2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
(追記 2016年12月10日)
 (2007年2月15日~19日の「今日の話題」は、「囚われたる民衆」というカテゴリ名で掲載することにします。)

2007年2月15日(木)
焼け跡で生まれた憲法草案

 ビデオに撮っておいたETV特集「焼け跡で生まれた憲法草案」(NHK教育テレビ 10日放送)を観た。

 鈴木安蔵、岩淵辰雄、室伏高信、馬場恒吾、高野岩三郎、杉森孝次郎、森戸辰雄という7人の学者・ジャーナリストが「憲法研究会」を立ち上げた。第一回会合は敗戦約3ヶ月後の1945年11月8日にもたれている。7人はそれぞれ思想信条を異にしているが、戦中に厳しい言論弾圧を受けていたことで共通している。

 その番組は、彼らがまとめた憲法草案がGHQの草案に大きく影響していたという主旨の内容であったが、私は「高野岩三郎」という名に注意を引かれた。

 7人の討論の過程で一番問題になったことはやはり天皇の扱いだった。主権在民をはっきりと打ち出すことには異論なく一致したが、それと天皇制とは相容れない。結局は「象徴天皇制」に落ち着くが、実は天皇制廃止を主張した人がいる。高野岩三郎である。

『デモクラシーと君主政治は到底調和すべくもない。反動的分子が天皇を担ぎ上げて再挙を計ることも決して絶無なりとは断じがたい』
と言い、大統領制の草案を会に提出している。『国民感情を配慮する』と国民の支持は得られまいという理由で、これは他のメンバーの入れるところとはならなかった。

 「象徴天皇制」では天皇に政治的権力はないが、それが主権在民、特に「思想・良心の自由」と相容れない矛盾を露呈して、高野の杞憂が現在、杞憂に終わらない状況になりつつある。憲法に天皇条項を残した瑕疵が今大きくなろうとしている。

 さて、「高野岩三郎」という名が私の記憶の片隅にあった。資料として度々利用している『「天皇制」論集』に高野岩三郎による「囚われたる民衆」という論文がある。そこに大統領制の憲法草案が記録されている。初出は「新生」(1946年2月号)となっている。これもその番組で知ったのだが、「新生」は「憲法研究会」のメンバーの一人・室伏高信(政治評論家)が発刊した雑誌だった。

 次回から何回かに分けて、高野の論文「囚われたる民衆」を全文紹介しようと思う。(実は私はその論文をまだ読んでないので、何よりも自分のためであります。)
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2007年2月16日(金)
高野岩三郎著「囚われたる民衆」(1)

(読みやすいように新たに段落を設けたり、段落間を行空けしました。)

囚われたる民衆
            高野岩三郎


 アメリカ連合軍司令部の眼には、わが国民はほとんど済度し難い囚われた民衆であるように映ずると想像されるのであるが、私自身の眼にもはなはだしく鳴滸がましい言い分であるが、また同様に写るのである。それは何故!? この点に関してまずしばらく私ども一家の経歴について言説するを許されたい。

 ここで私どもというのは亡き兄高野房太郎と私との両人を指すのである。約十年前私は、当時大阪市天王寺畔に在った大原社会問題研究所内の講堂において「本邦最初の労働組合運動」と題して亡兄の労働組合運動について一場の講演を試みたことがあったが、昨昭和20年12月、また大阪に毎日社の主催にかかる「毎日文化講座」において私の少年時代の回顧を談じ、始めにおいて同様の話をした。その速記はおそらく近日同社より公けにされるはずであるから、詳細はそれについて承知されたい。

 講演の趣旨は高野房太郎の組合運動たるや、労働組合の理論および意義に共鳴しつつも、単に時世の波に便乗しいわば興味本位に努力したものにあらずして、同人の社会的および個人的境遇よりして、自然発生的に没頭するに至ったものであるという点を解明するにあったのである。

 そもそも私ども両人は共に明治の初年長崎市に生まれた。兄は明治元年、私は明治4年、市の中心銀星町の一町家に生を享けた。

 元来長崎はいわゆる天領すなわち旧徳川幕府の直轄地である。したがって大村藩・佐賀藩というがごとき旧藩主その下に立つ藩士の階級存在せず、いわば束縛なき一自由都市たる観があった。しかもまた開港市であり、支那人、オランダ人、ポルトガル人、ロシア人等の多数外人との交流繁き国際都市であった。それにまた私どもの生まれ落ちた家族は職人階級に属していた。父は和服裁縫師、母は米小売商人の娘であった。すなわち私どもは国際的自由都市の職人仲間の町家の家庭に生まれたわけである。

