2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
永遠の不服従のために(21)

9・11同時多発テロ後の世界(3)

今回使用する辺見さんの論考の表題は「善魔」である。手元にあるどの辞書にもこの熟語はない。本文中にこの言葉の由来が次のように書かれている。(本文の構成順を替えて引用している。)

 「善魔」という言葉を、私は、だいぶ以前、ある日本人神父から聞いた。身勝手で薄っぺらな「善」を、むりやり押しつける者を意味する造語で、神父は「悪魔よりも程度がわるく、魅力がない」と吐き捨てるようにいったものだ。彼としてはヴァチカンを批判したかったのかもしれないが、いまや世界最大の「善魔」とはローマ教皇庁などではなく、ブッシュを頭目とする米政府なのではないか。私は、正直、この「善魔」大統領と彼に手もなく仕切られている世界が不快でならない。ベトナム戦争当時より、湾岸戦争のころより、米国の唱える「善」には、今日、厚みも道理もなく、よくよく考えれば、それは限りなく悪に近いのである。

 ではまずはこの論考の枕を読んでおこう。

おお、堪えがたき人間の条件よ。
一つの法則の下に生まれながら、他の法則に縛られて、
虚しく生まれながら、虚しさを禁じられ、
病むべく創られながら、健やかにと命ぜられて、かくも相反する法則によるとせば、
自然の意味とは、そも何か。(フルク・グレヴィルの戯曲「ムスタフア」から)

 この枕の元になっている戯曲もその著者も私には初耳だが、辺見さんは次のように解説している。

 この詩を、私は埴谷雄高著『罠(わな)と拍車』のなかの「自由とは何か」で知った。文中、埴谷はこれを「私が古くから愛好しているブレークの詩」として紹介している。学生時代に読んで以来、埴谷がそう記しているし、私は不勉強だから、当然、ウィリアム・ブレークの詩だとばかり思いこんできた。ところが、今回、ブレークを調べてみたら、まだ調べたりないのか、この詩がなかなかでてこない。意地になって追いかけていたら、ブレークよりはずいぶんマイナーな作家、グレヴィル(1554~1628年)の作品であることがわかった。ブレークがこの詩を引用したのか、単純に埴谷雄高の勘ちがいなのかは、依然、不分明である。

 そんなことは、しかし、どうでもいい。記憶力のあまりよくない私が、この詩にかぎっては、おぼろではあるものの、ほぼ34年間も胸の底の薄暗がりに、なんとなく言葉を残してきた、そのことにわれながら驚く。正確にいえば、
「おお、堪えがたき人間の条件よ」

「病むべく創られながら、健やかにと命ぜられて」
の二つのフレーズだけを忘れずに生きてきた。たぶん、私は、大いなる矛盾を露呈する時代のときどきに、「おお、堪えがたき人間の条件よ」と嘆息し、「病むべく創られながら、健やかにと命ぜられて」と、心のうちで、この世の成り立ちを呪ってきたのだ。だが、いま振り返れば、それまでの嘆息にも呪詛(じゅそ)にも、まだなにがしか余裕があった。そうなのだ。世界は、かつても、人間が病まずにはいられないようにしつらえられていたけれども、いまほどひどく悪辣(あくらつ)ではなかった。

 今(同時多発テロ後)のひどい悪辣さを作り出したのは、前回用いた言葉で言えば、「保守反動ブタ」どもである。辺見さんはこのことを「善魔」という言葉を用いて、さらに突っ込んだ評論を展開している。

 ニューヨーク・タイムズの社説によれば、世界史は、あの同時多発テロの「前」と「後」に、つまり、B.C.とA.D.みたいに、「9・11前」か「9・11後」に分かれることになったよしである。まことに独り善がりで傲岸な新史観ではあるが、私の眼には、世界は9・11後こそ、9・11前の千倍も狂気じみて、かつ愚かになったとしか見えない。なぜかというと、9・11を境に、ブッシュというとんでもない「善魔」が、あろうことかあるまいことか、善と悪、文明と野蛮について、世界中に偉そうな説教を垂れ、絶大な武力を背景に、史上最悪の"善"の強制的グローバル化を開始したからである。それに腹をたてたとき、私はまたぞろ、「おお、堪えがたき人間の条件よ」を思い出したわけだ。

 包み隠さずうち明けるならば、面相からして、私は「善魔」ブッシュよりも(もちろん、子分の「小善魔」コイズミよりも)、「悪魔」ウサマ・ビンラディンに万倍も人間的魅力を感じる。いま、どちらと会って話したいかと問われれば、いわずもがな、後者なのである。前者には、「病むべく創られながら、健やかにと命ぜられて」の意味が、どうあっても理解できないであろう。病むべく創っておきながら、健やかにと命じているのが、ほかならぬ、「善魔」たちだからである。米国に対する外部世界の計り知れないルサンチマンとは、米国が世界を私物化しようとし、まさに人が病むほかないシステムをつくる一方で、米国式正義を強いてくるから、生じているのではないか。

