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348 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(1)
戦後史学批判
2005年8月1日(月)


 これからお世話になる古田武彦さんの著書を改めて挙げておく。
『「邪馬台国」はなかった』
『日本列島の大王たち』
『盗まれた神話 ― 記・紀の秘密』
        (いずれも朝日文庫版)

 さて、古代史解明のための文献(『記・紀』、中国の諸史書など) を「一切の先入観を排し、まず原文全体の表記のルールを見出す。つぎにそ のルールによって問題の一つ一つの部分を解読する。」という「もっとも常 識的な」研究方法を、古田さんは一貫して自らに厳しく課している。

 しかしこの常識的で最も実り多いはずの方法が戦後古代史研究からすっぽり と落ちている。なぜか。津田理論を金科玉条の大前提としているためである。 その大前提となっている「定見」はつぎのようであった。

 『記・紀』には造作が多い。つまり、その神話や説話は、後代天皇家の史官 が勝手に造りあげたもので、その記述を直ちに史実と認めることはできない。
 それでは何を基準に史実か否かを判別するのか。中国の史書を頼るほかない。

 一例。
 宋書(5世紀頃)に、「讃・珍・済・興・武」と呼ばれる倭の五王が南朝劉宋 の天子に使者を送っている。五世紀のこれら王者たちは『記・紀』に書かれ た「応神・仁徳・履中・反正・允恭.安康.雄略」の各天皇のいずれかに当る にちがいないとし、戦後の研究者はこの比定を大きな拠点とした。
 この方法(日中両記事の〝結びつけ″)は、すでに江戸時代、松下見林とい う民間の学者が『異称日本伝』の中で試みているという、この松下理論が、戦後 史学によって、ふたたび取り上げられることになったというわけだ。
 古田さんは戦後の古代史学をリードした井上光貞の文を引用している。

 原則としていうと、倭五王に該当する五世紀の天皇たち以後、仁徳または 履中以後は、天皇の名ばかりでなく、続柄も、皇居も、后妃も、皇子女も、 代々正しく伝えられた所伝を記録したものとみてよいであろう」(『日本国家 の起源』)

 つまり、津田理論の『記・紀』批判をふまえたうえで、「『記・紀』のこ この部分は信用できる」といっている。「倭の五王」以前が濃い霧の中 で混迷しているのは、けだし当然というべきか。

 ところで、『記・紀』の「応神~雄略」の項には宋と通行していたという 記事はない。この不一致は一体どう説明すればよいのか。
 「『記・紀』の記事は信用できないのだから、一致しなくても一向に差し 支えない。一致するところだけ採用すればよい。」これが戦後史学が拠ってたつ 基本的な研究方法だ。自説と矛盾する文言に出会うと「それは後世の造作だ」 とか「それは記録者の誤記だ」とつじつまを合わせる合理化が研究と呼ばれて いる。単なるこじ付けとしか思えないような議論のもある。この方法の行き着く 極限として、古田さんは川副武胤という学者の例をあげている。「盗まれた神 話」から引用する。

 津田は「神武東征」の説話に対し、〝これは全く歴史事実とは関係がない。 皇室が「日の神の子孫」とされたため、たまたま字づらがそのイメージに合う 「日向」(宮崎県)という地名をえんで「神武東征の発進の地」に 仕立てあげた(ヽヽヽヽヽヽ)のだ″と主張した。 つまり、美しい文字づらがお話の展開のために利用されただけであって、実際 の宮崎県の地は、皇室の祖先とは全く関係がない ― こういうのである。

 このような津田の解釈の方法を『古事記』全面におしすすめたのが川副だ。 たとえば、神武以降各代の天皇の名に「日子(ひこ)」という字のつくものが 多い(カムヤマトイワレヒコ〔神武〕、シキツヒコタマデミ〔安寧〕等)。 これらはすべて「日の子孫」というイメージにもとづく作者の創作だ、という のである。それだけではない。「春日」「日下」をはじめ、「日」のつく 地名・神名・人名、また「日を背負って戦う」とか「末だ日出でざるの時」の ような「日」にちなむ句が『古事記』全面にちりばめられている。これらはす べて作者(丸邇臣(わにのおみ) の一族と推定)が造り出し、「日」をめぐる独自の構想をもって配置した 「天才的な頭脳の産物」にほかならぬ、というのである。

