2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
139. 自由について(2)
2004年12月31日


 さて、「人間および公民の権利宣言第6条」は、自由とは他人を害しない限りなにをしてもよい権利だ と言っている。

 各個人が自由にふるまって、かつ他者を害することのない人間の生活状況をロックは次のように 記述している。
 「地上に共通の優越者をもたずに、相互の間で裁く権威をもち、 ひとびとが理性に従ってともに住んでいた状態が、正しく自然のま まの状態である。」
(市井三郎訳・ラッセル「西洋哲学史」より)

 理性=自然法のみに従って互いに害し合うことがない「正しく自然のままの生活」が遠い過去に あったように描いているが、もちろん絵空事である。
 では遠い未来にそのような自由な生活状況がありえるだろうか。これは最後に考えるべき課題である。 いまはまず現段階での「自由」のありようを分析しよう。

 現在の人類のレベルでは、『理性=自然法のみに従って互いに害し合うことがない』ような 「全き自由」は絵空事である。
 では、人間の個々の行為が他人を害すものか害しないものか、その判断の基準は何か。
むろん、法律ということになる。法律は「各人が他人を害しないで行動できる限界」を定めている。 つまり法律が、自由にふるまえる領分を区分し、個人と個人を分離する。ここでいわれている自由とは、 個々ばらばらに孤立した利己的人間の自由である。

 このような自己に局限された個人の権利としての「自由」という人権は具体的には まず所有権=私的所有とう人権として適用される。
第16条(1793年の憲法)「所有権は、すべての公民が、自分の財産、自分の所得、自分 の労働および労務の成果を任意に享受し、また処分する権利である。」
 公民権としての平等(政治的な平等=だれもが同じ重さの一票を持つ)ではなく、市民社会の 成員としての平等(自由の平等)と、安全の保障も人権の一部とされる。
第3条(1795年の憲法)、「平等とは、法律が保護するにせよ処罰するにせよ、すべての者  にとって同一であるところに存する。」  第8条(1793の憲法)、「安全とは、社会がその成員のおのおのに、彼の人身、彼の権利  および彼の所有権の保全のため、保護を与えることに存する。」

 これが、いわゆるブルジョア革命を通して確立されていった「人権」である。公民としての 人間ではなく、市民社会の成員(ブルジョア)としての人間=個々ばらばらの利己的な人間こそが 本来の人間とされたのだ。

すなわち、ブルジョア革命によって
 封建社会は、その基礎へ、つまり人間へ、解消された。ただしそれは、実際にその基礎をなし ていたような人間、つまり利己的な人間への解消であった。
 市民社会の成員であるこのような人間が、いまや政治的国家の土台であり前提である。この人 間は、そのような土台、前提として、もろもろの人権において政治的国家により承認されている。
 しかし、利己的な人間の自由とこの自由を承認することは、むしろ彼の生活内容を形づくる精 神杓および物質的諸要素のとめどもない運動を承認することである。
 それゆえ、人間は宗教から解放されたのではなく、宗教の自由を得たので ある。人間は所有から解放されたのではない。所有の自由を得たのである。人間は営業の利己主義か ら解放されたのではなく、営業の自由を得たのである。

すなわち『《民主主義》とは社会的不平等の上に成立する政治的平等の制度であるから、社会的強者が 多数を占有することは必然であるし、《自由》とは社会的不平等の謂いである。』
 これが現在のところ人類が到達した最高の「人権」であり「自由」である。現今のどの国民国家であれ、 その成員はこれ以上の「人権」や「自由」は持っていないのである。

 それでは『理性=自然法のみに従って互いに害し合うことがない』全き自由は人類には望み得ない 絵空事なのだろうか。
 マルクスは「全き自由な人間」への、つまり真の人間解放への道筋を「ユダヤ人問題によせて」の結語で 触れている。
 ブルジョア革命による『政治的解放は人間を、一方では市民社会の成員、利己的な独立した個人へ、 他方では公民、精神的人格へと還元』したが、真の人間解放は『人間の世界を、諸関係を、人間その ものへ復帰させることである。』と言い、続けて次のように述べている。
 現実の個体的な人間が、抽象的な公民を自分のなかに取り戻し、個体的な人間でありながら、 その経験的生活、その個人的労働、その個人的諸関係のなかで、類的存在となったとき、つまり 人間が彼の「固有の力」を社会的な力として認識し組織し、したがって社会的な 力をもはや政治的な力というかたちで自分から分離しないとき、そのときはじめて、人間的解放 は完遂されたことになるのである。

 「第17回」(8月31日)で紹介したパウロ・フレイレの「問題提起型教育」は、  抑圧者・被抑圧者がともどもに、抑圧-被抑圧の関係の矛盾(双方の非人間性)の 真の克服(双方の人間性の回復)を課題とする教育であり、『人間の世界を、諸関係を、人間その ものへ復帰させる』ための教育であった。
 しかしそのような『真の人間解放』は資本主義というシステムの下では完遂されることはない。
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138. 自由について(1)
2004年12月30日


 「110回」(12月2日)で取り上げた『「非国民」手帖』の論説で、次のくだりに着目した。
 《自由》と《民主主義》を体制への抵抗の原理としてきた側こそ、そのことばの意 味をまともに考えてこなかったことに気づくべきなのだ。
 《民主主義》とは社会的不平等の上に成立する政治的平等の制度であるから、社会的強者が 多数を占有することは必然であるし、《自由》とは社会的不平等の謂いである。

 そのとき、どうして『《自由》とは社会的不平等の謂い』なのか、という問いを自らの課題 とした。この宿題を済まそうと思う。


 旧憲法(大日本帝国憲法)にも一応表現の自由などの権利を認める条項はあったが、天皇が定めた 憲法(欽定憲法)だから当然のこと、それは「恩賜の権利」であった。あって無きが如し、国家 権力の都合でいかようにも制限・剥奪できるものに過ぎなかった。
 周知のように「表現の自由」など全くと言っていいほどなかった。また法律の留保条件のなかった 「信仰の自由」でさえ、〈安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限リ〉 (28 条)であり、 天皇と国家神道 (靖国神社,伊勢神宮) への帰依を全国民が強制されていた。

 では、現憲法で規定されている「基本的人権」とそこで保障されているさまざまな「自由」の根拠 は何なのだろうか。「自然権」と言われている。
 「自然権」とは何か。

   「人権」はアメリカ諸州の州憲法において初めて法文化され、アメリカ合衆国憲法に集約された。 そしてその「人権」思想はロックの「自然法」に多くの影響を受けて形成されたと言う。
 「自然法」についてロックは次のように述べている。
 『しかしこれ〔自然のままの状態〕は自由の状態ではあっても、 放縦の状態ではない。この状態にある人間は、自分の進退あるいは 所有物を処理する制御し難い自由をもっているが、自分自身を滅ぼ す自由はもたないのであり、みずから所有するどのような被造物で も、それをただ保存することよりもより高尚な利用の途がそれを要 求しないかぎり、その被造物を滅ぼす自由はもたないのである。
 自然のままの状態を支配するものは自然法であって、その法は万人を 拘束している。そして自然法と同一であるところの理性は、それの 指示を求めようとするすべての人間に、あらゆるひとが平等で独立 である故に、誰もが他人の生命、健康、自由、所有物に害を与えて はならない、ということを教えるのである。』
(市井三郎訳・ラッセル「西洋哲学史」より)

 人間は神の被造物として神から「自然法=理性」を与えられていて、それは あらゆる「人間の立法」に優先するものとされる。その自然法に基づく権利は 「自然権」と呼ばれてる。

 この思想にもとづいて、アメリカの各州の憲法で人権が、たとえば次のように法文化される。

(以下はマルクス「ユダヤ人問題によせて」(岩波文庫版) を下敷きにしている。引用文も断りのないものは同書からのものである。)

「ペンシルヴァニア州憲法」第九集、第三項、「すべての人間は、その良心のすすめに従って全 能の神を崇拝する不滅の権利を自然から受けとったのである。そして何びとといえども、その意 に反して何らかの祭祀または勤行に従ったり、それらを創始したり、それらを支持したりするこ とを、法律によって強制されることはできない。人間的権威は、それがいかなるもの、いかなる 場合でも、良心の問題に干渉したり、精神の力を支配してはならない。」

「ニュー・ハンプシャー州憲法」第五条、第六条、「自然権のうちいくつかは、それらと同じ 価値のものがありえないがゆえに、本性上、他に譲渡できない。良心の権利はその一つであ る。」
 ここでも人間が「自然から受け取った」権利を「人間的権威」=政治権力が干渉したり、支配して はならないと言っている。

 この人権思想はフランス革命時の「人間および公民の権利宣言」へと引き継がれる。

「人間および公民の権利宣言」
 第2条、「これらの権利(自然的で不滅の権利)は、平等、自由、安全、所有権である。」
 第6条、「自由は、他人の権利を害しないことはすべてなしうるという、人間の権能である。」  
 この「権利宣言」は「人間および公民の」となっている。つまり人権は二つの部分からなる。
 一つは政治的な権利。それは他の人たちとの共同でしか行使されない権利である。つまり政治的な 共同体=政治的国家への参加の権利であり、「公民権」と呼ばれる。誰もが平等の一票を持ち、 平等の立場で「政治的な共同体」に参加している。
 二つは人間の権利、いわゆる「人権」である。これは「公民権」とは区別して扱うべき概念である。
 では「人権」=「人間の権利」と言うときの、公民とは区別された「人間」とは何なのか。 市民社会=社会的国家の構成員である。政治的国家に対する市民社会の関係として「人権」という。
137. 『「非国民」手帖』を読む(28)
次世代にとって教訓的な書
2004年12月29日


俎上の鯉:『心のノート』
料理人 :歪
料理記録日:03年8月号

 シリーズ総計で1200万部。こどもたちはみんな持ってる『心のノート』。知らないよ、 てか。そりやそうだろ。去年から文部科学省が配布している道徳教育の副教材だ。目次には 「礼儀知らずは恥知らず」「自分だけがよければいい……そんな人が多くなったと思いません か?」 「我が国を愛しその発展を願う」などの項目が並び、《道徳》や《公共心》、《愛国心》を 育成する目的がうかがえる。
 しかし。ここで、国家意志のイデオロギー的背景について語るつもりはない。
『心のノート』はまず《作品》として批評されるべきなのだ。『心のノート』自身が《文学》と して、また《芸術》として、《心》に影響を与えようとしている以上、まさに《文学》や《芸術》と しての低劣さこそが問題とされなければならない。
「自分さがしのたびに出よう/カバンに希望をつめ込んで/風のうたに身をまかせ」とはじま る巻頭言(中学校版。以下同じ)。河合隼雄監修ならではの、《自分探し》の迷路に中学生を迫 い込もうとする主題の提示もあんまりだが、なによりその言語感覚の通俗さには暗澹たる思い に襲われる。手垢にまみれた紋切り型の比喩に七五調のリズム。分かち書きさえすればそれだ けで《詩》の要件を満たしていると思っているのか。このような《詩》まがいが、全編を覆っ ている。漱石、芥川、そして吉行淳之介やらの文学作品の一節を恣意的に引用して、道徳標語 として散りばめるという手法に見る権威主義とこけおどしも、原典への裏切り以外のなにもの でもない。
 樹木や葉っぱをモチーフとして緑を基調にした装丁に、柔らかな線を持った解説的なイラス トや写真の多用も、イメージの貧困をさらしているだけ。イラストに326(ミツル )を起用する、ずれた迎合的姿勢も哀しい。
 いったいこのような低劣なことばとイメージによって、どのような《心》が育成されると期 待しているのか。まさに、『心のノート』は、この国の政治家や御用文化人たちが、いかにみ すぼらしい文化と精神しか持ち合わせていないかということを露呈した《作品》である。その 意味では、確かに次世代にとって教訓的な書といってもいいだろう。
    
 教育行政が子どもにしかけてきたこれまでの策略をまとめるとこうなる。

 「心のノート」で従順で実直な精神を養い、「奉仕活動」という科目で無賃金労働の喜びを 知らしめ、「日の丸・君が代」で忠誠心を刷り込み、最後にそれらを総合して「国を愛する 心情」として評定する。



 参考資料として
子どものための民間教育委員会

というサイトから「心のノート」全国送付時の掲載文を紹介する。

 文部科学省は2002年4月1日、「心のノート」を発表し、全国の小・中学校に送付した。
 同ノートは「小学校1・2年」「小学校3・4年」「小学校5・6年」「中学校」の4種類で、 小学校はそれぞれ約260万部、中学校は約420万部の計約1200万部が作られた。この作成費用とし て同省は01年度予算に総額7億2980万円を計上しているが、これは同省の01年度・道徳教育関 連予算(約8億6000万円)の約84%にも上る。

 文科省初等中等教育局によると「心のノート」は「教科書や道徳の副読本に代わるものではな く、日常生活や全教育活動を通じた道徳教育の充実を図るために用いる教材として作成したもの で、児童生徒が自己の生活や体験を振り返る「生活ノート」的な性格や、家庭との「架け橋」と しての性格を有し、児童生徒の道徳学習の日常化を目指したもの」であるとしている。

 同ノートの様々な問題点については、今後検証していくが、概ねその内容は、森・前首相の 「教育改革国民会議」のナショナリズム高揚思想の流れを具現化した「国定修身教科書」と も言えるもので、「教育のことは各自治体・各学校にお任せ」という文科省の建て前と、修身 復活で子どもたちへの思想のすり込みを国という権力が行うという明らかに矛盾した状況とな っている。

 また同ノートは当初、小学校2種類・中学校1種類とし、3年計画で作成する予定で、その費 用として1億9000万円が概算要求されたが、最終的には小学校3種類・中学校1種類を一括配布 することとなったため、7億2980万円に増額されたという経緯もある。

 今後、このページでは「心のノート」の問題点について検証していく。
(2002/07/28)

 なお、「心のノート」(中学校版)は次のサイトからダウン・ロードできる。(PDFファイル)

http://cebc.jp/data/education/gov/jp/konote/cyu/


 また、「心のノート ガラガラポン」というサイトを今日からトップページにリンクした。 教員や父母たちの、「心のノート」をめぐるさまざまな議論を読むことができる。
136. 『「非国民」手帖』を読む(27)
すべてはメディアの中の話
2004年12月28日


