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228 そのとき「大国民」たちは?(4)
「青い目の人形」の受難
2005年3月31日(木)


 一般大衆を統率し狂気へと導いていった者たちを、山中さんは三つの層に分けています。第一は戦争遂行の ための施策を直接企画立案した国家権力中枢の戦争指導者たち。第二はその戦争指導者の国内総力戦態勢強化の 呼びかけに応じて行政権力を振るったさまざまな機関・団体の官僚・役員と戦争遂行の生産経済を支え ていた資本家たち。これらの者を中間指導者と呼んでいます。そして第三は前回までに見てきたような 「戦意昂揚、敵愾心昂揚」運動を熱烈に支えた下級指導層です。

 あのバカバカしい狂気が全国を席巻していくようになるきっかけを、山中さんは戦争指導者たちが 苦々しく思っていた中間指導層の状況に有効な手を打てなかった点に求めて、次のように分析しています。


 中間指導層には時流便乗派が多く、戦争を明らかに喰い物にしていたということである。当時一般庶 民の間で話題にされた「軍需成金」というのは明らかに「戦争成金」であったし、「統制成金」という のは職権を利用し統制品の横流しや闇売買で産を成した連中のことであった。がしかし、こうした 「余録」がない限り、彼等のかかわる機関は円滑に機能しない矛盾を含んでいた。ということはどの ように国内総力戦態勢強化を呼びかけようと、基本的な部分で生産経済を支えていたのは、資本主義 経済構造であったからである。そこで国内総力戦態勢強化は、勢い基本的矛盾に触れることを回避し て、精神性的側面へ向けて突出せざるを得なかった。「戦意昂揚、敵愾心昂揚」運動はある意味で戦 争指導者たちのジレンマを代行するものであった。
(中略)
 現実に見えざる敵に対する心理的興奮をあおることは、何らかの儀式を必要とした。(中略)儀式 は〈敵性文化排撃・撲滅〉の形をとった。

 さて、野口雨情作詞・本居長世作曲の『赤い靴』と『青い眼の人形』は1921年に発表されて以来 一世を風靡しました。ラジオでもしばしば放送されていましたし、小学校の学芸会でもしばしば 登場していて子どもたちの愛唱歌でした。この童謡が、早くも1942年末の開戦当初から敵性思想 文化財として真っ先に槍玉にあげられ、抹殺されていました。
 『赤い靴』では

赤い靴 はいてた
女の子
異人さんに つれられて
行っちゃった

 の「異人さん……」のくだりが拝米思想だとやられたのである。「異人さん」即「アメリカ人」という せっかちさも、尊皇攘夷思想からすれば、問題ではなかったのであろう。当時、このくだりを「毛唐 めにかっつぁらわれて 行っちやった」と歌ってはどうかなどと、家中で話題にした記憶がある。つい でに……というのもおかしいが、第三節めの歌詞も問題にされた。

今では 青い目に
なっちやって
異人さんの お国に
いるんだろう

 とあって、その「青い目に なっちやって」というのも、非科学的であるときめつけられた。もとも と童謡などというものは、科学的なものではない。その気になって難くせをつけるつもりなら、どうに でもなってしまう。そして、たとえ児童であろうとも「大和おみなえし」ならば「降るあめりかに袖は 濡らさじ」で、そうそう西洋人のままになるものではない、などということが大まじめに論じられたと いう。また『青い眼の人形』の方は

青い眼をした
お人形は
アメリカ生れの
セルロイド

 ということで、メイド・イン・USAの人形に皇国日本の少女がなじむということは、時局思潮に反 するというのが抹殺の理由であった。

 1927年2月にアメリカに本拠を置く世界児童親善協会が日本の子どもたちに、12,739体の人形をプレ ゼントしました。平和と友好のための人形使節団というわけです。
 この人形は船便で横浜に上陸し、青山会館(後の日本青年館)での文部省主催の歓迎会では『青い眼 の人形』の合唱で迎えられました。そこから全国の小学校、幼稚園に配られ、全国の子どもたちから もやはり『青い眼の人形』の合唱で迎えられました。
 これが『青い眼の人形』が童謡として一世を風靡するようになったきっかけだったといいます。

 さて、抹殺されたのは歌だけではありません。「平和と友好のための人形使節団」も抹殺されて しまったのです。
 1943年は、この可憐な人形たちにとっても受難の年であった。この人形使節は鬼畜米国の日本制覇の 野望を隠蔽し、日本を油断させるための深慮遠謀の偽装使節で、実は日本の少国民を懐柔せんがための 謀略戦の尖兵であったと判断されたのである。悪意を得て観ずれば萬象悪意に叶うのである。しかも、 国家的規模による悪意である。そのため、かつて全国の小学校、幼稚園で暖く歓迎された21,739体の 人形のうち、五指に残るか残らない程度の僅かな例外を除いて、そのほとんどが秘かに焚刑に処せられる か、あるいは敵愾心昂揚のために「撃ちてし止まむ」とばかりに、竹槍で突きこわされてしまったので ある。なんともひどい話である。やはり正気の沙汰とは思えない。これに対して、当時答礼として日本 からアメリカへ渡った日本人形は一体残らず健在であるという。

 なんと野蛮なことでしょう。人と人とが殺し合う野蛮とはまた質の違った陰湿な野蛮です。暗闇の中で 恐怖に駆られてやたらと棍棒を振るっている未開の迷妄とでも言えばよいでしょうか。大日本帝国は戦闘に 負けただけではなく、文化度においても完敗していたのです。この事実を知って、大日本帝国国民 の後裔の一人として顔が火照るほど恥ずかしいと思いました。大東亜戦争を肯定し、「美しい伝統」への 先祖がえりを声高に喧伝するものたちの、これがその「美しい伝統」の裏面なのです。
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227 そのとき「大国民」たちは?(3)
大真面目に狂気の投書2
2005年3月30日(水)


 「通風塔」への投書の紹介を続けます。
欲しがりません、どこまでも(343号=5月12日号)
 近頃、「欲しがりません、勝つまでは」の標語がよく見受けられます。決戦を戦ひ抜く私どもの心構 へとして、この標語を心から守り、賛沢を蹴とばして、戦ひ抜き、勝ち抜かねばなりません。
 しかし、この標語ではまだまだ足りません。もつともつと強く、「欲しがりません、どこまでも」と 改めたいと思ひます。
 米英を撃滅し去った後も、大東亜の建設戦はさらに続行されるのです。勝っても欲しがつてはいけな いと思ひます。欲しがるのは米英の思想です。
 私どもは大東亜十億の指導者として「どこまでも欲しがりません」。この気持、この心構へで進まう ではありませんか。(長崎 山下生)

「激戦中」銃後の我等(345号=5月26日号)
 アリューシャンでは皇軍将兵が上陸した敵兵と激戦中だといふのに、劇場、映画館は超満員を呈し、 飲食店の前は長蛇の列で賑はふ。
 余りにも国民は皇軍に頼り、戦果に狎れすぎてゐはしないだらうか。
 闘ふ将兵の心を心とする意味で、せめて「目下激戦中」といふやうに、明らかに前線将兵の労苦が偲 ばれる場合には、一定の期間、歌舞音曲の禁止は勿論、あらゆる消費面の一斉締め出しを提唱 したい。(東京 小池生)

 係より―お気持はよくわかります。前線将兵の労苦と一つ心で、自粛生活に徹してこそ、前線 と銃後のつながりは鉄石となり、皇軍の精強はいよいよその光を放つのですが、銃後の私どもとしては、 消極的に自粛するにとゞまらず、個人的な欲望や享楽を断ち切り、戦力増強のため、貯蓄に、生産に、 防空に、全力を尽して積極的に、前線の将兵の労苦に応へたいと思ひます。

アツツの英魂に誓ふ(347号=6月9日号)
 アッツの兵隊さん、あなた方は最後の一人になるまで、自分の血が一滴でも残ってゐる限り、憎い米 兵への鉄槌となって散っていかれました。
 どんなに苦しい時でも、たゞの一度も泣言や不平がましいことをいはず、一途に祖国を愛し、大君の 御馬前に生命を捧げる光栄に感泣し、死して悠久の大義に生きられました。
 悲壮、凄絶、何といふ崇高な精神でせう。
 御安心下さい。米兵への最後の大鉄槌は、遺憾なくその威力を発揮し、敵の主力部隊は大混乱に陥り ました。
 と同時に、私達銃後国民にも大きな鉄槌となって打ちおろされました。
 今こそ私達は、この有難い鉄槌を押し戴き、銃後の務めの完遂に驀進せねばなりません。
 ともすれば私達は物質の不足をかこってゐました。見苦しい行列買ひに先を争ってゐました。
 何の不足があるといへませうか。どこに不満があるといへませうか。勿体ないことです。
 今こそ私達の一人々々が、先づ強く真剣に自らを省みるべき時です。そしてお互が心を合せて、 隣組を固め、町会を通じ、銃後一丸となって、真に戦争生活に徹し、アッツの英魂に報いませう。(大阪 望月正子)

戦争に徹しよう(348号=6月16日号)
 先日私は町内の応召勇士を見送った。その直前、大本営発表を耳にし、悲憤の激情が全身に沸き立って ゐた。
 勇士の門出を祝して次ぎ次ぎ贈られる歓送の辞は、すべて言々火を吐く壮烈そのものであった。
 やがて隊伍を整へ氏神様へ向ったが、沿道すれ違ふ人々の中に、勇士に対して敬礼を欠く者があれ ば、私は容赦なく大喝叱咤した。
 皇国のため一身を捧げて今、難に赴かんとする勇士を眼前に見ながら、路傍の人に接するが如き無関 心でゐられるものは、もはや同胞ではない。分らぬものに対しては、かうすることが戦時下国民の責務 だと思ふ。(横浜市鶴見区 小林諭)

「……だから」で弛む心(350号=6月30日号)
 「お祭りだから、日曜だから、一日位は……」といふのは、私達勤人にあり勝ちな気持でせうが、 「だから」といふこの一言で、どれだけ勿体ない日を、そして時間を空費してゐることでせう。
 木の実、草の根を食とし、一滴の水さへ分け合って飲む戦場を、いつも思ひ浮かベませう。 「だから」の一言で仕事の能率を下げることかあったとしたら、銃後をあづかる私達として、どうし てお詫び出来ませうか。
 お互にぜいたくをやめ、「だから」といふだらけた気持ちにうちかって、一日でも一時間でも多く働 いて、この戦ひの最後の勝利の日まで頑張り抜かうではありませんか。(札幌市 福村節子)

もんぺ(ヽヽヽ)を見せる心(同前)
 警戒警報下にもんぺを着用する婦人の多くなつたことは甚だ結構なことだ。
 しかし街を歩いてゐる婦人の半分ぐらゐは、新しい綿とか、その他高級品で、わざわざ作ってゐるや うに見受けられる。それも一つではない。
 私の会社の某婦人は、今日は明日はと、次ぎから次ぎへと変ったのをはいて来る。そんな人に限って ハイヒールで通勤してゐるやうだ。
 新調するよりは、高級品でも間に合せることが結構だとは思ふが、何も数多く作る必要はないではな いか。こゝにまだまだ敵国思想がくすぶってゐる。猛省を望む。(大阪市旭区 平岡昇)

 投書の論調がアメリカ・イギリスへの憎悪や敵愾心から、相互監視的な叱咤激励に変わってきました。

 余談になりますが、私は1938年の早生まれなので大日本帝国の降伏の時は国民学校2年生でした。 幸か不幸か、私はおくてだったので国民学校でどんな教育をされたのかほとんど記憶がありません。しかし戦中に歌われた 戦意昂揚や皇国民育成のための歌や軍歌などはけっこうよく知っています。たぶん兄や姉がよく歌って いたので、それを聞き覚えたのかも知れません。例えば「トントントンがらりと隣組 格子を開ければ顔なじみ  まわしてちょうだい回覧板 助けられたり助けたり」というのも歌えます。

 この隣組がくせものなのです。
 お隣同士が料理のおすそ分けをしたり、調味料や道具の貸し借りをしたりするのは、当時ではごく自然 で当たり前のありようだったと思います。それが改めて町内会の末端組織の「隣組」として組織化される と、相互扶助は建前で、実体は相互監視の役割を担うことになります。前々回の山中さんの文を再度引用 しますと『隣組組織を通じて、勤労奉仕であるとか、戦時公債や弾丸切手の割当て購入などを繰返し押し つけられて、「赤誠表出」とよばれる協力度合をやたらに試され続け」ることになります。

 上記の投書文に続けて山中さんは次のように書いています。
 ここに列挙した投書は、当時の一般的な民心の反映の一部と見てよいだろう。「通風塔」に寄せられ る投書は、その後、戦局の推移とともに激越さを増し、更にファナティックな様相を帯び始める。婦人 の化粧は一切禁止せよだの、老人の隠居を許すな、買出し婦人は愧死すべきである、などと言い出す。 そして遂には「米はコメ、日本の国は瑞穂国の米どころで混同のおそれあり」として、区別するため に、アメリカの「米」には〈けものへん〉をつけ、「英も英霊の英、東条英機首相 の英」にまぎらわしいから、これにも〈けものへん〉をつけて新字とし、「(けものへんの 付いた米英)撃滅」とせよなどと、大まじめに言い出す。
 また『戦争に徹しょう』の投書者に見られるような、やたらに他人を大喝叱正したがる「張切り者」 が出現し始める。警防団の班長、隣組の防火班長など、やたらに「長」の肩書きのつく人種がふえ、そ れぞれが「長」をかさにきて、大喝叱正する。下っぱであればある程、それが激しい。大喝叱正をくわ される方は、女、子ども、学生が多い。多分、反撃される心配がなかったからだろう。そして、そうい うおとなの横暴は、「お国の為の赤誠から出た、やむにやまれぬ感情」からであり「お国の明日を憂う ること」として正当化されたのである。

 愛国婦人会のおばさんたちが銀座などの盛り場に繰り出してい き、贅沢な服装や華美な装飾を摘発したというような話が確か「ボクラ少国民」のなかにありました。 いま路上の喫煙者の摘発が行われている所がありますが、私にはその根っこの思想は同じに思えます。私はタバコの匂いが 苦手ですが、ああいう規制の仕方には反対です。
226 そのとき「大国民」たちは?(2)
大真面目に狂気の投書1
2005年3月29日(火)


 山中さんは次に、意見を公開し社会にアピールすることを目的にした投書を取り上げます。
「政府のPR誌である週報の「通風塔」と名づけられた投書欄にあらわれた主張は、当時の一般状 況を如実に物語るものであり、戦争に対する一般の認識がどのあたりにあったかを知る手がかりにもな る。」と述べて、「週報」の1943年上半期分から目ぼしいものを拾い挙げています。たくさんの投書か ら選ばれて掲載されたものですから、国家権力の御意にかなった優等生の投書ということになりましょ うか。
 英語追放論(325号=1月6日号)
 街に、家に、われわれの周囲には、ローマ字、英字が氾濫してゐる。とくに看板や包装紙に甚だ しい。共栄圏の人達が日本を訪れた場合、彼等はこれを何んと感じ、何んと観るであらう。彼等と 同じやうに、米英「文化」に支配された日本と見、指導国日本に対する信頼の念を薄くすることが ないと、果して断言できようか。
 街から、家から、われわれの生活から、あつて益なきローマ字、英字を追放し、われく本来の文字 を以て街を、生活を充さうではないか。(一帰還兵)

 「敵性語追放」は既に権力側から強力に推し進められていた事でした。例えば、1940年には芸能人の 芸名から欧米風のものをー掃するように厳しい警告が出されています。山中さんは当時の朝日新聞(19 40年3月29日)の記事を要約しています。
 改名命令を受けた芸能人は、ミス・ワカナ(漫才)、平和ラッパ(新興演芸部)、ミス・コロンビ ア(歌手)、ディック・ミネ(歌手)、サワ・サッカ(日蓄)、エミ・石河(松竹)、南里コンパル(同) 、尼リリス(日活)、その他、エデカンタ、星へルタなどであった。
 同時にこれは不敬に亘るものとして、園御幸(宝塚)、御剣敬子(同)、熱田みや子(日活)、 吉野みゆき(新興)に改名命令が出された。
「みゆき」=行幸(天皇の出御)ということであり、「御剣」といえば三種の神器のひとつである 草薙剣に通じるといぅことであった。「熱田みや子」は「熱田神宮」をもじった疑いがあり、不敬であ るというのである。
 このほかに、改名命令の対象となったのは、歴史上の偉人の尊厳を著しく傷つけるということで 藤原釜足(東宝)、さらに風紀上芳しからずということで、稚乃宮匂子(宝塚)にも同様の措置が とられた。

 何度も同じ言葉でしか評しようがないのですが、本当に噴飯ものでもあるし、狂気の沙汰です。
 「通風塔」の投書記事の紹介を続けます。
 「ギャング」と「海賊」(327号=1月20日号)
 近時米英に対する敵愾心の昂揚がしきりに問題となってゐる。そして種々の会合において米英誹謗の 適当の言葉はないかとの声を聞く。「ヤンキー」「ジョンブル」の呼称は彼等にとつては相当に強く響 くらしいが、われわれ日本人からするとあまりにやさし過ぎる。そこで、米国を呼ぶに「ギャング」、 英国を表はすに「海賊」と呼称することが、彼等の本性をうがってゐると思ふ。富山文化協会では、差 当り今後この語によって敵愾心の昂場に邁進することに、元旦の祝賀式において申合わせた。(富山・加 藤宗厚)
 ただただあきれるばかりです。「富山文化協会」というのは自治体お声掛りの法人でしょうか。 「敵愾心の昂場に邁進する」とは全く文化のかけらもない野蛮な「文化協会」です。
 米英の呼称(334号=3月10日号) 「英機撃墜」はともかくとして、「米を大切に」とある新聞の 同じ紙面に、「米窮迫す」とあったり、まことに煩はしい限りである。  昔は知らず、彼等を敵として戦ひつゝある今日、彼等を遇するに美称を以てする必要がどこにあらう か。これは一見些事に似て事実は然らず。些事とするは、未だ敵を憎む心に徹せざるためと深く省みる べきである。(本郷洋八)

 我が方の損害(336号=3月24日号)
 大東亜戦争開始以来、皇軍将士の善戦勇戦に対しては、たゞたゞ感激、感激のほかはない。われわ れは、大本営発表の度に、遥かなる戦線に想ひを馳せ、銃後の敢闘を誓ってゐるのである。
 ところで、戦果と共に我が方の損害も発表されるが、これに対する新聞・雑誌の扱ひ方は、戦果には 大活字を用ひ、我が損害に対しては小活字を用ひてゐる。これは宜しく、反対または同等の活字を用 ひ、「この犠牲を忘れるな、この恨みを米英にたゝきつけろ」等の辞をもって米英に対する憎悪、敵 愾心の徹底を期して欲しい。(高知 石黒生)

「撃ちてし止まむ」の濫用(同前)
 過日の陸軍記念日を中心に「撃ちてし止まむ」の合言葉が全日本に、大東亜全域に力強く叫ばれ、い よいよ米英撃滅の信念を新たにしたことは、まことに結構である。
 しかし、その後の新聞、雑誌を見ると、ホルモン剤の広告とか、洋裁学院の改名募集にまで便乗的に 使用され、この厳粛なるべき合言葉を冒涜してゐるのは、言語道断と思ふ。
 大東亜戦争を戦ひ抜き、敵米英「撃ちてし止まむ」の一億民族の、十億東亜民族の、逞しき決意を示 す合言葉に、われわれは常に慎重な態度をもつて臨み、単なる流行語に終わらせることのないやうにした いものである。(茨城 北条生)

米英撃滅は子供から(337号=3月31日号  子供が何か遊戯をしてゐるのを見ると、案外無味乾燥なものの場合が多いやうだ。私達が子供の時は、 その時その時の時代思潮といったものを織り込んだ遊戯が流行したのを覚えてゐる。
 今日の子供は、遊戯に飢ゑてゐる。貧困を感じてゐる。そこで私は提唱したい。何かうまく米英撃滅 の思潮を織り込んだ遊戯を創作し、あちらの街でも、こちらの村でも、子供が唄って遊べるものを普及 したらよいと思ふ。(清水市 遊戯生)

米英色の実体(338号=4月7日号)

 過日の写真週報で「米英色一掃」を強調されたが、我等は心からこれに共鳴し、その成果の大ならん ことを祈ったのであった。
 しかし、その後の様子を見ると、依然として米英色に恋々として、敢へて反省しない者の多いこと は、まことに遺憾である。
 また一方、現時局を表面的に取り入れ、或ひは時局に便乗して、これまでの米英色を一擲したかのや うに見せかけてゐる者も少くないやうであるが、これに対しても当局の善処を切望したい。
 例へば最近流行の軽音楽の実体を何んとみるべきであらうか。或ひはまたカフェーニューヨークと か、ハリウッドとかいつたものが、大東亜会館とかカフェー興亜とかに改称したとしても、それが果し て真に日本的なものになり得る筈があらうか。
 我々は、形式や表現を尊重すると同時に、いや、それ以上に、その内容を、その精神を尊重したい。 即ち正しき精神の充実、顕現こそは、大東亜戦争を戦ひ抜く指導原理であると信ずる。従って米英色一 掃も、単に表面的なものに止まるべきではない。米英色ー掃に対する当局の方針がより一層厳ならんこ とを切望する所以である。(実体生)

 今回掲載した投書のほとんどがアメリカ・イギリスへの憎悪を焚き立て敵愾心を煽る類のものです。
 これらの投書をした人たちはどういう階層の人たちだったのでしょうか。
 「政府のPR誌」など読まないし、自分の考えを文章にすることもない圧倒的多数の一般的な大衆がこれほ ど狂っていたとは思えません。自らの無関心が凶暴な圧制を許し、その圧制に正面切った 抵抗はせず、首をすくめて嵐が通り過ぎるのを待つほか術をもたない人たちです。しかし、例えば「第 67回」(2004年10月20日)や「第78回」(2004年10月31日)で紹介したような生活思想がその一般的な 大衆の本音ではないでしょうか。この面従腹背への批判は今はおきます。ただし、私も大衆 の一人ですし、単純に非難・裁断すれば済む問題ではないとだけは言っておきたいと思います。
 ともあれ上記の投書者たちのように狂気を積極的に担った者の多くはやはり「神官、僧侶、予備・退役 軍人(在郷軍人)、町内会・青壮年団等各種報国団体役員・国民学校教師たち」だったのではないかと 推測します。そしてこれらの人たちがいわゆる知識人たちの言説の影響を受けて、それをさらに過激な 言説にして「忠誠競争」に奔走しているのだと思います。「大国民」の次には当時の「知識人」の言説を 検証する必要がありそうです。
225 そのとき「大国民」たちは?(1)
大真面目に狂気の請願
2005年3月28日(月)


 大日本帝国の大人の国民を「大国民」と呼ぶことにします。
 少国民たちは国定教科書によってしっかりと練成されました。一方、大国民たちの教科書は ラジオ・新聞などのマスコミです。大国民たちが狂気のイデオロギー(虚偽意識)に絡め取られていく 様相を、その末期症状の段階を診断することによって検証してみようと思います。現今のマスコミもほと んどが権力をまともに批判できない体たらくです。中には大政翼賛化して権力のちょうちん持ち に成り下がっているメディアもあります。よりソフトな手口ではありますが、現在の国民も巧みに 国家主義の方向に導かれつつある現在、そのイデオロギー(虚偽意識)に対する免疫をつくるためにも 「大国民」を振り返ることは意義あることと考えます。
 資料は山中恒著「ボクラ少国民第三部・撃チテシ止マム」です。

