2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
永遠の不服従のために(39)

年若い死刑囚A君(2)

 b節は三番ブースでのA君との面談の詳細な記録である。最後には、その動機は不明ながら、A君が行なった殺人事件の概略が語られている。A君はある少女の母と祖母を殺したようだ。その2遺体はそれぞれ別の部屋にあった。不可解なことに、それを放置したまま、別の一室でA君と少女とその少女の妹の三人で食事をしたというのだ。一体何があったのだろうか。私はさっぱり分からない。ともかく「奈落b節」を読んでみよう。


 青年の赤ら顔から、大きな千重咲きの牡丹を、私は連想した。無残な花。それがさも嬉しそうに笑っている。彼には眉毛がほとんどなかった。長期の拘禁からくる精神の失調のために自分で毛をむしってしまったのか、持病のアトピー性皮膚炎のためにそうなったのか、両方が原因なのか、私は問うたことがない。たしか、もう28歳になっているはずだが、眉毛が抜けているために、それより幼くも見えるし、また、角度によっては、とても老けた顔にもなった。

 私は青年の笑顔にわずかでも翳(かげ)りがないか探した。間もなく死刑が確定するなりゆきであることは、彼自身知っているはずである。表面いくら笑っていても、翳りがあるのがごく自然であろう。だが、うまく押し隠しているのだろうか、眉間にも眼にも暗鬱な色はなく、むしろ晴れ晴れとしているようにさえ見えた。その顔に私は無沙汰を詫び、元気だったかと無意味に問い、そして、最高裁への意見書を書いていないことのいいわけのように、もう少ししたらアフガニスタンに行かなくてはならない、とややぶっきらぼうにいった。

 そうしたら、彼の表情がはじめて曇った。真剣な眼になって、「大丈夫なんですか。危なくないのですか」と訊いてくる。曖昧に私は笑う。奇妙ではないか。死刑を案じなければいけない若者に、アフガン行きを心配してもらっている。この男は、いま、自分の立場をよく了解していない。あるいは、わかっていないふりをしている。ほんとうは私のほうがいいたいのだ。〈大丈夫か。判決を待つって、怖いだろう。最後の判決だものな。どうしたらいいんだろうな〉と。それは、むろん、いわない。いえはしない。

 青年は私の答えを待たずに、問いを重ねてきた。「行きたいから行くんですか。行きたくないのに行くんですか」。面白い設問だと私は思う。透明アクリル板の向こうに私と向きあって座っている男は、心から人を死に至らしめたいと願って、死に至らしめたのではない。主観的な願望と現実のなりゆきは、いつもひどく異なる。彼の場合、極端についていない。幸運に見放されている。その差がほとんどすべてだ、と私はいつも思う。私が逆にアクリル板の向こうに座ることだってありえた、と面会のたびに、ほんとうに何度考えたことか。

 「行きたくないけど、行くんだよ」と私は答える。「運命だよ」と、オーバーにつけ加える。たかがアフガン行きなのに。「運命」という言葉に、青年の眼が幽(かす)かに反応した。それに私は怯み、「運命」を口にしたことを恥じる。彼は聡(さと)いから、それを感じとっている。でも、私の頭は考えている。この男と私と、どちらが先に死ぬだろうか、と。ちがいは、死が法的に約束されているかどうかだ。彼の「死」は、国家が彼に対し執行する殺人によりもたらされるのであり、それまでは、彼という身体は法により生かしておかれる。法によって生かされている間、彼はかたときも死の想像から離れることを許されない。私の"自由な死"と彼の死とを比較してはならない。私は私に吐き気がしてくる。

 かつてもそうであったように、私たちは事件についても公判についても一言も触れはしなかった。ただ、彼はこれまでは一度も問うたことのないことを、妙に慎重な言葉づかいで問うてきた。「どんな本を読んでおけばいいんでしょうね。なにかおすすめはありますか」。そのいいまわしに、ああ、覚悟しようとしているのだと私は感じ入ったものの、不意のことゆえ、答えがでない。青年は、すると、前言を翻(ひるがえ)すようにして、私がこれまで読んだもののうち、もっとも感動した本を教えてくれというのであった。私は即答せず、本を手配して、彼の母を通じ、それを渡すようにすることを約した。

 「ご無事で……」と男は最後にいった。〈逆だよ。それは俺のあんたへの台詞だよ。ご無事どころじやないけど〉と、私は口のなかでいい、言葉をかみ殺して呑みこんだ。係官に退出するよう促されながら、青年はドア口で私に深々と一礼した。大ばかで、ときどき乱暴で、ときにとても優しい、大きな熊の縫いぐるみが私にそうしているように見えて、私はたじろぐしかなかった。左耳の耳鳴りがまたはじまった。耳垢が落ちてきそうだ。