俎上の鯉:『諸君!』(2003年3月号)「『日本ナショナリズム』の血圧を測る」
料理人 :歪
料理記録日:03年4月号

 朝日新聞が「不健康なナショナリズムが目につく」と北朝鮮をめぐる状況を危惧し、石原慎 太郎がW杯に関して「日頃我々が意識無意識に抱えていた国家と民族に対するものの激しい噴 出によるエクスタシー」と「健全なナショナリズム」の成育を喜ぶ。《右》も《左》も《ナショ ナリズム》の台頭を認知する中で、『諸君!』(2003年3月号)が「『日本ナショナリズム』の 血圧を測る」と題したアンケート特集を組んだ。
 まあ、もっと行けるぜ、と煽ってるだけだけど。「一層の後押しが必要だ」(鈴木孝夫)、「ナ ショナリズムが広がっているとすれば、大変結構なこと」(中島嶺雄)……と大半がこの調子。  何とも《愛国》知識人たちのノーテンキなことよ。《国家》も《ナショナリズム》もおよそま ともに考えたことがない。
 家から郷土まで、生活に馴れ親しんだ集団に愛着があるのは自然なこと。近代国家成立以前 の太古の昔からある。しかし、それは《ナショナリズム》の基盤ではあるが《ナショナリズム》 そのものではない。普遍的な自然感情と強固な国家への憧憬のないまぜになったものを整理も つかず、自分の都合のいい言葉をあてはめているだけにすぎない。
 国家という幻想共同体に包摂された自己が、他者への優越性を排外主義的に吐き出してはじ めて《ナショナリズム》と呼べる。そんな感情が現実の大衆の生活レベルで形成されていると は思えない。
 ワールドカップをめぐる熱狂や、北朝鮮への憎悪などといったところで、すべてはメディア の中の話だ。ワールドカップは言わずもがな。拉致問題も、北朝鮮という奇怪な世界の情報を 娯楽として消費するための正当化の根拠として、拉致被害者への同情が持ち出されているだけ だよ。
 メディアによって演出された消費行動が《ナショナリズム》かい。
 おとぼけ《愛国》知識人の《過激》でわかりやすい言論が恐ろしいのではない。
 メディアの演出空間を浮遊する言論が不透明化させてしまう《国家》をもう一度あぶりだす、 そういう言論の不在こそ問題なのだ。

十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
 国家という幻想共同体に包摂された自己が、他者への優越性を排外主義的に吐き出してはじ めて《ナショナリズム》と呼べる。そんな感情が現実の大衆の生活レベルで形成されていると は思えない。

 吉本隆明は「日本のナショナリズム」で次のように述べている。
 大衆の現実上の体験思想から、ふたたび生活体験へとくりかえされて、消えてゆく無意識的な 「ナショナリズム」は、もっともよくその鏡を支配者の思想と支配の様式のなかに見出される。 歴史のどのような時代でも、支配者が支配する方法と様式は、大衆の即自体験と体験思想を逆さ にもって、大衆を抑圧する強力とすることである。
 このような問題意識にたいして知識人とは、大衆の共同性から上昇的に疎外された大衆であり、 おなじように支配者から下降的に疎外された大衆であるものとして機能する。
 わたしたちは、日本の「ナショナリズム」を、この大衆「ナショナリズム」と、そこから上昇 的に疎外された知識人の「ナショナリズム」と、大衆「ナショナリズム」の逆立ちした鏡として の支配者の「ナショナリズム」に区別した位相で、つねに史的な考察の対象としなければならない のである。
 このような位相からは、ある時代のある文化のヒエラルキーは、大衆そのものからの、彎曲を 意味している。ただ、この彎曲をとおしてしか、ある時代思想は、すすめられることはないので ある。
 さしずめ現今の「ナショナリズム」というハヤリ病は、 『知識人の「ナショナリズム」』が『大衆の「ナショナリズム」』を『支配者の「ナショナリズム」 』に直結しようしている浮かれ熱のことなのだな。
135. 詩をどうぞ(10) 追悼・石垣りん
2004年12月27日


 朝刊に詩人・石垣りんさんの訃報が載っていた。

 若い頃に精神の糧を頂いた方々がぽつんぽつんと逝かれる。その度に 奥深く埋もれ忘れていたその頃の若いこころがそっと蘇えって、今のこころに 苦いものを残してまた埋もれていく。そして私は否応なく私自身の残された生死 に思いをいたす。

 時代は主観的に裁断される。私は今を時代の大きな転換期だと裁断している。

 新聞には茨木のり子さんが追悼の言葉を寄せている。石垣さんの最高傑作として「崖」を あげていらっしゃる。
 「崖」と、このホームページのテーマと重なる部分のある詩を2編選んでみた。


 

戦争の終り、
サイパン島の崖の上から
次々に身を投げた女たち。

美徳やら義理やら体裁やら
何やら。
火だの男だのに追いつめられて。
とばなければならないからとびこんだ。
ゆき場のないゆき場所。
(崖はいつも女をまっさかさまにする)

それがねえ
まだ一人も海にとどかないのだ。
十五年もたつというのに
どうしたんだろう。
あの、
女。



 愚息の国

あなたはどなたでいらっしやいますか。

ロケットが、もう月の世界にとどいている
一九六〇年の一月一日
新聞をひらけば
我が子を「日の御子」と呼んで
その結婚をことほぐあなたの歌がのせられている。

元来つつしみ深い日本の庶民たちは
賢い子供も愚息と呼び
トン児などと言い捨ててきた。

正月気分で街に出れば
年令はこの国の皇太子がらみ
丈高く面影うつくしい若者がいて
片手に大きなプラカードを持ち
さあいらっしやい、遊んでらっしやい
おたのしみはこちら。

指さす戸口にはパチンコ屋の騒音が
チンチンじゃらじやらとあふれでている。
これはどなたの御子、か。

晴着を持たないひとりの女が外から帰り
すり切れた畳の部屋で
「ついこの間
一杯の塩もない新年があった」
と呟きながら
餅焼網で餅を焼けば
白い餅よりもたしかな手ざわりで
喜びはかなしみに
愛はいかりに 裏返され。

しかも家族はめでたくて
地続きに住む雲上人の御慶事に
目を輝かせているばかり。

日、とは抽象。
御子、は尊称。

そこぬけに善意の御方とうかがえば
善とは何でありましょう。

あなたはどなたでいらっしやいますか。


 弔詞
  職場新聞に掲載された一〇五名の
  戦没者名簿に寄せて

ここに書かれたひとつの名前から、ひとりの人が立ち
 あがる。

ああ あなたでしたね。
あなたも死んだのでしたね。

活字にすれば四つか五つ。その向こうにあるひとつの
 いのち。
 悲惨にとぢられたひとりの人生。

たとえば海老原寿美子さん。長身で陽気な若い女性。
 一九四五年三月十日の大空襲に、母親と抱き合って、
 ドブの中で死んでいた、私の仲間。

あなたはいま、
どのような眠りを、
眠っているだろうか。
そして私はどのように、さめているというのか?

死者の記憶が遠ざかるとき、
同じ速度で、死は私たちに近づく。
戦争が終って二十年。もうここに並んだ死者たちのこ
 とを、 覚えている人も職場に少ない。

死者は静かに立ちあがる。
さみしい笑顔で
この紙面から立ち去ろうとしている。忘却の方へ発と
 うとしている。

私は呼びかける。
西脇さん、
水町さん、
みんな、ここへ戻って下さい。
どのようにして戦争にまきこまれ、
どのようにして
死なねばならなかったか。
語って
下さい。

戦争の記憶が遠ざかるとき、
戦争がまた
私たちに近づく。
そうでなければ良い。

八月十五日。
眠っているのは私たち。
苦しみにさめているのは
あなたたち。
行かないで下さい 皆さん、どうかここに居て下さい。
134. 『「非国民」手帖』を読む(26)
このネタは聞き飽きた
2004年12月26日



俎上の鯉:『VOICE』1月号の座談会「憲法改正の行動計画」
料理人 :歪
料理記録日:02年2月号

 場末の寄席ではいつも同じ芸人が同じネタをかけている。やる方も観る方もよく飽きないねえ。
 『VOICE』1月号の「憲法改正の行動計画」という仰々しいタイトルでの座談会もそうだ。 中曽根康弘、石原慎太郎というおなじみの面子に鳩山由紀夫が参加しているのだけが、いささ かの目新しさか。
 中曽根は「憲法は……それ自体が借り物であり、日本人の伝統からくる価値観が反映された ものになっていません」と相も変らぬアメリカの押し付け憲法という論理から、まず戦後憲法 を否定する。ハンバーガーを食い、コーラを飲んで、ロックを聴く者達にとって、アメリカ製 だから駄目だという論理が最早説得力を持つはずはない。
 世界がマクドナルド化するとともに、マクドナルドは土着化する。テリヤキバーガーはまさ に日本オリジナルの食べ物である。戦後憲法もまた同様に日本オリジナルなのだ。外来文化を 土着化することこそが日本の伝統ではないのか。日本の伝統なんて、たまねぎの皮を剥くよう にはがしていったところで、何も残らない。
 現憲法がアメリカの押し付け憲法なら、明治憲法だってドイツの猿まね憲法だよ。所詮《鹿 鳴館》文化の所産に過ぎない。
 律令制まで遡ったところでやはり中国からの輸入品だ。
 いったい何処に帰れというのか。
 反対しないことが現実的対応と勘違いした鳩山はいう。「いざというときには必ずアメリカ に守ってもらえるという、非常に安易な発想……によって虚構の体系」の無効性が、アメリカ での《テロ》によって証明されてしまった、と。
 もちろん「虚構の体系」は明らかとなった。しかし、それは戦後憲法の有効性をこそ明らか にしたのだ。
 世界最強の軍事力を誇る国家もその軍事力によって国民の生命を守ることはできない。むし ろ、湾岸戦争にも参戦せず、金で済ませざるを得ない選択を強いた戦後憲法こそが、日本を《テ ロ》から防衛したのだ。
 重要なのは、成立過程ではなく、《戦後》を《国民》と《憲法》がどう生きてきて、何をもたら し何をもたらさなかったのかということなのである。

十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
重要なのは、成立過程ではなく、《戦後》を《国民》と《憲法》がどう生きてきて、何をもたら し何をもたらさなかったのかということなのである。

「126回」(12月18日)で「憲法を変えるか変えないかの前に、今の憲法に正当性があるかないか、ただ それだけで国会議員の投票してもらえればいい。」というイシハラの憲法改悪についての 発言を取り上げたが、ここではそれを「憲法改正の行動計画」と言っている。憲法改悪に踏み込む大きな ステップとして憲法改悪派のスケジュール表に載っていることなんだな、と改めて得心した。
 イシハラは衆議員のとき(2000年11月30日憲法調査会)すでに次のように発言していた。
 「国会ですべきことは、いまの憲法を歴史的に否定すること」
 (憲法の前文は)「醜悪」「私は文学者ですから、文章として許すわけにいかない。  致命的な日本語の乱れがある」
 (前文や九条の平和主義に対して)「他国の人間が見たら皆笑う」

133. 東京新聞・「こちら特報部(11/25)」(2)
「学習指導案」で思想チェックも
2004年12月25日



……教職員の間で「事なかれ主義」が広がっている背景には何があるのか。


 2000年に導入された人事考課制度の影響が大きい。教職員の〝成果主 義″だ。校長が五段階で教員を評価する。導入時には近い将来、評価理由を開示 していくとの約束があったが、ないがしろに。皆、恣意的な評価が怖い。来年度 からは、新給料制度導入により、その評価次第で昇給延伸にもなりかねない。


 それと併せて、03年の異動要綱改正が重圧になっている。それまでは新 規採用は四年、他は一校での勤続が八年に達するまでは異動対象にならなかっ た。しかし、改正で校長が『本校にふさわしくない』と断ずれば、二年でも異動 対象に。そうなると、生活設計が立ちにくい。これを恐れる人々も少なくない。


 〝週案(学習指導案)提出の義務化″も変化の一つ。七生の事件で、こ れの未提出が処分理由の一つになり、厳しくなった。週案は校長あてに一週間の 授業計画などを記した書類だが、もともとは教員自身の記録的な意味が大きかっ た。実際、校長がとても全教員分を細部まで点検しきれない。どうやら道徳など に絞って点検しており、〝問題教師″のあぶり出しに使われているようだ。

……それでも、民間からは「休みも多い」など教員への風当たりは弱くない。


 実際には勤務時間はメチャクチャ。教員には外で昼食を取ったりする休憩 時間がない。法的にはあるのだが、現実には取れないため、従来は就業時間の最 後に置くのが慣例だった。だが、これは労働基準法で本当は禁じられている。こ れが厳格運用されて、休憩なしになってしまった。


 会議や研修会がやたら増えている。授業後、これがあり、当日の仕事を片 付けると子どもらと話す時間がない。プリントの丸付けや翌日の授業準備は、自 宅でというのが実態だ。


 一部の学校では一昨年から『東京都職員カード』が配られた。これはタ イムカードになるのだが、管理職たちは『帰りは押さなくていい』と。超過勤務 の実態がバレるからだ。

……かつて教職員組合といえば、評価はどうあれ、力があった。現在は。


 小、中学校では、もはや組織率は三割強程度ではないか。私が教員になっ たころは、ほぼ十割。八九年に日本教職員組合(日教組)が、現日教組と全日本 教職員組合(全教)に分裂した際、職場に対立が生まれるのに嫌気がさして、ど ちらにも属さずに辞める人が続出。そのままだ。


 高校の場合、まだ東京都高等学校教職員組合(都高教)が強い。でも、 執行部の姿勢をみる限り、日の丸とかでは抗議はすれど争わない。処分の裁判と なれば、原告の被処分者の賃金を補てんしなくてはならない。そうした負担を避 けるため、自粛ムードだ。

……この間の都数委の政策で児童、生徒たちへの影響はどう感じているか。


 現場の教員の間では〝管理職は子どもと対応できない人″というのが常識。 現場で行き詰まった反動で、研究会や主幹試験などに力を注いだ人が管理職 になっていく傾向がある。


