2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
(2007年3月8日からの「今日の話題」は5回に渡って「右翼イデオローグの理論レベル」を論じている。「右翼イデオローグの理論レベル」というカテゴリ名でまとめて掲載します。)

2007年3月8日(木)
右翼イデオローグの理論レヴェル(1)

 東京新聞が「試される憲法 60年」という連載を行っている。毎回いわゆる識者が一人ずつ登場してそれぞれの改憲についての意見を開陳している。

 昨日は八木秀次であった。この右翼イデオローグは「新しい歴史教科書をつくる会」の会長を務めていたことがあり、いまは「日本教育再生機構」理事長だそうだ。政府の諮問機関「教育再生会議」と紛らわしいが、「日本教育再生機構」は右翼巨大団体「日本会議」傘下の民間組織である。つまりヤギは「日本会議」の教育部門のトップ・イデオローグということになる。

 このセンセイが「試される憲法 60年」で書いている内容は右翼イデオローグたちの主張の最大公約数を極めてシンプルに分かりやすくまとめたものとみなすことができる。時間と金の無駄だから、私は右翼イデオローグたちの著作物を買ったり読んだりしたことはない。断片的に得た知識だけでの判断だけど、そう間違ってはいないと思う。

 まずヤギセンセイのご高説を読んでみよう。(文頭の番号は後ほど利用するために私が付けたものです。)

守る国柄前文で表現すべき

(1)現行憲法は、敗戦の産物として日本の歴史から切り離されて生まれたものです。

(2)前文では、米国の独立宣言とそのベースとなった(英国の哲学者)ジョン・ロックの「市民政府論」を借用し、個々人の生命、自由、財産を守るために国家をつくったという論理を展開している。

(3)しかし、それでは国防は説明できない。国防とは、国民が生命さえ犠牲にして国家の連続性を確保することだからです。

(4)前文では自然、歴史、伝統、文化、宗教といった国柄を表現するべきです。連続する国の姿をうたう。そうでないと「守るべき国とは何か」が分からなくなります。

(5)今の前文には「再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」と「われらの安全と生存を保持しようと決意した」と「決意」という言葉が二回出てくる。過去を否定し、自分たちで国を守るという当事者意識が欠落していることの表れです。

(6)本来、国家とは観念的なものです。多民族、多宗教、多言語の人たちは、国家という観念を常に意識して忠誠を誓う。それは国家を壊さないための努力です。北海道には北海道の、沖縄には沖縄の自分たちの具体的な経験から生じる愛郷心がある。それとは違い、日本人意識や愛国心は観念です。

(7)国家や国民、愛国心という観念を共有し、次世代に継承するには強制が不可欠です。例えば、歴史的名場面を子供たちに「読みなさい」 「考えなさい」と教える。観念は自然任せでは継承できないからです。

(8)若者たちがネットで表現する排外的な激しいナショナリズムは、愛国心の美しい作法を知らないためです。

(9)護憲派は憲法九条が戦後の平和を守ってきたと言うが、現実は自衛隊と在日米軍によって保たれてきた。今では国民の大多数が、北朝鮮や中国という極東アジアの脅威に対する抑止力の必要性を理解し、九条と乖離(かいり)した現実を支持しています。

(10)愛国心を否定し、同胞意識が希薄だったが故に横田めぐみさんは拉致され、帰ってこない。戦争を避けるためにも、法治国家としてきちんと守りきれる憲法に作り替えるべきです。

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2007年3月11日(日)
右翼イデオローグの理論レヴェル(2)

(1)現行憲法は、敗戦の産物として日本の歴史から切り離されて生まれたものです。

 大日本帝国の敗戦はまぎれもなく日本の歴史上の一大事件だ。その敗戦を契機に新しく制定された憲法を「日本の歴史から切り離されて生まれたもの」と断ずるとはなんともトンチンカンな論理だ。

 文脈に沿って好意的に解釈してみよう。

(2)前文では、米国の独立宣言とそのベースとなった(英国の哲学者)ジョン・ロックの「市民政府論」を借用し、個々人の生命、自由、財産を守るために国家をつくったという論理を展開している。