 私は彼にかんするほとんどの法廷資料を読んだ。上申書にも眼をとおした。彼のことをなんらかの形で書き、発表しようと思ったこともある。しかし、会っているうちに、私は私のまなざしと声音が厭になったのだ。彼を"極上ネタ"として扱い、理解のありそうな眼つきをしてみせ、猫なで声で安心させて、"心の闇"とやらをうち明けさせ、話全体を増幅し、歪曲し、単純化して、売れ筋の本に仕立て上げようとするあざとさが、心底、厭になった。そうした心の動きを、殺そう殺そうとして、ここまできた。だから、本件については青年にろくに問うたことがない。

 でも、ひとつだけ知りたいことがあった。事件現場のマンションの一室で、少女に導かれるまま、彼、少女および少女の妹の三人で、テレビを観ながら食事をしたときの心もち。上申書によると、少女が「三人分の茶碗にご飯を盛り、その上に目玉焼きがのっかったものと味噌汁をテーブルに並べて、そして、食事が始まりました」とある。そのとき、彼に包丁で刺された少女の母親は別室で血だらけになって横だわっていた。少女の祖母も死体で別室に臥(ふ)していた。少女は「おいしくないの?」と彼に訊いたという。彼は「いや、そんなことないよ」と答えて「なんとか、出されたものは、ひととおり食べました」というのだ。この、世にも静謐な最後の晩餐に、彼はなにを見て、なにを感じていたのか。いつか喪(うしな)った一家団欒(だんらん)の幻だろうか。目玉焼きの味はどうだったのか。にしても、少女の役回りはなんだったのか。彼女は一方の"主役"ではなかったのか。私はそれらを、詰めはしなかった。法廷もそれを明らかにはしていない。

 拘置所からの帰路、南千住で電車を降り、「首切り地蔵」にお参りした。最高裁で原判決破棄・差し戻しの判決がでますように、と。カラスたちが、間延びした、なんだか淫らな声で鳴いていた。私はよろよろと、数ヵ月前まで私が住んでいた近くのアパートまで歩いていってみた。電柱の陰に隠れて、かつて私がいた五階の部屋の様子をうかがった。左耳が痒(かゆ)くてしようがない。私が寝室兼書斎にしていた部屋の窓に人影があった。鋳(い)つぶしたような黒い顔だ。その男も、耳を掻いているように見える。左耳に人差し指を突っこんでごそごそやっているようだ。私は私の過去を見上げている気がした。

 四日後、最高裁は上告を棄却した。

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永遠の不服従のために(38)

年若い死刑囚A君(1)

 辺見さんが死刑廃止論者であることは『永遠の不服従のために(11):死刑廃止論(1)』『永遠の不服従のために(12):死刑廃止論(2)』で取り上げた。辺見さんはその立場から確定死刑囚・大道寺将司さんとの深い関り合いの記事をたくさん書いている。これまで、それらの記事も紹介してきた。

 ところで「戦争Ⅷ(最終)節」は、辺見さんが関わってきたもう1人の「年若い死刑囚A君」との関わりを通して、マスゴミ(ここでは辺見さんは「糞バエ」と呼んでいる)が戦争構造の構築に貢献していることを論じている。

 この「年若い死刑囚A君」についての辺見さんの最初の記事は第4章の「奈落」だが、「国家テロリズム」の記事と関連しているので第4章を飛ばして第5章「戦争」を取り上げてきた。そこで今回からカテゴリ名を「国家テロリズム」から「年若い死刑囚A君」に替えて、辺見さんとA君との関わりをまとめることにした。まず、「奈落」を読むことにする。

 「奈落」は<a・b・c>という3節で構成されている。「奈落」の枕として次の文が置かれている。
奈落は眼では見られない。奈落の暗さは恐怖の原因ではない。
視覚はこれらのイメージと何の関係もない。深淵は墜落から演繹される。
イメージは運動から演繹される。(ガストンーバシュラール『空と夢』宇佐見英治訳)

 a節の本文は臨時に宿泊したホテルで見た奇妙な夢の話から始まる。その夢は一審・二審で死刑を宣告されたA君のために書くつもりだった最高裁への意見書の作成が滞っていたことに対する蟠(わだかま)りを反映する夢だったようだ。

