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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15年戦争史(1)

今はまさに戦前である

 これまで、あの無謀な戦争を引き起こした時代を「美しい日本」と恋い焦がれるアベコベ軽薄姑息うそつきカルト首相が強引に引き起こしてきた戦争への道を強く危惧する記事を書き継いできたが、その戦争への道作りを許してきた世相の根底には「美しい日本」の実態を知らない人が意外と多いことが指摘できる。勿論、その人の中に、通り一遍の知識しか持たない私も含まれる。そこで、昭和の15戦争については断片的にいろいろな所で取り上げてきているが、改めて「美しい日本」の歴史を検証し直してみようと思っていた。そんな折、日刊ゲンダイの「注目の人 直撃インタビュー」で丹羽宇一郎さんが『今の日本こそ「戦争の真実」学ぶべき』という提言をしている記事に出会った。記事全体に強く共感し、多くの人に読んでもらいたいと思った。その中から冒頭の文と戦争を知らない人たちへの危惧を述べた一文を転載しておく。

『この国のトップは緊迫する北朝鮮情勢に「対話より圧力」と拳を振り上げ、設立されたばかりの新党の女性党首は「リアルな安保」を入党条件に掲げる。社会全体に開戦前夜のようなムードが漂う中、中国大使を務めた経験を持つ国際ビジネスマンである日中友好協会会長の丹羽宇一郎氏は近著「戦争の大問題」で、こう訴えかけている。今こそ日本人は「戦争の真実」を知らなければいけない。』

『本当の戦争を知る人々は、その体験を自分の子供たちにも話せない。食料を奪ったり、友達の肉を食べたり。いざという時にそこまで残酷な動物となった経験を語れるわけがない。戦争は人を狂わせます。だから体験者は皆「戦争だけはやらないでくれ」と口をそろえるのに、戦争をイメージできない世代には「やろう」と粋がる人が多い。こんな怖いことはない。』

 さて、今回から私が主として用いる教科書は半藤一利さんの著書『昭和史残日録』である。簡潔でしかも学芸や芸術などの事績も含まれている総体的な歴史書であるが、主として戦争に関連した事項をたどっていくことにする。また、手元に半藤さんの編著本『昭和史探索1~6』と辺見庸さんの『1★9★3★7(イクミナ)』があり、これらをはじめ他にもいろいろな資料を利用することになると思う。

 ではさっそく『昭和史残日録』を読み始めよう。最初の戦争関連記事は1927年3月24日(昭和2年、以下年表記は西暦だけとする)の記事である。

1927年 もう一つの「南京事件」

「洋鬼子、ざまを見ろ」

 昭和二年三月二十四日、中国の国民革命軍(1905年、孫文によって結成された)による北伐は、各地で軍閥を敗走させ、ついに青天白日旗を掲げて南京入城の日を迎えた。戦闘はやみ、市内に静寂が戻ったのも束の間、「洋鬼子、ざまを見ろ」「ここは俺たちの土地だ」などと叫びつつ、一部の兵士の外国領事館への襲撃が開始された。「洋鬼子」とは外国人を罵る言葉である。

 日本領事館へは200名の兵士が突入してきた。死者こそ1名であったが、中国兵による暴行は凄惨をきわめた。とくに婦女子に加えられた暴虐は、正視するに忍びなかった。結果は、それが克明に報道されることによって、中国にたいする日本人の憎悪感を増大させ、以後の日中関係は悪化する一方となる。

 また、救援に赴こうとした海軍陸戦隊長の荒木亀男大尉は、途中で外交上の手違いから武装解除され、空手空拳で惨劇を眺めやるほかなくなった。その責任をとり後日自殺したが、遺書に「帝国海軍の名誉を傷つけられたことを愧(は)じる」の悲壮な一行がある。この報は、いっそう反中国熱をあおることとなった。昭和開幕早々のまことに不幸な、そして不運な事件であった。

 私はこの事件初めて知った。ネットに『角川 世界史辞典』(2001年10月10日初版発行)の解説があったので補充すると、上の記事では領事館を襲ったのは国民革命軍とされているが、辞典では「国民党軍あるいは共産党軍など諸説ある」とされている。また、イギリス・アメリカの領事館も襲われているが、これに対して「長江上のアメリカとイギリスの軍艦が城内に威嚇砲撃を加えた」とかかれている。

 日本ではこの事件後(6月27日~7月7日)「東方会議」が設置された。「東方会議」は田中首相兼外相主宰の下に本省幹部、在支公使、在上海、在漢口、在奉天各総領事並びに陸海軍、大蔵、関東庁、朝鮮総督府各代表者など出席して開かれた。そしてこの会議の最終日に田中首相の訓示という形で「対支政策綱領」が発表された。何の事はない、この綱領が「中国の植民地化」すなわち「昭和の15年戦争」への道を開いていく基(もとい)となったのだ。「対支政策綱領」の全文が『昭和史探索・1』にあるので、それを転載しよう。

