2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
17. 課題提起型教育
 2004年8月31日


 「銀行型教育」が排除し、疎外しようとしているものを知れば、どんな教育が「よい教育」なのか、自ずと見えてくるだろう。前回の引用で下線を付した部分を再度抜き出してみる。

 「より豊かな人間になるという存在論的使命」
 「世界の変革者として世界に介在することから生まれるかれらの批判意識」
 「批判能力を喚起し、現実についての断片的見解には満足せず、点と点、問題と問題を相互につなぐ絆をつねに探究しょうとする教育」

 教育の目的は、「国家・社会の従順な成員」の育成ではなく、教師と生徒がともどもに、より豊かな人間になることである。
 そのための教育方針は、出来るだけ多く貯金を蓄えることではなく、世界の変革者として世界に介在するため批判能力を涵養することである。
 そしてその教育方法は、現実についての断片的見解や事実の一方的伝達ではなく、点と点、問題と問題を相互につなぐ絆を、 教師と生徒との対話によって探究していくようなものでなければならない。


 このような「銀行型教育」と対立する教育を、フレイレは「課題提起教育」と呼んでいる。
 「銀行型教育」と「課題提起教育」とを対比しながら、「課題提起教育」の本質を浮かび上がらせている部分を引用する。


 銀行型概念は、何もかも二分する傾向をもっているが、教育者の行動についても二段階に区別する。第一段階では、かれは自分の研究室や実験室で授業の準備をしながら、認識対象を認識する。第二段階では、その対象を生徒に逐一説明する。生徒はそれを知ることを求められるのではなく、教師によって一方的に語りかけられる内容を暗記することを要求される。生徒は認識行為といえるようなことは、何ひとつ行ってはいない。なぜなら、その行為が向けられるべき対象は、教師の私有物であって、教師と生徒の両方に批判的省察をうながす媒体ではないからである。
だから私たちは、文化と知識の保存の名目のもとに、実は私たちが真の知識にも文化にも到達できないシステムをもっているということになる。
 課題提起の方法は、教師-生徒の活動を二分することはない。つまり、かれがある時点では認識し、別の時点では一方的に語りかけるということはない。教育計画を準備していようと生徒との対話に取り組んでいようと、かれはつねに認識している。
 かれは認識対象を自分の私有物とはみなさないで、自分自身と生徒による省察の対象と考えるのである。

 課題提起型教育者の任務は、臆見doxaのレヴェルにある知識が、理性logos のレヴェルにある真の知識によってとってかえられるための条件を、生徒とともに創造することにある。銀行型教育が創造力を麻痺させ抑制するのにたいして、課題提起教育は現実のヴェ-ルをたえずはぎとるはたらきをもっている。

 銀行型教育は意識を埋没状態におこうとし、課題提起教育は意識の出現と現実への批判的介在に向かって努力する。

 自由の実践としての教育は、支配の実践としての教育とは反対に、人間が抽象的存在で、世界から孤立し、独立し、切り離されているという考えを認めない。それはまた、世界が人間とはかけ離れた実在であるという考えも拒否する。
 真の省察が認めるのは、抽象的人間や人間不在の世界ではなく、世界との関係にある人間だけである。この関係のなかで、意識と世界は同時に存在する。意識は世界に先行するのでもなければ、そのあとにしたがうものでもない。
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16. ちょっと寄り道、2題。
 2004年8月30日


(1)
 5月末ごろ、イラクからの自衛隊の撤退と憲法九条の改悪反対を新聞紙上で訴えようと、「市民意見広告運動」からお誘いの葉書を頂いた。ささやかながら一口乗せてもらったが、広告掲載紙が私の取っていない毎日新聞なので、すっかり忘れていた。
 十日ほど前、8月6日に予定通り、全面意見広告を掲載したという報告の葉書が届いた。実に配慮の行き届いた運動団体だと感じ入った。
 その葉書に、報告書と広告コピーを全国配送するための大作業に人手が欲しいとの訴えがあった。全員に配送するとは、私のように該当新聞を取っていないものには、これもとっても行き届いた配慮だと、またまた感じ入った。
 作業日は昨日29日、日曜日で何も予定がなかったので、カミさんと連れ立ってお手伝いに行ってきた。 20坪ほどの狭い事務所に80名ぐらいはいたろうか。雨が降っていて外は涼しいのに、作業所は人いきれで蒸し暑い。人一倍汗っかきの私には汗を流しながらの作業でした。
 参加者はほとんど50から80代で、若い人は事務を取り仕切っている方々だけ(この人たちも勿論、賃金なしの事務員)。若者が多いのではないかと予想していたのだが、見事に裏切られた。「おれの情勢判断は甘いなあ」とつくづく思った。中高年ががんばるほかないようだ。
 いや,これはちょっと早まった判断だ。急いで訂正しよう。若者が主体になっている運動もずいぶんたくさんあることを知って、感動したことがあるじゃないか。それぞれがそれぞれの場で、できることをやればよい。

 この「市民意見広告運動」の推進母体は「市民の意見30の会」と言う。恥ずかしながら、この市民運動の会を私は知らなかった。インターネットで調べたが、1987年から、息の長い活躍をしている。頼もしく信頼できる会であることを知った。



(2)
 繰り返しになるが、もう一度「バカ」の定義。
 噴飯ものの詭弁、権力を笠に着た傲慢な強弁、片頬を歪めてシニカルに冷笑している差別意識。それを恬として恥じない醜く歪んだ自分の心の形にまるで気づかず、自分を偉い人間だと思い込んでいるらしい者を、私は「バカ」と呼ぶ。権力や財力を笠に着た抑圧者を罵倒するのは、被抑圧者の権利であり義務であると、私は思っている。もっとも罵倒しているだけでは何も解決しないけどね。

「三バカ大将」というのは、「超バカ」に贈る称号のようなもので、何人いても「三バカ大将」。これでいいのだ、とバカボンのパパは言っている。
 そこで、石原・小泉・渡辺・三浦・江崎に続いて、6人目の「三バカ大将」の登場。

 一昨日の朝日新聞の1面トップ記事は「小学生 校内暴力1600件」だった。まず、トップ記事にするようなニュースかね、と思った。一面で報ずべき問題が山積してるのはずだ。
 つぎに、バカな政治家や有識者とやらがまたぞろ、ピンとはずれなコメントを出すんだろうなと思った。 今回の有識者コメントは「今回の結果だけで、小学生が凶暴化していると考えるのは早計で、さらに掘り下げて調べる必要がある。」(大学教授・森田洋司)と、ごくまっとうなものだった。他面の関連記事も同様な論旨で冷静なものだった。

 しかし、この記事で思い出したことがあった。

「教育基本法では個人の尊厳が強調されている。日教組の教育とあいまって、個人の尊厳が行き過ぎて教室破壊が起こり、生徒同士が殺し合いをする荒廃した状況になっている。」

 自民党国会議員・平沼赳夫の、小学6年生の少女による同級生殺人事件に対しての発言だ。もし上記の記事について平沼にコメントを求めたら、待ってましたとばかりに、ほとんど同じ発言になることだろう。
 人と人との関係はそれほど単純じゃないが、「個人の尊厳」の思想が遍く行き渡っていけば、人を陥れたり、傷つけたり、殺したりなどの事件が無くなっていくいうのが論理の筋だろう。それに、何が今さら「日教組」なのだ。日教組はもうとっくに、体制の補完物じゃないか。(これには多くの異論が予想されるが、私はそう認識している。)私には「日教組の教育」と言うのがどんな教育なのか、さっぱり分からない。そんなものあるのかね。

 まったく支離滅裂なこんな滅茶苦茶なことを恥も外聞もなく言ってのける破廉恥漢が得意顔にのさばっている。この男、前の経済産業大臣だそうだが、こういう単細胞が政治家の大半を占めている。あきれてあいた口が塞がらない。
 いや、あるいは私たちが考える以上に彼らはずる賢いのかも知れない。支離滅裂は承知の上で、計算ずくで発言しているのかもしれない。ただ単に「教育基本法」をくさすための発言なのだ。お粗末であっても「教育基本法」改悪の正当性の主張なのだろう。お粗末な耳目に入りやすい発言を繰り返しながら、同じく単細胞で権力に従順な草の根保守主義者を取り込んでいく。単細胞権力従順保守主義者にはいまだに「共産党」や「日教組」は脅威で、「共産党」や「日教組」に対する批判を盛り込んだ政治的言説には、無批判に条件反射的に取り込まれるほどに支配者の思想を刷り込まれている。自民党の支持基盤を維持する重要な一要素になっている。
 これも、「銀行型教育」の成果の一つだ。あれ? 本道に戻っちゃった。
15. 銀行型教育
 2004年8月29日


(以下引用文はすべて、パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」から。)


 一方的語りかけ(それはつねに語りかける人である教師によるものであるが)は、生徒を語りかけられる内容の機械的な暗記者にする。さらに悪いことに、かれらはそれによって容器、つまり、教師によって満たされるべき入れ物に変えられてしまう。入れ物をいっぱいに満たせば満たすほど、それだけかれは良い教師である。入れ物の方は従順に満たされていればいるほど、それだけかれらは良い生徒である。
教育はこうして、預金行為となる。そこでは、生徒が金庫で教師が預金者である。


 フレイレはこういう教育を「銀行型教育」と呼んでいる。「銀行型教育」で教師が日々行っている行為や態度は、抑圧社会を全面的に反映し、その矛盾を維持しているものであると言い、次のように列挙している。