a
 いま住んでいるところから目的地まではとても遠いし、朝のラッシュに巻きこまれたくないので、入谷(いりや)の小さなホテルに前泊した。そうしたら、未明に腓返(くむらがえ)りになり、痛くて痛くて悲鳴を上げて、やっとそれがおさまったと思ったら、おかしな夢を見た。
「なにかの立食パーティーの最中なのに、左の耳の孔から、大小の藁屑(わらくず)や腐ったスポンジみたいな耳垢が、床にボロリボロリといつまでも落ちてきて、それは、じつはちょっとした快感をともなうものではあったのだけれど、人前ではやはり恥ずかしいから、手で左耳をふさいでみたり、虫みたいに床を這う大きな耳垢を靴の底で踏みつけて隠したり、さとられまいとするのに必死であった。朝、下りの地下鉄に乗っても、耳から耳垢が落ちてくる気配がするので、三ノ輪をすぎるあたりまで、ずっと乗客の視線を意識し、左耳を、携帯電話でもかけるように、手で押さえていた。
 次の駅は南千住だというアナウンスを右耳で聞き、念のため左耳を手のひらで隠したまま、あわててドアに突進する。降りようとしたのだが、そうなのだ、私はいま南千住には住んでいないのだ、と自分にいいきかせて、不審がる乗客の視線を避け、窓の外に顔を向けた。列車はもう地上部分にでていた。一瞬、駅近くの寺の、「首切り地蔵」の黒い頭がさっと眼の端に入って、消えた。しばらく見ない間に、ずいぶん煤(すす)けてしまったなあと思う。あの石の地蔵は、以前は、もっと大きかった気がするが……。江戸期には、電車が通過したあたりに刑場があって、何万人もが斬首、火刑などに処せられたのだという。怨霊も地霊も多くいるその界隈に、私は五年近く住んだ。電車は、委細構わず、霊たちを轢(ひ)いて進み、やがて荒川鉄橋でいっぱいの光を浴びてから、私の目指す駅に停まった。耳垢のことは、すでに忘れていた。」

 土手沿いの道を歩きながら、私は心のどこかで、あの青年と、結局は、会えないことを願っていたかもしれない。あるいは、会うのを拒否されることを。とてもではないが、顔を見る勇気がなかった。つまらぬ渡世にかまけて、もう何カ月も会っていない。つまり、私が面会をさぼっていたということだ。ことここに至って、どの面下げて会えるというのだ。これじゃ、体(てい)のいい儀礼にすぎないではないか。最期のあいさつというわけか。まったく、冗談じゃない。なにを話せばいいのか。顔をどうつくろえばいいのか。

 引っ越して、彼のところから相当遠くなってしまったこともある。多忙で体調をくずしたこともある。テロ事件と戦争のことに気を取られていたこともある。正直、疲労もある。性質の異なる惑いが、いくつか、重く固く結ぼれて、なにごとも億劫になったということもあるにはある。実際、ただ酒を呑んで遊んでいたわけではないのだ。胸の底には、いつも彼のことが水銀のように沈み滞(とどこお)っていた。ただ、躰が動かなかった。どうにも動かなかった。でも、これらはすべて、いいわけにすぎない。なぜなら、私はかつて心にいったんは固く誓ったのだから。来るべき時期が来たならば、最高裁にあてて意見書を書いてみよう、と。かりに、そのことがまったく無駄な行為であっても、死刑判決に反対する、説得力のある、しっかりした文章を書かなくてはならない、と。

 数日前からやろうとはしていたのだ。疲れた頭で、意見書を書きかけてはいた。そのころから左の耳がおかしかった。耳鳴りがずっとつづいていた。「検察側の調べ、起訴事実、審理過程全般につき重大な疑義があります」といったんは記した。たしかに複数の人々が犠牲になっているけれども、そもそも彼には殺意がなかったことを、何度も強調した。ただ、彼が、ある少女の磁力に引っぱられるようにして、惨劇に誘われていく、肝心のみちすじが、うまく書けず、はしょったままになっていた。

 死刑判決の趣旨とはまったく異なる彼の「人間性」にかんしては、初稿ではずいぶん書きこんだ。とくに、彼、つまり被告人がこれまで観た映画のなかでいちばん感動したというチャップリンの『ライムライト』について、わざわざあらすじまで紹介した。リウマチで脚をわるくして自殺未遂したバレリーナ、テリーのこと。自分の生活を犠牲にして彼女を励ましつづけ、ついにテリーを晴れの舞台に立たせて、みずからは死んでしまう芸人力ルベロのこと。カルベロのテリーへの言葉も引用した。
「人生を恐れてはいけない。人生に必要なのは、勇気と想像力と、少しばかりのお金だ」。
 それに感応する被告人の心根のありようについても長く言及した。『ライムライト』の部分は、しかし、意見書全体のなかで多すぎたかもしれない。

 意見書はしばしば中断を強いられた。テロと報復戦争のことを書く必要が生じたからだ。二つの原稿の関連性を、私はおのれに何度か問うた。無関係なのだが、まったくそうともいいきれない気もした。二つの原稿の優先順を私は思案した。〈それは、もちろん意見書を優先すべきだ〉と、頭のほうは、いわばまっとうに考えたのだ。だが、手のほうはしきりにテロと戦争のことを書いていた。頭のなかでは「極小」のテーマと「極大」のそれが、絶えずせめぎあったり、絡まりあったりしていた。最高裁への意見書を中断し、テロと戦争のことを書いているのは、論理的には正当でありえても、人間的には卑怯なのである。同じ無駄な情熱でも、テロと戦争についての文章表現のほうが、一審、二審とも死刑を宣告されている被告人をかばう文章よりは、よほどとおりがいい。だからこそ、卑怯なのだ。そうと知っていながら、私はブッシュとそれにつきしたがうコイズミに、原稿のなかで悪罵を浴びせつづけていた。人としての自分になかば呆れ、なかば軽蔑しつつ、報復戦争反対の「正義」を演じていた。意見書の提出は、結果、時間切れになりつつあった。四日後には、十中八九、死刑が確定する。賢い被告人は、まちがいなく私の本性を見抜き、怒り心頭に発しているはずであった。