 極東の平和を確保し日支共栄の実を挙ぐること、我が対支政策の根幹なりとす。しこうしてこれが実行の方法に至っては、日本の極東における特殊の地位に鑑み、支那本土と満蒙とに付き自ら趣を異にせざるを得ず。今この根本方針に基づく当面の政策綱領を示さんに、
一、
 支那国内における政情の安定と秩序の回復とは現下の急務なりといえども、その実現は支那国民自らこれに当ること、最善の方法なり。
 したがって支那の内乱政争に際し、一党一派に偏せず、もっぱら民心を尊重し、いやしくも各派間の離合集散に干渉するが如きは、厳に避けざるべからず。
二、
 支那における穏健分子の自覚に基づく正当なる国民的要望に対しては、満腔の同情をもってその合理的達成に協力し、努めて列国と共同その実現を期せんとす。
 同時に支那の平和的経済的発達は中外の均しく熱望するところにして、支那国民の努力と相まって列国の友好的協力を要す。
三、
 叙上の目的は、畢竟、鞏固なる中央政府の成立により初めて達成すべきも、現下の政情より察するに、かかる政府の確立容易ならざるべきをもって、当分各地方における穏健なる政権と適宜接洽(せつこう)し、漸次全国統一に進むの気運をまつの外なし。
四、
 したがって政局の推移に伴い南北政権の対立または各種地方政権の連立を見るが如きことあらんか、日本政府の各政権に対する態度は全然同様なるべきは論をまたず。かかる形勢の下に対外関係上共同の政府成立の気運起るにおいては、その所在地の如何を問わず、日本は列国と共にこれを歓迎し、統一政府としての発達を助成するの意図を明らかにすべし。
五、
 この間支那の政情不安に乗じ、往々にして不逞分子の跳梁に因り、治安を紊(みだ)し、不幸なる国際事件を惹起するの虞(おそれ)あるは争うべからざるところなり。帝国政府は、これら不逞分子の鎮圧および秩序の維持は、ともに支那政権の取締り並びに国民の自覚により実行せられんことを期待すといえども、支那における帝国の権利利益並びに在留邦人の生命財産にして不法に侵害せらるる虞あるにおいては、必要に応じて断乎として自衛の措置に出てこれを擁護するの外なし。
 殊に日支関係に付き捏造虚構の流説に基づきみだりに排日排貨の不法運動を起すものに対しては、その疑惑を排除するは勿論、権利擁護のため、進んで機宜の措置を執るを要す。
 (管理人注:この「五」が『もう一つの「南京事件」』を念頭にして書かれている。)
六、
 満蒙、殊に東三省地方に関しては、国防上並びに国民的生存の関係上重大なる利害関係を有するをもって、我が邦として特殊の考量を要するのみならず、同地方の平和維持、経済発展により内外人安住の地たらしむることは、接壌の隣邦として特に責務を感ぜざるを得ず。しかりしこうして、満蒙南北を通じて均しく門戸開放、機会均等の主義により内外人の経済的活動を促すこと、同地方の平和的開発を速やかならしむるゆえんにして、我が既得権益の擁護ないし懸案の解決に関してもまた右の方針に則りこれを処理すべし。
 (管理人注:「東三省地方」は中国東北地区の旧称で、黒竜江・吉林・奉天の三省があった。)
七、(本項は公表せざること)
 もしそれ東三省の政情安定に至っては、東三省人自身の努力に待つをもって最善の方策と思考す。
 三省有力者にして、満蒙における我が特殊地位を尊重し、真面目に同地方における政情安定の方途を講ずるにおいては、帝国政府は適宜これを支持すべし。
八、
 万一、動乱満蒙に波及し治安乱れて同地方における我が特殊の地位権益に対する侵害起るの虞あるにおいては、そのいずれの方面より来るを問わずこれを防護し、かつ内外人安住発展の地として保持せらるるよう、機を逸せず適当の措置に出づるの覚悟あるを要す。
 終りに、東方会議は支那南北の注意を喚起したるものの如くなるをもって、この機を利用し、各位帰任の上は、文武各官協力、もって対支諸問題ないし懸案の解決を促進することとし、本会議をしてますます有意義ならしむるに努められたく、はたまた叙上我が対支政策実施の具体的方法に関しては、各位に対し本大臣において別に協議を遂ぐるところあるべし。

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昭和の15年戦争史(2)

1928年(1)~(4)