 しかるに父の長兄高野弥三郎なる者は、明治の初年郷里を出でて横浜におもむき、当時岩崎弥太郎の創立した三菱汽船会社の傘下における一回漕店を始めたのであるが、事実隆盛にして協力者を必要とするに至りしかば、私ども家族を長崎より呼び寄せることとなった。そこで私どもの両親は私ども両人に長姉を加わえ家族合わせて五人にて父祖以来長く住み馴れた郷里を後にして東京に上り、神田区浅草橋畔、神田久右衛門町に落ち着き、万事叔父の世話を受けて回漕店兼旅人宿の営業を営なむこととなった。私どもの小学校教育は共に近くの千代田小学校に受けたのである。

 かくて国際的自由都市の中心において町人の家に生まれた私どもは、さらに東京の真中で下町ッ子として不規則極わまるしかも奔放闊達なる教育のうちに育て上げられた次第であって、私どもの独立自由・負けず嫌いの強きを挫き弱きを助けるという幡随院長兵衛的気象はこの境遇環境の中よりおのずから養成されたものであろうと、自認せざるを得ないわけである。

 かくて私どもは比較的順境のうちに小児時代を経過したのであるが、好事魔多し、明治12年虚弱なりし父は齢39歳をもって死亡した。しかし37歳の若さで未亡人となった母は健康無比かつ男勝りの婦人であったので、叔父の援助の下に姉と二人して家業を継続せしが、明治14年神田松枝町の大火災 - 一万二千軒を一嘗めした大火災 - のために家は焼け蔵は落ち私ども親子四人は素裸の姿となって街頭に放り出されたのである。

 しかるに叔父はあくまで私ども一家の面倒を見、類焼後間もなく日本橋浪花町に家屋を建築して従来の旅人宿営業を継続せしめた。兄は小学校八年の課程を修了して卒業後叔父の横浜の店におもむき店員として従事したるが、明治18年この大黒柱たる叔父は急死した。かつその前年長姉は良縁を得て遠く九州唐津在に嫁したれば、無資産同様のわが家計を支え母と私の二人を扶養するの責は兄の肩上に懸かることとなったので、兄は奮然志を立てて明治十九年北米サンフラソシスコに渡り、微々たる日本品商店を開きしが、いくばくもなく失敗に終わり、明治20年一旦帰朝しおもむろに再挙の策を講じようとした。

 しかるにその間私は僥倖にも第一高等中学校の試験に及第して同年9月予科三級に入学するを得た。しかしこれは母の扶養に加えて私の学資を支弁するの責を兄に負わしめることとなったのである。ここにおいて兄は同年末再び米国に渡ったが、爾来十年間苦心惨憺、米国の各地に転々してあらゆる労働に従事し、その得たる収入の一部を割きて毎月私ども親子の家計費と私の学資とを貢いだのである。これによって、私はその後一高五年の課程を終え、直ちに進んで東京帝国大学法科大学政治科に入り、明治28年7月大学を卒業し得たのであった。

 これに反して兄は小学八年の科程を修めたるにすぎないのであるが、サンフランシスコにおいては商業学校に通学し、また経済学関係の図書を少なからず購入して自修独学に怠らなかった。

 かくて、私の大学卒業により兄の負担の一半は軽きを得るに至ったので、兄は米国の一小砲艦の乗組員として艦内の労務に従事しつつ欧米の各港を視察して、明治30年、十一年の遍歴の後帰朝したるが、いくばくもなく片山潜君と共に労働組合運動に身を投じ、後さらに消費組合の運動にも従事した。しかし前者は治安警察法の発布によりその発展を阻まれ、後者は資金の欠乏により成績不振に陥り、ついに兄は両運動より退ぞき、明治33年北清事件を機として支那に渡航し、各地を転転し、ついには山東省青島に落ち延び、明治37年同地において病死したのである。