 三番の面会室に入るようにスピーカーから指示があった。東京拘置所にはこれまで三十回ほど面会に来たことがあるが、三番ブースはこれがはじめてだ。殺虫剤の臭いがしないのにも気がついた。夏から来ていない。そうだ、もう冬なのだ。透明アクリル板の向こうのドアが開き、ぬっくり大きな男が係官とともに入ってきた。私と眼が合うと、満面に笑みを浮かべた。そう私には見えた。

永遠の不服従のために(37)

国家テロリズム(14)

 「戦争Ⅶ節」は辺見さんが飛行機でニューヨークからボストンへと出かけたときの経験談である。9・11以降のアフガニスタンなどへの侵略戦争のために各空港での入国審査や保安検査が厳しくなったが、その厳しさはある点では嗤ってしまうほどばからしさで行なわれていた。それは戦時体制下の国家のばからしの表徴と言ってよいであろう。

 まず、辺見さんは北京特派員時代に国家安全省の役人から受けた脅しのような扱いを思い出し、継いでニューヨークで入国審査官に提出する質問カードを成田空港で書かされた話に入っていく。次のようである。

 心臓が凍りついてしまうほどの恐怖と、逆にゲラゲラと哄笑したい衝動とが体内で同時に激しくせめぎあうという経験をこれまでに何度かしている。たとえば、ある朝二日酔いで寝ていたところを、突然、国家安全省の役人らに踏みこまれ、強制的に連行されたとき。北京特派員時代、ニュースソースを明かせという当局の要求を拒否していたら、報復なのであろう、そのような目に遭った。結局は国外退去処分とされたのだが、連行の途次では、たぶん殺されはしないにせよ、二、三年は身柄を拘束されるかもしれないなと想像した。すると、まず舌が口いっぱいに膨れ、頭蓋のなかでキーンという金属音が鳴り響き、臓腑の熱が一気に冷えていくような身体の失調があった。同時に、シャンパンの瓶を何度も振ってから一気に口を抜くように、大声で激発的に笑ってみたい衝動にもかられた。まったく相対立する二つの情動が同時に躰を襲うというのは、ふり返ってみれば、国家が幻想のベールをかなぐり捨てて眼前に登場したときの、私の生理的な癖のようなものかもしれない。カスのごとき存在である私に対し、しきりにいきりたつ国家というものが、怖くもあり滑稽にも思えてくるのである。

 先日、成田からニューヨークに向かった機内でも、私は引きつった笑いを低く声にだして笑っていた。入国審査官に提出するI―94Wというフォームのカードにいろいろ書き入れながらだ。印刷された米移民帰化局の問いには、
「犯罪活動あるいは不道徳な性行為を行うために米国に入国しようとしていますか?」
とあり、これにイエスかノーで答えなければならない。国是よりジョークを万倍も大事に考えている私に、この質問について笑うなというほうが無理というものだ。
「これまでに、あるいは現在、スパイ行為やサボタージュ、テロリスト活動ないしは集団虐殺に従事、参加したことはありますか、または参加しつつありますか?」
という質問事項もある。はい、従事しております、というばかがいるかい、といいたくなるが、9・11を思えば、笑っちやいけない問いなのだろう。けれども、ついうっかりイエスの欄にチェックを入れてしまう真面目で間抜けなテロリストがいたりして、と想像すると、とても笑いをこらえることができないのであった。

 次いでニューヨーク空港での入国審査である。

 そこまでは、まあ、それで済んだのだ。ニューヨークの入国審査官にパスポートと到着カードを渡すや、その係官の顔色が変わった。開口一番、「あんた、最近パキスタンに行ってただろう」と詰問してくる。反射的に「ソウ・ファッキング・ホワット?」(だからどうしたっていうんだい)とでもいい返したらさぞ気持ちいいだろうな、と思いはしたが、口のほうはお行儀よく「はい」と答えていた。次の問いは〈アフガニスタンにも行つたな〉であろうと先読みし、答えを用意していたら、ちがった。「(最終目的地の)ボストンになにしに行くんだ」と訊いてくる。面倒くさいので「か、かんこう……」とつぶやいたら、「観光のわけがないだろうが。なにか書きに行くんだろう。あんた作家だろう」と、たたみかけてくる。知っているなら訊くんじやないよ、といいかけてやめた。入国OKの雰囲気になってきたからだ。

