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《『羽仁五郎の大予言』を読む》(1)

羽仁五郎とは何者か

生誕から敗戦時までの履歴


 7年ほど前、『今日の話題:「もう一つの可能性、沖縄独立を考える人たち」』で『街から』というリトルマガジンを紹介した。今回から始める話題はその雑誌(no.117 2012年4月号)から頂いたものです。

 その雑誌に矢崎泰久さんによる「変革に挑んだ日本人」という連載記事がある。その「⑤ 羽仁五郎―革命思想家の孤独な生涯」の中に『羽仁五郎の大予言』(1979年話の特集社刊 以下『大予言』と略記する)という著書が紹介されていた。その本が出版された頃は、丁度、五島勉著『ノストラダムスの大予言』(1973年刊)というトンデモ本がベストセラーになっていた。『…の大予言』などという書名ではオカルト本と誤解する人がいるかも知れない。にもかかわらずこの書名を付けた経緯を矢崎さん(当時『話の特集』の編集長)は次のように述べている。

 この本のタイトルに羽仁さんはなかなか首をタテにふらなかった。当時『ノストラダムスの大予言』という本がベストセラーになり、世間を騒がせていた。亜流のような扱いを受けたくないと言う羽仁さんを、私は本物の予言書はこれだと主張したいのだとゴネた。根負けした大思想家は「では、21世紀まで生きていて責任を取るしかないね」とようやく折れてくれた。

 1901年生れの羽仁五郎は、ミレニアムにはキッカリ百歳を迎えることになる。

 羽仁さんは『大予言』発行の4年後(1983年)に亡くなられた。享年82歳。

 矢崎さんはこの本を次のように紹介している。

 読んでいただければ、その鮮度の高さ、予見の正確さがたちまちわかるのだが、私から簡単ではあるが説明する。

 現在進行中の世界の危機を指摘していることは、まさに驚異としか言いようもない。その頃、羽仁さんは朝起きると配達されて来たばかりの朝毎読三紙に目を通し、午前中のほとんどの時間をかけて赤、青二色の鉛筆で傍線を施した上で切り抜きを作っていた。それも一面や特集記事より、隅にある世界情勢に関連するどんな細かい記事をも見逃さないようにしていた。午後には数日遅れで届くイギリスのタイム紙、アメリカのニューヨークータイムズ紙の二紙の記事から、日本の新聞報道にあるなしをまず分類して、並行的にファイルを作成する。こうした作業は葉山に住むようになってから、日常的に行なわれていたので、書庫の一角に資料類が堆高く積み上げられていた。年次別になっているので、保存及び管理も十分であった。

 こうした中から世界の流れを的確につかみ、自分の思索の糧としてきた。21世紀への予言に当たる部分は不断の作業と思索から紡ぎ出されたものである。チリに起きた政変をあらゆる角度から分析し、ついには歴史的な立往生であると宣言する。こうした流れが現在に至るまで脈々とつながっているのである。

 『大予言』の中に「裁判は階級的である」「権力が教育を破壊する」という表題の章がある。このような事態は今に始まったことではないが、今は大日本帝国のゾンビたちが臆面もなく跋扈し、その酷さが日ごとに増幅されている。私は矢崎さんの紹介文を読んで、ぜひ『大予言』を読んでみたいと思った。さっそく購入したが、そのまま「積ん読」のままになっていた。古代史の次のテーマが熟するまで、この宿題を取り上げようと思い立った。これまで通り、どのように進めるか未定のまま、ともかく始めることにした。たぶん、あっちへ飛んだりこっちへ戻ったり、迷走を繰り返すことになるかもしれない。

 まず、羽仁五郎とは何者か。その著書『都市の論理』(1968年刊)がベストセラーとなり、羽仁さんは一躍学生運動の革命理論家的存在になった。私は『都市の論理』を読んでいないし、羽仁さんについて知ることはこの程度である。矢崎さんの解説と『大予言』巻末の年譜を用いて羽仁さんの人物像を垣間見てみよう。

生誕
1901(明治34)年3月29日
 生家は群馬県桐生市の代々続く大きな織物業者だった。父の森宗作は第四十銀行の創立者で初代頭取になった。羽仁さんは裕福な家庭で育てられた。

学歴
1913(大正2)年 12歳
東京府立第四中学校(現・戸山高校)に入学。

 羽仁さんは、中学2年生の時に、規則づくめで詰め込み主義に徹した管理体質の学校に反発し、課題作文「わが第四中学校」で学校批判をした。学校当局は数日間の登校停止処分を受けたが、辛うじて停学処分にはならなかった。
1918(大正7)年 17歳
一高の独法科に入学。

 ドイツ語の教科書クライスト著『ミハエル・コオルハアス』の封建社会への反逆に強く惹かれる。
 19歳(1920年)の時に、大逆事件に題材をとった短編小説「反逆者」を校友会雑誌に発表して注目され、当時の大新聞だった「萬朝報」の懸賞小説に匿名で応募し二作が入選を果たしている。その後文学に傾倒し、20歳(1920)年には羽仁もと子の編集する婦人之友社の少年少女雑誌「まなびの友」に短編や詩を発表している。
1921(大正10)年4月
東大法学部に進学

 数ヶ月で休学し、9月にドイツで歴史哲学を学ぶことを志して単身ヨーロッパヘ旅立った。第一次世界大戦直後のことである。当時のドイツは大戦の敗北による貧困から必死に立ち上がろうとしていた。羽仁さんは翌年ハイデルベルク大学の哲学科の学生になった。
「もの凄いインフレーションの真っ只中で、ぼくは下宿生活を送っていたんだ。朝眼が覚めて市場に買物に行くと、卵が前の日の倍の値段になっている。ところが、その翌日も、その倍になる。驚いたよ。すべては卵が始りだった。」
 羽仁さんは激動の中でドイツが次第に力を蓄える様を目撃したのだった。

 その頃のヨーロッパで三木清、林達夫らと交流しながらマルクス主義を学んだ。遠い日々を私(矢崎)に語り聞かせる羽仁さんの眼には、若かった時代のまぶしい程の光が宿っているようであった。
 三木さんはハイデッガーが教鞭をとっていたマールブルク大学に移ったが、羽仁さんはハイデルベルク大学に留まり、イタリアの哲学者ベネデト・クロオチェの歴史哲学を知ることになった。『クロオチェ』(河出書房)の伝記を1939年に上梓したのは、この時の実体験からでもある。
1924(大正13)年
 帰国。東大文学部史学科に再入学

 帰国の途についた羽仁さんは、マルセーユから船に乗り、途中カルカッタ、シンガポール、上海などで帝国主義下の植民地圧政に苦しむアジアを歴訪し、民衆の極度な貧困を見て強い衝撃を受けたと言う。多感な24歳という年齢を思うと、まさに筋金入りの反権力への道程を歩む姿が垣間見えて来るではないか。