 以上高野房太郎の経歴の大要を語ったのであるが、その滞米の十年間にわたる諸種の労働の体験と、当時米国における労働組合運動- サミュエル・ゴムパースのひきゆるアメリカ労働総同盟(Samuel Gompers American Federation of Labor) - の興隆に興味を感じかつゴムパース氏自身とも相知るに至り、帰朝の年明治30年の夏(1897年7月)同氏より日本における組合総組織者(authorizedand legally commissioned to act as General Organizer for Japan)たるの委嘱を受け、帰朝後いくばくもなく組合運動に従事したることは前述のごとくである。

 上来述べたるところによってもって、読者諸君は高野房太郎なる人物が出来合の労働組合主義者にあらずして、反対にその生立ち境遇等より自然発生的にこの運動におもむきたるものであることを容易に了解されるであろう。かくして高野房太郎は熱烈なる組合主義者であったけれども、彼は協同者片山潜君と異なり、社会主義者ではない。単純なるゴムパース流の組合主義者であった。

管理人のつぶやき「高野岩三郎に興味があって読み始めましたが、兄上の岩崎房太郎も興味深い人ですね。」
2007年2月17(土)
高野岩三郎著「囚われたる民衆」(2)


 再言する、亡兄の労働組合運動は自然発生的であると。ちょうどこれと同様にまた私の民主主義観は自然発生的である。けだし兄は、すでに述べたように、明治19年日本を去り、爾来十余年間故国の実際より遠ざかっていたが故に、同期間、すなわち明治27、8年の日清戦役前後におけるわが社会的変革、殊に状勢ないしその雰囲気にはほとんど触れ得なかったのである。

 しかるにこれに反して私は生立ち境遇教育幼少時代をまったく兄と同じうしたる私は、わが国に在りて時代の雰囲気を満喫し、そのうちに青年時代を経過したのである。すなわち明治27、8年前後の私の青少年時代にはわが国にはフランス流の自由民権論旺盛を極わめ、国会開設要望の声は天下を風靡した。貴族もなく、財閥もなく、しきりに打倒を叫ばれたのは、薩長藩閥打破、すなわち近来の用語をもってすれば軍閥打破の声であった。

 この時代にはまた一方に帝王神権説を唱うるものあれば、他方には主権在民・共和政体論を主張するものありというありさまであった。当時集会も言論も始めは自由であって、政談演説余は盛んに催おされて民心を鼓舞したのである。

 かくのごとき社会状勢のうちに立って、天領すなわち藩主という頭の押え手なき土地、しかもまた国際的都市の比較的自由開放の天地に生まれ、やや長ずるや東京の真中に来て、下町気分町奴気風を吸収した私のごときものが、青年の血を沸き立たせ、民主主義を謳歌し、その実現の促進に熱情を注いだのもまた当然であろう。

 当時君臨せる明治大帝に対してはすこぶる親しみを覚え、敬愛の情切なるものありしが、それ以上何ら神懸り的威厳を感じなかったというのが私ども平民の率直なる感情であったのである。しかるにその後に至りようやく窮屈な形式的神懸り的・国家主義的風潮浸潤し始め、ついには最近時代に至り軍閥の跋扈となり、われわれの手も足も、口も筆もいっさい縛り上げらるるに至れる時勢の推移に対して、日夜悶悶たる不満不快の念を抱きたるも、また怪しむに足らないであろう。ただ近年マルキシズムの勃興左翼運動の旺盛によりて、わずかに慰めらるるところありしも、これまたいくばくもなく弾圧せられてほとんど形をひそめたるがため、再び悶々の情を新たにし、わが国にはとうてい自主自由の風は頭上を空過し、国民は未来永劫奴隷的境遇に呻吟するのやむなきかを憂わしめたのであったが、今や時世は急転し、旧時代は忽然として消失し、デモクラシーの新時代はわが全土を蔽うに至ったのである。

 われわれの満足何者かこれに如かんと言わざるを得ない。しかるにもかかわらずわが国民の大多数はなおデモクラシーの真義に徹せず、依然として一種の迷信偶像的崇拝の念に固執するは、私のごとき自然発生的なる民主政治観を抱懐する者に取りては、むしろ奇怪にして諒解に苦しまざるを得ざるところである。すなわち囚われたる民衆と 叫ばざるを得ざる所以である。


