2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《沖縄に学ぶ》(1)

三宅島と辺野古の非暴力直接行動

 前回、私は辺野古問題について
「言うまでもなく、これは沖縄の人たちだけの問題ではありません。日本を牛耳っている愚者たちの狂犬政治(変換ミスではありません)の現状と、愚者たちが描くこの国の未来像を象徴しています。」
と書いたが、昨日、これと同じ趣旨のことを詳しく見事に分析している文章に出会った。

 私は「田中宇の国際ニュース解説」のメール配信を愛読してきた。昨日届いたニュース解説は「日韓和解なぜ今?」だったが、その終わりの部分に、辺野古新基地の問題が「日本・アメリカ・中国・韓国・北朝鮮」五ヶ国間の外交問題の中に位置づけられて論じられていた。その部分を引用しよう。

 もし今年、米国が6カ国協議の前哨戦として北との交渉を再開し、米国が北に譲歩するかたちで6カ国協議が開かれると、その落としどころは以前と同じ「北を中国の属国にする」ことだ。北の金正恩がそれを了承するのか疑問だ。しかし、もし6カ国協議が進展すると、それはほぼ確実に、日韓からの米軍撤退や、日韓の対米従属色の希薄化を引き起こす。慰安婦問題の解決と並行して、米軍撤退に向かう道の始まりである日韓の安保協定の締結が、すでに現実的な話として交渉されている。

 この話が進むと、沖縄の米海兵隊のグアム撤退の構想が再燃する可能性が増す。海兵隊の普天間基地の代替になる辺野古の基地の建設が、沖縄県民の強い反対を受けている。米政府は以前から何度か「日本政府が辺野古に基地を作れないなら、海兵隊をグアムに撤退するよ」と言っている。世界で唯一の、米軍海兵隊の米国外の恒久駐留基地が日本にあることは、日本の対米従属(日米同盟)の象徴だ。海兵隊の撤退は、日本の対米従属の減退を意味するので、日本の隠然独裁的な官僚機構は、海兵隊に出ていかれる前に、是が非でも、法規をねじ曲げても、急いで辺野古の代替基地を作らねばならないと考えている。

 6カ国協議の進展は、海兵隊のグアム撤退を阻止(できるだけ長く先延ばし)したい日本の官僚機構にとって、新たな脅威の出現になる。
6カ国協議再開の先鞭となる、慰安婦問題解決や、日韓安保協定の交渉再開が驚きなのは、この点においてだ。オバマ政権が日韓、特に日本政府に「核実験再開が近い北の脅威の増大」などを口実に、強い圧力をかけた結果、慰安婦問題が解決されたのだろう。

 慰安婦問題で日韓の関係が悪化する直前の20111-12年にも、北核6カ国協議の再開、日韓安保協定の交渉、米海兵隊のグアム移転など「米国が東アジアから出ていく方向」の流れが起きていた。だが12-13年にかけて、慰安婦と竹島の問題での日韓関係の悪化、日韓安保協定の棚上げ、尖閣諸島国有化を皮切りとした日中敵対の激化、北朝鮮の消極性による6カ国協議の頓挫、北の中国の属国化拒否としての13年末の張成沢の処刑、米軍グアム撤退の雲散霧消、辺野古基地建設をめぐる沖縄への異様な圧力などが起こり、米国の東アジア覇権が存続するかたちで今に至っている。

 今回、おそらく米国からの圧力による慰安婦問題の解決、日韓安保協定の再交渉が始まったことは、再び11-12年の「米国が出ていく流れ」の再開になるかもしれない。東シナ海紛争、南シナ海紛争への日本の介入、潜水艦受注に始まる日豪同盟の可能性(対米従属から日豪亜同盟への転換)などを含め、今年の展開が注目される。

 さて、私は「非暴力直接行動(3)」の中で、1983年に三宅島で起きたアメリカ軍の「夜間発着訓練」誘致問題を取り上げた。そのアメリカ軍基地誘致反対闘争が現在闘われている辺野古新基地反対闘争ととてもよく似ている。その闘争のあらましを改めてまとめると次のようである。