結婚
1926(昭和元)年4月8日
羽仁説子さんと結婚

 女性の独立を助ける考えから、自由学園を創設した羽仁吉一、もと子さんの家に夫婦で入り羽仁姓となった。
 この年、岩波書店の創立者・岩波茂雄の支持を受けて「歴史叙述の理論及歴史」というクロオチェの訳著を岩波書店から刊行する。その翌年に東大を卒業するとほぼ同時に、自由学園教授、日大講師(2年後に教授)に就任し、独自な歴史哲学の講義を本格的に始めている。若干26歳。その後の思索活動は多忙を極め、官吏になることを嫌って嘱託となっていた東大史料編纂所の改革にも尽力している。

その後の活躍
1928(昭和3)年2月、日本最初の普通選挙で、社会民衆党から立候補した阿部磯雄を応援して本郷で演説し、史料編纂所から注意を受けるや、独自の改革案を所長に辞表と共に提出して辞職した。

 ますます反権力的傾向を強めながら活発な言行一致的な思想を世に問うようになるが、1933(昭和8)年、ついに大きな災難に見舞われる。(下は年譜よりの引用)

 9月11日、早朝4、5人の私服刑事に自宅から目白警察に連行留置される。治安維持法違反容疑の名目だが逮捕状はなく、24時間以内に検束を解かねばならないので、夜中の12時になると警察の玄関まで連れ出して再検束するやり方で約3ヵ月半を地下の留置場に監禁された。その間、目白署から京橋署と〝たらい回し″されながら警視庁から来た〈特高〉という思想警察に自白を強要されたが、当時非合法の日本共産党を指導していた野呂栄太郎のかくれ家をはじめ友人の秘密を守り、共産党に資金提供したという誘導尋問をもしりぞける。

(中略)

 強制的に虚偽の「手記」を書かされた上で、12月末に釈放されしばらく拘禁性心臓障害で入院した。

(以下は矢崎さんの解説をそのまま引用する。)

 留置中に辞表の提出を求められ、日大教授の職を奪われてもいる。この年、ナチス党を率いたヒトラーがドイツで政権の座に着いた。日本の軍国主義がそれに同調する。羽仁さんは反ファシズム、反戦の旗幟を鮮明にしながらミケルアンヂェロ」(岩波書店)など次々に自由と人権の著作を発表している。

 しかし、第二次世界大戦は不幸にも勃発する。前年末の出版法違反(反政府宣伝)で起訴され北軽井沢滞在中の津田左右吉を久野収と共に訪問し、公判を前にして意見を述べたりもしている。

 こうした活動が政府によって監視され、敗戦間近かになると身に危険を感じるようになった。拘束、虐殺を心配する友人たちから国外脱出を勧められ、中国に渡って戦争をやめさせる工作を開始する。自由学園が中国の戦災孤児のために経営していた北京学校の資金調達という名目でようやく旅券を取っての危険な脱出行であった。

 しかし、敗戦直前の3月10日、偽電話で北京市内の料理店に呼び出され、憲兵によってロビーで逮捕される。同行していた羽仁説子は翌日釈放になったが、羽仁五郎は2週間後に東京の警視庁に強制送還の上で留置され、連日拷問を受けることになった。

 7月末、身勝手な国家は突然、ポツダム宣言についての意見を羽仁五郎に求めた。羽仁さんは冷静沈着に「即刻受諾すべし」と答えている。その意見を入れていれば広島・長崎の原爆投下はなかったかも知れない。

 羽仁さんは敗戦後も警視庁地下二階の代用監獄に拘留され、10月4日に治安維持法が廃止されるまで自由の身になることはなかった。体はボロボロだった。病院に運ばれた時に、危篤のニュースが流れたりもした。

 10月10日号の『週刊朝日』に「団結・自由・勝利 ― 病床から」を執筆。これが戦後の羽仁さんの第一声となった。

 羽仁五郎が青少年時代から求め続けてきた、言論表現の自由はようやく手中にすることが出来た。それまでミケルアンヂェロやクロオチェを盾にして権力を撃ってはきたが、限界はあった。フェミニストとして迫害を受け、教育の場からも次第に閉め出された。敗戦によるものとは言え、長い年月をかけて批判し続けてきた明治維新の虚構も堂々と暴くことが可能になった。天皇制反対の旗印はついに一度も下ろすことはなかったのである。

(戦後の活躍については必要に応じて取り上げることにする。)
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《『羽仁五郎の大予言』を読む》(2)

チリのクーデター(1)

革命前夜


 前回引用した矢崎さんの文中に「チリに起きた政変をあらゆる角度から分析」というくだりがあった。「チリの政変」は単なる政変ではない。クーデターである。以後は「クーデター」を用いることにする。

 『大予言』をひもとくと、「序章 歴史的な立ち往生」「第一章 世界同時ファシズムの脅威」と続くが、この2つの章の言説の根柢に敷かれている重要事項が「ソルジェニツィンの追放」と「チリに起きたクーデター」である。前者についての羽仁さんは次のような見解を述べている。

 ソルジェニツィンに戻るが、重要なのは、ソビエトがなぜ、この時期に彼に対して、強制的な処置をとったかということだ。いいかえれば、なぜ今までやらないで、ここでやったかを考えてみる必要がある。ソビエトの政府当局にしても、そんなに愚かでないだろうに、まずい時期に、まずいことをやった。その理由は何かと、考えてみなくてはならぬ。

 世界のソビエトに対する態度には、封じ込め政策あたりから続いている反ソ的な動きが、さっきのノルウェーの例(管理人注:議会で保守党の議員が「ソルジェニツィンの追放」を取り上げ、首相のソ連訪問の中止を狙って行った追求質問)でもわかるように、ヨーロッパにことに強く見られる。反共的な議員がソルジェニツィンなんか持ち出して、いちゃもんつけたりする。利用できるものがあれば利用しようという姿勢だ。

 ソビエトは、社会主義を守るためには、ソルジェニツィンを追放しなければならなかった。つまり、ソルジェニツィンを追放したかったのではなくて、追放しないわけにはいかなかった。あとで、もう少しくわしく述べるが、ソビエトは、作り出された国際世論の前に立往生して、ソルジェニツィソを追放したのだ。

 この見解には私は同意できない。作り出された反ソ包囲網は確かにすさまじかったが、問題の本質はそこにはない。羽仁さんは「社会主義を守るため」にしかたなかったというが、その守るべき「社会主義」、レーニン・スターリンが目指した「社会主義」にこそ問題があった。その視点がすっかり抜けている。この問題については「ロシア革命の真相」を参照していただくとして、ここでは改めて立ち入ることはしない。

 さて、「チリに起きたクーデター」については、私は当時の新聞が報じた通り一遍のことしか知らない。しかもほとんどあやふやな記憶になっている。そこで、このクーデターについての羽仁さんの言説を読む前に、このクーデターについて詳しく調べることにした。取りあえず
①『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史』(山川出版社)
②アルエル・ドルフマン著・宮下嶺夫訳『ピノチェト将軍の信じがたく終りなき裁判 もうひとつの9・11を凝視する』(現代企画室)
③高橋正明(文)・小松健一(写真)共著『チリ 嵐にざわめく」民衆の木よ』
を、教科書として、手元に置いている。(長くなりそう!?)