 近時世間論議の中心たる天皇の地位ないしは天皇制の問題に関連して、デモクラシーの意義を論ずるもの少なからず。しかしながらその中においてきわめて明快にその意義を解明して最もわが意を得たるものは、東大法学部横田(喜三郎)教授の説明である。

 横田教授はまずその第一段において喝破していわく、
「主権の所在の問題はこれからかなり紛糾した議論を惹起すると思う、これはこの間題に感情的な要素が強く入り込んできて、冷静な判断を害することが少なくないからだと思う。それに政治的な要素も入って来て、例えば選挙に有利だとか不利だとかいうことから故意にぼかしたり、中途半端なところで打ち切って仕舞うというようなこともある、こういう雑音を取り除き、純粋に徹底的に理論を押しつめて見ると、どうも主権が天皇にあるという議論は民主主義の根本義と調和しないように思われる。ひとり天皇に限らず一般にすべての君主についても同様である。民主主義の根本観念として人民の政治ということ、人民が政治の主体だということがある。これは結局において主権が人民にあるということにほかならない、そうすれば主権が君主にあるという議論は民主主義とどうしても調和しないことになる。」

 まことに横田教授の指摘したように、この問題の重要性はきわめて冷静なる考察とわが国の将来に対する洞察とによって慎重に決定すべきであるが、デモクラシーは民衆の民衆による政治であって、君主政治は君主の君主による政治であって見れば、両者は正に対蹠的のものであり、とうてい調和すべくもない。このことはすこぶる簡単明瞭であって、しかもこの簡明なることその者がまさによく多数民衆の心を捉え、魅力もあり、実行力も生ずる所以である。

 教授は論歩を進め、主権在君説と民主主義との調和を計らんとして古来行なわれたいろいろの議論を挙げてこれを批判する。その一はイギリス流の国王と議会とが主権を共有するという議論であって、これに対する教授の批評は下のごとくである。
「一見して巧妙な説明のようだが、実はごまかしの議論に過ぎない、王と議会の議論が異なったら一体どちらが勝つのであるか、この点で王の拒否権が問題になる、この権利も長い間の不行使によってすでに消滅したと一般に言われているが、もし消滅しているのなら、最後の決定権が議会にある訳で、主権は議会に存し、もはや王には存しない、これに反してまだ拒否権が王にあるならば、主権は王にあると言わなくてはならぬ、王と議会の共有にあるという議論などは、実際の事態をはっきりさせないごまかしの議論にほかならないと思う」と。

 私も教授の説明には双手を挙げて賛成する。教授またいわく
「国家法人説を採り、主権は国家そのものにあるという議論などはなおさらごまかしの説である。それは国家法人説の意味をまったく理解せず、ただ言葉だけを悪用したものに過ぎない、国家を全体として考え、例えば国際関係で対外的な法律関係を問題にするようなときには、まだいくらか意味をなすことがあるけれども、国内関係で主権の所在を問題にする場合などにはまったくナンセンスである。主権とは国家の最高の権力のことで、結局は最高の決定権にほかならないから、主権の所在の問題は何人が最後の決定権を有するかという問題であり、それが国家であるというなどはまったく意味をなさないことである」と。

 かく論じ来たって教授は直裁に要約していわく
「要するに主権の所在の問題はいろいろと論議されているが、民主主義の根本観念から言うと、人民にあると言わなければならないと思う、理論的に徹底すればどうしてもそうなるのである。日本でも本当に民主主義を確立しようとすれば、それを淡泊に承認し、そこから出発しなければならぬと思う」と

 断定明確千鈞の重味ありといいたい。

 しかしながら教授は終りに民主主義の確立と天皇制維持との妥協案を示して、いわく
「天皇制を廃止しなければ、民主主義は確立されないというのではない、民主主義のもとでも天皇制を維持することは可能である。ただその時には、天皇はもとより主権を有するものではなく、単に儀礼的機関としての地位を有することになる。この点で先日発表された民間の憲法草案なるものは民主主義のもとに天皇制を維持する立場を理論的に徹底していると思う」
と説く。

