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《続・「真説古代史」拾遺篇》(1)



「乙巳(いつし)の変」の真相(1)
「乙巳の変」の実年代


 シリーズ『「大化改新」の真相』で、『―真実の歴史学―なかった 第五号』所収の古田論文「大化改新批判」を教科書の一つとして利用した。実はその論文の最後に「乙巳(いっし)の変(入鹿暗殺)」についての驚くべき新説が書かれていた。古田さんにはこれで何度驚かされたことになるだろう。


 「乙巳の変」についてのその新説を『「大化改新」の真相』の最後に取り上げようと思っていたが、その内容が「近畿王朝草創期」にはそぐわないので、今回ここで独立的に紹介することにした。

 さて、周知のように「乙巳の変」は干支年「乙巳」の年―645(皇極4)年―に起こったのでそのように呼ばれている。そして、「井の中」では「孝徳紀」の「大化の改新」は「乙巳の変」が導火線となって敢行されたと理解されている。「大化の改新」の一連の詔勅は他の時代から「孝徳紀」に移されたものと考える私(たち)の場合も、「乙巳の変」につなげるために「孝徳紀」が選ばれたと考えてきた。

 しかし、古田さんはその二つは本来無関係であるとし、その二つを切り離して取り扱っている。そして、「乙巳の変」も他の年代から移されたものであるという。では他から移されたとして、なぜ645(皇極4)年が選ばれたのだろうか。

 この「645」の干支は「乙巳」である。その「一巡あと」の「乙巳」は「705」、唐の則天武后の崩御の年である(1月)。7世紀後半、倭国が唐国、そして唐軍の影響を深くうけたのは周知のところ、しかし、その「唐」とは則天武后の時代(684~705)なのである。その一巡前の「645」の「乙巳」に、「皇極女帝の退位」が起っている。これははたして「偶然の一致」なのだろうか。

 「結合」された「詔勅類」と同じく、この「乙巳」もまた、則天武后崩年の「乙巳」を原点として「一巡」して算出されたという可能性なし、とは断じえないのである。

 この論証はちょっとこじつけに過ぎるのではないだろうか。可能性はあるかも知れないが、そのような不確かな論拠の仮説は私には受け入れられない。しかし、この仮説を否定しても、次の実年代比定には問題はない。というより、もしも次の実年代比定が正しいとすると、上の干支一巡説はそれと矛盾することになる。

 「乙巳の変」の実年代比定の手掛かりとして古田さんは631(舒明3)年3月条の次の記事を取り上げる。

三月の庚申の朔に、百濟の王義慈、王子豐章を入(たてまつ)りて質(むかはり)とす。

 ところが義慈王の即位は、唐の貞観15年(641)であり、右の記事は成立不可能である。三国史記は中国(唐)の記事と対応しており、こちらが大きく「誤記」しているとは考えにくい。とすれば、日本書紀の方の年時記載が、少なくとも「629→641」の12年分が〝上にずれている″と考える他ない。


 これは『失われた九州王朝』や『法隆寺の中の九州王朝』で論証済みの事柄である。『法隆寺の中の九州王朝』では「推古紀」の記事のズレについて論じる中で631(舒明3)年3月条が使われている。その論証を『「推古紀」のウソ八百(3)』でかなり詳しく紹介している。そこで古田さんは「推古紀」のズレを「10年以上(おそらく12年)」と言っているが、「推古紀」のズレも12年が正解だろう。

 『「629→641」の12年分』が分りにくいが、629年は舒明元年だから、「舒明紀」全体が12年ずれていると言っているようだ。この12年のズレを敷衍して、古田さんは次のように述べている。

 この点をさらに突きつめると、日本書紀の、舒明元年(629)~13年(641)の全体が、12年下がり、641~653であることとなろう。このような「年時下げ」は、当然ながら、今問題の「大化元年」(645)」にも、当然「波動」し、「連動」しないこと、不可能と言う他はない。すなわち、656~657の間にある。白村江の直前の時期である。

 「舒明紀」全体が12年下がるのは「推古紀」のズレの「波動」と考えるなら、「推古紀」のズレも12年というのが正解となるだろう。

 古田さんは続けて次のように書いている。

もちろん「起点」の「乙巳」(645)が「則天武后の崩年」にともなう「偽りの定置」であるとれば、出発点の「645」にともなう、この計算結果も、必ずしも「不動」ではない。しかし、肝心の「645」が、実はさに非ず、「白村江の戦い」の前後へと〝移置″さるべき可能性、それは大なのではあるまいか。