 まず、①の年表からクーデター前後のチリ関係の事項を抽出して、クーデターの概略を掴むことにする。また、必要に応じてその事項の解説を付すことにする。なお、上記した教科書からの直接引用文は《》内に入れた。また、②・③からの引用の場合はその数字を付した


1958年9月3日  ホルヘス=アレサンドリ、大統領に就任

 このときの大統領選での各候補の得票数は次のようであった。

J.アレサンドリ(保守党・自由党)31.6%
S.アジェンデ(人民行動戦線)28.9%
E.フレイ(キリスト教民主党)20.7%
L.ボサイ(急進党 中道?)15.6%
A.サモラーノ(左派単独候補)3.3%

《1958年の大統領選挙は、右派・中道・左派という政治の分極化傾向がチリ政治に定着したことを示した。》

1964年
 11月3日
 キリスト教民主党エドゥアルド=フレイ,大統領に就任
 12月
 銅山のチリ化

1969年6月26日
 アナコンダ銅山国有化

 大統領選に先立って、1964年3月、クリコー(保守の地盤)の補欠選挙があったが、チリ政界に大きなインパクトを与えた。その時の得票数は次のようであった。

民主戦線(自由・保守・急進の三党連合)49%→32%
人民行動戦線10%→39%
キリスト教民主党21・5%→28%

《このように保守の農村の地盤で社会主義者が勝利したことは、前回の大統領選でのアジェンデの肉薄する得票率と二重写しにされて、右派の「民主戦線」を分解に導き、あげくは、保守・自由両党をして、社会主義者よりはキリスト教民主党を支持させるにいたった。
 他方、キューバ封じ込めと第二のキューバの阻止にやっきとなっていたアメリカも社会主義政権の誕生を防ぐべく、CIAを介してキリスト教民主党に資金援助を与えたのである。
 かくて、64年の大統領選挙は、構造的改革を標榜する二大勢力の対決となったが、キリスト教民主党のフレイが56・1%というかつてない高い得票率をもって地すべり的に勝利したのであった。》

 フレイが政権を握ったときのチリの社会経済状況は次のようであった。

《このような政治上の変化と同じく、チリの社会経済も大きな変化をとげつつあった。30年代から40年代にかけて著しい成長をみせたチリの輸入代替工業化は、すでに50年代の初めには頭打ちとなり、他方、経済の原動力となってきた銅産業もアメリカ企業の支配のもとで停滞をきたしていた。
 また1960年に、人口の35%が中産階級以上に属すというように、アンデス諸国のなかでも中間層の比重が高かったにもかかわらず、所得格差は依然として著しいものがあった。とくに、土地集中は歴然としており、7%の大地主が濯漑地の78%を占めるのに対し、37%を占める小農は農地全体の10%を占めるにすぎなかった。また農業生産性は低く、人口増加に追いつかず、農村生活のみならず、ひいては国際収支にも悪い影響を与えていた。こうして、都市人口は60年までの8年間に年5.9%の割合で伸び続け、60年には総人口の7割近くが、都市に集中するようになっていた。》

 フレイが率いるキリスト教民主党は資本主義と共産主義の非人間性を強く批判して、階級対立を否定する立場から、資本と労働の調和、社会的多元主義を基調とする〝共同体的社会″の建設を理想とした。その理念のもと、フレイ政権が打ち出した政策は「自由のなかの革命」と呼ばれている。それは「開発主義・再配分・自立経済」という言葉で要約された。具体的には次ぎのような政策が行われた。

☆銅産業への国家支配権の拡大を通じて生産を倍増し、国家主導のもとで重化学工業を育成する。

☆抜本的な農地改革を実施して農村の半封建的権力構造を打開する。

☆頭打ちになっていた輸入代替工業化をさらに強化する。

☆ラテンアメリカ自由貿易連合(LAFTA)の統合の実を期待して輸出向け産業を開発する。

☆そのほか社会改革のプログラムとして、労働立法の拡大、税制・教育・住宅・衛生面での諸改革をはじめ、労働者・農民・底辺層の組織化などきわめて広範囲の政策を掲げた。

《この「自由のなかの革命」は、65年の議会選挙での大勝利と、施政二年目までつづいた高成長(12%)に助けられ、きわめて順調なすべり出しをみせたのである。》

 銅産業はチリの経済にとって極めて重要産業だった。年表に「銅山のチリ化」「アナコンダ銅山国有化」と記録されているほどである。これには次のような経緯があった。

《左派の銅産業国有化の要求に対して、フレイ政権は、将来は国有化するとしても当面は生産能力の向上が急務であり、経営面での問題点も生ずるとして、とりあえず過渡的措置として株式の51%の取得によって政府の銅山経営への支配権を確立する道、つまり〝チリ化″を選択した。このチリ化政策により7億ドルを超える投資が新たに投じられた結果、銅の生産能力は大幅に増大した。
 1969年には、アメリカ系銅企業とのあいだで〝協定による国有化″が合意に達し、のちのアジェンデ政権下での全面的国有化への条件を整えたのであった。》

 輸入代替工業化(重化学工業の育成)によって、1930年代以降、チリ経済に大きな比重を占めてきた国家の役割がいっそう強まっていった。資本形成に占める公共資本の割合は64年の53.9%から五年後には74.8%に達している。

 農地改革は、国内の権力構造と直接対峙する課題であった。法案の成立をめぐり国民党(66年保守派の自由・保守両党が合同して結成)の反発が強かったが、濯漑地で80ヘクタールを上限として大土地所有制を解体するという画期的な法案が、67年になってようやく国会を通過した。その政策はキリスト教民主党左派の手により、強力に推しすすめられた。

《フレイ政権が収用(有償)した濯漑地は、約278万ヘクタール、受益農家数は2万戸に及んだ。しかし収用された農地は、濯漑地全体からみれば2割弱にとどまり、受益農家数も10万戸という目標を大きく下回った。このように農地改革の成果が限定的であったのは、そもそも法案成立に2年半を要したことと大地主層の強い抵抗があったことがあげられようが、とくに地主とのあいだに係争が生じた場合、農民層を支持して積極的に介入しようとした与党左派のやり方に対し、政府部内での批判が強まったことも一因であった。》

 最後に、外交面では
《米州機構のキューバ制裁決議に同調しない立場をとりつづけたり、社会主義諸国の外交関係樹立に動き出すなど、自主外交を展開した。そして、国連貿易開発会議に向けて1969年に決議された「ビーニャ=デル=マ-ルでのラテンアメリカの合意」や、あるいはアンデス地域統合の土台づくりのように、70年代にはいって南北問題の高揚のなかではっきりその輪郭をあらわすラテンアメリカ諸国の地域ナショナリズムの形成に大きな役割をはたした》
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(3)

チリのクーデター(2)