 私は、月刊誌の企画で、ある人物に会うため担当編集者とともにボストンに行く途中であった。9・11以来、米国の戦争政策についていいたいことをいってきているから、じつのところ、米国入国は無理かもしれないとも思っていた。ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)として、入国拒否されることもないではないと予想していた。私としては、内心、拒否されたらされたで大騒ぎせずに、帰りの機内で、たとえばコーエン兄弟の新作映画でも観ながら泰然と引きあげようくらいに考えていたのだ。結果、審査官に多少からまれたけれども、入国はできた。そのことを私は当然だと思っているし、私がパキスタンに行こうがアフガンに入ろうが、いちいち咎められる筋合いのことではないと考えている。米国はべつに度量が広いのではない。私の入国はたんに当然のことなのである。

 次はニューヨークでボストン行の小型機に乗り換えるときの保安検査の厳しさを書き留めている。

 けれども、ニューヨークからボストンに行く小型機に乗り換える際の保安検査の厳しさといったらなかった。銃を手にした黒ベレー、迷彩服の兵士の前で、執拗な手荷物検査だけでなく、靴を脱がされ、靴底まで丹念に調べられた。しかも、一時間に二度も。同行の編集者は靴を脱がされてはいない。彼は私の眼つきがわるいからだというのだが、じつはちがう。私はまた笑ってしまったのだ。そうしたら真剣にセキュリティ・チェックをしている黒人女性と眼が合う、彼女がむっとする、同僚の検査官に目配せするという成り行きとなり、いやがらせなのか、私は再びチェックされたのだ。

 なぜ笑ったか。われながら説明が難しい。一回目の保安検査のとき、私は衝動的に二つのばか話をしたくなったのである。一つは、「ぼくがタリバンつてよくわかるねえ」。もう一つは、「カブールの空港じゃ、あんたがたの軍隊のシェパードに荷物検査されちゃってね。でも、その犬の鼻、乾いてたよ」。後者は事実だったのだが、二つとも、むろん、口にしてはいない。そんな雰囲気ではないのだ。保安係官の眼がすわっていた。明らかに「戦時」を意識している。いや、「平時」だってこの手のばか話はいやがられるにちがいないし、殴られるかもしれない。そう思うと、なぜだかかえって口にしたくなった。同時に、とても怖いのである。怖いと思えば、ますますしゃべってみたくなる。一つの躰で二つの矛盾する感情が格闘し、結果として、私はひとり喉でくくくと笑った。それが連中の気に障ったようだ。これは思想ではなく、私の生理のようなものなのだけれども。

 ボストンで聞いたのだが、こうした局面で似たようなジョークを飛ばした欧州からの観光客が、身柄拘束され、翌日強制送還されたケースもあったという。"反テロ戦争"の最中に、あってはならない不謹慎かつ悪質ないたずらだというわけだ。だからであろう、空港では執拗かつ無礼な保安検査にだれも文句をいわず、諦め顔で応じている。こうした場合、粛々として従うのは当然でありエチケットでもあろうという考えが大勢を占めてもいる。私は、しかし、ジョークを忌み嫌いはじめた国家は、一般に、危機に瀕しているのだと信じる。ばかにして笑ったとてなに悪かろう。だいたい、国家こそ最大のジョークみたいなものなのだから。

 日本の有事法制も、異議申し立てへの抑圧だけではなく、まちがいなくジョークの否定につながるであろう。笑うと怒られるぞ。そう思うと、なおのこと笑いたくなる。

 辺見さんが上のように予想していたことが、十数年後、ついに「共謀罪法」が大手を振ってまかり通るほどにまでなってしまった。やんぬるかな。
永遠の不服従のために(36)

国家テロリズム(13)

 「戦争ⅵ節」は谷川俊太郎の『詩ってなんだろう』の中の短歌を論じた一文の批判から始まり、教育現場における「君が代・日の丸の強制」という戦争構造完成の一翼を担う大問題を取り上げ、続いて最後に「悪徳政治家ムネオ」事件をめぐるマスゴミの体たらくぶりを批判している。辺見さんはそこに「裏返ったファシズム」を読み取っている。

 繰り返しになるが、私のブログは石原沈タロウ仕掛けてきた「君が代・日の丸の強制」をきっかけに書き始めた。その書き始めの記事を紹介しておこう。
『イシハラの教育支配の実態』

 では辺見さんの論説を読んでみよう。

 谷川俊太郎の文章に「たんか」という不思議なひとくさりがある。『詩ってなんだろう』という本のなかに、短歌の解説の体裁でさりげなく収められている。はじめて眼にしたとき、半透明の灰汁(あく)のようなものを感じ、考えこんだ。なんだか油断がならないのである。一部を紹介すれば、ざっとこんな調子である。
 あきののに さきたるはなを ゆびおりて
  かきかぞうれば ななくさのはな  山上憶良