(1)1月25日
「歩兵操典」の改定


 「必勝の信念」
 たとえば、1939年夏のノモンハン事件での大敗に、日本陸軍は何を学んだか。1940年1月に「事件研究委員会」は結論を出した。

「戦闘の実相は、わが軍の必勝の信念および旺盛なる攻撃精神と、ソ連軍の優勢なる飛行機・戦車・砲兵の機械化された各機関および補給の潤沢との、白熱的衝突である。日本軍は伝統の精神威力をよく発揮せり」

 このように、昭和の日本陸軍は「必勝の信念」という無形の精神要素をしきりに強調した。

 この「必勝の信念」が典範令に初めて明記されたのが、昭和1928年1月25日改訂の「歩兵操典」である。綱領のなかにある。

「必勝の信念は主として軍の光輝ある歴史に根源し、周到なる訓練を以てこれを培養し卓抜なる指揮統帥を以てこれを充実す」

 戦争中の日本兵士は、この信念のもとに突撃していった。物力の不足をカバーするために、やむなく強調されたことも知らないままに……。

 このように精神を鼓舞して無謀な戦争で一般兵士の死を強い続けていたのが15年戦争の実態である。

 ところで、この兵士たちを徴兵した「徴兵令」は、なんと、1873(明治6)年1月10日に制定されている。そこに至る経緯は次のようである。(山川出版社版の『詳説 日本史 史料集』を用いている。以後『史料集』と略記する。)
 1872年11月28日に出された「全国募兵の詔」の趣旨説明として太政官が「徴兵告諭」という布告を発布した。それに基づいて、徴兵令が1873年1月10日に制定される。その徴兵令では17歳から40歳の者を兵籍にのせ、20歳に達した者を徴兵した。

 1927年4月1日に公布された昭和の「兵役法」は「徴兵令」を改題・改正して成立したもので「帝国臣民たる男子」に兵役に服すことを命じた法律である。徴兵令では20歳で徴兵検査を受け、兵役に服すことを義務づけていたが、兵役法は現役期間を1年短縮し、陸軍は2年、海軍は3年とした。その後、戦争が拡大するにつれ、しばしば改正された。当然のことながら、敗戦後の1945年11月17日に廃止された。

(2)3月15日
3・15事件起こる


「床に頭をどしんどしん」

「取調室の天井を渡っている梁(はり)に滑車がついていて、それの両方にロープが下っていた。龍吉はその一端に両足を結びつけられると、逆さにつるし上げられた。それから『どうつき』のように床に頭をどしんどしんと打ちつけた。……彼の頭、顔は文字どおり火の玉になった。目はまっ赤にふくれ上って飛び出した。『助けてくれ!』彼が叫んだ」

 作家小林多喜二の『一九二八年三月十五日』という小説の一節である。これが事実とは思えぬむごさではないか。

 この年、昭和1928年2月の第1回総選挙は投票率80パーセントの「異常なる好成績」を示した。当局の弾圧もひどく、汚れた選挙といわれながらも、再建されたばかりの日本共産党は8名の当選者をだす。そして"天皇制打倒、労働者農民政府の樹立"をスローガンに大胆な活動をはしめた。

 これに脅威を感じた田中義一内閣は、特別議会召集に先立って、治安維持法にもとづき、全国にわたる大検挙を行った。それが3月15日、世に3・15事件という。逮捕されたもの約1000名。小林多喜二も小樽でつかまったが、小説にはそのときの拷問の体験を描いている。

 1933年3月24日に長時間の拷問によって殺される。詳細は1933年の項で取り上げる。

 アベコベ軽薄姑息うそつきカルト首相が強行採決した「共謀罪法」はこの時猛威を振るった治安維持法に例えられている。戦前の弾圧法・治安維持法に詳しい内田博文(神戸学院大学教授)さんにインタビューした記事『治安維持法の亡霊が導く「戦争国家」と「刑罰国家」』がこの事を詳しく論じている。紹介しておこう。

 さて、ここで問題になっている治安維持法は1923(大正12)年に関東大震災後の緊急勅令として公布された「治安維持令」が基になっている。25年に治安維持法が公布され、28年の改定で処罰範囲が拡大され、法定刑に死刑が追加された(このときの改悪については今回の『残日録』からの最後の引用文が詳論している。まさしく『共謀罪法』である)。そして、41年の改定で処罰範囲と死刑の対象をさらに大幅拡大する。この悪法も敗戦後、45年に連合国軍最高司令部(GHQ)の指令で廃止された。  『共謀罪法』は、アベコベを退場させて、国民の手で廃止させたいものだが、アベコベ軽薄姑息うそつきカルト首相の本質を理解できずに未だにアベコベを支持している愚民が多い今、残念ながら、『共謀罪法』の廃止は難しい。