無血革命


 フレイ政権による下層大衆の組織化と政治的動員は大きな成果を上げていた。それに対抗するように、人民行動戦線も同じように組織化に乗り出している。

《1960年代後半、チリ政治における大衆動員のレヴェルはかつてない水準に達し、チリ政治は改革のもたらす期待上昇とあいまって、質的に変化をとげつつあった。それは、とくに急進党政権時代に定着してきた各党との妥協と調整による政治取引き、という従来の政治パターンの崩壊を意味していた。》

 キリスト教民主党は1965年の議会選挙でも42.3%という高支持率をえた。それを背景に、フレイ政権はますます一方的行動をとるようになった。それは保守勢力の強い反感をかった。失敗に終わっているが、67年に国民党は軍隊を動かそうと画策している。また、予算面で軍を軽視してきたフレイ政権に対する不満が軍内部にも少しずつ高まっていた。1969年10月21日、ロベルト=ビアウ将軍が大統領宮殿に武隊を動かしている。そして、1969年の議会選挙では、キリスト教民主党の得票率は大幅に下落した。
与党29.8%
左翼28.1%
国民党20%

《改革と組織化を通じて中道勢力の力を大幅に伸ばそうとしたフレイ政権の試みは、左右両勢力に侵蝕される結果に終わったといえた。
 すでにチリ政治は、70年の大統領選に向けて大きな曲がり角に立っていたといえる。同選挙では、カリスマ的な元大統領、ホルヘ=アレサンドリをふたたびかつぎだした国民党の勝利は確実だと考えられた。》

1970年
 9月4日
 大統領選挙で人民連合サルバドル=アジェンデ,第1位
 10月22日
 チリ陸軍軍司令官レネ=シュナイダー将軍暗殺される
 10月24日
 国会,アジェンデを大統領に選出
 11月3日
  アジェンデ,大統領に就任

 1970年の大統領選の結果は次のようである。

トミッチ(キリスト教民主党)27.8%
アジェンデ(人民連合)36.3%
アレサンドリ(国民党)34.9%
 アジェンデとアレサンドリとの得票差は約4万票であった。

 この結果から直ちにアジェンデ大統領誕生とはならなかった。当時の憲法では過半数を獲得できない場合は、国会の決選投票に委ねられなくてはならなかった。人民連合(社共両党を軸とした左派連合)は国会では少数派であった。

 マルクス主義者の大統領誕生だけはなんとか避けたいと考えたアレサンドリは、キリスト教民主党の支持をとりつけようとした。その条件として、大統領に就任後ただちに辞任して再度の選挙でトミッチを推すという提案をしている。しかし、キリスト教民主党でもトミッチ派は左派であり、アレサンドリの姑息な提案は不調に終わった。この不調は次のような動きとも無関係ではないだろう。

またこのころ、アメリカの多国籍企業ITTは、アジェンデ政権成立を阻止すべく画策していたし、ニクソン政権もCIAを通じて、軍の一部にクーデターを促す工作をしていたことがその後、明らかになっている。

 ちなみに、この陰謀は米ジャーナリスト・ジャック=アンダーソンのITT機密文書暴露(1972年3月21・22日)によって明らかにされた。

 シュナイダー将軍の暗殺については教科書①にはこれ以上の記述がないのでウィキペディアの「チリ・クーデター」から引用する。

『政府の意向を受けたCIAは元々反アジェンデ派の多い軍部にクーデターを依頼した。しかし、陸軍総司令官のレネ・シュナイダー将軍は「軍は政治的に中立であるべき」という信念の持ち主であり、アメリカの依頼を拒否した。決選投票直前の10月22日に、シュナイダー将軍が襲撃されて重傷を負い、26日に死亡した。陸軍のロベルト・ビオー将軍が関与したとして逮捕される。この件が逆に「チリの民主主義を守れ」と各党の結束を促す結果になり、決選投票でキリスト教民主同盟は人民連合を支持、アジェンデ大統領が誕生した。』

 キリスト教民主党は『表現・教育・宗教の自由、軍の政治からの独立などを保障する「民主的保障条項」』を条件にアジェンデを支持するにいたる。10月24日、国会は135対35の圧倒的多数によってサルバドル=アジェンデ=ゴッセンスを大統領に選出した。》

 選挙で選ばれた初の社会主義政権の誕生である。しかしそれは、チリ史上では初めての少数派大統領の誕生でもあった。

1971年
 2月19日
 農地改革法計画発表
 4月4日
 地方選挙で人民連合派48.6%を獲得
 7月15日
 銅山国有化法

 農地改革や銅山国有化は不十分ながらフレイ政権が手がけていた政策であり、それをアジェンデ政権が本格的に押し進めたことになる。

《農地改革の勢いはすさまじく、地主層の強い抵抗にもかかわらず、下からの改革の動きに促されて、アジェンデ政権は、フレイ前政権が6年間かけて収用したのと同規模の農地を一年間で収用した。》

《基幹産業の国有化も順調にすすんだ。すでに71年1月には、ケネコット社・アナコンダ社などの所有する五大銅山の国有化法案が、全会一致で国会を通過しており、また同年末までに国有化された企業や銀行の数は31から62に、政府支配の及んでいるものを加えると100以上にのぼった。これら国有化は、株式の購入や既存の法律を援用して行なわれたが、たとえば米系企業の場合、ITTやフォド=モータースを除けば、初期のうちはさほど困難なく実施されたといえる。こうして国家管理下におかれた部門を「社会有部門」として、その支配的性格が位置づけられたほか、中小企業は「私有部門」として残され、また政府資金と民間資本との合弁、いわゆる「混合部門」を加えて、経済体制はこれら三部門から構成されるものとされた。》

 農地改革や基幹産業の国有化のほかに、次のような政策が実施された。

☆政府支出を大幅に拡大し、失業を減じ、一般国民の所得を引き上げて有効需要を引き出すこと。
☆遊休産業設備をフルに稼動させること。
☆きびしい物価統制をしき、通貨エスクードの為替レートを固定した。
☆労働者の賃金・給与を実質で平均50%前後引き上げた。

 このような経済的活況は、これからのさらなる改革への期待を高め、早くも政治的効果をあらわしはじめた。上の年表にもある通り1971年4月に行なわれた地方選挙における人民連合政府の得票率は前回(4年前)と比べると「40%→48.6%」と、大幅に支持をふやしている。労働者や農民もこうした改革に積極的に参画している。教科書③から引用する。