 川副があげた〝造語の秘密〟の一例をあげよう。彼によると、出雲神話の 神名を連想させる「一言主神」という神名は、「天皇」という字の変形だ、 という。その理由はこうだ。
 (1) 「一言主神」と「天皇」とは、両者とも字画の総数が13である。
 (2) 両者とも左右相称の字から成り立っている。
 (3) 「天皇」の文字は「天」の第一画から数えて第七画は、かぎ (曲)形であり、「一言主」も「一」から数えて第七画は同様である。
 (4) 「天皇」の文字をつぎのように分析してみる。
     ①一、②大、③白、④王。
 上の②、③の「大日」は〝大いにまうす〟と読み、〝天皇の「言」(ことば )〟の意味であり、「王」は「主」と同義だから、「一言主=天皇」である。 (川副「日本神話」341~2ページ)。


 すごい!まさに天才的な分析だ。しかし、素人の常識はこんなご都合主義の 言葉遊びのような理論を肯えない。このような研究方法をもってしてはいかな る真実も掘り出すことはできないだろう。
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349 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(2)
「倭の五王」とはだれか
2005年8月2日(火)


 ところで、「倭の五王」を「応神~雄略」に比定する「定説」は教科書に も載っている。学者の結論を信じて、私たちはそれを受け入れていた。しかし、 割り当てられた『記・紀』側の各王「応神~雄略」の和風の呼び名とも漢風 の諡号とも何の関係のない「讃・珍・済・興・武」という名をどのようにし て「応神~雄略」に結びつけたのか、疑問に思っていた。知りたかったが、 その説明に出会ったことがない。
 ところが「盗まれた神話」にそのことが取り上げられていた。

 以上のべたように、津田史学を始発点とし、川副理論を終着点としたのが、 日本古代史の戦後史学であった。それは敗戦後から現在まで、この約30年間(「盗まれた神話」 の出版は1975年…仁平)に出現した一切の古代史研究中の「定説」の座を占めていた。
 その中では、史実と『記・紀』説話とのくいちがいは、-遠慮せずにいえば-〝真面目に 考えられる〝ことがなかったのである。なぜなら、すでにくりかえしのべてきたように、津田の 「記紀造作」説を自明の前提としてきたからだ。しかし、意外な地点から問題は急旋回すること となった。日本古代の史実を示す基準として、疑いなきものとされてきた倭の五王や高句麗好太 王碑か、実は近畿天皇家とは無関係だということ、その事実が判明してきたからである。

 古田さんは「近畿天皇家」という言い方をしているが、私はいままで通り「ヤマト王権」とい うことにする。また古田さんはこの節では「倭の五王」と「高句麗好太王碑ひ」の2点の問題解明を しているが、まずは「倭の五王」の場合の驚くべき真相を伺おう。
 これまで五王を「仁徳~雄略」と結びつけてきた唯一の〝きめ手〝は「人名比定」だった。たと えば、五王の最初「讃」を例にとろう。これには「履中」説と「仁徳」説がある。
 まず、履中天皇にあてる論者は、履中の名「去来穂別(いざほわけ)」の第二音「ざ」を中国側 が勝手に抜き出して「讃」と表記したのだ、というのである(松下見林『異称日本伝』)。これに対 し、この「讃」を仁徳天皇にあてる論者は、仁徳の名「大鶴鶉(おおささぎ)」の第三・四音に当 る「さ」または「ささ」を切りとって、中国側が「讃」と表記した、というのである。
 これらの説の背景をなす、暗黙の前提はこうだ。つまり、日本側の長たらしい王名は、中国側 の名のつけ方に合わないので、中国風の一字名称(たとえば、魏の曹操の名は「操」)の形に強 引に直したのだ、という想定である。