 『残日録』からの引用を続けよう。

(3)6月4日
張作霖爆殺事件


「軍紀をとくに厳粛にする」

 昭和史は日本陸軍の陰謀で不幸な幕を開けた。1928年6月4日の張作霖爆殺事件がそれである。満洲(中国東北地方)軍閥の頭目の彼を謀殺することで、混乱をひき起こし軍隊を出動、満洲全土を制圧しようというねらいである。

 計画は関東軍高級参謀の河本大作大佐により練られた。現場には中国人3人の死体を放置することも忘れなかった。そして事件翌日の新聞は、蒋介石の国民革命軍の便衣隊(ゲリラ)のしわざと報道した。

 しかし、息子の張学良の避戦主義で、河本と関東軍が夢みたような武力衝突は起こらず、これを機とした日本陸軍の軍隊の大挙出動もならなかった。そればかりか、中国の新聞や英字紙は、関東軍の陰謀であることを書きたて、そのうわさは日本内地にも広がりだした。

 昭和天皇は、陸軍出身の田中義一首相に「軍紀をとくに厳粛にするように。それによって国際信義をつなぎとめるべし」といい、責任者の厳罰を要望した。しかし、陸軍はそれに従おうとはせず、田中首相はそれに引きずられた。

 下剋上もまたここからはじまる。


 この時から陸軍は天皇の意向も無視し遣りたい放題の道を進むようになったようだ。
(4)6月29日
改悪された治安維持法


「国体の変革には死刑を」

 敗戦まで、昭和の日本人を頭から重苦しく押さえつけ、平穏な生活をかき乱し、生きづらくしていたものに治安維持法がある。この法律のそもそもは1925(大正14)年4月に公布されたものであった。

 しかし、それを真に"悪法"たらしめたのは、1928年6月29日、田中義一内閣がこれを全面的に改悪し、枢密院で可決させると同時に、即日施行した日にはじまる。

 はじめこの改正案は、野党の反対で審議未了となった。それを、政府は天皇の命令「緊急勅令」という形で改正し公布した。また日本全県の警察に特高警察課をおくことも、7月3日の勅令できめたのである。

 「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者ハ……死刑又ハ無期」と重刑になったばかりでなく「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者」も罪に問われることになる。

 つまり官憲がさしたる証拠がなくとも「目的遂行ノ為」と断定すれば、治安維持法の対象となる。

 この日から日本に思想と言論の自由がなくなっていく。

昭和の15年戦争史(3)

1929年(1)~(3)

 前回、戦争への道を突き進む転換点となった1928年の悪政を振り返ったが、なんと、今日(10月18日)の東京新聞朝刊の「こちら特報部」が「現代と似通う昭和3年 戦争へ向かった分水嶺」という見出しでその問題を取り上げていた。そして前半の記事は、前回紹介した内田博文(神戸学院大学教授)さんへのインタビュー記事で構成されている。その広報部記事の前文を転載しておこう。
『歴史にif(もしも)はない。とは分かってはいても、やり直せるなら戻りたい分水嶺(ぶんすいれい)はある。日本にとって戦争に向かう昭和初期はその筆頭だろう。刑法学者の内田博文氏は、今の日本の状況は「昭和3年」に似ていると指摘する。治安維持法が改正され、戦時体制の下準備が進んだ年だ。加えて、政治不信を加速させた意外な共通点も。今このときを「やり直したい過去」にしないために、90年前の「失敗」を振り返った。 (加藤裕治、皆川剛)』

 さて、今回は『残日録』から1929年の悪化していく世相を描いている記事を3項目選んた。

(1)3月5日
山本宣治代議士の暗殺


 「脳みその重さ日本一」
 最高刑10年であったものを死刑にまでひき上げた治安維持法の改正案が、衆議院を通過した日、すなわち1929年3月5日の夜、京都宇治出身の代議士、山宣こと山本宣治が、止宿先の神田神保町の旅館で刺殺された。

 犯人は元巡査で「七生義団」の東京支部長となのる黒田保久二という男。山本がただひとりこの改正案に反対しているゆえに、それが暗殺の理由である。昭和初期に続出する右翼による最初のテロであった。

 いらい左翼の会合があると、開会に当たってまず山宣の霊に一分間の黙とうをする、それがおきまりとなった。これが日本人の黙とう好きのそもそもである、という話を聞いたことがある。本当かどうか、保証しないが。

 それと山宣の脳みその重さが当時は話題になった。東大で解剖をした医者がびっくりした。「1716グラム、日本一である」と。それまで脳みその重さで有名であったのは、桂太郎の1600グラム、夏目漱石の1425グラム。これらがトップクラスに位置していたのである。山宣はその上をいった。
 ただし、脳みその重さにどんな意味があるのか、残念ながら知らない。