「1 教師が教え、生徒は教えられる。
 2 教師がすべてを知り、生徒は何も知らない。
 3 教師が考え、生徒は考えられる対象である。
 4 教師が語り、生徒は耳を傾ける---おとなしく。
 5 教師がしつけ、生徒はしつけられる。
 6 教師が選択し、その選択を押しつけ、生徒はそれにしたがう。
 7 教師が行動し、生徒は教師の行動をとおして行動したという幻想を抱く。
 8 教師が教育内容を選択し、生徒は(相談されることもなく)それに適合する。
 9 教師は知識の権威をかれの職業上の権威と混同し、それによって生徒の自由を圧迫する立場に立つ。
 10 教師が学習過程の主体であり、一方生徒はたんなる客体にすぎない。


 この項目を読んだとき、「おれがやってきたことそのものじゃないか。もしかすると、おれは、無自覚にとんでもないことをやってきたのかもしれない」と思った。 フレイレは厳しく指摘する。


 銀行型教育方法のヒューマニズムの裏には、人間をロボットに変えようとする意図が隠されている。それはまさに、より豊かな人間になるという存在論的使命 の否定である。このことを知ってか知らずにか、当人は善意のつもりでも、自分のやっていることが非人間化にしか役立っていないことに気がつかない銀行員教師bank-clerk-teachersが無数にいる。そして、この銀行型の方法を用いる人びとは、預金それ自体のなかに現実の矛盾が含まれているのを知ることができない。


 そしてさらに、「銀行型教育」は抑圧者の利益に仕えるものだと言う。


 銀行型教育概念が、人間を順応的で管理しやすい存在とみなしても驚くにほあたらない。
 生徒が自分たちに託される預金を貯えようと一生懸命に勉強すればするほど、 世界の変革者として世界に介在することから生まれるかれらの批判意識は、ますます衰えていく。押しつけられる受動的な役割を完全に受け入れれば受け入れるほど、かれらはますます完全にあるがままの世界に順応し、かれらに預け入れられる現実についての断片的な見方を受け入れるようになる。
 生徒の創造力を最小限に抑え、摘み取り、かれらの軽信をあおりたてる銀行型教育の機能は、世界を解明したいとも思わなければ、それが変革されるのを見たいとも思わない抑圧者の利益に仕えるものである。


  いわば「銀行型教育」は「抑圧者の抑圧者による抑圧者のための教育」に他ならないと言う。
 ならば「銀行型教育」を棄揚して、真に「被抑圧者の被抑圧者による被抑圧者のための教育」を創り出せれば、これは教育現場にたいへんな「孔を穿つ」ことになる。
 しかし、そのような教育に対して、抑圧者側は拱手傍観はすまい。
 都立高校の教師たちは「銀行型教育」にかなりの穴を穿っていたと思う。石原の教育現場への攻撃は「銀行型教育」の補修・強化という観点から捉えることもできる。


 抑圧者は、批判能力を喚起し、現実についての断片的見解には満足せず、点と点、問題と問題を相互につなぐ絆をつねに探究しょうとする教育の、どのようなこころみにもほとんど本能的に反対する。
 実際、抑圧者の関心は、『抑圧する状況をではなく、被抑圧者の意識を変えること」』(シモーヌ・ド・ボーヴォワール『右翼の政治思想』)にある。なぜなら、被抑圧者はその状況に順応するように導かれれば導かれるほど、それだけ容易にかれらは支配されるようになるからである。


 石原の腰ぎんちゃく・都教育委員らや三浦や江崎や大方の高級官僚や、「知的エリート」の多くが抑圧者や抑圧者の下僕に成り下がっていくのは「銀行型教育」の成果だといったら、牽強付会に過ぎるだろうか。
 また、「問題児」と呼ばれ、教師たちに厄介者扱いされている生徒たちは、無意識ながら、「銀行型教育」への反抗者・反逆者なのではないか。
14. 「孔の穿ち方」その3
 2004年8月28日


 ともかく「よい教育」をめざす。
 でも、いったいどういう教育が「よい」のか。そしてどうしてそれが、「孔を穿つ」ことになるのか。

『6. 石原が恋い焦がれている「国家」』で取り上げた石原の発言には前がある。

 ―卒業式などで生徒が起立しなかった場合に教師らを厳重注意などにする処置は、自分たちが起立しなければ先生が処分されるという一種の脅しになり、生徒の行動を縛ることにならないか
  「それはちょっと違うんじやないの。生徒がそれほど先生を尊敬しているかよくわからぬからね、このごろね。先生が罰せられるの、おれたちは大変だというほど、そこまで意識ないんじやないか」

 質問にまともに答えず、はぐらかす。これも詭弁の一種で、小泉も多用している。
 また、この発言には石原という男の品性の卑しさがよく表われている。まあ学校の先生なんてそんなもんよ、と片頬を歪めてシニカルに冷笑している顔が目に浮かぶ。教師ばかりか、生徒をも侮辱している。こんな浅薄な人間理解しかない奴が教育の現場に土足で踏み込んできている。
 この人、高校生のころ、よっぽど先生に恵まれなかったのか、いつも学校に背を向けて斜に構えていたのだろう。(私は斜に構えているような高校生を嫌いではない。斜に構える方向が反権威・反権力ならば。)
 おそらく高校生・石原は「君が代」など歌ったことはないだろうし、「日の丸」を敬虔に見上げたこともないだろう。今だって怪しいものだと、私は思っている。まあ、あんな時代錯誤の歌、歌わなくても一向に構わないけどね、人に強制するなよ。

 教師の中にも生徒の中にも、眉をひそめたくなるような者が確かにいる。まともな授業が出来ない状態の教室があることも耳にする。だが、ここでは私がかって所属した教育現場で実際に体験したことを元に言うほかない。
 ほとんどの先生はほとんどの生徒と良好な人間関係を築いている。生徒の方から見ても、尊敬したり、親しみを感じたり、影響を受けたりする先生の一人や二人はいるはずだ。
 自分の学生時代を振り返ってみればよい。教育現場の状況に疎い人でもこう思うのが普通だろう。これがまともな人間理解というものだ。

 石原のために教育をしているわけではないが、石原ごときにこんなことを言わせないためにも、「よい教育」をめざそう。

 「よい教育」という大問題は私には荷が重く、私が自分の言葉で語るなどできるわけがない。自分が教師としてやってきたことを振り返り、私にその資格がないことも充分に自覚している。
 これまでと同じように、私に元気をくれている人の言葉を手懸りに考えていく。

 これまでに二度、パウロ・フレイレの言葉を引用させてもらった。そのパウロ・フレイレの教育学を紹介しようと思う。
 フレイレの教育学は「孤立した象牙の塔のなかで」考えたものではなく、ブラジルやチリなどでの識字教育の実践を通して考えられてきた。
 ブラジルやチリと日本とでは情況はかなり違うから、フレイレの提唱する教育がそのまま日本の教育に適用できるかどうかは分からないが、私はフレイレの教育学からとても大事なことを学んだと思う。「よい教育」のめざすべき方向を確信した。

 机上で「よい教育」を考えても、「よい教育」を創り出すことは出来ない。今自分が実際に行っている日々の教育を検証することから始めるべきだろう。
 フレイレによると、私たちが行っているごく普通の教育はほとんど「わるい教育」ということになる。なぜ、どこがわるいのか、謙虚に耳を傾けることにしよう。

 かなり長くなるので、また明日。        

13. 石原による都政の私物化
 2004年8月27日


 昨日、石原の忠実な下僕の都教委が、白鴎高校付属中学の歴史教科書に、たった5分の委員会で予定通りに、扶桑社版の「新しい歴史教科書を作る(正しくは「捏造する」と読む・・・仁平)会」主導の狂科書(変換ミスではありません。)を採択した。しかし、いまさら驚くにあたら
ない。会議は単なる形式だけの手続きに過ぎない。もう既定の方針なのだ。
 
 同じく昨日、都教委が「ジェンダーフリー」と言う言葉を使用しない方針を決め、都立学校に通知したことも報じられている。

 「君が代日の丸」の強制、「歴史狂科書」の採用、「ジェンダーフリー」をターゲットにした言葉狩り、全部、日ごろ吹聴している石原の持論じゃないか。都教委も教育庁職員も、都民の公僕ではなく、石原のめちゃくちゃイデオロギー(漢字で、虚偽意識とルビを振る。)に拝跪する石原の下僕に成り下がっている。
 都議会も、大勢は、石原に色目を使ってチェック機能をまったく放棄してしまった状況だ。情けない。



 石原のイデオロギーにかかると、同じことの言行が、自分の場合は正しく、他の者の場合は間違いになる。石原の頭の中には論理思考力のかけらもない。

 「ジェンダーフリー」運動の中には行き過ぎでおかしいと思える部分が確かにある。が、その部分の誤りを問題にして、全体を否定するのもよく使われる詭弁の一種だ。
 しかも、小説での差別用語の使用をめぐって「言葉狩りだ、ファッショだ」と喚き立てて非難していた石原が、こんどは自分が「言葉狩り」を平然とやってのける。私が「腐れ文学者」と悪態をつく所以だ。


 8月24日付の朝日新聞の「窓」というコラム欄に、小泉が持ち出した地方への「補助金廃止案」をめぐって紛糾した全国知事会の様子が取り上げられていた。
 どうやら石原は少数派だったようだ。こんな発言をしている。