 もちろん、このアメリカの善魔ぶりは同時多発テロ以前にも連綿と行なわれていた。「るいネット」さんの記事『アメリカの侵略戦争史年表②』から、ベトナム戦争から同時多発テロまでの年表を転載しておく。
1965 北ヴェトナムへの北爆本格化。地上軍を投入。
 ドミニカに海兵隊派遣。
1970 アメリカ軍、カンボジャ侵攻。
1971 ヴェトナム戦争、ラオスにも拡大。
1983 グレナダ侵攻。
1986 リビアのトリポリなどを爆撃。
1989 パナマに侵攻。
1990 イラクのクウェート占領に対し、サウジアラビアに派兵。
1991 湾岸戦争。
1992 ソマリア派兵。
1993 ソマリア作戦。
1994 NATO、旧ユーゴ内戦に介入、空爆を行う。
1996 イラクに対し空爆。
1999 NATO軍、コソボ空爆。
2001 米同時テロへの報復と称して、米、英と共にアフガニスタン空爆。地上軍派遣。
 辺見さんは、この中から「グレナダ侵攻」と「ソマリア派兵」を取り上げて、ならず者国家の「善魔」を指弾している。

 いま、つくづく思う。米国ほど戦争の好きな国はない。1776年の独立以来、対外派兵がじつに二百回以上に上り、しかも、原爆投下をふくむ、非人間的作戦行動のほとんどについて、これまでに国家的反省をしたことがない。にべもなくいうなら、人類史上最大の戦争国家なのである。二百回のなかには、たとえば、グレナダ作戦(1983年)というのがある。グレナダ政権内の親ソ連派クーデターに怒った米国が、七千人もの部隊を動員して侵攻、クーデターを鎮め、首謀者を逮捕した。マスコミは挙げて米特殊部隊を英雄扱いした。私は、当時、カリフォルニア州に住んでいて、この作戦成功に米国中が異様なほどわき返るのを、おののきふるえて見つめたものだ。なぜって、グレナダの人口は当時、たったの九万人ほど。軍隊などといっても数百人くらいの、弱っちい貧乏国だからだ。勝つたからといって、決して威張れるような相手ではない。この点、米政府の好戦的官僚は、一般に羞恥心というものをもたない。

 1993年からのソマリア作戦もひどかった。壊すだけ壊し、殺すだけ殺して、なにもつくれずに撤退した。後は頬被(ほほかぶ)り。同年の暑い夏、ソマリアで取材したから私は知っている。米軍はただの"壊し屋"たった。

 いままた、米国とその同盟国は、象千頭で蟻十数匹に襲いかかるような非道をはじめつつある。ブッシュ大統領の以下の言葉は、米国を唯一無二の善とした、ただの脅しでしかない。
「世界のあらゆる地域のあらゆる国家が決断しなければならない。われわれとともにあるか、さもなくばテロリストといっしょになるかだ」(「2001年9月20日、上下両院合同会議での演説)。

 なにも好きこのんで人々がテロリスト側にくみするわけがない。さりとて、ブッシュの語る「善」の側に立つのは、「堪えがたき人間の条件」なのである。

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永遠の不服従のために(20)

9・11同時多発テロ後の世界(2)

今回使用する辺見さんの論考の表題は「善魔」である。手元にあるどの辞書にもこの熟語はない。本文中にこの言葉の由来が次のように書かれている。(本文の構成順を替えて引用している。)

 「善魔」という言葉を、私は、だいぶ以前、ある日本人神父から聞いた。身勝手で薄っぺらな「善」を、むりやり押しつける者を意味する造語で、神父は「悪魔よりも程度がわるく、魅力がない」と吐き捨てるようにいったものだ。彼としてはヴァチカンを批判したかったのかもしれないが、いまや世界最大の「善魔」とはローマ教皇庁などではなく、ブッシュを頭目とする米政府なのではないか。私は、正直、この「善魔」大統領と彼に手もなく仕切られている世界が不快でならない。ベトナム戦争当時より、湾岸戦争のころより、米国の唱える「善」には、今日、厚みも道理もなく、よくよく考えれば、それは限りなく悪に近いのである。

 ではまずはこの論考の枕を読んでおこう。

おお、堪えがたき人間の条件よ。
一つの法則の下に生まれながら、他の法則に縛られて、
虚しく生まれながら、虚しさを禁じられ、
病むべく創られながら、健やかにと命ぜられて、かくも相反する法則によるとせば、
自然の意味とは、そも何か。(フルク・グレヴィルの戯曲「ムスタフア」から)