 いやー、びっくりしたな、もう。こんな恣意的で脆弱な理論が定説の根拠だったとは! 従来の古代史学がまったく信じられなくなってくる。
 それでは「一切の先入観を排し、まず原文全体の表記のルールを見出す。つぎにそ のルールによって問題の一つ一つの部分を解読する。」という古田さんの研究方法による 結論ははどうか。
 上記のようなこじつけに疑問を感じた古田さんは、『宋書』全体の夷蛮(中国周辺の国々)の王名を 調査した。すると、四字・七字といった長たらしい名前の王名が続々見つかった。〝一音勝手切 り取り表記″など、『宋書』中、例がないという。
 阿柴虜(あしりよ)(遼東鮮卑)とか 舎利不陵伽跋摩(しやりふりようがばつま)(?達国)といった風に 4字・7字といった長たらしい名前の王名が続々見つかってきたのである。だから、もし「イザホワケ」 なら、たとえば「夷坐補和卦」といった風な、五字表記をするはずであって、〝一音勝手切り取り表 記″など、『宋書』中、例がない。そういうことがハッキリしたのである。つまり、従来「仁徳~雄略」 を五王と結びつける論証とされてきた唯一の鍵が、実は鉄の鍵ではなく、〝泥の鍵″だったというわけ である。

 「一切の先入観を排し」て判断すれば、従来の「定説」は誤りであり古田さんの説が正しいというこ とは、私には自明のことと思える。
 それでは「倭の五王」はどこの王なのか。
 そればかりではない。倭王武の上表文にあらわれている有名な文句、

東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。

は、中国の都(南朝劉宋の建康〔今の南京〕)を原点とした表記であり、近畿を原点としては理解 しえないことがわかってきた。
 なぜなら、倭王武は自分のことを二回も「臣」と書いている。中国の天子を中心にした大義名 分のもとに、この文面は作られているのだ。だから、「衆夷」とは、自分たち(東夷)をふくむ 周辺の倭人(九州)を指す表現であり、「毛人」はさらにその東(瀬戸内海西半分〔強〕)である。 近畿を原点とした従来の読み方では、倭王が自分を「天子」の位置におき、西を「夷」と称し、 すぐ東を「毛人」と称したこととなる。「東夷の国々」の一つとして記された倭国の記事として、 これは〝めちゃくちゃ〟としかいいようがない。こんなめちゃくちゃのままで、中国側が正規の 史書に記録する。こんなことは、断じてありえないのである。また、朝鮮半島南半部を指す「海 北」という表現も、九州を原点とした場合において、もっともスッキリすることはいうまでもあ るまい(これらの点、詳しくは「失われた九州王朝』第二章参照)。


 戦後の古代史学が深い霧の中で混迷し続けてきた大きな原因は「記紀は造作」説ばかりではない。 他の一つに、5世紀~6世紀の王権が「ヤマト王権」だけであり、その「ヤマト王権」が近畿周辺だけではなく、西 は九州から東の関東地方ぐらいまでの征服を果たしていたという誤った思い込みがあった。「ヤマト王権」一辺倒 の陥穽に落ち込んでいたのだ。
 「倭の五王」は九州王権の大王たちだった。
350 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(3)
「建国記念の日」=「紀元節」のバカバカしさ
2005年8月3日(水)


 記録しそこなった幻のバックナンバー「第334回」(7月17日)に書いたことで 2点訂正したいことがある。

第一点。
 そのときイワレヒコの即位年月日を誰がどのように計算したのかという長年持っていた 疑問を提出した。そのときは古事記や日本書記に記載されているヤマトの王の年 齢や在位期間などをこねくり回して計算したのではないかと思い込んでいた。 さにあらず、だった。