 大東亜戦争の開戦時には大国民はもうすでに心身ともにがっちりと国家権力の掌中に囚われていま した。その様子を山中さんは次のように記述しています。
 一般国民は開戦前の「国民精神総動員運働」以来、その末端まで戦時態勢を取らざるを得ないように 強力に統制されており、戦争への協力も、機会ある毎に、隣組組織を通じて、勤労奉仕であるとか、戦 時公債や弾丸切手の割当て購入などを繰返し押しつけられて、「赤誠表出」とよばれる協力度合をやた らに試され続けて来た。しかもなお生活必需物資の絶対量不足が、その生活の基盤を脅かしていた。そ の上になお、〈国内総力戦態勢強化〉が要請されたのだから、始末に悪かった。その追いつめられた意 識は、それぞれの生活の中の極めて僅かな〈ゆとり〉といったふうな間隙に向けて突出せざるを得なく なった。もちろん個々のキャパシティはたかが知れているから、それを潰してしまうと、当然のことな がら第三者の間隙を見つけだし、それを潰しにかかるという狂暴性を持った。そして、それらの狂気を 積極的に担ったのが、神官、僧侶、予備・退役軍人(在郷軍人)、町内会・青壮年団等各種報国団体役 員、そして比較的地域との接触の多い国民学校教師たちであった。

 開戦当初の相次ぐ捷報に湧き立ち興奮していた大国民のお祭り的な気分は、1942年6月のミッドウェー海 戦の大敗前後から陰湿な狂気じみたものへと変わっていきます。
 国内総力戦態勢強化のための戦意昂揚運動は開戦当初のお祭り気分にも似た陽気な熱 っぽさを失い、なんとなく陰湿な、戦争への協力度の相互点検、相互監視、相互告発といった雰囲気の 油断のならない様相を示し始めた。それは次第に、〈常在戦場〉のスローガンを前提に極めて狂信的な 〈敵性文化排撃・摘発・撲滅〉による〈敵愾心強化運動〉へと移行していった。

 「相互点検、相互監視、相互告発」は競って権力に媚びる「赤誠表出」を誘発します。 例として、山中さんは第81回帝国議会の会期中(1942年12月26日~1943年3月25日)に議会に提出され た請願書を書き出しています。中山さんは「これらの内容をいちいち読んでいくとうんざりしてくる。」 と述べていますが、人間の精神が正気のままで(ヽヽヽヽヽヽ) どこまで狂気になれるのかという観点から読むととても参考になります。私は興味深く読みました。
○国旗記念日制定二関スル請願  国旗の尊重を徹底せしめるために、国旗制定の日、即ち一月二七日を国旗記念日として国民精神の 作興に資せられたしという主旨。

○天祖肇国ノ祝祭日制定ノ請願  八紘一宇の天祖の聖徳を仰ぎ奉るべき祝祭日の制定未だ無きは遺憾である。よって天祖肇国祝祭日 を制定し皇道宣揚に資せられたし。

○古事記正解ノ研究機関設置ノ請願 古事記の本然を誤り神聖を冒涜するが如き学説の生ぜしは聖代 文教上の一大痛恨事、よって政府は政府による古事記正解の研究機関を設けて国体の本義を明徴にせ られたい。

○漢字復興二関スル請願  漢字を復興して以て日華提携に資するための方途を講ぜられたし。

○経度ノ改正二関スル請願 (原文)右請願ノ趣旨ハ大東亜共栄圏建設ノ基礎確立シ世界情勢三大変革 ノ行ハレントスルノ秋海洋発展二重要ナル関係ヲ有スル経度カ敵英国「グリニッチ」天文台ヲ通過スル 子午線ヲ起点トシテ測定セラルルハ適当ナラス且共栄圏内二於ケル日付算定上多大ノ不便アリ依テ速二 現行ノ経度測定方法ヲ廃棄シ東京中央天文台ヲ通過スル子午線ヲ起点トスル(後略)

○国字改善こ関スル請願 国字の簡素化により国民の知識生活を能率化し教学振興、国力充実に資する ため「昭和文字」の調査制定を国家事業とされたい。

○孝子祭制定並孝子追賞二関スル請願 忠孝は一本であり、孝道は臣道実践の原動力であり、綜合国 力の源泉、依て孝子条を制定、全国孝子を追賞、以て日本精神の作興と忠孝一本の大義の徹底を図ら れたし。

○日向帝室博物館設置こ関スル請願 皇祖発祥の聖地たる鹿児島、宮崎両県下に国体明徴のため速に 帝室博物館を設置せられたし。

○肝付兼重、楡井頼仲公の偉業を国定教科書に編纂の請願 両公は皇祖発祥の聖地大隅に於て南朝の ため悪戦苦闘忠節を全うせられたる大忠臣故に教科書教材に取入れ国民教育に資せられたい。

○和学復興こ関スル請願 八紘為字の大理想実現し、今次聖戦完遂のため和学の復興を図られたし。

○「ローマ字」表記法こ関スル請願 (原文)右請願ノ趣旨ハ国語ノ「ローマ」字綴方ハ昭和十二年 内閣訓令第三号ヲ以テ日本式二一定セラレタルモ民間ニハ未夕不合理ナル「ヘボン」式ヲ使用スル者 存スルハ洵二遺憾ナリ依テ政府ハ英語新聞及南方向キ諸雑誌等ニシテ「ヘボン」式ヲ使用スルモノヲ 厳二取締ラレタシ(後略)

○神代史蹟調査所設置二関スル請願

○書道振興こ関スル請願

○学徒禁酒令制定二関スル請願 (原文)右請願ノ趣旨ハ時局下青年学徒ノ酒害ヲ防除シ其ノ錬成ノ 実ヲ挙クルハ喫緊ノ要務ナリ依テ速二学徒禁酒令ヲ制定実施シ中等学校以上ノ学生、生徒ノ飲酒ヲ禁 止セラレタシト謂フニ在り(後略)

○国民教育二関スル請願 (原文)右請願ノ趣旨ハ従来ノ教育、宗教分離ノ方針ハ往々ニシテ物質 偏重ノ傾向ヲ助長シ教育ノ根本タルへキ徳育ヲ等閑視シタルカ為近時其ノ弊害著シキヲ見ルニ至レル ヲ以テ今ヤ時代ノ要求ハ徳育ニヨル人格ヲ望ムコト甚タ切ナリ而シテ徳育ハ幼少青年期二於テ本来具 有セル宗教心ヲ培養スルヲ要道トシ其ノ手段トシテ師範学校教育二於テ宗教ヲ組織的二会得セシメ国 民学校二於テ宗教教育ヲナサシムへキ素養ヲ与フルヲ緊要トス依テ政府ハ昭和十年十月附文部次官ノ 宗教教育二関スル通牒ヲ活用シ師範学校ノ教科目中二宗教概論ヲ加へテ師範学校生徒ノ宗教二対スル 関心ヲ高メ以テ国民学校教育ノ実施二資セラレタシト謂フニ在り(後略)

○文部省編纂「国体ノ本義」訂正ニ関スル請願 (原文)右請願ノ趣旨ハ曩ニ文部省ヨリ「国体ノ本 義」ヲ編纂刊行セラレタルモ其ノ叙述徒二多岐ニシテ晦渋ナルノミナラズ其ノ内容必スシモ適切ナラ サルモノアルハ遺憾二堪ヘス依テ速二前記「国体ノ本義」ニ適切ナル改訂ヲ加へラレタシト謂フニ在 り(後略)

○少国民ノ忠誠心涵養二関スル請願 (原文)右請願ノ趣旨ハ敬神崇祖祖先崇拝ハ我ガ国伝統ノ美風ナ レハ之ヲ維持涵養シテ国運ノ進展二寄与スヘキモノナリト信ス依テ春秋二季ノ皇霊祭ヲ期シテ全国民 学校二於テ祭式ヲ挙行シ校長ハ敬神崇祖忠臣孝子ニ関スル講話ヲナシ以ッテ少国民ノ涵養振作ニ資セ ラレタシト謂フニ在り(後略)

 国家権力のプロパガンダがもう既に狂気の沙汰でした。その狂気のプロパガンダ用語をキーワードに して空疎なイデオロギー(虚偽意識)に酔っています。つい吹き出してしまうようなものもありますが、 全体には読んでいるうちにゾゾッと寒気がしてきます。
 これは決して過去だけの問題ではありません。現在だって、例えば「君が代を声量豊かに歌わせることに関する請願」とか「国民の祝日において 日の丸の掲揚を義務付けることに関する請願」とかを大真面目に提出すような手合いはごまんといるので はないでしょうか。あるいはもうそのような請願が県や市町村レベルでは出されているかもしれま せん。
224 国民学校の教科書より(12)
再び過たないために
2005年3月27日(日)


 最後にかなり長い引用になりますが、「御民われ」と「神の国」の双方から締めくくりの一文を 書き出します。

 教科書だけでは少国民練成の狂気の教育を貫徹できません。それを直接になった教師たちがいます。 教科書の分析を終えた山中さんの感想と回顧の文です。
この内容のそらぞらしさには、とても井上のいうような文学など感じられない。確かに、ある種の 緊張感と名付けたくなるような〈気張り〉は感じられる。だが、この押しつけがましい〈気張り〉 が、前にも書いたように、果して監修官たちの本心であったのか、それとも軍部に対する政治的な ゼスチュアであったのか、それは現在のところ、確かめようもない。しかし、井上は自分が退官す るまでに編纂した教科書に対しては、必ずしも否定的な評価は下していないし、石森についても 同様である。また、そうした製作側の内部に於ける政治的な駆け引きの存否が確認し得たとしても、 これらの教科書が〈皇国民ノ錬成〉のための絶対的権威を持った教材として、国民学校生徒であっ たぼくらの前におかれた現実の歴史的事実は変らない。
 とにかく、ぼくらは、この、およそ人間的な個性の感じられない、べたっとした、事務的で、 平均的な文章でつづられた、そらぞらしい〈気張り〉を己れの本音に注入すべく錬成されてしまった のである。そこに多少とも共鳴を引き出す人間的情感でもあれば、それはそれとして効率のよいアジ テーションにもなり得たであろうが、それがないから、ぼくらはそのそらぞらしさを、ひたすらお題 目として、やみくもに暴力的に学習させられてしまったのである。
 ある教師は自分の気に入った部分を、子どもたちに暗唱させ、暗唱の際、まちがいがあると「教科 書の文章は、陛下のおさとしである。それをきもに銘じていない証拠だ」と鉄拳をくらわせたという 現実や、教科書の漢字にふりがなの書き込みをしたというので、「神聖な教科書を汚したことをお許 しください」となんどもなんども教科書に謝罪させたという現実があったことを、教科書の監修官た ちはどのように考えただろうか。先にあげた井上赴の回想にしても、石森延男の回想にしても、ぼく がなんとしても額面通りに受けとれないのは、彼等の意識の中には、教科書作製の過程での自分たち の立場やその政治的状況に対する確認(これ自体また政治的でもあるが)があっても、現実に彼等の 作った教科書を絶対教典として学ばされた当時の国民学枚生徒の存在が感じられないからである。
 もちろん、この人たちには、それなりの苦労があったと思うし、当時のその立場もわからないでは ない。ひたすら〈職域奉公〉で、上からの命令を絶対として、ファナチックな天皇制ファシズムの教 典としての教科書を作らざるを得なかったであろうという点も理解できる。ただし理解できるのであ って、容認できるということではない。現実にこれらの教科書を学ばされてしまったぼくとしては、 それだけですまない何かにこだわらざるを得ない。しかも、これらの教科書を作り上げた図書監修官 たちが戦後も民間の教科書出版会社の要請に応じて教科書を作り続けていることを考えるとき、戦時 中の彼等の立場が「巳むを得ざるものであった」とされる次元で、既に〈ボクラ少国民〉国民学校世 代は切り捨てられていることを認めざるを得ないのである。また、切り捨てることにより、彼等は抵 抗なく、その後も教科書を作り得たのである。


 入江さんは結びの一節を「アジアへの視点」と題して著書を閉めています。
 第二次世界大戦は、日本によるアジアの解放のための戦争だった、とする認識が、いま日本人のなかに ひろがりつつある。「侵略」という精神的な重荷を背負いつづけることに倦き、あるいはまったくその自 覚がないままに「親たちの世代」の責任をわが荷物として負わされることに不満を感じる戦中派以後の人 々にとって、それは目から鱗が落ちる思いの新しい説明であり、耳ざわりのいい救いであるだろう。
 その「歴史観」がひそかに囁かれはじめたのは、1966年、かつての紀元節が自民党政府によって建国記 念の日と名だけ改め、国民の祝日として復活をはたしたころから、と記憶する。つづいて1979年、元号法 が国会を通過し、主権在民の現憲法のもとにありながら、これら一連の時代錯誤的法律が論をつくさずに 制定されたことによって、第二次世界大戦の意味もまた変容していくのは、むしろ予定された結果といわ なければならない。
 ことに侵略戦争のスローガンである「八紘一宇」と不可分の関係にある紀元節の復活は、いま新たに アジアのリーダーをもって任じている日本人に、過去のすべての「みそぎ」が終わったという錯覚をあ たえたようである。
 経済大国という金看板を背に、「日本は大東亜戦争で果たせなかったことを、いま経済で果たした」と 豪語する人たち、あるいは、戦後の経済援助と重ねて「日本はわれわれを助けてくれたのだ、と現地の人 たちも言っている」と外交辞令ぐるみで(ヽヽヽヽヽヽヽヽ)確信をもって 語りはじめた人たち、あるいは東南アジアの街で、「見よ東海の空明けて……」の愛国行進曲をいまな お正確に歌える老人に出会った感動を語る人たち。さらには中国東北部の大都市を訪れ、当時の日本よ り遥かに進んだ都市計画の一端にふれて、日本は戦争で悪いことをしたのではなかったと短絡する人た ちを輩出した。その傾向はいま「侵略」を「解放」と言い換える口当たりのいい国家主義的方向へ収斂 されつつある。

 本書との関連でいうなら、「満洲国」、朝鮮、台湾の植民地での義務教育の普及率を数字とし て挙げて、あたかも日本人が善政をほどこしたことの証左とする人々である。
 しかしそこで行なわれた教育がどのような目的をもち、どのような内容であったかについて は問われていない。このような一見客観を装った指摘は、過去の過ちのうえにさらに新しい過 ちをかさねる行為といわなければならない。
 詳論を必要とするので、ここではあえてその存在の指摘にとどめるが、1945年8月15 日の詔勅のなかにも「朕ハ帝国卜共二終始東亜ノ解放二協力セル諸盟邦二対シ遺憾ノ意ヲ表セ ザルヲ得ズ」の文言はある。しかしその実態が真に「解放」の名に値するものであったか、と いえば、盟邦以上の関係にあった「満洲国」の実態を見れば明らかであろう。実態とまでいわ なくても、その目指すところは同時代の教科書によって窺い知ることができる。
 ことに国民学校の教科書は、終始神代からの「歴史」による天皇の「御稜威」なるものを説 き、その天皇をいただく日本国民の幸福を説き、同じ恩恵を「コレヲ中外二施シテ悖ラズ」の 教育勅語の一節を支えとして「大東亜共栄圏」の人々に施そうとしたものである。しかしこの 「理想」の裏には、「社会主義思想から天皇制を護る」という、教科書では触れない隠された動 機が存在した。1912年に清朝を、1917年にロマノフ王朝を倒壊させた社会革命が日本 に波及することを怖れて、その温床と信じた自由主義思想の根絶に目標があったのである。
 第一章でふれたように、国体明徴運動がもたらした不条理きわまる言論弾圧と表裏一体の、 やみくもな天皇への帰一、「日本は神代の昔から天地のつづくかぎり君臣の身分がさだまって いる」ことの強調。近代国家の歴史とするには論拠薄弱な神代からの口承を、唯一無二の国家 の理念とし、天皇のために死ぬことを当然と信じる「赤子」なるものを錬成するために教育制 度を改変し、国民学校という「皇国臣民錬成の場」を創出したという一事をとりあげても、国 家権力が抱いた「赤化」の恐怖の大きさを察することができる。
 その社会主義思想の防波堤として構想されたのが、変革の対極にある永続、すなわち「万世 一系」であり、「神の国」という日本独自の価値観によって日本民族の優秀性を強調し、「八紘 一宇」という欺瞞的な言葉の融合を名分として、その影響のもとにアジアの国々を置くという 大東亜共栄圏であり、その遂行のための戦争であった。
 現在もっとも説得的に語られる太平洋戦争開戦の原因「連合国による経済封鎖」は、そこま でに至る紆余曲折はあるにしても、以上の政策がもたらした結果にすぎない。いわばアジアの 国々を天皇制の防波境として位置づけたのが大東亜共栄圏であり、そのために東南アジアにす でに芽生えていた独立への動きを利用した、というのが事実であろう。
 したがって、言葉こそ「解放」と美しいが、その実態は、これまでの西欧の植民地支配とは 別種の支配下に組み込むことにほかならない。
 無知は犯罪、という近代の格言がある。それはあらゆる知識に通じるということではない。 知らないでいることに、学ぼうとしないことに値する罪が、この世にそれほど多く在るとは思 わない。しかし大東亜戦争における日本の真意に目をつぶって、「学校で教えなかった」「自分 が直接参加したわけではないから」という類の言訳のもとに、過去を知ろうとしないことを正 当化してアジアと関わるのは、どのような世代に属するにもせよ罪であると思う。
 たとえばこの時代のスローガンに「一視同仁」「内鮮一体」「五族協和」「日満一心一体」な どがある。「八紘一宇」「一億一心」「天皇に帰一」「万世一系」とむやみに「一」の文字が重用 されたが、「内鮮一体」の実態にふれず、「あのときは日本人だったのだから」と名目上平等で あったことを楯として「朝鮮」の痛みを理解しない有識者もみられる現在、この一体の意味は やはり解いておく必要があるだろう。
 たとえば朝鮮総督府より公布・実施された朝鮮国民学校令とそれに付帯する学校教則には、 第一章でもふれたように以下の独自の文言がある。
 「一視同仁ノ聖旨ヲ奉体シテ忠良ナル皇国臣民タルノ資質ヲ得セシメ内鮮一体信愛協力ノ美 風ヲ養ワンコトヲ力ムルコト」
 この項目に含まれた「内鮮一体」 についての方針が、『朝鮮国民学校教則の実践』の一節に 記されている。その言葉についての註を引用しておきたい。
 内鮮一体という事について之を内鮮平等という風に誤解してはならぬ。之は民主主義的 個人主義的観念から来るもので一体という事とは凡そ正反対の概念である。即ち平等感が 強くなれば一体感は弱くなり、一体感が強くなれば平等感が消滅するというように、氷炭 相容れない考え方である。平等感は一対一の対立関係を示し、二元的存在を前提とするも のであって、その均等関係に於いて安定を求めるのである。故に一度均等が破るれば不安 定となり反目嫉視相争うに至る可能性を内包するのである。一体感はかくの如く二元的対 立関係ではなく最も緊密な有機的、内面的結合であって信愛同情を基礎とするのである。 従って権利義務などの平等関係、均等関係でなく一体不二、相互に協力と感謝によって喜 悦を同じくするような有機的に不可分の結合をなすことを意味するのである。

 同じ例は「満洲国」における「五族協和」にも見られる。この場合の協和とは、五つの民族 がそれぞれ対等な国民として協力するのではなく、指導民族の日本人の下に、朝鮮族、満洲族、 蒙古族、漢族の順位が定められ、それをふまえた上での協和であった。
 一視同仁、内鮮一体を唱えながら、朝鮮民族を同時代の「満洲国」においては第二民族とし て位置づけたという事実が、一視同仁、内鮮一体の矛盾を語っている。
 スローガンとは政治の言葉であるという一面は、否定できないが、しかし過去に日本人がか かげた理想と実際の乖離を知る人々は、それを忘れることができるだろうか。戦時中の問題が、 いまだに(うず)み火のようにアジアの人々の心から消えないのは、 日本人が過去に用いた言葉にたいする不信に根ざすところが大きいからであろう。
 そして問題は、同じことが日本人の中から消えつつある、あるいは敢えて忘れられつつある ことであり、と同時にこれらの言葉と意識を支えた特異な歴史観が、完全に過去のものとして 葬られていないという点にある。昨今、私たちの国の教科書問題といえば「歴史」教科書であ った。問題は「歴史」教科書以外にはないかのようであった。しかし、その歴史観を違和感な く受け入れるための初等教育の過程もまた、問われなければならないと思う。
 かりにアジアの人々が問わなくても、自ら問いつづけなければならないことのひとつと思う。 またいつの日か別種の大義名分による大号令にからめとられないためにも……。
223 国民学校の教科書より(11)
消えた西欧世界
2005年3月26日(土)


 「第217回」(3月20日)で書いたように大日本帝国は朝鮮や台湾で日本語使用の強制を行ってい ます。引用してきた教材では「第216回」の<支那の春>、「第219回」の<晴れたる山>にその政 策の一端がうかがえます。
 さらに日本語を「大東亜共栄圏語」の共通語とする構想がありました。「神の国」から引用します。
 1942年、「満洲国」政府文教部が建国十周年を記念して主催した東亜教育大会の言語教 育部門でも、大東亜共栄圏の共通語を日本語とすることを前提として、その実施にともなう問 題が討議されている。しかし一貫して「わが国語には、祖先以来の感情・精神がとけ込んでお り」「国語を忘れた国民は、国民ではないとさえいわれている。国語を尊べ。国語を愛せよ。 国語こそは、国民の魂の宿るところである」(『初等科国語八』「国語の力」)というような文部省の 精神論のまえには、歴史仮名遣い、送り仮名、たとえば五日をイツカ、十五日をジュウゴニチ、 二十日をハツカと読みわける発音上の問題など異民族にたいする日本語教育の難点を指摘し、 日本語の合理化こそが大東亜共栄圏の共通語としての日本語の利益、という現場のベテラン教 師たちの提言は単なる提言として終わった。
(中略)
 このような言語についての認識 ― 日本語をつかうのが日本人だ、という発想は、当然日本 人が使用している外来語へもはねかえる。つまり外来語をつかうこと自体が非国民である、と  いう発想に短絡したとしても不思議ではない。

 この「外来語をつかうこと自体が非国民」という発想は、まず外来語として定着している英語 を敵性言語として禁止して日本語に言い換えさせるという政府通達となって現れます。そして敵 国音楽の禁止・野球用語などの言い換え・芸能人の外国名の改名命令などなど、狂気の域にまで エスカレートしていきます。この狂気の様子は稿を改めて詳しくたどって見る予定です。「美し い日本語」という掛け声がかしましくなってきている今、決して無駄なことではないと思います。