 「3分の2以上の多数で地方の意思表示になるのか。不合理。不自然。一種のファッショだ」

 自分のファッショぶりは棚に上げて、自分と異なる意見が多数派になると、ファッショだとわめく。

 石原イデオロギーによる都政の私物化はまだまだ続くだろう。私には、いろいろな反動団体と綿密に連携しながら、石原イデオロギーを推し進めるかなり綿密なプログラムがあるように思われる。今度の「言葉狩り」も「狂科書採用」も
その布石の一つに過ぎない。


 たとえば、、教科書の区市町村ごとの広域採択制は石原による改悪ではないが、その改悪の上に決定的な悪巧みを付け加えている。2001年2月に石原の下僕都教委は教科書採択手続きに関して「学校票」廃止の通知を出している。現場教師の意見を封じたことになる。


 当然、現在学校単位で教科書を採択している高校への何らかの締め付けが予想される。何しろ悪知恵ばかりにたけている連中だ。



 いままで学校で決めた採択教科書はそのまま採用決定になっていたので、最終決定の仕組みには関心がなく、知らなかった。


 「平成17年度使用都立中高一貫6年制学校(中学校)用教科書、都立盲・ろう・養護学校(小・中学部)用教科書及び都立高等学校用(都立盲・ろう・養護学校高等部を含む。)教科書の採択結果について」というやたらと長い表題の教育庁の報告書をのぞいて見た。



3 都立高等学校用(都立盲・ろう・養護学校高等部を含む。)教科書の採択

(1) 各学校における教科書の選定

各学校は、都教育委員会の採択に先立ち、校長の権限と責任のもと、以下の手続きに則り教科書の選定を行った。

ア 教科書の専門的な調査研究及び適正な選定を行うため、各学校に校長を委員長とする「教科書選定委員会」を設置した。

イ 校長は新学習指導要領の各科目の目標等を踏まえ、都教育委員会が作成する「高等学校用教科書調査研究資料」を活用し、教科書の調査研究を行った。

ウ 校長は、学校での教科書の調査研究結果及び生徒の実情等を踏まえ、
「高等学校用教科書目録(平成17年度使用)」のうちから、
最も適切な教科書の選定を行った。

エ 校長は、教科書の選定後、所定の様式に具体的な選定理由等を明記し、教育庁指導部に報告を行った。


(2) 採択結果
ア 都教育委員会は、各学校の選定結果を全て適正とみなし、学校ごとに平成17年度使用教科書を採択した。


 行政権力の仕組みだから、当然といえば当然だが、最終決定権は都教委にある。これもまた、いまや都教委の従順な下僕となっている校長
(そうじゃない校長のいることを期待したい)を締め付けるのはたやすい。現場教師の意思をいくらでも無視できる仕組みになっている。都教委のわるだくみにとって今の仕組みで不都合ならば、お得意の一方的な「通達」とやらで変更すればよい。
 杞憂に過ぎなければよいのだが、「教科書検定」のますますの反動化とあいまって、教科書の実質的な国定化が進行するのではないか。

 1948年に、大日本帝国の独断的教育行政の反省から、教育行政の民主化がはかられ、一般の地方行政から独立した、市民から選ばれた代表によって構成された機関として「公選制」の教育委員会が設けられた。
 それが、早くも1956年に、「教育の政治的中立と教育行政の安定を確保し、一般行政と教育行政の調和を図り、国・都道府県・市町村が連携する教育行政制度を確立することを趣旨として」という欺瞞に満ちた
空疎な美辞麗句を掲げた国家権力の策略にまんまんとしてやられ、「任命制」に改悪された。教育委員会は支配者側に取り込まれてしまったのだ。
 それが今、行政権力の下僕に成り下がって、独断的教育行政をほしいままにしている。何が中立だ。

 連綿と意思を受け継ぎ、じっくりと時間をかけて、楔を打ち込んでくる支配者どもの深慮遠謀は侮りがたい。
 十年前の高校生の意識
 2004年8月26日



 十年ほど前にホームルームで試みた「君が代日の丸」についてのアンケートの回答をまるごと紹介します。ただし、「よい」とか「よくない」とか「どちらでもよい」とかだけの回答は省いた。順序も回収したときの順序のままで、編集作業は何もしていない。
 俗に十年一昔という。一昔前の高校生と現在の高校生と、その意識に
変化はあるのだろうか、ないだろうか。興味のある問題だ。現在の高校
生についての資料がほしいところだが、どなたか提供してくれませんか。



「卒業式に日の丸を掲揚したり、君が代を歌うことについて、君はどう考えますか。」

回答 
3年2組 42名(在籍44名。白紙1,欠席1。)

(1)「君が代」は卒業式で歌いたくない。あと、体育館の校旗のとなりなどに国旗はあってほしくない。私個人としては校庭のポールに国旗と校旗があるのはかまわないと思う。

(2)「君が代」まず天皇制がどうこうよりも、国歌は国民・人類みんなで力を合わせて前進しようとか、いうものに変えるべきだと思う。それに、君が代は開国後に作られたもので、皇太子の結婚のときも宮内庁はプログラムに入れなかったけれど、文部省が強引に入れさせたということでも、君が代を歌って得をすることはないと思う。ぼくは君が代は歌わない。
「日の丸」日の丸はOK!だけど、学校には掲げないほうがいい。国のためになる人材を育てるのが学校、主に公立校の役割だけれど、君が代日の丸が大好きで、愛国心とか言っているヨイコチャンが本当に国を良くするのかというと、違うと思う。それよりも批判する人間が必要だと思う。


(3)日の丸に関しては特に言うことはありませんね。白布に赤い丸。深い意味があってもシンプルすぎてどうとでもとれますから。長い間あれで通ってきているんだからかまわないと思います。ちょっと言いたいことがあるとすれば、・・・ノーコメント

(4)別にどうでもいいが、強制するのは間違っている。君が代はテンポがなく暗い。今になっても歌詞の意味がわからない。卒業式に何のために国の歌を歌うのか説明してほしい。

(5)歌を歌うのは嫌いだから歌いたくない。日の丸は立派だから良い。

(6)君が代はいらない。誰も歌わないし、歌詞もあいまいにしか知らないので時間のムダ。日の丸は別に旗が何かしてくるわけでもないし、ただぱたぱたしているだけだから、どっちでもいい。変なのが来て話がややこしくなると、ややこしい(当たり前)ので、両方ともいらない気がする。


(7)日の丸をあげたり、君が代を歌ったりするのは別にどうとも思わないけど、国が強制してさせるのは良くないと思う。

(8)君が代は歌わないほうがよいが、学校の校歌を知らないので、そっちのほうが問題である。国旗があがっていてもいなくても、別に気にしたことはない。

(9)君が代は嫌いなので強制されたくはない。日の丸は別に気にしない。

(10)日の丸はどうでもよいが、君が代は暗い曲だから歌いたくない。

(12)私は君が代を歌うのはイヤです。今は席を立っているだけみたいで、聞きたくもないのに聞いているし、意味のないことをしている気がします。旗をあげても私たちに何の影響がなければいいけれど、天皇に対して支配されているとか、そういう臣下みたいになるのはすごくイヤです。
私たちの大切な卒業式には、天皇のために旗をあげるのも、君が代を歌うのもイヤです。自分たちのための卒業式だから、私たちがイヤだと思えば、やらなくてもいいと思います。
私ははっきりいって反対です。

(13)日の丸と君が代は天皇の行事のときだけやればいい。卒業式とか入学式には学校の旗と校歌をやればいい。もしそれで何かものたりないと思うなら、主役である生徒が式の企画をやってもりあげればいいと思う。それでもし日の丸とか君が代がやりたいと思ったらやればいい。卒業式や入学式まで国にとやかくいわれたくない。戦前の日本じゃないんだから。

(14)小学校も中学校も君が代を歌ったし、日の丸もあげた。だからないとさみしいと思う。何で反対したり賛成したりするのかわからない。去年の卒業式を見て、先生の服にワッペンで「私は日の丸君が代に反対です。」とかいうのをつけていたのは驚きました。反対賛成は個人の自由ですが、わざわざ式の当日にまでも、目立つ色でワッペンをつけないでほしい。日の丸は国旗だし、君が代は国歌なんだから、いいのではないでしょうか。オリンピックでも優勝すれば日の丸があがり、君が代が流れるのだし。どっちにしても当日の先生方のワッペンには反対です。どういう意味で反対で、どういう意味で賛成なのかがわかりません。

(15)日の丸君が代について思うことは、まず、中学校までならば義務教育ということで別に気にもとめていませんでしたが、(というのも)君が代に意味があることに最近まで知らなかったので、今思うと、やはりよしあしにかかわらず、現在の教育制度はよくない。(意味を知っていたら)歌うかといわれれば、NOでしょう日の丸についていえば、文頭にも書いた通り、義務教育下では許せないこともないが、高等学校は(今でこそ進学率が高く、義務教育のように思われているが)義務教育ではないので、かかげるべきではない。むしろ国旗より校旗をかかげたほうがいいのでは(国旗にくらべれば問題はないのでは)
北園の校風の自由を最優先にし、文部省が何をいおうとも反対すべきである。