《チリの9月は政治の季節でもある。9月4日は6年ごとにめぐってくる大統領選挙の日だ。1970年9月4日。この日、世界中を「アジェンデ」の名が駆けた。社会主義者サルバドルーアジェンデが大統領に当選(9月4日段階では正しくは得票数第一位)し、「自由と民主主義と複数主義のにもとづく社会主義」への挑戦が始まった。アンデス山脈の影に隠れていた小国チリは一躍全世界の注目を浴びる。ロシア革命やキューバ革命とは異なる。選挙をつうじてのチリ独自の革命の道。「ぶどう酒とエンパナーダ(具入りのパン)の革命」とアジェンデは形容した。
 チリの民衆は初めて自分たちの政府を持った。アメリカ資本が握っていた大銅山が国有化され、農地改革によって大土地所有が解体された。賃金が引き上げられ、子どもには一日半リットルのミルクが無償で配給された。労働者は工場の経営管理に参加し、農民は協同組合を組織した。粗末な小屋が立ち並ぶ都市周辺部にはレンガ造りのアパートが急ピッチで建設されていった。
 理想の社会はすぐそこまで来ており、ちょっと手をのばせばすぐに手に届く、とだれもが考えた。労働者、学生、知識人は情熱に燃えて勤労奉仕にとりくんだ。と同時に、長年にわたって抑えられていた民衆のエネルギーが一挙に吹き出した。劣悪な労働条件におかれながら組合すらなかった中小企業労働者は工場占拠に出た。土地を持たない農民は農場を、家のない都市下層民は空地を占拠した。》
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(4)

チリのクーデター(3)

チリの9・11


 アジェンデ政権の誕生を阻止しようとした策略は失敗したが、アメリカのニクソン政権は引き続いてアジェンデ政権の政策を破綻させるべくさまざまな圧力をかけている。教科書③から引用する。

《「国民の無責任さからある国が共産主義へと向かうのを傍観していなければならない理由が私にはわからない」。ニクソン大統領の特別補佐官キッシンジャーはこう言った。ニクソン大統領はヘルムズCIA長官にたいし軍事クーデターを組織するよう指令した。コリー合衆国大使は「われわれはボルトー本、ナット一個チリには入らせない。われわれはあらゆる手段を尽くしてチリとチリ国民を欠乏や貧困に追いこんでいく」と語った。フォード、アナコンダ、バンク・オブ・アメリカ、ITTなどアメリカ合衆国の多国籍企業はチリ問題に関する特別委員会を設置した。》

 ウィキペディアの「サルバドール・アジェンデ」は当時のCIA長官・リチャード・ヘルムズの次のような発言を記載している。

『「おそらく10に1つのチャンスしかないが、チリを救わなければならない!……リスクはどうでもいい……1000万ドル使え、必要ならばもっと使える……経済を苦しめさせろ……」と指示し、どんな手を使ってもアジェンデ政権を打倒する姿勢を見せた。』

 ウィキペディアの「チリ・クーデター」も次のように解説している。

『1971年4月の統一地方選挙ではアジェンデ与党人民連合の得票率は50%を超え、大統領当選時より大幅に支持を伸ばした。しかし、アメリカの支援を受けた反共主義を掲げる極右組織が次々に誕生し、CIAが右翼勢力に対する公然非公然の支援を行い政権打倒の動きを強めるなど次第に政情が不安定化する。』

 アメリカをはじめ、西側諸国が経済封鎖を発動しているが、特にニクソン政権が行った経済制裁がアジェンデ政権に大きな打撃を与えた。銅山の国有化に見られるように、当時のチリ経済は銅の輸出に大きく依存していた。アメリカは保有していた銅の備蓄を放出してその国際価格を低下させている。

 もちろん、こうした外敵圧力だけではなく、アジェンデ政権にも問題があった。私は選挙を通して生まれた初めての社会主義政権がどのような政策をどのように遂行したのか始めて知ったが、それが余りにも性急なのでびっくりした。大統領の任期は6年もあるのだから、もっと広範な賛同を得るため、適切な段階を踏んで丁寧に着実に、進められなかったのだろうか。これではどこかで破綻するのではないかと危惧しながら読んできたが、早くも翌年(1972年)には大きな壁にぶつかっている。教科書③から引用する。

《アジェンデ政権の側にも失敗があった。赤字財政による景気拡大政策は通貨量を膨張させ、インフレの下地をつくった。性急な企業国有化は経済効率の低下と有産階級の反発を招いた。経営者団体だけでなく、小商店主、運送業者、医者、弁護士、銀行員などの中産階級も反アジェンデにまわった。経済が悪化しはじめた。インフレが昂進し、闇市場がはびこり、物不足と行列が広がった。右派の国民党と中道のキリスト教民主党が手を結んだ。人民連合内部では政党間の意見の対立が表に出はじめた。変革の速度をゆるめ中道勢力との妥協をはかるグループと、妥協を排し前進することを主張する派とが表面から対立し、政府のあいだで動揺をくりかえして統一的な政策を出すことことができなくなっていった。》

《経営者は工場を閉鎖し、トラック業者はストライキに入り、商店主は店を閉めた。医者弁護士、建築士もストに合流した。しかし、労働者は言った。「こんな政府は糞っくらえだ。でもこれは俺たちの政府だ」。労働者は工場を占拠し、自分たちの手で工場を動かした。社会的対立は極限にまでたっした。》

1972年
 8月21日
 商人・小売業者スト
 10月8日
 トラック業者スト
 11月5日
 カルロス=フラッツ将軍,内相(国防相)として入閣

 この反アジェンデの一連のストの中でもとりわけトラック業者のストがアジェンデ政権に多大な経済的損害を与えた。チリの国土は南北に長い。南北を結ぶ幹線道路は物流の生命線である。トラック業者のストはその物流を麻痺させた。もちろん、これら一連のストにはアメリカが関与している。ウィキペディアの「チリ・クーデター」では次のように解説している。

『もともと反共的である富裕層(彼らの多くは会社・店などを経営している)は自主的にストライキを開始した。さらに1972年9月にCIAは物流の要であるトラック協会に多額の資金を援助しストライキをさせたほか、政府関係者を買収してスパイに仕立て上げた。』

 内乱の瀬戸際まで達したこの危機を乗り切るために、アジェンデは、軍人を入閣させた。11月5日、軍最高司令官で立憲派として有名なカルロス=プラッツ将軍を内相(国防相)に任命。ほかにも二つの重要ポストを軍人に託している。彼ら軍人閣僚の任務は、一連のストから秩序を回復し、翌年の3月に迫った議会選挙の実施を保証することであった。

1973年
 3月4日
 総選挙で人民連合派43.9%獲得

 反政府系は54.2%と支持率を伸ばしたが、大統領解任の三分の二の圧倒的多数を形成するにはほど遠かった。むしろ人民連合は、43.9%と前回の69年とほぼ同じ得票率に終わったものの、議席数は増加している。

 ここで反革命勢力は選挙での政権奪取に見切りをつけたようだ。

1973年
 6月
 軍と反共勢力が首都サンティアゴの大統領官邸を襲撃するが失敗。
 8月
 陸軍総司令官(国防相兼任)が軍内部の反アジェンデ派に抗し切れなくなり辞任。アウグスト・ピノチェトを陸軍総司令官の後任者に選任。
 9月11日
  ピノチェトが主導するクーデターによりアジェンデ人民連合政権崩壊