 わがきみは ちよにやちよに さざれいしの
  いわおとなりて こけのむすまで

 かすみたつ ながきはるひを こどもらと
  てまりつきつつ このひくらしつ  良寬

 たんかは、はいくよりながい。五、七、五、七、七のおとのくみあわせ。  こえにだしてよんでみると、いみはよくわからなくても、きもちがいい。  たんかも、はいくもにほんにむかしからある、詩のかたち。(後略)

 「君が代」にひっかけて第二首についていいつのりたいから引用したのではない。「こえにだしてよんでみると、いみはよくわからなくても、きもちがいい」というのが気持ち悪いので、引いてみたのである。思いすごしであろうか、私にはこれが脅しのように聞こえてくる。結構ドスのきいた脅しに。実際、山上憶良と良寛の間に、「君が代」の原歌といわれる『古今和歌集』の「賀歌(がのうた)」にある歌をそっと配列したのが、詩人のいかなる作意からきたのかはわからない。ただ、なにかがこれにより効果的に整合することになったのは事実である。そのなにかは、見端(みば)の穏やかな言葉の水面にはあらわれていないけれども、よくよくのぞきこむと、水底のあたりで、おびただしい糸蚯蚓(いとみみず)のように、うごうごとしているのである。あるいは、気づくのが容易ではない灰汁、渋み、えぐみのようなものが水全体に漂っている。それに私は怖気(おじけ)だつ。「わがきみは」が「きみがよは」に変わったところで大差はない。したがって、「君が代」だって「こえにだしてよんでみると、いみはよくわからなくても、きもちがいい」とあいなるわけであり、この押しつけがましい情緒を、「たんかも、はいくもにほんにむかしからある、詩のかたち」と断じて補強し、文句はいわせないぞという語調になるからしまつがよくない。どだい、短歌を「こえにだしてよんでみると、いみはよくわからなくても、きもちがいい」というのが私にはわからない。次の二首(宮柊二『小紺珠』から)はどうだろうか。

 この夜しきりに泪おちて偲ぶ
  雪中にひたひ射抜かれて死ににたる彼

 応答に抑揚ひくき日本語よ
  東洋の暗さを歩み来しこゑ

 これらも「こえにだしてよんでみると、いみはよくわからなくても、きもちいい」だろうか。第一首はおそらく日中戦争の想い出、第二首は極東国際軍事裁判における被告人が英語による詰問に重く答えるようすであろう。これらとて「にほんにむかしからある、詩のかたち」だが、試みにやってみるといい。とてもではないが音吐朗々(おんとろうろう)と読めるものではない。私としては、詩の朗読だの詩の絶叫だの、詩のボクシングだのよりは、べつに思想ということでなく、趣味として
「百の手に觸れんよりは、十の眼に觸れん。十の口に上らんよりは、あはれ一の胸に上らん。朗讀せられんよりは、黙讀せられん」(斎藤緑雨『半文銭』)
のほうにくみする。この世には、喉の浅いところからの発声を拒む、なににせよたやすくはまつろわぬ言葉だって多数伏在しているのである。朗読や唱和による詩の「運動化」を私は怪しむ。詩人らは、かつてこの国に「国民士気の昂揚」という国策に沿った「詩歌朗読運動」というものがあったことを忘れてはならない。発声したい者はひとりでそうすればいいのであり、黙したい者に発声を強いてはならない。教育委員会のように強圧的に命じてはならないし、『詩ってなんだろう』の著者のように猫なで声で強いてもいけない。沈黙も発声と同等の大事な表現なのだから。
 ちょっと横道へ。私は宮柊二に『小紺珠』という歌集があることを知らなかった。だいたいこの歌集の表題はなんと読むのだろうか。気になるので、手元にある漢和辞典で調べてみた。
 「紺珠」の読みは「かんじゅ、こんじゅ」であり、その意味は
「手でなでれば記憶を呼び起こすという不思議の宝珠。唐の張説(ちょうえつ)が人から贈られたもの」
と説明されている。この故事の出典は「開元天宝遺事」となっている。

 辺見さんの論考に戻ろう。

 無口でとても気の弱い友人の中学教諭が、卒業・入学式を前に、独り衝動的に学校長に会いにいき、緊張でぶるぶる震えながら"君が代"は歌う自由も歌わない自由もあると生徒たちにいってやってください」と申し入れたのだそうだ。校長は満面笑みをたたえ、しかし、瞳は少しも笑わずに応じたという。
「みんなで歌うという気持ちが大切です。みんなで歌う感動を生徒たちに教えてやってください。批判は学校の外でやってください」。
 友人の気合い負けだったようだが、私は彼の勇気を尊いと思う。この種の発声は群れてやるより、つまり唱和するより、へどもどしながらもひとりですることで、発声主体としてはなにがしか得心するものがあるものなのではなかろうか。惨めでひどくつらくはあるけれども。