と言っているところから推測すると、欧米の国家理論を下敷きに創られたものだから「日本の歴史から切り離されて」いると言いたいらしい。本当はお得意の決まり文句「押しつけ憲法」と一刀両断に切り捨てたいところだろう。最近はこの決まり文句は威力がなくなってきている。憲法が制定されるまでの経緯がより正確に研究されてきて、単純に「押しつけ憲法」と裁断することができないことが明らかになってきた。(例えば《米国の属国・日本》(8)『囚われたる民衆』参照して下さい。また、単純に「押しつけ憲法」と裁断することができない証拠をもう一つ知りました。次回追記として紹介する予定です。)

 もしも、『欧米の国家理論を下敷きに創られたものだから「日本の歴史から切り離されて」いると言いたいらしい。』という私の読みが当たっているとすれば、これもおかしな論理だ。それじゃ、大日本帝国憲法も否定せずばなるまい。あれはドイツ帝国憲法を下敷きにしている。

 ヤギ先生のご専門は憲法学と思想史だそうだ。「米国の独立宣言」とかロックの「市民政府論」とかをもち出してその大いなる博学振りを披露しているが、「個々人の生命、自由、財産を守るために国家をつくった」とはあきれたね。憲法学者の言とはとても信じられない。せめて「個々人の生命、自由、財産を守るために」憲法を制定したというべきでしょう。しかし、日本憲法前文をどう読んでも「個々人の生命、自由、財産を守るために」憲法を制定したなどどいうハスッパな解釈は出てこない。それらしいくだりを引き出すと「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」とか「われらの安全と生存を保持しようと決意した。」とかだろうか。一部分だけを抜き出して恣意的に解釈するという詭弁はポチ・コイズミが自衛隊のイラク派遣時に使っていた。辺見庸著「抵抗論」から。

 首相は記者会見中に憲法前文を記したらしいメモをやおら取りだし

「憲法をよく読んでいただきたい。憲法の前文、全部の文章ではありません。最初に述べられた、前の文、前文の一部を再度読み上げます」

と前置きして

「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」

と、病んだ羊たちのように弱々しく、飼い主にどこまでも従順な記者団を前に、さも得意気に朗読したのである。この国最悪の憲法違反者が国民に憲法をよく読めと説諭する。靖国をこよなく愛する好戦的デマゴーグがわれわれに憲法をよく読めという。戦後史上もっとも屈辱的な時ではあった。

 ところで、首相が読み上げたのは、憲法前文中の第二段落の最後のセンテンスからであった。奇妙ではないか。憲法前文中、もっとも重要な前段の文章二十行四百数十字を故意に省いてしまったのだから。肯繁(こうけい)に中(あた)るのでなく、肯繁をわざと外したのだ。この点に関しては首相はじつに周到だったのである。小泉が作為的に省略した個所には

①政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する

②そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する

③日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した

といった文章がある。首相はすなわち、国民主権、人権尊重、平和主義という憲法の三大ポイントのすべてを捨象し、一部のみを牽強付会していわゆる、「国の理念」「国家としての意思」「日本国民の精神」を捏造し、これらを肯んじない人々を威嚇しつつ、自衛隊派兵を正当化したのである。首相およびそのグループによる、これはまことに計画的な犯行以外のなにものでもない。

 さて、ヤギ先生はどうしてこういう詭弁を羅列せざるを得なくなるのか。事実からものごとを考えるのではなく、はじめに所与の観念(しかも普遍性のない間違った観念)があり、事実をその観念に合わせようとするからだ。どんな観念論的学者にも学ぶべきものがあるものだが、このセンセイからは全く期待できないだろう。

 「個々人の生命、自由、財産を守るために国家をつくった」という浅薄な前文解釈は次の文章を引き出すためであった。

(3)しかし、それでは国防は説明できない。国防とは、国民が生命さえ犠牲にして国家の連続性を確保することだからです。

 つまり国防とは「個々人の生命、自由、財産を守る」ことではなく、「国家の連続性を確保すること」であり、そのために国民は命を投げ出せ、というわけだ。これも実に珍奇な国防論だ。国民が命をささげるべき「国家の連続性」って、一体なんだ。