 私は朝七時半すぎに学校に行き、分からない点を教えてほしいという子ど もたちに対応している。放課後は会議などでつぶれちゃうから。ただ、管理職は 知らぬ存ぜぬだし、組合の仲間からは競争主義にからめ捕られるな、と心配され たりする。それでも、子どもは見捨てられない。


 子どもとのコミュニケーションは、年々難しくなっている。ある意味〝荒 れる学校″の時代が、どれだけマシだったことか。子どもの声を時間をかけて引 き出したいのだが、増えた会議やら週案やらに追い立てられて時間がない。

……「ゆとり教育」の実相はどうか。最近は、学力低下の指摘もある。


 いまは小学校の時点で児童の輪切ができている。選別強化がゆとり教育 の実態だった。少数のエリートと多数の従順な労働者に分ける狙いは成功したん だろうが、今の学力では従順な労働力にもなり得ないという点に気づき、学力増 強論が出てきたのではないか。いずれにせよ、学校に何かを期待できるのか、と 問われると暗い気持ちになる。定年まで、教員を務める自信がなくなった。

 記事として文字化される過程で変わってしまったのかもしれないが、 都教委が打ち出して来た学校支配のための一連の施策を「学校管理運営規則の改正」 とか「異動要綱改正」とか、都教委側の主張である「改正」という言葉を そのまま使っているのに引っかかった。発言者がもしそのように言ってい たのだとすると、まずその弛緩した現実認識あるいは言語感覚のありようが 問われねばなるまい。
132. 東京新聞・「こちら特報部(11/25)」(1)
民主主義、もう死語
2004年12月24日

 11月25日付『東京新聞』「こちら特報部」の全文を読みたく、近所の東京新聞販売店 へ行ってみた。まだありました。
 このような現場からの苦渋の発信はまれにしか報道されない。出来るだけ多くの人に読んでもらいた いと思い、全文掲載させてもらうことにした。長いので2回に分けて紹介する。

 まず、前文。
 憲法とともに「戦後」を支えてきた教育基本法「改正」が迫っている。東京都 教育委員会(都教委)はこの間、その中身を先取りしてきた。昨年の都立七生養 護学校での性教育処分、今春の日の丸、君が代処分などは、その結果だ。職場で は「物言えば唇寒し」の空気が漂う。状況を危ぐする三人の教師が今回、匿名で 現状を語ってくれた。いま、職員室で何が起きているのか……。 (田原拓治)
 署名記事だ。きょうび、この種の記事には何かと脅しや妨害や嫌がらせが予想さ れる。気骨のある記者が少なくなったいま、田原記者の勇気と東京新聞の英断に敬意を 表したい。田原記者!是非この問題を追い続けてください。

……(記者の問いかけ、または解説)
 七生養護学校関連では116人、日の丸、君が代の「10・23通達」絡みで は248人(嘱託取り消しを含む)もの教職員が処分された。生徒会主催の 討論会で発言した教員が「(発言内容が)学習指導要領にそぐわない」と処分 されたケースすら出ている。

A(五十代、中学校)
 日の丸、君が代で処分された人に対する職場での反応は「自分は拒めない」と敬意を抱く人がいる半面、処 分者が出たことで職員全体に研修が課せられたケースもあり「いい迷惑だ」と反発する人もいる。私が就職 したころは憲法と教育基本法を守りますと誓約書を書かされ、感激したものだが、遠い昔話になった。

B(四十代、高校)
 1999年の国旗国歌法制定までは、職場で日の丸などをめぐる議論があった。だが、いまは「もう議論はな し」。校長は、といえば「都教委から目を付けられたら、学校の存続にも響 く」と通達に反発する教員を抑えるのに懸命だ。

……学校は民主主義を教える場でもある。職員会議でそれが通用しないとは。

C(五十代、小学校)
 一昔前は、大半のことは職員会議で決めてきたが、民主主義はもう死語。うちも 校長が「(君が代などに)多様な意見があるのは分かるが、決定権は私にある」 と最初に言ってくる。「職務命令と受け取ってもらって結構」とか。ここ数年、 職員会議は上意下達の場になってしまった。


 確かにそう。それに教員側もサラリーマンタイプが増え、議論を避けたが る。うちの校長など、学校選択制に絡めて心配している。「(日の丸、君が代へ の)拒否者が出れば、そんな教員がいる学校なんて、と保護者の間でわが校の評 価が落ちるかもしれない」と本気で話している。


 職員会議の位置付けは、98年の学校管理運営規則の改正で教職員による 決定機関という性格が否定された。自分の場合、君が代関係でわざわざ〝ネズミ 取り″に引っ掛かるのも嫌で、卒業式などには年休を取ってきた。だが、来年度 からはそれも難しそうだ。
131. 『「非国民」手帖』を読む(25)
日本の「荒廃」は誰の「責任」なのか
2004年12月23日

 ポチ校長の「ガン」発言は鳥海巌の口真似だが、どうやら鳥海の発想も借り物のようだ。 そのおおもとの出どころと思われる本が『「非国民」手帖』の俎上にあがっていた。 もしかすると支配者どもの日常会話では常套句になっているのかもしれない。


俎上の鯉:前野徹『戦後・歴史の事実』(経済界)
料理人 :鵠
料理記録日:00年9月号

 歴史とは単なる事実の記録ではなく、過去に遡行することで現在を説明しようとする物語 のシステムにほかならない。とりわけ共同体のアイデンティティが揺らいだ時こそ、それを 再構築するために「正史」と称するフィクションが発動され、新たな「憂国の志士」が次々 と現れるというわけである。
 小林よしのり、西尾幹二らの「正史もの」に続いて、またまた「国民必読の書」と称する『戦 後・歴史の事実』(経済界)が、よく読まれているらしい。著者の前野徹は、東急グループ総 帥だった五島昇の「懐刀」で、自ら「国士経済人」を名乗る人物である。例によって、都合 のいい資料だけを並べながら、「大東亜戦争は侵略戦争ではなかった」「日本民族のプライド を取り戻せ」等々の主張を繰り広げるお決まりの内容に加え、「頻発する青少年の凄惨な殺傷 事件、家庭内暴力、学級崩壊、登校拒否児の激増」など、子供たちをめぐる現在の問題も、 すべての元凶は「東京裁判により真実がねじ曲げられ、日本人の心そのものが否定された」 ことにあるというのだから、牽強付会も甚だしい。
 それほど「日本人の魂が荒廃している」と憂うのであれば、むしろ戦争遂行の責任をとる べき人物が、それを認めないまま死んでしまったことこそ元凶だと考えるほうが、はるかに 説得力があるだろう。「アメリカ大統領はヒロシマ・ナガサキへの原爆投下を謝罪せよ」と言 うのなら、昭和天皇もまた、アジア諸国に謝罪すべきだったし、東京裁判が政治的に歪めら れた違法な裁判だったとすれば、その最大の問題は、政治的な意図によって天皇が免責され たことにある。そこに触れるのを周到に避けながら、「責任問題、賠償問題などは一切不問に」 などと言うのでは、倫理の荒廃を嘆くほうがおかしいというものだ。
 そうした論理の非整合性を、「先に旅立たれた先輩たちの心の慟哭が聞こえます」などと情 緒に訴えることで誤魔化し、また、戦後の護憲派勢力は「日本の国の病原菌」や「国賊」呼 ばわりされる。その一方で、「日本の救世主」とまで持ち上げられ、著者の盟友として本書の 序文を書いている人物こそ、他ならぬ石原慎太郎なのだから、馬鹿馬鹿しいにも程があると いうものだ。

 本当に馬鹿馬鹿しい。保守反動の「論客」は底が知れていて、やつらには全く脅威はない。 しかし、この馬鹿馬鹿しい薄っぺらな論理にとらわれていく大衆は恐ろしい。

 「124回」(12月16日)で、小熊英二氏の「新しい歴史教科書をつくる会」会員に対する分析 を紹介したが、それによると彼らの自己認識は次のようだ。

 『私たちは普通の市民だ。異常なサヨク(左翼)ではない』

 「異常なサヨク」って何なのか分からないが、保守反動にとらわれた彼らが 「普通の市民」ではなく、「異常なウヨク」なのは明らかだ。

 彼らの今後の動向について、小熊氏は次のように分析・予想している。
 「有力な社会運動に発展するほどの組織力があるとはあまり思えません。実は彼ら自身が、非 常に個人主義的ですから。ただし、投票行動で雪崩を打つとか、いやがらせメールを大量に送る といった行動に出る可能性はある。石原慎太郎氏が大量得票するといった現象に、それが部分的に 現れていると思います」
組織力がないからこそ恐ろしい。ありもしない恐怖を煽られて衝動的に集団心理を形成する。関東大震災のときの 朝鮮人大虐殺のように。あのときの殺人者は「普通の市民」だった。
130. 人権感覚ゼロの校長
2004年12月22日

 レポートに東京新聞の記事について次のような紹介記事があった。
2004年11月25日付『東京新聞』「こちら特報部」欄は、

  「『民主主義、もう死語』
 職員会議は”翼賛会議”に
 成果主義、見えぬ基準『怖い』
 管理強化、教員にじわり
 子どもより会議・研修
 『学習指導案』で思想チェックも
〝荒れる学校〝の方がマシ」

との衝撃的な見出しを付け、「ゴリ押し都教委に教師の本音」を掲載。
 ほとんどのマスコミがだんまりを決め込んでいる中、東京新聞なかなかやるじゃないか。 全国紙は腑抜けでも、がんばっている地方紙はけっこう多いようだ。
朝日新聞にはもう見切りをつけ、東京新聞に変えようかなと思っている。

 上記のような状況は、程度の差はあれ全ての都立高校の姿ではないだろうか。 だが一般都民(国民)にはほとんど知られていない。都立高校の現況を個々の現場から もっと発信すべきだ。マスコミを頼らなくとも、いろいろ方法はあるのではないか。

 レポートの続き。
 この中で、40代の高校教員が「組合執行部の姿勢を見る限り、日の丸(・君が代) 問題では抗議はすれど争わない。処分の裁判となれば、原告の被処分者の賃金を補 填しなくてはならない。そうした負担を避けるため、自粛ムードだ」 と語っている。
 教育が死ぬか生きるかの瀬戸際なのに、今闘わなくて何時闘うと言うのだ。状況認識が 甘いと言おうか、こんな組合はもう存在理由がない。全員脱退しちゃえ、と言いたくなる。
 ところが問題は組合だけではない。私は9回(8月23日)で、現役の教員たちへの期待と して、次のように書いた。

 「まずは各職場で、不服従を貫いて闘っている人たちを孤立させない取り組みをすべきだ ろう。事あるごとに連帯を表明したり激励したりするだけでもよい。さらにそれぞれの職場 の事情に応じて、連帯の仕方を創意工夫できるといい。
 一番有効なのは不服従の闘いに加わる教員が増えることだ。」

 現場では不服従を貫いて闘っている人たちを迷惑がり、孤立させるような雰囲気が蔓延し ているらしい。それが次のような校長の存在を許すことにつながっている。

『「再発防止研修処分取消し請求」第1回公判』のAさんの陳述の要旨。
 今年3月の卒業式で不起立を貫いた都立高校教員Aさんは、4月、別の都立高校に異動した。人事考 課制度(都教育庁が2000年度から全都の公立学校に強行導入した新”勤務評定”)の一環の、1学期(6月)の 校長面接時、異動先のⅩ校長は、「ガンは増殖する前に職場から取り除く。不適格教員とし て現場から追放する。あなたのやっていることは、マスターベーションと同じ」と、問題発言 (【注】参照)を連発し、Aさんを恫喝した。

 9月最初の職員会議で、Ⅹ校長は「不起立教員がいるから校内研修をやることになった。 今後は問題を起こさないように」と放言。Aさんは「都教委でさえ避けた違憲・違法の発言だ」 と強く抗議した。
 すると、Ⅹ校長は職員会議終了後、副校長(都教育庁が今年4月”教頭”を名称変更させた) 2名と共に、Aさんを校長室に呼び出し、「先生一人がいるために、関係ない他の教員が、やり たくもない校内研修をやらされることになり、迷惑を被っている。私は先生に考えを変えても らいたいと思っている」と再び恫喝。
 Aさんが「違憲な人権侵害だ。人質を取って考え方を変え ろと迫るなど、人として絶対やってはいけない卑怯なことだ」と抗議し、”考えを変えろ”との 暴言の撤回を要求したが、Ⅹ校長は拒否。
 が、Aさんの所属教組の分会の粘り強い取り組みの結果、Ⅹ校長は約20日後の職員会議で 「校内研修対象」については、認識の誤りを訂正(都教育庁でさえ、前任校で”処分”された場合、 異動先の学校での校内研修には連動させない、としており、この学校の校内研修は、Aさんが異動 して来る前の、別の教員の不起立に”起因”)。しかしⅩ校長は謝罪はせず、しおらしい様子も 見せなかった。

 この後9月末、Aさんと分会長が、来校した所属教組の執行委員を交え、話し合った結果、 Ⅹ校長はようやく「迷惑をかけ、済みません」と謝罪、”考えを変えろ”暴言を撤回した。

 ところで、地方公務員法第32条は「(教育公務員も含む)職員が職務遂行に当って」、前段で 「(憲法を始めとする)法令に従う」とし、「且つ」という接続語を挟み、後段で「上司の職務 命令に従う」としているが、前記・”再発防止研修”で山本保・課長は、この後段だけをつまみ 食いし、”上司”だとする校長の”職務命令に無条件に従う義務”を強調した。このことについてA さんは「なぜ憲法を抜かすのか、と思わずその場で声を上げてしまったが、講師(山本課長)は 一切答えなかった」と陳述した。