 この事件についてもう少し詳しく知りたいと思い、ネット検索で「弁護士会の読書」というサイトの『テロルの時代』という記事に出会った。これは本庄豊著『テロルの時代』(群青社刊)の紹介記事であるが私が知りたいと思っていた事柄が簡潔に記載されていたので紹介することにした
 この事件には実行犯(黒田)に指示を出していた大久保という黒幕がいた、最後の段の驚くべき事実が書かれている。その部分を転載しておく。
『事件の黒幕であった大久保は、千葉県知事、東京市長の要職を歴任し、戦後は代議士に当選して、国家公安委員長にまでなった。これに対して、テロリスト黒田は、1955年、北九州の遠賀療養所で、脳梅毒のため死去した。62歳だった。』

(2)3月31日
大量失業時代が生んだもの


 「大学は出たけれど……」

 企業の倒産、操業短縮が相次ぎ、「昭和恐慌」は農村の疲弊を加えて、年をおうごとに苦難さをますばかりとなった。このシワ寄せをうけたのが大学卒業生である。いまの日本と同じように、就職難は深刻度をました。

 3月末を基準にすると、率のいい理工科は1923(大正12年)に100人中88人が就職した。これが昭和に入ると1927年には76人、1928年73人、1929年66人とさがっていく。文科系はもっと惨たるもので1923年に72人であったのが、1928年46人、1929年には38人。

 そしてこの年の3月末の採用状況は、内務省調べで、大企業325社のうち、新卒者をまったく採らない社は53パーセントと、半分以上に達した。

 まさに小津安二郎監督の映画「大学は出たけれど」(1929和4年封切り)そのもののひどさであった。この大量の失業者の出現が社会不安を高め、政治不信となり、国家の前途に憂慮をうみ、多くのテロ事件、自殺や身売りの続出となり、やがて満洲事変をひき起こす因となった。

 さて、いまの日本も「大学は出たけれど」で……どこへ行くのかな。

(3)10月24日
ニューヨーク株式市場暴落


「窓を利用なさるのか」

 ギリシャ神話の中の牧神パンは葦笛(あしぶえ)を吹き、たえず美少女を追いかけている。気まぐれである。そして突如怒りだし、牛馬や羊たちを走らせたりする。パニックという語はそこからくる。

 1929年10月24日、木曜日のニューヨークーウォール街の株式取引所は朝の寄りつきから大量の売りものが殺到。1日で1300万株の売り、株の暴落がはじまった。証券市場はパニックにおちいった。

 この日破産して自殺した株屋は12名で、高層ホテルで部屋を求めると「お休みになるのか、窓を利用なさるのか」と聞かれる大騒ぎとなった。

 そしてつづいてきた大恐慌は史上最大のもの。世界中の経済を崩壊させ、ひん死の大不況がはじまる。

 この世界的大恐慌からの脱出を求めて、資本主義列強は分裂と抗争を深めていく。やがてそれは第二次世界大戦への道につながる。

 日本またしかり。生き残りを模索する。太平洋戦争への道は、大きくいえばこの日に発したのである。

昭和の15年戦争史(4)

1930年(1)~(4)

 日本では1929年10月から始まった世界的大恐慌の煽りを受けて、庶民の状況はどのようなことになっていたのだろうか。このことについては、『昭和史探索2』から転載する。
(1)
世界大不況下の日本


 1929年10月、アメリカのウォール街の株価暴落にはじまった世界大恐慌の嵐は、年が明けるとますます荒々しく激しく日本帝国を揺すぶっていた。生糸の最大輸出国アメリカの不況は、そのまま生糸の売れ行きに響いてくる。結果としての生糸の大暴落、つづいて米の価格が暴落する。とくに1929年は米どころ新潟が豊作で、さらに1930年の予想収穫高が「未曾有の豊作」とあって、暴落に歯止めがきかない惨憺たることになった。労働者の半数近くが繊維産業を中心とした女子労働者、そして農家の2、3男であるというそのころの国の経済基盤の根底がぐらつき、農産物全体の価格の下落は深刻の一途をたどっていく。

 いざとなれば農村にゆけば何とかなる、と夕力をくくっていた都会の失業者は、いっぺんにその行き場を失った。失業者すなわち「ルンペン」は都市にあふれかえった。全国の工業地帯ではストライキが続発する。東北の農村では娘の身売りという悲劇が当たり前になる。当然のことながら左翼運動はますます活発化する。