(4)前文では自然、歴史、伝統、文化、宗教といった国柄を表現するべきです。連続する国の姿をうたう。そうでないと「守るべき国とは何か」が分からなくなります。

 「自然、歴史、伝統、文化、宗教といった国柄」が「連続する国」だと言う。今までにも何度か指摘してきたことだが、全ての御用学者・右翼イデオローグが国家を語るときに共通の詭弁・論理的詐術が行われている。いや、本人たちは詭弁だとは思っていないのかもしれない。真っ当な理論だと思っているのだろう。

 「国家の連続性」の「国家」が、「連続する国」と「国」にすりかわっている。意識的な詐術でないとしたら、科学的国家論を欠くための理論的混乱だ。このような通俗的な国家観でよくまあ憲法学者が務まるものだ。

 近代国家による戦争はあくまでも国家間の戦争だ。昭和の15年戦争は大日本帝国の戦争であり、大日本帝国という国家は敗北して消滅した。国家は決して連続などしていない。しかし、その敗北にもかかわらず、このヤポネシア列島の自然と、そこに生を営む人々の「歴史、伝統、文化、宗教」は滅ぶことなく伝えられ、発展し、生まれ変わっていく。国家が滅びても国は残る。「国破れて山河あり」とはそういうことだ。太古の昔からそうである。

 もちろん、大日本帝国のしでかした歴史は、生まれ変わった日本国が継承し、その責を担わなければならない。そういう意味でなら「国家」も連続している。

(5)今の前文には「再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」と「われらの安全と生存を保持しようと決意した」と「決意」という言葉が二回出てくる。過去を否定し、自分たちで国を守るという当事者意識が欠落していることの表れです。

 珍奇な論理のオンパレードだな。「決意」という言葉が2回でてくることが「当事者意識が欠落している」証拠だそうだ。じゃ、1回なら「当事者意識が欠落して」いないの? 3回ならどうなの? というようなつまらぬ揚げ足取りをしたくなるようなもの言いだな。

 ヤギ先生の「国家の連続性」の継承には「決意」ではなく「強制が不可欠」だそうだ。なるほど、当事者意識に満ち溢れている。
2007年3月13日(火)
右翼イデオローグの理論レヴェル(3)

 ヤギ理論の批判はサラッと1回で終えるつもりだったのが、次から次と言いたいことが出てきて思いがけず長くなってしまった。あとどのくらい続くか分からない。チョッとしんどいなあ、という気分もある。が、乗りかかった舟、最後まで行ってみよう。

(5)今の前文には「再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」と「われらの安全と生存を保持しようと決意した」と「決意」という言葉が二回出てくる。過去を否定し、自分たちで国を守るという当事者意識が欠落していることの表れです。

 「過去を否定し、自分たちで国を守るという当事者意識が欠落している」の主語は誰でしょう。文脈から「われら」すなわち憲法前文全体の主体たる国民ということになる。これもヤギ先生の言わんとするところを斟酌申し上げると、「過去を否定し」という物言いから「自虐史観者」を指しているようだ。

 しかし、憲法の「われら」や「自虐史観者」は「過去を否定し」ているのではない。過去をしっかりと見据えているからこそ新憲法が制定され、それを保持しようとしている。(私個人としては天皇条項を除いてという条件付の支持だ。)過去をしっかりと見据えることはちっとも「自虐」ではない。

 歴史を直視することに堪えられず、「過去を否定し」隠蔽し捻じ曲げることこそ「自虐」というにふさわしい。そうした「自虐」者はその代償に自慢すべきことを欲する。どうしても「自慢史観」が欲しい。それで探し当てたのが「自然、歴史、伝統、文化、宗教といった国柄」というわけだ。

 それぞれの国にそれぞれの「国柄」がある。そこに生を営む者にとってそれは肯定的に護っていきたい部分もあるし、変えていきたいものと批判的なる部分もある。そして実際にそれらは不変ではなく時代とともに進歩あるいは退歩する。