 学校では教員が校長の意向に沿うているかどうかを待遇に反映させる人事考課制度が導入されようとしており、「思想および良心の自由」も「表現の自由」もほぼ根こそぎ奪われつつある。見た眼は谷川俊太郎の詩のように優しく、何気ないのだけれど、この国のどの領域よりも早く不可視の戦争構造を完成しつつあるのが、教育現場といえるかもしれない。楯突く教員らは次から次へと処分されており、組合は日に日に反発力を失っている。そこでは「いみはよくわからなくても、きもちがいい」ことと「みんなで歌う感動」が、澄明で無臭のゼリーのように、先生たちの心と毛穴を塞いでいる。ウンペルト・エーコのいう永遠のファシズムはここにもある。

 校外ではいま、悪徳政治家ムネオ叩きが頂点に達しつつあり、まことに同慶の至りではある。戦争狂ブッシュの国会演説では野次一つ飛ばさず静聴した野党がこの時とばかりに勢いづいて、まるで鬼の首でもとったかのようにテレビその他で大はしゃぎ。マスコミはマスコミでなにを書いても大丈夫とわかるや、ムネオにさんざ呑まされ食わされした記者たちをふくめ一斉に薄汚れた手のひら返して、まあ、これでもかこれでもかと叩くこと叩くこと。しかし、何年も前からわかりきっていたことを、かつては書かず、いまになってみんなで一斉に報じる謎と恥については触れずじまいなのだ。「みんなで叩く感動」と「いみはよくわからなくても、きもちがいい」ことがここに横溢している。よく見ると、ファシズムが裏返っている。

永遠の不服従のために(35)

国家テロリズム(12)

 「戦争ⅴ節」もメディア批判がテーマだが、今回の論点は、若い新聞記者とのやり取りを反芻しながら、メディアの常套手段となっている両論併記方式の是非を検討している。この方式はテレビで多用されている。私はテレビの両論討論方式の番組は全く見ていないが、例えば東京新聞のテレビ番組解説ページに「反響」という読者投稿欄があるが、そこにはそうした番組を見た人たちが、喚き立てながら権力寄りの論者達が議論を主導してしまうような番組批判記事がよく掲載される。私はそうした投稿記事を共感しながら読んでいる。

 ところで、下の引用文中に、若い新聞記者が辺見さんへのインタビューに備えて、辺見さんの「『反時代のパンセ』をしっかり読んでいきます」と語るくだりがあるが、この『反時代のパンセ』とは辺見さんが『サンデー毎日』(2001年7月29日号~2002年8月18・25日号)に掲載した論考であり、いま教科書として用いている『永遠の不服従のために』はこの『反時代のパンセ』に加筆・訂正をして出版されたものである。

 それでは本文を読んでみよう。

 今度ばかりは長くぐずぐずしている。申しわけのないことをしたという気持ちが六割、あれでよかったのだという居直りが三割、残り一割は、ま、いいか、という、このところ濃くなるばかりの諦めの気分。一般的な論理の整合性からいえば、私のほうがまちかっていた。あの青年はかならずしもまちかってはいない。だが、心のうちで消えかかっていた炭火が突然赤黒く熾(お)きるように反発したのは、青年のそのまちがいのなさに対してなのだ。暗い怒り。我慢できないケースではなかったが私は抑えなかった。単に老いのせいなのかもしれないのだが。

 青年は全国紙の政治部の、たぶん、有能な記者だ。若さだろう、声音に濁りがない。あの声とてきぱきしたものいいから、ああ、少しの汚れもない白いワイシャッでも着ているんだろうなと想像してしまう。前にも彼に求められて選挙に臨む各政党に関するコメットを書いたことがあるが、会ったことはない。電話とEメール。ひどい世の中だ。これでかなり大事な交渉が済んでしまうのだから。今度は、電話ではなく、直接インタビューしたいといってきた。テーマは、「有事法制」。各界の幾人かが記者の問いに答えて持論を開陳する連載インタビュー企画で、取材にあたっては「反時代のパンセ」をしっかり読んでいきますなどと、焼きの回った男を泣かせる見え透いた手管もメールの文言にはあり、私としては、なめるんじやないよ小僧、と口ごもりつつも、さほどに悪い気はしなかった。加えてこの時期、有事立法についてはあらゆる機会をとらえて反対の意思を表明すべきだろうと思ったから、インタビューに応じることとし、日時場所まで決めたのだが、当日の朝になって私のほうからキャンセルした。