 ところが、政府はそれらにたいしては手のうちようもなく、まったくの無策といってよかった。

 朝日新聞の1930年9月3日の社会面の記事(当時は三面記事といった)は、見出しに「毎夜30人ずつ、寺の境内に野宿/遊行寺(藤沢)の麦飯一杯の振舞も、悲鳴をあげる繁盛」とつけて、その悲惨な光景をこう伝えている。
「職を失ってその日の糧にも窮し、都会の生活から完全に見放された哀れな失業者の群れが、郷里に帰るにも旅費がなく、とぼとぼと東海道を歩いて行く者が、今夏以来めっきりと殖えてきた。中には妻や子供を連れて乞食のごとく、道筋の人家で食を貰いながら、長い旅を続けている者もあり、沿道の程ケ谷、戸塚、藤沢等の警察署では、これらの保護に手を焼いている始末で、多い日には50人を超える位であるが、鎌倉郡川上村在郷軍人分会では、震災記念日の1日から1週間、同村旧東海道松並木付近に、お粥の接侍所を設けて、温かい食事を与えている」

 全国的にそんな様相であったがその反面で、首都の東京は奇妙なほど浮ついた気分で覆われていたのである。それも3月26日に催された帝都復興祭の煽りをうけてのものであったかもしれない。かの1923年の関東大震災から7年経って、東京の復興をお祝いする行事が大々的に行われたのである。底のほうは不況で冷えきっていたのに、いや、それゆえにかえって、といえるであろう。もう一度、朝日新聞の記事を引用する。3月27日のものである。それは社会面のほとんどを埋めて、賑やかに祝賀の様を伝えている。
「歓喜の乱舞の中に湧き立つ全帝都。昨日の人出、実に200万。素晴らしい復興の首途よ」
「銀座街を中心に殺人的な大群衆。電車、自動車、バスも動かばこその人の波」
「闇もこげよと打ちふる提灯の海。夜景を彩る花火に相和して、延々2万人の行列」

 明日のことを憂うるよりも、まずは今日の歓楽。この年の流行語が「エロ・グロ・ナンセンス」、そして「アチャラカ」、そして「銀ブラ」。大阪のカフェーが銀座に進出し濃厚サービスで、東京の和服に白エプロンを圧倒したのもこの年であった。

 この惨憺たる状況に対して「政府は……まったくの無策といってよかった。」と書かれているが、政府は唯一の政策を打ち出しているが、その結果が全くの逆効果となっているのだった。『残日録』から転載する。
(2)1月11日
金輸出解禁の決断
(1917年以来、禁止されていた金輸出を解禁し、金本位制に復帰した)

 「嵐に向かって窓を開ける」

 浜口雄幸内閣が、世界大恐慌からきた不況の打開策として、あえて金輸出解禁という強硬策の実施にふみきったのが、この年の1月11日のことである。ときの蔵相は井上準之助。

 円の切り上げなしに金解禁を実施すると、輸入はさらに増加、国際赤字は拡大し、金はたちまちに流出してしまうからと、反対の声は大きかった。反対派の旗頭の武藤山治はいった。
 「嵐に向かって窓を開けるようなものだ」

 しかし井上蔵相はあえて踏みきった。14年ぶりの解禁とあって、日本中がゴールド・ラッシュにわく。日銀につめかける人の波はひきもきらず、正午締め切りまでに2300人。中には、冥土のみやげに金貨を拝みたくて、という老婆もいる。1日で20万円の金貨が出た。

 しかし、結局は、おびただしい正貨の海外流出と、物価暴落で、不況は一層深刻化した。翌1931年12月13日、大養毅内閣の手で金輸出再禁止が実施され、この強硬策はわずか二年の寿命で終わる。

 ちなみに、井上準之助は1932年に血盟団員の小沼正(おぬましょう)に暗殺されている。

(3)10月29日
「中華民国」を正式呼称に

 「シナは正式な国名ではない」

 芥川龍之介は1921年3月から8月まで新聞から特派され中国を旅行した。それを綴った「文那游記」という紀行がある。すでにこのころ、中国においては、反日・排日・侮日の火勢が日一日と力をましている。歴史好きとしてはその意味からも面白い作品なのである。タイトルはもちろん、中身でも芥川は「支那」で押し通している。当然のことである。当時の日本人はだれもが、シナ、シナ人と呼び、シナそばといっていた。

 しかし、昭和に入って反省が生まれた。この年の10月29日、ときの浜口雄幸内閣は閣議で、この、「シナとは正式な国名ではなく、外交的にもはなはだ差し支える」、ゆえに「以後は正式に中華民国と呼ぶこと」を決定したのである。

 いま考えると、侮蔑をやめてこの決定を日本人がしっかりと受け止めてめていたら、日本陸軍の「シナー撃論」(一度ガツンとやればシナはヘナヘナとなる)が大手を振るうことはなかった。そして太平洋戦争への道を大日本帝国が闇雲(やみくも)に突き進むこともなかったであろうに。ちなみに、日本人がシナと呼びだしたのは1895(明治28)年の日清戦争に勝ったあとのことという。