 日本書記のイワレヒコ即位の記事は次のようになっている。

辛酉年(かのとのとりのとし)の春正月(むつき)の庚辰(かのえ たつ)の朔(ついたちのひ)に、天皇、橿原宮に即帝位す。是歳を天皇の元年 とす。

 日本古典文学大系「日本書記・上」(岩波書店)の補注にこの記述についての 学説の紹介があった。この紀年問題をめぐって「多くの学説があるが、学界で最 も広く受け入れられている代表的な説」ということで、那珂通世(1851~1908) の説を紹介している。その部分を引用する。

 書紀が神武即位を上述のように定めたのは、中国から伝えられた讖緯の説に よるものであるとした。すなわち、三善清行の革命勘文に引用された緯書によ り知られる辛酉革命の思想では、一元六十年、二十一元一千二百六十年を一蔀 とし、その首の辛酉の年に革命を想定するのであって、この思想の影響の下に、 推古天皇九年辛酉より二十一元の前に当る辛酉の年を第一蔀の首とし、古 今第一の大革命である人皇の代の始年に当る神武の即位をここに置いたの である。その結果書紀の紀年は実際の年代よりいちじるしく延長され、不 自然に長寿の人物を多く巻中に出現せしめた。試みに神功・応神二代の紀 年を朝鮮の歴史と比較するに、両者の干支符合して、しかも書紀は彼より も干支二巡百二十年古いこととなっている事例が多多見出される、百済の 近肖古王以下の時代においては、彼の年紀に疑うべきところなく、これを 古事記に記入された崇神以下各天皇の崩年干支との関係と併せ考え、この 二代の書紀紀年は百二十年の延長あるものと考えざるを得ない、雄略紀以 後は大体朝鮮の歴史と符合するので、紀年の延長は允恭紀以前にとどまる とみてよかろう、干支紀年法は百済の内附後に学んだものと考えられ、朝 鮮との関係のない崇神以前の年代は推算の限りではないけれど、試に一世 三十年の率を以て推すに、神武は崇神九世の祖に当るから、崇神までの十 世の年数は三百年ばかりとなり、神武の創業は漢の元帝の頃(西暦一世紀 前半頃)に当るであろう、というのである。

 「蔀」だとか「首」とか知らない用語があるが、いまは「辛酉」の年に 「大革命」が起こるという中国の「讖緯(しんい)説」に依拠しているとい うことを知れば足りる。これをもって「建国記念の日」とは、笑わせるじゃ ないか。

 上記引用文中の「ヤマト王権」と朝鮮との関係、特に「肖古王」との関係は 「ヤマト王権」の詐術・欺瞞を解く大事な役割をする。いずれそれを取り上げ ることになる。

 ところで、この那珂説について古田さんが次のような辛辣なコメントを 寄せている。

 この那珂理論は、ことの、より重要な反面を故意か偶然か見落している。 あるいは欠落している。なぜなら「革命」とは、「前王朝を武力で打倒する」 事実を前提とした術語だ。その不法行為を「天命」によって合理化した言葉、 それが「命を(あらた)める」ことだ。すなわち、 これこそ天命が前王朝から我(打倒者)に移ったため、と称するのである。し てみれば、前王朝の存在なしに、この「革命」の語、もしくはその概念を用う ること、それは全くありえないことだ。
 だから、『日本書紀』の編者が神武即位に「辛酉」をもって当てたというこ と、それはとりもなおさず、「それ以前に、前王朝が存在した」という主張を ふくむことになる。むしろ、それを自明のこととして、前程しているのである。 その前王朝の仔細について書くのは、もちろん『書紀』の目ざさざるところ。 しかし、大義名分上の立場は右のごとし。疑う余地はない。