 さて、「外来語をつかうこと自体が非国民」という発想は国定教科書にはどのように反映されたので しょうか。「神の国」の記事を要約します。

 「音楽では音階呼称をドレ、、、ファソラシドからハニホへトイロハに切替え、小学唱歌とし て親しまれたスコットランド民謡やアイルランド民謡のメロディーを抹消」します。
 国語、修身の教科書からは同盟国のドイツ・イタリアも含めて西欧の地名が消えています。それば かりか満州などの占領地を除いて中国地名も抹消されています。「満洲国」と「大東亜共栄圏」内の 占領地だけという狭い世界に引きこもってしまった様相です。
 人名の方で五期の教科書にひきつがれたのは、ジェンナー、ガリレオ、ベートーベンのわずか 三人ということです。その3人についても、「ガリレオはイタリア、ベートーベンはドイツと国籍を 明記しているが、イギリス人であるジェンナーについては『ジェンナーという人がありました』とし て、その国籍を明記することを避けている。」という病的な神経の使い方をしています。
 そして、外国人として新たに教科書に登場したのは無名の3人を除けば、「満洲国」皇帝・愛新 覚羅薄儀ただ一人です。

 ここで山中さんが「初等科国語・八」(6年後期)から書き出した3編のうちのあとの2編を紹介す ることになります。その2編は「神の国」でも取り上げていて解説をしていますので、それも合わせて 掲載します。

<シンガポール陥落の夜>

この夜、 満洲国皇帝陛下は、 大本営の歴史的な発表を聞し召し、 やをら御起立、 御用掛吉岡少将に、 「吉岡、おまへもいっしょに、  日本の宮城を遥拝しよう。」 と仰せられ、 うやうやしく最敬礼をあそばされた。 御感涙の光るのさへ拝せられた。 更に、皇帝陛下は南方へ向かはせられ、 皇軍の将兵、戦歿の勇士に、 しばし祈念を捧げたまうた。 深更を過ぎて、 お電話があり、 吉岡少将がふたたび参進すると、 「吉岡、今夜、おまえはねられるか。  今、日本皇室に対し奉り、  慶祝の親電を、  書き終ったところである。  あす朝早く、  打電の手続きをしてもらひたい。」 と、陛下は仰せられた。 この夜、 陛下のおやすみになったのは、 午前二時とうけたまはる。 あけて二月十六日、 寒風はだへをさす満洲のあした、 皇帝陛下は、 建国神廟に御参進、 天照大神の大前に、 御心ゆくまで御拝をあそばされた。

 「シンガポール陥落という緒戦のもっとも輝かしい戦果と、二度にわたる訪日で知名度の高い 皇帝薄儀の日本皇室への忠誠とをむすびつけた巧妙なプロパガンダである。」

<もののふの情>(抄)

野戦病院にて
昭和十七年二月十九日、わが陸軍の精鋭は、ジャワのバリ島を奇襲し、その上陸に成功した。
 バリ島の敵の野戦病院には、アメリカの航空将校が、白い寝床の上に横たはってゐた。顔から腕、 腕から胸へかけて焼けただれ、視力もほとんど失はれてゐた。かれは、アメリカから濠洲へ派遣さ れた四十名の航空将校の一人で、わがジャワ攻略に先立ち、濠洲からジャワのバンドンへ移り、偵 察隊として出動の途中、この島に不時着して負傷したのであった。
 病院がわが軍に占領されたことを知った時、この将校は、恐怖と失望とでがっかリしたやうすで あった。しかしー日、二日とたつうちに、その気持ちはだんだんなくなって行った。
 上半身にやけどをした敵の将校は、夜となく昼となく、しきりに苦痛をうったへた。目が見えな い上に、手の自由もきかない。食事は子どものやうに一々たべさせ、繃帯は日に何回となく取り代 へ、傷の手当てをていねいにしてやることは、並みたいていのことではなかった。しかし、二人の わが衛生兵は、代る代る徹夜して、心からしんせつに看護してやった。
 椰子の葉越しに、窓から月の光が美しくさし込む夜であった。この敵の将校は、寝床の上に半身 を起して、さめざめと泣いてゐた。英語の少し話せる衛生兵の一人が、片言の英語で慰めてやると、
 「私の今の身の上を悲しんで泣いてゐるのではありません。あなたがたが、私に示されたしんせつ と、あなたがた同志の友情のうるはしさに、しみじみ感じて泣いてゐるのです。かうした温い心は、 アメリカの軍隊には決してありません。私は、日本の軍隊がつくづくうらやましくてならないので す。」
 といって、二人の衛生兵の手を、自由のきかない両方の手で、堅く握った。


 「残る無名の三人の一人は日本軍の捕虜となった米兵である。角度を変えて、敵兵のロをかりての 日本軍の称賛である。しかしその彼は『架空』というニュアンスにかぎりなく近い無名のアメリ カ人であり、『つくづく』という形容もすでに何箇所かでふれてきた『しみじみ』同種の、この教 科書が用いるみえすいた感情移入の同義語に他ならない。」
222 国民学校の教科書より(10)
御民われ生けるしるしあり
2005年3月25日(金)


 山中さんは「初等科国語・八」(6年後期)からは3篇書き出しています。みな有名?なものらしいの で3篇とも掲載しようと思います。
 教材はそれぞれ、フィリッピン、シンガポール、ジャワでの戦闘を素材としています。 それぞれの教材を読む前に、この一連の戦闘の呼称についての山中さんの意見を聞いておこうと 思います。

 1931年の満州事変からをひと続きの戦争と見て、「昭和の15年戦争」と呼ぶことがあります。 私のあやしげな記憶によると、この呼称は小田実さんの提唱でした?
 一般には1941年12月8日の「宣戦の大詔」を以って開戦として「太平洋戦争」と呼んでいます。 しかし当時の日本ではそれを「大東亜戦争」と呼んでいました。「太平洋戦争」という呼称は 「昭和の15年戦争」と同じように戦後の歴史記述の過程で作られたものだと私は思っていましたが、 そうではないようです。その辺の事情も含めて山中さんの記述を読んでみます。
 ところで今日では一般的に「太平洋戦争」と呼ばれているこの戦争の呼称について、海軍が最初 「太平洋戦争」を主張したが、陸軍は単に太平洋海域だけの問題ではないし、大東亜共栄圏確立に端 を発する戦争ということで「大東亜戦争」を主張し、結局は陸軍側の主張が通り12月12日、つぎ のように発令された。
 内閣陸甲第九十六号(昭和十六年一二月一二日、文部次官宛、内閣書記官長)
 今次戦争ノ呼称並二平戦時ノ分界時期等二関スル件
標記ノ件本日別紙ノ通閣議決定相成侯条為念此段及通牒候
 今次戦争ノ呼称竝二平戦時ノ分界時期等二付テ
一、今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移二伴ヒ生起スルコトアルへキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜 戦争卜呼称ス
二、給与、刑法等二関スル平時、戦時ノ分界時期ハ昭和十六年十二月八日午前一時三十分トス
三、帝国領土(南洋群島委任統治区域ヲ除ク)ハ差当り戦地卜指定スルコトナシ
  但シ帝国領土二在リテハ第二号二関スル個々ノ問題二付其地ノ状態ヲ考慮シ戦地並二取扱フモノトス

 はっきり言って、この戦争は『大東亜戦争』として戦われたのであって、〈THE PACIFIC WAR〉というア メリカ製の呼称で戦われたのではない。多分、アメリカ人は『太平洋戦争』という名で戦争したのだろう が、ぼくらは「太平洋戦争」のために〈皇国民ノ錬成〉を強いられたのではない。「大東亜戦争」が聖戦 であるという観念のもとに、またそれ故に、あのファナチックな教科書を学び、教師の暴力を当然の 錬成として耐えたのである。その意味で『大東亜戦争』という呼称にこだわりたいような気がする。 「太平洋戦争」という言い方で、歴史的年表の事項として客観的に処理されてしまうには、あまりに も口惜しいと思う。しかし一般的には 「大東亜戦争」 の名称を使用しているものは、例えば林房 雄の「大東亜戦争肯定論」といったような、いわばぼくたちにとっては、何としても連帯しかねるよ うなものが多い。
(中略)
全く逆の立場で『大東亜戦争』という呼称を、ぼく自身の中に存続させたいと思うのである。 「太平洋戦争」というのは、アメリカが日本に不意打ちを食わされ、受けて立ち、勝利した戦争なので ある。「大東亜戦争」というのは、日本が積極的に仕掛け、その名で日本が戦い敗れた戦争なのである。 そして「太平洋戦争」は1941年12月7日午前7時55分、アメリカ合衆国領土ハワイで開始された戦 争であり、「大東亜戦争」は昭和16年12月8日、「未明西太平洋に於て」開始された戦争なのである。

 侵略戦争を聖戦と言い紛らわして行われた「少国民練成」の暴虐をもろに受けた世代の人のこだわり がよく分かります。侵略戦争を「八紘一宇」の聖戦と言い紛らわして行われた「大東亜戦争」の呼称を 欺瞞的な呼称として批判的に使うことを私もうべないます。今アメリカが手前味噌な自由と民主主義を イラク人民を殺戮しながらイラクに押し付けているのと同じで、「八紘一宇」の聖戦などアジアの国々にとっては余計なお世話だっ たに違いありません。

 さて、山中さんによれば、1941年12月8日の開戦の臨時ニュース以来国民はラジオの前に釘づけに なったといいます。そして山中さんは12月8日以降の臨時ニュースを次のように拾い出しています。
12月10日(午前2時放送)フイリッピンに敵前上陸を敢行。(午後4時20分放送)海軍機、マレー半島 東岸クワンタン沖に於いて英東洋艦隊の主力、戦艦プリンス・オブ・ウェルズを撃沈、戦艦レパルス を轟沈。両艦とも世界最強の不沈海城、海の要塞と称せられていた。(午後7時放送)ハワイ海戦の海 軍に偉功嘉尚の勅語下賜。

12月11日(午後4時放送)マニラ方面にて米空軍の大半81以上を撃墜破。

12月12日(午後7時放送)今時戦争の呼称を「大東亜戦争」とする。(午後9時放送)マレー沖海戦の 偉功に勅語下賜。

12月13日(午前9時放送)陸軍、九龍半島攻略。12月14日(午後1半放送)陸軍機、ビルマ敵飛行場 大空襲。(午後4時放送)マレー方面陸軍、英軍機械化1師団を撃滅。

12月15日(午後2時放送)陸軍機、フィリッピン=デルカルメンその他の飛行場を急襲。同じくマレー、 ペナン方面のアエルタワル、イボー飛行場を急襲。

12月16日(午後2時20分放送)陸海軍部隊協同で烈風(風速20メートル)を衝き英領ボルネオに敵前上陸。

12月17日(午後4時放送)海軍、香港で敵艦艇7隻撃沈。

12月18日(午後3時45分放送)ハワイ海戦の綜合戦果。初めて「特別攻撃隊」登場。我が方の損害、飛行 機29、未だ帰還せざる特殊潜航艇5。

12月19日(午後2時放送)陸軍、香港島に上陸猛攻を展開中。

12月20日(午後1時放送)海軍機、デルモンテを急襲。(午後6時放送)陸軍、ミンダナオ島に上陸。

12月21日 海軍、開戦以来敵潜水艦9隻を撃沈。

12月22日 ルソン島新方面に上陸開始。

12月23日(午後6時放送)ダバオ完全占領。

12月24日(午前11時半放送)ウエーキ島に敵前上陸、完全占領。

12月25日(午後9時54分放送)香港島の英軍降伏。

12月26日(午後2時放送)陸軍機、第三次ラングーン空襲、敵機40機撃墜。


 これらのニュースの内容の信憑性の問題はともかくとして、緒戦の捷報は日本国民を徹底的に 酔っぱらわせ、真実、日本は神の国であり、日本軍は神兵であると思いこませることにかなり効 果的であった。

 斯くして運命の1941年は興奮のうちに終るのだが、ぼくらはその運命の12月8日にめぐりあえたこ とを幸せに思えと、くり返し教えこまれた。

  御民われ生けるしるしあり天地の
      栄ゆる時にあへらく思へば

 その日が12月8日であるというのであった。

 さて、「初等科国語・八」(6年後期)からの教材の一つを掲載します。上記の臨時ニュースに 「12月23日(午後6時放送)ダバオ完全占領。」とあります。その「ダバオ」です。

<ダバオヘ>

ダバオヘ、ダバオヘ。
 一万八千名の在留邦人を、一刻も早く救ひ出したいと、北方から疾風のやうに、皇軍はダバオをめ ざして押し寄せた。
 武装した兵士を満載したトラックが、ダバオ市内に突入して、町の十字路にさしかかると、梶棒を 持った二三人の男がとび出して来た。
 「萬歳、萬歳。」
 シャツもズボンも破れて、泥だらけだ。足も手も顔も、ほこりにまみれ、目だけが異様に光ってゐる。
 「日本人か。」
 トラックの上から勇士がどなった。もちろん日本人であった。その人々の顔には、感激の涙がとめどな く流れた。さうして、声をふるはしながら、
 「ありがたうございました。」
 と、何べんもくり返すのであった。
 「日本人は、みんな無事ですか。どこにゐますか。」
 と、トラックの上の兵士たちは口々にたづねた。
 「みんな無事で、学校に監禁されてゐます。」  といふ答へを聞くが早いか、トラックは、市の中央部へ突き進んで行った。  ダバオ攻撃部隊は、ダバオ州政庁・市役所・裁判所・電話局などの要所をまたたく間に占領して、 屋上高く日章旗をかかげた。  兵士を載せたトラックが、帝国領事館の横へ来ると、そばの学校から、黒山のやうな邦人の群が、 わあっとなだれを打って道路へ押し出して来た。大東亜戦争開始以来、この学校に監禁されてゐた 約八千の邦人が、皇軍の入場を知って、狂喜してこれを迎へたのであった。
 トラックの上の兵士たちは、高く手を振って挨拶しながら、敵を急追してフィリピン中学校附近 まで前進した。すると、今までしんと静まり返って死んだやうになってゐた校舎の中から、どっと ばかりに四千名の邦人が出て来た。校庭は、「萬歳、萬歳。」の声で埋った。
 トラックは、校庭の中央に止った。
 部隊長は、トラックの上に立ちあがって、やさしい、いたはりの心のこもったことばで訓示を した。人々の中からは、かすかにすすり泣きの声がもれた。
 部隊長の訓示が終ると、林のやうに静かになってゐた邦人の間から、厳かに君が代の合唱が起った。 不動の姿勢をしたトラックの上の勇士も、校庭に居並ぶ邦人も、頬を伝ふ涙を払ひもせず、泣きなが ら歌ひ、歌ひながら泣いた。
221 国民学校の教科書より(9)
「ゆかしい心」が「御民われ」を育てる?
2005年3月24日(木)


 今回は「初等科国語・七」(6年前期)です。山中さんは軍事教材「ゆかしい心」と 国体観念教材「御民われ」を書き出しています。
<ゆかしい心>

  長唄
 第一線のある夜のことであった。  ラジオを敵の陣地へ放送する宣伝班員は、ざんがうの暗がりの中で、拡声器の点検をしてゐた。
 そのうち偶然にも、東京放送局からの電波がはいって来た。長唄の調べである。
 「フィリピンのざんがうの中で、日本の長唄を聞くなんて、うれしいことだね。」
と、みんなはにこにこしながら、長唄の音に耳を傾けてゐた。

  猫
 澄みきった大空のもとに、ナチブ山が青々とそびえてゐる。
 ナチブ山の項には敵の砲兵観測所があるが、山全体が熱帯の森林におほはれてゐるので、 飛行機からの偵察でもはっきりわからない。まして平原にある友軍陣地からは、それがどの 辺にあるか、ほとんど見当がつかない。
 バランガへ通じる白い道は、その観測所から手に取るやうに見えるので、わが軍の貨物自 動車は、一台一台正確な射撃にみまはれる。しかし、この道以外に部隊の進撃路はないので、 どうしてもこの難関を突破しなければならない。  トラックや戦車は、全部木かげにかくして、敵の砲撃の目標になることを避けてゐる。
 みかたの砲兵は、畠の中へずらりと放列をしいて、ナチブ山の頂をにらんでゐる。
 このはりつめた第一線の陣の中で、ふと猫の鳴き声を耳にした。こんなところに猫がゐるはず はないと思って、あたりを見まはすと、かたはらの貨物自動車の上に、三毛猫がうずくまってゐる。 兵隊さんが、どこからかつれて来て、かはいがってゐる猫であった。

  俳 句
 第一線に近い宿営に、待機してゐた時のことであった。すぐ隣りの宿営にゐた一人の兵隊さんが、 俳句を作ったから見てくれといって、夜中にやって来た。
 夜、灯火を用ひることは堅く禁じられてゐるので、窓から流れ込む空の明かるさで、兵隊さんの 顔もやっとわかるほどであった。兵隊さんがさし出す紙切れを手に取って、一字一字薄あかりにすか しながら読んだ。

 弾の下草もえ出づる土嚢かな
 密林をきり開いては進む雲の峯

といふ二句であった。  四十近いこの兵隊さんは、前線への出発を明日に控へながら、その前夜、自作の俳句を読んでくれ と、わざわざやって来たのである。「陣中新聞に発表してはどうですか。」とすすめると、  「いや、そんな気持はありません。」と答へた。
 「あなたの名前は。」とたづねても、だまったまま笑ってゐた。
 兵隊さんは、俳句を読んでもらった満足を感謝のことばに表して、部屋から出て行った。

 この教材は子どもたちにどんなメッセジーを届けようとしているのでしょうか。皇軍の兵隊は死と 隣り合わせの最前線でも心にゆとりがあり、それが皇軍の強さの秘密だとでも言いたいのでしょうか。 あるいは戦場の残虐さ・悲惨さ・飢えや死の恐怖などを隠蔽したまま、軍隊生活もけっこう 充実した楽しいものですよとでも言いたいのでしょうか。
<御民われ>

 御民われ生けるしるしあり天地の栄ゆる時にあへらく思へば
 天地の栄えるこの大御代に生まれ合はせたのを思ふと、一臣民である自分も、しみじみと 生きがひを感じるとよんでゐます。その大きな、力強い調子に、古代のわが国民の素朴な喜 びがみなぎつてゐます。昭和の聖代に生をうけた私たちは、この歌を口ずさんで、更に新し い喜びを感じるのであります。

 ひさかたの光のどけき春の日にしづこころなく花の散るらん
 のどかな春の日の光の中に、あわただしく散って行く桜の花をよんだ歌で、優美の極みで あります。平安時代の大宮人たちは、かうした心持を心ゆくまで味はって、都の春を楽しん だのでした。

 箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよる見ゆ
 源実朝は、鎌倉時代のすぐれた歌人でありました。箱根山から伊豆山へ越えて行くと、向か ふの沖の初島に、白い波が打ち寄せてゐるのが見えるといふ、絵のやうな歌です。

 敷島のやまとごころを人とはば朝日ににほふやまざくら花
 さしのぼる朝日の光に輝いて、らんまんと咲きにほふ山桜の花は、いかにもわがやまと魂 をよく表してゐます。本居宣長は、江戸時代の有名な学者で、古事記伝を大成して、わが国 民精神の発揚につとめました。まことにこの人にふさわしい歌であります。

 ひとつもて君を祝はんひとつもて親を祝はんふたもとある松
 明治時代の学者であり、歌人であった落合直文が、元旦に門松をよんだ歌です。二本の門松 のうち、その一本を以て聖寿の萬歳を祝し奉り、その一本を以て親の長寿を祈らうといふ意味 で、新年に持つわれわれ日本人の心持が、すらすらと品よくよみ出されてゐます。私たちはこ の歌を声高く読んで、その何ともいへないほがらかな、つつましい心を味はひたいものです。

 なんとも平板で、しかも押し付けがましいつまらない解説です。特に最後の歌などは「声高 く読」む気になど全くなれないつまらない駄作です。
 最初の万葉集の歌は、山中さんがその初句を著書の題名に取っています。少国民たちは どのようなことに「生けるしるし」を感じとったのでしょうか。これは次回に触れること になります。
 また、この歌はメロディーが付けられて唱歌になっています。その楽譜がありますので、 座興に紹介します。

御民われ


 実朝の歌については、これも寄り道ですが、安西均さんの詩を紹介します。上記の歌と

大海の磯もとどろによする波われてくだけて裂けて散るかも

の二首を素材にしています。
 自らの運命までもが見えてしまう実朝の孤独で悲劇的な澄んだ心にまで思いをはせています。 私の好きな詩の一つです。


 実朝

その目は煙らない
その目は寂しい沖にとどく
遙かなる実存の小島へ
その目は ずい! と接近する
それから島のまわりで
波が音もなくよろめいているのを
その目はズームレンズのように見る
その目は鹹い永劫が
しなやかにうねり
割れ
砕け
裂け
散ってしまうところまで細かく見る
その目はいつも涙に磨かれている
その目はなんでも見えすぎるために憂愁の光がともる
だから その目は雪の階段にひそむ暗殺者の
後ろ手に隠した白刃まで見ていなければならなかった。
220 国民学校の教科書より(8)
女子向け軍事教材
2005年3月23日(水)


 山中さんは「初等科国語・六」(5年後期)から詩「姿なき入城」と散文「病院船(抄)」を書き出 しています。どちらも女子向けの軍事教材です。女子向け軍事教材は5年・6年に集中します。 このことを入江さんが「神の国」で次のように解説しています。
 皇国民の錬成をかかげた国民学校の目的が、君国のために命を捧げる兵士の錬成である以上、 教育は低学年から男子上位で進められ、忠義をつくすことができるのは軍人となれる男子だけ であるかの観があった。しかし女子もまた同一の教科書によって「忠君愛国」 の精神は十分 に刷り込まれている。むしろ「大きくなったら大将になる」といえない分だけ、疎外感を抱かさ れ、あるいは男尊女卑の封建的価値観をうけいれた女子もまた少なくなかった。
 しかし五学年になって、教科書は女子にも「すめろぎにつかえまつれと男子を生む母」に なることによって「お国の役にたつ」道を示してみせたのである。
 そろそろ初潮をむかえ、「生む性」としての役割を意識せざるをえない十一歳から十二歳 ―  五年後には、民法がさだめた結婚年齢に達する女子児童は、軍国の母の予備軍と目されて も不足ない年齢といえる。
 その女子教育は、第一に、男子を生み育て、軍人として天皇とその国家に捧げることを無上 の光栄とする母性の賛美から始まった。

   母こそは、命のいずみ。いとし子を胸にいだきて
   ほほ笑めり、若やかに。うるわしきかな 母の姿。
 母こそは、み国の力。おのこらをいくさの庭に
   遠くやり 心勇む。おおしきかな 母の姿。
(『初等科音楽三』「母の歌」)
 (中略)
 徴兵制度が憲法で定められていた当時、国家が教育すべき「日本の母」としての心得は、わが子を君 国に捧げた()にあったのである。

 すなわち「日本の母」は「わが子を君国に捧げた後」次のようでなければならなっかたのです。 (ちなみに引用文中の「母の歌」の作詞者は野上弥生子です。)

<姿なき入城>

いとし子よ、
ラングーンは落ちたり。
いざ、汝も
勇ましく入城せよ、
姿なく、
声なき汝なれども。

昭和十六年十二月、
ラングーン第一回の爆撃に、
汝は、別動隊編隊機長として、
近郊ミンガラドン飛行場にせまり、
敵スピットファイヤー二十数機と、
空中戦はなばなしく、
陸鷲は、その十六機をほふれり。
更にラングーンの上空に現れ、
巨弾を投じたる一瞬、
敵高射砲弾は、
汝が愛機の胴体を貫ぬきつ。