 その闘争中に行なわれた村長・村議選挙では反対派の村長が当選し、地縁・血縁の選挙で選ばれた各地区のボスが牛耳っていた村議会も一変し、議員構成も反対派が圧倒的多数派になった。これが三宅島の民意だった。しかし、国家権力は一小村の民意などは眼中にない。どんどん既成事実を積み重ねて三宅島の基地化を進めていった。

 村長選・村議選を制しても国家権力の意図を止めることは出来ないのだ。この国家権力の横暴に対して、村長を先頭とした村の行政機関の姿勢、村議会の活動、島外からのさまざまな支援などがあったが、国家権力を最もたじろがせたのは島のおばあたち(おばあちゃん、かあちゃんたち)の「非暴力直接行動」だった。

 反対闘争を暴力で弾圧しようと政府が送りこんできた「鬼の8機」と言われていた精鋭機動部隊に対して、おばあたちは身体を張って一歩も退かなかった。三宅島はまだ酷暑の9月の事、頭をそっくり覆うヘルメットまでかぶった完全装備の機動隊員が何人も脱水症で倒れた。闘いの最中に、おばあたちは息子や孫のようなその青年隊士たちを介抱していた。

 私は2004年の記事『「9/23労働者市民のつどい」の報告』を思い出した。その「つどい」のプログラムの一つ「辺野古の闘いのフォト・レポート」で、沖縄の闘う「おばあたち」につい涙を流してしまったことを白状しているが、実はこの三宅島のおばあたちの闘いがダブって、私の涙腺が刺激されたのだった。

 改めて調べてみたが、新基地を辺野古に決定したのは2002年7月29日のことだった。この時から13年以上が経過している。長い闘いだ。

 そして現在、県知事選や衆議院選の圧倒的な勝利で、辺野古新基地反対の民意が示されたのに政府は「粛々」と暴力的に工事を進めている。海上では海上保安庁の警備船が、陸上では機動隊が、反対運動をする人たちに対してほしいままに暴力を振るっている。

 私は、辺野古の非暴力直接行動の詳細に記録している目取真俊さんのサイト『海鳴りの島から』で多くのことを教えられている。その中の12月16日の記事『水曜大行動と右翼のデモ』に拍手喝采したくなる報告があった。最後の一節を引用しよう。

 この日は右翼グループ30数名による元気のないデモ行進がゲート前であったが、テント村ではいっさいの挑発に乗らず、歌って、踊って、笑って、デモをやり過ごした。
辺野古に現れた右翼
 右翼グループもヤマトゥではこんなふうに対応されたことがなかっただろう。戸惑った様子に思わず笑ってしまった。実に見事な対応だった。

 沖縄でも「おばあたち」がしなやかで優しい。

 上記の右翼グループのデモの動画をユーチューブでみることができる。
(どちらの動画にも「右翼デモとカチャーシ―」のあとに、右翼がアップしたと思われる動画が続いている。どうしてこうなっているのか、私には分からない。)

『右翼デモとカチャーシ―』
『右翼デモとカチャーシ―』
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《沖縄に学ぶ》(2)

琉球王国の領域について

 昨年の8月12日から9月7日にわたって、辺野古新基地問題について政府と沖縄県の集中協議が行なわれた。その中で管官房長官の次のような発言が伝えられている。琉球新報の記事「翁長知事講演要旨 知事帰国講演」(2015年9月25日)から引用する。

 8月10日~9月9日までの1ヵ月、(辺野古新基地の)工事を止めた。その間、5回の集中協議で私は沖縄の問題をいろんな角度から話したが、政府側からほとんど返答はなかった。

 菅義偉官房長官は4月に最初に話してから沖縄の歴史を含め私が一番思いを話した方だが、集中協議の最後に私の話は通じませんかと聞いたら、「私は戦後生まれなので沖縄の歴史はなかなか分からないが、19年前の日米合同会議の辺野古が唯一というのが私の全てです」という話だった。お互い70年間も別々に生きてきたような感じがしますねと私は言った。