 Aさんは「政治経済の教師として『人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果』と、憲法の 基本的人権を説明して来た私のアイデンティティも、今や否定されようとしている。学校現場 で起こつている事態から目を背けないで頂きたい」と、陳述を締め括った。
 みんながイヤイヤやっているような中味のない”研修”なら、それはまさしく連帯責任”懲罰”じゃ ないか。まるで封建時代だ。先生たちよ、「お前がいるから迷惑」みたいな姑息で卑怯な転嫁をせず、 そんなもの全員で拒否したらいいじゃないか。
 また、このような権力に尾を振るポチ校長は是非本名を明らかにすべきだ。
【注】都教育庁は2004年4月8日、区市町村の教育長や教育委員300名を 対象に、”教育施策連絡会”を開いた。ここで、鳥海巌・都教育委員(71歳。丸紅相談役) は「企業の改革でも僅かの反対者は、あくまでも反対。これは徹底的に潰さないと禍根が残る。 特に”日の丸・君が代”問題の反対者は半世紀巣食って来ているガンだから、痕跡を残してお くわけに行かない。必ずこれは増殖する」と主張した。Ⅹ校長はこれを模倣している。
129. 入都式で”君が代”練習を強制
2004年12月21日

 東京都の「日の丸・君が代の強制」と、それによる処分に対する訴訟が多数闘われている。
それにしても、それぞれの訴訟の進行・経過はどうなっているのだろうか。裁判の過程で新た にどんなことが明らかにされているのだろうか。

 昨日の予防訴訟第6回口頭弁論の報告会で『「再発防止研修処分取消し請求」 の本裁判の第1回公判』(2004年11月12日。於、東京地裁)のレポートをいただいた。 レポーター(配布者)名は「教育の国家統制に反対する会」。
 このレポートから2点を紹介したい。

 「再発防止研修処分取消し請求」訴訟は、卒業式等の「君が代」斉唱の時の不起立を理由に 不当処分された上、「服務事故再発防止研修」と称する懲罰研修を強制された教員たちが提訴 したものである。
 この第1回公判の中で、山中眞人弁護士が、都教育庁が新任教員の入都式で”君が代〝 斉唱の「練習(、、)」 をさせていたことを明らかにした。
 裁判で明らかにされたことと、さらに独自取材したことをまとめて、上記レポートは次のよ うに記している。
問題の入都式は2004年4月1日、都教育庁が、都立の高校・障害 児学校の全新任教員対象に、台東区上野の東京文化 会館で開いた。
 2003年の入都式までは、「開式の辞」直後、〝君が代”があったが、すぐと教育庁幹部 の話等に移った。しかし今年は、「開式の辞」の前、20~30分間、新任教員を起立させたまま〝 君が代”斉唱の練習を強制。
 都教育庁指導主事とおぽしき中年女性が繰り返し繰り返し〝君が代”をピアノで伴奏するのに 合わせ、やむを得ず、起立や”口バク”はせざるを得ない〝弱い〝立場の人たちに、 都教育庁の中年男性指導主事から「声が小さい!」という”叱責”の言葉が飛んだ。 せめてもの抵抗か、体調不良からか、俯き加減の人には「(壇上正面に貼り付けた巨大な) 国旗の方を向いて歌いなさい」との言葉が飛んだ。
 私が都の教員に採用されたときのことを、一生懸命に思い出そうとしているのだが、 「入都式」なるものがあったのかどうか、定かでない。多分あったのだろう。
 あったとしても、記憶に残らない程度のものだから、もちろん「君が代」斉唱など なかったはずだ。
 夏休み中にあった初任者研修の方は、あまり内容がつまらないので1日か2日かサボって 校長からお小言をいただいたのを覚えている。
 上記レポートによると『2003年の入都式までは、「開式の辞」直後、〝君が代”が あったが、』とあるが、いつごろから「入都式」に「君が代」斉唱が盛り込まれたのだ ろうか。やはりイシハラが知事になってからだろうか。

 いまは多くの自治体が、自治体主催の儀式で「君が代」斉唱を行っているのかもしれない。 しかし、式の前に20~30分もかけて、君が代斉唱の「練習」を強制するなど前代未聞である。 「東京から国を変える」といきまくイシハラの卑劣な「思想・良心」弾圧の一つだ。
 これはイシハラが目指している国家のありようを表徴している。こんなことがまかり通って しまう国家をなおも民主主義国家と呼ぶのか。
 前にもいったことがあるが、繰り返し言おう。イシハラの理想の国家は、彼が目の敵にして いる北朝鮮のような国家なのだ。斎藤貴男さんに「空疎な小皇帝-「石原慎太郎」という問題」 という著書があるが、まさにイシハラは空疎な小「将軍様」を気取っている。

 新任時からこのような思想・良心の弾圧の洗礼を受け、さらに度重なる行事を通して踏み絵を強いられ 、精神をずたずたにされ権力に屈服した教員たちが多数を占めていくことを想像すると、空恐ろしくなる。
 が、イシハラを選んだ300万都民は、こんな暴挙にも快哉を叫んでいるのだろうか。

 今回のことについてはもう一つ指摘しておかなければならないことがある。
 私たちにこの重要な情報が伝わるまでに7ヶ月の期間があった。ほとんどのマスコミはもう 頼りにならないことは繰り返し言ってきた。だが組合はなにをしている!
 レポートは次のように指摘している。
都立の高校・障害児学校の教職員組合は複数ある。が、中には組合執行部が、 山中弁護士の指摘があるまで7ヵ月間以上、この事実を公式の場では、組合所 属教員に一切知らせない教組もあり、良織ある市民にも伝わらず、都教育庁 への抗議の声が届くのを妨げる結果になった。
 現役の先生たちよ、あなたたちももう少し何か出来ませんか。
128. 予防訴訟第6回口頭弁論
2004年12月20日

 「予防訴訟第6回口頭弁論」を傍聴してきた。
 2度目なので迷子にはならなかったが、やむない事情でチョッと遅刻してしまった。傍聴券の抽選は 終わっていたが、事務局預かりの傍聴券を、割り込んでずうずうしく手に入れて何とか入廷した。 私の代わりに入れなかった方ごめんなさい。

 今回の口頭弁論では弁護団は215ページという膨大な準備書面を提出しているが、 その内容は教育にかかわる全問題を網羅している。それは「日の丸・君が代の強制」 の問題の本質を明らかにするために必要だからだし、「日の丸・君が代の強制」の問題が教育の 根幹に関わる問題であることを示している。

弁護士会館での報告会


 この準備書面の内容については、今まで私が述べてきたことと関わらせながら、核心の総整理 という意を込めて追々紹介していきたいと思っている。

 本日の口頭弁論については、きっと、澤藤さんがお書きになるはずだから、私の出る幕ではない。 今日は、そこで手に入れたパンフで新たに知ったことをお伝えしようと思う。もしかすると皆さん もう周知の事かもしれないが。

 どの集会か忘れてしまったが、以前に参加したある集会で次のようなことを聞いた。

 都庁では、卒業式・入学式・周年行事に派遣される来賓と言うスパイに君が代の練習をさせ ているという。もちろん、生徒・教師に強制していながらスパイが歌えないのでは様にならな いからである。これはまた権力の手先になっている連中の多くがまともに君が代を歌えないことを 示している。うん、とてもいいことだ。そんなもの歌えなくってもいいんだよ。スパイさんたち、 練習強制に、少しは抵抗しているかい。

   中堅どころのヒラメのオジさん・オバさんたちが、意にそまずか意気込んでか知らないが、 「さあ大きな口をあけて大きな声で」と叱咤激励されながら「君が代」の斉唱練習に励んでいる。 屈辱を感じないのかね。「106回」で取り上げた「奴隷根性」の問題だよ、これは。「奴隷根性」 は同じ屈辱を生徒・教師に強要する。栄えある皇軍兵士の新兵いじめと同じ構図だ。
 でもこれ、税金の無駄遣いだぜ。都の職員の職務に「君が代の練習」なんてないよ。

 ちょっとオチョクリすぎたか。
 しかし、オジさん・オバさんたちの君が代練習は、当事者たちの深刻さ(たぶん)にもかかわらず、 オチョクリの対象程度のお話と言って済ませるが、つぎのような事態にまでなると、ちょっと背筋 が寒くなる。

 続きは、また明日。
127. 『「非国民」手帖』を読む(24)
大衆に潜在する暗鬱な憎悪
2004年12月19日

 『「非国民」手帖』からイシハラを俎上に載せている論説を取り上げる。
 素材は「三国人」発言。健忘症の都民(国民)にはもうそろそろ忘れられてい そうな失言だが、イシハラの政治手法をよく象徴している失言だから、その 分析には格好の材料だ。


俎上の鯉:石原慎太郎の「三国人」発言
料理人 :歪
料理記録日:00年6月号

 問題は「三国人」発言を超えて、《石原慎太郎》をどう撃墜するのかということだ。
 石原の発言は「三国人」という言葉が含まれているから《差別》的になったのではない。《差 別》的な文脈が「三国人」という蔑称を招来したというべきだ。
 いや。全体像を踏まえて、もう少し正確に言えば、こうだ。
 常に《差別》を欲望している石原だからこそ、外国人を語る上で「三国人」という蔑称を 不可欠としたのだ。それが死語であり、必然性がなく、誤用であろうとも、だ。
 なぜなら。《石原慎太郎》とは《差別》を再生産しつづけることではじめて自己を維持する運 動体だからである。
 《政治》的に見ろ、ということだ。つまり。どのように共同の意識が編成されようとしてい るか、ということを露出させなければならない。《敵》をつくりだし、それを攻撃と排除の対 象とすることで、自己への支持基盤を形成する。それが石原の政治手法である。
 石原は都知事に就任以降、都庁役人、銀行、そして、中国や北朝鮮、「三国人」と《敵》の名 をメディアでぶち上げ、陰に陽にその排撃を指示してきた。そして《敵》との厳格な対峙を 強力な指導力として印象づけている。
大向こうの絶賛を浴びた、銀行への外形標準課税がまさに好例。大衆の銀行への怒りは組 織され、石原の強力な指導力への賛美と結合した。
 石原の《差別》は、突出して異常な偏見を有する者の《暴言》や《失言》ととらえること はできない。むしろ、大衆に潜在する暗鬱な憎悪に呼応し、それによって力を付与されてい るのである。
 石原「三国人」発言への支持の高さから目を背けてはならない。閉塞した時代状況の中で、 強力な指導者の登場と、異分子の排除によって共同意識の編成を期待する、大衆の気分が台 頭してきている。
《差別》によって大衆への統合軸を据える《石原》的《政治》を解体するとともに、新しい 《政治》像の提示が切望されている。             

十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
《敵》をつくりだし、それを攻撃と排除の対 象とすることで、自己への支持基盤を形成する。それが石原の政治手法である。
閉塞した時代状況の中で、強力な指導者の登場と、異分子の排除によって共同意識の 編成を期待する、大衆の気分が台頭してきている。

 イシハラ個人への反撃だけではなく、むしろ大衆の劣情の共同意識をこそ撃たなければな らない。では大衆とか誰なのか。私であるしあなたである。そして全てを疑い自らを問う姿勢を 持続することが、大衆のひとりとして、私たちに出来ることすべきことの核であろう。
126. 政治屋になると心性が下劣になるモデル
2004年12月18日


 久しぶりにイシハラだ。
   8日の都議会代表質問で憲法について質問されたときの答弁を取り上げる。(12月14日 朝日新聞朝刊「石原知事発言録」より)
質問の言葉が併記されてないので、それは推定して書く。

質問「昨今、憲法改定の議論や運動が盛んになっている。自民党の憲法調査会への自 衛官の関与も大きな問題になっている。憲法改定についての知事のご見解を伺い たい。」
 「憲法を変えるか変えないかの前に、今の憲法に正当性があるかないか、ただ それだけで国会議員の投票してもらえればいい。そういう国民の代表の国会議員 の憲法認識ってものを踏まえて、憲法を正面から議論することが必要だと思う し、そのための有効な前提だと思います。国民自身が自発的にどういう憲法をつ くるかということを、国会を通じて合議して、私たち自身の愛する日本語で正確 につづられた憲法を書くべきだと思う」
 「国会議員の投票」「国会議員の憲法認識」「国会を通じて合議」。国会議員が 「国民の代表」という虚妄に依拠した国民不在の議論だ。「国民自身が自発的に」 などと言い添えているが、それも虚妄でしかないことはイシハラ自身が先刻承 知だろう。
 しかしそれはまあいい。一応建前は間接民主主義(、、、、) 国家の枠内でしかことは運ばないのだから。

 問題は二つ。

 1.「憲法の正当性」を議論するのはいい。誰にも妨げる権利はない。しかしそれを 「国会議員の投票」で決めるというのはとんでもない踏み外しだ。そのような重要なことを 国会議員だけで決められてたまるか。間接民主主義(、、、、) でも、それを認めるのなら、せめてそれだけを争点に総選挙をやるか、あるいは 憲法改定と同様に直接国民投票をすべきほどの問題だ。
 イシハラは今の国会の勢力分布から「正当性」を否定する結果を想定、いや確信しているので、 以下の発言となる。
 「そういう(、、、、) ・・・憲法認識」が「有効な前提(、、、、)だ」とよ。ずいぶんと 手前味噌の論理だ。

 2. 「愛する日本語」。どのように改定されようとも、この国の憲法が日本語で書かれるのは 自明なことだ。ことさら「日本語」を持ち出す必要はない。ましてや「愛する」などという個 人的な感情を込めた形容を付ける魂胆はまるみえだ。
 イシハラが「私は文学者だから」と得意げに指摘していることだが、現憲法特にその前文は、 イシハラの指摘を待つまでもなく、悪文である。前文を貫いている理念をもっとストレートに つかめるような文にすべきだとは思う。しかし、イシハラはその文体を けなしながら、じつはその理念に我慢がならないのだ。
 このことが次の答弁の続きにつながる。

質問「知事は日頃、現憲法を認めない、護らないというような発言をされているが、 その真意を問いたい。」
 「ラッシュの時間に2カ所で、テロリストが天然痘のばい菌を盗み出して仮に 散布したとする、どう対応するかの図上訓練をしました。既存の法律というのは 全部憲法を踏まえてできてます。テロリストを捕まえたけど、目に見えない天然 痘はサリンと違ってその場で発病しない。(今の法律では)その間その電車に乗 り合わせた人は名乗ってください、これ言えないんでよ。名乗り出た人は蟄居し てください、それもできない。全部憲法に引っかかってくる。どうするか。 都知事としてその情報を公開することで、多くの感染を防ぐため、憲法を無視し てやる。超法規というのはそういうこと。私は首かけてやるんだ。命がけでやる んだ。命がけで憲法を破るんだ。当たり前のことじゃないか」
 いまさら「憲法を護らない」というは公言を取り消すことが出来ない。どうするか。 極端な場合を取り上げて正当化する。典型的な詭弁の一つだ。
 しかもその極端な例が、例によって都民(国民)の恐怖心に依拠しようとする意図 がまるみえだ。
 そして「憲法を破るのは「当たり前のことじゃないか。」と居丈高に自己正当化をはか っている。「命がけでやるんだ。」だって。無理してそんなにいきがるなよ。