もちろん、ピノチェトは陸軍総司令官就任時に「大統領と憲法を守るために命を捧げる」と誓っている(教科書②)。

1974年12月17日
  軍事評議会議長アウグスト=ピノチェト,大統領に就任

 9・11といえば、チリではこのクーデターを指す。奇しくも、アメリカの9・11と曜日も同じだという。教科書③より引用する。

《またも9月だった。アジェンデ当選から3年後の1973年9月11日。陸軍司令官ピノチェトに率いられたチリ軍は「秩序の回復」を名目にクーデターにでた。アジェンデは降伏を拒否し、少数の側近とともに銃を手に大統領官邸モネダ宮にたてこもって抵抗した。爆撃を受けて炎上するモネダ宮でアジェンデは死んだ。
 恐怖が支配した。チリ全土で、何千人、何万人もの人びとが処刑され、虐殺され、逮捕され、拷問され、投獄され、行方不明になり、家宅捜索を受け、流刑となり、国外に追放され、亡命を余儀なくされた。強大な軍事力と秘密警察の土台の上に独裁体制が打ち立てられた。》

 チリ・クーデターでの虐殺や拷問は転載するのもはばかれるほどおぞましく残虐だ。思えば人類の歴史は虐殺や拷問であざなわれてきたと言えなくもない。人類とはこんなにも恐ろしいドウツブ(動物さんに失礼なので、私は人類をドウツブと呼んでいる)なのか、と改めて戦慄を禁じ得ない。人類はついにはドウツブのままで滅び去るのではないかという予想も脳裏をよぎるが、それでもなお、人類の叡知を信じたい。人間のドウツブ性を克服するために、虐殺や拷問の事実から目をそらすわけにはいかない。教科書②③にはたくさんの記録が残されているが、ここでは教科書②の「献辞」を引用しよう。


 チリ、サンティアゴのセメンテリオーヘネラル〔総合墓地〕の一角に、大きな横長の御影石でできた記念碑がある。この国に民主主義が戻って数年後の1994年2月に建てられた「記憶の壁」である。多くの ― 4千以上の ― 名前がその表面に刻まれている。すべては1973年9月11日から1990年3月11日まで続いたアウグスト・ピノチェト将軍の独裁体制下で軍・警察による弾圧の犠牲となった人々の名である。このうちの1002名の男女の名前のあとには死亡の日付が彫られていない。これらの人々は「デサパレシードス」、行方不明者である。遺族はまだこの人々を埋葬できないでいる。また、壁の表面は全部文字でふさがれてはいない。彫刻家と設計者たちは壁の片側の広い部分を空白のままに残した。新しい犠牲者の名を刻みこむためにこのスペースが必要になると思ったのだ。事実、ようやく報復を恐れなくなった現在、ゆっくりと、ためらいながら、名乗り出て、自分の愛する者たちの処刑や行方不明を報告する人々がいる。しかし、数年前わたしがチリ南端の山間部にあるマプーチェ〔先住民〕の村を訪ねたときには、老人たちは、独裁時代に虐殺された人々の多くについて報告する気はないと言っていた。いつの日か軍人が帰ってきて仕返しするのではないかと恐れているのだった。恐怖と忘却の靄がたれこめる中で、「記憶の壁」にすべての犠牲者の名が記されることは決してないのだろう。

 この本は5人の友人に捧げられている。いずれもあのサンティアゴの壁に名を刻まれた人々である。

フレディ・タベルナ。  彼は1973年10月30日ピサグアで軍の銃殺隊によって処刑された。遺体は家族の元に戻らず、まだ埋葬されていない。
ディアナ・アロン。
 彼女は1974年11月18日チリ秘密警察によって銃撃されて負傷しヌニョアにある拷問施設ビシャ・グリマルディに運ばれた。遺体はまだ取り戻されていない。
フェルナンドーオルティス。
 1976年12月15日サンティアゴのエガーニャ広場で多くの人々の見ているなか数名のチリ秘密警察部員によって逮捕された。当局は彼を拘束していることを否認した。2001年軍部の解禁した情報によって、遺体がチリ中央部、クエスタ・バリーガという名の荒涼たる山地のどこかに埋められているらしいことがわかった。不正確な手がかりに翻弄されつつ困難な発掘作業を続けること数ヵ月、ようやく遺骨が発見され、DNA鑑定の結果、フェルナンド・オルティスのものであることが確認された。
ロドリゴ・ロハス・デネグリ。
 彼は1986年7月2日兵士たちによって生きながら焼かれサンティアゴの街はずれに運ばれて排水溝の中に放置された。4日後この傷がもとで、サンティアゴの病院で死んだ。19歳だった。
そしてクラウディオーヒメノ。
 1973年9月11日サンティアゴのラーモネダ大統領宮殿で逮捕された。ほぼ30年間行方不明だったが、その後、サンティアゴからのニュースで次のことが明らかになった。クーデターの翌日、彼の遺体はサルバドル・アジェンデ大統領の他の顧問たちの遺体とともにダイナマイトによって爆砕された。誰にも遺体を発見させないためであり、遺体に残る拷問の証拠を湮滅するためである。ある予審判事が行なったさる軍事基地での発掘の結果、遺骨の破片が発見され、クラウディオのものと判明、彼はようやく埋葬されることになった。

 しかし、この献辞は、あの「記憶の壁」と同様、そしてこの本と同様、真の意味で完成することは、決してない。なぜなら、あのチリの壁には、1973年クーデターのあと、仕事を、家を、健康保険を、年金を失った、推定百万以上の人々は含まれていない。また、毎晩毎晩、パトロール隊によって検挙され殴打されサッカー場に連行されて、妻や子どもたちが無理やり見させられているその前で、煌々たるスポットライトを浴びながら不動の姿勢をとらされ裸にされたポブラシオン〔低所得者層居住地区〕の男たちは含まれていない。さらに、あの壁の名前には、およそ百万 ― 軍事クーデター発生時のチリ人口の十分の一に近い数 ― の亡命者や移住者は含まれていない。

 そして壁は、もちろん、ある人が、公開する場合は自分の名を伏せることを条件に、何年も前に語ってくれた、次のような記憶を含んではいない。

「わたしは蹟きながらあの地下室に連れて行かれた。目にべったりとテープが貼られてまるで第二の皮膚のようだった。衣服を引き裂こうとして、男たちの手がわたしを引っ掻いた。このくそ野郎、覚悟しろよ、きさまみたいなろくでなしはこうしてやる……。爪は汚かった。この汚らしい爪から伝染病をもらうのではないかと心配だった。考えてみればおかしな話だ。わたしはその前の二週間ろくに食事もあたえられず、排便もままならず、不潔そのもの。最悪の下水道よりもひどいにおいを放っていたに違いない。しかし、それにもかかわらず、その爪のことが気になってならなかった。あの汚い爪のせいで何かの病気になるのではないかと心配だった。そのあと彼らはわたしを簡易ベッドに縛り付けた。一方の手、続いてもう一方の手。別の誰かが、わたしの脚を押し広げ、両方のくるぶしをくくりつける。真上に電球がギラギラ光っているらしい。そのうちに彼らは何かを取り付けた。 ― ワイヤなのか留め金なのか? ― ともかくそれをわたしの性器に取り付けた。それから、同じ声が言った。こいつを踊らせるんだ、歌わせるんだ、一発かましてやるんだ。そして、彼らはわたしを踊らせた。わたしを歌わせた」