 この枕の元になっている戯曲もその著者も私には初耳だが、辺見さんは次のように解説している。

 この詩を、私は埴谷雄高著『罠(わな)と拍車』のなかの「自由とは何か」で知った。文中、埴谷はこれを「私が古くから愛好しているブレークの詩」として紹介している。学生時代に読んで以来、埴谷がそう記しているし、私は不勉強だから、当然、ウィリアム・ブレークの詩だとばかり思いこんできた。ところが、今回、ブレークを調べてみたら、まだ調べたりないのか、この詩がなかなかでてこない。意地になって追いかけていたら、ブレークよりはずいぶんマイナーな作家、グレヴィル(1554~1628年)の作品であることがわかった。ブレークがこの詩を引用したのか、単純に埴谷雄高の勘ちがいなのかは、依然、不分明である。

 そんなことは、しかし、どうでもいい。記憶力のあまりよくない私が、この詩にかぎっては、おぼろではあるものの、ほぼ34年間も胸の底の薄暗がりに、なんとなく言葉を残してきた、そのことにわれながら驚く。正確にいえば、
「おお、堪えがたき人間の条件よ」

「病むべく創られながら、健やかにと命ぜられて」
の二つのフレーズだけを忘れずに生きてきた。たぶん、私は、大いなる矛盾を露呈する時代のときどきに、「おお、堪えがたき人間の条件よ」と嘆息し、「病むべく創られながら、健やかにと命ぜられて」と、心のうちで、この世の成り立ちを呪ってきたのだ。だが、いま振り返れば、それまでの嘆息にも呪詛(じゅそ)にも、まだなにがしか余裕があった。そうなのだ。世界は、かつても、人間が病まずにはいられないようにしつらえられていたけれども、いまほどひどく悪辣(あくらつ)ではなかった。

 今(同時多発テロ後)のひどい悪辣さを作り出したのは、前回用いた言葉で言えば、「保守反動ブタ」どもである。辺見さんはこのことを「善魔」という言葉を用いて、さらに突っ込んだ評論を展開している。

 ニューヨーク・タイムズの社説によれば、世界史は、あの同時多発テロの「前」と「後」に、つまり、B.C.とA.D.みたいに、「9・11前」か「9・11後」に分かれることになったよしである。まことに独り善がりで傲岸な新史観ではあるが、私の眼には、世界は9・11後こそ、9・11前の千倍も狂気じみて、かつ愚かになったとしか見えない。なぜかというと、9・11を境に、ブッシュというとんでもない「善魔」が、あろうことかあるまいことか、善と悪、文明と野蛮について、世界中に偉そうな説教を垂れ、絶大な武力を背景に、史上最悪の"善"の強制的グローバル化を開始したからである。それに腹をたてたとき、私はまたぞろ、「おお、堪えがたき人間の条件よ」を思い出したわけだ。

 包み隠さずうち明けるならば、面相からして、私は「善魔」ブッシュよりも(もちろん、子分の「小善魔」コイズミよりも)、「悪魔」ウサマ・ビンラディンに万倍も人間的魅力を感じる。いま、どちらと会って話したいかと問われれば、いわずもがな、後者なのである。前者には、「病むべく創られながら、健やかにと命ぜられて」の意味が、どうあっても理解できないであろう。病むべく創っておきながら、健やかにと命じているのが、ほかならぬ、「善魔」たちだからである。米国に対する外部世界の計り知れないルサンチマンとは、米国が世界を私物化しようとし、まさに人が病むほかないシステムをつくる一方で、米国式正義を強いてくるから、生じているのではないか。

 もちろん、このアメリカの善魔ぶりは同時多発テロ以前にも連綿と行なわれていた。「るいネット」さんの記事『アメリカの侵略戦争史年表②』から、ベトナム戦争から同時多発テロまでの年表を転載しておく。
1965 北ヴェトナムへの北爆本格化。地上軍を投入。
 ドミニカに海兵隊派遣。
1970 アメリカ軍、カンボジャ侵攻。
1971 ヴェトナム戦争、ラオスにも拡大。
1983 グレナダ侵攻。
1986 リビアのトリポリなどを爆撃。
1989 パナマに侵攻。
1990 イラクのクウェート占領に対し、サウジアラビアに派兵。
1991 湾岸戦争。
1992 ソマリア派兵。
1993 ソマリア作戦開始。
1994 NATO、旧ユーゴ内戦に介入、空爆を行う。
1996 イラクに対し空爆。
1999 NATO軍、コソボ空爆。
2001 米同時テロへの報復と称して、米、英と共にアフガニスタン空爆。地上軍派遣。
 辺見さんは、この中から「グレナダ侵攻」と「ソマリア派兵」を取り上げて、ならず者国家アメリカの「善魔」を指弾している。