 前半の文章は理路がたどりにくく分りにくい文章だ。私には読み取れない。後半の文章は「645年を12年下げれば大化元年は656~657年(「白村江の戦い」の前後へ)」であり、その可能性は「大」であると言っている。もしそうなら656~657年にあった「変」記事を12年上げて移動させた年がたまたま乙巳年であったということになり、「則天武后の崩年」云々は意味をなさない。

 「乙巳の変」の実年代が656~657年(「白村江の戦い」の前後へ)である可能性大というのは納得できた。これが確かにそうであると言うところまで言い切るためには「乙巳に変」の記事の分析が不可欠である。
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《続・「真説古代史」拾遺篇》(2)



「乙巳の変」の真相(2)
「入鹿暗殺」の舞台(1)


 「乙巳の変」(以下。「入鹿暗殺」と呼ぶことにする)の真相を解くキーワードを含む記事を拾い出してそれを検討してみよう。

642(皇極2)年4月28日
丁未に、権宮(かりみや)より移りて飛鳥の板蓋(いたふき)の新宮に幸す。

 「入鹿暗殺」が行われた舞台はこの板蓋宮(古田さんは板葺宮と表記している)であるとされている。

645(大化元)年12月9日
冬十二月乙未の朔癸卯に、天皇、都を難波長柄豐碕に遷す。

 これは一見「入鹿暗殺」とは無関係に見えるが、実はこれに関連して、「皇極紀」に不可解な記事がある。645(皇極4)年正月条の分注である。(本文は、山の方で猿が何匹もわめき声を上げているが姿がまったく見えないという奇譚記事。本文の引用は略す。)

〈舊本に云はく、是歳、京を難波に移す。而して板蓋宮の墟(あれどころ)と為らむ兆なりといふ。〉

 「井の中」では、上の二つの記事は同一事項の同一記事であるとしてすましている。つまりこれをちっとも不可解とは思っていない。はたしてそうだろうか。

 「舊本」とは何だろう。分注に「舊本」が使われている例は上の他に4例ある。全て「皇極紀」以前の記事である。〈大系〉の頭注は「或本・一本と同じく稿本であろうか」と書いている。

 万葉集には「日本紀」という史書名が出てくる。これについては『「持統紀」にもあった盗作記事(1)』で古田さんの見解を紹介している。「日本紀」は謂わば『日本書紀』の初版本である。「舊本」とはこの「日本紀」のことだろう。

 さて、古田さんは上の〈分注〉と大化元年の遷都記事を同一視する従来説に異をとなえて、〈分注〉について次のように分析している。

 従来はこれを、先の「難波長柄豊碕への遷宮」と〝同時期の同事件″と見なしてきた。しかし、それなら、この「皇極紀」に「舊本」とか「是歳」とか別述する必要はない。例の「入鹿斬殺」はこの年の「12月」であるから、実はその前に、すでに「難波・長柄の豊碕」への遷宮があった。― 「旧本」ではそのように書かれていた。それをこの「新本」(現・日本書紀)では、〝改めた″というのである。

 そうすると入鹿暗殺の舞台は板葺宮ではなく難波長柄豊碕宮ということになる。もちろん「井の中」で定説になっている「難波長柄豊碕宮=難波宮」のことではない。この等式は成り立たないのだ。難波宮とは別の所に長柄・豊崎という地名が残っていることを『「難波宮=難波長柄豊碕宮」か?(1)』で明らかにしている。そのとき掲載した地図を再録しよう。

古代の難波地図

 この地図が示していることを古田さんは現在の地名を用いて次のように簡潔にまとめている。

 しかし、ここに不審事がある。現地(大阪市)の現地名と、右の遺跡が対応しないのである。

 ①「難波」は、大阪湾岸の一般的名称であろう。
 ②「長柄碕」は、梅田(大阪駅)の東北に、広大な長柄碕があり、この地域の地名である。
 ③「豊崎」は、梅田の東北側にある。(管理人注:大阪市北区豊崎)
 ④「難波宮」は、大阪城の南側(法円坂)にその遺跡がある。

 ところが、②と③とは、ほぼ〝隣り合って″いるけれど、その②③と④の難波宮とは約二キロ離れている。右の④の遺跡は、到底「難波の長柄の豊碕宮」とは言えない。

 「難波長柄豊碕宮≠難波宮」であることは明らかだ。では「難波長柄豊碕宮」とは何か。『日本書紀』編纂者が実体のない架空の宮名「難波長柄豊碕宮」を作り出したなどどいうことはあり得ない。「難波長柄豊碕宮」と呼ばれる宮殿があったはずなのだ。古田さんはそれを博多に見いだした。(古田さんが傍点を付けて強調している文字は斜体文字で表した。)
 これに対して福岡市には、これによく対応すべき地名分布が存在する。