 そう、あの壁には、拷問にかけられ生き永らえた数万の人々は含まれていない。彼らの記憶は含まれていない。

 以上で『大予言』の第一章「世界同時ファシズムの脅威」を読むための予備知識を得たと思う。クーデターのその後については必要に応じて調べることにする。ただし、最後にクーデターの首謀者・ピノチェトの人物像について一言触れておこう。

 クーデターを擁護する者たちの間では「ピノチェトは武断派ながら廉潔の士」というイメージが流布されていたようだ。教科書②の著者・アリエル・ドルフマンは「イホ・デ・ブタ(悪党野郎)ピノチェト」と呼んでいる。どちらが正当だろうか。

 「権力は腐敗する、専制的権力は徹底的に腐敗する」という確言があるが、ピノチェトも例外ではなかった。「ピノチェト将軍の信じがたく終りなき裁判」の過程で次のようなことも明らかになっている(教科書②の「訳者あとがき」より)。

2004年5月、
 大統領時代からのピノチェトの不正蓄財が発覚した。以後、アメリカ・リッグズ銀行などチリ内外の秘密口座が次々と判明し、預金総額は数千万ドルから数億ドルに達すると見られた。汚職・公金横領・脱税についての捜査も開始され、ピノチェトの、武断派ながら廉潔の士というイメージは失われた。

2006年7月上旬、
 マヌエル・コントラレスは獄中から裁判所に書面を提出し、ピノチェトは、1980年代、軍の組織を使ってコカインの製造と欧米諸国への販売を行ない、それによって巨額の富を得ていたと述べた。ピノチェトとその息子の麻薬にまつわる疑惑について、軍政時代の高官が証言したのは初めてのことである。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(5)

世界同時ファシズムの脅威(1)

アジェンデの立往生


 これからは『大予言』の言説の紹介や直接引用が加わるが、あらかじめお断りをしておくことがある。

 『大予言』はいわゆる論文ではない。羽仁さんの談話を矢崎さんが聞き役になり、その談話を記録したものである。従って、論理的に飛躍や空所がある。そのような部分は私の勝手な推論で補うことになる。もしかすると、羽仁さんの意図するところとは違う間違った解釈をするかもしれない。あらかじめお断りしておく。

 さて、これまでに調べた範囲からは、アジェンデ大統領の肉声が聞こえてこなかった。彼はアメリカの陰謀をいたずらに拱手傍観をしていたわけではないだろう。彼はどのような情勢判断をし、それにどのように対応しようとしていたのか。

 5月に『オリバー・ストーンが語るもう一つのアメリカ史1・2・3』(早川書房)という本が出版された。原書の書名は「The Untold Hisitory of the United States」である。私は「The Untold Hisitory」を「隠蔽された歴史」と解釈している。ブッシュがイラク・イラン等を「ならずもの国家」呼ばわりしたとき、私はアメリカこそ最悪の「ならずもの国家」だろうと思った。この本にはアメリカの「ならずもの国家」ぶりが余すところなく暴かれている。この本の第9章にアジェンデの国連での演説が取り上げられている。それを紹介しよう。

アメリカと多国籍企業を告発する、アジェンデの国連演説

 1972年12月4日、アジェンデはアメリカ合衆国と多国籍企業を国連での演説で非難した。90分におよぶ情熱的な訴えは、国連総会の会場を埋め尽くした聴衆の喝采を浴び、「ビバ、アジェンデー」の合唱が響き渡った。この演説のなかでアジェンデ大統領は、「自由選挙により国民の手で選ばれた政権の成立を妨害し……成立してからは転覆させるために」足並みをそろえてきたアメリカ政府と多国籍企業の行状について具体的に説明する。そして「彼らの行動は私たちを世界から切り離し、経済の首を絞め、主要な輸出品である銅の貿易を麻痺させて、国際的な金融支援を受ける道を奪おうとしている」と非難した。そのうえで、冷酷な多国籍企業から搾取されているすべての開発途上国の窮状について、次のように語った。

 もはや私たちの経済は、一握りの巨大な外資系企業に輸出の80パーセント以上を独占されるような隷属状態を容認できない。彼らにとっては、利益をもたらしてくれる国よりも、自分たちのほうが常に大切なのだ……これらの企業はチリの銅を長年にわたって搾取し続け、この42年間だけでも40億ドル以上の利益を上げてきた。それに引き替え、初期投資は3000万ドルにも満たない。私たちは闇の力の妨害行動を受けている。国旗は掲げられていないが強力な武器を持ち、大きな影響をおよぼす立場にある勢力だ。私たち途上国は豊かになる可能性を秘めているのに、貧しい暮らしから抜け出せない。あちこちで頭を下げて融資や援助を懇願しているが、本当は豊かな資源を輸出できる。これは資本主義経済システムの典型的な矛盾だ。

 チリが「自分たちの資源を自分たちの手に取り戻す決心をした」せいで、国際銀行は共謀してチリ政府への信用貸付を中止したのだとアジェンデは指摘したうえで、「このような行為を帝国主義者の傲慢と呼ぶのだ」と強調した。そしてITTの目に余る行動をやり玉に挙げ、「この会社の資本はラテンアメリカの数ヵ国の国家予算の合計よりも大きい」と説明した。さらにケネコット社に関しては、1955年から1970年にかけて、平均して52.8パーセントの年間利益を上げている点を取り上げた。そのうえで、図体は大きいくせに無責任な「多国籍」企業が、主権国家に対して戦争を仕かけている事実を非難してから、「全世界の政治構造がきしみ始めている」といって警告した。

 ラテンアメリカでは何百万人もの人たちが何十年にもわたり、現地の外交機関や軍部や諜報組織を後ろ盾としたアメリカ企業による冷酷な搾取を受け続けてきたが、アジェンデはそんな人たちの声を代弁したのである。この訴えは、スメドリー・バトラー将軍とヘンリー・ウォレスが何十年も前に的確に指摘した内容と変わらない。

 シカゴ・トリビューン紙によれば、アメリカ国連大使だったジョージ・H・W・ブッシュはスタンディングオベーションに加わった後に見解を述べたが、説得力はなかった。「われわれは自分たちが帝国主義者だとは思わない。民間企業が海外で帝国主義者のごとく振舞っているとの非難には当惑するばかりだ。アメリカが強くたくましく成長するうえで、これらの企業の存在は欠かせなかった」。チリのいかなるボイコットにもアメリカは関与していないとブッシュは主張した。アメリカ合衆国が望むのは、国有化された企業が正当な補償金を受け取ることだけだというのだ。

 ITTの誠意のない反応も、似たり寄ったりである。同社のスポークスマンは次のように語った。
「ITTは、いかなる形でもチリの内政に干渉も妨害もしていない……ITTの資産の国有化を願う受け入れ国の希望を、常に尊重してきた」。