 こういう人物が政治の中枢を牛耳っているとは驚くほかない。と批判してみたが、私の沖縄理解もかなりいい加減なものだと自認している。例えば次の図(吉本隆明等著『琉球弧の喚起力と南島論』から転載)
沖縄県
鹿児島県と沖縄県の県境が与論島と沖縄島の間に引かれているが、とても不自然だ。本来の県境は奄美大島の北だったのではないか。調べてみた(以下は中村清司著『本音で語る沖縄史』による)。

 1609年(慶長14年)に薩摩藩が琉球に侵略し、王府を征圧している。

 薩軍は総勢三千余、軍艦百余隻。同年3月4日、薩摩半島の突端にある山川港を出港し、7日に奄美大島笠利湾に入り、琉球の出先機関である「蔵元」を攻略した。ついで徳之島、沖永良部島も制圧し、25日には沖縄本島北部の今帰仁(なきじん)の運天港に入港している。
 徳之島では琉球守備隊との間に激しい戦闘が展開され、一説に、琉球側に数百人の戦死者がでたともいわれる。これに対して、薩軍は逃げた守備隊長を山狩りまでしてとらえている。有無をいわせぬほどの迅速さと冷徹さで奄美諸島を次々と墜としていったことがわかる。おそらくは、秀吉の朝鮮出兵のさい、水上戦の戦術・戦法までも実戦で身につけていたのだろう。まさに日本最強の軍隊が押し寄せてきたのである。

 そして、薩摩藩は1611年に奄美諸島を直轄地とし、琉球から奪い取っている。しかし、この奄美諸島はもともと琉球王国の属領ではなかった。奄美諸島に琉球の役人を派遣され、奄美諸島が王府の実質的支配下に置かれるようになったのは1466年のことである。

 さて、辺野古の新基地建設に伴う埋め立て承認の取り消しを違法として、国が翁長知事を相手に起こした代執行訴訟における翁長知事の陳述書は沖縄が強いられている諸問題を分かり易く余すところなく証言している。この陳述書を読みながら、学習を進めていこうと思う。まず次回から、管官房長官が「沖縄の歴史はなかなか分からないが、」と言っている「沖縄の歴史」の学習から始めよう。
《沖縄に学ぶ》(3)

琉球王国の領域について(前回の追記)

 東京新聞の「こちら特報部」が「面魂(つらだましい)」と題して新年企画連載を始めた。その企画の趣旨を次のように説明している。
「新しい年が明けた。どこか華やかさに欠ける感は否めない。それは社会を覆う不穏な影と無縁ではないのだろう。もはや、従来の常識や倫理を語る者は少数派のそしりを免れない。しかし、常識や倫理は人びとの経験の集積であり、それと断絶された未来はない。浮つかず、自らの経験と体感を軸に歩み続ける人たちがいる。そうした少数派の表情を見つめつつ、私たちの現在を問い返したい。」

 私が前回記事をアップした翌日(10日)の「面魂」は「奄美の老闘士 大津幸夫(さちお)さん(82)」を取り上げていた。そこに奄美諸島の歴史について、私の知らなかった事実が語られているので、それを追記することにした。

 まず、奄美諸島が薩摩に切り取られて支配された時代について次にように語っている。

 17世紀初頭、奄美は薩摩藩の支配下に置かれ、サトウキビの栽培を強いられた。厳しい上納の義務を果たせず、身売りする人が相次いだ。収穫した砂糖を口にしただけで厳罰が下される状況は「砂糖地獄」とも称された。『奄美の人間は名字を名乗るとしても一文字の姓にしろ』という差別的な政策も薩摩藩のころから行われていた。

 次に、奄美諸島は日本敗戦後、今度は鹿児島県から切り取られ、アメリカの軍政下に置かれた。つまりアメリカは琉球全体を軍政下に置いたわけだ。1946年2月2日のことである。軍政下の奄美諸島の状況は次のように語られている(軍政下の沖縄全体については後に取り上げる予定)

 本土への渡航や貿易は制限され、貨幣も日本円が使えなくなった。進学や仕事のために密航する者が少なからずいた。食糧難に直面した奄美の人たちはイモで飢えをしのぎ、毒性のあるソテツの実までもが食用にされた。そんな中で、軍政府は食糧の三倍値上げという形で統制を強めた。