 まず、難波。博多湾岸の那の津は有名だが、難波は「ナニワ」であり、「ニワ」は〝広い場所″であるから、「ナのつ」と「ナニワ」とは一連の地名である。明治前期の字地名表にも、「難波」の旧字名が存在する(「難波屋」などの商店も実在)。

 次に長柄。福岡市西区役所の西側には名柄(ながら)川が流れ、姪の浜近辺には名柄団地(また名柄野団地)がある。かつては名柄町があったという。西には垂山、東には浜があり、この名柄も「長柄」と表記した可能性がある。訓みは同じく「ながら」である。

 次に「豊碕」。この名柄川に囲まれた形の岩山の高地(字名は鷲尾)に愛宕(あたご)神社がある。この岩山の高地は北の博多湾側の豊浜に向って突出している(この点、「崎」より「碕」という字面にふさわしい。大阪の「豊崎」は低地の湿地帯)。

 従来はこの地名を「難波の長柄の豊碕」という〝三段地名″の形で理解してきた。しかし、地名は「難波の長柄」という二段地名で十分だ。三番目は「豊碕宮」という宮殿名ではあるまいか。宮殿の居住者(権力者)側の命名である。

 そこは博多湾、浜に向ってき出した岩頭の広場である。これに対し、「豊碕宮」と命名したとすれば、当然だ。

 この地(愛宕神社)からは、弥生時代(若干)につづく古墳時代以降には、かなりの出土があり、出土遺跡が報告されているのである。そしてここが博多湾全体を俯瞰すべき、絶好の軍事的要地であったこと、疑いはない。

 紫宸殿中心の太宰府の都城は、(奥宮としての太宰府領域に対して)海岸部の博多湾岸の軍事的要地として、この「難波の名柄(長柄)」の豊浜の地に豊碕宮が造営されたものと思われる。「裏」の有明海に対する「表」の博多湾岸、それが九州王朝の中心領域のもつ〝二つの海域″だったのである。

 白村江の戦いの直前(あるいは直後)に、博多湾岸に突出し、これを見下ろす軍事的拠点、「難波の長柄の豊碕」もしくはその近傍において、この惨劇が行われたのではないか。これが今回の結論の指し示す方向である。

 この博多の難波長柄豊碕宮が入鹿暗殺の舞台だったのだ。さらに関連記事を検討することによって、この説の信憑性を深めていこう。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(3)



「乙巳の変」の真相(3)
「入鹿暗殺」の舞台(2)


 644(皇極)年正月1日条は中大兄(天智)と中臣鎌子(鎌足)の出会いを記録している。この条について〈大系〉の頭注は「三年春正月朔とあるが、事実は、かなり以前からのことをまとめて書いたものである」と珍しく断言しているが、その通りの内容である。さらに付け加えると、一日だけの事件ではなく、何日かにわたる事件を掻き集めた記事のようだ。キーワードを含む部分だけ転載する。

三年の春正月の乙亥の朔に、中臣鎌子連を以て神祇伯(かむつかさのかみ)に拝す。再三に固辭(いな)びて親(つかへまつ)らず。疾(やまひ)を稱(まう)して過(まかりい)でて三嶋に居(はべ)り。
……
偶(たまたま)中大兄の法興寺の槻の樹の下に打毱(まりく)うるる侶(ともがら)に預(くはは)りて、皮鞋(みくつ)の毱の隨(まま)脱け落つるを候(まも)りて、掌中(たなうら)に取り置(も)ちて、前(すす)みて跪(ひざまづ)きて恭(つつし)みて奉る。中大兄、對(むか)ひ跪きて敬(ゐや)びて執りたまふ。並(これ)より、相(むつ)び善(よ)みして、倶に懐ふ所を述ぶ。


 要点をまとめると次のようである。
 三嶋に蟄居していた鎌子が中大兄が飛鳥の法興寺(飛鳥寺)で蹴鞠(けまり)をすることを知った。中大兄とまみえるよい機会と考え駆けつけ、蹴鞠に加わった。

 蹴鞠は飛鳥で行われている。それでは博多の「難波長柄豊碕」の近くにも、「飛鳥」があるだろうか。これについては、私(たち)は「飛鳥浄御原宮の謎(8)」で既に学習済みである。いま教科書にしている「大化改新と九州王朝」でも古田さんは筑紫の「飛鳥」をかなり詳しく論じているが、ここでは繰り返さない。上座(かみつあさくら 福岡県小郡市井上)に「飛鳥」の地があることだけを確認しておこう。あの明日香皇子ゆかりの地である。そこは斉明の九州での居宮であった朝倉宮にも近い。

