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136. 『「非国民」手帖』を読む(27)
すべてはメディアの中の話
2004年12月28日


俎上の鯉:『諸君!』(2003年3月号)「『日本ナショナリズム』の血圧を測る」
料理人 :歪
料理記録日:03年4月号

 朝日新聞が「不健康なナショナリズムが目につく」と北朝鮮をめぐる状況を危惧し、石原慎 太郎がW杯に関して「日頃我々が意識無意識に抱えていた国家と民族に対するものの激しい噴 出によるエクスタシー」と「健全なナショナリズム」の成育を喜ぶ。《右》も《左》も《ナショ ナリズム》の台頭を認知する中で、『諸君!』(2003年3月号)が「『日本ナショナリズム』の 血圧を測る」と題したアンケート特集を組んだ。
 まあ、もっと行けるぜ、と煽ってるだけだけど。「一層の後押しが必要だ」(鈴木孝夫)、「ナ ショナリズムが広がっているとすれば、大変結構なこと」(中島嶺雄)……と大半がこの調子。  何とも《愛国》知識人たちのノーテンキなことよ。《国家》も《ナショナリズム》もおよそま ともに考えたことがない。
 家から郷土まで、生活に馴れ親しんだ集団に愛着があるのは自然なこと。近代国家成立以前 の太古の昔からある。しかし、それは《ナショナリズム》の基盤ではあるが《ナショナリズム》 そのものではない。普遍的な自然感情と強固な国家への憧憬のないまぜになったものを整理も つかず、自分の都合のいい言葉をあてはめているだけにすぎない。
 国家という幻想共同体に包摂された自己が、他者への優越性を排外主義的に吐き出してはじ めて《ナショナリズム》と呼べる。そんな感情が現実の大衆の生活レベルで形成されていると は思えない。
 ワールドカップをめぐる熱狂や、北朝鮮への憎悪などといったところで、すべてはメディア の中の話だ。ワールドカップは言わずもがな。拉致問題も、北朝鮮という奇怪な世界の情報を 娯楽として消費するための正当化の根拠として、拉致被害者への同情が持ち出されているだけ だよ。
 メディアによって演出された消費行動が《ナショナリズム》かい。
 おとぼけ《愛国》知識人の《過激》でわかりやすい言論が恐ろしいのではない。
 メディアの演出空間を浮遊する言論が不透明化させてしまう《国家》をもう一度あぶりだす、 そういう言論の不在こそ問題なのだ。

十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
 国家という幻想共同体に包摂された自己が、他者への優越性を排外主義的に吐き出してはじ めて《ナショナリズム》と呼べる。そんな感情が現実の大衆の生活レベルで形成されていると は思えない。

 吉本隆明は「日本のナショナリズム」で次のように述べている。
 大衆の現実上の体験思想から、ふたたび生活体験へとくりかえされて、消えてゆく無意識的な 「ナショナリズム」は、もっともよくその鏡を支配者の思想と支配の様式のなかに見出される。 歴史のどのような時代でも、支配者が支配する方法と様式は、大衆の即自体験と体験思想を逆さ にもって、大衆を抑圧する強力とすることである。
 このような問題意識にたいして知識人とは、大衆の共同性から上昇的に疎外された大衆であり、 おなじように支配者から下降的に疎外された大衆であるものとして機能する。
 わたしたちは、日本の「ナショナリズム」を、この大衆「ナショナリズム」と、そこから上昇 的に疎外された知識人の「ナショナリズム」と、大衆「ナショナリズム」の逆立ちした鏡として の支配者の「ナショナリズム」に区別した位相で、つねに史的な考察の対象としなければならない のである。
 このような位相からは、ある時代のある文化のヒエラルキーは、大衆そのものからの、彎曲を 意味している。ただ、この彎曲をとおしてしか、ある時代思想は、すすめられることはないので ある。
 さしずめ現今の「ナショナリズム」というハヤリ病は、 『知識人の「ナショナリズム」』が『大衆の「ナショナリズム」』を『支配者の「ナショナリズム」 』に直結しようしている浮かれ熱のことなのだな。
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