 こうした非人道的軍政が奄美の人たちを「島ぐるみの復帰運動」に立ち上がらせた。

 繰り返し行われた決起集会やデモ。神に祈願するために断食した。早期復帰を求める署名は14歳以上の99.8%に当たる約13万9千人分が集まった。

 大津は当時十代だったが、「『子どもであろうと年寄りであろうと、運動に加わるのは当然』という熱を肌で感じた」と振り返る。

 53年12月25日、運動は結実し、奄美は沖縄に先行して本土復帰する。

 この時、アメリカ政府は同時に沖縄の無期限保有を宣言して沖縄全島に拡がりつつあった復帰運動の沈静化を図っている(奥田博子著『沖縄の記憶 <支配>と<抵抗>の歴史』による)。この奄美諸島だけが復帰を果たしたことに対し、奄美の人たちの中には忸怩たる思いを抱いた人も多かったと推定できる。大津さんもそうしたお一人であった。

 大津は「奄美の兄弟島」と呼ばれる沖縄にも深く関わった。

 かつて奄美と沖縄は、同じ琉球王国に属した。終戦後の行政分離では、ともに米軍に統治された。当時、奄美の人たちは仕事を求め、数多く沖縄に渡った。その数は一時、三万人以上になったという。

 ところが、「奄美の本土復帰運動の終盤、『奄美は鹿児島』『沖縄とは別』という訴えが強まり、結果的に沖縄を見捨ててしまった」という。

 「自分たちだけ復帰して、のうのうとしているのはおかしいと思っていた」。

 67年、地元紙や労組、各政党、沖縄県人会などによる超党派の団体「沖縄返還奄美郡民会議」ができると、大津は事務局長に就いた。

 奄美と沖縄を隔てる「国境」となった北緯27度線の海上では、双方から出航した船団による集会が繰り返し開かれ、大津も参加した。沖縄で選挙があれば、返還推進派の応援のためにパスポートを持って那覇に入り、選挙カーにも乗った。

 「『奄美は鹿児島』『沖縄とは別』という訴え」が強くなった根源には琉球王国の武力による奄美諸島併合の歴史記憶があるだろう。前回用いた『本音で語る沖縄史』は次のように述べている。

 奄美諸島に琉球の役人を派遣して王府の実質的支配下に置いたのは1466年であるが、その後も、王府に対する反乱が幾度も勃発し、そのたびに鎮圧するという「もぐらたたき」のような状態が続いていた。

 このことをもって、奄美は属領だから国内問題で対外戦争にはあたらないとする意見があるが、少しむしのいい考え方ではないか。

 奄美諸島は古来、琉球の属領ではなく、独自の文化圏を築いてきた隣国である。実際、いまでも自分たちを支配した首里王府を忌むべき存在として「那覇世(なはんゆ)」と表現する人がいるくらいだから、当時は領民の不平や不満がよほどたまっていたに違いない。その民衆の抗議行動を王府は武力をもって繰り返し、力尽くでねじ伏せてきたのである。

 歴史歪曲主義者のように歴史をねじ曲げてはいけない。歴史を直視してこそ初めてお互いを豊かにする共生が可能となる。ちなみに、大津さんの「面魂」記事には「思想信条超え島ぐるみ」「本土と沖縄の橋渡し役に」「自らのこととして考える姿勢 あらためて」という見出しが付されている。

<追記>
 ネット検索をしていて『鹿児島県奄美大島の歴史と文化』という記事に出会いました。筆者はこの記事について、「私は奄美5島のうち4島で2年以上生活体験(直接経験)をした者である。第3者から又聞きした間接体験を書こうとしているのではない。」と書いている。いくつか疑問点もありますが、信頼の置ける詳しく分かり易い記事です。紹介したくなりました。
《沖縄に学ぶ》(4)

沖縄の歴史(1):古琉球

(参考書として中村清司著『本音で語る沖縄史』を用います。緑色の部分は翁長知事の陳述書からの引用文です。)
2 沖縄について

 (1)沖縄の歴史

 沖縄には約500年に及ぶ琉球王国の時代がありました。その歴史の中で、万国津梁の精神、つまり、アジアの架け橋に、あるいは日本と中国、それから東南アジアの貿易の中心になるのだという精神をもって、何百年もやってまいりました。