 次に古田さんが取り上げるのが「蹴鞠」である。「蹴鞠」は「曲水の宴」や「鷹狩り」と同様、中国から伝わった天子や貴族の「遊び」である。古田さんは、筑後国府跡に「曲水の宴」の遺構があるが、「大和の飛鳥」には「曲水の宴」の痕跡すらないことを指摘した上で、筑後の正倉院のこと、大和の正倉院文書(筑後からの献上品)のこと、などを取り上げている。これらの事々も私は既に何度か取り上げている。最初に取り上げたのは『「倭の五王」補論(4)』でであった。またこのときの記事が一番詳しい。それを参照していただくことにして、この問題もここでは繰り返さないが、ここで古田さんが言いたかったことは次のことのようだ。

 「蹴鞠」の「まり」も、「鷹狩り」の道具類(笛など)もまた、この「正倉院」に保存されていたのではあるまいか。そして「曲水の宴の酒盃」類も。

 つまり、その頃大和にはまだ蹴鞠の「まり」はなかった。九州王朝の財産である「まり」を借りて、蹴鞠に興じていたのだ。その時中大兄が靴を落として、それを鎌子が拾ったのが、二人が近づくきっかけだった。靴をわざと落としたわけではないだろう。蹴鞠をやりなれていなかったのだろう。

 次は鎌子が蟄居していた「三嶋」だ。これも博多の「難波長柄豊碕」の近くにある。古田さんは次のように述べている。

 この三嶋は、従来「大阪府三島郡」と解されてきた。現在の高槻市近辺である。わたしの家(向日市)からも、遠くはない。

 それなのに、その同じ頃(三年正月乙亥の朔)に、例の「蹴鞠の儀」がはじまる。ところは「法興寺」(飛鳥寺)である。

 しかし、「河内の高槻から、大和の飛鳥まで」は決して〝近く″はない。今なら「車」でたやすく往来できるかもしれないけれど、「歩いて」では、一両日、下手をすれば、「二~三日」かかるのではあるまいか。遠すぎるのである。

 しかし、「九州の飛鳥」の場合、「上座、三島」(和名類聚鈔)とある。この「三島」は、問題の「飛鳥」に〝近い″のだ。しかも、斉名天皇の没せられた「朝倉」の中なのである。

 この史料事実を見たとき、わたしはことの真相を知った。「蹴鞠の儀」が行われたのは、決して「大和の飛鳥」ではない。この「九州の飛鳥」であった。これ以外には、ない。

ここまでのことを古田さんは次のようにまとめている。

 一つの「決め手」がある。斉明天皇が九州の筑紫(福岡県)の「朝倉」で没したこと、著名である。では、斉明天皇〝ひとり″この地に至って、没せられたのか。 - ありえない。当然、中大兄皇子(天智天皇)も、中臣鎌足(藤原鎌足)も、そして蘇我入鹿もまた、この地(朝倉)に来ていたのではないか。すなわち、「九州の飛鳥」(小郡市)の〝近傍″に、彼等は「集結」していたのであった。

 次は645(皇極4)年6月8日の入鹿暗殺の計画記事記事である。

六月の丁酉の朔甲辰に、中大兄、密に倉山田麻呂臣に謂(かた)りて曰はく、「三韓(みつのからひと)の調(みつき)を進(たてまつ)らむ日に、必ず將(まさ(に卿(いまし)をして其の表(ふみ)を讀み唱(あ)げしめむ」といふ。遂(つひ)に入鹿を斬らむとする謀(はかりこと)を陳(の)ぶ。麻呂臣許し奉る。

 「入鹿暗殺」はこの4日後の12日に実行される。

 ここでのキーワードは「三韓の調」だ。この頃、倭国の権力中枢は筑紫(太宰府と筑後)の地だったことは、もはや私(たち)にとっては常識である。「三韓の調を進」るべき地は、決して「大和の難波長柄豊碕宮」ではない。もともと大和にはそのような名の宮はない。「筑紫の難波長柄豊碕宮」だったのだ。

 以上すべてのキーワードが「入鹿暗殺」の舞台が筑紫であることを示している。古田さんは次のようにまとめている。

 「近畿の(分王朝の)軍」を率いた近畿分王朝の面々(皇極天皇・中大兄皇子・中臣鎌足・蘇我入鹿等)は、この「九州王朝の別宮」に集結していた。その近傍において「入鹿刺殺」の惨劇が行われたこととなろう。