(16)反対。天皇嫌いだから。

(17)旗をあげることで何かがかわるのはいやだけど、何もかわらないのなら旗はあげても気にしない。歌はわざわざ歌いたくない。

(18)賛成。理由:卒業式に今までずっとくっついてきていたから。

(19)日の丸・君が代には反対も賛成もしない。その学校の判断にまかせる。

(20)日の丸君が代を卒業式に取り入れるかどうかはどちらでもいい。というより、そんなのあってもなくても関係ないという感じ。むしろ私たちの卒業式を利用して国に抵抗しようと、看板をたてる教師の方がいやだ。卒業式にどろをぬられる感じがする。それに卒業式が近づくと、いきなり問題をとり立てるのにも疑問を感じる。私たち受験生に聞くのはこくだとおもう。もっと高1・2ぐらいのときから、もんだいていきしてもらわないと「いきなりだ」と思える。とりあえずせんせいたちにしてほしいことは、卒業式をつまらないものにしないでほしいということ。

(21)君が代は日本の国歌なので卒業という1つのけじめの時に日本人として誇りを持ち外人みたいに歌った方が、めんどうくさいけどいいと思う。国旗掲揚は舞台に日の丸の旗をかかげなければ、別にかまわない。舞台のところにあると、日の丸に頭を下げていることになるので軍国主義みたいで嫌だ。

(22)卒業式に君が代は絶対にいやです。この歌は天皇のためにつくられた歌で、なんか自分たちの卒業式なのにわざわざ歌うのはおかしい。それならば、自分たちで卒業式に歌いたい曲を選んで、最後に1曲歌いたい。
国旗もなんとなくいやだ。これは日本のためじゃないから、校旗だけでいいと思う。

(23)小・中とで日の丸も君が代もしていたから、当たり前のことだと思っていたけれど、あまり歌いたくない。日の丸は別に飾ってもいいと思う。きっと歌うことになっても、歌う人はあまりいない気がする。
(みんな校歌が歌えないから悲しい。卒業式にはみんなで校歌を歌いたかった。)

(24)卒業式に君が代を歌うのはあまり賛成しない。君が代を好きでない人もいると思うから、強制してはいけないと思う。君が代は何をいっているのか意味がわからなくて、暗い。このさいだから、国民をたたえる歌(いわゆる国歌)を一般募集して国民投票で決めてみてはどうかと思う。
日の丸についてはあげる必要はないと思う。日の丸は、日本の軍国主義統一のために使われたという悪いイメージがあるから、このさい国旗も一般募集して、国民投票で決めてみるのもいいと思う。

(25)日の丸の意味がよくわからないので、日の丸については何ともいえませんが、“君が代”は天皇制に反対の人もいると思うから、君が代は歌わない方がいいと思う。

(26)君が代はいい曲だから歌いたい。日の丸はどちらでもいいと思う。あっても別に何とも感じない。

(27)日の丸・君が代について反対です。戦後廃止されたものをもう一度行なうことは軍国主義にたちかえるような気がします。小さな問題のような感じがしますが、こういうこともきちんとけじめをつけて、戦前・戦後の区別をすべきだと思います。

(28)「君が代」の君の字はどうも天皇のことを指すらしい。つまり天皇を卒業式にたたえるのかおかしい。反対。
「日の丸」について。上げることに不満はないが、ここは他の人の意見を知りたい。再審。ただ上げること自体をプログラムとして組むのは反対。上げるならさりげなく、あるかないのかわからないぐらい存在感をなくすのがよい。

(29)君が代・日の丸というものは天皇を祭ったものだし、日本の国歌や国旗というものではないと思うので、歌う必要はないと思う。歌いたくない。

(30)どちらとも言えません。でも、日の丸をあげたり、君が代を歌ったりするのは、何だか意味のないことのように思えます。

(31)結論・両方とも反対
もともと良いイメージをもっていない。君が代は「天皇をたたえる歌」であり、進んで臣民にも国民にもなったわけでもない。学生がわざわざ卒業式に歌う義務はない。
日の丸もほぼ同様。校旗ならともかく、国に礼する必要を認めない。
現実を考えず、体面だけ重視して、無理難題を押しつけるお偉方の言うことなどはひきうけなくてよい。

(32)このことについては、考えたことはなかったけれども、別に日本人なんだから、旗をあげて、君が代を歌ってもいいと思う。

(33)高校を卒業する時、感謝しているのは先生方や友達だから、別に日本に対して日の丸や、君が代を歌わなくて良いと思う。

(34)君が代の歌詞の内容なんて、みんな考えたこともないと思う。だから歌ってもいいと思う。(でも実際に歌えと言っても歌う人は少ないだろう。)
日の丸もそんな歴史があるなんて考えてみたことないと思う。そんなことは考えないでみれば、なかなかすっきりしていていい国旗だと思うし、オリンピックでかかげられれば、誇らしく思う。
もっと年月がたてば戦争のことなど全く知らない世代になってこんな論争があったことなども忘れてしまうのではないか。
君が代を歌ったり、日の丸をかかげたりするのはかまわないが、強制されるのは気にくわない。人それぞれいるから。

(35)私は日の丸も君が代も国旗国歌と認めていないので、反対です。特に君が代は。天皇すうはいの名残のあるような歌を“国歌”といってほしくない。中学の卒業式には、歌いたくなかったので、立つだけ立って歌わなかった。しかし、歌いたい人もいるかもしれない。そういう人が多くて、もし、歌うことになっても私は歌わない。日の丸は式場内に掲げないなのなら、100歩ゆずってもいい。

(36)日本のために勉強しているわけではないし、強制的にさせられるのは反対。卒業式はこの学校での一つの行事なわけで、その中で、君が代を歌う必要は特にないと思う。

(37)国のために卒業するわけではないのだから、強制的に日の丸をあげる必要も君が代を歌う必要もないと思う。

(38)私は君が代には反対です。あんなへんな歌はやめてほしい。卒業式にふさわしくない。お経みたいで楽しくない。でも日の丸は掲げてもいいのではないでしょうか。いちおう都立だし、(でもそしたら都の旗をあげるべきか・・・)でも絶対に強制はよくありません。歌いたい人は自分で(たとえ一人でも)うたえばよろしい。うたいたくないひとはうたわない。でも歌は校歌があるから2つはちょっと多いかもしれません。それと「国旗に一礼」するとかいうのも、へんだとおもう。別に国に育ててもらってるわけではないし、税金をはらっている(これからもっとはらう)ので当然の権利なのでわざわざ礼をするほどのことではないだろう。これも個人の自由だと思う。うちの学校は個人の自由をたいせつにする学校だから、国旗があるといい人はじぶんでもってってたり、自分の服にはりつければよいのだと思う。
結論「やりたい人はかってにやれ、でも強制はするな。それと、みんなでやらなければいけなくなるような方向にするな。自分で選ばせろ。」ということです。個人的には国歌反対、国旗もキライです。

(39)「君が代」に関しては自分は歌いたくない。また、卒業式において、取り入れてほしくない。中学卒業時、自分は「君が代」斉唱のとき口をつぐんで歌わなかった。理由は、メロディ、歌詞ともに曲としての美しさを備えていないからである。メロディは暗い。歌詞はわけがわからない。(天皇がどうとかはここでは問題にしていない。)
日の丸は、歴史的なことはヌキにして考えると、あまり堂々と会場に置いてほしくない。どうしてもやるというなら校庭のポールに上がっているぐらいにしてほしい。
校歌を歌うことについて、考えてみる必要があるのではないか。
11. 教育現場での「孔の穿ち方」・その2
 2004年8月25日




 学習指導要領も「君が代日の丸」をしっかり教えよと言っている。
しっかり教えよう。

 「君が代日の丸」を扱うのは社会科に限らない。どの教科の授業でも、授業のまくらに政治時評や社会時評として、教師が自分の考えを述べるのに何の不都合もない。例えば「三バカ大将」がちょくちょくよいネタをくれるだろう。「三バカ大将」の暴言虚言は格好の材料だ。「君が代日の丸」に言及しなければならないことも多々あるだろう。
 これは単に個人としての意見を述べるのだから、教師の考えの一方的
押し付けで一向に構わない。

 しかし、例えば社会科で扱うなら、教材の一つとして授業全体の中に
しっかりと位置付けすべきだし、教師の考えの一方的押し付けではいけない。そんなのは授業とはいえない。それでは都教委がやっている押し付けの裏返しに過ぎないことになる。きちんとした授業案を練って望むべきだろう。

 社会科以外で本格的に取り上げられないか。私は卒業学年の担任のとき、ホームルームで取り上げたことがある。この場合も教師の考えの一方的押し付けではいけない。
 結果は、中途半端で欠陥だらけのものになってしまったが、何かの参考になればと思い、紹介したい。
 始めの構想は次のようだった。

1. 生徒全員からアンケート形式で意見を聞いて、プリントにして配る。
2. それをもとに討論をする。(全員が前を向いての討論はほとんど
意見が出ない恐れがある。出来ればディベートが面白い。)
3. 私の考えを伝える。(私は話がへたくそなので、プリントにして配る。)
4. 再度アンケートを取り、プリントにして配る。

 私の力量不足と時間制約とで、「1」と「3」だけでお茶を濁してしまった。
 しかし、親しい友達どうしでもこのような問題を話題にすることはないと思われるので、お互い級友がどう考えているのか知り合うだけでも有意義だったと、自ら慰めている。
 時間制約と言うのは、時期が3年の2学期末の卒業間近で、卒業関係の
課題がぎっしり詰まっており、ホームルームの時間を
割くことが出来なかったためだった。アンケートの回答の中に
「生徒の卒業式が近づくと、いきなり問題をとり立てるのにも疑問を
感じる。私たち受験生に聞くのはこくだとおもう。もっと高1・2ぐ
らいのときから、もんだいていきしてもらわないと『いきなりだ』と
思える。」と言う指摘があって、耳が痛かった。