 どこの「国柄」が優れているとか劣るとかの比較は無用だし、そんな比較になんの意味もない。それでもことさらに自慢したければ自慢してもいささかもかまわない。しかしあくまでも個人的な問題だ。その「自慢」を憲法の前文に掲げるというのはなんともトンチンカンな話だ。憲法というものを勘違いしている。憲法学者ヤギは、科学的な国家論を欠く上に、近代国民国家における憲法の意義をもまったく誤解している。ナカソネ私案も自滅党案も、保守反動派の改憲案は同じ誤解の上に成り立っている。憲法は国民が国家のあり方を規制・拘束するものではなく、国家が国民を規制・拘束してお説教を垂れるものだと思っている。そんな改憲は全面否定するほかない。

(追記 2016年12月21日)
 現憲法を「押しつけ憲法」と裁断することができない事実をもう一つ知った。

 『囚われたる民衆』で利用した「『天皇制』論集」に公法研究会による「憲法改正意見」という論文があった。この論文の前文には次のよう書かれている。
「(憲法は)施行二年目までに日本人民の手で再検討が加えらるべきものであることは、公布当時、極東委員会の見解として新聞紙上に伝えられたところである。ところが遺憾ながら、今までのところでは日本人民の間から改正意見が活発に表明されているとはいえない状態である。」

 ここに出ている「極東委員会の見解」を知りたいと思い検索をしたら『「押しつけ憲法論」は成り立ち難い』さんが取り上げていた。転載しておこう。

 現行憲法の公布は1946年11月3日のことでした。そして、その憲法が施行に移される年の1月3日に当時の総理大臣吉田茂はマッカーサーから次のような書簡を受け取りました。

親愛なる総理
 昨年一年間の日本における政治的発展を考慮に入れ、新憲法の現実の運用から得た経験に照らして、日本人民がそれに再検討を加え、審査し、必要と考えるならば改正する、全面的にしてかつ永続的な自由を保障するために、施行後の初年度と第二年度の間で、憲法は日本の人民ならびに国会の正式な審査に再度付されるべきであることを、連合国は決定した。もし、日本人民がその時点で憲法改正を必要と考えるならば、彼らはこの点に関する自らの意見を直接に確認するため、国民投票もしくはなんらかの適切な手段を更に必要とするであろう。換言すれば、将来における日本人民の自由の擁護者として、連合国は憲法が日本人民の自由にして熟慮された意思の表明であることに将来疑念が持たれてはならないと考えている。
 憲法に対する審査の権利はもちろん本来的に与えられているものであるが、私はやはり貴下がそのことを熟知されるよう、連合国のとった立場をお知らせするものである。
 新年への心からの祈りをこめて
                  敬具

ダグラス・マッカーサー
袖井林二郎「マッカーサー=吉田往復書簡(一)」『法学志林』77巻4号(古関彰一「新憲法の誕生」中央公論社から孫引き)

 マッカーサーは単に「連合国の決定」と書いていますが、これは実際にはこの前年1946年10月17日のFECの「憲法の再検討規定に関する極東委員会決定」のことです。

 古関の「新憲法の誕生」によれば、この決定の公表に対してはGHQのみならずアメリカ本国政府にも根強い反対があったということです。マッカーサー書簡の文面からは読み取れませんが、FECの決定だから不承不承通知をしたということかもしれません。

 憲法第14条の「法の下の平等」に関連して刑法から「大逆罪」や「不敬罪」といった皇室に対する罪が削除されることになったとき、これにもっとも強く抵抗した吉田茂ですから、マッカーサーのこの書簡は渡りに舟だったはずなのですが、なぜかこの書簡にはそっけない返事を返しただけでした。

親愛なる閣下
 一月三日付の書簡たしかに拝受致し、内容を仔細に心に留めました。
    敬具

  吉田 茂
 吉田茂は、2年目の期限間近の1949年4月末の国会答弁でも「極東委員会の決議は直接には私は存じません。承知しておりませんが、政府においては、憲法改正の意思は目下のところ持っておりません。」と答弁しています。(書簡、国会答弁、ともに、古関「新憲法の誕生」から)