 では「入鹿暗殺」という惨劇が遂行されたのはなぜだろうか。古田さんは、九州王朝が行おうとしていた対唐・新羅戦をめぐって参戦派(斉明天皇や蘇我氏)と融和派(中大兄皇子や中臣鎌足等)との対立抗争があり、その結末が「入鹿暗殺」であったと推測している。

(以上、「乙巳の変」の驚くべき古田説を紹介したが、全てを納得したわけではない。特に、古田さんは全く触れていないが、「入鹿暗殺」の実行記事の中に説明しきれない部分が多々ある。その問題が解決するまでは、私にとっては今のところあくまでも一つの仮説にとどまる。)
《続・「真説古代史」拾遺篇》(4)



「白村江の戦い」は何年?(1)


 だいぶ前になりますが、向井藤司さんから二件問題提起のコメントを頂いていました。私も関心がある問題なので頭に残っていました。その問題を取り上げます。第一番目の問題は次の通りです。

2011年2月22日のコメント
 白村江の戦いが書紀では663年、旧唐書では662年と1年のくい違いがあります。この理由として納得できる説明を見たことがありません。歴史の大きな流れには影響しないと思いますが、何となく気になります。何かご存知でしたらご教示下さい。

 この問題を靑木英利という方が論じていました。中国山東省曲阜市に在住の方です。ちなみに、曲阜市は孔子の生地として知られていますが、994年にユネスコの世界遺産に登録されたそうです。
 靑木さんの論文名は
「白村江の会戦の年代の違いを検討する」(古代史学会報No.102 2011年2月5日)
です。
 論理的で手堅い論文です。この論文を紹介します。

――――――――――――

 靑木さんは、日本書紀・旧唐書の他に新唐書・資冶通鑑・三国史記を「古い順番から漏れなく原文を読む」という方法を採っている。各史書に対する靑木さんの史料批判は追々紹介することにして、とりあえずそれぞれの史書が「白村江の戦い」(以下、「白村江」と略す)を何年にしているのかを列記しておく。

〈日本書紀 720年〉
 天智紀 663年

〈旧唐書 945年〉
本紀 「白村江」の記述なし。
百済伝・劉仁軌列伝 662年

〈新唐書 1060年〉
本紀 663年
百済伝・劉仁軌列伝 662年

〈資冶通鑑 1084年〉
 663年

〈三国史記 1145年〉
百済本紀 662年
新羅本紀 663年

 旧唐書本紀に「白村江」の記述がないのはどうしてだろうか。唐にとっては、660年に百済併合が終わっているので、660年までが本紀に記録されるべき百済関係の記事ということになる。なんの不審もない。

 問題は新唐書である。百済伝・劉仁軌列伝では622年になっているが、本紀の記述が新唐書の立場を示していることになろう。事実学者たちの間ではそのように扱われている。ではなぜ本紀だけ663年なのだろうか。靑木さんは次のように分析している。(以下、靑木さんの論文からの引用文には、読みやすくするため適当に段落を設けた。また明らかに誤植と思われる字句は私の判断で訂正した。)

 このように本紀以外は662年である。しかし、ここで、重要なことは、何故、本紀が663年なのか、その根拠が何かである。

 新唐書の日本伝に根拠がある。ここに原因がある。日本伝で、日本書紀を日本の正式の「史書」として認定したのである。これも、新唐書の史書としての役割である。旧唐書とここが違う。日本書紀のどの部分を認定したのか?

 全部である。神武天皇以来、58代光孝天皇・唐朝僖宗光啓元年(885年)までの日本の歴史を認定したのである。この事は決定的に重要である。新唐書以後、日本書紀を、信頼できる第一次歴史資料として、日本史の基準文献として、「日本の史書」として認定したのである。これは、旧唐書での不採用を百八十度変更したのであり、中国歴史「学会」の一大事件であり、新唐書の旧唐書に対する批判と共に、日本書紀に市民権が与えられたのだ。

 諸史書の間ばかりでなく、同じ新唐書の中でも662年と663年という齟齬があるにもかかわらず、現代の日本と中国の学者たちは全て663年を採用していて、その齟齬には何の疑問も出されていない。

 次の資冶通鑑も663年を採用しているが、この場合の根拠は何だろうか。靑木さんの分析は次のようである。

 司馬光「資冶通鑑」の白江は663年である。結論を言うと、「唐書」の「劉仁軌列伝」を662年と663年に振り分けて、他の史実の記載の間に挿入したのである。「白江」の文字の有る文章は663年に、その前の文章は662年に挿入した。