10. 教育現場での「孔の穿ち方」・その1

 2004年8月24日





 「でも風雨強かりし中で私は思い直します。
 時代の追風がある時だけ私たちは理想を語ってきたのでしょぅか。
日本国憲法の理想が日本社会で開花しているとでも考えてきたのでしようか。「日の丸・君が代」で処分された夥しい教師たち、あるいは思想信条上の理由で差別され、抑圧されてきた多数の人びとの存在を想起するだけでも、私たちは決して物言わぬ教師になってはいけないと思うのです。 今こそ無力感や敗北主義を克服し、ピンチをチャンスに変えたいと思うのです。」

(「世界」2004年4月号所収・戸坂真「『日の丸・君が代』を生徒と学ぶ」より)


 この文の執筆者は埼玉県の社会科の先生のようだ。「孔の穿ち方」を次のように提案している。


 「「日の丸・君が代」の強制を凌駕するような卒業式づくりをめざし、授業で「日の丸・君が代」を生徒とともに学び、保護者や地域の人々と連携していきたいと思います。私自身もこのプランを実現する途上に立っているに過ぎませんが、この議論と実践積み重ねていけば、少しでも現状を変えていけるだろうと期待します。」(下線、仁平)


 他府県の学校では、東京都でも小学校・中学校では、もうずいぶん以前から「君が代日の丸強制」の嵐に見舞われ、既にその定着を許していることに改めて思いいたる。もしかすると都立高校が「自由と民主」の最後の牙城なのかも知れない。石原のなりふりかまわぬえげつない蛮行は、それゆえのあせりの表れなのだろう。

 戸坂氏のように地道な戦いを続けている教師たちが全国にたくさんいるだろうし、そうした教師たちの実践から学ぶことが多々あるに違いない。特に「保護者や地域の人々と連携する」ことが重要だが、これが最も難しい。私には何をどうしたらよいのか、さっぱりわからない。有効な実践があるのなら知りたいと思う。
 私には、そのことを自己目的化するのではなく、よりよい教育活動を目指す営みを通して信頼関係を築くほかないように思われる。登坂氏の主張もそのように理解したい。


  ただ私は「「日の丸・君が代」の強制を凌駕するような卒業式づくり」には異論がある。
 だいだい私は、結婚式や葬式も含めて儀式が大嫌いなのである。儀式はうそっぽく、うさんくさい。大きな儀式になればなるほどその感がいよいよ強い。国家が主催する儀式や、国家間の儀礼は、もう「欺式」と言うほかない。見るのもおぞましい。
担任をしていた生徒の卒業式では不覚にも涙を流したことがあるが、それでも嫌いだ。

 「君が代日の丸」のある儀式など、感動的なものにしてくれるな、と言いたい。「君が代日の丸」を拒否できないのなら、むしろ逆に、抑圧者以外は参列したくなくなるような、強圧的で貧相でばかばかしい卒業式にしてしまえ、と思う。内容を削りに削って、極端に言うと「日の丸」を敬虔な振りをして仰ぎ見ながら、「君が代」をもぞもぞと斉唱するだけの式。いやいや参列しているものが「君が代日の丸の強制」に対する抵抗の意思を新たに胸に刻むための式にしてしまえ。
 生徒の入学や卒業を心から祝う会は別にやればよい。その祝う会の方は、生徒と一緒に大いに創意工夫して、のびのびと楽しく感動的な会にしょう。

 「君が代日の丸」のある式を感動的な式にするのは、「君が代日の丸」があって当たり前というよう情況を作るだけだ。「君が代日の丸」があるから感動も大きいのだとなっていく。まさにオリンピックでのように。

 オリンピックで人は何に感動するのか。選手たちが持てる力を出し切って記録や勝負に挑む姿、その過程で見せてくれる見事な技、限界に挑戦する精神力。総じてたゆみない日ごろの厳しい修練の結実に感動する。 それがいつのまにか「君が代日の丸」に感動してるように錯覚している。
 表彰台上の選手自身も、目的を見事に成し遂げた達成感と、そこに到るまでの苦楽のすべてを反芻しての感動のはずなのに、「君が代日の丸」に感動してるように錯覚して、実際にそんな感想を述べたりする。ばかばかしい。国家権力の思う壺にはまっている。

 「素朴な愛国心」育成のために権力者はスポーツも利用する。スポーツの利用はもしかすると教育利用以上に効果的かもしれない。対象が子供だけでなく圧倒的に大人が多い。成人してからの意識の変革はむずかしいが、たいした反対に出っくわすこともなく、当人にそれと気取られることもなく、いつのまにか「素朴な愛国心」の「刷り込み」が出来てしまう。利用しない手はない。

 最近、サッカーのアジアカップで中国の観衆が「君が代」演奏にブーイングしたのはけしからん、スポーツに政治を持ちこむな、とマスコミ挙げての大合唱があったが、何をバカを言ってるんだと思う。スポーツでの国歌演奏そのものが、国家権力の意を受けての政治介入だ。スポーツに政治を持ち込むなと言うなら、スポーツでの国歌演奏はやめろ言うべきだ。

 「オリンピックやサッカーや甲子園では当たり前なのに、どうして学校では駄目なのか」と言う論理を、学校に対する「君が代日の丸強制」に賛成の人がよく使う。
 ちっとも当たり前じゃないのだ。学校の儀式のときと同様、サッカーの競技場で国家への忠誠と天皇への帰順を胸に熱くたぎらせて立っているものが何人いると言うのだ。大方は苦痛を感じながらイヤイヤ立っているに違いないのだ。
 みんな自分の感情にしたがって、本当のことを言うといい。あれはいやだと。あんなものが当たり前になっていると勘違いしているのは、すっかり「素朴な愛国心」を刷り込まれ育成されてしまっている者だけだ。

孔だらけにしてしまえ
 2004年8月23日


 「ペン部隊はもっと厳しく指弾されていい。私たちは私たちの心の内と外にいるペン部隊的なるものをこそ攻撃すべきである。だが、新しいペン部隊には、司令部も顔も人格も場所的中心もない。鵺のようなものなのだ。撃つべき急所というものがない。じつにうまくできているのだ。ならば、成員に内部からの反乱を呼びかけるしかない 。おおかたの成員はペン部隊成員である自覚もないから、いかにも心許ないけれど、
部隊からの脱走ないし反乱を、「私性」をまだ完全には摩滅させていない少数の部隊員に呼びかけるべきである。これは無駄な情熱というものかもしれない。でも、言うべきであろう。
 顔を取り戻せ、言葉を取り戻せ、文体を取り戻せ、恥を取り戻せ。反乱の勇気がないのなら、その場で静かに穿孔せよ。情報市場に細かな孔を開けてしまえ。帰属する組織にたくさんの私的な孔を穿て。深く密やかに穿孔せよ。まっとうな知の孔を開けよ。孔だらけにしてしまえ。そのように呼びかけるべきである。ひょっとしたら、呼応する者が幾人かいるかもしれない。」
(辺見庸×高橋哲哉「私たちはどのような時代に生きているのか」より)

 「ペン部隊」とは1938年に、国民の戦意高揚をはかるために戦地に派遣された作家・ジャーナリストを構成員とする大日本帝国の戦争遂行のための宣伝マンたちである。1942年には「皇国ノ伝統卜理想トヲ顕現スル日本ジャーナリズムヲ確立シ、皇道文化ノ宣揚二翼賛ス ル」ために「日本文学報国会」が創立され、ほとんどの文学者・ジャーナリストが
「尽忠報国」のための活動を極めて積極的に真面目に遂行するようになる。

 辺見氏は、絶望的な状況の中で真正面から権力と向きい、孤立無援の闘いを闘っている数少ないジャーナリストの一人である。
 現在のジャーナリズムの状況を、氏は「ペン部隊」と同じだと言う。
ジャーナリスト本来の役割を捨ててしまって、「尽忠報国」に奔走する姿勢が大勢となっている。とりわけマスコミの状況がひどい。
 孤立無援の闘いを闘っているもう一人のジャーナリスト・斎藤貴男氏
も著書「『非国民』のすすめ」で一章を割いている。政治評論家・森田実氏もそのホームページで再三再四その危険性を指摘している。

 辺見氏の憤りは激しく絶望は深い。それでも「ひょっとしたら、呼応する者が幾人かいるかもしれない」とわずかな希望を託して、上記のような呼びかけをしている。私には血を絞るような悲痛な叫びに聞こえる。
 
 「ペン部隊」を「権力に従順な教師や生徒たち」と置き換えて読んでみる。そこに「保護者たち」も入れていい。 もちろん、ジャーナリズムや教育の部外者でも、自分に引き就けて、自分への呼びかけと読めるはずだ。

 ボルテージの最も高い部分を教育現場への呼びかけに言い換えてみる。

  
顔を取り戻せ
言葉を取り戻せ
誇りを取り戻せ
恥を取り戻せ
反乱の勇気がないのなら
その場で静かに穿孔せよ
教育現場に細かな孔を開けてしまえ
帰属する学校にたくさんの私的な孔を穿て
深く密やかに穿孔せよ
まっとうな知の孔を開けよ  
孔だらけにしてしまえ