 自分のやったそのことが、衣服についたタールみたいに今日までずっと私を不快にさせている。最終的に断ったわけは、あらまし二つ。第一は、この企画がほぼ両論併記方式で掲載されるということをあとになって知ったからである。すなわち、有事法制反対論者と賛成ないし条件つき賛成論者の意見を、いくつかの例外があるにせよ、同一紙面にならべて載せるというスタイル。青年の所属する新聞社が近年来この方法をこよなく愛しているのは私もつとに承知してはいたが、よもや有事立法という国家が戦争にむけて完全武装して立ち上がり、あるべき人間的諸権利を暴力的に制限しようという、マスコミ人なら当然反対すべき悪法にまで、賛否両論方式を適用するとはまるで想像もしなかったのが当方の甘さだ。インタビューを求めるに際し、青年は私にそれをはっきりといわなかったし、私は私で新聞を購読していないから、友人に指摘されてそうと知ったのである。

 Pro and con(賛否双方)が一つの重大事をめぐり同じ土俵で議論するという方式は、米国のテレビ・ジャーナリズムがしばしば採用する著しく阿呆な"民主主義"の典型だ。まずもって報道する側の主体的判断を、"民主主義"を装って放棄するのである。主権国家に対する問答無用の軍事介入を前に、それが是か非かなどという非にきまっているテーマでも、このプロ・アンド・コン方式でディベートさせ、勢いづく好戦派を主催者側(多くはテレビ局)が批判もせず、結果、じつに数多くの無法な軍事侵攻、国家テロを"民主的"に後押ししてきたのが米国のメディアであった。それと、青年のいる新聞社がまったく同じだと私はいわない。後者のほうがおそらくはもっと無意識的に欺瞞に満ちているという点では、かえって手に負えないのかもしれないのだ。私はそうと知りつつ、コイズミ政権誕生のときや米軍のアフガン空爆開始などのさい、請われるままに絶対的コンの側からその新聞に原稿を寄せた。偽善バランスの一方の錘(おもり)なんだな、俺は、とぼやきつつ。

 プロ・アンド・コン方式は手ごわい。手続き的に遺漏(いろう)なくみえるこの方法は、その分だけジャーナリズムというよりむしろ行政的である。H・マルクーゼ(Herbert Marcuse、1898年 7月19日 - 1979年 7月29日、アメリカの哲学者)の口調を借りれば、民主的で、摩擦がなく、道理にかなった、いんちきなのだ。なにより社、記者、論者のだれも傷つかない。やり方はまちかっていなくても、人間的には卑怯ということがある。まして有事法制は、この国の戦争構造の構築と改憲に直結する、記者生命を賭けてもいいくらいの重大テーマである。下駄をふやけた"識者"にあずけてどうするのだ。プロ・アンド・コン方式は、むしろ有事法制賛成論の無責任な誘導につながるではないか――と、私はキャンセルの理由を青年にまくしたてた。青年は「それでもあなたに話してほしかった」と気落ちした声でいい、当方は当方で、たしかに、それでも私は話すべきだったのではないかと内心わだかまり、いまも気持ちが解れてはいない。電話ではあからさまな言葉は投げなかったけれど、私は彼に、おい、もっと破綻しろよといいたかったのだ。戦争なんだから、少しは楯突いて傷ついて挫折しろよ、と。

 この苦いやりとりのころ、私はウンベルト・エーコ(Umberto Eco、 1932年 1月5日 - 2016年 2月19日、 イタリアの小説家・エッセイスト)の『永遠のファシズム』(和田忠彦訳)を読んでいた。その気分もあって、ことさらにかたくなになったのかもしれないとも思う。インタビューをキャンセルしたことの、これが第二のわけだ。エーコは永遠のファシズム(原ファシズムともいう)の今日的特徴は「時にはなにげない装いでいる」ことだという。エーコは語る。
「いまの世の中、だれかがひょっこり顔を出して、『アウシュヴイッツを再開したい、イタリアの広場という広場を、黒シャツ隊が整然と行進するすがたをまた見たい!』とでも言ってくれるのなら、まだ救いがあるかもしれません。ところが人生はそう簡単にはいかないものです。これ以上ないくらい無邪気な装いで、原ファシズムがよみがえる可能性は、いまでもあるのです。私たちの義務は、その正体を暴き、毎日世界のいたるところで新たなかたちをとって現れてくる原ファシズムを、一つひとつ指弾することです」。

 そうだな、と私は思う。ファシズム菌は透明で、とても日常的なのだ。丸山眞男のいう「アズ・ユージュアル」(いつもどおり)のなかにも、なにげないファシズムが潜んでいる。マスコミのアズ・ユージュアルのなかにも永遠のファシズムが隠れている。日本の主要メディアはいま、無意識に、しかしながら、じつに大がかりに戦争に加担していると私は確信する。これに永く抗することのできるのは、手負いの個人しかいないはずだ。そのように私は青年にいいたかった。さはさりながら、気持ちは片づかない。私はやはりあのインタビューに応じるべきだったのではなかろうか。