 つまり新唐書本紀の663年に一致するように「劉仁軌列伝」の662年の記事を二ヶ所に振り分けるという造作をしたというわけだ。靑木さんはその振り分け方を原文に沿って具体的に分析しているが、それは割愛する。ここでは「資冶通鑑」はなぜ「劉仁軌列伝」を用いて二ヶ所に振り分けるなどという手の込んだことを行ったのか、という問題を取り上げよう。靑木さんは次のように分析している。

 資冶通鑑の立場は新唐書の見解の表現である。先行する歴史史料の中で663年と記載しているのは日本書紀以外は存在しない。663年が真実なのか、662年が真実なのかの問題ではない。此の時点で考古資料が有って、年代問題が検討されている事実は無いし、となれば、新唐書の見解を取る以外ない。663年の採用は当然で、日本書紀の史料採用は当然である。何故、それでは、劉仁軌列伝を基本文書としているかの問題がある。全部、日本書紀の文書で書き換えたら良いのに、列伝を基準文書にしたかの問題がある。

 それは、劉仁軌の偉大さにある。かの662年の高宗の撤退命令にかかわらず、戦線を維持し、百済の残党掃討に成功し、以後も高句麗戦線で奮闘して、ついに、高句麗征伐の歴史的偉業を成し遂げた唐朝の勲臣である。諸侯に列せられ、死に当たり、歴代皇帝の陪臣墓を与えられ、墓守三百戸を与えられている。彼の列伝を非採用にする事は冒涜である。中華民族に唾することになる。

 全く不可解である。学問ではなく、別の問題であった。白村江は663年とするが、文章は劉仁軌列伝を使わなければならない、それならば、二箇所に振り分ける以外に方法はない。

 新唐書は本紀の663年との齟齬にもかかわらず、「白村江」を662年と記録している劉仁軌列伝をそのまま掲載してすましていた。資冶通鑑がその齟齬を解消してあげたというわけだ。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(5)



「白村江の戦い」は何年?(2)


 三国史記では百済本紀が662年であった。木さんは次のように解説している。

 百済本紀の文章は全く旧唐書百済伝と同じである。百済は滅亡したので、百済記・百済本記・百済遺記にとってはこの時代の記録は最後の部分で、後代の意図的な改作余地が無い。ましてや、唐朝の圧倒する影響を受けていて、日本書紀の影響を受けていない。大和王朝は倭国の纂奪者、百済にとっては仇敵も同様である。日本書紀は糞同様の代物である。662年である。

 新羅本紀では663年だった。これはどうしてだろう。木さんの分析は次の通りである。

 新羅本紀は663年であった。しかし、662年3月から無意味な記述が有ってその年は終わり、663年の記述も660年の百済併合と、扶余豊の逃亡、王子の投降が一緒に書かれていて、さらに白村江の合戦の記述は無い。つまり、混乱の代物である。

 ただ混乱していない記述があった。新羅第30代文武王の671年の回想である。回想とは640年以来の、数十年の回想の中に、663年の記述がある。この記述は出物である。全体に、この回想は新羅の状況を赤裸々に描いていて信頼が置ける。その中の663年の一節である。

「龍朔3年になると、総管の孫仁師が兵を率いて熊津府城を救援にきました。新羅軍もまたこれに同行して、出陣し、両軍が周留城にきたとき、倭国の兵船が百済を救援にきました。倭船は千艘もいて、白沙に停泊し、百済の精鋭な騎馬隊が、その岸辺で船団を守っていました。新羅の強力な騎馬隊が、唐軍の先鋒となって、まず、岸辺の陣地を撃破しました。これを聞いた周留城の百済軍は落胆して、ついに降伏しました。」(平凡社、三国史記、井上秀雄訳注)

 木さんは文武王の回想は「信頼が置ける」として663年の回想を引用しているので、木さんは663年説を受け入れたように読めるが、さにあらず。663年まで信頼しているわけではない。木さんはそのことについては何も書いていないので、私の推測を述べておこう。

 文武王の上の回想は正しく龍朔2年条に書かれていた。それを新羅本紀の編纂者が本文に合わせるため、その部分の記事を龍朔3年条に移動したのだろう。旧唐書劉仁軌列伝の「白村江」が662年であることを論証している文章で、木さんは劉仁軌列伝の該当記事を次のように分析している。