 ベトナムの博物館には600年前に琉球人が訪れた記録が展示されていました。中国の福州市には、異国の地で亡くなった琉球の人々を埋葬している琉球人墓があり、今も地域の方が管理しております。また、琉球館という宿も残っております。それから、北京では国子監といいまして、中国の科挙の制度を乗り切ってきた最優秀な人材が集まるところに琉球学館というのがあり、そこで琉球のエリートがオブザーバーで勉強させてもらっておりました。このような形で、琉球王朝はアジアと交流を深めてまいりました。沖縄名産の泡盛は、タイのお米を使ってできています。タイとの間にも何百年にわたる交易と交流があるわけです。



 ここに語られている琉球の歴史について調べてみよう。

 琉球にはグスクと呼ばれる遺跡がある。琉球史では12世紀~15世紀を「グスク時代」と呼んでいる。グスクは12世紀に琉球に農耕文化を基盤とした時代になって現れている。集落が海岸から稲作や畑作などの農耕に適した台地に移った時、人々は神(祖先神)の依り代となる御嶽(うたき 聖地)を村落のなかに構えた。これがグスクの始まりである。これにともなってノロと呼ばれる女性の宗教的支配者が登場するようになる。

 やがて、村落に按司(あじ)と呼ばれる豪族が現れる。按司は武力を背景にした防御の砦としてのグスク(城)を築いた。そして、周辺の農民や集落を束ね、それぞれの支配地域を広げて、いわゆる小国家を形成していった。1500年代初頭には、琉球弧(どこを琉球弧と呼ぶかは学者・研究者によって異なるようだ。ここでは奄美諸島から八重山諸島までとする)にこれら小国家のグスクが五百余も築かれていたと言う。
 グスク時代の末期は三山時代と呼ばれている。この時代についての解説文は直接引用する。

 浦添城跡は首里城から北約4キロに位置し、一帯は標高130メートルの小高い丘陵になっている。北西方向には貿易港として機能した牧港を見下ろし、南西に目を転じれば那覇方面からはるか先に慶良間諸島が一望できる。沖縄本島でも第一級の景勝地といえるが、ここに中山王の居城がおかれていた。

(中略)

 14世紀の琉球はこの浦添城がおかれた中山をはさんで北山、南山が鼎立した三山分立時代」と呼ばれる。沖縄本島は現在でも北部(国頭 くにがみ)、中部(中頭なかがみ)、南部(島尻しまじり)の三つの地域区分で表現されることが多いが、その由来はこの14世紀に興った三山にちなんでいるといわれる。

 すなわち今帰仁城を居城に構えた「北山」、浦添城を拠点にした「中山」、大里グスク(南山グスクという説もある)を根城にした「南山」の三勢力に分かれて、それぞれが王を名乗って覇を競っていた。

琉球・三山時代
(ウィキペディア「三山時代」からお借りしました。)

 中山王・尚巴志(しょうはし)が南山・北山を倒して全島を統一し琉球王国が誕生したのは1429年であった。この時から薩摩の侵入する1609年までのおよそ500年間を「古琉球」と呼んでいる。

 古琉球時代の特徴は日本や中国大陸との交易が盛んになったことである。特に中国との関係が密接であった。明国が東アジア圏内での進貢貿易という新秩序体制確立させると、琉球もこれにいち早く参加し、アジア社会の有力な一員に成長していった。

 その古琉球を牽引した精神を翁長知事は「万国津梁(ばんこくしんりょう)の精神」と言っている。次回はこれを取り上げよう。
《沖縄に学ぶ》(5)

沖縄の歴史(3):「万国津梁の精神」

 第六代の琉球国王は尚泰久(しょうたいきゅう)は先代の尚金福(しょうきんぷく)の仏教奨励の業績を継承して仏教を手厚く保護した。歴代国王の中でもっとも多くの寺院を建立しているという。それらの遺産の中に「万国津梁の鐘」(沖縄県立博物館所蔵)と呼ばれている梵鐘がある。翁長知事が「万国津梁の精神」と呼んでいる精神はその梵鐘に由来している。