 私は遺憾ながらこの点において横田教授の論にもまた憲法研究会同人の多数とも所見を異にする。

 この天皇制維持説についてまず第一に疑問とする点は天皇をもってもっぱら国民的儀礼機関とするということは、天皇制はあたかも家の中に設けられた神棚のごとき意義以上には余り多く出でないようであるが、これをもってはたしてしきりに皇室の尊厳を主張する多数の人々を満足せしめるに足るか否か、天皇の地位をあまりに軽侮するものであると、非難の囂々(ごうごう)として、発生して侮るべからざる勢力となることなきやを惧れる。

 さらに私の疑問とするところは、現下の状勢においてすでに憲法の改正により主権在民の根本原則を容認せしむることができると考うるならば、何が故に単に儀礼的機関に過ぎざる天皇制を存置するの要ありや、むしろただ一歩を進めて紙一重の障害を撤去し、天皇制の維持を放棄するに躊躇せずして可なりとせずやとの点である。

 しかるにもかかわらずなおかつ天皇制に未練を残して純然たる民主主義の採用に猛進せざるは、依然として天皇制に対する若干の信頼と民主制に対する自信の念の薄弱とによるものではあるまいか。もしはたしてしかりとするならば、このことはわが国における民主制の将来に対してすこぶる憂うべきことといわざるを得ない。

 今やわが国における新時代の発足にあたってはわれわれはいかなる困難もこれを突破し、幾多の荊棘(けいきょく)もこれを排除して真に新しい途を開拓するに鋭意努力しなければならない、いやしくも過去の残存勢力に恋々とし、一種の仮空的迷信や、頼むべからざる偶像に依頼するの痕跡を留むべからずと信ずる。いわんや軍閥財閥の過去の勢力はすでに芟除(せんじょ)せられたるも、残存の余燃はなお潜在し、再起の機会を狙いつつあるものと覚悟しなければなるまい。殊にわが国民は由来自主独立の気象欠如し、とかく既存勢力に依頼する傾顕著なるをもって、五年十年の後連合軍の威圧力緩減したる暁において、反動的分子が天皇を担ぎ上げて、再挙を計ることもけっしで絶無なりとは断じ難い。

 したがって私はこの際あっさりと天皇制を廃止して、主権在民の民主制を確立し、人心の一新帰一に向って勇往邁進、国民の啓蒙に大々的努力を払うをもって得策とすと信ずる。

 天皇制の廃止論は現下わが国においては共産党の独占に限らるる観あるも、社会党の内部にも、また冷静に民主政治の理念を考察する有識者の間にありても、たとい私のごとき生立ち境遇よりして自由にこの問題を考え得べきものでなくとも、またたとい天皇の個人に対しては愛敬の念禁じ難き場合にも、同様の思想を抱くもの世間その人に乏しからずと認められる。これ私があえて私見を開陳して世人の参考に資せんと欲する所以である。

(管理人追記 2016年12月11日)
 この高野岩三郎の天皇制に対する危惧は現在あからさまに表面化してきた。アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト政権を牛耳っている「日本会議」というカルト組織が「天皇を国民統合の中心と仰ぐ国柄」を目指して暗躍している。
 アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト政権と日本会議の強い結びつきについては『沖縄に学ぶ(41)』の最終節をご覧下さい。
2007年2月19日(月)
高野岩三郎著「囚われたる民衆」(3)


 論じてここに至り、私は憲法改正問題に関し、なお進んで言を費やすの必要を感ずる、

けだし現今憲法改正に関する論点は天皇制を中心とする政治的変革体制事項であるが範囲は単にそれに限るべきでなく、それ以上経済的社会的体制の事項にもまた思い及ばなければならない。

多言するまでもなく、わが国における資本主義は、明治の初期以来駸々(しんしん)としてとどまるところを知らず、ついに事変前に至っては、かなり高度に達し、幾多の大小財閥の興隆を見たのであるが、新時代の現出に伴なって政治的にわが民衆を解放せんとするのみならず、財閥を征伐して公正なる経済的正義の実現に向わしめんとするの方向に向いつつある。換言すれば社会主義の実行に向わしめんとしている。政治上の民主主義に加えて社会主義による民衆の解放がまさに同時に採用されんとする趨勢にあるといえる。

 終りに新時代における民衆の解放その民主主義化は政治および経済の方面以外さらに文化方面においてもまた行なわれなければならない。それはすなわちわれわれの各種生活方面における合理主義、科学主義の徹底的実行である。これより派生するところの要求は科学の尊重その振興を始めとし、教育の平等男女の機会均等化、文化的享楽の権利、休養の権利、文化的生活水準の享受、信教の自由等々となって現われるのである。