 抑圧者らへの批判や反論をしたり怒りをあらわにしているだけでは、
飲み屋での愚痴の言い合い,傷のなめ合いと何ら変わらない。教育現場を孔だらけにしてしまうための議論をしよう。

 ただこの種の議論では、現場の先生たちにとっては不愉快な意見も
多々述べる事になる。批判・反論を期待したい。

 
 私の生活圏が狭いために私の耳目に届かないだけで、すでに各職場でいろいろな試みが行われているのかもしれないが、教育現場で何事かがいろいろと始まってしかるべきだろう。

 まずは各職場で、不服従を貫いて闘っている人たちを孤立させない取り組みをすべきだろう。事あるごとに連帯を表明したり激励したりするだけでもよい。さらにそれぞれの職場の事情に応じて、連帯の仕方を創意工夫できるといい。

 一番有効なのは不服従の闘いに加わる教員が増えることだ。もし私が現役の教員だったとして、不服従を貫けるかどうか確信がないので、くちはばったい物言いになってしまうし、あまり現実的ではないことを承知で、先生たちがんばれ、と言いたい。

 不服従を貫き、処分され、いま訴訟で戦っている人は200名ほどという。200名も、と言う人もいるが、私はその数を知ったとき桁が違うと思って、少しがっかりした。

 こんな想像をしていた。
 「教員時代を思い起こすと、どこの職場にも不服従を貫きそうな人は
数名ぐらいはいたように思う。いま都立高校の数は約200校ぐらいか。
一校に五人の不服従者がいれば、計1000人になる。一人一人が自分の意思で決断した1000人。これは迫力がある。都教委には「たかが教員などに何が出来るか。」と教員を見くびっている節がある。1000人の抵抗という都教委にとってはおそらく予想外の事態に出会ったら、都教委はさぞかし慌てふためくだろう。どんな対処が出来るのか、見ものだ。」と。

 次回から、直接抵抗以外の「孔の穿ち方」をいろいろ考えてみる 



8. ホームページ開設一週間記念号
 2004年8月22日


 毎日更新する自信がないので、タイトルを「不定期便」として始めました。それでも一週間続けられたのでホッとしているところです。今日は一週間記念日と言うことで一息入れて一杯やることにします。(実は毎日一息入れて飲んでます。)

 私は元来たいへんな怠け者なので、いったん妥協するとズルズルと駄目になっていきがちです。よほどの事情がない限り日刊を続けよう、自分に言い聞かせています。

 そのためにいろいろな刺激がほしいです。刺激の一つとして、「メールの輪」に期待しています。「メールの輪」の中で、私への批判や反論があったり、メール発信者相互の間で議論が起こったりするといいなあと思います。
 また直接「君が代日の丸」に関係ないことでも、職場での出来事(もしあなたが教員なら、校長や教頭の言動や職員会議の様子や生徒たちのことや同僚とのやり取りとか)や本の紹介やデモなどのイベントの情報などを交換できたらと思います。

 いま毎日、私が元気と刺激をもらっているサイトを紹介します。

 今年早々に友人から「澤藤藤一郎の事務局長日記」というサイトを教えてもらいました。以来毎朝、コンピューターを起動すると、まず「事務局長日記」を読むのが私の日課の一つになっています。

 処分で脅し、スパイまがいの監視をつけた「君が代日の丸の強制」などというとんでもないことが行われているのに、ほとんどのマスコミは見て見ぬ振りを決め込んでいます。権力の広報機関に堕して、権力批判をほとんどしなくなっています。産経・読売などは強力に都教委の後押しをしています。
 マスコミを掌中にした権力は暴走します。怖いのです。ナチスや大日本帝国が国を挙げての狂気に邁進してしまったのには、マスコミの力が大きくかかわっています。9.11同時多発テロ後のアメリカがそうでした。

 もうこの国は「大日本帝国」の亡者たちに乗っ取られてしまったのか、と絶望と無力感でヤケッパチな気持ちになっている時に「事務局長日記」に出会いました。味方にこんな素敵な人がいる。まだ諦めるのは早い。絶望している暇などないぞ、と元気付けられました。

 澤藤さん(もちろん一面識もない方ですが、ついこう親しく呼んでしまう。)と、私はとても波長が合っています。朝、新聞に目を通して意識に引っかかった記事があると、食事をしながらカミさんを相手に批判したり、怒ったり、愚痴ったりしていますが、翌日には、ほとんど必ず同じ記事を澤藤さんが「事務局長日記」で取り上げています。カミさん相手の私のしどろもどろの愚説と違い、切れ味鋭く的確に論じていて、してやったりと溜飲が下がります。
 いつ寝ていらしゃるんだろうかと心配なほど、八面六臂の活躍でお忙しい方なのに、「事務局長日記」を毎日欠かさず書いています。頭が下がります。

 是非「お気に入り」に入れて下さい。

「澤藤統一郎の事務局長日記」
http://www.jdla.jp/jim-diary/jimu-d.html

7. 「非才、無才」が反逆する
 2004年8月21日


 「人間の遺伝情報が解析され、持って生まれた能力がわかる時代になってきました。これからの教育では、そのことを認めるかどうかが大切になってくる。僕はアクセプト(許容)せざるを得ないと思う。自分でどうにもならないものは、そこに神の存在を考えるしかない。その上で、人間のできることをやっていく必要があるんです。
 ある種の能力の備わっていない者が、いくらやってもねえ。いずれは就学時に遺伝子検査を行い、それぞれの子供の遺伝情報に見合った教育をしていく形になっていきますよ。」
(斎藤貴男「機会不平等」より江崎玲於奈・教育改革国民会議座長の発言)

 江崎のこのナチス顔負けの選別思想には恐怖すら感じる。江崎はこのような思想をいつどのように身に付けたのだろうか。江崎のように安易に遺伝などどは言うまい。ましてや神のせいになどに出来るわけがない。難問にぶつかって、真正面から取り上げようとはせずに、神で解決しようとはあきれた物理学者だ。

 また「ノーベル賞を取った日本人は私を含めてたった五人しかいない。過去のやり方がおかしかった証拠ですよ。」とも述べて、選別・切り捨て教育の論拠としている。
 ノーベル賞受賞がよっぽど自慢のようだが、ノーベル賞がなんぼのもんじゃい。ノーベル賞受賞者が少ないことがそんなに憂慮することかね。
 物理学での功績と、人間抑圧に精を出している今の活動との足し算をすれば、江崎の人類への功罪は大きくマイナスのほうに振れているじゃないか。
 同じノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹や朝永振一郎は、私の知る限りでは、社会や人間に対する理解も深く、滋味溢れた人間性豊かな方々だった。選別思想や優生学的思想などこれっぽちも持っていなかったろうし、難問にぶつかって神にすがるようなこともしなかっただろう。江崎は両氏の爪の垢でも煎じて飲んだらよかろう。

 さて、「限りなくできない非才、無才」や「ある種の能力の備わっていない者」がいることは事実だ。三浦や江崎の価値観から見れば、私はそういう者の一人だし、私の人生を豊かにしてくれている私の家族や友人や生徒たちも私の仲間たちだ。

 人はだれも、その創造力や思考力や洞察力や精神力や感性や体力や運動能力や、総じて人間性をどのように獲得するのだろうか。それを遺伝せいにしてしまう単細胞的な思考力の持ち主はそうめったにいないだろう。
 人は母の胎内に宿ったときから、それぞれの家庭環境や経済状況など環界の制約の下で、さまざまな人や事件や思想や芸術や自然と出会いながら、相互に影響を受けたり与えたりして成長してくる。もちろんその人となりの根幹には遺伝が大きな要素の一つとしてあることは論を待たない。それら人生のすべての総和として人の今がある。人の能力を、学科が出来るとか出来ないとかいうたかが学校の成績に矮小化したとしても、それはその総和の結果なのだ。
 だから「限りなくできない非才、無才」や「ある種の能力の備わっていない者」がいる社会的矛盾はそういう者を切り捨てることでは解決出来ないし、それは非人間的行為として、やってはいけないのだ。

 江崎は生まれながらにして抑圧者なのか。私は生まれながらにして被抑圧者なのか。 たとえ江崎のような恵まれた才能を持っていても、私が抑圧者の側には立たないことは確かだ。
人類が落ちいてしまった陥穽・「支配ー被支配」とい矛盾を神のせいにして他者を切り捨てることで糊塗しようとせずに、矛盾の原因を現実の歴史の中で考え、自他をともに現実の中に置いて現実の矛盾の中にその解決の糸口を見出そうとするのも確かだ。
 抑圧者・被抑圧者がともどもに、抑圧-被抑圧の関係の矛盾(双方の非人間性)の真の克服(双方の人間性の回復)を課題とするような生き方に思いも及ばない三浦や江崎のような者の人生の「総和」には致命的
に欠けているものがあるのだ。

 「確かな思考、つまり、現実にかかわる思考は、孤立した象牙の塔のなかでではなく、交流のなかからだけ生まれる。」(パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」)

 彼らには、現実にかかわる確かな思考に必要な交流、とりわけ被抑圧者との人間的交流がたりなかった。彼らの精神は限りなく貧しい。

6. 石原が恋い焦がれている「国家」
 2004年8月20日




「われわれは、君が後へ引き返しょうもない点まで叩きのめしてやる。たとえ君が千年生きられたとしても、元の状態には戻れない程のことが君の身に起こる。君は二度と再び普通の人間らしい感情を持てなくなるだろう。君の心の中にあるものはすべて死滅してしまうだろう。君ほ二度と再び人を愛し、友情を温め、生きる喜びを味わうことも出来まい、笑ったり、好奇心を抱いたり、あるいは勇気を奮い起こしたり、誠実であろうとすることも出来まい。君は抜け殻になってしまうのだ。空っぽになるまで君を絞り上げてやる、それからわれわれを、その跡に充填するのだ」(ジョージ・オーゥエル「1984年」より)