 いま、つくづく思う。米国ほど戦争の好きな国はない。1776年の独立以来、対外派兵がじつに二百回以上に上り、しかも、原爆投下をふくむ、非人間的作戦行動のほとんどについて、これまでに国家的反省をしたことがない。にべもなくいうなら、人類史上最大の戦争国家なのである。二百回のなかには、たとえば、グレナダ作戦(1983年)というのがある。グレナダ政権内の親ソ連派クーデターに怒った米国が、七千人もの部隊を動員して侵攻、クーデターを鎮め、首謀者を逮捕した。マスコミは挙げて米特殊部隊を英雄扱いした。私は、当時、カリフォルニア州に住んでいて、この作戦成功に米国中が異様なほどわき返るのを、おののきふるえて見つめたものだ。なぜって、グレナダの人口は当時、たったの九万人ほど。軍隊などといっても数百人くらいの、弱っちい貧乏国だからだ。勝ったからといって、決して威張れるような相手ではない。この点、米政府の好戦的官僚は、一般に羞恥心というものをもたない。

 1993年からのソマリア作戦もひどかった。壊すだけ壊し、殺すだけ殺して、なにもつくれずに撤退した。後は頬被(ほほかぶ)り。同年の暑い夏、ソマリアで取材したから私は知っている。米軍はただの"壊し屋"たった。

 いままた、米国とその同盟国は、象千頭で蟻十数匹に襲いかかるような非道をはじめつつある。ブッシュ大統領の以下の言葉は、米国を唯一無二の善とした、ただの脅しでしかない。
「世界のあらゆる地域のあらゆる国家が決断しなければならない。われわれとともにあるか、さもなくばテロリストといっしょになるかだ」(「2001年9月20日、上下両院合同会議での演説)。

 なにも好きこのんで人々がテロリスト側にくみするわけがない。さりとて、ブッシュの語る「善」の側に立つのは、「堪えがたき人間の条件」なのである。

永遠の不服従のために(19)

9・11同時多発テロ後の世界(1)

 『不服従』の第3章の残りの3節は9・11同時多発テロが誘発したならず者国家アメリカにより引き起こされたアフガニスタンやイラクへの侵略戦争を始めとする数々の蛮行を取り上げている。この問題については私もかなり多くの記事で取り上げてきた。それらと重複する内容もあるが、一応全部読んでみよう。

 最初の節の表題は「ブタ」である。この節は第1章の「国家の貌」(ポチ・コイズミの悪政(1)・(2))の続編である。枕には宇都宮徳馬さんの言葉が引用されている。
ブタですよ、彼らは。
アメリカの夕力派は、中国やソ連に対して、つめもくちばしも持っている。
日本のは、アメリカの夕力派が獲物を食い残したのをあさっているだけの、つまりブタですね。
ブタが怒るだろうがね。
(宇都宮徳馬氏の司馬遼太郎氏への話から)

ブタで思い出したことがある。「『「非国民」手帖』を読む(1)」で『「非国民」手帖』の宮崎哲弥さんによる後書きの一部を引用したが、その中に次のような一文がある。
『辺見や「撃」の筆者たちからすれば「保守反動ブタ」に違いない私までも不眠症になりそうだ。』
 「保守反動ブタ」が辺見さんの使った言葉なのか「撃」の筆者が使った言葉なのか不明だが、『不服従』の「ブタ」はこの「保守反動ブタ」のことなのだ。本文を読んでみよう。

 小泉首相の面差しが、案の定、変わった。飲み屋の友人にいわせれば、あれは、すっかり「いっちゃった顔」なのだそうだ。目が据わってしまった。険がでてきたというか、勇ましくなったというか。変貌は、申し上げるまでもなく、同時多発テロ事件の2001年9月11日からである。ご本人は、むろん、覚えていまいが、駆けだし記者時代に、彼の立候補を横須賀で取材したことがある。つまらなかった。いうこともご面相も凡庸すぎて、さっぱり原稿にならなかった。いま、立派になったのかといえば、そうではない。まだあのころのバカっぽさのほうがましであった。ま、無害だったから。いまはこの国にとり、明らかに有害になりつつある。

 顔が変わったのは、戦争にやたらと血が騒ぐからであろう。だから、いわんこっちやない、といまさら書いてもはじまらないけれども、もとから特攻隊が好きだったりして、要するにそういう人なのである。子どもっぽいといえばそうだが、一国の首相なのだから、たまったものでない。米軍の報復攻撃を後方支援することや、「情報収集」のために自衛艦をインド洋に派遣することなどを決めた七項目のテロ事件対応策を、9月19日に発表したと思ったら、同21日には、海上自衛隊の護衛艦と掃海艇数隻に、作戦行動のため横須賀基地からインド洋に向かう米空母を、大した必要もないのに、史上はじめて、わざわざ護衛・随伴航行させている。作戦中の米艦船を自衛艦が護衛するのは、憲法が禁じている集団的自衛権の行使にはっきりと抵触しており、七項目の対応策のなかにも憲法違反の疑いの濃厚なのがいくつかある。小泉氏の引きつった顔は、「戦時」なのだから、とでもいいたそうだが、冗談ではない。米国の戦争が、すなわち、日本の戦争ではないのである。