 してみれば、「わが国は、神武即位をもって建国された」というような思考 法 ― 本居宣長が強調し、平田篤胤が熱狂的に拡大し、明治維新政府が「紀 元節」としてこれを定式化した歴史観、そして今日の「建国記念の日」制定に 至るまで、これに盲従してきた人々の立場、それは決して『日本書紀』という 古典の立場ではなかった。八世紀の『書紀』の編者たち〔『古事記』はもちろ ん)は、後代の彼等ほどには、狂信的な皇国史観の持主ではなかったからであ る。(「日本列島の王者たち」より)


 「紀元節」のばからしさはさて置き、古田さんのコメントには 大変大事なことは含まれている。
 「それ以前に、前王朝が存在した」。「ヤマト王権」はその前王朝から権力 を簒奪したことになる。そのことについては、そ知らぬふりをしていたかった のに、日本書記がはからずもそのことを漏らしてしまったということだ。
 ではその「前王朝」とはどんな王権だったのか。
351 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(4)
倭人は1年に2度年をとった!
2005年8月4日(木)


 記録しそこなった幻のバックナンバー「第334回」(7月17日)に書いたことで 2点訂正したいことがある。その第ニ点。

 前回の那珂通世説の紹介文の中に、神武の即位を紀元前660年とした結果、 「書紀の紀年は実際の年代よりいちじるしく延長され、不自然に長寿の人物を 多く巻中に出現せしめた。」というくだりがあった。私もずーっとそのように思 い込んでいた。そこで「ヤマト王権」の初期大王の享年を古事記から調べて 在位合計年数を推測したものを、「第334回」の記事に掲載した。ところが、 である。

  魏志倭人伝の筆者・裴松之が倭人伝中に『魏略』から次の記事を引用している。

魏略に曰く「其の俗、正歳四節を知らず。但々春耕・秋収を計りて年紀と為す」

 古田さんの解説によると「正歳は陰暦の正月、四節は暦の上の春夏秋冬をさ す。つまり正歳四節とは陰暦の体系をさしている。」
 これに続く古田さんの論考は次の通りである。

 この文章は、すなおに理解すれば、倭人は「春耕」と「秋収」の二点を 「年紀」とする、つまり「一年に二回歳をとる」という意味だ。この解読の正当 なことを示すのは、倭人伝のつぎの記事である。

その人、寿考(ながいき)、或は百年、或は八、九十年。

 前にのべたように「或はA、或はB」の形は「AかBかである」という形だ。 つまり、倭人の寿命は平均「九十歳くらい」の長寿だ、というのである。従 来は倭人伝全体を「誇張のプリズム」を通して見てきた。だから、「ああ、 ここもか」で片づけられたのである。けれども、今はすっかりちがう。倭人 伝は実地の実際について、おそろしく正確なのである。一方『三国志』中、 死亡時の年齢の書かれているもの90名(全332名の2割7分)について、その年 齢を平均すると、「52.5歳」である。このうち、とくに高齢者であるた め記載された例をのぞくと、「30代と40代」が頂点となっている。
 これにくらべると、倭人は「約二倍の長寿」となっている。しかも、これを もはや簡単に「誇張」視しえない、とすると、どうなるか。その回答の鍵は、 先の『魏略』の文によって与えられる。すなわち、この「倭人寿命」の問題は、 魏使の「直接の調査・統計」によったとは考えられないから、当然「倭人の知 識」を聞いて書かれたのである。そのとき倭人の「年齢計算法」は、魏の「正 歳」の二倍、つまり「一年に二回歳をとる」方法だったのである(この間題は、 『日本書紀』・『古事記』の史料批判に対して深刻な影響を与えるものである。 これについては、別に執筆したい)。(『「邪馬台国」はなかった』より)


 たしかにこの事実は「『日本書紀』・『古事記』の史料批判に対して深刻な 影響を与え」ずにはおかないだろう。何の先入観にもとらわれずに『日本書 紀』・『古事記』の史料批判を綿密にやり直さなくてはなるなまい。古田さんの 諸説がその研究の結果というわけだ。

