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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。

10. 教育現場での「孔の穿ち方」・その1

 2004年8月24日





 「でも風雨強かりし中で私は思い直します。
 時代の追風がある時だけ私たちは理想を語ってきたのでしょぅか。
日本国憲法の理想が日本社会で開花しているとでも考えてきたのでしようか。「日の丸・君が代」で処分された夥しい教師たち、あるいは思想信条上の理由で差別され、抑圧されてきた多数の人びとの存在を想起するだけでも、私たちは決して物言わぬ教師になってはいけないと思うのです。 今こそ無力感や敗北主義を克服し、ピンチをチャンスに変えたいと思うのです。」

(「世界」2004年4月号所収・戸坂真「『日の丸・君が代』を生徒と学ぶ」より)


 この文の執筆者は埼玉県の社会科の先生のようだ。「孔の穿ち方」を次のように提案している。


 「「日の丸・君が代」の強制を凌駕するような卒業式づくりをめざし、授業で「日の丸・君が代」を生徒とともに学び、保護者や地域の人々と連携していきたいと思います。私自身もこのプランを実現する途上に立っているに過ぎませんが、この議論と実践積み重ねていけば、少しでも現状を変えていけるだろうと期待します。」(下線、仁平)


 他府県の学校では、東京都でも小学校・中学校では、もうずいぶん以前から「君が代日の丸強制」の嵐に見舞われ、既にその定着を許していることに改めて思いいたる。もしかすると都立高校が「自由と民主」の最後の牙城なのかも知れない。石原のなりふりかまわぬえげつない蛮行は、それゆえのあせりの表れなのだろう。

 戸坂氏のように地道な戦いを続けている教師たちが全国にたくさんいるだろうし、そうした教師たちの実践から学ぶことが多々あるに違いない。特に「保護者や地域の人々と連携する」ことが重要だが、これが最も難しい。私には何をどうしたらよいのか、さっぱりわからない。有効な実践があるのなら知りたいと思う。
 私には、そのことを自己目的化するのではなく、よりよい教育活動を目指す営みを通して信頼関係を築くほかないように思われる。登坂氏の主張もそのように理解したい。


  ただ私は「「日の丸・君が代」の強制を凌駕するような卒業式づくり」には異論がある。
 だいだい私は、結婚式や葬式も含めて儀式が大嫌いなのである。儀式はうそっぽく、うさんくさい。大きな儀式になればなるほどその感がいよいよ強い。国家が主催する儀式や、国家間の儀礼は、もう「欺式」と言うほかない。見るのもおぞましい。
担任をしていた生徒の卒業式では不覚にも涙を流したことがあるが、それでも嫌いだ。

 「君が代日の丸」のある儀式など、感動的なものにしてくれるな、と言いたい。「君が代日の丸」を拒否できないのなら、むしろ逆に、抑圧者以外は参列したくなくなるような、強圧的で貧相でばかばかしい卒業式にしてしまえ、と思う。内容を削りに削って、極端に言うと「日の丸」を敬虔な振りをして仰ぎ見ながら、「君が代」をもぞもぞと斉唱するだけの式。いやいや参列しているものが「君が代日の丸の強制」に対する抵抗の意思を新たに胸に刻むための式にしてしまえ。
 生徒の入学や卒業を心から祝う会は別にやればよい。その祝う会の方は、生徒と一緒に大いに創意工夫して、のびのびと楽しく感動的な会にしょう。

 「君が代日の丸」のある式を感動的な式にするのは、「君が代日の丸」があって当たり前というよう情況を作るだけだ。「君が代日の丸」があるから感動も大きいのだとなっていく。まさにオリンピックでのように。

 オリンピックで人は何に感動するのか。選手たちが持てる力を出し切って記録や勝負に挑む姿、その過程で見せてくれる見事な技、限界に挑戦する精神力。総じてたゆみない日ごろの厳しい修練の結実に感動する。 それがいつのまにか「君が代日の丸」に感動してるように錯覚している。
 表彰台上の選手自身も、目的を見事に成し遂げた達成感と、そこに到るまでの苦楽のすべてを反芻しての感動のはずなのに、「君が代日の丸」に感動してるように錯覚して、実際にそんな感想を述べたりする。ばかばかしい。国家権力の思う壺にはまっている。

 「素朴な愛国心」育成のために権力者はスポーツも利用する。スポーツの利用はもしかすると教育利用以上に効果的かもしれない。対象が子供だけでなく圧倒的に大人が多い。成人してからの意識の変革はむずかしいが、たいした反対に出っくわすこともなく、当人にそれと気取られることもなく、いつのまにか「素朴な愛国心」の「刷り込み」が出来てしまう。利用しない手はない。

 最近、サッカーのアジアカップで中国の観衆が「君が代」演奏にブーイングしたのはけしからん、スポーツに政治を持ちこむな、とマスコミ挙げての大合唱があったが、何をバカを言ってるんだと思う。スポーツでの国歌演奏そのものが、国家権力の意を受けての政治介入だ。スポーツに政治を持ち込むなと言うなら、スポーツでの国歌演奏はやめろ言うべきだ。

 「オリンピックやサッカーや甲子園では当たり前なのに、どうして学校では駄目なのか」と言う論理を、学校に対する「君が代日の丸強制」に賛成の人がよく使う。
 ちっとも当たり前じゃないのだ。学校の儀式のときと同様、サッカーの競技場で国家への忠誠と天皇への帰順を胸に熱くたぎらせて立っているものが何人いると言うのだ。大方は苦痛を感じながらイヤイヤ立っているに違いないのだ。
 みんな自分の感情にしたがって、本当のことを言うといい。あれはいやだと。あんなものが当たり前になっていると勘違いしているのは、すっかり「素朴な愛国心」を刷り込まれ育成されてしまっている者だけだ。
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