 小泉氏にとっては、集団的自衛権の行使を戒めている憲法が邪魔で邪魔でしょうがないようだ。首相就任前には、改憲して行使できるようにすべきだと放言してみたり、就任後は憲法解釈の範囲内で行使できるといってみたりした。いまは、愛する米国の(とくに保安官ブッシュの)ために、自国の最高法規を犯したくて、いてもたってもいられないという様子である。米空母の護衛は、その既成事実つくり以外のなにものでもない。

 同時多発テロ事件後の小泉首相の言動は、明確な憲法9条および99条(憲法尊重擁護義務)違反であると私は思う。その首相が、9月27日の臨時国会所信表明演説で、だれが智恵をつけたか、憲法前文をことさらに引用して、あろうことか、米国の報復戦争に軍事的に協力することの、事実上の根拠としているのだから、いやはや、開いた口がふさがらないとはこのことだ。引用個所は前文の最後にあたる
「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。/日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」
である。
 この前文をどう拡大解釈したら、海上自衛隊のイージス艦をふくむ「支援艦隊」を、インド洋の米軍作戦海域に派遣するなどという、でたらめな構想がでてくるのだろうか。「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」からか。バカも休み休みいえ、である。これはまったくの恣意的引用であり、見えすいた牽強付会なのだ。引用は、つまり、故意に前のパラグラフを抜かして、報復作戦を念頭に「各国の責務」のみを強調しているわけだ。首相の引用個所は、前のパラグラフの
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」
という、第9条に通じる絶対平和主義の流れのなかでしか解釈が許されないはずなのである。道義のない報復戦争をやるべく、いきりたっている超大国を支援せよ、などとは、憲法のどこにも書いていないのである。

 この問題については、辺見さんは『抵抗論』で「憲法、国家および自衛隊派兵についてのノート」という表題でより詳しく論じている。その中から「人間相互の関係を支配する崇高な理想」について論じている部分を、私は『憲法前文について追記』で引用しているので紹介しておこう。

 建前は天皇の絶対を認めておいて、実際には天皇を利用するだけの者らを、藤田省三は、名著『天皇制国家の支配原理』で、「天皇制的俗物」と呼んだ。小泉氏をふくむ靖国好きの自民党幹部の大半がこれにあたるが、同時に、彼らは、建前は憲法を認めながら、実際には恣意的にこれを利用し、無制限の拡大解釈をしようとするだけの「立憲制的俗物」でもある。時勢がいよいよ危ういいま、「いっちゃった顔」の純一郎氏の言動にはとくだんの注意が必要ではなかろうか。

 にしても、靖国や特攻隊が大好きなこの国の夕力派連中は、同時に、どうしてこんなにも米国好きでいられるのであろうか。内向きには、米国なにするものぞといって胸を反らしたりしても、いざ訪米すると、お前はブッシュの幇間(ほうかん)かい、と首をかしげたくなるほど追随的になって、よせばいいのに、駅前留学1ヵ月程度の英語を口走ってしまったりする。リチャード・アーミテージ国務副長官という、知日派のくせ者は、そのあたりの、滑稽で哀しき夕力派の心性をよく心得ていて、日本の弱みにつけこんでは、今度の作戦では「日の丸」を見せてみろだの、集団的自衛権を行使できるように憲法をなんとかしろだのと、恫喝(どうかつ)をかけてきている。日本をまるで属国視しているような、こうした傲慢男の無理無体を、毅然と拒否できる政治家が、不幸にも、日本の現政権にはいない。逆に、アーミテージらの圧力により、米国の戦争への日本の加担は今後ますます深まりそうだ。憲法を武器に最大限の抵抗をするほかない。

 冒頭の「ブタ発言」は、國弘正雄氏の「追悼―政治家・宇都宮徳馬」(『世界』2000年9月号所載)からの孫引きである。故宇都宮・司馬対談は、1970年に行われたらしい。米国の獲物の食い残しをあさる日本の夕力派ブタは、それ以前も、その後も、いまも、やせたの肥ったのたくさんいて、ときどき、ブヒブヒと奇妙な英語で鳴いている。

 悲しいかな、辺見さんが危惧していた属国化はアーミテージの指示を忠実に実行している「アベコベ軽薄姑息うそつきカルト」政権によってますます酷い状態になってしまった。
永遠の不服従のために(18)

9・11同時多発テロ

 辺見さんは「コヤニスカッティ」という表題を付けている。枕は次の様になっている。
あのテレビ映像を見ていたら、ついつい、映画『コヤニスカッティ』を思い出してしまいました。フィリップ。・グラスの鎮魂曲が、十数年ぶりに耳の奥で低く鳴り響きました。
悲しみと不安と、そして、裏腹に、
快哉を叫びたくなる気持ちが胸にわきでてくるのを、
どうしても、どうしても抑えることができませんでした。(友人K・Sの葉書から)