機は、たちまちほのほを吐き、
翼は、空中分解を始めぬ。
汝、にっこりとして天蓋を押し開き、
仁王立ちとなって僚機に別れを告げ、
「天皇陛下萬歳。」を奉唱、
若き血潮に、
大空の積乱雲をいろどりぬ。
それより七十六日、
汝は、母の心に生きて、
今日の入城を待てり。
今し、母は斎壇をしつらへ、
日の丸の小旗二もとをかかげつ。
一もとは、すでになき汝の部隊長機へ
一もとは、汝の愛機へ。
いざ、親鷲を先頭に、
続け、若鷲。
ラングーンに花と散りにし汝に、
見せばやと思ふ今日の御旗ぞ。

いとし子よ、
汝、ますらをなれば、
大君の御楯と起ちて、
たくましく、
ををしく生きぬ。
いざ、今日よりは
母のふところに帰りて、
安らかに眠れ、
幼かりし時
わが乳房にすがりて、
すやすやと眠りしごとく。


 この女子向け軍事教材の思想的背景を入江さんは、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」の 思想と対比して解説しています。
 「君死にたまふことなかれ」と「神の国」からの引用文とを続けて掲載します。

  君死にたまふことなかれ
     旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて

あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
未に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。

堺の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ、
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり。

君死にたまふことなかれ、
すめらみことは、戦ひに
おほみづからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
獣の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思されむ。

あゝをとうとよ、戦ひに
君死にたまふことなかれ、
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは、
なげきの中に、いたましく
わが子を召され、家を守り、
安しと聞ける大御代も
母のしら髪はまさりぬる。

暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を、
君わするるや、思へるや、
十月も添はでわかれたる
少女ごころを恩ひみよ、
この世ひとりの君ならで
あゝまた誰をたのむべき、
君死にたまふことなかれ。

 日露戦争のさなか、与謝野晶子は「君死に給うことなかれ」という魂の叫びを残した。人の 道、人の教えに視点をすえ、君と親とを、忠と孝とを鋭く対立させた。
 しかし日本の学校教育は「忠孝一本」という独自の思想を説いて、戦闘で人を殺し人に殺さ れることの是非はもとより、「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」 という儒教的矛盾から児童を「解放」した。
 五期の指針をさだめた例の『国体の本義』では、この点を次のように述べている。
 「支那の如きも孝道を重んじて、孝は百行の本といい、又印度に於ても父母の恩を説いてい るが、その孝道は、国に連なり、国を基とするものではない。孝は東洋道徳の特色であるが、 それが更に忠と一つとなるところに、我が国の道徳の特色があり、世界にその類例を見ないも のとなっている。従ってこの根本の要点を失ったものは、我が国の孝道ではあり得ない」とし、 さらに「すめろぎにつかえまつれと我を生みし我が垂乳根(たらちね) は尊くありけり」の歌を引き、「孝 が忠に高められて、始めてまことの孝となることを示すもの」「まことに忠孝一本は、我が国 体の精華であって、国民道徳の要諦である」と断言する。
 端的にいえば、易姓革命を説く儒教では、孝は君主にたいする忠と矛盾する。孔子も、「親 は取り替えられないが、天子君主は取り替えられる」と教える。儒教のこの思想にたいし、天 照大神の神勅と称する口承を唯一無二の国是として、日本は神の血をうけた天皇が統治するこ と、君臣の身分は生まれながらに永遠に定まっていることを強調し、われわれは先祖代々大君 に忠義をつくしてきた、という仮定のもとに、その先祖の志をつぐのが子孫としての孝行であ るという「忠孝一本」という道徳を創出し、時代のキーワードとした。
 国民学校教育では、天子君主は人民の父母に等しいから、君に忠をつくすのは親に孝をつく すのに等しく、忠孝は根本的に矛盾しない、と説く。
 しかしこれはあくまでも論であって、戦時下においては戦場に駆り出される兵士の生命をめ ぐって君と親との間に葛藤が生じることは、与謝野晶子の詩をひくまでもなくむしろ当然とい わねばならない。この間題を親 ― とくに兵士を生み育てる母の問題としてとりあげたのが五 学年、六学年に集中する一連の女子向けの教材である。
219 国民学校の教科書より(7)
憲法前文中曽根試案の愚劣さ
2005年3月22日(火)


 山中さんは「初等科国語・五」(5年前期)からは詩・短歌・俳句を書き出しています。 また、山中さんは全ての教材について国体観念教材・軍事教材・共栄圏教材・情操教材・ 生産教材などの分類を示していますが、詩「大八州」は国体観念教材に、短歌「晴たる山」と 俳句「動員」は軍事教材に分類しています。

<大八洲>

この国を 神生みたまひ、
この国を 神しろしめし、
この国を 神まもります。

島々 かず多ければ、
大いなる 島八つあれば、
国の名は 大八洲国。

巌として 東海にあり。
日の出づる 国にしあれば、
日の本と ほめたたへたり。

島なれば 山うるはしく、
島なれば 海めぐらせり、
山の幸 海幸多く。

海原に 敷島の国、
青山に こもる大和、
春秋の ながめつきせず。

大神(おおみかみ) 授けたまひし、
稲の穂の そよぐかぎりは、
あし原の 中つ国なり。

黒潮の たぎるただなか、
大船の 通ひもしげく、
浦安の 国ぞこの国。

浦安の 安らかにして、
天地と きはみはあらず、
細戈 千足(くはしほこ ちたる)の国は。

<晴れたる山>
すがやかに晴れたる山をあふぎつつわれ御軍の一人となりぬ

父母の国よさらばと手を振ればまなぶた熱しますら男の子も

あふぎ見るマストの上をゆるやかに流るる雲は白く光れり

江南のしらじら明けを攻め進むすめら御軍うしほのごとし

蘇州までさへぎる山も岡もなしはるばるとかすみ水牛あゆむ

わらべらはちひさき笑顔ならべつつ兵に唱歌ををそはりてゐる

白々とあんずの花の咲き出でて今年も春の日ざしとなりぬ

<動員>
動員の第一夜なり明けやすき

秋晴れや旗艦にあがる信号旗

敵前に上陸すなり秋の雨

突撃を待つ草むらに虫すだく

敵遠し月の広野のはてしなく

幾山河愛馬と越えて月の秋

地図を見る外套をもて灯をかばひ

 「大八州」はいわゆる五七調で万葉集の長歌を擬しています。あれもこれもとだらだら継ぎはぎした 空疎な駄作です。内容も空疎なら形式も杜撰です。
 「この国を 神まもります。」と不用意に現代語が混じったりもしています。「巌として  東海にあり。」と漢語も混じります。このようにこの詩は変てこな日本語の見本市のような詩ですが、 「青山に こもる大和、」がその最たるものでしょうか。万葉集には美しい言葉が満ち満ちていますが、 この詩のような言葉は「美しい日本語」とは程遠いものです。
 さらに五七の音数律のまま唐突に終わりますが、五七はどこまでも続く音数律です。長歌は五七で終わるこ とはありません。この詩は知ったかぶりの時流迎合知識人の作ではないでしょうか。

 ずぶの素人にもかかわらずあれやこれや言い立てましたが、私も知ったかぶりの間違いを 犯しているかもしれません。しかしこの詩は、少なくとも私には何の感動もわかない詩もどきです。こん なしろものに陶然とする者もいるのが不思議です。昨今「美しい日本語」を言い立てている連中の 「美しい日本語」とはこの程度ではないでしょうか。

 「大八州」を読んで思い出したことがあります。先般発表された自民党の改憲案のうちの 中曽根による「前文」案です。次のような書きだしです。

 我ら日本国民はアジアの東、太平洋の波洗う美しい北東アジアの島々に歴代相承け、天皇を国民統合 の象徴として戴き、独自の文化と固有の民族生活を形成し発展してきた。


 虚偽と迷妄に満ちた文章ですが、今はそれは置きます。その根底にあるイデオロギー(虚偽意識)が 上の詩と全く同じであることを指摘したいのです。この前文案を書きながら中曽根の未成熟な心はさぞかし 高揚し、かつ得意になっていたことでしょう。
 こんな愚劣な前文をもつ憲法は憲法の名に値しません。

 私には政治家に対する抜きがたい不信があります。彼らが言う事にはあきれるか腹を立てるか ばかりで感心することなどほとんどありません。しかしたまには例外があります。
 3月8日付朝日新聞の「政態拝見」という欄で「党憲法調査会長で、政界の憲法論議をひっぱる 一人」だという民主党の枝野幸男という政治家の憲法についての意見を紹介しています。
 憲法は、あらゆることを決めているわけではない。ここに、多くの人の勘違いがある。憲法は 政治の枠組みを決めているだけである。どの党が政権をとっても従うべき「公権力行使のルール」 であり、共通の土俵である。

 自民党の改憲論は、土俵作りにあきたらず、相撲も取ろうとしている、そこをごっちゃにし ている。

 例えば、「国家目標」は政権によって異なる。憲法に書く話ではない。「愛国心」や「民族 の誇り」は、お望みならば法律に書けばいい話である。

 そしてこれに対して担当の根本清樹記者(企画報道部)は次のように述べています。
 この食い違いが正されないかぎり、改憲は実現しないだろうと枝野氏は見る。
 土俵と相撲の仕分け論には、異論もあるだろう。9条にまつわる問題を、この論法でどう仕 分けるかは、なかなか難しい。
 しかし「教育や家庭の荒廃」にはじまって、なんでもかんでも憲法のせいにしたがる論調へ の解熱剤としては、効き目があるかもしれない。
 「いまの憲法では、国民は夢も希望もない」。こんな議論が幅をきかせている。一人ひとり に夢や希望を与えるのは、政治家の務めかもしれないが、憲法のお仕事ではない。
 中曽根はじめ憲法改定で舞い上がっている連中がじっくり味わい考えるべき一つの見識だと 思います。
218 国民学校の教科書より(6)
詩・短歌・俳句
2005年3月21日(月)


 山中さんは「初等科国語・四」(4年後期)からは詩を2編書き出しています。 その中から1編を紹介します。

 <観艦式>

朝もやが晴れて行く
海 ― 見わたすかぎり、
くっきりと、 堂々と、
帝国の艦艇、 おお、 その雄姿。

第一列から 第五列まで、
旗艦長門以下百数十隻、
さんさんと秋の日をあび、
今日、 おごそかに観艦式。

皇礼砲二十一発、
御召艦比叡は進む、
巡洋艦高雄を先導に、
加古・古鷹をうしろに従へて。

マストに仰ぐ
天皇旗、ああ、天皇旗。
すべての艦艇は うやうやしく、
登舷礼、君が代のラッパ。

大空の一角に、
飛行機の爆音、
たちまち数百機が、
空をおほうて分列式、分列式。

御召艦ははるばると、
艦列をぬって進む。
青空ははてもなく澄み
秋風はさわやかに海をわたる。

軍国少国民に仕立て上げられつつある国民学校4年生にはそれなりの高揚した感動を与える 出来になっています。私はこれを書き写しながら、これと同じような調子の詩を読んだこと があるとに思いました。
 見つけました。

 世界地図を見つめてゐると
世界地図を見つめてゐると
黒潮はわが胸に高鳴り
大洋は眼前にひろがり
わが少年の日の夢が蘇ってくる
われ海に生き海に死なんと
海軍兵学校を志願し
近視の宣告で空しくやぶれ去った
わが少年の日の夢が ―
万里 波涛を蹴り
わが鋼の艦は行く。
夜を日につぎ
われら民族の血と運命を賭けて
海の闘ひは陸の闘ひにつづく。
わが少年の日の夢が
新しい世紀を創る、刻々の
壮烈な現実となってかへってきた。―
(吉本隆明「叙情の論理」所収「前世代の詩人たち」より)

 教科書掲載の詩の第二連として置いても違和感はないと思います。この二つの詩の作者は もしかすると同一人物ではないかと、私は疑っていなす。最もこの種の詩はステレオタイプ にしか成りようがなく、誰が書いても似たようなものになってしまうのかもしれません。
 後者の詩人は岡本潤です。アナーキスト詩人が戦意高揚詩人になり、戦後はプロレタリア 詩人になりすまします。
 私はたまたま岡本潤の詩を思い出したので、岡本潤個人を貶めようとしているのではありません。 こうした精神的退廃は岡本潤だけの問題ではありません。大方の知識人と呼ばれる者たちが同じよ うな軌跡をたどっているのです。教育学者たち・教師たちも例外ではありません。いつかそれにも 触れようと思っています。
 どうしてそうなってしまうのかは検証すべき課題です。もちろん私にそんな力量はありませんし、 すでに若き日の吉本隆明さんが見事な分析をしています。それを引用します。同じく「前世代の詩 人たち」からです。
 岡本の戦争期におけるアナキズム的な立場は、その骨格をかえずに、ただちにファシズム理論 へ移行できるところに特徴があった。それは岡本が、内部世界を、外部の現実と相わたらせ、 たたかわせることによって成熟させ、その成熟させた内部世界を、外部の現実とたたかわせる相互 作用によって思想を把握したのではなく、内部的未成熟のうえにイデオロギイを接木したため、 現実の動向によって密通的に動揺できるものだったためである。したがって、岡本の立場は、永 久に、「日本庶民」プラス「イデオロギイ」であり、確立され、論理化された内部世界が、現実 と思想との間を、実践的に媒介することはないのだ。

 「内部的未成熟」というのは保守反動派だけの問題ではないのです。革新進歩派を自認している人たち の問題でもあります。私はそれを「わが内なる保守反動」と言ってきました。それを放置しているものは 時流に流されてどの方向にも流れていきます。
 今テーマにしている国定教科書に関連しても同じ問題があり、それは現在にまで引きずられてい るのです。次は「神の国」からの引用です。
 以上の特徴をもつ国民学校の教科書は、戦後の民主主義教育への転換とともに、「醜悪な教 科書」「軍国主義の生んだ鬼子」として、無視されてきた。扱われる場合にも、軍国主義時代 の例証として部分的に、あるいは人間形成上の加害者として情緒的に引用されることはあって も、教科書そのものを正面からとりあげての分析は、ほとんど行なわれていないといっていい。
 期間的に1941(昭和16)年4月から1946(昭和21)年3月までのごく短期間しか使用 されなかったこと、その間題部分はいわゆる「墨塗り」の対象となって抹消されていることを 挙げ、したがってそれほどの影響があったとは考えられないとする人もいる。
 しかしそのような理由で、問題を積み残してきたことによる禍根は、私たちの社会に多く残 されている。戦後第六期の教科書に、この戦中の教科書と同じスタッフがかかわっていること も含めて、この皇民教育のイデオロギーは地下水脈となって、文部科学省官僚のなかに受け継 がれているようだ。近年、教科書検定の度に問題となる付箋の文言もまた、この戦前の教科書 のイデオロギーに限りなくちかいものがみられる。
217 国民学校の教科書より(5)
君が代少年
2005年3月20日(日)


「初等科国語・三」(4年前期)より。
<君が代少年>
 昭和十年四月二十一日の朝、台湾で大きな地震がありました。
 公学校の三年生であった徳坤(とくけん) という少年は、けさも目がさめると、顔を洗ってから、うやうやしく神だなに向って、拝礼をしました。 神だなには、皇大神宮の大麻がおまつりしてあるのです。
 それから、まもなく朝の御飯になるので、少年は、その時外へ出てゐた父を呼びに行きました。
 家を出て少し行った時、「ゴー。」と恐しい音がして、地面も、まはりの家も、ぐらぐらと動きました。 「地震だ。」と、少年は思ひました。そのとたん、少年のからだの上へ、そばの建物の土角がくづれて 来ました。土角といふのは、粘土を固めて作った煉瓦のやうなものです。
 父や、近所の人たちがかけつけた時、少年は、頭と足に大けがをして、道ばたに倒れてゐました。 それでも父の姿を見ると、少年は、自分の苦しいことは一口もいはないで、
「おかあさんは、大丈夫でせうね。」
といひました。
 少年の傷は思ったよりも重く、その日の午後、かりに作られた治療所で手術を受けました。このつら い手当の最中にも、少年は、決して台湾語を口に出しませんでした。日本人は国語を使ふものだと、 学校で教へられてから、徳坤は、どんなに不自由でも、国語を使ひ通して来たのです。
 徳坤は、しきりに学校のことをいひました。先生の名を呼びました。また、友だちの名を呼びました。  ちゃうどそのころ、学校には、何百人といふけが人が運ばれて、先生たちは、目がまはるほどいそが しかったのですが、徳坤が重いけがをしたと聞かれて、代りあって見まひに来られました。
 徳坤は、涙を流して喜びました。
「先生、ぼく、早くなほって、学校へ行きたいのです。」
と、徳坤はいひました。「さうだ。早く元気になって、学校へ出るのですよ。」
と、先生もはげますやうにいはれましたが、しかし、この重い傷ではどうなるであらうかと、先生は、 徳坤がかはいさうでたまりませんでした。
 少年は、あくる日の昼ごろ、父と母と、受持の先生にまもられて、遠くの町にある医院へ送られて 行きました。
 その夜、つかれて、うとうとしてゐた徳坤が、夜明近くなって、ばっちりと目をあけました。さう して、そばにゐた父に、
「おとうさん、先生はいらっしやらないの。もう一度、先生におあひしたいなあ。」
といひました。これっきり、自分は、遠いところへ行くのだと感じたのかも知れません。
 それからしばらくして、少年はいひました。
「おとうさん、ぼく、君が代を歌ひます。」
 少年は、ちょっと目をつぶって、何か考へてゐるやうでしたが、やがて息を深く吸って、静かに 歌ひだしました。

  きみがよは
  ちよに
  やちよに

 徳坤が心をこめて歌ふ声は、同じ病室にゐる人たちの心に、しみこむやうに聞 えました。

  さざれ
  いしの

 小さいながら、はっきりと歌はつづいて行きます。あちこちに、すすり泣きの声が起りました。

  いはほとなりて
  こけの
  むすまで

 終りに近くなると、声はだんだん細くなりました。でも、最後まで、りつばに歌ひ通しました。
 君が代を歌ひ終った徳坤は、その朝、父と、母と、人々の涙にみまもられながら、やすらかに 長い眠りにつきました。

 この教材は「君が代」の歌詞を全文読む仕組みになっています。何が何でも感動させようと、 その歌詞を細かく改行をして行間に感動を溜め込むテクニックが施されています。また自国の子 どもたちに対して「台湾の少年でさえ・・・君たちはなおさら」という無言の語りかけをしていること が読み取れます。
 さらに第4学年では修身・国語・音楽の全てに「君が代」の歌詞が全文載せられているそうです。 集中的に繰り返し、いやでも覚え込ませてしまおうという魂胆です。

 ところで、国民学校発足にともなって朝鮮や台湾の教育はどんな扱いを受けたのでしょうか。
 朝鮮では1938年からこの新教育制度の実験的役割を担わされた。朝鮮総督府は 「国体明徴」「内鮮一体」「忍苦鍛錬」を教育の三大綱領としてかかげ、国民学校令の先取りをして います。1941年3月に「朝鮮教育令」を「朝鮮国民学校令」 に改めます。  この「朝鮮国民学校令」には「教授用語は国語を用うるべし」いう問題の一項があります。
 「神の国」から引用します。
 「国語を習得せずしては国民として完全なる生活を営むことが出来ない」との理由のもとに、 全国同一教科書使用を義務づけたその底意は、朝鮮においては「韓国併合」以来つづいてきた「朝鮮語」 の教科を廃止し、学校での朝鮮語による教授の禁止にあった。ただし在外邦人を中心とする学 校と非日本人を中心とする学校との間にはカリキュラムの編成には多少の配慮がみられる。
 台湾では第ニ課程校を台湾人、第三課程校を山岳少数民族のためのものと区分した。
 朝鮮における「創氏改名」、台湾における「改氏名」の受付けは、その前年 ― 紀元2600 年2月11日の紀元節(現在の建国記念の日)を期して実施されている。天皇の「一視同仁」と いう恩恵的仮面のもとに、植民地の人々の姓名を奪い、さらにその母語をも奪ったのである。 その焦眉の目的は、日本語の通じる兵士を徴兵することにあったが、どうせ変えなければなら ないなら、一年生から日本の名前でと、この学校制度改革をきっかけとして改名に踏み切った 家庭も少なからずあったと聞く。


 台湾では「国語使用運動」の一環として、役所や学校だけでなく家庭でも日本語を使って生 活する家を「国語常用家庭」として総督府が認定し、戸口にかかげる認定証を発行した。
 『日本統治下台湾の「皇民化」教育』 の著者林貴明の家庭では、父母が教師であった立場上 「国語常用家庭」 に認定される必要から分家したという。日本語を使えない祖父を戸籍から外 したことになる。

 このような歴史の事実を直視することに耐えられない未成熟な者たちが、歴史の事実を直視することを 「自虐」と呼んで歴史を歪曲し、虚妄の伝統を担ぎ出して私たちに服従を迫っています。まさにその人た ちにとっては歴史の事実を直視することは「自虐」なのでしょう。
 保守反動はいま一大勢力を形成していますが、彼らには過去があるばかりで未来はありません。
216 国民学校の教科書より(4)
肉弾三勇士
2005年3月19日(土)


「初等科国語・一」(3年前期)より
<支那の春>
 川ばたのやなぎが、すっかり青くなりました。つみ重ねたどなうの根もとにも、いつのまにか、 草がたくさん生えました。
 あたりは、うれしさうな小鳥の声でいっぱいです。
「もうすっかり春だなあ。」
「ここで、あんなにはげしい戦争をしたのも、うそのやうな気がするね。」
 どなうの上に腰かけて、川の流れを見つめながら、日本の兵たいさんが二人、話をしてゐます。 兵たいさんは、今日は銃を持ってゐません。てつかぶともかぶってゐせまん。二人とも、ほんたう に久しぶりのお休みで、村のはづれまでさんぽに来たところです。
「兵たいさん。」
「兵たいさん。」
 大きな声で呼びながら、支那の子どもたちが、六七人やって来ました。
「おうい。」
 兵たいさんがへんじをすると、みんな一度に走り出しました。子どもたちといっしよに、黒い ぶたや、ふとったひつじが二三匹走って来ます。
 兵たいさんのそばまで来ると、子どもたちは、いきなりどなうの上にかけあがらうとして、 ころげ落ちるものもあります。先にあがった子どもの足を引っばって、はねのけようとするも のもあります。
「けんくわをしてはいけない。」
「仲よくあがって来い。」
 大きな声で、兵たいさんがしかるやうにいひます。しかし、にこにこして、うれしさうな顔です。
 先にかけあがった子どもは、兵たいさんにしがみつきます。あとから来た子どもは、兵たいさん のけんにつかまったり、くつにとりついたりします。
「これは、たいへんだ。さあ、お菓子をあげよう。向かふで遊びたまへ。」
「氷砂糖をあげよう。橋の上で仲よく遊びたまへ。」
 兵たいさんたちは、ポケットから、キャラメルの箱や、氷砂糖のふくろを取り出しました。
「わあっ。」
と、子どもたちは大喜びです。ぶたもひつじも、いっしょになって大さわぎです。 お菓子をもらふと、子どもたちは、おとなしく川のふちに腰をおろしたり、ねそべったりしました。 さうして、お菓子をたべながら、歌を歌ひ始めました。まだ上手には歌へませんが、兵たいさんに 教へてもらった「愛国行進曲」です。
 川の水は、静かに流れてゐます。どっちから、どっちへ流れるのかわからないほど、静かに流れて ゐます。
 川の向かふは、見渡すかぎり、れんげ草の畠です。むらさきがかった赤いれんげ草が、はてもなくつづいてゐます。/どこからともなく、綿のやうに白い、やはらかなやなぎの花がとんで来 ます。さうして、兵たいさんのかたの上にも、子どもたちの頭の上にも、そっと止ります。
 寒い冬は、もうすっかり、どこかへ行ってしまひました。静かな、明かるい、支那の春です。