 吉田は憲法に対しては、ついに「押しつけ憲法論」の立場をとらなかったといいます。1946年5月22日から翌年の5月24日まで総理の職にあり、憲法の国会審議・公布・施行に至る全過程を見てきた経験から見れば、「押しつけ憲法論」など、ばかばかしくて取り上げる気にもならなかったのかもしれません。

 「施行二年目までに日本人民の手で再検討が加えらるべきもの」とされといたのに、国会も学者たちも全くこれを無視していたのだ。つまり日本人民は新憲法をそのまま歓迎していたことを示している。公法研究会の論文が書かれた日付は1949年3月20となっている。憲法が施行されたのは1947年5月3日だから憲法の再検討をすべき期限が押し迫っていた。

 公法研究会の前文は次のように続いている。
「 われわれ公法研究会の会員は、昨年春以来、憲法の研究に従事して来たが、その際一番問題になったのは、現在広く行われている解釈の中に、ポツダム宣言の精神に違反すると思われるもの、従って現在の日本の政治的構造の基本規定と認め難いものか少なからず存在するということであった。われわれの研究の成果は何れ機をみて発表したいと考えるが、とりあえず、その一端として、われわれの問題にしたところを憲法改正意見として公にし、一方では右のように解釈上異論の起る余地をなからしめると共に、この二年間の日本人民の政治的成長に鑑みて、憲法を少しでもポッダム宣言の今日における意義に適するように改めたいと考えた。これが改正意見の極めて簡単な要旨を、しかも憲法第三章までの部分だけを、取急いでここに発表する理由である。これによって憲法を、自分自身の問題として絶えず真剣に考えてゆくというわれわれ日本人民の権利が、正しく行使されることになるであろう。各方面からの忌憚のない批判を期待したい。」

(機会があれば、公法研究会の「改正意見」を転載しようと考えています。)
2007年3月14日(水)
右翼イデオローグの理論レヴェル(4)

(6)本来、国家とは観念的なものです。多民族、多宗教、多言語の人たちは、国家という観念を常に意識して忠誠を誓う。それは国家を壊さないための努力です。北海道には北海道の、沖縄には沖縄の自分たちの具体的な経験から生じる愛郷心がある。それとは違い、日本人意識や愛国心は観念です。

 混迷ぶりはますます深い。「本来、国家とは観念的なものです。」だって?! 行政府も官僚機構も議会も観念的なの?!  おいおい、この人正気かい?! もちろん、「日本人意識や愛国心は観念です。」 でもさあ、「愛郷心」だって「観念」だぜ。

 まあいいや、ここもヤギ先生の言わんとするところを斟酌して、できるだけ土俵を近づけてみよう。

 ヤギ先生があげている「自然、歴史、伝統、文化、宗教」に産業・流通など経済的な社会基盤も付け加えて、「国柄」などという抽象的な概念ではなく、『国家の起源とその本質(3)』で取り上げた<協同社会性の最大かつ最高の範囲>という意味で、<共同体>と呼ぼう。もちろん、この共同体は国家ではない。ヤギ先生に限らず右翼イデオローグ(その典型は小林よしのり)は「国」と「国家」をゴッチャに恣意的に使っているが、「国家」とは峻別して、この共同体を「国」と呼ぶなら同意しよう。私が「国」というときはこの意味で用いている。

 ところで(6)ではヤギ先生はこの共同体の<協同社会性>=<国家>と考えているらしい。そう解釈すれば、確かに「国家とは観念的なもの」ということになる。最も耳目に入りやすい通俗的な国家「観」である。とても国家「論」とはいえない。

 次の「多民族、多宗教、多言語の人たちは、国家という観念を常に意識して忠誠を誓う。それは国家を壊さないための努力です。」は何を言いたいのだろうか。「多民族、多宗教、多言語の人たち」で構成されている「国」(その典型としてアメリカ)では、<国家>=<協同社会性>を常に意識的に保持しようとしなければ、<国家>=<協同社会性>は崩壊すると言っている。