 現在、首里城にレプリカが架けられている「万国津梁の鐘」も尚泰久がつくらせたもので、それには次のような文章が刻まれている。

 「琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀をあつめ、大明をもって輔車となし、日域をもって唇歯となす。この二中間にありて湧出せる蓬莱の島なり。舟楫をもって万国の津梁となし、異産至宝は十方刹に充満せり」

 琉球は中国と日本と親密な関係を結び、交易船でもって万国の架け橋となり、宝物で満ちあふれているという意味になろうか。有名な文章なので、聞き覚えのある人も多いだろう。

 積んどく本のなかに『100人の沖縄コラム』という本はあった。その本の巻頭に「万国津梁の鐘」に刻まれた文の写真とその読み下し文、さらに上の引用文で仲村さんが取り上げている冒頭部分の現代語訳が掲載されていた。それを転載しよう。
「万国津梁の鐘」1 「万国津梁の鐘」2 「万国津梁の鐘」読み下し文1 「万国津梁の鐘」読み下し文2
 冒頭の現代語訳は次のようになっていてる。これが「万国津梁の精神」である。

わが琉球国は南海の恵まれた位置にあり
朝鮮のすぐれた文化を吸収し 中国とは親密な関係を結んでいる
また日本とも心のゆきかう身近な間柄である
これらの国々の間に浮かぶ楽園の島である
船で海を渡り万国の掛け橋となり
至るところ宝の山にうずもれてる

 仲村さんは「津梁の鐘」の解説を次のように続けている。

 しかし、歴史研究家の上里隆史氏によれば、この文章は全体の四分の一程度で、残りの文に尚泰久が伝えたかった真意が記されているという。

 その大意を現代風に要約すると、以下のようになる。
「尚泰久王は仏法を盛んにし、仏の教えに報いるためにこの鐘を首里城の正殿前にかけた。法を定め、世の人々、王家の永い治世を祝う。衆生を救い相国寺の渓隠和尚に命じて鐘を刻む文をつくらせた~」

 渓隠は日本の禅宗に帰依していた僧侶で、要するに、この鐘は琉球が仏教王国であることを誇示したものだというのである。

 沖縄は仏教が定着しなかった島とよくいわれるが、それは誤りである。いまでも首里城下には多くの仏教寺院があるし、当時においては支配階級を中心に、仏教が広く信仰されていたことがこの一事をとってもよく理解できる。ちなみに首里周辺は臨済系の禅寺が多く、日本から多くの僧が住持として招来されていた。この時代、日本をふくめて寺はいわば学問を学ぶ大学として機能している。渡来僧は宗教の教学はもちろん、建築、美術などの教授として学術を振興させるとともに、日本との外交・交易関係を仲介する使者としての役割もはたした。

 ともあれ、尚金福から尚泰久の治世下で王国が海外交易で未曾有の繁栄をとげていたことは鐘の碑文にある通りで、こうした仏教の興隆も貿易振興がもたらした文化の副産物といっていいだろう。

 さらに、仲村さんはそのころの琉球王国の交易相手国について次のようにまとめている。

 中継貿易が最も盛んなこの時代、琉球はいまの福建省、アユタヤ(シャム)、マラッカ(マレーシア)、パレンバン(スマトラ)などの東南アジア諸国、朝鮮、日本の坊津・博多・対馬・堺など、文字通りアジアの架け橋として、多くの交易ルートをつぎつぎと完成させていた。その国際交易都市として那覇は大いに栄えることになる。

 古来、語り継がれてきた民間の古謡集、『おもろそうし』には当時の那覇のようすが高らかに謡われている(『琉球王国』赤嶺守/講談社選書メチエより)。

一 首里 おわる、てだこが
  浮島は げらへて
  唐 南蛮、寄り合う、那覇泊
又 またぐすく おわるてだこが

「首里におわす国王が浮島であった那覇に港をつくり、唐、南蛮の船が那覇の港に寄り集まっている。城におわす国王が」
 大意を記すと以上のようになる。アジア各国の商船が港内にいくつも浮かんでいる様子が目に見えるようである。