 旧唐書劉仁軌列伝は全120行約4800字12段落の長文である。内3段落が関係個所である。総32行。

 初段は659年の劉仁軌の青州刺史就任で直ぐ660年、661年の夏までの記載で終わり、次の段は「尋而」で始まる。ほどなく、長時間の経過が無い事を示している。661年の7月の蘇定方の平壌討伐が失敗して、662年の2月に撤退するのだが、劉仁軌は熊津に留まり、2月中に新羅親征郡が到着して合流、新羅からの兵站が繋がることで唐軍が意気盛んになる3月でこの二段目は終わる。

 そして、第3段目は「俄而」で始まる。ほどなくの意味である。扶余豊が福信を殺して、高句麗と、倭国に援軍を要請する。(つづいて)孫仁師の水軍が到着するのである。

 つまり、孫仁師の到着は、文武王の回想とは違い、662年である。662年の何月かは明記されていないが、新唐書の本紀では662年7月と明記されているという。第3段はこのあと662年8月の「白村江」を記録している。

 文武王の回想文の引用の後、木さんは「その他の関係書」と題して、次のように述べている。

 蘇定方列伝、通典、冊府元亀、には白村江の記載はない。現代の中国の歴史書、論文は全て663年で揃っていて、年代の問題にふれている著書は皆無である。また、663年にかかわらず、唐・百済戦の記述には大量に日本書紀の記述が採用されていて、むしろ、日本書紀の内容が圧倒している。日本書紀には、年月日朝昼午後などの記載が詳細にあり、かなり、物語性が有るので、競って採用引用されている。文献主義の方法論を重視するので、この日本書紀の引用文を根拠にして各論が発展している。笑える状態ではない。深刻な状態である。一流の学者がこの状況に有る。もはや、年代問題は単に年代問題に終わらない状況となっている。

 私は、確かな根拠は持たなかったが、以前から旧唐書の662年が正しく、日本書紀の663年の方が間違いだと考えていた。偽装だらけの日本書紀の成立事情を考えればそう判断するほか無かった。木さんは「旧唐書の662年を疑う理由は一切無い」と、次のように論じている。

 大都督府は万単位の兵士に多くの文官・官僚を含めて行軍し、占領地にはさらに行政官が大量に派遣される。百済・高句麗の占領併合地には4万4千人の野戦司令部が増設されているので前後合せると九都督府に相当する陣容になり、文官の人数は1500余人となる、占領が危うくなってくると、この大量の行政官も早々に撤退する。

 日本書紀にも劉仁願の派遣した朝散大夫柱国郭務悰の名がある。大夫は従五品下以上の文官の身分を示し、朝散大夫はその従五品下である。職務名として柱国は勲臣の意味で、皇帝の代理として来日した全権大使である。つまり、当時の軍には文官が同行して軍の事務と、占領地の行政を行うのである。彼等は文字文書で仕事をする。周王朝が戸籍の作成から国事を始めたが、これは、識字官僚の存在を証明している。将軍や大臣が文書事務をしているのではない、大量の文官が文書事務をしている。彼等の持ち帰った、あるいは現地からの報告書で、暦に合わせて、文書は整理される。皇帝の年号に合わせて、暦年史料は整理される。絶対年号の意識もある。

 この中国で、此の時期戦乱で、文書が消失したり、政争で文書が改作された事件はない。旧唐書の662年を疑う理由は一切無い。

 問題は、大和王朝と唐朝の間で、暦に対して認識の違いが有ったのではないかという、問題である。七世紀を遠く離れた時期の日本と中国の間で、同一の事件について年代の認識の違いが発生していることは承知している。だが、此のことをこの七世紀の日本書紀の編者大和と中国の編者の間に、適用することは出来ない。できるなら、この時代の他の事実で異なる事例を挙げる必要がある。私は、知らない。

 以上から、日本書紀の663年が間違っており、中国の学者もそれを採用してしまったということになる。では日本書紀の編纂者はなぜ間違ってしまったのか。あるいは故意に間違えたのか。これが最後の問題になる。木さんの解答は次のようである。

 日本書紀は唐朝に提出をすることを前提に作られている。唐朝に提出する必要がなければ、卑弥呼の事跡も、倭の五王の事跡も全部大和の天皇の事跡に書き換えることができる。全ての先行する史書は手に入っている。倭国の文書は全て没収、禁書も徹底している。簡単だ。ところが、先にも言ったとおり、唐朝に提出する事を前提に作ったのだ。私は、独自の仮説として、唐からの要求で作ったと考えている。