 大方の右翼イデオローグは日本を「単一民族」国家だと言い、それが「自慢史観」の一つの重要な要素になっている。保守反動政治もよく単一民族を自慢する。しかし歴史をまともに見ることができる人には、この日本単一民族説を信じるものはいない。

 この点ではヤギ先生は他の右翼イデオローグとは違うようだ。北海道と沖縄を持ちだしているのはただ単に「北は北海道から南は沖縄まで」という意味合いだけではなく、アイヌ民族と琉球民族を暗に指し示していると読むのはうがちすぎだろうか。アメリカほどではないとしても、日本も「多民族、多宗教、多言語」の国と認識しているから、愛郷心と愛国心が違うことをことさら強調し、<国家>=<協同社会性>を常に意識的に保持していくためには共通の国家意識や愛国心を必要とする、と言っている。ただしここの文脈でもそうだが、右翼イデオロギーでの愛国心は正確には愛「国家」心というべきだ。

 愛郷心が愛「国家」心に発展するとか、愛郷心の総和が愛「国家」心であるとかいう論よりヤギ先生の方がいくらかましだ。ここで共同体の<協同社会性>は所与のままでは保持できないという点をもう少し掘り下げると、ヤギ先生の国家「観」は国家「論」に昇格するのになあ。そのためには、観念論的思考をやめて科学的思考を採用すればいいのですよ。つまり、「多民族、多宗教、多言語」共同体であろうとなかろうと、共同体の<協同社会性>はそのままで「なかよしこよし」というわけにはいかない。それはなぜかと問い、事実に即して考えを発展させればよい。(以下は滝村国家論の復習です。)

 その事実とは、完成的な近代国家を成り立たしめている共同体(近代的市民社会)は支配階級と被支配階級という二つの階級権力を軸として諸階級・階層間の対立・抗争・闘争をしているという一事である。この敵対的な協同社会性を非敵対的な協同社会的秩序のもとに束ねなければならない。それは<幻想上の協同社会性>というイデオロギーのもとに統御するほかない。それを可能にするのが、二大階級権力の上に立つ<第三権力>としての国家である。これが『国家の起源とその本質(2)』の主題である<共同体-内-国家>である。

 しかし国家という社会構成は内部だけで閉じることはできない。他の社会構成と直接切り結びせめぎ合う対外的諸関係を避けるわけにはいかない。内的な<政治的社会構成>は、擬制的な<幻想的共同体>として組織された<外的国家>として構成されざるをえない。これが『国家の起源とその本質(3)』の主題である<共同体-即-国家>である。
2007年3月15日(木)
右翼イデオローグの理論レヴェル(5)

(7)国家や国民、愛国心という観念を共有し、次世代に継承するには強制が不可欠です。例えば、歴史的名場面を子供たちに「読みなさい」 「考えなさい」と教える。観念は自然任せでは継承できないからです。

 たまたま今朝の東京新聞の「発言」(読者投稿欄)にヤギ先生と正反対の主張が掲載されていた。

 価値観の強制 教育に反する

 愛国心教育は不要という意見があります。私は愛国心の是非と、それを公教育で強制的に行うことの是非は別問題と思うのです。

 私は愛国心教育に反対ですが、愛国心は持っています。日本の文化伝統を愛しています。それは私が自由意思で持つ感情であって教え込まれたものではありません。何であれ、一つの価値観だけを子どもに強いることは、教育本来の目的に反します。

 強権的な愛国心教育は、軍国主義に向かう流れであることは歴史が証明しています。学校式典における君が代歌唱についても、歌そのものの良否よりも、それを権力によって強制されることが問題なのです。そのような観点で考えたいと思います。

ごく真っ当な歴史認識や感性の持ち主の平均的な意見だろう。ヤギ先生のご高説はこのような一市民(Aさんと呼びます。)の意見とどうして正反対なものになるのだろうか。いままでの検討でもう明らかでしょう。