(4)11月14日
浜口雄幸首相狙撃さる

 「男子の本懐である」

 昭和1930年11月14日の新聞の夕刊-、
「今朝、浜口総理大臣/東京駅頭で要撃さる/犯人は現場で直に捕縛」「『男子の本懐』と語る/応急手当をした平田医師談」……。

 ロンドン海軍軍縮条約の調印をめぐって、軍備をどうするかは帝国憲法にある統帥事項であり、政府が勝手にきめられないという、いわゆる統帥権干犯問題を、犯人は暗殺の理由にあげた。屈辱的な条約を締結したのは政府が統帥権を干犯したのだ、といい張るのに、取調官が「じゃあ、統帥権干犯とはどういうことか」とさらに踏みこんで問うと、犯人は答えた。
 「要は不敬罪であります」
 統帥権を侵害するものはつまり大元帥命令にそむくことになる、という勝手な解釈なのである。

 そしてこの事件が1932年の前蔵相の井上準之助射殺、三井合名理事長の団琢磨射殺、5・15事件と、政治的暗殺がつづく暗い世相への幕開けとなった。

 いまでも東京駅ホーム内で、浜口雄幸首相遭難の跡を目にすることができる。

昭和の15年戦争史(5)

1931年(1):満州事変

 満州事変が勃発したのは1931年である。この事変こそ日本が「昭和の15戦争」へと盲進していく切っ掛けとなった結節点であった。1931年の回顧はこの満州事変だけに絞って詳しく調べていこうと思う(少し長くなるかもしれません)。

 まず、『史料集』の「満州事変」という項を読んでみよう。この記事は「林奉天総領事の報告」と題されている。1931年9月19日の軍による奉天・長春など満鉄沿線諸都市を占領した事件について、総領事林久治郎から外相幣原喜重郎に宛てた9月19日付の暗号電信である。(出典は外務省蔵「日本外交文書」)

林奉天総領事の報告

第625号(至急極秘)……各方面ノ情報ヲ綜合スルニ、軍二於テハ満鉄沿線各地二亘(わた)リ、一斉二積極的行動ヲ開始セムトスルノ方針ナルカ如ク推察セラル。本官ハ在大連内田総裁ヲ通シテ軍司令官ノ注意ヲ喚起スル様措置方努力中ナルモ、政府二於テモ大至急軍ノ行動差止メ方ニ付適当ナル措置ヲ執(と)ラレムコトヲ希望ス。

(注)
「軍司令官」
 関東軍司令官本庄繁中将。当時旅順に司令部があった。
 このときの若槻内閣は事変の不拡大方針を決定したが、関東軍・朝鮮軍の軍事行動を阻止する措置をとらなかった。


第630号(至急極秘)参謀本部建川(たてかわ)部長ハ18日午後1時ノ列車ニテ当地ニ入込ミタリトノ報アリ、軍側ニテハ秘密二付(ふ)シ居(お)ルモ、右ハ或ハ真実ナルヤニ思ハレ、又満鉄木村理事ノ内報二依レハ、支那側ニ破壊セラレタリト伝ヘラルル鉄道箇所修理ノ為満鉄ヨリ保線工夫ヲ派遣セルモ、軍ハ現場ニ近寄セシメサル趣(おもむき)ニテ、今次ノ事件ハ全(まった)ク軍部ノ計画的行動二出テタルモノト想像セラル。

 政府はこの事変が軍による計画的事件であったことを把握していたようだ。

 前回、浜口雄幸首相の狙撃事件を取り上げたが、その後1931年に右翼による軍部内閣樹立を目指したクーデター2件起こっている。3月事件・10月事件と呼ばれている。このような右翼による愚行を煽っていたのは、もちろん陸軍の中枢部である。この事については『探索2』から転載する。

満州事変への道をひたすらに
 3月事件は、大雑把にいえば参謀本部の一部の急進派が中心となり計画されたものである。しかし、陸軍省側の協力がえられなかった、そこに不発の根因があった、とみることができる。では、その陸軍省側の革新派は何を考えていたのであろうか。じつは、そのリーダー的な存在である軍事課長永田鉄山大佐、補任課長岡村寧次大佐、陸大教官小畑敏四郎大佐たちは、まず何よりも満蒙問題を解決することが先決であり、この解決がうまくなされれば、国内改造は無理をせずともついてくる、軍部首班の内閣はできる、と判断していたのである。陸軍はそれほど「満蒙の危機」に直面して焦燥にかられていたのである。焦燥こそは戦争の原動力というが、彼らは戦争を決して厭おうとはしていなかった。

(中略)