 また、  「その間その電車に乗り合わせた人は名乗ってください、これ言えな いんでよ。名乗り出た人は蟄居してください、それもできない。」だと。
 おいおいほんとかよ。専門家ではないから当たり前のことだが、私は法律の細部を ほとんど知らない。だから常識で考える。私の常識は、どちらも憲法に抵触すること などこれっぽちもあるまい、と考える。

 イシハラはずいぶんと無理な論理を構成しているな。焦っているぞ。
125. 『「非国民」手帖』を読む(23)
「かつて」や「昔」とはいつなのか
2004年12月17日

 「美しい日本語」ブームの胡散臭さについて、もう一回取り上げる。

 「鵠」氏が歴史的な観点からその胡散臭さを論評している。
 「美しい日本語」をめぐってはしゃいでいる者らは、ここで指摘されているような 歴史的な事実を知っているのか知らないのか、いずれにしても気楽なおめでたい人たちだ。


俎上の鯉:「日本語の朗読、音読ブーム」の一連の言説
料理人 :鵠
料理記録日:02年9月号

 歴史教科書に続いて今度は国語教科書をめぐる議論が喧しい。斎藤孝の一連のベストセラー に始まる反動的ナショナリズムの流行は誰の目にも明らかだが、「文学界」七月号では島田雅 彦、山田詠美、奥泉光という面々までが 「小説家がつくる『国語』教科書宣言」という座談会 を開いている。「歴史」と「国語」を一元化して「国民」を統合することでナショナリズムが 生まれるのだから、「理想の」歴史教科書や国語教科書を作ろうという発想自体がそもそも国 家主義的ではないか。
 さらには斎藤の『声に出して読みたい日本語』を契機として、日本語の朗読、音読がブーム なのだという。それ自体が悪いことだとは言わないが、無邪気な「憂国」の士たちは、それが 持つイデオロギーを顧みることもしないらしい。「かつては、暗誦文化は隆盛を誇っていた」 と斎藤は言う。あるいは、「美しい日本語を体で味わうために」と副題された幸田弘子『朗読 の楽しみ』でも、「わりあい最近まで、本を読むとは、文章を声に出して読むことでした」と され、「昔はさかんだったラジオなどの朗読番組も、いまではほとんど姿を消しています」と 述べられている。
 しかし一体、はっきり特定されないまま曖昧に理想化される「かつて」や「昔」とはいつなのか。
 例えば中学生らに対する朗読教育がさかんに行われたのは、「美しい日本語」のためと称し て「国語醇化」の運動が推進された戦時体制の下であり、ラジオの朗読番組は、大政翼賛会文 化部や日本文学報国会による愛国詩の朗読放送とともに大きく発展している。それがナチス・ ドイツのプロパガンダに倣ったものであることも言うまでもない。
 一九四三年に大政翼賛会が編集した『朗読文学選』には、古事記をはじめとする「声に出し て」読むべき作品が収められ、序文では「眼で読まれるだけの文学はどうしても独りよがりに なり易い」し、「言葉も本来の美しさをあらわし得ないであろう」と述べられている。
 まさにその口移しの現代版とも言うべき著作で斎藤孝が唱える「世代や時代を超えた身体と 身体とのあいだの文化の伝承」こそが、戦争に向けて国民を「国体」へと同一化するために必要とされたのである。
124. 『「非国民」手帖』を読む(22)
名作の破壊者
2004年12月16日

「新しい歴史教科書をつくる会」の幹部や会員の活動を調査・分析した小熊英二氏によると、 彼らのナショナリズムには核になる理念がないそうだ。自分自身の存在理由の希薄さと 社会の現状への不安や不満が彼らをナショナリズムへのと駆り立てたが、「天皇」には もうリアリティーがなく、その核にはなり得ないと言う。
 では何にナショナリズムの根拠を求めるのだろう。「伝統文化」「誇れる歴史」「美しい日本語」。
 「『つくる会』の人たちは『エゴイズムの横行は戦後民主主義のせいだ』といった批判をしま す。しかし彼らは、本当は戦後の思想も歴史もよく知らない。戦後の進歩派はエゴイズムに批判的 だったし、平和主義をナショナルな理念として打ち出していた。保守派のほうが、理想より 経済成長、平和主義より対米協調と言い続けてきた。その経済成長がエゴイズムをもたらしたとす れば、彼らが批判すべきは保守派のはずでしょう」(朝日新聞のインタビュー記事より)
 知らないのは「戦後の思想も歴史」だけではないだろう。「戦前の思想も歴史」も知らぬからこそ、 「伝統文化」とか「誇れる歴史」とか「美しい日本語」とかいうイデオロギー(虚偽意識)に容易に 囚われてしまう。
 もう一つ、エゴイズムは資本主義イデオロギーの核心だぜ。彼らが批判すべきは資本主義のはずで しょう。

 さて、「美しい日本語」を喧伝している斎藤孝は『「非国民」手帖』の批判にどう応えているか。

俎上の鯉:斎藤孝のエッセイ「総ルビ百花繚乱」
料理人 :歪
料理記録日:02年12月号


 過ちを認めたくないが、失態は世に晒されてしまった。なんとか正当化を弁解がましくなく 打ち出せないものか。
 斎藤孝のエッセイ「総ルビ百花繚乱」(『週刊文春』10/24号「コロンブスの卵焼き」連載⑳) は、そういう姑息さをにじませた文章だ。
 八月号本欄と十月号本誌レポートは、斎藤孝『声に出して読みたい日本語』に対し、次のよ うに指摘した。漢文で書かれた『古事記』序文を大和言葉で読み下し、これを《美しい日本語》 の代表として扱うのは誤りだ、と。
 漢語を大和言葉で読むと「生き生きとしてくる」だとかズレがパワーになってイメージを 増幅させてくれる」だとか、この工ッセイでうじうじと書き連ねているのが、明示しない弁明 であることは明瞭だろう。
 しかし。結局は斎藤が問題の所在を全く理解していないことを露呈しているだけだ。
 斎藤が正当化のために紹介する立川文庫はもともとルビが振ってあるテキスト。一方『古事 記』序文に振ったルビは斎藤(あるいはゴーストライター)の創作だろ。それを当時の言葉に 見せかけてるのが詐欺なんだよ。
 高島俊男はなぜ『お言葉ですが・・・」と声をかけないのか。
 しかも。自分のやっていることの意味がわかっていないこの男は、他にも驚くべきことを 得々と語っている。
 『走れメロス』をアンソロジーに収録する際、「嗄れ声」という表記がニヵ所出てきたので、 それぞれに「しわがれごえ」と「しゃがれごえ」という異なったルビを振ったという。太宰が 同一表記にしているものを、「この方がぴったりに感じられた」なんて理由で、異なったルビ にしてしまうとは、おまえ何様だ。他にも自分の感性で読みを決定した例が紹介されている。
 読みが示されてない漢字を作者がどう読ませようとしたか、はそれだけで立派な文学研究のテ ーマになるくらい重要な問題だ。
 こいつのアンソロジーに採録されている作品は、恣意的にルビを振りまくられることによっ て、創作や改竄を受けていることになる。
 文学や言葉の擁護を掲げて、保守・伝統派のジジイの支持をとりつけた斎藤。
 それが他者の表現を軽んじ、古今の《名作》を破壊していく様を見るのも、結構愉快かも。
123. 『「非国民」手帖』を読む(21)
これが『声に出して読みたい日本語』か
2004年12月15日

 誰にでもそれなりの本に対する臭覚があるだろう。私の臭覚には、 『声に出して読みたい日本語』のような表題の本はプーンと胡散臭さが臭ってきて、 食指が動かない。
 食指が動かない本ならただ捨て置けばよいし、内容を知らないのだから論評の資格もない。 しかし、最近目障りなほどこの著者の本が矢継ぎ早に出版されていて、新聞の広告をにぎわ せている。どれもやはり胡散臭さが臭う書名だ。「歪」氏がその胡散臭さのでどころを論評している のでを紹介しよう。


俎上の鯉:斎藤孝著『声に出して読みたい日本語』(草思社)
料理人 :歪
料理記録日:02年8月号

 暗諦と朗読の復権を掲げる斎藤孝に、いつもいらつきを覚えさせられるのは、《ことば》に対 するあまりの鈍感さゆえだ。
『声に出して読みたい日本語』(草思社)にはリズムやテンポのよい文章を採録したという。 しかし。その選択の結果には、逆にこの男がいかにことばのリズムやひびき、そしてその美意 識のもち方という点においても、無頓着かということがあらわれている。
 なんのことはない。その大半は七五調である。「旅ゆけば」「赤城の山も」……指を折れば誰 にでもわかる。無自覚に、伝統的な音数律に心地よさを感じているだけだ。斎藤の鈍い感性で とらえられないだけで、日本の文学にはもっと多様で豊かなリズムの実験はある。
 この鈍感さは日本語や文学の歴史に対する無知によってもたらされているともいえる。その ため、収録したテキストにも、編集の意図を裏切るような致命的な過ちを犯している。
 『声に出して読みたい日本語』の最も巻末に収録されているのは「古事記」と「日本書紀」の 一節である。これは口承による記録と考えられている「古事記」で締めくくることで、暗誦が 伝統文化であることを示そうとしているはずだ。また、漢文で書かれた「日本書紀」と比較す ることで大和言葉の《美》をより印象づけるねらいもあるだろう。実際、両者ともに表記は漢 字かな混じりだが、「古事記」にだけはすべて大和言葉でルビが振ってある。
 しかし。悲しいかな、斎藤が引用した部分は稗田阿礼が語るところの「古事記」本文ではな い。編者である太安万侶のつけた上表文なのだ。この文章は、当時の官の公文書の文体である 漢文、すなわち中国語で書かれたものである。これが『声に出して読みたい日本語』か。
 斎藤が、言葉そのものではなく、通俗的な権威に依拠する教養主義にもとづいて文章を選択 しているのは明らかだろう。
《ことば》の危機は、言語規範が遵守されなくなるところから訪れるわけではない。
 言語規範を逸脱する《ことば》は新しい表現の可能性をはらんでいるからだ。本当の危機は、 危機の到来を言い立てることで伝統的復古的な言語意識を持ち出し、《ことば》の冒険を封じ ることによってもたらされる。                     

十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
 言語規範を逸脱する《ことば》は新しい表現の可能性をはらんでいる。
《ことば》の本当の危機は危機の到来を言い立てることで伝統的復古的な言語意識を持ち出し、 《ことば》の冒険を封じることによってもたらされる。
122. 『「非国民」手帖』を読む(20)
現実への屈従のみを称揚する論法
2004年12月14日

 「懐疑の精神こそ保守の敵」ならば、保守はどんな精神を「味方」と頼んでいるのか。「与党精神」 だとさ。

俎上の鯉:『小林よしのり論序説/ゴーマニズムとは何か』(出帆新社)
料理人 :歪
料理記録日:95年4月号

 小林よしのりの名に便乗した評論集が出た。『小林よしのり論序説/ゴーマニズムとは何か』 (出帆新社)だ。
 早とちりするなよ。ここで叩くのは小林ではなく、その威を借りた取り巻き連中だ。
 序文で編者の呉智英が言っている。《言論の無効な時代》と。なるほど。確かに本書を読む と納得させられる。何しろ執筆者自身がその身をもって証明しているのだから。
 ここでは巻頭を飾る浅羽通明のインタビューを通じて、本書の《言論》がどの程度のもの か、検証してみょう。『ゴーマニズム宣言』にも紹介された、代表的論考だ。
 浅羽は《与党精神》なる概念を軸に論を展開している。「与党精神というのはね、言い換え ればね、人の言動をね、その動機からではなくて、結果から判断するということ」だと。何 だい。『朝まで生テレビ』での西部や舛添の口真似じゃないか。内容以前に、批判や反対とい う行為一般を封殺する。現実への屈従のみが称揚される、所謂保守派論客に重宝されている 論法だ。
 言論に《有効性》なんてものがあるとすれば、言論によって言論をこえることだけだ。つ まり、《よい結果》という評価を構成する《よい》や《結果》ということばを疑うことだ。
 思想的・政治的対立が与党VS何でも反対戦後民主主義野党なんていう構図で表現できると 思い込んでやがる。与野党を成立させている枠組み自体が問題にされるべきなのに。
 「与党を叩く以上は、おめえら政権担当能力あるんだろうな」て、何を意気がってるんだ。 浅羽自身は三流評論家であって、与党ではないだろうが。まさか社会党員か。
 与党でもないのに与党気分。そりや、言論に《有効性》もなくなるわな。現状を追認し、 強者・権力者を賛美することに奉仕するだけなんだから。
 三流評論家にとっての《与党精神》の体現とは、人気漫画家の提灯持ちを演じることなん だな。                                   

十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
「与党精神というのはね、言い換えればね、人の言動をね、その動機からではなくて、結果から 判断するということ」だと。
 内容以前に、批判や反対という行為一般を封殺する。現実への屈従のみが称揚される、 所謂保守派論客に重宝されている論法だ。

 「動機からではなくて、結果から判断する」何のことはない、単なる浅薄なプラグマティズム じゃないか。
 こうした「浅薄なプラグマティズム」を粉砕するには「《よい結果》という評価を構成する 《よい》や《結果》ということばを疑うこと」つまり本質的な思考を展開するほかはない。

