できるように思う。
「民主主義とは、《関係者の全員が、対等な資格で、意志決定に加わることを原則にする政治制 度》をいう」のだと橋爪は定義する。なにも救抜するまでもない。この程度の凡庸な民主主義 観は蔓延している。
 しかし橋爪などという大学教師より財界首脳や労組幹部の方が政策決定への影響力が強いと いうのが、近代国家における民主主義のうんざりするほど陳腐で凡庸な事実である。政治的権 利が平等でも社会的に不平等なら、《対等な資格》はフィクションにすぎない。
(「第109回」・2004年12月1日)

 選挙を通じて国政に民意が反映する、という神話は、あるフィクションを前提としている。 それは、個々人が一票というかたちで平等な権利を有している、ということだ。
 しかし、政治的平等は市民社会における不平等に裏打ちされている。対等な個々人の主体 的な判断によって、政治の動向が決せられるなんて全くのうそっばちだ。政治を左右してい るのは、企業献金の多寡であり、労組や宗教組織の動員数であることは明白だ。組織票より 浮動票の方が多いはずだ、てか。カネもヒトもなくてどうやって票を獲得するのか。社会的 不平等の中にこそ、《政治》の決定要因があるのだ。
(「第149回」・2005年1月10日)

このように、ブルジョアジ一による国家的支配とは、その総資本的意志が 国家意志を実質上大きく支配することである。また、ブルジョアジーはそのことによっ てはじめて、経済的支配階級としての自己を、政治的な統治階級としても構成することができるので ある。
 これは、支配階級が、総資本的意志をプロレタリアートはじめ国民的諸階級・諸階層の全体 に直接押しつけ、服従させることが出来るようになったことを意味する。
(「第93回」・2004年11月15日)
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