 アジェンダはクーデターの危機も充分認識していたと推測できる。アジェンダは次のようにクーデターに対峙した。

ピノチェト将軍の軍事クーデタ ー アジェンデ自死する

 国連での勇気ある演説の結果、アジェンデは自分の死刑執行令状に署名してしまったのかもしれない。年が明けて1973年になると、CIAはチリの工作員に対し「全員は無理でもできる限り多くの軍人を引き込み、アジェンデ政権を乗っ取って追い出せ」と急かした。ストライキや反政府運動はエスカレートする。軍司令官のアウグスト・ピノチェト将軍の命令を受けたチリ軍の指導部は、クーデターの決行日を1973年9月11日に定めた。当日、反乱軍の一斉蜂起について聞かされたアジェンデは、大統領宮殿から最後のラジオ演説を行なった。

 私は辞任するつもりなどない……帝国主義を振りかざす外国資本が反動勢力と結託し、軍隊が伝統を破る雰囲気を創造した……チリ万歳!チリ国民万歳!最後にひとつだけ言っておきたい。私の犠牲は決して無駄にならない。少なくとも道徳的な教訓となり、犯罪者や卑怯者や裏切り者への戒めとなるだろう。

 演説が終わると、アジェンデは贈り物のライフルで自ら命を絶った。ライフルに取り付けられていた金板には「フィデル・カストロから私の良き友サルバドール・アジェンデヘ」という刻印が彫られていた。

 羽仁さんはクーデターでアジェンデ政権が崩壊に追い込まれた事態を「歴史的な立往生」と表現している。羽仁さんは次のように述べているが、とてもよく納得できる(序章から引用)。

羽仁さんはクーデターでアジェンデ政権が崩壊に追い込まれた事態を「歴史的な立往生」と表現している。羽仁さんは次のように述べているが、とてもよく納得できる(序章から引用)。

 チリでアジェンデが大統領に当選したときは、公平にいって、世界の世論は好意的に迎えたと思う。一応の良識ある人ならば、社会主義革命も、平和にできるなら、それでいいんじゃないかと思ったんじゃないかな。社会主義革命っていうのは、どうしても流血の惨事を伴うから困るというのが、いわゆる良識派の理論だった。それが選挙によってできるというのなら、それもひとつの方法と思っただろう。つまり、選挙によって、できたものなら、やってみて悪かったら、また選挙によって倒すことができる。したがって、共産主義にしても、現在の政治のルールの中で、観念的でなく、現実的な取り扱いができるのではないか。選挙で成立し、悪ければ倒すというのなら、やってみる価値は充分あるということである。

 アジェンデは、こうした期待に応えるために、選挙でできた以上、別の方法で永久政権を樹立しようとは考えなかった。もし、それをやったら「アジェンデは社会主義を平和に選挙によつて実現するといいながら、やっぱりプロレタリア独裁に移っていった」と批難されることになる。自分が革命軍という軍隊を組織しようとすれば、できる立場にいた。しかし、やらなかった。ここが大切なんだ。

 アジェンデぐらいの人物が、軍の反革命を見通せないはずはない。充分その危険を知っていて、あえて全世界の前で立往生を遂げてみせたんだね。大いなる立往生だ。ぼくは、そういう立往生が〝歴史的な立往生″だというんだ。

 東大闘争のころ、新聞記者が学生運動はどうなりますかって聞くから「学生は、全世界の人民の前で立往生してみせるんだ。それより他に方法はないんだ」つていってやった。ピノチェトにやられたアジェンデ、ソルジェニツィンを追放したソビエト、これは同じ歴史的な立往生なんだ。弁慶の立往生と一緒だよ。

 アジェンデはあえて独裁の道を選ばず、アメリカが後ろ盾しているクーデターという矢玉を全身に受けて立ち尽くしている。この立往生について、羽仁さんは第一章でも繰り返し補足説明をしている。

 アジェンデの立往生の意義は、国民の選挙で成立した政府を武力で倒すなどということが、二度とあってはならないというところにある。一回は武力で倒せても二度とそれを許さないためにはどうしたらいいか。それがアジェンデが考えぬいた最大のテーマだったと思うんだ。

 選挙で成立した政府を武力で倒すなどということは二度とあってはならないということを、羽仁さんは繰り返し強調している。

「 国民の直接の選挙で、議会で多数を占め、そこで成立した政府を、武力で倒してしまうということが許されてよいものかどうか。これが大問題だ。絶対に許してはいけない。どんな理由があろうと、許すことはできないはずなんだ。」

「アジェンデ政権の成立と、そしてピノチェトによる武カクーデター。これはおとぎばなしじゃないんだ。現実にチリで起こったことなんだ。革新的な政府が武力で倒されて、ファシスト政府が誕生した。こんなことを許してはいけないんだ。どんな理由があってもファシズムは拒否しなくてはならない。」

「とにかく、選挙によってできた社会主義政権を、軍事力によって倒してしまった。そのピノチェト政権を承認するということは、選挙の結果が気に入らない場合は、軍事力で倒せるのだということを、自分の国でも認める政府だ。だから、日本も政権が変わったら、ああいうふうにやりますと宣言したのに等しい。こういう手口が認められるなら、国際信義はなくなってしまう。選挙に何の希望も持てなくなる。」

 羽仁さんは別の所で、佐藤栄作が
「社会主義であろうが、平和な選挙によってできるんなら、それに服そう」
と語ったと伝えている。佐藤はアジェンデ政権誕生時の首相だったから、たぶんその時の談話だろう。チリ・クーデターの時の日本の首相は田中角栄だったが、何のためらいもなくいち早くピノチェト政権を承認したのではないだろうか。上の談話にかかわらず、佐藤が首相だったとしても同じだろう。アメリカの属国の首相は常にアメリカに追従してきたし、現在でも変わらない。

 ところで、ITTという電話電信の会社がなぜクーデター陰謀というだいそれたことに関与するのか腑に落ちなかったが、羽仁さんの解説で納得ができた。

 このITTというのは、はじめは電信電話の機械みたいなものを作っていたんだが、現在はあらゆることをやっている。つまり独占資本というものは銀行資本だから、何に投資するという制約はない。銀行からハンバーグまで儲かるものなら何でもいいんだ。したがって、産業である必要もないから、CIAにだって投資する。ITTとCIAがどうしてタイアップするのかというと、それが金融資本の性質だからなんだ。

 日本にこのITTが上陸したのは、なんと福井県の織機工場だった。この入り方が曲者なんだ。いきなり三井なり、三菱なりの日本の独占資本のところへ入ってくれば、当然のこととして大問題になる。ところが、福井の織機資本なんかにITTが入ってきても、誰もびっくりしないんだよ。だけど、目的は福井のハタ織りの機械なんじゃない。今では、テレビのCMなんかで盛んにやっているハンバーグとか、それこそあらゆるところに、すでに進出してきている。産業資本なら、永年焼き物をこさえていた資本が、突然ハンバーグを作るということはしない。ところが金融資本というのは、平和なときはミシンで儲け、戦争になったらマシンガンで儲ける。要はキチンキチンと利息が入って、かつ回転が早ければ何でもいいんだ。