 私は『コヤニスカッティ』という映画があることなど全く知らなかった。ウィキペディアがその映画のBeginningからEndingまで内容を詳細を紹介している。私は全文読んでみた。
『コヤニスカッツィ』
 辺見さんの本文にも書かれているが、映画の表題「コヤニスカッティ」はアメリカ先住民ホピ族の言葉で「常軌を逸し、混乱した生活。平衡を失った世界」という意味だという。映画の形式は「ナレーションや台詞が一切挿入されず、一連の映像とバックに流れる音楽の提示という形式で統一されていて、」映し出される現代人の生活様式がコヤニスカッティな映像となっているという。

 では、辺見さんの論考を読んでみよう。

 私には既視感があった。なぜだか、ずっと思いだせなかった。そうだった、あの映画だった。旅客機に突っこまれたニューヨークの世界貿易センタービルが、地響きたてて崩落する、これ以上はない大嘘のような光景。それが、フランシス・コッポラ製作、ゴッドフリー・レジオ監督のドキュメンタリー『コヤニスカッティ』に重なったのだ。あれを、1980年代にサンフランシスコと東京で都合二度観た。大都市のビルの取り壊しシーンばかりが、ひたすら繰り返される。栄華を誇っていた巨大構造物が、ダイナマイトで一瞬にして破砕され、醜い瓦礫の山と化してしまう。上空を絶え間なく雲が流れていく。高速度で影のように通り過ぎていく人と車。たしか、ところどころにロケットの打ち上げ風景もあった。破壊は悲しいけれども、いっそ爽快で、ロケットはなんだか滑稽に思えた。

 生々流転(しょうじょうるてん)というほど静かではない。やみくもにエネルギーを蕩尽(とうじん)しては、創造と破壊の両方に狂奔する人の世を、カメラは、嘆きも怒りもせずに、ほとんど虚無の眼で見つめていた。台詞もナレーションもスーパーインポーズもない。思いは、映像を見る者の胸にゆだねられた。サンフランシスコでは、スクリーンを見上げたまま、とめどなく涙を流している老婆がいた。あれは、喪の映像だったのだろうか。

 K・Sの正直な表現は、マスコミの偽りの常識を標準にするならば、不穏当とされるかもしれない。だが、じつのところ、少なからぬ人々の偽らざる内心を表しているように私には思える。葉書には
「多くの人の命を道連れに、米国の象徴的建物に突っこんでいったテロリストたちの、絶大な確信が哀しい」
ともあった。同感である。いく千人もの罪もない犠牲者を悼む気持ちは、この場合、むろん、前提なのである。さはさりながら、私は別の思いを抑えることはできない。それは、ある種の絶望である。すなわち、テロリストの「絶大な確信」のわけと、米国に対する、おそらくは億を超えるであろう人々のルサンチマンの所以を、あの、C級西部劇の主人公のような大統領は金輪際考えてみようとはしないであろう、ということだ。

 「コヤニスカッティ」とは、アメリカ先住民ホピ族の言葉で、「平衡を失った世界」という意味なのだそうだ。米国主導のグローバル化がいま、途方もない貧富の格差、環境・文化破壊を生み、グローバル化か進めば進むほど、逆にナショナリズムや原理主義が台頭するという反転現象が世界各地で起きている。まさに、コヤニスカッティなのである。グローバル化とは、「世界の米国化」の謂(いい)なのかと、われわれはここにきて気づきつつあるわけだが、件のカウボーイ大統領は人々の怨嵯などまるで眼中にない。温暖化や人種差別反対などの国際社会の努力に対し、米国の利害のみを中心にして反対し、一方ではパレスチナを武力攻撃しつづけるイスラエルの強硬姿勢を、事実上、積極的に後押ししている。

 このような人物から、世界の「善と悪」「文明と野蛮」について説諭され、指図されるくらい、不幸で不愉快なことはない。イスラム世界に偏頗(へんぱ)きわまる原理主義があるとしたら、ブッシュ大統領は、それにまさるとも劣らない米国原理主義者でなくて、いったい、なんであろうか。この男の標榜する、世界でもっともチープで身勝手で傲岸な「善」の側に、疑りもせずに身を置くこと、それこそが、さらなるコヤニスカッティを生むのである。保安官ブッシュの、極東における手下コイズミは、そのことを心すべきではないか。