 思い出した文章がある。

 わたしが思想的な敵対物とかんがえたものをとりだせば、ひとつは、〈敵〉に担われていよ うと〈味方〉に担われていようと、あらゆる〈機能的な思考〉そのものであり、もうひとつは、 〈社会〉とその上層の〈共同観念)との相関をわきまえないで混同するあらゆる思想的な構築 であった。この二つは、現在も、それから今後も、おなじ一つの根幹からでてくる〈思想〉とし て、もっともたたかおうとかんがえているものである。
(吉本隆明「情況」の「あとがき」より)


 蛇足ながら、ここで言う「機能的な思考」は私の言う「浅薄なプラグマティズム」のこと と同意である。
121. 『「非国民」手帖』を読む(19)
懐疑の精神こそ保守の敵である
2004年12月13日


俎上の鯉:『日本の論点』(文藝春秋)
料理人 :歪
料理記録日:92年12月号

 ご大層な本である。総べージ数一二〇〇。江藤淳から大仁田厚にいたる多彩の執筆陣を擁し て、改憲改定やらプロレスやら二一〇項目にわたるテーマを論じる。題して『日本の論点』。  何しろ文藝春秋七〇周年記念企画だ。力の入れようが違う。
 詳細な執筆者リストに登場人物索引まで巻末に備えて、現代日本における社会と文化状況を 網羅した知的カタログを作成しょうとする狙いはわかる。しかし気負いばかりが肥大して、分 厚さと事大主義が《文藝春秋》しているだけだ。過剰を削ることが課題の現在に、情報を量で 勝負しょうとする編集姿勢が既に時代に遅れてるぜ。
 膨大な論点の羅列は、逆に論点の不在をしか感じさせない。
 どうやらこのような書物の登場を要請したのは、泰平な日常のなかで論点を持たないことに 不安を覚えるオヤジたちらしい。国を憂えるポーズをとるのが知的と思い込むのも、かわいい 勘違い。わざわざ学習しなければ見出せない論点にたいした切実さもあろうはずがない。  何とものどかな日本の風景を醸し出している。
 いや。やはり論点はある。むしろただひとつの論点を隠蔽することで膨大な論点の濫造が可 能にされたのだ。
 ただひとつの論点とは要するに、自分を問うということだ。「体制の選択」も「差別」も 「有害コミック」も「新宗教」も、のどかさを演出する小道具としてしか機能しないのは、読 む者の存在が決して問われることがないからだ。論点を外在的な情報として集積することでは なく、論点を喪失した空虚な泰平に埋没する自己を問うことが、社会に自己を開く細い途なの だ。
 懐疑の精神こそ保守の敵である。表層的な事象の断片を陳列するだけで、本質への問いを回 避することで成立したこの書物こそ、なるほど文春七〇年に相応しい。

十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
 論点を喪失した空虚な泰平に埋没する自己を問うことが、社会に自己を開く細い途なの だ。
 懐疑の精神こそ保守の敵である。


 日常の生活とは国家意思の反映であり、規範意識の馴致過程の謂いである。「空虚な泰平に埋没する」 とはその日常になんらのささくれだちも感じなくなることである。それは支配権力への服従へ 通じるネットワークに絡めとられたことを意味する。そして、日常生活において感じるささくれだちを 掘り下げていく営為を「懐疑の精神」と言っていると思う。

 先日久しぶりに本屋を覗いたら、「日本の論点」が平積みされていた。性懲りもなく新た に編集されたらしい。またこの論説で俎上にあがっている12年前の「日本の論点」は文庫本になった ようだ。
120. 『「非国民」手帖』を読む(18)
修正主義者は薄闇をねらって跋扈する
2004年12月12日


俎上の鯉:秦郁彦(『諸君!』『正論』の掲載論文、『朝まで生テレビ』(11/29放映)での発言)
料理人 :歪
料理記録日:03年2月号

  国家は《歴史》を必要とする。《歴史》の下に国民を統合する。しかし。個の体験によって 刻印された《記憶》までも回収することはできない。そこで、《記憶》が希薄になる頃合をう かがって、《歴史》の修正にいそしむ輩が出現する。
 軒並み北朝鮮特集が組まれた『諸君!』『正論』など保守系雑誌の掲載論文に加えて、『朝ま で生テレビ』の秦郁彦(11/29放映)。共同歩調をとるがごとく、口をそろえてこう語ってい る。「朝鮮人の強制連行はなかった」と。
 またぞろ同じ手口だ。
 修正主義者たちが言うように、《強制連行》という言葉は戦後になってはじめて用いられたも のかもしれない。だからどうした。この言葉は、戦争からたいして時間的隔たりがない、《記憶》 が鮮明な時代には異論なく受容され、広く浸透していた。それがはるかな時間が過ぎた現在に なって抹消されようとしている。
 修正主義者は薄闇をねらって跋扈する。
「朝鮮人強制連行」はなかったという主張は数年前から浮上してきていた。まさにいまもう一 度彼らが力を入れているのは、現在の北朝鮮への戦略を進めるために、国家的威容を整えよう としているからだ。
 修正主義者たちは、時代により、状況により、自由に《歴史》を書き換えることができると 考えている。歴史や伝統の尊重を声高に叫ぶ者こそが、《歴史》は恣意的に操れると錯誤する 者であるのは滑稽だ。
 《拉致》と《強制連行》を比較衡量してどちらかの罪の重さを言い立てるなど、馬鹿げた発想だ。 いずれにしろ問題は《国家》をめぐるものとしてせりあがってこなければならない。
《拉致》も《強制連行》も、国民を統合するための《物語》としての《歴史》の所産である。
《正しい》《あるべき》歴史を求める姿は《自分探し》の若者に似ている。現実とまみえること なく永遠に浮遊し続けるしかない。《歴史》という《物語》を脱却する方途こそが模索されな ければならないのに。

十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
《拉致》と《強制連行》を比較衡量してどちらかの罪の重さを言い立てるなど、馬鹿げた発想だ。 いずれにしろ問題は《国家》をめぐるものとしてせりあがってこなければならない。

 《拉致》も《強制連行》も《従軍慰安婦》も国家による犯罪であるという一点をはずした 議論は空疎なものにならざるを得ないし、解決の糸口さへ得られまい。ここでも決定的に「国家論」 が欠けている。
 「朝鮮人強制連行」はなかったなどという主張は、被支配者の側にスタンスを置く立場からは 決して出てこないだろう。

 日本政府も北朝鮮政府も、《拉致》と《強制連行》を秤にかけて取引材料とすべきではない。 それらをともに国家による犯罪行為と認め、別個に誠意を持って解決するべき問題である。無論、 日本政府は北朝鮮民衆への経済援助を取引の材料にすべきではない。
 両国の民衆=被支配者(北朝鮮の民衆には自由な発言を封じられているかもしれないが)が なすべきは、国家の論理に振り回されて敵対感情を募らせることではなく、双方の政府に それぞれの被害者への出来る限りの保障と真相の究明を迫ることであろう。

 敵対すべきは日本対北朝鮮ではなく、支配者対被支配者なのだ。
119. 『「非国民」手帖』を読む(17)
国家のために死ねる精神を養うために
2004年12月11日


俎上の鯉:加地伸行「靖国神社をどう考えるか?」(小学館文庫)
料理人 :歪
料理記録日:01年10月号


 《神》が人間を創造したと信じるのが宗教であるからには、それに対し、人間こそが《神》 を生み出したのだと転倒を加えることが宗教批判の基幹となる。
 ならば、人間が《神》を悪意的に選別/認定する《靖国》の宗教意識はあらかじめ転倒し ていると言わねばならない。果たして人間の基準で選定された《神》が、薄汚れた俗世の論 理を超越し得るのか。
 靖国参拝推進者はいう。「靖国参拝は、日本人の伝統的な宗教意識にのっとった慰霊行為で ある」と。反対を唱える陣営も、その論理を受容した上で、譲歩案ばかりを呟いている。
「A級戦犯が分祀されれば」「代替施設の検討を」……。こうした議論では《伝統》も《死者》 も、政治の《道具》にすぎず、《靖国》そのものへの考察は置き去りにされているかに映る。
 しかし参拝推進者の主張する《伝統》や《宗教》を正面から検証してみるべきなのだ。そ こにはじめて《靖国》の正体が浮上してくる。
 そもそも人を神として祀ることは、けして神道古来のものではない。政治的敗北者の死霊 が崇らぬよう慰撫する《御霊信仰》は中世からあった。しかし権力者が死後、神となるのは せいぜい近世に入って、豊国神社あたりからはじまったにすぎない。そして国家のために戦 死した者を《神》とするのはまったく近代の発明である。ましてや、例大祭やみたま祭とい う神道儀式の実施日ではない八月十五日の参拝にどんな宗教的必然があるのか。
《靖国》も、それを支える宗教観もまったく近代の創作である。
 八月十五日の靖国参拝とは、宗教とは無縁の、国家による政治的デモンストレーションそ のものに他ならない。
 参拝推進派の代表的論客である加地伸行はこう言っているではないか。
「参拝もしないというような指導者の下では自衛隊員も戦えまい。」 (『靖国神社をどう考える か?』小学館文庫) そうそう。そうやってはっきり言ってくれよ。国家のために死ねる精神 を養うために《靖国》は要請されているのだ、と。
《靖国》は過去の戦争の死者のための施設ではない。未来の戦争による死者を待ち受けるた めの施設なのだ。                           

十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
《神》が人間を創造したと信じるのが宗教であるからには、それに対し、人間こそが《神》 を生み出したのだと転倒を加えることが宗教批判の基幹となる。

 この論説の主旨をはずれて、「最もおいしい部分」としてあえて言い古された冒頭部分を選んだ。

 推進派であろうと反対派であろうと、「靖国」をめぐる議論は、私にはどうでもよ いばかばかしい議論だ。
 私にはまずもって、「靖国」を熱っぽく語る者たちはそもそも本当に霊なんてしろものを信じ ているのかね、という疑念が起こる。ありもしないものをめぐって、いい大人が何を責め合ってい るのか。私には「サンタクロースは本当にいるの?」というレベルの問題としか思えない。 コイズミもイシハラも、もしかすると舌を出しながら参拝しているのかもしれない。

 宗教を信じるのも信じないのも自由だが、信仰を他者に強いたり、死者を神に祭り上げたり、 それを国家が護持したりするレベルになれば、やはり宗教はアヘンだし、迷妄だと言わざるを得ない。 「靖国」とは唯それだけの問題だ。

 死者は、肉親や縁者や友人や恋人の心に刻まれた愛惜や無念や怨念のなかに生きるばかりだ。自らの 内部に死者を生かし続けることだけが、生き残ったものがなしえるすべてだ。むしろ「国家」 などに「私の死者」を収奪されてたまるか、と考えるべきではないのか。

 国家によるジェノサイドを拒否する精神をこそ養なわなければならない。そして戦争時の殺戮 だけがジェノサイドではなく、日常的な緩慢なジェノサイドを見据えなければならない。
118. 『「非国民」手帖』を読む(16)
「自覚的ナショナリスト」のユートピア
2004年12月10日


俎上の鯉:小林よしのり『新ゴーマニズム宣言 第6巻』(小学館)
料理人 :鵠
料理記録日:99年5月号

 昨年後半の論壇で『戦争論』が大きく扱われたこともあって、小林よしのりはすっかり文化 人、知識人として遇されるようになったらしい。『戦争論』への批判に対する反論を中心にし た新刊の『新ゴーマニズム宣言 第6巻』(小学館)がやけに金のかかった豪華装丁なのも、 もはやこれは立派な「思想書」だという宣言なのだろう。日本の論壇もずいぶんナメられた ものだ。
 小林の論理の粗雑さは相変わらずで、いちいちその無知や矛盾を言挙げしている余裕はない が、実のところ論理の骨格はいたって単純である。つまり、一方で例えば学校問題などを題材 に、今の若者が甘ったれているのは親の躾けがなってないからだとか、もっと公共心を育てな ければならないといった、誰もが口にしたり、納得するような「常識」を主張しておいて、そ れを「国家」のレベルへと短絡するのが、小林の「思想」のレトリックにほかならない。要す るに子供の世界とのアナロジーでしか考えていないのだ。
 小林は、無自覚なナショナリズムは危険だとして、自ら「自覚的ナショナリスト」と名乗っ ているくせに、国家やナショナリズムの意味や歴史について、明らかに基本的なことすら自覚 も理解もしていない。外国のジャーナリストのインタヴューでナショナリズムという言葉を使 った小林は、それはパトリオティズムのことではないかと質されたそうだが、まさしくそれを 混同しているのである。
 パトリオティズムに本来「国家」の概念は含まれていない。小林は、自分の言う「国」とは 「国家システム」ではなく、「伝統・文化」や「日本語」のことだと言うのだが、直接会っ たこともない多くの他人をそうしたイデオロギーによって同じ「国民」として組織するものこそが、 近代の「国家システム」であり「国家主義」なのだ。当然それは、この列島に広がる「文化」 や「伝統」の多様性を否定し、そこに馴染まない者、あるいはまた日本語を解さない者を「非 国民」としてそこから排除しようとするだろう。その「システム」を抜きに「愛国」云々を唱 えるのは、反動であるばかりか、それこそ小林が嫌う平和ボケのユートビア思想にほかなるま い。

十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
 直接会ったこともない多くの他人をそうしたイデオロギー(「伝統・文化」や「日本語」と いった)によって同じ「国民」として組織するものこそが、近代の「国家システム」であり 「国家主義」なのだ。

 私は『イデオロギー』と言う言葉を『虚偽意識』と漢字のルビをつけて読むことにしている。 上の文中の『イデオロギー』もそう読むと文意が明解になる。

 また、『小林の「思想」のレトリック』は正しくは『論理的誤謬』、あるいはそれを承知で 使っているなら『詭弁』と言うべきだろう。「対象のもつ限界を無視して、その限界を超えた ところにまで認識の在り方を逸脱させる」『誤謬』あるいは『詭弁』である。
 こんなシロモノが「思想書」とは、ほんとに「日本の論壇もずいぶんナメられたものだ。」

 ところで「ナショナリズム」ってなんだ?
 民族主義とか国民主義とか国家主義などの意味で使われているようだが、その概念の思想的内実を 問題にしている。
117. 『「非国民」手帖』を読む(15)
戦争は楽しく、美しかった
2004年12月9日