 イラクを圧制から解放したと言うブッシュのイラク侵略の正当化と二重写しになります。その父母兄弟姉妹 を虐殺しているかもしれない侵略先の子どもたちに「愛国行進曲」を歌わせる無神経さに気分が悪くなってき ます。

「初等科国語・ニ」(3年後期)より
<田道間守>
 垂仁天皇の仰せを受けた田道間守は、船に乗って、遠い、外国へ行きました。
 遠い外国に、たちばなといって、みかんに似た、たいそうかをりの高いくだものがあることを、 天皇は、お聞きになっていらっしやいました。田道間守は、それをさがしに行くことになつたのです。
 遠い外国といふだけで、それが、どこの国であるかは、わかりません。田道間守は、あの国この島と、 たづねてまはりました。
 いつのまにか、十年といふ長い月日が、たってしまひました。
 やっと、あるところで、美しいたちばなが生ってゐるのを見つけました。
 田道間守は、大喜びでそれを船に積みました。枝についたままで、たくさん船に積みました。 さうして、大急ぎで、日本をさして帰って来ました。
「さだめて、お待ちになっていらっしやるであらう。」
 さう思ふと田道間守には、風を帆にいっぱいはらんで走る船が、おそくておそくて、しかたがあり ませんでした。
 日本へ帰って見ますと、思ひがけなく、その前の年に、天皇は、おかくれになっていらっしゃいました。 田道間守は、持って帰ったたちばなの半分を、皇后にけん上しました。あとの半分を持って、 天皇のみささぎにお参りしました。枝についたままの、美しい、かをりの高いたちばなを、みささぎの前 に供へて、田道間守は、ひざまづきました。
「遠い、遠い国のたちばなを、仰せによって、持ってまゐりました。」
かう申しあげると、今まで、おさへにおさへてゐた悲しさが、一度にこみあげて、胸は、はりさける ばかりになりました。田道間守は、声をたてて泣きました。田道間守は、昔、朝鮮から日本へ渡って 来た人の子孫でした。しかし、だれにも負けない忠義の心を持ってゐました。
 泣いて泣いて、泣きとほした田道間守は、みささぎの前にひれふしたまま、いつのまにか、つめた くなってゐました。

 「朝鮮から日本へ渡って来た人の子孫でした。しかし、だれにも負けない忠義の心を持ってゐま した。」と、こっそりと朝鮮人の皇国民化の露払いをしています。

「初等科国語・ニ」(3年後期)よりもう一編。
<三勇士>
「ダーン、ダーン。」
 ものすごい大砲の音とともに、あたりの土が、高くはねあがります。機関銃の弾が、雨あられの やうに飛んで来ます。
 昭和七年二月二十二日の午前五時、廟巷(べうかう)の敵前、わづか 五十メートルといふ地点です。
 今、わが工兵は、三人づつ組になつて、長い破壊筒をかかへながら、敵の陣地を、にらんでゐま す。
 見れば、敵の陣地には、ぎっしりと、鉄条網が張りめぐらされてゐます。この鉄条網に破壊筒を投げ こんで、わが歩兵のために、突撃の道を作らうといふのです。しかもその突撃まで、時間は、 あと三十分といふせっぱつまった場合でありました。
 工兵は、今か今かと、命令のくだるのを待ってゐます。しかし、この時とばかり撃ち出す敵の弾には、 ほとんど、顔を向けることができません。すると、わが歩兵も、さかんに機関銃を撃ち出しました。 さうして、敵前一面に、もうもうと、煙幕を張りました。
「前進。」
の命令がくだりました。
 待ちに待った第一班の工兵は、勇んで鉄条網へ突進しました。
 十メートル進みました。二十メートル進みました。あと十四五メートルで鉄条網といふ時、頼みに する煙幕が、だんだんうすくなって来ました。
 一人倒れ、二人倒れ、三人、四人、五人と、次々に倒れて行きます。第一班は、残念にも、とうと う成功しないで終りました。
 第二班に、命令がくだりました。
 敵の弾は、ますますはげしく、突撃の時間は、いよいよせまって来ました。今となっては、破壊筒 を持って行って、鉄条網にさし入れてから、火をつけるといったやり方では、とてもまにあひません。 そこで班長は、まず破壊筒の火なはに、火をつけることを命じました。
 作江伊之助、江下武二、北川丞、三人の工兵は、火をつけた破壊筒をしっかりかかへ、鉄条網めがけ て突進しました。
 北川が先頭に立ち、江下、作江が、これにつづいて走ってゐます。
 すると、どうしたはずみか、北川が、はたと倒れました。つづく二人も、それにつれてよろめきまし たが、二人は、ぐつとふみこたへました。もちろん、三人のうち、だれ一人、破壊筒をはなしたものは ありません。ただその間にも、無心の火は、火なはを伝はって、ずんずんもえて行きました。
 北川は、決死の勇気をふるつて、すっくと立ちあがりました。江下、作江は、北川をはげますやう に、破壊筒に力を入れて、進めとばかり、あとから押して行きました。
 三人の心は、持った一本の破壊筒を通じて、一つになってゐました。しかも、数秒ののちには、 その破壊筒が、恐しい勢で爆発するのです。
 もう、死も生もありませんでした。三人は、一つの爆弾となって、まっしぐらに突進しました。
 めざす鉄条網に、破壊筒を投げこみました。爆音は、天をゆすり地をゆすって、ものすごくとどろき 渡りました。
 すかさず、わが歩兵の一隊は、突撃に移りました。
 班長も、部下を指図しながら進みました。そこに、作江が倒れてゐました。
「作江、よくやったな。いひ残すことはないか。」
 作江は答へました。
「何もありません。成功しましたか。」
 班長は、撃ち破られた鉄条網の方へ作江を向かせながら、
「そら、大隊は、おまへたちの破ったところから、突撃して行ってゐるぞ。」
とさけびました。
「天皇陛下萬歳。」
作江はかういって、静かに目をつぶりました。

 「肉弾三勇士」とか「爆弾三勇士」とか呼びならわされています。その時代背景を年表にして見ました。

1932/01/03   関東軍、錦州占領 
1932/01/07   陸軍、満州独立の方針を関東軍参謀板垣征四郎に指示 
1932/01/28   上海事変①勃発 
1932/02/05   関東軍、ハルピン占領 
1932/02/22   「肉弾3勇士」戦死報道 
1932/03/01   満州国建国宣言 
215 国民学校の教科書より(3)
皇国民練成の洗礼を受けた世代
2005年3月18日(金)


国民学校令は1941年3月1日に公布され4月1日より発効しました。その第1条に曰く。

国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的練成ヲ為スヲ以テ目的トス

 この皇国民の練成という目的にそって編成されたのが「第五期国定教科書」です。この教科書は 1946年3月まで使用されました。

 「神の国」で入江さんが次のような指摘をしています。
 1999年:「国旗国歌法」の制定、2000年:森首相の「日本は天皇を中心とした神の国」の発言、 2001年:「新しい歴史教科書をつくる会」による中学校の歴史教科書が検定に合格、などをあげて
 このような一連の国粋主義的、時代錯誤的な状況がつくりだされて、日本国内はもとよりアジアの 人々に衝撃をあたえている。日本の保守層が悲願としながら半世紀にわたって躊躇していたこ れらの情念が、今、つぎつぎと表出する背景には、ひとつの際立った共通点がみられる。
 それは人生の最初の学校教育を「皇民教育」という超国家主義イデオロギーにより、白紙の 魂に「刷り込まれた」世代、特に太平洋戦争がはじまる1941(昭和16)年の4月から1945(昭和20) 年までに国民学校で学んだ世代が、社会の中枢を占めはじめたことであろう。
 ちなみに小渕恵三元首相と森喜朗前首相が1937(昭和12)年生まれ、「新しい歴史教科書を つくる会」の代表であり執筆者である西尾幹二氏が1935(昭和10)年生まれである。

 少年時代に刷り込まれたものをそのまま引きずって人生の終点近くまで来てしまった人たちです。 私が彼らを未成熟という所以です。またこのことが第五期国定教科書を検証する意義 でもあります。

 さて、「御民われ」では第五期国定教科書の国語の全教科書の全教材を詳細に分析しています。そして 、「教育問題や教科書問題などについて論じられる場合、引用材料として比較的頻度数の高いもの、及び 如何にも軍国主義的な意図の露骨なものをひろいあげ」ています。
 教科書監修官だった井上赴という男が、国語の教科書は「上級に進むに従って文学 でなければならぬ」と言っているそうです。そして東京都視学官の久米井束らが絶賛したそうです。 その文学振りを、山中さんがひろいあげた教材を読みながらじっくりと検証してみましょう。

『ヨミカタ・一』(1年前期)より

ヘイタイサン 
ススメ ススメ 
チテ チテ タトタ テテ タテタ

 「チテチテタ…」を中山さんが解説しています。「これは、陸軍の進軍ラッパのメロディで、音 名に直すと、チ=ソ、テ=ミ、タ=ド、ト=一音階下のソ、である。」

「ヨミカタ・ニ」(1年後期)より

<ラジオノコトバ>
 日本ノ ラジオハ
 日本ノ コトバヲ ハナシマス。
 正シイ コトバガ、
 キレイナ コトバガ、
 日本中ニ キコエマス。

 マンシウニモ トドキマス。
 シナニモ トドキマス。
 セカイ中ニ ヒビキマス。

<日本のしるし>
 日本の しるしに
 はたが ある。
  朝日を うつした
  日の丸の はた。
 日本の しるしに
 山が ある。
  すがたの りっばな
  ふじの 山。
 日本の しるしに
 うたが ある。
  ありがたい うた
  君が代の うた。

「よみかた・三」(2年前期)より

<ニ重橋>
目の 前に をがむ 二重橋、
けだかい、美しい 二重橋。
おほりの 水は しづかに 明るく、
白い やぐらは くっきりと そびえ、
しげった 松の 間に、
おやねが かうがうしく 見えます。

さくさくと 小じゃりを ふんで、
女学校の せいとさんが 来ました。
きちんと 並んで さいけいれいを して、
こゑを そろへて 「君が代」を 歌ひました。

私たちも いっしょに 歌ひました。

「よみかた・四」(2年後期)より

<金しくんしゃう>
 軍人さんの胸は、
 くんしゃうでいっぱいです。
 花のやうなくんしゃう、
 日の丸のやうなくんしゃう、
 金のとびの金しくんしゃう。
 昔、神武天皇のお弓に止った、
 あの金のとびが、
 今、軍人さんの胸にかがやいて、
 りっばなてがらを
 あらはしてゐるのです。
214 国民学校の教科書より(2)
全教科総動員しての狂気
2005年3月17日(木)


 現実に目にしている自然を楽しむことと唱歌や教科書などがことさらに取り上げる自然とは 千里の径庭があります。唱歌や教科書が自然や風景の素晴らしさをめでるとき、その裏面にある 汚さ・過酷さ・悲惨さを取捨した上で何かしらの心情をそれに託します。その心情は自然への 共鳴共感でしょうか、没我没入への希求でしょうか、望郷の念でしょうか、あるいは共同性 への帰順でしょうか。ときにはその心情はナショナリズムとして暴威を振るいます。
 そういう意味で唱歌や教科書の自然や風景は現実に目にしているものとは違う虚構です。ことさら 言挙げして他国との差異を自慢するほどのことではないでしょう。ましてや「神の国」は児戯にも 等しいまがいものです。こんなものを本当に信じるあるいは信じたがる精神は未成熟な精神という べきでしょう。今大きな顔をしだしている保守反動は未成熟の謂いです。

 このことに関連して、次のような文章が目に留まりました。記録しておきます。
自分の国を凡そ不自然な具合に見て機会に恵まれなければそのことに気付きさへもしないでゐるのは それだけの空白が精神の世界に出来ることで自分の国と言つてもそれは結局は自分の周囲と同じなの であるからその不自然が一切を歪めずにはゐない。かういふ歪みには何か病的なものがあつてこれを 修正する試みにも病的に作用し、かういふことになつてからのさうした企てでは目星い所で神国日本 の説が行はれた。日本が他の国並に世界の一国であるのと反対にその国々の中でも特殊なものだとい ふのである。日本といふのがないのも同然の国だとするのも不自然であるが又とない大変なものであ る積りでゐるのも不自然であることに変りはない。さういふことになればどこの国も二つとないもの で特殊な点を探せば幾らでも出て来る。
(「ユリイカ1973年12月号」所収・吉田健一「覚書」より)

 さて、「御民われ」では「修身」以外の教科書の狂いぶりを紹介しています。まず『初等科地理・下』から。
 もともと、わが国は神のお生みになった尊い神国で、遠い昔から開けて来たばかりでなく、 今日も、こののちも、天地とともにきはまりなく、栄えて行く国がらであります。これまで、外国の あなどりを受けたこと一度もありません。遠い昔はいふまでもなく、近くは日清・日露の両戦役に よって、国威を海外に輝かし、更に満洲事変・支那事変から、大東亜戦争が起るに及んで、いよいよ その偉大なカを全世界に知らせることができました。

 「つくる会」の教科書もこんな調子です。日本の歴史を神話から始めています。少し紹介します。 (「子ども教科書全国ネット21」のパンフから)
(歴史p.62)
「天照大神とスサノオの命」
 そこで神々は策を考え、祭りを初め、常世の長鳴き鳥を鳴かせる。アメノウズメの命が、 乳房をかき出して踊り、腰の衣のひもを陰部までおしさげたものだから、八百万の神々 はどっと大笑い。

 歴史を神話から始めるデタラメさもさることながら、中学生になぜ「アメノウズメの命」なのか、 その意図をはかりかねます。これが強調したい「日本の伝統文化」なのでしょうか。
 また躍起になって戦争を正当化し賛美しています。
(歴史p.216)
 日本に向けて大陸から一本の腕のように朝鮮半島が突き出ている。当時、朝鮮半島が日本に敵対的 な大国の支配下に入れば、日本を攻撃する恰好の基地となり、後背地をもたない島国の日本は、自国 の防衛が困難となると考えられていた。

(歴史p.276)
『大東亜戦争(太平洋戦争)』
 自転車に乗った銀輪部隊を先頭に、日本軍はジャングルとゴム林の間を縫って‥快進撃‥わずか70 日でシンガポールを陥落させ、ついに日本はイギリスの東南アジア支配を崩した。

(歴史p.282)
 これらの地域では、戦前より独立に向けた動きがあったが、その中で日本軍の南方進出は、アジア 諸国が独立を早める一つのきっかけともなった。

(歴史p.278)
 アツツ島では、わずか2000名の日本軍守備隊が2万の米軍を相手に一歩も引かず、弾丸や米の 補給が途絶えても抵抗を続け、玉砕していった。

(歴史p.279)
 沖縄では、鉄血勤皇隊の少年やひめゆり部隊の少女までが勇敢に戦って、一般住民約9万 4000人が生命を失い、10万人近い兵士が戦死した。

 国定教科書の方に戻ります。『初等科理科三』です。
 戦争ヲスルニハ、軍艦・鉄砲・大砲・戦車・飛行機・弾ナドガイル。コレラヲ作ルニハ、イロ ィロナ種類ノ金物ガ必要デアル。私タチハ、イツモ氣ヲツケテヰテ、金物ヲムダナク使ヒ、少シデ モ捨テナイデオイテ役ニタテヨウ。

 次は『初等科算数・五』です・
神武天皇が、即位ノ礼ヲオアゲニナツタ年ガ紀元元年デアル。今年ハ紀元何年カ。
紀元千九百四十一年二、元の大軍ガオシヨセテ来タガ、ワガ国ハ、ミゴトニコレヲ撃チ破ッタ。 ソレカラ六百十三年後ニ、ワガ国ハ清卜戦ヒ、マタ十年タッテ、「ロシヤ」ト戦ツタ。ドチラモ、 ワガ国ノ大勝利デアッタ。昭和十六年十二月八日ニ、米・英ニ対スル宣戦ノ大詔ガクダサレタ。
コレラノ戦争ノオコッタ年ハ、ソレゾレ紀元何年デアルカ。

 山中さんは次のように述懐しています。
 どう考えても、この徹底ぶりは異常としか言いようがない。敢えて言えば狂気ある。しかし、 ぼくらはそれを狂気とは思わなかった。疑うには幼なすぎた。それが当然あるべき姿だと教え られれば、そうかと思った。そして、ひたすら、この狂気をまともに学ばされてしまったのである。

 集団狂気です。オウムの狂気と同質の宗教的な集団狂気です。いままたその集団狂気が蔓延し つつあります。大日本帝国時代のように、やがてその中で醒め続けるものが受難する最悪の状況 になるのではないかと懸念します。
213 国民学校の教科書より(1)
巧妙な刷り込みの手口
2005年3月16日(水)


 私が教員をしている頃の卒業式はまだ日の丸も君が代もありませんでした。しかし私の勤務校の それは旧態然とした形式的なものでした。それを批判して私は次のような文を含む文書を書いて 同僚に配りました。

 「今の私たちの学校の儀式も褒められたものではない。「一同、礼」で始まり、「一同、礼」で終る。 首尾一貫して、ただただ緊張ばかりを強いる。新入生や卒業生が主人公とはたてまえばかりで、 半世紀前のままではないか。あと「君が代・日の丸」があればもうほとんど半世紀前と同じである。 形式ばかりの事大主義が得意顔で号令をしている。」(「第2回・2004年8月16日」にも掲載しました。)

 このあと数年で「日の丸・君が代」が強制されるようになり、半世紀前とほとんど変わらぬ 卒業式になってしまったのです。

 「心のノート」や音楽の教科書に「伝統文化の尊重、国民としての自覚」を刷り込むための 教材が盛り込まれて、教育現場を大手を振ってまかり通っています。「道徳を考えさせることや自然をめ でる歌を歌うことに何の問題があるの?」と思う人が、たぶん圧倒的多数でしょう。
 しかし私は上記の儀式に対して持ったと同じような懸念を教科書や副読本にも持っています。 「伝統文化の尊重」とか「国民としての自覚」とか「美しい日本語」とかを強調している連中は、 誰もが異議を挿しはさみそうもないものから始めて、そのあとに何を付け加えようとしているのでしょうか 。
明カルイ タノシイ 春ガ来マシタ。
日本ハ、春夏秋冬ノ ナガメノ美シイ國デス。
山ヤ川ヤ海ノ キレイナ國デス。
コノ ヨイ國ニ、私タチハ 生マレマシタ。
オトウサンモ、オカアサンモ、コノ國ニ オ生マレニナリマシタ。
オジイサンモ、オバアサンモ、コノ國ニ オ生マレニナリマシタ。

 季節・風物の賛美と、その地で連綿と営まれてきた家族のつながりと生活。とても幸せな気持ち になる文章じゃないか。なに文句があるの?
 自然は美しいばかりではない、地震や洪水やひでりで人に悲惨をもたらす事もある。それにどの家族に もいろいろと複雑な事情があり、そんなに幸せとは限るまい。なぞとまぜっ返してもせんかたありません。
 まだ白紙のような子どもの心には確実に肯定的な同意を刷り込むでしょう。そして上の文に唐突に次のような 詩もどきが続きます。子どもの心をさらっとさらっていきます。何処へ?
日本ヨイ國、キヨイ國。
世界ニ 一ッノ 神ノ國。
日本ヨイ國、強イ國。
世界ニ カガヤク エライ國。


 なお蛇足ながら、前半の「國」は「社会・国土・故郷」ですが、後半の「國」は「国家」である ことに注意したいと思います。

 杞憂に過ぎるでしょうか。しかし「つくる会」の教科書は戦前回帰を果たしていますし、 「心のノート」の徳目は戦前の「修身」とほとんど同じだということです。音楽の教科書について は「第208回~第211回」でみた通りです。国語の教科書についてはどうなのでしょうか。

 上記の引用文は国民学校2年生用修身の教科書「ヨイコドモ・下」からのものです。
 しばらく国民学校の教科書にこだわってみようと思います。参考資料は山中恒著「ボクラ少国民第2部・御民ワレ」(辺境社) と入江曜子著「日本が『神の国』だった時代」です。以後それぞれ「御民われ」「神の国」と略称 します。
212 文部省唱歌事始
2005年3月15日(火)


 前回の北村さんのお話に「いずれも(「仰げば尊し」と「蛍の光」)1879年(明治12)の 「教学聖旨」(文明開化に向けて教育が進むなか、日本の教育は仁義忠孝が基本だという天皇名の方針)が出されてか ら教育勅語発布(1890)の間、すなわち天皇制教育確立の時期に作られたものであることを考える とその意図は明らかです。」というくだりがあった。

 私の蔵書に、復刻版だが、1881年(明治14年)文部省出版の「小學 唱歌集 初篇」という小冊子が ある。ちょうど上記の時期と同じ時期のものだ。北村さんの論文を読んでいるうちにそれを思い出して取り出 してみた。話題提供の意味で、その序文と内容のいくつかを書きとめてみる。 (原文は毛筆なので読み取りがたいところがある。読み間違いがあるかもしれない。あしからず。 また、句読点なしのノッペラボー文章で読みにくいので一文ごとに行替えをした。)
  緒言

凡ソ教育ノ要ハ徳育智育體育ノ三者ニ在リ
而シテ小學ニ在リテハ最モ宜ク徳性ヲ涵養スルヲ以テ要トスヘシ
今夫レ音樂ノ物タル性情ニ基ツキ人心ヲ正シ風化ヲ助クルノ妙用アリ
故ニ古ヨリ明君賢相特ニ之ヲ振興シ之ヲ家國ニ播サント欲セシ者和漢歐米ノ史冊歴々徴スヘシ
曩ニ我政府ニ始テ學制ヲ頒ツニ方リテヤ已ニ唱歌を普通學科中ニ掲ゲテ一般必須ノ科タルヲ示シ其教則 綱領ヲ 定ムルニ至テハ亦之ヲ小學各等科ニ加へテ其必ス學ハサル可ラサルヲ示セリ
然シテ之ヲ学校ニ實施スルニ及ンテハ必ス歌曲其當ヲ得聲音其正ヲ得テ能ク教育ノ真理ニ悖ラサルヲ要スレハ 此レ其事タル固ヨリ容易ニ擧行スベキニ非ス
我省此ニ見ル所アリ客年特ニ音楽取調掛ヲ設ケ充ルニ本邦ノ學士音樂家等ヲ以テシ且ツ遠ク米国有名ノ音楽 教師ヲ聘シ百方討究論悉シ本邦固有の音律ニ基ツキ彼長ヲ取リ我短ヲ補ヒ以テ我學校ニ適用スヘキ者ヲ撰定 セシム
爾後諸員ノ協力ニ頼リ稍ヤク數曲ヲ得
之ヲ東京師範學校及東京女子師範學校生徒并両校附属小學生徒ニ施シテ其適否ヲ試ミ更ニ取捨選擇シ得ル所 ニ随テ之ヲ録シ遂ニ歌曲數十ノ多キニ至レリ
爰ニ之ヲ剞?(厥の右にリットウがつく字)ニ付シ名ケテ小学學歌集ト云
是レ固ヨリ草創ニ属スルヲ以テ或ハ未タ完全ナラサル者アラント雖モ庶幾クハ亦我教育ノ一助ニ資スル ニ足ラント云爾