 というわけなので改めて「記・紀」の初期大王(イワレヒコから16代ホンダ ワケまで)の享年と在位年数を調べてみた。 (在位年数は日本書記による。直接の記載がない場合、私が計算・推測したも のなので正確ではないが、大きく違うことはないと思う。


   古事記  日本書記  在位年数
 1   137    127     76
 2    45     84     33
 3    49     57     38
 4    45     77     34
 5    93    113     83
 6   123    137     102
 7   106    128     76
 8    57    116     57
 9    63    115     60
10   168    120     68
11   153    140     99
12   137    106     60
13    95    107     60
14    52     52     9
15   130    100     69
16   130    111     41

合計  1583   1690     935

2で割ると
     792    845     467

平均年齢          平均在位数
     49.5  52.8     29.2

 平均年齢「52.5歳」「30代と40代」が頂点(度数のことだろう)という 同時代の中国の集計と比べて「誇大」という批判はあたらないことが分か る。
 また「第334回」で、イワレヒコの「東征」説話に歴史の投影があるとすれば、その時期は それは1世紀から2世紀ごろではないかと推測したが、その推測とも合いそうだ。

352 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(5)
会稽海外、東鯷人有り!
2005年8月5日(金)


 よく知られているように、弥生時代には二つの異なる文化圏があった。 「銅剣・銅矛・銅戈圏」(以下「銅矛圏」と略す。)と「銅鐸圏」であり、 その接した領域に「混合領域」がある。

青銅器圏図

 いわゆる「倭国」は北九州を中心とする銅矛圏の国家である。では銅鐸圏には 国家はなかったのか。もちろんあった。そして、もちろんそれは「ヤマト王権」 ではない。ヤマト王権が簒奪した前王朝である。その名は東鯷国(とうていこく)。「日本列島の大王たち」から引用する。

 倭国という呼び名が、中国の史書に現われていたように銅鐸圏の呼び名も、 同じくそこ(中国の史書)に出現しているのだ。

(A)
 楽浪海中、倭国有り。分れて百余国を為す。歳時を以て来り献見すと云う。 (『漢書』地理志、燕地)

(B)
 会稽海外、東鯷人有り。分れて二十余国を為す。歳時を以て来り献見すと云う。 (『漢書』地理志、呉地)

 (A)は『漢書』の中の一文だ。古代史の本や教科書などの各所に引用されてい る。著名だ。だが、なぜか、一対をなす(B)の一文が盲点の中にあった。
 見れば一目瞭然、両者は同質の文章だ。『漢書』がすべてこんな文体なのでは ない。この二文だけなのである。したがって一方は燕地((A))、他方は呉地 ((B))にありながら、同一の原資料にもとづいた引文もしくは叙述であること、 これを疑うわけにはいかない。だから、もし(A)をとりあげるなら、そしてその 内容を論ずるなら、当然(B)とワン・セットの形でとりあげるべきだ。そうせず に(A)だけとりあげて、学問的な判断、つまり史料批判など、できるわけがない のである。しかるに、日本の古代史学界のほとんどは、平然と(B)の存在を無視 してきた。これは大きな欠陥だった。
 では、(B)の東鯷人とは、何を意味する名前だろうか。「鯷」は普通〝なまず″だが、これでは意味をなさない。魚へんをとると、「是」、これには「是非」の「ゼ」と共に、「テイ」と読んで〝はし、かぎり″の意味がある。これだと、〝東のはしっこの人″の意となる(高句麗(『三国志』)は、高句驪(『同、帝紀』等)とも書かれる。馬の名産地であり、中国に馬を献上したからである。東鯷人も同類ではあるまいか。また、『三国志』の倭人伝でも、「度」と「渡」は共用されている)。


 この後、古田さんは「東鯷」という表記が現れる他の文献をも読み解いて、東鯷国が三世紀初頭までは中国の文献に現れているが、三世紀をもって中国への貢献 を断っている(つまりその存在を絶った)と結論している。
 ちなみに銅鐸圏も弥生末期(三世紀ごろ)をもって消滅している。