 テロリズムとは、こちら側の条理と感傷を遠く超えて存在する、彼方の条理なのであり、崇高なる確信でもあり、ときには、究極の愛ですらある。こちら側の生活圏で、テロルは狂気であり、いかなる理由にせよ、正当化されてはならないというのは、べつにまちがっていないけれど、あまりに容易すぎて、ほとんど意味をなさない。そのようにいおうがいうまいが、米国による覇権的な一極支配がつづくかぎり、また、南北間の格差が開けば開くほど、テロルが増えていくのは火を見るよりも明らかなのだ。圧倒的な軍事力で激しく叩かれれば叩かれるほど、貧者による「超政治」として、あるいは弱者の戦略として、テロルはより激しく増殖していくはずである。だとしたら、ここは一切の感傷を排し、ニューヨークとワシントンにおける最初のスペクタクルを、より深く吟味してみるほうがまだ意味かあるだろう。

 あの同時多発テロにより損なわれたものとは、おびただしい人命のほかに、はたしてなにがあるであろうか。国家の安全、米国の威信と神話、絶対的軍事力の象徴、世界資本主義のシンボル……あるいはそれらすべての共同幻想……がことごとく、深く傷つけられた。だが、ハリウッドの監督たちも腰をぬかした、あの超弩級スペクタクルが意味したものは、それだけであろうか。私はもっともっとあると思う。

 それは、仮構の構成能力、作業仮説のたてかた、つまりはイマジネーションの質と大きさにおいて、今回の事件を計画・策定したテロリストたちが、米国の(そして世界の)あらゆる映像作家、思想家、哲学者、心理学者、反体制運動家らを、完全に圧倒したということではなかろうか。世界は、じつは、そのことに深く傷ついたといっていい。抜群の財力とフィクション構成力をもつ者たちの手になる歴史的スペクタクル映像も、学者らの示す世界観も、革命運動の従来型の方法も、あの実際に立ち上げられたスペクタクルに、すべて突き抜けられてしまい、いまは寂として声なし、というありさまなのである。あらゆる誤解を覚悟していうなら、私はそのことに、内心、快哉を叫んだのである。そして、サルトルやジル・ドゥルーズがあれを見たならば、なんといったであろうかと、くさぐさ妄想したことであった。

 同時多発テロが起こったのは2001年であり、『不服従』の出版は2002年だから、その頃にはまだ同時多発テロ陰謀説は広く知られていなかったかもしれない。実は私は陰謀説が論拠としているさまざまな事実から陰謀説を受け入れている。そのさまざまな事実はウィキペディアの『アメリカ同時多発テロ事件陰謀説』で確認することが出来る。さらに私は、度々サイト「マスコミに載らない海外記事」の記事を紹介してきたが、つい最近(2017年4月26日)の記事『アメリカを破壊した9/11』を読んで、その感がますます強くなった。
永遠の不服従のために(17)

不敬(4)

 辺見さんの著書『恥』の第3章「いまここにあることの恥」(これは2006年4月27日、毎日新聞社の「毎日ホール」で行なわれた辺見庸講演会「憲法改悪にどこまでも反対する」の講演草稿を修正補充したものだという)に「公共空間と不敬瀆神(とくしん)と憲法」という表題で「不敬」を取り上げている一節がある。その中から、『不服従』の「不敬1~3」を補強している「瀆神せよ、聖域に踏み込め」という一節を転載しておこう。

 不敬瀆神。神を汚す。これを私はネガティブにいっているわけではなのです。不敬瀆神は、思想や芸術表現のひとつの作法として、必要であるといっているのです。たちの悪いなにかが増殖拡大し、いわゆる聖域は温存され、あるいは新たにつくられ、その一方で公共空間が権力ないし権力化した住民や群衆に囲いこまれ狭められていく。私か客員としていっていた大学には、キャンパスのど真んなかにこういうことが書いてあった。「学内で反社会的な行為をすることを禁ずる」。私は久しぶりに大学へいったものですから、反社会的行為を禁ずるっていったいなんだろうと驚きました。なぜかというと、大学とはもともと、反社会的存在たることを余儀なくされている面があるし、それはそれで正常だと私は考えるのです。だからこそ私のような者も客員となったりもするわけですから(笑)。そんな大学構内で学生が反戦ビラをまく。また学生以外の人間がイラク戦争反対のビラをまく。それは反社会的行為なのだろうか。教職員がすっとんでくる。警察に躊躇なくすぐ電話する。パトカーがすぐきて捕える。そんなばかなと思う。大学という公共空間(であるべき場所は学生や教職員らの信じがたい無自覚もあって、どこも、そういうかたちでどんどん狭められている。いまやますますそうなりつつあります。こうした例は数えきれない。社会の動きにうとい私が知っているだけでも、たとえば、2003年4月、東京・西荻窪の公園の公衆トイレにスプレーで「戦争反対」「反戦」などと落書きした青年が現行犯逮捕され、あろうことか44日間も勾留されて、建造物損壊容疑で起訴されている。これは、2006年1月に最高裁判決がでて、たしか執行猶予つきながら懲役1年2ヵ月が確定しています。戦前、戦中ではあるまいにいくらなんでもひどい。2004年2月にも、東京・立川の防衛庁官舎で反戦ビラまきの市民グループ3人が住居侵入容疑で逮捕、起訴されていますが、枚挙にいとまがありません。全民的公共空間はどこでもなくなりつつある。