俎上の鯉:『国家と戦争』(飛鳥新社)
料理人 :歪
料理記録日:99年8月号


 堕落せよ、と安吾は言った。
 堕落こそが救いだ。戦争が終われば、特攻隊の勇士も闇屋になり、戦争未亡人は新しい男を つくり、将軍は切腹もせず法廷にひかれる。敗戦によって出現した状況は、天皇制も武士道も 虚妄でしかなかったことを明らかにした。人間は生き、堕落する。そのことによってしか救わ れない。坂口安吾の『堕落論』だ。
 ところが、こんな平明な文章さえまともに読めない奴がいるらしい。小林よしのり批判に抗 するために『国家と戦争』(飛鳥新社)に結集した「知識人」たちだ。
 歴史を改竄することだけでは飽き足らず、文学作品も捏造しだしている。
 小浜逸郎の引用が『続堕落論』からとも知らず、そんな文章は『堕落論』に存在しない、と はしゃぐ西部邁の無知などかわいいものだ。
 福田和也は言う。『堕落論』は、戦争は楽しく、美しかった、と述べている、と。
 確かにそう書いてある。しかし。戦争が美しく見えるのは、考えることを放棄していたから であり、その美しさは「泡沫のような虚しい幻影に過ぎない」と論理は展開されていくのだ。 ほんとに読んだことあるのか。
 おまけに「昔のほうが高かったのだという認識があって、はじめて堕落になるはず」などと 幼稚な解説を提示している。
 《堕落》とは、欺瞞的な道徳や規範からの逸脱を肯定する倫理的態度のことだ。いささか退屈 なほどにストレートな逆説的表現さえも理解できていないようだ。
 蓮田善明の敗戦時の自殺などという、《堕落》の対極に畏れ入っていることからしても、そ の誤読は明白である。
 これでよく《文芸評論家》などと恥ずかし気もなく名乗ってるものだ。こいつは自殺しない 現代の作家を嘆いているが、はっきり書かれていることをまともに読めもしない奴が文芸評論 家を称していることの方がよほど嘆かわしくないか。福田らの語る《国家》も《伝統》も、 『堕落論』においてあらかじめその虚妄性を批判されている。《歴史》を直視しょうとしない 者たちは、時間のかなたから撃たれていることにも気づかない。

十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
戦争が美しく見えるのは、考えることを放棄していたから であり、その美しさは「泡沫のような虚しい幻影に過ぎない」
《歴史》を直視しょうとしない者たちは、時間のかなたから撃たれていることにも気づかない。


 前回の知識人に対する罵倒は、一日早かったようだ。今回は「保守派論客」と持ち上げられている 西部邁・福田和也らの欺瞞ぶりが暴かれている。まさに「擬似知識人あるいは亜知識人」の見本だ。

 戦争は楽しく、美しかった、だって?今イラクで行われている虐殺のどこが楽しく美しいのだ。
 
 『二十年まえの戦争の死者や被害者や不具者を典型的に想定しようとすれば、わたしならば、 ざん壕で眠っているとき土砂が崩れおちて死んだ兵士とか、行軍中に病気にかかって行きたおれて 死んだ兵士とか、食事中流れ弾丸にあたって戦死した兵士とか、輸送船が沈められて海に没した兵 士とか、総じて無意味にたおれた大多数の兵士の死によって戦争の死をかんがえるだろう。おあつ らえむきの戦闘に遭遇して死んだある意味でめぐまれた少数の死者で、戦争そのものの実相をかん がえようとしないだろう。
 また国内の死者や負傷者をかんがえるばあいでも空襲で無意味に死んだり負傷して不具になったり したひとびとを典型的にかんがえるだろう。
 戦争はおあつらえむきのものでもなければ、異常なものでもない。だからこそ戦争はおもしろい体 験だったとか、軍隊は結構愉しいところだったとかいう大多数の戦争参加者の声も、またジャ-ナリ ズムの上ではなく、現実社会のなかに潜在的に流れているのだ。
 こういった大衆の戦争体験の肯定が存在するがゆえに逆説的に戦争そのものの実体が悲惨なのであり、 また、戦争はやむをえない当然の国家行為だったと居直る政治権力が、現在もまだ存立しうる根拠があ るのだ。
 これが正当な想像力をもった人間が、戦争と全社会現実の考察からみちびきうる正当な前提である。 そしてこの前提から、すべての課題は出発する。』
(吉本隆明「自立の思想的拠点」所収「戦後思想の荒廃」より)


 これが「考えることを放棄し」ない者に見える戦争の実体だ。
116. 『「非国民」手帖』を読む(14)
《戦争》の虚構、《平和》の虚構
2004年12月8日


俎上の鯉:皇后・美智子の平和像(文藝春秋11月号)
料理人 :歪
料理記録日:98年12月号


 小林よしのりが描いているものは決して《戦争》ではない。
 奥崎謙三が告発し、中内〝カリスマ″功が体験した屍肉を食らうほどの惨酷の隠蔽から攻め ることもできる。ハイテク兵器が飛び交う湾岸戦争以降の軍事状況に照らし合わせてもいい。 国際政治のリアリティの欠落を嗤いとばすこともできる。愛と勇気に支えられた景気のいい戦 闘シーンだけで構成された《戦争》など、どのような意味においても現実に展開される戦争と は無縁なのである。
 小林は《戦争》を賛美することで、戦後社会を支えてきた理念を否定しょうと試みた。だが、 それは単に《平和》を絶対的価値としてきた《戦後理念》を倒立させて虚構を描いたにすぎな い。その意味では小林もまた、《戦後理念》の内側にしか存在していない。
 倒立像の《戦争》が虚構であるように、《戦後理念》が語る《平和》もまた虚構であったの だ。例えば、最近、大きな注目を集めた《平和》に関するあの文章。自分と周囲とをつなぐ橋 が想定され、その橋が失われたとき「人は孤立し、平和を失」う、と述べられている(文藝春 秋11月号)。この文章が、姓を持たない「美智子」という筆者によって書かれたことは重要で ある。このような無邪気な共同性の礼賛こそが、この社会においては、規範的なまでに、すぐ れて典型的な《平和》像なのである。しかし《国家》や《権力》に行き当たらない《平和》論 など結局は寓話に過ぎない。筆者が宗教対立という強固な共同性の衝突の前に国外での講演を 取りやめざるをえなかったことがそれを証明している。
《戦争》論者も《平和》論者も可視的な戦闘だけを問題としている。日本のこの《平和》と 《繁栄》が、世界各地の《戦争》や《貧困》に裏打ちされたものであり、安寧を満喫しながら も戦争の当事者であり得るということにいささかも気づいていない。
 この社会で語られている《戦争》の虚構は、《平和》の虚構と同じメダルの裏表である。否定 の対象であるとともに思想的基盤をなしている《戦後理念》への批判へと連動しなければ、《戦 争》論の根底に触れることはできない。

十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
《国家》や《権力》に行き当たらない《平和》論など結局は寓話に過ぎない。
 この社会で語られている《戦争》の虚構は、《平和》の虚構と同じメダルの裏表である。否定 の対象であるとともに思想的基盤をなしている《戦後理念》への批判へと連動しなければ、《戦 争》論の根底に触れることはできない。

 『これらの理念上のロマンチシストである<お節介屋>たちは、ありあまる自国の国家権力のもとで の課題に眼をそむけながら、ただ戦争と平和という理念をとおして世界の構図をみようとしているの だ。しかし、現実の情況は桟敷席から見極められるようなおあつらえむきのものではない。現在の世 界は戦争が不可能なように平和が不可能であるという拘禁状態にその本質をもっている。かれらが戦争 をみているところにじつは平和な人間の存在の仕方があり、かれらが平和をみているところに、じつは 日常生活のような仮面をかぶった戦争があるといった現実の深い根拠を透視することができなければ、 主観の如何にかかわらず、わたしたちは世界の情況に迫る本質的な課題から、ただ逃亡しているにすぎ ないというべきである。』
(吉本隆明「自立の思想的拠点」所収「戦後思想の荒廃」より)


 これは40年ほど前、ベトナム戦争に対するさまざまな動向や言説に対して書かれた《戦後理念》 への批判である。『これらの理念上のロマンチシストである<お節介屋>たち』とは、その当時の革新 的党派や進歩的知識人を指している。『《戦争》の虚構は、《平和》の虚構と同じメダルの裏表で ある。』という認識が書かれていると思う。
 40年も前の文章がいまだに色あせていないのは、『理念上のロマンチシスト』たちがあいも変わらず 偉そうに空疎な言説を垂れ流しているからだ。多くの知識人は、知識人を自認しているが、擬似知識人 あるいは亜知識人に過ぎない。さもしい売文業者だ。この国には、不可避の課題を担って格闘している真の知識 人が一体何人いるだろうか。
115. 『「非国民」手帖』を読む(13)
《繁栄と平和》の裏側に《悲惨》が貼りついている
2004年12月7日(火)


俎上の鯉:『朝までテレビ』での『サンデープロジェクト』藤岡信勝らと上杉聰などとの直接対決
料理人 :歪
料理記録日:97年4月号

 しつこいようだが、今回も《従軍慰安婦》である。ただし、今までと違う角度から問題を提 起する。
 この間さまざまなメディアを《従軍慰安婦》がにぎわした。とりわけ、『朝までテレビ』『サ ンデープロジェクト』における自由主義史観研究会の藤岡信勝らと日本の戦争責任資料センタ ーの上杉聰などとの直接対決は、本当の問題の所在を示唆したという意味で興味深いものだっ た。
 歴史から《従軍慰安婦》の存在を抹殺しようとする者たちへの批判が有効打となり得ていな いのはなぜか。これらの番組で見る限り、批判者が歴史修正主義者と思考を共有している部分 があるからだ。即ちこの問題を、《歴史》に封印してしまっている点である。
 《悲惨》な過去の事例をいくら集積したところで、現在に対して持つ意味は見えない。「アジ アで商売するためには侵略の事実を認識しておかねばならない。」という趣旨の上杉聰の発言は、 現在への一つの視点である。これは日本政府とほぼ同じ観点といってよいだろう。現在の《繁 栄と平和》を維持するために、過去の戦争の《悲惨》を総括すべきというわけだ。
 しかし。必要なのは《繁栄と平和》の裏側に《悲惨》が貼りついていることを知ることだ。
 昨年十一歳のビルマ人少女への買春で大学教員が告訴された。81年に国会証人として教科書 の「左翼的傾向」を攻撃し、『朝生』軍人特集で慰安所を肯定した名越二荒之助もやはり同じ 大学の教員だったことにはある感慨を抱かざるを得ない。
 かって軍事力によって女性たちの性を隷属させたと同様に、現在は経済力によって隷属させ ている。
 あるいは、小林よしのりは、慰安婦の肯定から戦争の肯定へとすすんでいる。彼の用いる論 理からすればこの展開は必然というべきであろう。
 《従軍慰安婦》は現在の、そして未来の問題なのである。このことが繰り込まれなければ、批 判の停滞から脱し得ない。
                        

十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
 かって軍事力によって女性たちの性を隷属させたと同様に、現在は経済力によって隷属させ ている。
 《従軍慰安婦》は現在の、そして未来の問題なのである。


7日の朝日新聞に「元慰安婦ら証言集会」という小さな記事があった。その記事から。

 『旧日本軍による慰安婦制度や強制連行・強制労働などを否定する政治家の発言が相次ぐ中、 証言に立った被害者らは「歴史の事実と向き合う誠意と勇気を持ってほしい」と呼びかけた。
 川崎市の集会では台湾の鄭陳桃(チェン・チェンタオ)さん(82)が証言。女学校の学生だった 18歳の時、通学時に日本人警察官に「学校に送っていく」と声をかけられた。そして十数人の女性 とともに船でアンダマン諸島(現インド領)に連行され、慰安婦をさせられた-と訴えた。』

 この記事の隣にこれまた小さな記事が、南京大虐殺の「生き証人」李秀英さんの死去を報じていた。

 これらの記事に接するとき、大日本帝国の暴虐に憤り、被害者たちに連帯の気持ちを持つことが どうして「自虐」なの?
 これを「自虐」と感じている連中は、女性たちを「経済力によって隷属させ」ている現在の 「侵略」にもなんらの痛痒も感じていないに違いない。
114. 『「非国民」手帖』を読む(12)
気楽な奴等だ
2004年12月6日


俎上の鯉:自由主義史観研究会・緊急アピール
料理人 :歪
料理記録日:97年2月号

 おう、もう一撃いっとけ。自由主義史観研究会だ。いまこいつらこそ最も叩かれるべき対象 だ。
 彼らは《反日自虐》歴史教育を排そうとする。その目的が、日本の《国益》にかかわる地域 紛争が勃発したとき、すすんで参戦し得る人材を育成することにあるのは、既に半年前に本欄 で明らかにしておいた。
 昨年の夏からは、教科書から従軍慰安婦問題を抹殺する活動を展開し、小林よしのりや中野 翠といったバカどもが、尻馬に乗って騒ぎ出している。
 強制連行という《部分》を否定することで、従軍慰安婦という《全体》をも否定しょうとす る論理的詐述は、幼稚すぎて、改めて批判するにも値しない。
 これは何より《現在》の問題だ。歴史に対する感覚が鈍いということは、《現在》をとらえ損 なっているということなのだ。
「彼らの真の動機が、……日本の国家や軍隊を敵視し、誹謗することにあるのは明白である」 (緊急アピール)と、憤っているが、はい、その通りです。しかし、語るに落ちるとはこのこ と。そっちこそ、国家の論理に個を従属させ、戦争を賛美することが「真の動機」だというこ とは明白だぜ。まさに《民族》と《国家》が世界的な課題となっている時に、偏狭なナショナ リズムを煽動できるなんて、気楽な奴等だ。
 彼らが問題の焦点とする強制連行の有無。研究会緊急アピールは「慰安婦が自由意志によっ て戦地の仕事を選んだ」とする。おいおい。《自由意志》だってよ。自立的な個人の主体的判断 で職業選択が行われるなんて、戦後憲法上の理念に過ぎない。この社会では強いられた条件と 環境の下でしか職業を選べないに決まってるじゃないか。完全に《戦後民主主義》ボケだな。 こりや。
 彼らには未来を提示する力はない。怖れるには足りない。ただ《現在》の閉塞だけはおさえ ておかなければならない。