 考えてみれば、昭和開幕していらい、陸軍の俊英たちは満蒙問題を語りつづけてきている。彼らがつねに口にするのは「十万の英霊、二十億の国帑」であり、「明治天皇のご遺業」についてである。日清・日露の国難といえる戦争に勝ちぬいて特殊権益としてわが手にした満蒙の地は、そのまま国防の第一線となり、失うことのできない日本の「生命線」となった。ここを守りぬくことが陸軍軍人の使命であり最大の任務なのである。

(管理人注)
 「国帑」という熟語に初めて出会った。手元にある漢和辞典を調べてみた。
【國帑】コウダウ・コクド
國の財寶を納めるくら。(帑は貨幣を蔵めるくら)
○国庫・府庫。転じて国家の財産。


 それなのにいま日本国内では、あいつぐ政党の汚職事件や共産党の活動が活発化。さらには、ロンドン軍縮条約の締結は、当然の流れとして陸軍軍縮をも予想させる。危機を前にしながら、腐敗した政党政治によって軍縮が強行されるようなことがあれば、国防をまっとうすることなど不可能である、と陸軍軍人はひとしく苛立ちを隠さず強く反発した。いまこそわれわれの手でこの危機的状況から国家を救いださなければならないと。

 とくに満州の曠野にあって、日本の政策を代行する形の関東軍司令部の参謀たちには、我慢がならなくなっていた。交渉相手の張学良が「外交は国家の外交であるから大問題は当然中央でやる。地方的な問題は自分がやる決心である」と、むつかしい問題はすべて南京の国民政府のほうへ回そうとし、その無責任さがいっそう参謀たちを激怒させた。そして、この憤慨のいきつくところとなれば、よし、それならば張学良にかえてより親日的な政権を樹立するか、さもなければ満州全土を軍事占領してしまうか、という二者いずれかの結論にみちびかれていった。そしてひそかにとるべき方針が検討されていく。さらには具体的な作戦計画の練り上げへと彼らをしきりに駆り立てていく。

 そして昭和陸軍特有の、動機を重んじ手段の性邪を問わない精神構造というものが、これに加勢する。動機さえ純粋であれば(それも往々にして主観的に)、手段と行動がかりに統帥を乱し、暴力をともなうものであったとしても正当化される、といった空気が陸車の中枢に瀰漫していたのである。関東軍参謀石原莞爾中佐の「満蒙問題私見」は、関東軍の作戦方針の基調となったもので、「解決ノ唯一方策ハ之ヲ我領土トナスニアリ」の文字が、あまりにもあっさりと書かれていることに、ただ驚嘆するばかりである。

 ともあれ、満州事変への道はここに大きく切り拓かれていった。

 このようにして決行された満州事変という愚行を、政府は国民には「中国軍によて引き起こされた」という虚偽ニュースで広めていった。その結果は……『残日録』の記事で締めくくろう。
(1)9月18日
満洲事変の教訓


「民衆の熱狂の声に消されて……」

 1931年9月18日夜、満洲事変がぼっ発した。戦前の軍事国家日本がスタートを切った日であり、大日本帝国がやがて世界中の国を相手に戦い滅びることを、最初に運命づけた日でもある。

 奉天郊外の柳条湖付近の鉄道爆破は、日本軍の謀略によるもの、という事実がいまは明らかになっている。主諜者が関東軍の本庄繁をはじめとする板垣征四郎、石原莞爾たちであることもハッキリしている。しかし当時は、中国軍によって爆破され、日本の鉄道守備隊も攻撃をうけ、やむなく開戦となった、という政府の発表を国民は信じた。新聞もラジオも、自衛のため立ち上がった、としきりに太鼓をたたいた。
「本来賑やかなもの好きの民衆は……満洲問題の成行きに熱狂した。すわこそ帝国主義的侵略戦争というような紋切型の非難や、インテリの冷静傍観などは、その民衆の熱狂の声に消されてその圧力を失った」
とは評論家杉山平助の報告である。

 この国民的熱狂がそれ以後の国の歩みを誤らせた。満洲事変から学ぶべき最大の教訓は、国民的熱狂の恐ろしさということなのである。

 21日に目を背けたくなるような愚劣なことが起こっている。国民的熱狂ではなく、愚民の最先端を行くネトウヨだけを集めて、その連中の熱狂に得意がって脂下がっている無知にして無恥な男が起こした事件だ。そのことを取り上げた「田中龍作ジャーナル」さんの記事を紹介しておこう。
『戒厳令下のアキバ 「安倍辞めろ」を完全封殺』

 このような愚劣なことを得意げに行なっている無知にして無恥な男がまた政権を担うという結果は愚民の最先端を行くネトウヨだけではできない。従順な国民という愚民のなんと多いことか。情けない、情けない。