 日本では三権分立は絵に描いた餅にすぎない。下級審ではまともな良い判決が行なわれても最高裁まで行くと全くの詭弁判決でひっくり返ってしまう例が沢山ある。その嚆矢となったのが砂川事件である。この問題は《『羽仁五郎の大予言』を読む》の中の
『裁判は階級的である(1):過去の判例二つ』
で取り上げた。また、「全民的公共空間はどこでもなくなりつつある」判例の一つとして
『裁判は階級的である(3):新宿騒乱事件(1)』
を紹介しておこう。
 そのことと瀆神は関係があるのか。私はあると思います。靖国も皇居もそうですが、聖域というものが設置されれば、理の当然、公共空間はなくなる。私のいう「公共空間」とは、たんに外部的な地図上の空間のことではありません。われわれの内面にもある、だれもが共有できる公共空間、全民所有の公共空間のことです。そういう場所がもっともっとあるべきです。

 本来、新聞社も放送局も病院も大学も議会も、だれもが自由に出入りできる公共空間であるべきなのです。しかし、すべてを特権的閉域にしてしまった。まず皇居です。私たちは高い税金を払って、おそれおおくも皇室を維持したてまつっている。にもかかわらず、私たちは皇居にそもなにがあるかを知らない。若いときには「反戦」を唱えていた文化人が老いてから紫綬褒章かなにかを受勲して、平気で皇居にもらいにいく。旧社会党の議員でも反権力と見なされていた映画監督でも平気でいく。晴れがましい顔をしていく。ここには恥も含羞も節操もなにもあったものではない。そして聖域との共犯関係をつくっていく。自らも聖域の住人になった気になる。こうして公共空間は狭まる。共産党をえらいと思ったことはあまりないけれども、ちょっといいな、というより当然だと思うのは、受勲、それだけはお断りしますという態度です。他にも受勲を秘やかに拒んでいる人物たちがいる。私はそれが最低限の節操、廉恥だと思います。

 瀆神。「神」というのは聖なるもの一般です。別に天皇だけではない、いまよりも一歩進んで、サンクチュアリに踏みこむことが大事ではないかと思うのです。もし憲法を語るなら、憲法に保障された表現の自由を語るなら、あるいは思想および良心の自由を語るなら、なにものか聖なるものにまつらうのではなく、意識的に瀆神しなければならない。われわれの内面にある「開かずの間」をこじあける必要がある。

 欧州を理想化するつもりはまったくありませんが、たしか一部の国では、瀆神の権利が法律の原理としてある、神を汚す権利が人間存在の権利として法的に保証されていると聞きました。瀆神の権利。これは信教の自由とともに共同体の原理であるべきではないでしょうか。瀆神することによって、真の意味で人間の公共空間が広がっていくのではないでしょうか。

 辺見さんは「私たちは高い税金を払って、おそれおおくも皇室を維持したてまつっている。」と書いているが、「私たちは…どのくらいたてまつっているのだろうか」。『週間金曜日1135号』(5月12月号)に中嶋啓明さんが「天皇の"時給"っていくら?」という論考を書いている。生活費だけでもたいへんな金額になる。その論考の冒頭の部分を転載しよう。

「天皇の時給っていくら?」
 最近、ある集会でこんな話が出た。私も試算してみた。

 天皇、皇后と皇太子一家の「私的生活」費をまかなうとされる内廷費は年間3億2400万円。かりに1日8時間、年間260日の労働時間で1人あたりの"時給"を換算すると、3万円余。かなり単純化した上、彼らには宮廷費からも金がつぎ込まれる。実際はもっと高いだろう。

 集会は、反天皇制や反戦などを訴えるグループや個人でつくる実行委員会が4月29日に開いた「沖縄にとっての天皇制と日米安保」。天皇の"時給"は、非正規労働者らを支援するフリーター全般労働組合のメンバーが話題にした。反貧困を掲げる組合ならではの問題意識だ。

 集会の呼びかけ団体の一つ「反天皇制運動連絡会」は前日に出した声明で
「社会保障・セーフティネットの格下げを余儀なくされているこの社会で、特権階級は庶民感覚では想像もできないほどの税金を使って世代交代を行う」
「天皇の代替わりとは、皇室内部の身分を再編し、『格の高い』身分を増やし、庶民のなけなしの税金が湯水のように使われる、という話だ」
と指摘している。

 だが、こうした問題意識は、大手メディアにはかけらも見られない。相も変わらず、自らに都合よく憲法を利用し、オベンチャラに結びつける。……(以下略す。)