 Aさんは愛「国」心を論じているのに対して、ヤギ先生は愛「国家」心を論じている。だからAさんの愛「国」心は「自由意思で持つ感情であって教え込まれたもの」ではない。ヤギ先生の愛「国家」心は、国家の本質を隠蔽して、国家の幻想的な<協同社会性>を共同観念として強制しなければ国民に共有化されない。

 ヤギ先生の教育とは「幻想的は共同観念」を強制的に植えつけることなのだ。近代日本の学校教育は強迫教育として始まった。ヤギ先生の教育論は100年前からよみがえってきたゾンビの教育論だ。

『我輩は素より強迫法を賛成する者にして、全国の男女生れて何歳に至れば必ず学に就く可し、学に就かざるを得ずと強ひて之に迫るは、今日の日本に於て甚だ緊要なりと信ず……強迫教育法の如き必ず政府の権威に由て始て行はる可きのみ』(福沢諭吉「学問之独立」)

 そしてさらにヤギ先生は強迫教育の要は偽装自慢歴史教育であると考え「新しい歴史教科書をつくる会」の会長として偽装自慢歴史教科書をでっち上げた。もちろんその教科書も100年前からよみがえったゾンビ教科書である。

『日本歴史ハ本邦国体ノ大要ヲ知ラシメテ国民タルノ志操ヲ養フヲ以テ要旨トス』(1891年「小学校教則大綱」)

 日本は天皇によって建国されたことを強調し、天皇に忠義を尽くした武将・軍人・政治家などのエピソード集のような教科書で愛「国家」心を植えつけようというわけだ。

(8)若者たちがネットで表現する排外的な激しいナショナリズムは、愛国心の美しい作法を知らないためです。

 「盗人猛々しい」とはこういうことを言う。自慢史観と排外的な他国蔑視は同じメダルのうらおもてだ。扇動しておいて知らぬ顔の半兵衛を決め込もうっていうわけだな。どたい愛「国家」心に「美しい作法」なんかあるものか。愛「国家」心を存分にふるってご活躍の政治家・官僚・財界人の醜悪ぶりは新聞紙上に絶え間がない。

(10)愛国心を否定し、同胞意識が希薄だったが故に横田めぐみさんは拉致され、帰ってこない。戦争を避けるためにも、法治国家としてきちんと守りきれる憲法に作り替えるべきです。

 この最後の段落は支離滅裂だ。牽強付会に過ぎるから支離滅裂になる。こんな愚論の補強のためにも拉致問題を利用しようとはあきれるぜ。拉致問題は、隣国を敵視するばかりで真っ当な外交努力を怠ってきた歴代政府の無能さのツケだ。

今日の話題2:『外交の本随』を参照してください。)

 最後に「法治国家としてきちんと守りきれる憲法」というのもワケの分からない文章だな。「守りきれる」の目的語は何だ? 文脈からは「横田めぐみさん」となるが? あるいは「戦争を避けるためにも」とあるから「自国」かな? どちらにしても変な文章だ。その理由は「法治国家」にある。「法治国家」とは<共同体-内-国家>に関する概念であり、拉致問題や戦争は<共同体-即-国家>に関わる事項である。その2種類の国家概念ゴッチャにして論じているから、意味の通らない文章となる。

 教訓。
 科学的国家論を欠いた国家論・政治論は支離滅裂となる。

(追記 2016年12月23日)  「右翼イデオローグの理論レヴェル」は今回の(5)が最終回だったがその八日後(2007年3月23日)に『今日の話題:学者先生の浅薄な国家意識』を書いていたことを思い出した。この記事での学者先生は小林節・慶応大学教授(憲法学)で、右翼イデオローグではなくリベラルな学者です。この記事を書いた当時は小林さんについて詳しいことは知らなかったが、つい最近、戦争法案に真っ向から反対して、著名になっている。安倍政権打倒を掲げて政治団体「国民怒りの声」を設立して、その団体から比例代表で参院選に出馬したが惜しくも落選した。尊敬すべき学者ですが、論理的におかしい発言があったので、批判したのが上記の記事でした。一応紹介しておきます。