 古事記も唐からの要求であった。古事記が提出されなかったのは、書き直しを要求されたからである。此の問題は、日本書紀の記載の仕方に、特別の書き方の峻別を与えている。7世紀に限って言えば、大和天皇家と隋・唐との交流の事跡は正確に書く、倭国と隋・唐との交流は一切書かない。大和の国内での活動は真偽取り混ぜて国内向けに書く。此の書き方の峻別を行っている。

 唐と倭国の戦闘は、これは唐と倭国の外交の延長線上の問題である。大和は参戦せず、逆に大和の遣使は中国で戦後処理で密約を行っていたのである。となると、唐は、百済のこの白村江の海戦に、大和は関わっていないことを百も承知である。

 しかも、細かいことは、当事者でなかった大和に分かりようがない。倭国から権力を纂奪した大和に、百済の遺臣が状況を細かく話して、気持ちを分かち合う姿勢は期待できない。一般に伝わっていた、日本人の英雄譚を中心に、再構成したのがこの白村江の合戦である。従って、旧唐書に先立つ225年前に唐朝に提出した際、この部分は唐の当代の認識と大きく異なることは承知である。本来は、大和と唐朝の間の事件でないわけで、書く必要がないのだが、720年の段階では過去の歴史、誰もが広く知っている事なので、齟齬の無いように適当に書いたのだ。662年なのは百も承知だが、故意に663年に書き換えて、唐朝に大和の無関与を暗に訴えたのである。

 木さんは日本書紀の「白村江」を「日本人の英雄譚を中心に、再構成した」と推測しているが、私は九州王朝の文官が記録を残したと考えている。柿本人麿が残した『万葉集』199番~201番などから、人麿が倭国遠征軍に随行していたことをうかがい知ることができる。他にも何人かの文官が随行していただろう。帰国できた文官が記録したのではないか。それを日本書紀が1年ずらして盗用したのだ。「大和の無関与を暗に訴え」る目的もあったかも知れないが、辛酉年(662年)に天智称制元年を偽装した事が原因だったのではないだろうか。讖緯説の辛酉革命を採用した故の天智称制元年なのに、「革命」早々に大敗戦では格好がつかない。そのための1年のズレであろう。

 木論文の続きを読もう。

 それと、唐朝側の態度も事を明確に証明している。この事のほうが重大である。日本書紀が成立したのは720年であるが、先行する古事記は日本語で書かれ、推古朝までであって、当代の所謂現代史が書かれていなかった。古事記は712年の成立であるが、713年の遣唐使の時、閲覧した唐側が史書に成っていないと批判をしたのは確実だ。

 だから、日本書紀の作成を始めたのだ。仲麻呂の在唐期間の早い時期に、再度の提出がされたが、これは、「倭国書」の提出に成っていない、「大和天皇家の年紀」である。中国の伝統の前王朝史を提出すべきなのに、「大和書」を提出したのである。

 唐朝は、650年間、倭国が日本の朝廷で有ったことを知っている。大和は、720年の段階では紛れも無く日本の朝廷だが紀元前660年から引き続き日本の朝廷で有った事実はない。夢物語に付き合うほど、唐朝の朝廷は愚かではない。不快感と警戒を大和に感じたはずである。中国の中華思想が判断の基準である。

 事実、仲麻呂の努力にかかわらず、この常識はずれの史書は日本の「史書」として、提出されてからも一度も評価される事はなかった。その何よりの証拠が、旧唐書の日本伝の内容で有る。提出されてから200年も経過しているのに、日本書紀の四文字の表記も存在しない。日本書紀を最後まで「偽史書」としていた時代精紳が旧唐書の精神である。

 これは、新唐書が旧唐書を自大主義・大唐主義・排外蔑視主義と批判した事が全体的には正解であったとしても、こと日本書紀に対する唐朝の判断には、この批判は当てはまらない。この事が、最大の回答である。

 事実は、簡単な事情であるが、この662年が、後代、新唐書の登場によって、663年に変更され、普及して、今日に至っている。この事が、同時に、古代日本史の秘密を解明する鍵になった。年代問題は難しい前提の議論を必要としない、大衆承知の事実である。いつでも、誰でも、この年代の違いに検討を開始することが出来るし、また、私たちは、この問題を大いに提起できるし、きっと、私以上にこの問題を旨く説明できるだろう。

 以後、663年説を採る人は木理論を真っ正面に反論し論駁しなければならない。有効な論駁ができなければ、その説は破綻していることを肝に銘じるべきだ。また、改めて662年説を論じる人は木さんのこの論文をスタートラインにして、木理論を深化あるいは修正していくことになるだろう。木さんとともに、木論文「以上にこの問題を旨く説明」する後続論文を期待したい。