  
 同じことの繰り返しになるきらいがあるが、同じような口撃(変換ミスではありません。)が執拗に仕掛けられてくるのだから仕方ない。抑圧者らが仕掛けてくる口撃には一つ一つ反撃しておこう。

 またしても石原だ。「君が代日の丸強制」の意図を、石原は正直?に次のように述べている。

(記者の質問)処分を中心とした方針で、知事がいつも言う、例えば健全な愛国心を持つことなどが教職員の中に本来的な意味で浸透していくとお考えか

(石原の応答)  「やっぱり物事には形というのがあってね。つまりその形というものを極める、踏襲するということもですね、剣道だってそうじやないですか。やっぱり素振りを繰り返すことでね、その素振りが違う形の技になって生きてくるわけですからね。私はやっぱりそういう繰り返しというものは一つのフォームとして必要だと思いますね」
(6月8日付朝日新聞のコラム記事「石原知事発言録」から)

 ここでも得意顔で詭弁を弄している。
 まっとうな良心に苦痛を強いる(精神的な拷問だ)ための欺式(これも変換ミスではありません。)の形式と、剣道の身体修練のための形式と、まったく位相の違うものを同列に並べて論じる詭弁だ。こんな見え透いた詭弁に感心して説得されるのは、はなから抑圧者側に揉み手をしながらする寄っている連中だけだ。

 冒頭の引用は、国家への反抗者の身体や神経や脳に想像を絶するような残酷な拷問を仕掛けながら、拷問を取り仕切る政府高官が吐くセリフだ。これに石原のセリフを重ねるのは大げさすぎるだろうか。
 儀式を「欺式」にするためのお仕着せの形式(精神的な拷問)を押し付けて、それを繰り返し仕掛けて、何を企んでいるのか。石原は、教師や生徒の良心を空洞化した上でその跡に「健全な愛国心」を充填する、と言っているのだ。

 ところで、「健全な愛国心」てなんだ?中身を曖昧にしたまま、人々のさまざまな考えや思いを十把一からげして、言葉だけを一人歩きさせる。これも抑圧者がよく使う詐術だ。
 まず「国家」をどのように捉えるかが問題だ。その捉え方によって「健全」の意味もまったく違ってくる。

 天皇に靖国参拝を懇願している石原の「国家」は推して知るべしだ。ことあるごとに「北朝鮮」に憎悪や敵意や嘲笑を剥き出しにする石原の「国家」はなんともよく「北朝鮮」に似ているか。石原の「北朝鮮」への憎悪や敵意や嘲笑は、近親憎悪だ。要するに「目くそ鼻くそ」なのだ。どちらが「目くそ」で、どちらが「鼻くそ」かは詮索すまい。

 「国家」については項を改めて述べようと思う。


5. 「三バカ大将」に贈る四文字熟語
 2004年8月19日

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 ミステリー小説や時代物小説を読むこを私は息抜きの楽しみのひとつにしている。
 山本周五郎の短編集を読んだ。小説を読んでいるときも、しばし「三バカ大将」を忘れるため読んでいるのに、意識の片隅の「三バカ大将」にとげとげがあるらしく、そこに引っかかる文言がある。

「なんて世の中だろう、ほんとうになんていう世の中だろうね。お上には学問もできるし頭のいい偉い人がたくさんいるんだろうに、去年の御改革から、こっち、大商人のほかはどこもかしこも不景気になるばかりで、このままいったら貧乏人はみんな餓死をするよりしようがないようなありさまじゃないか。」(「かあちゃん」より)

 これはもう小泉改革への批判のようじゃないか。
 小泉は景気は回復してきたと自画自賛しているが、儲かっているのはアメリカ系企業と一部の大企業で、その恩恵に浴しているのは国民の20%位に過ぎないと言う。地方の疲弊はひどく、失業者に職がなく、労働者は無賃金残業のやらされ放題。小泉がやっている改革が格差を拡大するばかりのものであることがいよいよ明らかになってきている。

 もう一つ「日々平安」より。主人公が述懐する。

 「元来が私は政治などというものに興味はないんです、しよせん政治と悪徳とは付いてまわるし、そうでない例はないようですからね、しかしそれにしても国許の状態はひどい、まるでもうめちゃくちゃなんだ」

「もっとも悪いのは、かれらがその声を無視することです、家中にだって批判の声が起こつている、若い人間のなかにはしんけんに思い詰めている者も少なくないんだ、しかしかれらはそういう声をまったく無視して、私利私欲のために平然と政治を紊(みだ)っている」


 そしてこの悪徳一派を批評する四文字熟語が四度出てきた。その度に「ああ、三バカ大将のことだ」と思った。順に
「無恥陋劣、悪徳非道、不義無道、品性劣等。」

 遊び心が出てきて、「三バカ大将」に贈る四文字熟語を辞書から拾い出してみた。あるわあるわ。

厚顔無恥、傲岸不遜、奸佞邪智、人面獣心、頑迷固陋、頑迷不霊、無知蒙昧、人権蹂躙、腐敗堕落、無理無体、魑魅魍魎、異端邪説、
そしてとどめは言語道断。



4. 「君が代日の丸」が「考えるな、服従せよ」と恫喝する
 2004年8月18日


「プロレ(被抑圧者・・・仁平注)が強い政治的感受性を持つのは望ましいことではなかった。彼らに要求されるものといえば素朴な愛国心だけで、労働時間の延長や配給の削減を受諾させる必要が生じた場合には、その愛国心に訴えさえすればよかった。」
(ジョージ・オーゥエル「1984年」より)

 「1984年」はスターリン支配下のソ連に触発されて書かれたと言われているが、私はこの本を読みながら、これは日本国の近未来を描いているのじゃないかという思いを禁じえなかった。目下進行中の反動的支配者どもの暴走をこのまま許してしまえば「大日本帝国」よりひどい国家になりそうだ。

 いろいろなところで引用されているのでご存知の方が多いかと思うが、私も紹介しないではいられない文がある。
 斎藤貴男著「機会不平等」にこんな発言が取り上げられている。

 「学力低下は予測し得る不安と言うか、覚悟しながら教課審をやっとりました。いや、逆に平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。つまり、できん者はできんままで結構。戦後50年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり
注いできた労力を、できる者を限りなくなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいのです。
(中略)
 それが゛ゆとり教育″の本当の目的。エリート教育とは言いにくい時代だから、回りくどく言っただけの話だ。」
(「ゆとり教育」についての著者の質問に対する三浦朱門・前教育課程審議会会長の回答)

 人間を貶めることで自分自身を非人間化していることに気づかない。差別意識でガチガチの鼻持ちならぬエリート。このような情けない「バカ」どもが権力の中枢を取り巻いている。

 三浦が期待している「実直な精神」とはどんな精神だ。「君が代日の丸」の押し付けが目指しているものだ。支配者の命令に唯々諾々と従う精神だ。「君が代日の丸」が「実直な精神」の鋳型だ。
 儀式の度に繰り返し繰り返し教師・生徒に思い知らせる。「考えるな、だた服従せよ、愛国心だけをこころに刻み込め。」と。

 今阻止しなければ、「君が代日の丸の強制」はやがて儀式のときだけにとどまらないだろう。実際に、日常的に校庭の「日の丸」に敬礼し、どこで何をしていようと、直立不動で「君が代」の放送を聞くことを強いている小学校が既にあると言う。



3. 抑圧者の正体 2004年8月17日


 抑圧者にとっては、自分たちだけが人間であり、他者は物にすぎない。また、かれらにとって、権利はひとつしかない。つまり、かれらが平和に暮すための権利(現体制を維持強化する権利-仁平注)である。それは、必ずしも承認されているわけではないのだが生きのびるためにあてがわれている被抑圧者の権利とは、まったく対照的なものである。かれらがこうした権利を被抑圧者にあてがう理由にしても、ただ被抑圧者の存在がかれらの存在に欠かせないからにすぎない。
(パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」)

 パウロ・フレイレのいう「抑圧者(oppressors)」とは、私の用語で言えば、もちろん、「支配者」に他ならない。

 ところで次の文は誰の発言だと思いますか。

 「まず基本的なスタンスから述べたい。僕は自分の人生についていつも自由な人間でいたい。僕にとってそれしか価値のある生き方はない。(中略)自分の人生を束縛するものからは自分で守ろうと思う。今日の政治が手続きをすっ飛ばした全体主義的傾向にある温床も、こういう言葉狩りのような状況が作っていると思う。」
(斎藤貴男「非国民のすすめ」所収「差別主義者の無知」からの孫引き)

 「私は被支配者の一人であり、被支配者の側に立ち続ける」という私のスタンスからは、我が意を得たりと言いたい発言だが、なんと!!この発言者は衆議院議員時代の石原慎太郎なのだ。

 「自由」しか価値ある生き方はないと言いながら、教師や生徒の「自由」を扼殺しようとしている。手続きをすっ飛ばした「全体主義的政治」を憂慮する当人が手続きをすっ飛ばして「全体主義的政治」に猪突猛進している。