明治十四年十一月 音楽取調掛長 伊澤修二 謹識

 日本の音楽教育はその発祥のときから芸術教育ではなかった。「音樂ノ物タル性情ニ基ツキ人心ヲ正シ風化ヲ助クル ノ妙用」を利用した「徳性ヲ涵養スル」ための手段としてスタートした。
 「本邦ノ學士音樂家等」が「米国有名ノ音楽教師」の教えを受け、ほとんど無の状態から 「本邦固有の音律ニ基ツキ彼長ヲ取リ我短ヲ補ヒ」唱歌を創造していった、その苦労のほどは 並大抵ではなかっただろう。やがてそれなりに洗練されていき、その良し悪し・功罪は別として、 ともかく「徳性ヲ涵養スル」ための唱歌は学校教育を通して大衆の中に浸透していった。

 では上記の最初の「唱歌集」に収録された歌の中で後まで歌い継がれた歌はどれほどあった だろうか。全部で33編収録されている。題名を並べると次のようになる。

1.かをれ 2.春山 3.あがれ 4.いわへ 5.千代に 6.和歌の浦 7.春は花見 8.鶯 9.野邊に  10.春風 11.桜紅葉 12.花さく春 13.見わたせば 14.松の木蔭 15.春のやよい 16.わが日の本  17.てふてふ 18.うつくしき 19.閨の板戸 20.蛍 21.若紫 22.ねむれよ子 23.君が代  24.思ひいづれば 25.薫りにしらるる 26.隅田川 27.富士の山 28.おぼろに 29.雨露  30.玉の宮居 31.大和撫子 32.五常の歌 33.五倫の歌

 四季の風物を主題にした、いわゆる「にっぽんのうた」の要件を満たす歌が多い。ほとんど 春の歌だ。しかし歌詞の中にこっそりと道徳や忠君愛国を忍ばせているものがある。
 メロディーの方は外国の既成の曲に日本語の歌詞を割り振ったものが多いのではないか。

 今に歌い継がれているのは(私が知っているのは)15.と17.と20.。
 15.は「越天楽」と歌詞もメロディーも同じで、北村さんの話にあったように、最近復活した。
 17.は現かなづかいで書くと「ちょうちょ」
 20.は「蛍の光」で、もちろん4番まで揃っている。

 16.の一番は「わがひのもとの あさぼらけ かすめる日かげ あふぎみて もろこし人とも  高麗びとも 春たつけふをば しりぬべし」とある。つまらぬ事で中国や朝鮮への優越感を 吐露している。「日いずるところの天子 日没するところの天子に書をいたす つつがなきや」 を下敷きにした歌詞か。

 18.は3番まである。それぞれ「うつくしき我が子やいずこ」と歌い始めて、上の子・中の子・末の子 と次々に弓・太刀・矛を取って「君のみもとにいさみたち」「わかれゆくなり」というすさまじい内 容だ。

 23.の「君が代」は、メロディーは現在のものとは全く違うもので、歌詞は2番まであり、次のよ うに余分な文句が付いている。

1 君が代は ちよにやちよに さざれいしの巌となりて こけのむすまで うごきなく 常盤かきはに  かぎりもあらじ
2 君が代は 千尋の底の さざれいしの 鵜のいる磯と あらわるるまで かぎりなき みよの栄を  ほぎたてまつる

 いよいよバカバカしい歌詞だ。

終わりの二つは儒教道徳のお題目の歌で「教育勅語」の先取りのようなしろものだ。
 32.の「五常」とは「仁・義・禮・智・信」のこと。 33.の歌詞は「父子親あり 君臣義あり  夫婦別あり 長幼序あり 朋友信あり」で、ただ徳目を 並べただけの味も素っ気もないものだ。
211 北村小夜さんの講演から(4 最終回)
教科書会社の変節
2005年3月14日(月)


 教育委員会委員の選挙選出から任命制への移行。教科書の広域採択制への移行。学校票(現場教員の意見) の形骸化。かくして教科書は国家権力の意向を忠実に履行する教育委員会の恣意的な採択を可能にした。これ も周到に準備されてきた教育支配のための施策だった。

 このことがさらに教科書の国定化を促進する役割を果たしている。北村さんは、それまでは比較的まし だった教育芸術社刊の小学生の音楽教科書の変節振りを取り上げている。
 新しい歴史教科書をつくる会の歴史教科書が教科書検定を通るということは、全ての教科書 が、つくる会教科書的になったということです。来年度から使用される三社の音楽教科書を見ると、 国定道徳教材といわれる「心のノート」に似ていることに驚きます。産経新聞が絶賛しています が('04・4・28)、共通教材に加え、日本の伝統文化の重視という指導要領の趣旨 を一層尊重し、「懐かしい歌」を加え、「こころのうた」「につぽんのうた」「みんなのうた」 などと強調し、「心のノート」と共通する日本の自然や風習の写真や絵をふんだ んに使っています。

 (教科書に掲載されている)この写真は、2002年埼玉スタジアムで行われたサッカー試合で 日本チームを応援する人々です。 ざっと数えて400ほどの「日の丸」が来年度から使われる教育芸術社刊「小学生の音楽」六年生 用の扉を飾っています。教育芸術社の音楽教科書は「あおげばとうとし」も「ほたるの光」もなく、 まだましな教科書と言われてきました。
 ところが来年度から使われる改訂版では、すっかり様相が変わっています。「あおげばとうと し」も「ほたるの光」も共通教材ではありませんから載せる必要はないのですが、この写真とと もに、六年生用に「あおげばとうとし」が、五年生用には「ほたるの光」が載っています。 それだけではありません。共通教材のすベてに”こころのうた”というリードをつけた他、 「夕日(ぎんぎんぎらぎら)」「七つの子」「背くらべ」「海(松原遠く)」「浜千鳥」など、 産経新聞などがいう懐かしい歌を増やしています。さし絵や背景の写真も、今までは子どもの曲 のイメージ作りを妨げないように配慮してか、色彩も淡く控えめでしたが、改訂されたものは 強烈なものが多く、概念規定をしようとしているように見えます。山や桜や日本的行事もあり、 一見して「心のノート」を思わせます。

 なぜ、こんなことになったのでしょうか。

(中略)

 この変わり様は、この間の政治的な動きに呼応したもので、どの教科書にも共通することですが、 「わが国の伝統文化の尊重」を深読みして、関わる記述を増やしています。変わった理由の一つは そのような一連の動きに対応したものでしょうが、もう一つは、教科書の採択が教育現場の意向を 無視して教育委員会が強権的に行うようになったからです。すなわち採択に力を持つ教育委員会向 きに作られるようになつたということです。
 教科書検定に合格しなければ教科書になりませんが、教科書になれば商品ですから売れなけれ ばなりません。売れるということは採択されることです。

(中略)

 仮に(教育委員会に教科書採択の)権限があるにしても、管下の教職員や学習主体である子ども、 保護者の意向を尊重してこそ権限は全うされるのですが、現場排除が横行しています。なかでも強 硬なのが、「つくる会教科書」採択でわかるように東京都教育委員会です。すでに2003年4月に横山 教育長が、学校票を無視するようにという通達を出しています。学校票が無視され、採択の実権が 全面的に教育委員会に移れば、売るためにはその意向に媚びます。教育委員会の視点が「伝統文化 の尊重、国民としての自覚」ですから反映されるのは当然です。2003年4月の都の教育委員会では 「卒業式に『仰げば尊し』を歌わない学校を調べろ」「歌わせない教員は自信がないのだ」という 委員もいました。

 私は教員をしている時、卒業生の「仰げば尊し」を聞くときには、やはり忸怩たる思いを 禁じえなかった。自信がないといわれればその通りだ。しかし、「私は『仰げば尊し』を歌って もらうに値する教師だ」なんて思っている教員がいるとしたら、とんでもなく鼻持ちならぬ奴だ。

 「仰げば尊し」や「蛍の光」がなぜ問題なのか。北村さんは次のように解説している。
 「仰げば尊し」の歌詞はニ節が立身出世をめざすものとして省略され、教科書には一節と三節しか 載っていませんが、もともとこのようなものです。


  あおげば尊し

一、あおげばとうとし わが師の恩
  教の庭にも はやいくとせ
  おもえばいととし このとし月
  今こそ 別れめ いざさらば

二、互いむつみし 日ごろの恩
  別るる 後にもやよ 忘るな
  身を立て名をあげ やよはげめよ
  今こそ 別れめ いざさらば

三、朝夕なれにし まなびの窓
  ほたるのともし火 つむ白雪
  忘るるまぞなき ゆく年月
  今こそ 別れめ いざさらば
 「小学唱歌集」1884年(明治17年)


 「ほたるの光」は教科書にはニ節までしか載っていませんが、三節を見れば、あきらかに国を 守る「防人」を送り出す妻の歌であることがわかります。四節は戦争中、千島・沖縄が樺太・台湾 と歌われました。戦局が進んでアリューシャン・サイパンとも歌われました。
 二つとも作詞者は明らかにきれていませんが、いずれも1879年(明治12)の「教学聖旨」(文明 開化に向けて教育が進むなか、日本の教育は仁義忠孝が基本だという天皇名の方針)が出されてか ら教育勅語発布(1890)の間、すなわち天皇制教育確立の時期に作られたものであることを考える とその意図は明らかです。


  ほたるの光

一、ほたるのひかり まどのゆき
  書よむつき日 かさねつつ
  いつしか年も すぎのとを
  あけてぞけさは わかれゆく

二、とまるもゆくも かぎりとて
  かたみにおもう ちよろずの
  こころのはしを ひとことに
  さきくとばかり うたうなり

三、つくしのきわみ みちのおく
  うみやま とおく へだつとも
  そのまごころは へだてなく
  ひとつにつくせ くにのため

四、千島のおくも おきなわも
  やしまのうちの まもりなり
  いたらんくにに いさおしく
  つとめよ わがせ つつがなく
 「小学唱歌集」 1881年(明治14年)
210 北村小夜さんの講演から(3)
歌は旗とともに人の心を唆す
2005年3月13日(日)


 「つくる会」の教科書が教育教材面での反動の最先端を露払いしている。
 北村さんは言う。「新しい歴史教科書をつくる会の歴史教科書(扶桑社刊)が検定に合格した ということは、全ての教科書がつくる会的になってきたということである。」
 教育問題はいわゆる主要5教科(国社数理英)を中心に語られがちだが、北村さんは周辺教科といわれる 体育・家庭・図工・音楽にも問題が多いと指摘する。このことは私の中でも一つの盲点だったと気づか された。
 私の世代(国定教科書第三期の最後)は、体育はいうに及ばないが、図工といえば戦意昂揚のポ スターばかり描いていた。家庭科では銃後の守りをしっかり教え込まれた。
(中略)
 そして音楽。歌は旗とともに人の心を唆す。音楽(音楽に限らないが)は一つの目的手段に なった時、芸術ではなくなる。戦前、音楽は修身の手段であった。例えば「柴刈り縄なひ草鞋 をつくり、親の手を助け弟を世話し、兄弟仲よく孝行つくす、手本は二宮金次郎」と調子よく 歌わせておいて、修身で「二宮金次郎は、家が大そうびんぼふであったので、小さい時から、 父母の手だすけをしました」と教えた。
 忠義の手本として広瀬武夫の勇気と部下思いを教え、「轟く砲音(つつおと)  飛く来る弾丸」と歌わせるといった具合である。

 「修身」と「音楽」がタイアップして国家意思の刷り込みが行われた。「修身」は首位教科と言われて、 全ての教科が「修身」を補完する役割をになった。
 いま学習指導要領の総則の冒頭には道徳教育が掲げられるようになっている。そして音楽の教科書も版を 重ねるにつれて「日本人としての自覚」が強調され、国家主義に基づく畏敬の念を育てようという意図 が露骨になってきているという。「心のノート」が「修身」の教科書なら、それとタイアップして 「音楽」を道徳教育の手段とする戦前の手法がよみがえってきたのだ。
 北村さんはまず学習指導要領で音楽に限って必ず載せなければならない共通教材が示されていることを 指摘する。
 小学校学習指導要領音楽は、1958年以来、必ず扱うべきものとして共通教材を示してきま した。1998年改訂(2002年実施)からは内容の三割削減に伴って、鑑賞教材については直接 曲名をあげることはなくなりましたが、歌唱教材については「日本のよき音楽文化を世 代を超えて歌い継ぐようにするため、現行と同様、長い間多くの人々に親しまれてきた文部省 唱歌や、各学年の指導内容として適切なものの中から選択して、これを示すことにする」とい う教育課程審議会の答申に従って、各学年4曲、計24曲をあげています。指導要領は、このう ち3曲を必ず載せるよう指示していますが、小学校音楽教科書を発行している3杜は24曲全 部を載せています。
 その24曲は次のようである。

 歌唱共通教材一覧

第一学年
うみ(文部省唱歌)1941
かたつむり(文部省唱歌)1911
日のまる(文部省唱歌)1911
ひらいたひらいた(わらべうた)1977

第ニ学年
かくれんぽ(文部省唱歌)1941
春がきた(文部省唱歌)1910
虫のこえ(文部省唱歌)1910
夕やけこやけ(中村雨紅作詞草川信作曲)1941

第三学年
うさぎ(日本古謡)1941
茶つみ(文部省唱歌)1912
春の小川(文部省唱歌)1912
ふじ山(文部省唱歌)1910

第四学年
さくらさくら(日本古謡)1941
とんび(葛原しげる作詞柴田貞作曲)1977
まきばの朝(文部省唱歌)1932
もみじ(文部省唱歌)1911

第五学年
こいのぽり(文部省唱歌)1913
子もり歌(日本古謡)1977
スキーの歌(文部省唱歌)1932
冬げしき(文部省唱歌)1911

第六学年
越天楽今様~歌詞は二節まで(日本古謡)1989
おぼろ月夜(文辞省唱歌)1914
ふるさと(文部省唱歌)1914
われは海の子~歌詞は三節まで(文部省唱歌)1910

※右の数字は、その歌が初めて国定教科書(戦後は検定教科書)に載った年です。
※日本で初めて音楽の国定教科書が作られたのは1911年です。

 これらの教材について、北村さんはそれぞれの歌が作られた時代背景を追っている。

1910~13年
 その大半が1910~13年に作られたものであることに驚きます。言文一致に対抗して「気品高い 唱歌を作ろう」という人々によって作られた初期の文部省唱歌の多くは、国民として身につける べき徳育と我が国の自然を誇る花鳥を主題にしていますが、明治末から大正にかかるこの時期です。 当然のこととして国民思想統一の任もしっかり担っていました。

1932年
 スキーの歌とまきばの朝が入っています。32年といえぱ満州事変の次の年で満州国が作られた 年です。次代を担う少年少女に対する期待が読めます。同じ頃文部省唱歌としては蛍や動物園 等とともに男子用に太平洋が女子用に月見草がつくられています。

1941年
 学校制度が変わり、小学校は国民学校になり、唱歌から芸能科音楽になりました。うみ、かく れんぽが作られ、タやけこやけとともに古謡としてうさぎとさくらさくらが採用され国粋主義が強 調されます。
うみについては、故山住正巳さんが「子どもの歌を語る(岩波新書)」で「どうして、あの戦時 体制下、このようなおだやかな歌が国定教科書に掲載されたのか。」といっておられますが、 太平洋戦争開戦直前です。そのころ海辺に立てば、「この真直向うが南洋諸島」などと指さし あって南進日本の先駆けのつもりでいた自分を考えても、充分侵略の意図が読みとれます。 飛行機の爆音などをきき分ける音感教育も始まっていました。

 1977年改訂された指導要領は「君が代」を国歌扱いにしました。とんびとわらべうたひらい たひらいたと古謡として子もり歌を入れ、ますます日本の伝統文化を強調します。
 そして89改訂ですが、「君が代」の強制と相俟って「日本の音楽」がさらに強調されます。 越天楽もそれです。今様ですから歌詞は子ども向きではありません。
 われは海の子は戦後一旦途絶えていましたが、この改訂で復活しました。それは社会科の 近現代史を、日本は日清日露の戦争に勝利して今日の繁栄の基礎を築いたと押え、東郷平八郎を 登場させたことに連動しています。日本の子どもが海に親しみ体を鍛えておくのは六節のような ことを恐れず、七節のように世界の富を得、国を護るためです。その意図を当面隠すため歌 詞は三節までとしています。

 その大部分が天皇制教育確立の時期につくられた文部省唱歌である。歌わせ、聴かせながら マインドコントロールすることの有効さを活用する施策だ。

 「われは海の子」の六節と七節を掲載する。私は知らなかった。

六.浪にただよう氷山も
  来らば来れ 恐れんや 
  海まき上ぐるたつまきも
  起こらば起れ 驚かじ

七.いで、大船を乗出して
  我は拾わん 海の富 
  いで、軍艦に乗組みて 
  我は護らん 海の国
209 北村小夜さんの講演から(2)
国家による健康管理
2005年3月12日(土)


 前回終わりに引用した北村さんの文は次のように続く。
 04年6月16日、与党の教育基本法改正協議会の中間報告(以下、与党案)がまとめられた。 これによると、第一条の教育の目的をむきだしで「教育は、人格の完成を目指し、心 身ともに健康な国民の育成を目的とすること」としてしまっている。教育の目的を国の法律 できめること自体いかがわしいことであるが、現行は、前文の「個人の尊厳を重んじ」、 一条の「個人の価値をたっとび」と、個人の尊厳と価値を強調し、「国民の育成」には 「平和的な国家及び社会の形成者としての」という限定をつけているが、与党案はここを削除 して、戦争をする国の求める「心身ともに健康な国民の育成」こそが教育の目的だと押し出している。

 憲法改悪と同様、教育基本法改悪も現実の方がそれを先取りして進行している。「心のノート」 で素直で実直な精神を養い、「元気アップハンドブック」で兵士となるための基礎体力の養成をはかる。 かくして「心身ともに健康な国民の育成」が遂行される。
 これは決して穿ちすぎではない。北村さんは「それが現状であることを認識しなければならない。そのことは、 かつて日本が戦争をするに当たって、国民の健康をどう管理してきたかを辿ってみるとよくわかる。」 と述べ、戦中の国家による国民の健康管理の諸施策を辿っている。

1928年 いまも続いているラジオ体操が始まる。     昭和天皇の大礼記念事業としてであった。

1930年 朝日新聞社主催の「日本一健康優良児」表彰制度がスタート。
 一新聞社の主催であったが、文部省の後援で、全国の小学校毎に六年生を対象に、体位・体力だけでなく、操行がよく学力の優れた児童男女一名ずつを推薦させ、地方長官を会長とした地方審査会を経て、中央審議会が最終決定するという国家的大事業であった。いまは目的を達したとして健康優良校表彰制度に変っているが、この事業は1978年まで続いた。

1938年 厚生省が発足。同じ年に制定された国家総動員法の「国家が必要とする時、すべての人・物的資源を統制運用できる」の人的資源の確保の役割を担ってのことである。
 健康・体力の強調は、満洲事変、日中戦争、太平洋戦争と続くなか昂揚を続けていく。

1939年 「産めよ殖やせよ国の為」という標語が出現している。

1940年 国民体力法、国民優生法が制定される。  現在の健康増進法や少子化社会対策基本法に匹敵するものである。

 北村さんは続ける。
 健康が讃えられるとき、障害者や病人はナチスドイツの例をあげるまでもなく排除される。 戦時中、障害者は「ゴクツブシ」「非国民」といわれ息をひそめて生きていた。食糧の配 給が滞るなか、精神病院では餓死に等しい死亡者が多数でたことも忘れてはならない。

 これまでの言動が明らかにしている事だが、イシハラは弱者を極端に嫌う差別者だ。
208 北村小夜さんの講演から(1)
体のノート
2005年3月11日(金)


 先週(3月5日)「板橋のつどい」という集会に参加した。その集会で北村小夜さんの『子どもた ちをとりまく目に見えぬ「強制」』という講演があった。そのお話しの中に2点紹介したい話題があった。 それを紹介しようと思う。
 お話しは当日配られた資料(北村さんの論文)にそって進められたので、その資料からの引用 という形で紹介する。資料は『逆らわない心・丈夫な体 改憲と教育基本法「改正」のめざすもの』 (以下「論文1」と呼ぶ。)と『危ない音楽教科書』(「論文2」と呼ぶ。)

 北村さんはご自身が軍国少女に仕立てられていった経験とつき合せて現在の状況を読み解いて いる。その現状認識にはとても説得力があると私は感じた。

 まず「心のノート」の徳目が戦前の修身の教科書のそれとほとんど同じことを指摘する。また、 修身の場合はほとんどが上から指図する説諭の形を取った教育方法であったが、「心のノート」は 徳目ごとに自己点検を強いるという方法でこころを改造しようとしている。その点では修身以上に 問題だと指摘している。そして、一方的な配布についても大問題だとして「論文2」」で次のように 言っている。
 文科省は02年4月、全国の小・中学生に「心のノート」を配った。〝我が国を愛しその発展を 願う〝国民を育てようというその内容は勿論であるが、手続きも不届き極まりない。
 いま、教育現場で子どもたちに教材を渡すのは生易しいことではない。教科書なら検定制度 があり合格しなければならない上、教育委員会に採択されなければならない。補助教材に してもさまざまな手続きが必要である。
 ところが「心のノート」は、現場の意向などに関わりなく送りつけ、使用を強制している。 このことについては国会でも問題になり、中川智子議員や神本美恵子議員などが質問し ているが、文科省は「地方教育行政の組織及び運営に関する法律(略して地教行法と呼ばれ ている)の中にある、文科大臣は地方公共団体に対して、教育行政にかかわって、必要な指 導・助言、援助を行うことができる権限に基づいたものである」といっている。
 しかし、地教行法48条は1項に「文科大臣は都道府県又は市町村に対し、都道府県委員会 は市町村に対し、都道府県又は市町村の教育に関する事務の適正な処理を図るため、必要な 指導、助言又は援助を行うものとする」と、権限を「教育に関する事務の適正な処理を図る」 に限定している。どう考えてもこの法で国定教材ともいうべき「心のノート」を作成し、配布 して使用を強制するのは無理である。