 これを要するに現代の憲法なるものは広く民衆の政治・経済・文化の三方面にわたりその生活の基準となるべき根本原則を規定すべきものであって、しかもそれは現在および将来におけるわが民主政治の円満かつ円滑なる進展に資するものであらねほならぬ。

 ここにおいてかわれわれ同志数人は事の重要性に鑑みて、さきに憲法研究会を作り、数回会合を催おし意見を交換し機やや熟するを待ちこれを鈴木安蔵君の手を煩わして一の成案に纏め、去る一月中旬政府に提出して参考に供すると同時に、世に公けにしたる次第である。しかしながらこれよりさき私は別に一の私案を作製して会員に示した。以下に掲ぐるところのものはすなわちそれである。

畢境私自身多年憲法に関して抱懐せる所見を箇条書的に列挙しいささかこれに体系を与えたるにとどまる、すこぶる蕪雑なる構想の羅列に過ぎずして不備欠点に充つるは私自身のひそかに自覚するところである。研究会案は多くの智能の集積に成りかつ巧みに鈴木君によって編整されたるが故に、終始一貫してその整然たる体制を備えたるに反し、私案はすこぶる雑駁なるの譏(そしり)を免かる能わずと思惟すれども、会員の中にはかくのごとき試案を案じたるものもありしかと考え、多少の参考に供せらるる人士あらば、至幸とするところである。

改正憲法私案要綱

根本原則
天皇制ニ代エテ大統領ヲ元首トスル共和制ノ採用

第一 主権オヨビ元首
 日本国ノ主権ハ日本国民ニ属スル
 日本国ノ元首ハ国民ノ選挙スル大統領トス
 大統領ノ任期ハ四年トシ再選ヲ妨ゲザルモ三選スルヲ得ズ
 大統領ハ国ノ内外ニ対シ国民ヲ代表ス
 立法権ハ議会ニ属ス
 議会ノ召集開会オヨビ閉会ハ議会ノ決議ニヨリ大統領コレニ当タル、大統領ハ議会ヲ解散スルヲ得ズ
 議会閉会中公益上緊急ノ必要アリト認ムルトキハ大統領ハ臨時議会ヲ召集ス
 大統領ハ行政権ヲ執行シ国務大臣ヲ任免ス
 条約ノ締結ハ議会ノ議決ヲ経テ大統領コレニ当タル
 爵位勲章ソノ他ノ栄典ハ一切廃止ス、ソノ効力ハ過去与エラレタルモノニ及ブ

第二 国民の権利義務
 国民ハ居住オヨビ移転ノ自由ヲ有ス
 国民ハ通信ノ自由ヲ有ス
 国民ハ公益ノ必要アル場合ノホカソノ所有権ヲ侵サルルコトナシ
 国民ハ言論著作出版集会オヨビ結社ノ自由ヲ有ス
 国民ハ憲法ヲ遵守シ社会的協同生活ノ法則ヲ遵奉スルノ義務ヲ有ス
 国民ハ納税ノ義務ヲ有ス
 国民ハ労働ノ義務ヲ有ス
 国民ハ生存ノ権利ヲ有ス
 国民ハ教育ヲ受クルノ権利ヲ有ス
 国民ハ休養ノ権利ヲ有ス
 国民ハ文化的享楽ノ権利ヲ有ス

第三 議 会
 議会ハ第一院オヨビ第二院ヲモッテ成立ス
 第一院ハ選挙法ノ定ムルトコロニヨリ国民ノ直接選挙シタル議員ヲモッテ組織ス
 第二院ハ各種職業等ニソノ中ニオケル階層ヨリ選挙セラレタル議員ヲモッテ組織ス、議員ノ任期ハ三年トシ毎年三分ノ一ズツヲ改選ス
 何人モ同時ニ両院ノ議員タルコトヲ得ズ
 二タビ第一院ヲ通過シタル法律案ハ第二院ニオイテ否決スルヲ得ズ
 両院ハ各々ソノ総議員三分ノ一以上出席スルニアラザレバ議決ヲナ スコトヲ得ズ
 両院ノ議事ハ一切公開トシコレヲ速記シテ公表ス
 両院ハ各々ソノ議決ニヨリ特殊問題ニツキ委員会ヲ設ケコレニ人民ヲ召喚シ意見ヲ聴聞スルコトヲ得
 両院ノ議員ハ院内ニオイテナシタル発言オヨビ表決ニツキ院外ニオイテ責ヲ負ウコトナシ
 両院ノ議員ハ現行犯罪ヲ除クホカ会期中マタハ院ノ許諾ナクシテ逮捕セラルルコトナシ
 両院ハ各々政府マタハ大臣二対シ不信任ノ表決ヲナスコトヲ得。コノ場合政府マタハ大臣ハ直チニソノ職ヲ去ルベシ