 彼の言う「自由」や「全体主義的政治」は、私たちが使うのとは意味が違うのだろうか。それとも彼は心にもないウソをついているのだろうか。 彼は三浦朱門といい勝負の地に落ちた「腐れ文学者」だが、文学者には違いない。たぶん言葉が本来持つ意味で正しく使っていると信じよう。

 彼は他者の痛みや立場に無頓着に自分のあさましい思想心情を率直?に言葉にすることで負の大衆意識に取り入り票を集めたエセ政治家である。たぶんここでも思想心情を率直に語っていて、ウソはついていないと信じよう。

 彼にとっては「自分たちだけが人間であり、他者は物にすぎない。」のだ。それならばつじつまが合う。
 被抑圧者の自由や民主主義は、彼にとっては彼の自由を脅かす束縛であり、全体主義なのだ。

戦争は平和である
自由は屈従である
無恥は力である

(ジョージ・オーウェル「1984年」より)

 
 昨年の靖国神社参拝の折、記者の取材に答えて「俺にも俺の感情というものがある。誰がなんと言おうと(靖国参拝は)やめない。」と言っている。ここでも「尊重すべき感情」を持っているのは自分だけで、他者のそれには一顧だにもしない。

 「君が代日の丸の強制」を拒否する人たちはその理由を次のように言うといい。 
「私は自分の人生についていつも自由な人間でいたい。私にとってそれしか価値のある生き方はない。自分の人生を束縛するものからは自分で守ろうと思う。また、私にも私の感情と言うものがある。誰がなんと言っても拒否し続ける。これは偉大なる石原知事が認めざるを得ない理由なのだ。文句あるか。」

<4点セット>は不可分なもの
 2004年8月16日


 「<日の丸・君が代・教育勅語・靖国神社>は天皇制ファシストたちによって パックされた一連の理念の象徴であると同時に、一切の民主主義、社会主義、自 由主義などの否定の上に成立する「臣民の道」として、天皇制ファシズム下の日 本帝国臣民であるならば、何人といえども外れることの許されない関門であった ことは、既に歴史的な事実なのである。
 その民主主義等の否定の上にしか成立しないはずのものであるにも拘らず、そ うしたものを国家の名に於いて、ひとつひとつ復権し、権力の裏付けで国民に 押し付けようと目論む者が、民主主義を標榜する国の権力中枢に在るということ 自体、甚だ奇怪なことといわざるを得ない。」
(中山 恒「ボクラ少国民」より)


 (十数年前、学習指導要領に「君が代・日の丸」の義務付けが盛り込まれたと き、次のような文を書いて、職場で配った。)
 スイスやアメリカの学校では始業式はなく、ただちにその日から授業が始ま る。そして年度の始業の日は、「いろとりどりの個性が開花へ向かう営みの始 まり」にふさわしい行事、「知や情を刺激し」これからの学校生活への期待と 希望をふくらませるような行事が工夫されているという。生徒も教師もさまざま な個性・感性を持った人間としてふるまえる始まりである。

 それにひきかえ、半世紀ほど前のわが国民学校の教育は次のように始まった。 かっての少国民・山中氏は述懐する。「入学して私達1年生が最初に教えられた ことは・・・敬礼だった。最敬礼だった。まず門をくぐったら、まっさきに奉 安殿にむかって最敬礼することだった。そして次に、日の丸に対して、直立不 動の姿勢をとってから、赤心こめて敬礼することであった。」
 少国民錬成が入学と同時に始まるのだ。国家の忠実な一員、忠良なる臣民に なるための心身の修養の開始なのだった。
 今の私たちの学校の儀式も褒められたものではない。「一同、礼」で始ま り、「一同、礼」で終る。首尾一貫して、ただただ緊張ばかりを強いる。新入 生や卒業生が主人公とはたてまえばかりで、半世紀前のままではないか。あと 「君が代・日の丸」があればもうほとんど半世紀前と同じである。形式ばかり の事大主義が得意顔で号令をしている。
 <日の丸・君が代・教育勅語・靖国神社>は不可分の4点セット。教育勅語が 昔のまま復活することはないとしても、その思想はすでに教育基本法に敵対し て、大きい顔をしている。「君が代はよくないが日の丸はよいのではないの」な んていう人がいるが、そんな考えは誰よりも天皇教推進派が認めない。4点揃わ なければ意味がないのだ。
 ところでこんなつまらぬ人権抑圧的儀式の形はいつごろできたのだろ うか。
 学校教育での儀式ははじめは天皇家の祝祭日だけであった。始業式や入学式 は、もともとは式ではなく、単なる授業はじめであり学校開きであった。卒業 式もただの卒業証書授与であった。天皇制国家の下、臣民教育を秩序だてるた めに新しい「礼法」「礼式」が必要と、その形をつくり始めたのは森有礼。 1889年に、「生徒児童の徳を強化」する目的で礼式のための「訓令案」をつく る。礼の仕方まで事細かに規定している。これがそのまま学校生徒礼式として 採用される。明治の終り頃には学校教育の中の儀式が完全に定着する。
 いま広く無自覚に継承されいる卒業式の式次第や恭しく証書を受け取る形 式は、日清戦争以後1894・5年頃に確立し、祝祭日の儀式と並び最大の式とな る。
 学校行事の式次第や礼の仕方、はては参列者の並び方までを行政権力が こと細かに決めるなど、古今東西例があるまい。


 これを書いたとき、「君が代・日の丸」強制の締め付けはより過酷になって くるだろうと予想はしいたが、まさか再び「式次第や礼の仕方、はては参列者 の並び方までを行政権力がこと細かに決める」ような時代錯誤な愚行が行われ るとは思っていなかった。
 実際に行われた卒業式の場ではさらにおまけがある。教頭が教師たちの後ろ で本当に歌っているかどうか監視したとか、来賓として参列していた都会議員 が起立しない生徒たちに大声で「立ちなさい」と恫喝したとか。

 都教育委員会の通達の内容を知ったとき激しい憤りとともに、まず出てきた 感想は「恥知らずなバカどもだ」だった。

 噴飯ものの詭弁、権力を笠に着た傲慢な強弁、片頬を歪めてシニカルに冷笑 している差別意識。それを恬として恥じない醜く歪んだ自分の心の形にまるで 気づかず、自分を偉い人間だと思い込んでいるらしい者を、私はバカと呼ぶ。 権力や財力が大きくなるほどにバカになるようだ。

 イラクに大量破壊兵器はなかったことが判明すると「見つからないからと言 って、フセインがいないとは言えない」とか、独善的で憲法違反の通達を一方 的に出しておいて「先生には、国が決めたことを順守して、それを教育の一つ の事例として子供に伝える責任があるわけでしょう」とか、選手会が話し合い たいと言うと「無礼なことを言うな。分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選 手が」とか。まるで「三バカ大将」だ。 

教育反動の足跡
 2004年8月15日


 「国家権力にとって教育とは、大衆支配の基本的かつ有効な統御装置であり、そのためにこそ、権力側は教育の管理権の可及権を絶えず拡大させようと、意図的に問題を惹起しては、反権力側と確執をを持つのである。当時の国家権力はそれを<天皇>の名において<教育勅語>という錦旗を押し立てて、極めて暴力的に教育権そのものまでも収斂せしめたのである
(中略)
 現在の権力もまた例外ではない。権力側によって強力に恣意的に歪曲された民主主義の名に於いて、中正・公正教育なる錦旗を押し立て、国定さながらの教科書検定を行い、七一年六月中教審答申に見られる職務職階制導入による教職員の隷属管理化、そして教職員の政治活動禁止と、まさに太平洋戦争前夜を思わせるような状況を作り、なお進行しつつある。やがて、これは学校教育の問題に限らず、教育に関連する全ての分野へ波及することは明らかである。
したがって、教育の開題を、教育本来を捉える概念だけで見るわけにはいかない。検定を通過した教科書から、原爆の写真が抹消され、戦争の悲惨を訴える描写が削除され、平和憲法の解説がなおざりになり、戦争責任の韜晦がなされ、反面、皇室に関する記事がふえ、歴史上の忠君の武将が登場し、国益、公益なるものの強調が始まったことの意図するものがなんてあるかを予知せねばならない。これは極めて危険かつ、重大なのだ。権力側の意図するものが、かなり露骨になって来ているといえるだろう。」
(中山 恒「ボクラ少国民」より)



   中山恒氏の「ボクラ少国民」は1974年に出版されている。ちょうど今から30年前である。鋭い警鐘を打ち鳴らす人は中山氏のみではなく、事あるごとにさまざまな人が同様な発言をし続けてきているが、それらの警鐘に応える抵抗の大きなうねりは被支配者の側にはついになく、自由と民主を僭称する政党を中心とする支配者側は少しずつだが、狡猾にかつ着実に時代錯誤とも言えるよこしまな目論見を実現し続けてきた。とうとう厚かましくも心の中に土足で踏み込むように「君が代・日の丸の強制」を打ち出してきた。そして憲法改悪を目論む勢力が大手をふってのし歩くまでになってしまった。
その憲法改悪を米国が催促している。政治評論家・森田実氏のホームページ「MORITA RESEARCH INSTITTUTE CO.LTD(http://www.pluto.dtine.jp/~mor97512/)」によると、アメリカの狙いは、憲法を改正して徴兵制を国民の義務にすることだという。「押付け憲法」を憲法改悪の理由の一つとする連中がその米国の意を改悪憲法に組み込もうとしている。これじゃまるで日本は米国の属国じゃないか。