十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
[1] 歴史に対する感覚が鈍いということは、《現在》をとらえ損 なっているということなのだ。

[2] 自立的な個人の主体的判断で職業選択が行われるなんて、戦後憲法上の理念に過ぎない。 この社会では強いられた条件と環境の下でしか職業を選べないに決まってる。


 [1]について、《反日自虐》ということを考えてみる。
 反日、反米、反北朝鮮、反韓国、反中国、反ロシア、反英、・・・と並べていき、 自分の思想・理念とつき合わせてみる。
 それぞれの後に「・・・国家権力」をつけて読めば、どれも私の同意するところだ。
 それぞれの後に「・・・国民(被支配者)」をつけて読めば、どれも私と相容れない立場だ。
 「反日」とは、その「日」の指し示すものをはっきり示さなくては、まったく無意味な概念だ。従って、 「反日自虐」も空疎な概念となる。私にとって「反日=国民(被支配者)」なら自虐と言えるが、 「反日=国家権力」は自虐ではない。現在の国家のありようからの当然の帰結である。

 《反日自虐》を声高にいいつのる連中は、「国家対国家」という対立を世界の課題と思い込んでいる。 私は「支配者対被支配者」という対立が本質的な課題だと考える。
 現在の世界総体に対するビジョンをとらえ損なっていることから、さまざまな錯誤・誤謬・欺瞞 が起こる。保守反動の言説が錯誤・誤謬・欺瞞のオンパレードとならざるを得ないのは当然のこと なのだ。

 [2]は自らに課している課題(「私たちは社会的不平等を担保にして《自由》を享受している」とはど ういうことか。)と同根の問題だ。いずれ。
113. 『「非国民」手帖』を読む(11)
教え子を戦場に!
2004年12月5日

 板橋高校事件のことを書くべきだろうと思いつつ、これは澤藤さんが必ず 取り上げて下さるだろうし、法律がらみの問題だから私の及ぶところではないと 他人頼みを決め込んでいた。

 期待どおり、今朝の澤藤さんの日記は「板橋高校事件」だった。

「澤藤統一郎の事務局長日記」



 さて、『「非国民」手帖』は

俎上の鯉:『諸君!』『新潮45』(7月号)の《反日》歴史教育批判
料理人 :歪
料理記録日:96年8月号

 反動陣営の鉄砲玉として鳴らす元法相奥野が 「従軍慰安婦は商行為」 とまたぞろ《問題発 言》を繰り返しているかと思えば、呼応するように、『諸君!』『新潮45』(7月号)といった 保守系オジサン雑誌が揃って、侵略戦争を否定的に扱う現行歴史教育の《反日性》を問題に している。
『諸君!』では高校教師が大学入試センター試験を分析。朝鮮侵略から皇民化政策まで「日 本悪玉史観」で貫かれていると訴えている。一方『新潮45』は、『諸君!』執筆者も参加する 自由主義史観研究会主宰者が、戦後民主主義を脱して《反日》歴史教育批判を開始するに至 る過程をまとめた手記である。
 ここでは従軍慰安婦や侵略性の有無を論じようというのではない。問題は事実認定ではな く、彼らの言説の無効性をその根底において洗い出すことなのだ。
 彼らは《反日》歴史教育を受けた子供たちが次のような見解を持つようになったことを嘆 いている。「自分の国のことだけしか考えていない国」「日本はずるがしこいことばかり」「心 が狭い国だと思う」。しかし。それは、歴史上の姿であると同時にまさに現在の日本そのもの ではないか。
 確かに歴史はひとつの《物語》である。だが、対抗する《物語》を紡ぐことで、自在に共 同性を編成できると信じているとすれば、あまりに幼稚すぎる。生徒は具体的な生活を通じ て現実認識を養っているのだ。過去の悲惨さを隠蔽したところで、現在の醜悪さからは逃避 できない。「戦争=悪」の現行教育は「洗脳」らしいが、教育という制度そのものを疑わない なら、所詮裏返しの発想。逆洗脳したところで、現実から遊離した受験知識にすぎない。こ の教師たちは教育現場で何を見ているのか。
 彼らのひとりは、《反日》教育批判に目覚めたきっかけは湾岸戦争だという。看護婦のひと りも出せない日本に一国平和主義の破綻を見たそうだ。それなら話は早い。論理の帰結は明 白だ。要するにこう言いたいんだろ。「教え子を戦場に!」と。      

十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
生徒は具体的な生活を通じて現実認識を養っているのだ。過去の悲惨さを隠蔽したところで、 現在の醜悪さからは逃避できない。

 願わくば、右からのものであろうと左からのものであろうと教師の言うことを鵜呑みにせず、 「具体的な生活を通じて」得た現実認識とつき合わせて十分に咀嚼し、自らの養分にして 欲しいものだ。
 しかし、これは生徒よりむしろ大人たちへの伝言と言うべきだろう。
112. 『「非国民」手帖』を読む(10)
戦争について考えるな
2004年12月4日


俎上の鯉:高市早苗・朝日新聞(8/13)のインタビューでの発言
料理人 :歪
料理記録日:95年10月

 バカの伝播力は恐ろしい。ひとりのバカが許されていると、おれはバカではないかと自問 する契機が奪われてしまうからだ。
 不戦決議をめぐって「わたしは当事者とはいえない世代だから、反省なんかしていない」 と発言したのは高市早苗である。たちまち同調者も出はじめている。やはりバカはきちんと 叩いておかなければならないようだ。
 朝日新聞(8/13)のインタビューで高市はその稚拙な論理を得々と述べている。
「日本の動機が侵略かどうかは、国家意思決定の当事者にしか明言できない」と。戦争の性 格規定を、《動機》などという個人の主観の問題にすりかえることで棚上げしようとしてやが る。つまらん詐術だ。動機は解放でも、やってることは侵略ということだって充分ある。
 しかも、いろいろな資料や意見があって「結論が出せない」し、時代によって価値観は変 遷するものだから、「今の価値観」で五十年前の戦争について判断は下せないらしい。このよ うな相対主義が受容されるなら、人間には一切の価値判断が許されなくなってしまうだろう。
 高市になんら積極的な問題提起を見ることは出来ない。むしろ総体としてただひとつのメ ッセージを読むべきである。すなわちこう言いたいだけなのだ。《戦争》について考えるな、と。
 このような幼稚な論理が誘発されるのも《不戦決議》自体が低次元のものでしかなかった からだ。高市も不戦決議も、《戦争》を五十年前の過去に封印し、《責任》を謝罪と同義にして しまっている点では同じである。
 しかし《戦争》はどこまでも現在の課題だ。《戦争》とはこの日本の《平和》の根拠として 世界で展開されているものであり、《平和》の内側で隆起しつつあるものである。「正しい歴史 を伝える議員連盟」という戦争を正当化する会に所属しながら、戦争について考えるなとい うメッセージを送るこの女には、確かに《戦争》責任がある。

十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
《戦争》はどこまでも現在の課題だ。《戦争》とはこの日本の《平和》の根拠として 世界で展開されているものであり、《平和》の内側で隆起しつつあるものである。

 「幼稚な論理」で詐術的な言説を得意になって語る国会議員らの鉄面皮にはほんとに うんざりする。特に保守・反動の言説に接するとある種の苛立ちを感じる。
 その苛立ちの誘引はなんだろうか。その言説の耳目に入りやすいことにあるようだ。 皮相だから単純にして分かりやすい。自ら考えることを知らない、あるいは考えることを 放棄したものの耳目にはすんなりと入っていくようだ。すんなりと広がっていく。
 反対に、ラジカルな思考を繰り広げる本質的な言説は耳目に入りにくい。私が信頼してよく 読む著書はおおむねかなり難しい。勿論そうならざるを得ない理由があるわけだが、 これではなかなか広がりようがないな、と思うことがままある。
 私はその落差にいらだっているようだ。量より質だよと思っているが、いささか心もとない 気持ちも払拭しきれない。結局、いわゆる世論を形成するのは耳目に入りやすい言説だから。
111. 『「非国民」手帖』を読む(9)
 《平和と民主主義》の現在
2004年12月3日


  前回「私たちは社会的不平等を担保にして《自由》を享受している、と言っていると思う。 これは一体どういうことか。」という問題を提出した。それについて書くつもりだったが、しばらく 自分への課題としておく。
 「民主主義」を表題に含む論説をもう一つ。

 

俎上の鯉:元法相永野の《問題発言》に対する毎日新聞の論調
料理人 :歪
料理記録日:94年8月号

 大日本帝国陸軍大尉永野茂門は、欧米の植民地を《解放》するために《大東亜》戟争を戦っ た。このことは、本人が発言を撤回しようと、揺るぎない事実に思える。
 多くの青年が、永野茂門と同じく《大東亜共栄圏》の《理想》実現のために従軍した。これ は現在からの戦争に対する本質的評価と異なり、当時の当人たちの主観という次元では、事実 のはずである。
 戦後の体制イデオロギーとなった《平和と民主主義》への背信として、懺悔させたところで、 何の意味もない。
 問題は、《大義》のもとに侵略戦争へと駆り立てられていく精神のあり方を明らかにしていく ことである。それだけが現在的な課題であり続けるということだ。
 永野が「侵略戦争へと駆り立てられ」た思想を、敗戦によっても変わることなく一貫して持続 してきたのなら、誤謬に満ちた蒙昧な精神ではあるが、それはそれで立派なものだ。ただし、真面目に 戦争推進に加担し、敗戦で民主主義に鞍替えし、いま再び強い国家をなどとやたらと勇ましく なっている連中よりは、である。

 では、現在は元法相の肩書を持つことになった永野の《問題発言》を暴露した毎日新聞は、 どのような観点からこの発言を問題としたのか。「細川護煕前首相は先の大戦を『侵略戦争』 と位置づけた」のに「前内閣と違った突出発言が繰り返されると、新政権の位置づけを見直さ ねばなるまい」と「法相の処分」を迫る(5月7日社説)。ここでは発言は単に国内政治ゲー ムの道具立てとしてしか扱われていない。
 発言を撤回しても《信念》は捨てていないだろう。かつて永野と同じ幻想を共有したものた ちも、誤謬の歴史を擁護して生きていくに違いない。
 《平和と民主主義》という理念が強固に確立された現在、《戦争》という名辞が忌避されている だけで、真剣に考えることは逆に抑圧されている。
 そしてその一方では、北朝鮮核疑惑を契機として、《戦争》への扇動が着実に隆起している。《国 土防衛》や《世界秩序維持》や《邦人救出》のために、と。これらこそ十五年戦争へと導かれた セリフではないか。
 《戦争》は強権と弾圧のみでは生まれない。大衆の諦観と熱狂によって遂行される。
 永野発言騒動は、《平和》の浸透と解体が同時進行する現在を示唆している。 

十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
 問題は、《大義》のもとに侵略戦争へと駆り立てられていく精神のあり方を明らかにしていく ことである。それだけが現在的な課題であり続けるということだ。

 《戦争》は強権と弾圧のみでは生まれない。大衆の諦観と熱狂によって遂行される。


 政治家の妄言・暴言は糾弾されるべきだが、ここでも最も問われなければならないのは、 私たち自身だ。私は「自分の生活の中から〝平和″に相反する行動原理を駆逐する」という 課題のことを言っている。

 次回からしばらく「戦争と平和」に関する論説を読んでいく。
110. 『「非国民」手帖』を読む(8)
《自由》と《民主主義》
2004年12月2日


 「政治的権利が平等でも社会的に不平等なら、《対等な資格》はフィクションにすぎない。」
 これが資本主義下での「民主主義」の実態なら、資本主義下での「自由」とは何なのか。


俎上の鯉:小沢一郎『日本改造計画』(講談社)
料理人 :歪
料理記録日:93年10月号

 小沢一郎は《自由》と《民主主義》を愛している。彼の政治改革の構想は《自由》と《民 主主義》の十全たる発現を願う想いに支えられている。
 手練手管と権謀術数に長けた腹黒政治家のイメージに押し込めて、《自由》と《民主主義》で 断罪すれば、なるほどたしかに安心は買える。しかし、問題の所在には永遠に辿りつけない。《自 由》と《民主主義》の理念とともに射抜かなければ、とどめはさせないのだ。
『日本改造計画』(講談社)。小沢は言う。多数決原理を貫徹し、少数派を封じ込め指導者に 絶大な権力を付託することによって、民主主義を確立する、と。あるいは、政治が個人や企 業を規制することをやめ、自由を保障する、と。
 これは、現在の政治にまつわる多くの議論と同様、拠って立つ原理も、社会に対する歴史 的な分析もない。ただ願望と嗜好だけで語っているに過ぎない。
 多数派が少数派の意見に妥協するのは、温情ではなく、権力の形成と執行をスムーズにす る為にすぎない。また国家が経済過程に介入することによって日本資本主義の《発展》はあ ったのではなかったか。
 しかし、《自由》と《民主主義》を体制への抵抗の原理としてきた側こそ、そのことばの意 味をまともに考えてこなかったことに気づくべきなのだ。
 《民主主義》とは社会的不平等の上に成立する政治的平等の制度であるから、社会的強者が 多数を占有することは必然であるし、《自由》とは社会的不平等の謂いである。
《民主主義》や《自由》の批判者としての保守には、《民主主義》や《自由》ということばの 持つ幻想性だけで戦えた。しかし、政治のリアルに覚醒した、戦後民主主義の鬼子たる小沢 には通用しない。社会党ごときが取り込まれてしまうのは不可避だ。
 もっとも小沢にも勝ち目はない。政権交代を生んだにもかかわらず史上最低の投票率に、《民 主主義》はその限界を露呈しつつあるからだ。

十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
《自由》と《民主主義》を体制への抵抗の原理としてきた側こそ、そのことばの意 味をまともに考えてこなかったことに気づくべきなのだ。
 《民主主義》とは社会的不平等の上に成立する政治的平等の制度であるから、社会的強者が 多数を占有することは必然であるし、《自由》とは社会的不平等の謂いである。


 私たちは社会的不平等を担保にして《自由》を享受している、と言っていると思う。 これは一体どういうことか。