 こんな製作や配布や使用強制を許していたら次に何が現れるかわからないと憂慮されていたが、 現れたのが、「体のノート」ともいうべき「元気アップハンドプック」というしろものである。 発行文部科学省、製作協力(財)日本体育協会とある。文科省生涯教育課によれば、今年 (04年度)は小学校1、3、5年生に配った。次年度からもそうしていくという。文科省がそう いうのに、まだ受け取つていない該当学年の子がたくさんいるのは、教育委員会を含め、多く の現場が求めているものではない証拠である。

 「心のノート」ほど豪華ではないが、やはり低学年用・中学年用・高学年用がある。いまのと ころ中学生用は出ていないようであるが、かわりに幼児用がある。
 一見して戦時中の国民体力法に基づく体力手帳を彷彿とさせるが、その手法は全く違う。 「心のノート」同様、自己点検させ、自ら一国民として健康と体力アップをめざそうと思 い込ませるよう仕組まれているし、家庭に責任を持たせようという意図もみえる。特に低 学年はカレンダー方式で、365日保護者によるチェックを要求している。

 このところ学校の内外で、子どもの健康に関することがかしましい。

 学習指導要領では77年改訂以来、総則で、道徳教育と体育に関する指導を教育活動全体を 通して行うものとして、各教科にさきだって、徹底の必要を述べてきたが、98年改訂では、 その「体育に関する指導」を「体育・健康に関する指導」に改めている。すでに「健康は 国民の責務である」という健康増進法も施行されている。もう健康を保てない者は非 国民である。障害や病気を持つ人々が生きにくくなってきた。
 学校現場における栄養教諭の新設もきまった。間もなく、知育・徳育・体育の基礎となるべきも のとして食育基本法が成立する。

 「論文1」の冒頭は次のように始まっている。
心と体が国に奪われた。このところ「心のノート」と「健康増進法」による体制をこう呼ん できた。「体のノート」ともいうべき「元気アップハンドブック」も配られた。
 戦争をするには、国民の逆らわない心と丈夫な体が必要である。その育成は多く教育に 求められる。ほぼその仕組みは完成している。
 すなわち、憲法も教育基本法も「改正」された状況にある。

 自分の不明を白状すると、私は「健康増進法」とか「少子化社会対策基本法」とかに 全く関心を持たなかった。北村さんはこれらは戦時中の「国民体力法」とか「国民優性法」に 匹敵すると言う。
207 イシハラの思想弾圧の下地
2005年3月10日(木)


 村上義雄著「暴走する石原流『教育改革』」を読んでいる。前回、前々回で現役のある教員の話を 多少アレンジして都立高校の現状を記録したが、昨夜読んだ部分にそれと同じような事例が次々と出 てきた。あの話は決して特例ではないのだ。
 その部分の見出しタイトルを並べるてみる。

校長の権限は飛躍的に強化され、職員会議はものの見事に形骸化
押し付けられる研修
人事考課、人事異動---教師の士気を削ぐあの手この手
主幹---やる気をなくさせる縦型人事の立役者

 このタイトルを見ただけで私たちはその内実が手に取るように分かる。

 さて、前回、イシハラが市民たちを逮捕し始めたことに触れたが、これも実は用意周到に 準備されていたと思える。前提書の第4章「ここまできた都教委の”学校支配”」を読んで 得心した。

 2003年6月、イシハラは竹花豊という人物を副知事に就任させた。竹花は2001年9月3日から2003年 6月13日までの広島県警で本部長をしていた。いくらか異論があったようだが、翼賛都議会はこの人 事をすんなりと認めた。
 2003年8月、イシハラは竹花を本部長とする「緊急治安対策本部」を組織する。この対策本部での 論議の中で「子どもを犯罪に巻き込まないための方策を提言する会」を発足させた。この会の提言が きっかけとなって具体化したとんでもないものがあったのだ。
以下「ここまできた都教委の”学校支配”」から引用する。
 都教委の”学校支配”は、警察との連携強化にまで発展している。2004年4月5日、都教委と 警視庁の間で締結し、5月1日に施行した「児童・生徒の健全育成に関する警察と学校の相互連 絡制度の協定書」は、ちょっと黙視し難い。協定書の骨子を紹介しておこう。

 まず、警察から学校への連絡事項は、①逮捕事案、②(犯罪をおかす恐れのある)虞犯事案、 ③その他、警察署長が学校への連絡を必要と認める事案など、となっている。
 一方、学校から警察に提供する問題行動として都教委は、①深刻な暴力、②刃物使用の傷害、 ③援助交際、④薬物使用、⑤暴走行為、⑥深刻な学校間抗争、⑦校長が警察に連絡する必要が あると判断する問題行為などを例にあげている。

 私は「問題行動」という言葉が気になる。教師と生徒の間で解決可能な事柄まで警察に連絡し てしまう危険性はないのか。
 かつて中学を舞台に「校内暴力」 の嵐が吹きすさんだとき、職員会議は、しばしば激論となった。 紛糾もした。
 「なぜ、安易に警察を呼ぶのか。教師は生徒としっかり向かい合っていると胸を張れるのか。自ら 教育を放棄せよと校長は言うのか。教え子が警察に連行されるのを黙って見ていられるのか」
 教師たちが校長ら管理職に詰め寄る光景を取材者として目撃したのを記憶している。生徒に寄り添 おうとする教師の思いに共感をおぼえた。「教え子を警察に売るのか」という激しい批判が耳の奥に しみ込んでいる。
 しかし、結局、各地域ごとに「学校警察連絡協議会」(学警連)が発足し、連絡を密にする旨、学 校(管理職)と警察が意思統一をはかる結果となっている。
(中略)
 今回の協定は、まるで「中学生を見たら非行を疑え」と頭から決め込んでいるのではないかとさえ 思える。都教委の姿勢と、今回の「協定書」の使われ方を入念に監視しなければなるまい。

 昨今、学校に侵入した部外者による殺傷事件が相次いでいる。圧倒的多数の人が上記の「協定書」 を歓迎するのではないか。 しかし心しなければいけない。他の項目にも問題点はあるが、「その他」 という項目がくせものだ。警察と学校が相互に連絡し合うとした項目の中でも「③その他、警察署長が学校への 連絡を必要と認める事案」と「⑦校長が警察に連絡する必要があると判断する問題行為」が問題だ。
 今回の市民を逮捕するに至る警察・学校の連携は、イシハラ・都教委の直接の指示があったようだ 、この「協定書」がその指示の根拠であったろうと思う。
 村上さんは学校が安易に生徒を警察に引き渡すようになることをのみ杞憂している。まさかこれが 市民を弾圧するための項目になるとは全く思いも及ばなかっただろう。もっともなことだ。 こんなべらぼうなことは誰にも予測できなかっただろう。
 もしも「協定書」作成時に竹花がその項目で市民弾圧をも想定していたとしたら、竹花というヤツは イシハラが見込んだだけあって、相当な悪だ。
207 奴隷犬の生態(2)

2005年3月9日(水)


 イシハラの目論みは行き詰まっている。

   まず校長を服従させる。これはたやすかった。教育に対する高い志があって校長の道を選んだ、 なんていう校長はまれだ。ほとんどは出世したがりヒラメ校長だから権力には喜んで拝跪する。

 次は教員だ。
 ずいぶん以前のこと、「教員は臆病だから組合から脱退させて一人一人を孤立させれば何もできない 」というようなことを自民党の文教部会とかで言っていると、ある本で読んだことがある。
 脱退させるまでもない。都高教が全くの腑抜けだから、組合はあってなきが如し。イシハラはほく そ笑んだ。処分で脅す職務命令を校長に出させれば一件落着、と思ったことだ ろう。ところがどっこい、まつろわぬ教師たちがいた。

 それじゃ搦め手から攻めようと、生徒を使った戦術を加えた。ところが相当数の生徒が不服従を 貫いている。しかも事ここに到っては黙ってはいられない、自由が圧殺さると、保護者を始め市民 たちが立ち上がった。

 市民を服従させるには警察力に頼るしかない。公安まで動員して「日の丸・君が代強制」に抗議する ビラを配っている市民たちを逮捕し始めた。大日本帝国時代の思想弾圧を彷彿とさせる。イシハラの 目論みが行き詰まっている証拠だ。

   イシハラが文字通りの意味で狂っているのかどうか分からないが、学校が狂ってきたのは確かだ。


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 私たちの学校の管理職は成績を上げて出世することしか頭にありません。イシハラや都教委のお気 に召すような事をすれば成績が上がるのです。何をすればお思し召しに適うのかと日夜一生懸命 考えているようです。

 昨年度のことです。校長は突然重点指定校に立候補すると言い出しました。2期制にして1日7時間 授業にするというのです。教員はこぞって反対しました。私たちの学校の生徒には2期制・7時間授業 はふさわしくない、生徒のためにならないからです。しかし校長は私たちの意見に全く耳を貸そうとし ませんでした。
 今年度になっていきなり学校の体制が変わっているので生徒も保護者も戸惑っています。
 重点校にならないとお金も人もこないからというのが重点校に立候補する理由の一つでしたが、 結局、お金の方は特別教室2部屋にエアコンが付いただけでした。人の方は逆に教員の数は減らされ、 講師時数も減らされ、開講できなくなった科目・講座が出てきました。お金も人もまったく好いこと はありませんでした。

 実績が上がらないことに焦った校長は、こんどは生徒の髪の毛に着目しました。「生徒の髪の毛を 真っ黒にする」と言い出したのです。髪の毛を染めている生徒は進級・卒業させないというのです。 もうここまでくると本当に狂っているとしか言いようがありません。もちろん私たちは激しく反対し ました。

 生徒の学校評価アンケートには「校長いらない」「校長出て行け」「校長・教頭ウザイ」などなど管理職 への不信・恨みの声が一杯です。

 都の今年度の異動はひどいものでした。校長たちに都教委から「校長の学校経営方針に反対している 教員は異動させよ」という強い指導があったようです。私たちの学校も例外ではありません。職員会議 で校長は「1年目から私に反対意見を述べるような者は異動してもらう。」「私の学校経営方針に反対す る教員はいらない」と言っています。さらに「50歳以上の教員はこの学校にはいらない」などという とんでもない事まで言っています。自分より経験豊富で力量もある教員が目障りなのでしょう。

 私たちの学校ではほとんどの教員が校長の学校経営方針に反対です。半数以上の教員が異動希望を出 しました。しかしめでたく異動がかなったものは強制異動の人と「日の丸・君が代強制」問題で処分さ れた人ばかりでした。だから私たちの学校では「国家斉唱で座っていればよかった。」とか「今度の 卒業式・入学式では立たないでいようかな」なんていう会話が交わされています。
 他の学校では不当異動で多くの人が激しく怒っていますが、私たちの学校では残留希望の人はいない ので、不当異動もあり得ません。とてもうらやましい、いやうらめしい学校です。

 また、今年度から業績評価がCかDだと昇給を3ヶ月延伸されることになりました。全くイシハラは 勝手放題なことをやります。議会もイシハラ翼賛でチェック機能皆無です。
 業績評価は校長がするのですから、校長に逆らうと異動で不利なだけでなく、経済的な不利益を強い られることになります。実質的に処分される事と同じです。イシハラは私たちに糧道を絶つぞと脅して いるのです。頭を無理やり地面に押さえつけて服従せよと恫喝しているのです。
 私は校長のへんてこりんな教育方針には協力しませんし、いつも反抗しているせいか「C,Dをつ けるぞ」と2度もおどしを受けました。

 12月にはこんな事がありました。
 午後年休を取って学校を出たのですが、翌日教頭が「年休時間より早く学校を出ただろう。問題にするぞ。」と 言いがかりをつけてきました。
 校門の所に防犯用の監視カメラが取り付けられているのいるですが、それでチェックしたようです。
 私はその日は校門の立ち番だったので5分早く校門を出て学校の周りを巡回してから出かけたと説明しました。 教頭は「そんなのウソに決っている」といって全く取り合ってくれません。もしたとえ私が5分早く出かけたとして 「問題にするぞ」というほどの問題でしょうか。それに何よりも防犯用の監視カメラで教員を監視してい るとは、そっちの方こそとんでもない問題です。校長も狂っていますが、教頭もそれに輪をかけて、 狂っています。彼らにはもはや教育の「き」の字もありません。こんな人たちが教員を指導する 立場に居座っているのです。これがかつては教師だった者のなれのはてかと思うと情けない気持ちで 一杯です。

 ひどい事がまだまだたくさん起こっているのですが、時間がないのでお話できず残念です。
 でも私たちはどんなことが起こっても一致団結して管理職と闘っています。それぞれの学校で理不尽な 権力と闘う取り組みの一つ一つが私たちの国の民主主義を守ることにつながると信じて、これからも闘い続けて いきたいと思っています。
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 上記の記事の中で、とんでも校長が生徒の髪の毛を進級・卒業の条件の一つにしようという発想 していましたが、これに関連して蛇足を一つ。
[anti-hkm]MLの「ツバメ通信(7)」に次のような記事がありました。
 本日足立東高校の卒業式。
  計7人で正門でのビラまき。
  教職員の受け取りは今一つだが、生徒・保護者の受け取りはすごくよかった。
  教員がずっと7~8人入り口に立って、生徒を入り口で止めて、頭髪検査。
  髪を染めている生徒には黒スプレーを買いに行かせて、その場で黒くさせていた。
  1~2人のレベルではなく、ほとんど生徒全員。
  その様子を見ていた保護者は凍りついていた。
  反発して帰ってしまった3年生の親子もいた。
  とんでもない人権抑圧に全員驚き、怒った。

 生徒のファッションを規制するのは当たり前と考える教員は、もしかすると多数派です。
 「第151回」(1月12日)で、青木悦さんの講演を紹介しましたが、その中で私は青木さんの指摘 したことを「わが内なる保守・反動」という言葉で受け止めました。まさにこれが教師の内にある 『生徒への「強制」がまかり通る素地』なのです。
206 奴隷犬の生態(1)
2005年3月8日(火)


 先日参加した集会で奴隷犬の生態を如実に物語る話を聞きました。イシハラが成し遂げている 教育支配、というより民主教育破壊がどんな成果を挙げているのか、その実態がよく分かるので 紹介しましょう。信じられないかもしれませんが、みんな本当の話です。信じられな いようなことが日常茶飯事として起こっているのです。

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 私が勤める高校は校長・教頭がイシハラ教育行政の忠実な実行者で次々にとんでもないこと が起こるとても刺激的なあきることのない学校です。
 校長はとんでもない校長ですが、その忠実な子分の教頭はそれに輪をかけてとても凶暴で 狂っているとしか思えないような御仁です。朝っぱらから職員室では教頭の怒鳴り声が響き 渡ります。あるいは教員と教頭が怒鳴りあっています。とてもとても熱気あふれる学校です。
 主幹も4人もいます。そのうち2人はシュカン犬に変身しました。校長・教頭のとてもとても忠実 な奴隷として日々せっせと忠勤に励んでいます。

 校長は10.23通達に嬉々として従って職務命令を出しました。黄門さんの印籠を手に入れたかのよう にとても得意そうです。周年行事・卒業式・入学式と立て続けに3回、文書で出しています。その結果、 処分者が9名も出ました。もしかすると全都一位かも知れません。そのせいか、イシハラに大変気に入 られています。

 イシハラが都教委員という腰ぎんちゃく2名をひき連れて、お忍びで私たちの学校に抜き打ち の視察にやってきました。教員にも生徒にも知らされていませんでした。校長はきっとこのような得体の 知れない突然の闖入者を、都教委のマニュアル通り、建造物侵入で訴えるかと期待していましたが、 ただただ恐慌して揉み手をしながら迎えていました。
 教頭はさらに焦っていたようです。当日の朝初めて知らされたらしく、あわてて朝から一生懸命学 校中を掃除していました。
 イシハラたちは2時間ほど授業を参観して帰っていきました。都知事とか都教委員とかは よっぽどの閑職なのでしょうか。自分の本来の仕事を見失って、しなくともよい事ばかり、 いや、してはいけない事に精を出しているこうしたでかい面の公僕は早く辞めさせるべきです。

 イシハラは私たちの授業がよほど気に入ったのでしょうか。次に都庁からやってきたのは授業の ビデオ撮影班です。東京都の教育政策の検討に使う資料作りという名目でした。これも私たちの知 らぬところで決ってしまいました。どのクラスのどの授業を撮影するのかも校長が独断で決めて、 教員にも生徒にも知らされない秘密事項でした。

 さらに私たちの学校は「生徒指導充実校」に指定という栄誉に浴しました。そのためかどうか、 始業式には都教委からスパイがやってきました。都教委は「生徒の様子を監視するためではなく、 教員がちゃんと仕事をしているかどうかをチェックするための視察だ」と教頭に言っていたとい うことです。

 都教育庁が設定した来年度の生徒指導の重点課題は「全校集会をきちんとやること」だそうです。 なんと崇高な志の高い目標ではありませんか。「東京から日本を変える」というイシハラの秘策の一つに 違いありません。昨年は「勤労奉仕」が打ち上げられました。こんどは「軍事教練」というわけです。 教室から集会場までの往復、集会での聞く姿勢、たぶん軍事教練まがいの一糸乱れぬ集団行 動を目指すのではないでしょうか。もしかすると集会のはじめに日の丸掲揚・君が代斉唱 を盛り込むかもしれません。
 それはあんまり穿ちすぎで冗談が過ぎますよというご意見があるかも知れません。しかし、 実際に冗談のようなことが次々と現実になっていく事例を次々と見せ付けられています。やがて 笑っていられなくなるかもしれません。

話はまだまだつきませんが、きょうはここまでにします。またあした。
205. 詩をどうぞ(16)
2005年3月7日(月)


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205. 詩をどうぞ(16)

2005年3月7日(月)




犬      嶋岡 晨

Ⅰ
尻尾はあるか
と振り向いてみなくてもいい
他人のさし出す汚ない手を
なめたくなったらきみはもう
犬だ

あやしげなことばの煮汁をぶっかけた
人生の残りものに涎をたらし
無意識に尻尾をふったときから
きみは首輪と鎖の従属物だ

ああ 変身はこんなにかんたんだ

かつて枯れ枝のように折って燃やした
あの夢の地平線にむかって
せいいっぱい遠吠えするがいい
きみの「故郷」は
飼い主のなかにもないのだから。


Ⅱ
ぼくがこんなにいそがしげに尻尾をふり
きみたちの慈愛に甘えるからといって
ぼくの口がこんなに深く裂け
裏切りの牙を光らせ
しかもいじけた乞食の目をもってるからといって
ぼくを犬だときめつけないでほしい

ほんとうはぼくは
少しばかり毛深すぎ
みずからの動物性に忠実に
地面にへばりつくのが好きなだけだ

いやいやそんなに深刻に
考えないでほしい
きみたちとぼくが
生活の場を共有しているからといって
それほど関心があるわけじゃない
つまり「主従関係」や「家庭の事情」に
あるいは時代のいやな匂いに……

ぼくはただ
やむをえず犬の肉体を借りている
つややかな「自己愛」にすぎない
ときに
非人間的な疾走によって
センベイみたいな太陽にとびかかり
雲だらけになって帰ってくる
ささやかな「自由」のもちぬしにすぎない。

(「ユリイカ1974年6月号」より)


 もれ聞くところによると、最近都立高校ではイシハラ犬とかトキョウイ犬とか、権力・権威 の薄汚れた手をよだれを流しながら舐めている犬が増えているとかいうことです。もう一つ下の 科で分類するとコウチョウ犬・フクコウチョウ犬・シュカン犬・シュニン犬とかがあるといいます。 フクコウチョウ犬・シュカン犬・シュニン犬というのは新種でしょうか。私ははじめて知りました。 そういえばキョウトウ犬というのは絶滅したのでしょうか。
これらの犬は総称して奴隷犬と呼ばれているそうです。奴隷犬は奴隷根性でヤニだらけになった 牙をむき出して、かっての自分の同胞に威嚇のうなり声を浴びせているそうです。そして、盗人 にも三分の理、いや、犬にもドッグの理ありと、あのヒットラー犬・アイヒマンの言い訳を密かに翻 訳しているということです。
 いま都に増殖している奴隷犬の生態の一例でも紹介できればよいのですが、今日はこれにて 失礼します。ごきげんよう。
204. 再軍備はどのうに行われてきたのか(6)
再軍備の完成=九条改定
2005年3月6日(日)


 吉田が鳩山と党内に憲法改正調査会を設けることを合意した53年11月17日が憲法改定へと 大きく踏み出すスタートラインだった。以来約50年にわたって、支配階層は軍備増強と平行して 改憲のための布石も積み重ねてきた。そして今、ようやくその念願をはたすときを迎えたと 勢いづいている。

 3月4日、政府は昨年成立した「国民保護法」(正しくは「国家総動員法」という)に基づく 「国民の保護に関する基本指針」案を公表した。朝日新聞(3月4日付夕刊)の見出しに 「政府 武力攻撃時の対応を示す」とある。この見出しを目にしてすぐ思ったことは、 「一体どこの国の攻撃を想定しているの?」「脅威・不安を煽るのが真の狙いじゃないのかな」 ということだった。九条改定をスムースに運ぶための布石の一つだ。

 隠蔽のためか怠慢の故か、いずれにしろマスコミが報道しない重要な情報はかなり多いと思っている。 情報補充の一つの手段としてインターネットを利用している。国際情勢については
「田中宇(さかい) の国際ニュース解説」

を読んでいる。

 そのサイトの3月1日の記事「中台関係と日本の憲法改定」で、2月19日の『日米の「2+2協議」 (防衛・外務のトップどうしの安全保障に関する協議)』を取り上げて解説をしている。
 「2+2協議」について一般には「台湾海峡の問題を平和的に解決することが日米の共通目標であると 初めて両国が表明した。日本ではこの話が、日米が共同で中国を封じ込める姿勢を強めたことの証 しであると解釈されている。」
 しかし、田中さんはアメリカの中国に対する長期的な政策傾向や、北朝鮮をめぐる問題での中国 への対応や台湾をめぐる中国・台湾双方の動きを俯瞰した上で
『この協議の前後のアメリカ側の対応を見ていくと、 実はアメリカは「日本と組んで中国を封じ込める」という動きを採りたがっていないように思える。』
『アメリカは2+2の宣言を発しつつも、中国を刺激する結果にはしたくない。このようなややこしい 状況になっている理由として推察できることは、宣言に台湾海峡問題を盛り込みたかったのは、ア メリカではなく日本なのではないか』
と述べている。

 そして、「そのように考え始めると、ほかにも思い当たることがある。」と、「竹島問題」・「東シ ナ海の石油・ガス田問題」・「拉致問題」などに対する政府とその周辺の姿勢の硬化を挙げて「周辺 諸国との関係悪化の流れは、最近になって頂点に達し」たと指摘している。
 以下、田中さんの記事をそのまま引用する。
 ここまでそろって悪化すると、私には、何かおかしいと感じられる。日本政府には、 中国や韓国、北朝鮮と、わざわざ対立しなければならない特段の事情でもあるのだろうか、 と思っていたところ、国会で出てきたのが、日本国憲法改定のために必要な国民投票を行う 構想であった。

 憲法を改定して日本が正式な軍隊を持てるようにする国民投票を成功させるには、周辺諸国 が日本にとって脅威である状態の方が良い。小泉政権は、憲法9条を改定するために、周辺諸国 との関係を悪化させる方向へと事態を微妙に動かしてきたのではないかと思われる。