第四 政府オヨビ大臣
 政府ハ各省大臣オヨビ無任所大臣ヲモッテ組織ス

第五 経済オヨビ労働
 土地ハ国有トス
 公益上必要ナル生産手段ト議会ノ議決ニヨリ漸次国有ニ移スベシ
 労働ハイカナル場合ニモ一日八時間ヲ超ユルヲ待ズ
 労働ノ報酬ハ労働者ノ文化生活水準ニ下ガルコトヲ得ズ

第六 文化オヨビ科学
 スベテ教育ソノ他文化ノ享受ハ男女ノ間ニ差異ヲ設クべカラズ
 一切ノ教育ハ真理ノ追究真実ノ闡明(せんめい)ヲ目標トスル科学性ニソノ根拠ヲ置クべシ

第七 司 法
 司法権ハ裁判所構成法オヨビ陪審法ノ規定ニ従イ裁判所コレヲ行ナウ
 司法権ハ行政権ニヨリ侵サルルコトナシ
 行政官庁ノ処分ニヨリ権利ヲ傷害セラレ、マタハ正当ノ利益ヲ損害セラレタリトスル場合ニ対シ別ニ行政裁判所ヲ設ク

第八 財 政
 国ノ歳出歳入ハ詳密明確ニ予算ニ規定シ毎年議会ニ提出シテソノ承認ヲ経べシ
 予算ハマズ第一院ニ提出スべシソノ承認ヲ経タル項目オヨビ金額ニツイテハ第二院コレヲ否決スルヲ得ズ
 租税ノ賦課ハ公正ニ行ナワレイヤシクモ消費税ヲ偏重シテ民衆ノ負担ノ過重ヲキタサザルヨウ注意スルヲ要ス
 歳入歳出ノ決算ハ速カニ会計検査院ニ提出シソノ検査確定ヲ経タル後政府ハコレヲ次ノ会計年度ニ議会ニ提出シテ承認ヲ得ベシ

第九 憲法ノ改正オヨビ国民投票
 将来コノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アリト認メタルトキハ大統領マタハ第一院モシクハ第二院ハ議案ヲ作成シコレヲ議会ノ議ニ附スべシ
 コノ場合ニオイテ両院ハ各々ソノ議員三分ノ二以上出席スルニアラザレバ議事ヲ開クコトヲ得ズ。出席議員三分ノ二以上ノ多数ヲ得ルニアラザレバ改正ノ議決ヲナスコトヲ得ズ
 国民全般ノ利害ニ関係アル問題ニシテ国民投票ニ付スル必要アリト認ムル事項アルトキハ前掲憲法改正ノ規定ニ準ジテソノ可否ヲ決スベシ

(付 枢密院ハコレヲ廃止ス)

 しかしながら憲法はいかに精巧に成案されても、要するにわが国民の生活の大本、支柱的骨組を示すにとどまる。さらにこれに明確なる肉づけを施こさなければならない。かつて英国においてウェッブ夫妻は「大英社会主義国の構成」(Sydny and Beatrice Webb-A Constitution for the Socialist Commonwealth of Great Britain. -1920.)(丸岡重尭訳、大原社会問題研究所出版、大正14年)を著わして、この種の構想を公けにしたのであるが、私もまたいささかこれに倣ってわが国について同種の企図を考量している。考想その緒についたならば、公けにして世間の批判を仰ぎたいと希望している次第である。

管理人のつぶやき「なんとすごい憲法草案だね。天皇制の廃止関係の項目と土地の国有化以外はほとんど全部現行の憲法に盛り込まれている。」