 小泉政権が憲法9条の改定を急ぐために周辺国との関係を悪化させているのだとしたら、なぜ そこまでして急いで憲法を改定しなければならないのか。その理由はおそらく、すでに前回の記 事で書いたことだが、在日米軍が日本から撤退していくので、自衛隊を軍隊に格上げするなど、 日本は軍事的な行動の自由を広げて対応しなければならなくなっている、ということだろう。

 九条を改定しなければ再軍備は完成したことにならない。九条改定はまさしく再軍備の画竜点睛 なのだ。再軍備完成のために、支配階層はさらに周到にあの手この手の布石をしてくるだろう。
203. 再軍備はどのうに行われてきたのか(5)
再軍備の経過がはらんでいた問題点
2005年3月5日(土)


 福島氏は「再軍備の経過がはらんでいた問題点」を5点挙げている。それぞれ長い文章なので 要約をして紹介する。

(1) 警察予備隊ほ警察の名で実体をおおったので、地上部隊のみに限られていた。しかし保安庁の下 で陸海二部門をそろえた上、航空部隊の準備を始めた。それらは54年7月には航空自衛隊に合流した。

(2) 保安庁発足時に大量に旧軍人が入隊し、編成、訓練等の主導権はたちまちかれらに移った。 54年5月の保安庁幹部級軍歴表(旧軍尉官以上)によれば、旧軍人は保安隊で24.4%、警備隊で 実に80.2%をしめた。隊内では昭和初期のファッショ的青年将校が愛好した「昭和維新の歌」が教 えられ、社会では在郷軍人会、戦友会が復活した。これら旧軍人はその後20数年自衛隊を指導し、 その下で新しい幹部自衛官の団体精神が養なわれたのである。

(3) それと関連してシビリアン・コントロールの問題が深刻となった。
 保安庁法第16条6項では内局の課長以上の幹部は幹部保安(又は警備)官の経歴のない者のうち から任用すると定めていた。これが審議中から旧軍人の激しい攻撃を受け、大橋国務相は修正 を考慮していたが、原案どおり制定され、批判は続けられた。54年6月の防衛庁法ではとうとう この制限を撤廃するにいたった。そのことにより内局幹部は制服よりに立場が変っていったと みられる。
 そればかりでなく55年3月の第二次鳩山内閣では野村育三郎元海軍大将の防衛庁長官起 用を求め、内閣法制局の異論で断念している。

(4) その点にも示されたように政治指導層には軍事政策立案・検討能力がなく、在日米軍や MSA軍事顧問団と直接連絡した部隊幹部の決定によって、重要な政策路線が既成事実として先行 的につくられる慣習が確立した。
 例として
 ① 海軍の設置は米軍からのフリゲート艦の半ば強制的貸与によって行われた。
 ② 航空部隊の設置も在日米空軍と旧陸海軍幹部との間で協議されていた。
 ③ レーダー部隊の養成、スクランブルの航空自衛隊によって担当なども米軍との合意によって進められた。
などがあり、
 このように重大な政策は国会はおろか閣議でも事前に検討されたことはなく、国民には全く知 らされなかった。

(5) MSA援助を受けるにあたってのアメリカからの強い要請にこたえようと、長期防衛計画 の立案が非公式に始められている。
 ① 53年5月12日経団連は「防衛生産八ヵ年計画」を発表。
   59年までに総額2兆9700億(米への依存2兆3200億)という大きな規模を示した。
 ② ついで木村保安庁長官が談話の形でやや小規模な「警備五ヵ年計画」を発表も吉田首相 に政府正式見解ではないと叱貴され、取り下げる。
 ③ 9月2日あらためて保安庁が「防衛五ヵ年計画案」を発表。
 ④ 経済審議庁もその頃さらにひかえめな「防衛六ヵ年計画」を作っている。
 ⑤ 53年10月の池田・ロバートソン会談で「防衛五ヵ年計画池田私案」を示す。総経費9000億円。
 ⑥ 最も極端なものは増原恵吉保安庁次長が同じ10月7日自由党総務会で理想案を説明。五ヵ年で 7~80兆円と大風呂敷をひろげる。米顧問の希望意見と日本案がひかえめなものだと見せる演出をした。
 これらの計画案の競演によって、再軍備が不可避であり計画的に進める義務を負っているという 国民的意識の刷り込みをはかっていた。

 いずれにしても憲法第九条を無視し国民に対する説明と討議を行なわずに、すべて既成事実のつみ 重ねによって進められてきたという点が重要である。

 前回の年表でも略記したが、池田・ロバートソン会談の直前9月27日に吉田・重光の自由・改進両 党首会談が行なわれた。吉田は重光に衆議院202名の少数与党の上に立つ第五次吉田内閣の防衛政策 への協力を求めた。両者の合意は、
1. 長期防衛計画を立て、自衛力増強の方針を明らかにする、
2. 保安隊を自衛隊に改め直接侵略にも対抗できることにする、
3. それに関する憲法問題を協議する、
4. 長期経済建設の政策も協議する、
というものであった。

 上記の3.とは別に、53年11月17日吉田が分党派自由党をひきいる鳩山に復党を懇請 し、その条件として党内に憲法改正調査会を設けることを合意した。このときから、 憲法「改正」への歩みがふみ出されることになった。
202. 再軍備はどのうに行われてきたのか(4)
保安隊から自衛隊へ
2005年3月4日(金)


 朝鮮戦争は1951年3月から38度線での一進一退の攻防戦となり、膠着状態になった。
 休戦会談は相互の駆け引きのため何度も休会・再開を繰り返し、停戦にこぎつけたのは1953年で あった。

  1953/07/27 朝鮮休戦協定に調印。22時に朝鮮停戦実施。

 東西冷戦は緊張緩和期を迎えた。この国際情勢に助けられて日本の再軍備 はゆっくりとしたペースで、しかし、情報秘匿とウソと憲法の詭弁解釈で国 民を欺きながら、確実に既成事実を積み上げていった。

 保安隊から自衛隊へと、名実ともに世界有数の軍隊になっていく経過を年 表にしてみる。

1953/06/09 保安庁長官木村篤太郎、記者団に警備5ヵ年計画案につき発言。
      1957年度に保安隊二十万人、艦船十数万トン、航空機千数百機の
      実現をめざす長期防衛計画、問題化。

1953/07/30 衆議院予算委員会で吉田茂首相と芦田元首相間に保安隊の自衛
      軍化をめぐり防衛論争おこる。吉田茂首相、国力の充実まで自
      衛軍を持たずと言明。

1953/09/27 吉田茂(自由党)・重光葵(改進党)会談。保安隊を自衛隊に
      切替え、直接侵略に備える長期防衛計画に意見一致。

1953/11/03 吉田茂首相、衆議院予算委員会で、「交戦権がない以上、保安
      隊は軍隊とはいえないが、しかし軍隊の定義いかんによっては
      戦力にいたらしめないという制限のもとに保安隊を軍隊という
      ことは自由であると思う」として「戦力なき軍隊」論提唱。

1954/02/01 保守3党防衛折衝で、自衛隊などの設置要綱につき意見一致。

1954/03/08 防衛庁設置法案・自衛隊法案を決定。

1954/03/11 防衛庁設置法案・自衛隊法案、衆議院提出。

1954/04/16 衆議院内閣・外務連合委員会で佐藤達夫法制局長官、
     「自衛隊の海外派兵はその任務が平和的仕事に従事するものである
      ならば、公務員の海外出張で憲法違反にあらず」と答弁。

1954/05/07 防衛庁設置法案・自衛隊法案、衆議院通過。

1954/06/02 防衛二法案(自衛隊法案、防衛庁設置法案)、84日間の審議のの
      ち、政府原案通り可決。

1954/06/09 防衛庁設置法・自衛隊法公布。保安隊を改組して陸・海・空の3軍
      方式とする。
      戦後初めて外敵への防衛任務を規定。自衛隊16万4,538名となる。

1954/07/01 防衛庁設置法・自衛隊法施行。総理府内に防衛庁設置。自衛隊発足。

1954/12/21 衆議院予算委員会で外交方針、自衛隊をめぐる憲法論議(-23)。

1954/12/22 木村篤太郎防衛庁長官、憲法第9条に対する政府の統一解釈発表。
      自衛隊保有は独立国の当然の権利であるが国際紛争解決のための武
      力行使とは本質的に異なるのであり、侵略への対処のための「軍隊」
      保有は違憲ではないとの内容。

1955/08/01 日本、防衛庁設置法・自衛隊法改正公布。自衛隊員19万5,810名となる。

 サンフランシスコ会議でグロムイコ・ソ連全権は、講和条約を強く批判するとともに 自衛のための日本の軍備の限度を数字で示し、保有を禁止する兵器をあげていたという。 福島氏は自衛隊の戦力がグロムイコの数字を越えていく年度を調べている。

(1)〔陸軍15万〕1955年に15万。56年16万となった。          (上記年表によると1954年16万、55年19万・・・仁平)    〔戦車200台〕 53年7月には340台であった。 (2)〔海軍2万5000人〕58年。    〔総トン数7万5000トン〕魚雷艇、揚陸艇などまで加えて57年。              主要艦種のみでは61年。 (3)〔空軍2万人〕 56年。    〔戦闘及び偵察機200機〕 57年。 (4) 保有禁止。    〔原子、細菌、化学兵器、射殺30キロをこえる大砲、人間魚雷〕      公表のかぎり未だにもっていないはずである。       (これは1977年ごろの記述です・・・仁平)    〔ミサイル〕グロムイコのいう範囲が明らかでないが、56年ごろ      から対戦車誘導弾の実験が進められ64年制式化し、地上用ロ      ケット弾は67年、艦対空ミサイルは65年から、対空ミサイル      ナイキは59年から訓練を始め、63年から装備した。      空対空ミサイルは57年末に供与を受けた。      IRBM(中距離弾道弾)以上はもっていない。

 福島氏は日本政府に再軍備を強要してきたアメリカの真の意図を次のように推測している。

 それでは日本の再軍備とは何であったのか。アメリカにはもし朝鮮休戦会談が決裂して戦争 再開となった場合には、出兵を求めて米韓地上軍の補強とする計画があったに違いない。それ には多分吉田が抵抗したであろう。だが、拒否しきれたかどうかは疑問である。前節で記した 政界の状況からすれば、吉田に代ってアメリカに協力する政治指導者をおしたてるクーデタを 計画することは容易だったと思われる。

 一般に吉田はアメリカ一辺倒だったという評価をされているが、一応はある程度の抵抗をしていた。 アメリカはいざという時はその吉田を廃して、いわゆる傀儡政権を樹立することも視野に入れ ていたというとか。保守政治家が虎視眈々と派閥抗争にうつつを抜かしていたのは事実だし、中には 歓んで傀儡政権の担当をしたがる者もいただろう。今のイラクのように。
202. 再軍備はどのうに行われてきたのか(3)
警察予備隊から保安隊へ改編
2005年3月3日(木)


 今回から主に利用する資料は「岩波講座・日本の歴史23」所収・福島新吾「日米安保 体制と再軍備」。断りがない場合は引用文はその論文からのものである。

 講和条約は日米安保条約と抱き合わせで進められた。再軍備の第2段階はこの講和条約・安保条約 締結の流れの中から浮上する。保安隊発足までの講和条約・安保条約関係の年表をつくってみる。


1951/03/30 アメリカ、ソ連ほか14ヵ国に対日講和条約草案を送付。
1951/03/31 ダレス米国務省顧問、対日講和条約草案概要発表。
      ソ連の参加は不可欠でないと演説(ロサンゼルス)。
1951/05/07 ソ連、対日講和条約米草案に対する覚書を米に交付。
      米英中との4ヵ国外相会議の開催を要求。
1951/05/19 アメリカ、ソ連が5月7日に交付した覚書、4ヵ国外相会議開催提案を拒否。
1951/07/13 米英の対日講和条約草案をGHQ(連合軍総司令部)発表。
1951/07/21 自由党、講和条約締結に関し共産党を除く各党派に協力を申入れ。
1951/08/15 周恩来中国政務院総理、対日講和条約草案について「沖縄、小笠原
      の日本分離は如何なる国際協定にも規定されていない」と非難。
1951/09/08 日米安保条約(「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」)調印。
1951/09/18 周恩来中国政務院総理、中国不参加の対日講和条約は無効と声明。
1951/10/03 三木武夫、千島列島の領土権、奄美・琉球・小笠原諸島住民の国籍不変更等
      の条件付きで講和条約批准に賛成、同時に安保条約の説明不十分を理由に批
      准は延期すべきだとの民主党方針を表明。
1951/10/25 社会党、講和・安保両条約の賛否をめぐり第二次分裂。左・右社会党樹立。
      左社:講和条約・安保条約反対。右社:講和条約賛成、安保条約反対。
1951/10/26 衆議院、講和条約を307対47、日米安保条約を289対71で各承認。
1951/11/18 参議院本会議、講和条約(174対45)、日米安保条約(147対76)で承認可決。
      批准手続終了。
1952/04/15 トルーマン米大統領、対日講和条約批准書・安保条約批准書に署名。
1952/04/28 サンフランシスコ平和条約、日米安保条約発効。
      GHQ(連合軍総司令部)解消。
1952/04/28 日米安保条約第3条に基づく行政協定発効。
1952/05/01 血のメーデー事件。逮捕者211人死亡2、重軽傷1500人以上、
      警官重軽傷832人。
1952/06/24 吹田事件。大阪府吹田市で朝鮮戦争2周年記念集会後、
      デモ隊と警官隊衝突。60人逮捕。
1952/06/25 新宿駅周辺でデモ隊と警官隊衝突、30人逮捕。
1952/07/31 公安調査庁法(法241)、保安庁法(法265)成立。
      警察予備隊を保安隊に改編。
1952/10/15 保安隊発足。
 5月~6月の警察力による弾圧は、これも仕掛けられた謀略ではなかったかという説がある。 メーデーでは講和条約、日米安保への抗議も行われていた。
 ちなみに警察に機動部隊を設け、特殊放水車、金属カブト、ジュラルミンのたて、防弾チョッキ、 乱闘服、パトカー等々今日にいたる弾圧用装備を整備したのはこのときからのことだという。

 これらの暴力による弾圧は功を奏して、国民の政治に対する批判は急速に封じられていった。
 一方、政界の混迷は社会党のみではなく、保守政党も政策対立と利権を巡って派閥抗争を展開 していた。そのような状況の中でアメリカは日本に対して太平洋防衛機構の創設や、地上軍30万 の即時整備、防衛産業の育成、それらの裏付けとしてのきびしい均衡財政、予算支出の削減など 繰り返し強く要求していた。

 「第188回」(2月17日)で引用した文章の中で鶴見俊輔さんが「吉田が、戦後に憲法を逆手に とってアメリカに対抗しているのは、よくわかったね。」と言っていた。確かにこのとき吉田首 相は再軍備より経済復興を優先課題としていていた。
 そしてこれ(アメリカの要求)に抵抗する吉田の内意を体して、池田が一人で渉外工作を引きう けていたことも今では明らかになっている。
 吉田はアメリカの要求にストレートに応じていたわけではなく、憲法のわくをたてにとって、 急速な再軍備を拒んでいた。これに反し鳩山は旧軍人の服部卓四郎元大佐(米軍と再軍備を画 策した)の意見を不用意に取り次ぎ、安易な自立再軍備と改憲をとなえた。改進党もその前身 国民民主党のころは三木武夫らの強硬な再軍備反対論がリードしていたが、重光総裁とともに 自衛再軍備に大きく傾いた。

 それでは吉田は警察予備隊から保安隊への改編をどのように位置づけていたのか。
 8月4日吉田は保安庁長官事務取扱いとして保安庁で本庁幹部および第一幕僚監部(保安隊)、 第二幕僚監部(警備隊)の制服幹部に訓示し、保安庁新設の目的は新国軍の建設であると述べ、 世論にショックを与えた。
 再軍備をスローダウンさせていたが、本格的な軍隊への一過程と考えていたことになる。
 またスローダウンしたとはいえ再軍備への道は、朝鮮戦争特需がしぼんだ後を継ぐ、 旧財閥系列企業の甦生と肥大化の道でもあった。資本は戦争を食い物にして肥えていく。今アメリカの イラク侵略でどこの国のどの資本が肥えて続けているのだろうか。

 吉田の経済復興政策は電力開発、海運・造船、鉄鋼合理化、石炭振興、道路網の整備などを重点とし ていた。旧財閥系列企業を中心とする財界主流の要求に応えた政策と言える。
 そしてこれらの政策が吉田側近派(それは池田派などに長く受けつがれる)に大きな政治資金ルート をつくり出した。その資金は政治資金規正法によって届け出られるものばかりでなく、巨大な「裏金」 を生んだ疑いがあり、今日にいたる政治腐敗の発端をなしているようにみえる。有名な造船疑獄 (1954年1~4月捜査)はその最大の実例であった。
 また政府は旧軍用施設の払下、電力開発、兵器生産の保護育成、鉄鋼・海運等の合理化、企業の 整理統合などにあたり、旧財閥系企業の再結集に大きな援助を与え、対日援助見返資金、MSA見返 資金、世界銀行借款などをさかんに活用した。これに対して別の巨大な「裏金」が流れたときに、 吉田派の権勢が急速に傾いたように見える。
 「裏金」という献金を多く獲得するものが権力を握る。なるほど立派な民主主義国家だ。

 こういう事例と並べて読んでみると、例えば、次のような一節がよく理解できるように思う。
「民主主義とは、《関係者の全員が、対等な資格で、意志決定に加わることを原則にする政治制 度》をいう」のだと橋爪は定義する。なにも救抜するまでもない。この程度の凡庸な民主主義 観は蔓延している。
 しかし橋爪などという大学教師より財界首脳や労組幹部の方が政策決定への影響力が強いと いうのが、近代国家における民主主義のうんざりするほど陳腐で凡庸な事実である。政治的権 利が平等でも社会的に不平等なら、《対等な資格》はフィクションにすぎない。
(「第109回」・2004年12月1日)

 選挙を通じて国政に民意が反映する、という神話は、あるフィクションを前提としている。 それは、個々人が一票というかたちで平等な権利を有している、ということだ。
 しかし、政治的平等は市民社会における不平等に裏打ちされている。対等な個々人の主体 的な判断によって、政治の動向が決せられるなんて全くのうそっばちだ。政治を左右してい るのは、企業献金の多寡であり、労組や宗教組織の動員数であることは明白だ。組織票より 浮動票の方が多いはずだ、てか。カネもヒトもなくてどうやって票を獲得するのか。社会的 不平等の中にこそ、《政治》の決定要因があるのだ。
(「第149回」・2005年1月10日)

このように、ブルジョアジ一による国家的支配とは、その総資本的意志が 国家意志を実質上大きく支配することである。また、ブルジョアジーはそのことによっ てはじめて、経済的支配階級としての自己を、政治的な統治階級としても構成することができるので ある。
 これは、支配階級が、総資本的意志をプロレタリアートはじめ国民的諸階級・諸階層の全体 に直接押しつけ、服従させることが出来るようになったことを意味する。
(「第93回」・2004年11月15日)
200. 再軍備はどのうに行われてきたのか(1)
警察予備隊創設の背景
2005年3月2日(水)


 主に利用する資料は「岩波講座・日本の歴史22」所収・山極晃「朝鮮戦争と サンフランシスコ講和条約」。断りがない場合は引用文はその論文からのもの。

 まず、冷戦の緊迫化と朝鮮戦争勃発までの経過を、日本とGHQとの関係に絞ってたどってみる。 (「データベース20世紀年表」より)

1949/02/05
  アイケルバーカー米中将、
  日本の警察力増強を強調。
1949/05/07
  吉田茂首相、外国人記者に
  和条約調印後も米軍の日本駐留を
  希望と表明。
1949/07/04
  マッカーサー連合国最高司令官、
  アメリカ独立記念日にあたり、
  日本は共産主義進出阻止の防壁と声明。
1949/08/27
  日本占領軍早期終結せず、
  と米陸軍次官言明。
1949/10/11
  コリンズ米陸軍参謀総長来日(-17)。
  「沖縄の無期限保持、在日米軍の長期滞在」を言明。
1950/01/12
  アチソン米国務長官、米の防衛線は
  アリューシャン・日本・沖縄・フィリピンを結ぶ線と言明。
1950/02/05
  マッカーサー連合国最高司令官、   バタワーズ米国務次官補と会談、   極東の共産主義阻止以上に重要な仕事はないと強調。 1950/02/10   GHQ(連合軍総司令部)、「沖縄に   恒久的基地建設を始める」と発表。 1950/06/02   警視庁、GHQ(連合軍総司令部)政府の方針で   東京都内の集会・デモを6月5日まで禁止。   6.5当分禁止継続と発表。 1950/06/23   ジョンソン米国防長官、   「沖縄は太平洋における米国防衛上   の恒久的砦になろう」と語る。 1950/06/25   朝鮮戦争勃発。 1950/06/30   アメリカ政府、朝鮮への地上軍派遣を決定。   在日アメリカ軍四個師団が朝鮮へ移動開始。

 1949年は下山事件・三鷹事件・松川事件など不可解な事件が相次ぎ、それらを契機に共産党 への弾圧が熾烈を極めていった。いわゆるレッド・パージである。それらの事件は共産党弾圧 のための謀略ではないかとの説もある。

 朝鮮へ移動したアメリカ軍の空白は日本国内の治安悪化を招くとGHQは懸念した。GHQは その空白を埋めるため警察予備隊の創設を決定する。

1950/7/8
  マッカーサー、吉田首相に書簡を送る。
  「7万5000名からなる国家警察予備隊を   設置するとともに、海上保安庁の現有   海上保安力に8000名を増加するのに   必要な措置を講ずることを認める」

 「認める」なんてあるが、こりゃ、明らかに命令だな。
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 アメリカ政府は以前から日本の限定的な再軍備や警察隊増強の必要を論じていたが、マッカ ーサーはそれまでは消極的であった。しかし朝鮮への派兵決定に直面してマッカーサーも警察予 備隊の創設に踏みきったのであり、ここで言われている7万5000名という数字はほぼ在日アメリカ 軍四個師団に相当するものであった。
 総司令部内では、予備隊創設の権限をめぐって内部抗争があったが、民事局長シェパード少将が 編成の責任者となり、日本政府機関と交渉する権限をもった。そして民政局(GS)が幹部の選考、 参謀第二部(G2)が隊員の募集、参謀第三部(G3)が部隊の配置と用兵を担当することになった。 日本側は大橋法務総裁と岡崎内閣官房長官が責任者として総司令部との折衝にあたった。
 吉田首相は、マッカーサー指令を警察力の不足を救う「絶好の機会」と受けとったと後に書いて いるが、総司令部が単なる警察力の増強ではなく、戦闘力をもった部隊を構想していることは折衝 にあたって直ぐ判明した。シェパード少将自身、コワルスキー大佐にこう語っている。「わしはマ ッカーサー元帥から警察予備隊を組織する大役を仰せつかったんだ。警察予備隊というのは、さし あたり四個師団編成で、定員7万5000人の国土防衛隊だが、将来の日本陸軍の基礎になるものだ」。 われわれは在日アメリカ軍に「とってかわる日本の四個師団を編成し訓練する仕事を与えられたのだ」。


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